ブルー・バード 2・邂逅編戦乱が終結し、長きの冬から春へ転じたかのように、クリミアは復興へ向かっていく。実際、季節は冬から春へ。クリミアの民は国王の遺児であるエリンシア王女を象徴とし、希望とした。
グレイル傭兵団は、戦を終えそれぞれ帰国していく諸国の兵を見送った後も、復興へ尽力する王女を支えるべく城下へ留まった。
彼は妹とともに王女の労を案じていた。
この日は新女王即位式が執り行われる日であった。王女はこれまでも常に多忙の身であったが、この日も文官に囲まれるなど、休まる暇がないように見えた。
「暇を見て休んでいればいいのだが、そんなこともしなさそうだしな」
アイクはそう心配した。ミストはそれに対し子守歌でも聴かせ、手慰みに、と思った。そして思い出す。
「メダリオンは、リュシオンさんたちに渡せたからいいけど……。呪歌のほうって、どうしたらいいのかな?」
メダリオンは本来の守護者である鷺の民へ返還された。しかし、封じられている邪神を「解放」するという呪歌をある人物へ伝えることは遂行できていない。
「結局、オルティナってのは誰かわからずじまいだ……」
彼は途方に暮れていた。
解放戦争の道中、デインのパルメニー神殿を調査した。メダリオンに纏わる調査であった。そこに、ある手がかりが残されていた。
ある部屋の壁一面に書かれた古代語。それはかつてその部屋に虜囚とされていた鷺の民の王女が残したもの。
それによると、かつてベグニオンの民衆により行われたセリノスの大虐殺の際、彼女はデイン国王アシュナードにより連れ出されたという。そして、一族の宝とされていたメダリオンをつきつけられ、それに封じられたものを復活させるため呪歌を謡えと強要された。
「邪神」が封じられているというそれを──
無論、彼女はそれを拒んだ。拒み続けた。
そんな中、一人の娘が世話係に訪れるようになったという。娘はベオクとは思えぬほど澄んだ心の持ち主──正の気を持った者であった。
彼女は娘に望みを託した。呪歌を伝え、メダリオンを託し──
その娘はアイク・ミストらの母であるエルナであった。その先の顛末はかの情報屋からアイクが伝え聞いた通りだ。
そして、鷺の王子が「解放」の呪歌はオルティナの名を持つ娘にしか謡えない、と告げた。
オルティナへその旋律を伝え、メダリオンはあるべき場所、セリノスの森へ返還するというのが王女の望みであった。
しかし、そのオルティナという娘の所在、正体などは全く分からなかった。
「邪神を倒した三雄の一人……オルティナのことですか?」
アイクが途方に暮れているとそう声を掛ける者が現れた。
「セフェラン! あんた、来てたのか?」
この者はベグニオン元老員の一員であり、神使の側近であった。クリミア軍への兵の派遣もこの者の力に拠った。
この男は旅の僧としてクリミアを視察していた。その際、デインの捕虜収容所へ収監された。アイクは収容所よりこの男を解放したことから浅からぬ縁であった。
男は彼の功績に賛辞を贈り、挨拶とした。
「それよりも、オルティナのことだ。あんた知っているのか!?」
彼は男の賛辞を聞き流し、それよりも男が挙げたその名に反応した。
「ええ、もちろん。我がベグニオンの始祖こそオルティナその人なのですから」
彼は目を丸く見開く。ベグニオンの始祖となれば故人であろう。故人に歌を伝えるなど不可能である。しかし、鷺の王女は当時の時点で伝えられるものとしていた。遙か昔の故人の名を挙げるだろうかと思った。
男は彼の表情から懸念を読み取った。そして、その血と名を受け継ぐ正当な後継者が存在すると告げた。
それはベグニオン神使サナキの姓である。オルティナの「名」は確かに受け継がれていた。
これで役目が果たせる、と兄妹は肩の荷が降りた思いだ。そしてミストは疲れを感じたと言い、自室へ戻っていった。
「どうにも、話が見えませんね」
男は兄妹の遣り取りに疑問があると口にした。彼はそんな男へメダリオンに纏わるいきさつを説明した。
ベグニオン先代神使暗殺、それはベグニオンの民の暴動を引き起こした。そして鷺の民の王国であったセリノスでの大虐殺が行われる。その混乱に乗じてメダリオンと呪歌の謡い手を手中に収めたデイン王アシュナード。
アイクらが出した結論は、ベグニオン神使暗殺からメダリオンを手中に収めるまでがアシュナードの企みであったということだ。
それを説明された男は感心の意を示した。
大陸中を調査してもその結論には至らなかったといい。
クリミア王女の保護、そしてベグニオンでの神使からの信頼を勝ち得、ラグズと共闘し、デイン王の討伐。そしてクリミア奪還。それが彼の軌跡であると男は賞賛した。
そして男は解放の呪歌を口頭で神使に伝えるという。
彼はその旋律を子守歌として認識していた。母より幼い頃から与えられてきた旋律。鷺の王女より母へ伝えられた呪歌が子守歌として彼ら兄妹へ受け継がれている。
「あなたがたは……クリミアを離れることはできないでしょう?」
「そうだな。当分の間はそうなるだろうな」
彼は多忙の身ゆえ、クリミアから離れられない。男の申し出を受けることにした。
「当分の間? あなたはクリミアの英雄ですよ。望めば、どんな重鎮にだってつけるはず……」
男は彼へそんな言葉を投げた。それはその心を試すかのような。
「この国が安定したら、爵位ってのも全部返して元の傭兵に戻る」
そして彼はどんな名声も栄誉も望まぬと返した。
「ふふ……ほ、本当に……あなたという人は……」
男は心の底からの笑いを彼へ見せた。それは歓喜というべきか。彼はその笑いがどのような意味を持つのか理解できず、笑い過ぎであると男を窘めた。
オルティナの「名」は脈々と受け継がれている。
そしてその「魂」はそこに──
男は彼の軌跡を見つめてきた。
そしてそれが奇跡を生むものであるか、それは希望となりうるか。そう思い見つめ続けてきた。
彼は男の用意した道を拓くように歩いた。
そして、これからの道もまた困難であろうと男は想いを馳せる。
アシュナードの野望は死して達成された──
男はそう思った。
デインの狂王の死はクリミアという国家に「英雄」を生んだ。
その存在そのものが多くの民の欲望や野心を煽るものとなり、世界が乱れていく要因の一つとなる。
恒久的な平定など望むべくもなく、それはそう遠くはない未来に撒かれた種として芽吹くであろうと。
(女神よ、裁きの日はそう遠い未来ではありません……)
男は遙か昔に交わした誓約を想う。
そして、それに抗うのもまた女神の意志であると。
二人の女神、そして分けられたその魂。
分けられた魂は「ヒト」として生き、道を拓き歩んでいる。その魂がどのような歩みを見せるのか──
男は救いを求めていた。
すでに狂った己を制し、導くことができるか。
(私は愚かです。弱者なのです。あなたへ裁きを求めようなどと。オルティナ、あなたはいつでも清くあった。あなたは何を求めるでもなく、ただ剣を振るい道を拓く。その強さが私には目映くも妬ましくもあり──愛しくもあり)
彼女が最初に嘆いたのはある二人の男の「争い」に拠る。
始めはただ一面の水。そこへ大地が発生した。
緑が萌え、水より生まれた生物は陸へ上がる。それは獣となり生を謳歌した。
獣たちは共通の願いを抱いた。
それは、すべての頂点に立つ存在。それに抱かれる夢を抱く。あたかも母に抱かれるが如く。
それは一人の少女を生んだ。
老いることなく死すことなくその姿を留める「永遠」
したがって少女は独りだった。
そして、彼女と同じ姿形のものはひとつとして存在しなかった。彼女はそれを哀しんだ。
獣たちは少女を慕っていた。
少女を哀しませまいとその姿を少女に近しいものへと変えていく。
──それが「進化」だった。
そうして生まれたヒト──『マンナズ』たちは少女を『暁の女神』と呼んだ。それは創造の象徴。かくして象徴は「願望」という力により全知全能の力を得た。
そうして少女は女神となった。
女神は「ヒト」を作らなかった。
だが、「女神」はヒトが生んだのである──
ヒトは己が最も優れるものであると主張を始めた。
女神へ口々に訴える。
獣の姿を再現し、その強さを誇示する者。獣の姿はとらず、知恵を働かせ道具を使いこなす者。
女神は平等だった。そのいずれへも優劣を与えず、慈しんだ。だが、彼らはそれに満足せず、女神の寵愛を求める。己が一番と。
「公平」でなければならなかった。
「差別」などできるはずもなく。
「神」であるが為に──
獣へ化身する者、道具を行使する者、それぞれ己が最も優れると主張しはばからない。女神はそのような諍いを憂い、それぞれへ『ラグズ』『ベオク』という分別を与えた。
しかし、さらにその内での諍いが発生する。
ベオクの中に二人の青年がいた。
彼らは双子であった。
それぞれ優秀な鍛冶の腕を持つ者であった。その道具の出来映えを常に競っていた。それは切磋琢磨といえる。そうして二人は技を高め、究極の一品を生み出す。
──どのような岩をも砕く剣
折れず曲がらず限りなく強く。それでいて施された繊細な装飾も欠けることなく輝きを失わない。美しき剣。
二人は女神を愛していた。それぞれに。
己が生み出した逸品を女神に捧ぐ。
そしてその逸品の優劣の判定を女神に望んだ。
無論、女神はそれを拒んだ。
二人は不服であった。そしてその優劣は己等で判定すると宣言した。
行われるのは──決闘
その剣はそれぞれ二人を貫いた。
女神はその結果を嘆いた。
「裁き」を下せば秩序は保たれたのだろうかと。
そして争いは絶えることなく。
ついには「戦争」という名の闘争へ発展していく。
女神はそれを大いに嘆いた。悲しみという感情を暴発させて大陸を飲み込み洗い流すかのような大洪水を発生させた。
そうして女神は己の「負」の感情がもたらした災厄という結果を後悔する。
二度とそのようなことが起こらないよう、己から「負」の要素を取り除こうと、分離させた。
かくして女神は「正」と「負」に分離した。
正の女神は「負」を除去するべく使徒を差し向ける。負の女神はそれに対抗すべく同様に使徒を召集した。
「ユンヌは私の半身。私は自身を滅することは不可能なのだ。あれを除去するにはそなたらの力が不可欠」
正の使徒として召集された英傑たちへの訓示。
その訓示を受けるのはその体を武器とする黒竜デギンハンザー、獅子ソーン。そして呪歌謡いのエルラン。
デギンハンザーとソーンはその身に加護を受けた。どのような刃も通さない頑強な体、大地すら裂く強靱な爪や牙。彼らはその身自体が兵器に匹敵する。それを加護によりさらなる強化を施された。
「マンナズの生体力、それは物質である身に魂が授けられていることに拠る力。それに我が力を付与し、女神である我らに干渉する力を得ることができる」
デギンハンザーとソーンは女神直々の力を受け、恭しく訓示を承った。
「我らは必ずや女神アスタルテ、あなたへ秩序を──」
しかし、エルランはある可能性を危惧していた。
女神アスタルテとユンヌは元は一体。
したがって、どちらか一つが消滅すると片方も消滅してしまう。
その可能性を危惧しながらもエルランはアスタルテの采配を受け入れる。
「最後に、エルラン、そなたの力を」
「私は……戦うことはできない。謡うことしかできませんが」
エルランは心痛を覚えながらアスタルテの頑なな双眸を見つめ、そう宣言した。
アスタルテは「正」そのものであった。
精錬された正の気を持つ鷺の民であるエルランの波動は彼女に安らぎを与えていた。
エルランはアスタルテがユンヌと分離する以前から傍に仕え、最も多くの時間を共有していた。
この世界の安寧を望み、そのような未来を語り合った。
その想いは最も深く知るところであった。互いに。
「そなたの「願い」それを私へ」
アスタルテが両手をエルランへ差し出す。エルランは導かれるようにその手を取った。
「私の……願い?」
「そなたは正しき者。そなたでなくてはならない。私はそなたの願いを受けて魂を生体とする」
エルランはその啓示に魂を震わせた。
──それは正しく、女神の「愛」であった
その願いは一つの魂に肉を与える。
女神と正の鷺の男が手を取り、一つの魂を生成する。光輝く珠。それは卵の形となり、殻を破り、一つの命が生誕した。
強き意志を讃えた双眸を持つ女。漲る覇気、精錬とした佇まい。それらを備えた気高き美しさ。
「……あなたは……?」
エルランは今ここに生まれた女へ問う。
「私は、オルティナ」
女はそう名乗った。それはかつて男が女神へ語った物語上の女の名。男は女神の慰みにと物語を創り、謡った。強く優しき導き手。美しい黒髪を靡かせ、その気高さで民を正しく導く英傑。その貌は、かつてアスタルテとユンヌが一人であったときの姿──女神アスタテューヌそのものであった。男はその貌を想い描き謡った。その黒髪は男自身のものと同じ。
「……あ、あなたは……」
それが彼の願い
(ああ、なんという浅ましき願いを……!)
エルランは具現化したその願いを目の当たりにし、畏れ慄いた。それは女神への冒涜ともいえる願いであった。
それは──恋慕
女神への恋慕。生身の女を愛するように女神を愛した。女神の貌と己の髪、この風貌の女は恋慕の末望んだ結晶。
「かくして誕生した──この者は我が魂とそなたの願いの結晶。そなたの願いにより受肉した。そなたの唄が示す通り、秩序の担い手となろう」
アスタルテは威厳を崩さず啓示を与える。
「この魂は地に降りた以上、分別はベオクとなる。道具を行使する民。この者には私からこの道具と加護を与えよう」
そう告げ、アスタルテは両手を広げ、両指先から空間を開き、それぞれの空間の狭間から一振りの剣を取り出した。同時に加護も付与している。
オルティナと名乗った女は申し合わせたようにそれら二本の剣を手にする。そしてあたかも長年鍛練を積み、よく手に馴染んだ得物であるかのように収めた。
「これはかつて、ラグネル・エタルドの名を持つ二人の刀鍛冶が生み出した剣。私はこの剣の優劣を判せず、その者たちは己等で判ずると言い、互いを貫き果てた」
エルランはアスタルテが語る刀鍛冶の悲劇を彼女がアスタテューヌであったときに耳にしていた。それを想い、再び心痛を覚える。
悲劇の剣を正しく持てり
その担い手こそオルティナの名を持つ娘
彼女は民を希望へと導く
それが彼女の軌跡
女神の嘆きは奇跡へと
それはエルランの唄だった。
女神への慰みで謡った唄。
アスタテューヌはその唄を好んで聴いた。
そのひとときが男の至上の幸福であった。
「エルラン、この者を──オルティナを導くのだ。そなたの唄が魂であり、生体力である」
そうして女神に託された娘。
「……よろしく、エルラン」
娘は謡うように男の名を呼んだ。
男は甘い痺れを感じるとともに背徳心も背負った。
そしてこの娘は紛れもなく地に降り立った女神であった──
負の女神ユンヌの使徒は黒鎧を纏う兵たちであった。
「自由を! 俺たちへ自由を!」
騎士──というには荒々しかった。野を駆ける賊も鎧を纏い、外見だけは騎士と見紛うもの。
負の女神の啓示によって召集された者は、略奪も厭わない、覇道を唱える者ばかりであった。生きるため、その欲を満たすため、勝ち取るため戦う者。
「秩序がなんだ、規律がなんだ! 俺たちゃ、奪わなきゃ生きていけねえんだよ! 勝ち上がって奪って、旨いメシ食わなきゃやってられねえんだよ!
ははっ、あの金ピカ鎧ひっぺ剥がして売り飛ばしたらいい値にならあ」
ユンヌが召集した、というよりは「負」の性質に同調した者が引き寄せられ集結したといったほうが正しい。
ユンヌはその是非は問わなかった。ただ、消滅するのを恐れ、アスタルテからの制裁を防ごうと躍起になった。
「負の使徒」たちへ加護を施した鎧を与える。武器に加護を与える。それは多数へ施したため、一つ一つへの効力はさほど強くはない。もとより、有象無象の衆である。統率がとれているわけでもない。ただその闘志だけが炎のように溢れていた。
一面の黒。待ち受ける黒。燃える炎。
「あれは有象無象を召集したに過ぎない。規律も統制も得ない者たちに勝利はない」
アスタルテの冷たい声が響く。
「正の使徒」は金鎧を纏った騎士隊。それはまさしく騎士隊というにふさわしく、隊列を組み、陣系を整え、指揮系統で律せられていた。指示が下るまで無駄口を漏らす者もいない。そしてこれは少数精鋭であった。各地で名を馳せた英傑が集結している。その英傑たちへ強い加護を与えていた。
そして、先陣を特に強力な加護を施された黒竜と獅子が行く。突破口となり、盾となる。完璧な布陣であった。
(結局、血を見ることは避けられないのでしょうか……)
正義の名の下の戦いであった。女神による粛正であった。大いなる大義名分とともに行われる戦い。
しかし、それでも血を流すことに変わりはない。
エルランは眉を歪め、心痛を覚えながら戦闘体制を整えていく陣営を目にしていた。
「……エルラン、謡って」
傍らに控えていたオルティナが言った。エルランはこのような状況で、と戸惑いを見せた。
「言ったでしょう? あなたの唄が私の力」
柔らかく笑み、美しき黒髪が風に靡くままにそう告げる。手には双剣。まだ構えることもなくただ手で支えていた。
「あなたは、本当にそれらの剣を扱えるのですか?」
岩をも砕くという剛剣である。それは二本。到底、この華奢な体躯に支えうるものではないと見える。エルランはオルティナの申し出に応えるよりその純粋な疑問を口にしていた。
「あなたが、そう願ったのよ?」
その言葉に仄かな甘みを覚える。エルランはその言葉の意味を飲み込んだ。
「そうですね、あなたは私の願い──」
すべての嘆きを受け止め
母のように胎へ返す
その御身には炎
双剣は手足の如く
天を舞い、月のように太陽のように
嘆きも希望とともに炎に乗せて
燃やし、そして芽吹く
我ら愛しき大地へ──
女神へ捧げた唄を彼は謡った。
その唄を受けたオルティナは瞳を開くとともに双剣をそっと両手に握り、自然に挙手するように持ち上げたのだった。それはまさに手足の如く。
そして黒鎧の隊へ剣を向ける。
「私も前を行く」
そう言葉を発するとともに向けた剣の先から青白い光が炎のように渦巻いて彼女へ吸い込まれていく。彼女はそれを体へ取り込むと、風が起こらんという勢いで剣を振るった。
否、起こったのだ。
それは一文字に走る衝撃波となり、黒鎧の隊へ駆けていった。割れる地面を道連れに。
「なるべく血は見たくないものね? エルラン」
花が咲くような笑みを湛え、オルティナが呼びかける。エルランは呆気にとられてこくりと頷いた。
「私がデギンやソーンとともに風穴を開ける。そっと吹き飛ばす感じよ。道を譲ってもらうの。私たちはユンヌの元へ行けさえすればいいから。他の兵たちに用はない」
軽やかな足取りでソーンの側へ寄っていくオルティナ。
「負の気は私がいただいちゃうから。それで大体、黒鎧たちは立っていられなくなるわ」
オルティナは花を摘む乙女のように愉しげに言う。そして化身しているソーンの背を猫を撫でるように撫でる。
「あなた、いい背中ね。乗せてくれない?」
「……」
ソーンは化身したまま言葉を発せず、ただ頷いた。オルティナの手は猫をあやすようにソーンの喉元を撫でていた。
「デギン、あまりやりすぎないでね。倒れてる者を踏んだりしたら駄目よ。ただでさえ、あなたが通るだけで死人が出るから」
ソーンの背に跨ったオルティナは巨大な黒竜を見上げ、片目を瞑り、愛らしく合図を送った。
「さあ、私の後を続いて! 無抵抗の者へは手を出さず、ただ道を開くのみ! いざ!」
双剣の片割れである金色の剣ラグネルを掲げ、彼女は駆け出した。
エルランはその背を見送り、振り返りアスタルテを見た。アスタルテは瞑想するかのように目を閉じ動かない。しかし、その視界にはオルティナが目にしている戦場が映っていた。
その強さは願いだった
その清さも願いだった
そして「裁き」こそが不可欠なものであると
ラグネルとエタルド──
この二つ、どちらが優れているか。
剣を持たぬ身でそれが分かるはずもなかった。
それを判別しなかったがために争い、死を迎えた二人の男。その死を嘆いた。等しく愛していたのに──
そして、その等しき愛が多くの命の終焉を生んだ。
優劣を付けなかったが為に己が最も優れると主張し、争う。愛しき者たちが。
ただ、争いの終結のみが望みであった。
哀しい、かなしい、カナシイ……
その想いがつのり涙は洪水に。大陸をも洗い流す大災害に。そしてその結末を目にし、哀しみはつのるばかりであった。
〈もう、哀しいなんて気持ち、いらないもの〉
そうして決別し、ただ安定と秩序とともに──
「うーん、ラグネルの方が使いやすいかしら? 振り込んだとき跳ねない。最後まで振り抜ける。でも、エタルドも悪くない。刃が流れやすい。攻撃を受け流すのはこっちのほうがいい。
結局、どっちにもどっちの良さがある。私はラグネルの方が使いやすいけど、人によってはエタルドの方が使いやすいんじゃない?」
それは後にオルティナがエルランに語ったこと。
「人それぞれ、よ」
「何が優れてるかって、判断するのは主観だから」
そうして台風のように駆け抜けたオルティナの後には風穴が開いたと形容できるような道が生まれていた。
猛る黒鎧の兵から闘争心という炎を奪い、己の活力とする。それを受けて疲れ知らずと言わんばかりに剣を振るい、兵を退ける。
彼女を運ぶソーンも矢を弾き、剣も通さずただ駆ける。デギンハンザーがその後ろを塞ぎ、後続の少数精鋭たちの盾となっていた。
そして、彼女の前に立ちはだかる敵は消えた。
「ありゃあねえぜ……あの女、矢も当たりやしねえ。当たってももろともしねえ。まず、あの剣から何か風吹いてきてぶっ倒されちまう」
それは彼女と対戦した兵の呟き。
「こっちにも竜鱗の奴がいたんだがな、あの、なんだ、剣の舞で沈められちまった」
後衛として立ち塞がった負の使徒である竜を彼女はその剣技を以て征したのである。
天を舞い、金色の剣を太陽の光に煌めかせ、月のような鼓動を描き、その一撃を浴びせた。
地に降りた女神が再び天空を舞う
「さあ、ユンヌ、おとなしくしてちょうだい」
その切っ先が負の女神に向けられた。
小さな少女が眉を歪めながら眼前の剣士を見上げる。
「あなたは……」
「私はオルティナ。女神アスタルテの加護を受け、女神ユンヌ、あなたを粛正せよとの命を受けた」
オルティナは一変して抑揚をつけず、静かな声色でユンヌへそう告げた。それはアスタルテの口調と似通っていた。
ユンヌはその奥に控えるアスタルテを見据える。それは光のない瞳で虚を見つめるかのような佇まいであった。
「この剣はあなたを斬ることができる」
オルティナの宣告。ユンヌは眉を下げたままゆっくりと首を横に振る。
「それが、あなたの望みなの?」
ユンヌのその問いにオルティナは黙したまま剣を下げず、制止していた。
ユンヌはオルティナの魂のあり方を理解していた。それがアスタルテによって生み出されたものであることを。半身より生み出されたもの。それはすなわち己より生み出されたものに等しい。その魂が、かの呪歌謡いの願望を乗せて現界したものであることも理解していた。
その上で訴える。
「私は消えたくなんかない。分かるでしょう? あなたも。あなたはすべてを受け止めた。だから」
戦場の負の気を受け入れ、己の力としたその姿を指す。
──すべての嘆きを受け止め
「ひとつがいい。ひとつになりたい。消えたくない」
負の女神はそう掠れる声で漏らし、涙の粒を零す。それは小さな少女が涙に暮れる姿に違わない。
「あなたは大変なことをしてしまった」
オルティナは剣を下げ、再び一変して穏やかな口調で子供をあやすようにユンヌへ語り掛ける。
「哀しいからって泣いて、泣いて、その涙で洪水を起こしてたくさんの人を沈めたのだから」
そう言い、腰を屈めるオルティナ。
「それはいけないこと。分かって」
その手が小さな少女の頬に伸び、きゅうとその頬を摘み捻る。
「痛っ」
「そう、痛いの」
その瞳が真摯に少女へ向く。射るように、刺すように。
「あなたも痛いでしょう?」
そうしてオルティナは母のようにユンヌを抱きしめた。
「うん……」
そのままユンヌは大声を上げてその胸で泣き出す。
──母のように胎へ返す
エルランはその光景を目にし、胸を詰まらせる想いでいた。郷愁、憧憬、敬愛、そのような想いが去来する。己も涙を溢れさせそうであった。
正と負、それはひとつでなければならない。
考えるまでもなく感じた。
それは生物としての本能。
そうしなければならない、そうでなければならない。
その想いを胸に、エルランはユンヌの元へ歩む。
「私……本当は……ただ寂しかったの」
ユンヌは泣きじゃくりながら語る。
半身であるアスタルテ──かつて一つの身に宿っていた正の心は秩序を求め、ヒトを正しく導くため心を砕いていた。それが故に争いを止めぬヒトを悲観し、その「哀しみ」は負の心であるユンヌを痛めた。
「だから……ちょっといじわるしただけなの。人たちをこんなに……傷つけるつもりじゃなかったの……」
零れる涙の粒を小さな手で拭う。
「ええ、わかっています」
ユンヌの元へ歩んだエルランがそう相槌を打った。
かつて女神が一つであった頃より傍にあった男。女神へ唄を捧げた男。彼は女神の嘆く姿を目にし、心を痛めてきた。
「もう、あんなことしないわ。私だって人が好き。人を見ていたいもの」
そうして小さな女神は消えたくない、ヒトとともにありたいと訴えた。
「……女神よ、私からも提案いたします」
オルティナがアスタルテの元へ歩み、地へ膝を付き、頭を垂れて進言する。
「ヒト」の代表として述べる。
己の力のみで自らを律し、種族の共存を約束したいと。それならば女神ユンヌを消し去る必要なないと。
「だとすれば、私たちはここに宣誓いたします」
オルティナは頭を上げ、真摯な瞳を女神アスタルテへ向け、訴える。
「一方の種の存続を侵すような戦いを二度と起こすことはありません」
そうして獅子ソーンと黒竜デギンハンザーへも同意を求めた。
「私はその宣誓を受け入れない」
しかし女神アスタルテはオルティナの訴えを退けた。
(これが「ヒト」というものであるのか──)
アスタルテは自ら生み出した偶像へ視線を投げる。
己の魂から生成した偶像。エルランの「願望」を具現化した偶像。
それが意志を持ち、このように訴えてくる。
エルランの「願望」──それは、かつてアスタルテとユンヌが一つであったときの肖像であった。
──それは、愛
(なんと愚かしい。それは差別の最たるものではないか。公平であるわけがない。秩序を乱す)
女神はそれを侮蔑した。それでも生み出したのだ。それを望み。
(私、言えないの。あなたを愛してるってこと。言ってしまったら私は女神ではなくなるから)
心を慰める歌を捧げられ、かつてひとつの身であった女神は奉納者へ想いを寄せた。それは告げることなく。
(ああ、私が女神などでなければ──)
そうしてその男と手を繋ぎ、生み出したひとつの肖像。
肉体を持ち、生体として現界する。
そうなれば「自由」なのだ。
それが望み。
「なぜですか……!」
その肖像は訴える。「ヒト」として。
「その言葉を信じることはできない」
アスタルテはオルティナの訴えを退ける。
理路整然とヒトの本能について触れ、争いは必ず起きるといい。再びユンヌとひとつになれば、負の感情によって同じ過ちを犯すという。
それを止めるためには負の感情を消し去るより他にないと。
「ユンヌはいてはならぬもの。私の決定に変わりはない」
冷たく、無感情な声で審判を言い下す。
「それでは、女神よ……せめて消し去るのではなく別の方法をとれないでしょうか?」
審判を下した女神へエルランはそう提案した。
無機物である青銅の円盤──『メダリオン』へ呪歌によってユンヌを封印するという提案。
排除ではなく封印。
そしていつか遠い未来、ヒトが女神の信頼を得られることがあるかもしれないといい。そのときには再びひとつとなり、本来の姿へ戻れるよう願った。
(エルラン、それはそなたの「願い」であるのか)
女神アスタルテはその提案を受けた。
ユンヌのもたらす災厄さえ防がれるのであれば異論はないといい。
「女神ユンヌ……どうかよくお聞きください。
私は決して諦めません。いつか必ずあなたを元に戻します。ですから……」
エルランは膝を着き、ユンヌの目線になり優しく語り掛けた。その瞳には親から引き離される子供のような目をした少女の姿が映る。
「いつでも私が傍におります。
あなたが孤独を感じることがないよう、呪歌をお聞かせしますから……」
そうして正の女神と負の女神の対立は終結した。
正の女神は導きの塔にて千年の眠りに就いた。
千年が経ち負の女神が正しく呪歌で目覚めたときにヒトが争うことなく秩序が保たれていれば負の女神と融合し、ひとりの女神に戻るという。負の女神がヒトの争いにより発せられた負の気によって目覚めれば裁きを下し、ヒトを無に還すという。
負の女神はエルランのメダリオンの中へ眠りに就いた。
審判の時に正しく揺り起こされることを望みながら。
「オルティナ、あなたはどうされますか?」
エルランは双剣を携えた娘の背へそう訪ねた。
もとより、ユンヌを粛正するため生み出された命。ユンヌもアスタルテも眠りに就いた以上、その役目は終えている。
「私は、女神アスタルテとの盟約を果たさなければならない」
振り返り、彼女はそう答える。
「ふふ、ユンヌが呼んだあの荒くれたちをまずはおとなしくさせなきゃね」
負の使徒として召集された者たちのことを指す。
「まずはそこから」
ラグネルを掲げ、果てしなく続く大地の曲線をなぞるように空を撫でた。
「私は女神じゃない。ヒトだから。作れるのは国というものかしら」
その身は煌めく太陽の光を受けて輝いていた。
「あなたなら──成し得る」
目を細め、エルランはそう返した。
「ええ、あなたと一緒なら」
そして彼へ差し出される手。娘の口元に湛えられるは零れるような笑み。握ったその手は確かに暖かく、感触があった。生きている。命を得たもの。
それが幸福、であると。
彼の長い生涯のうちの輝かしい一瞬の煌めきであった──
彼女が遺したものは、後に大陸最大の権威を持つこととなるベグニオンという国家であった。
神託を受け、統治する。
その神託を受ける者は『神使』と呼ばれ、尊ばれる。神使こそがベグニオンを統べる皇帝としても君臨していた。
帝国となり、長い年月を掛け発展していったベグニオン。いつしか政の中心に元老院が据えられた。当初は純粋なる政の名手たちの寄り合いであった。
しかしそれは、権威を確立していくとともに性格を変えていった。元老院は私欲を肥大させ、権威と策略を以て実権を得ようとしていた。
神使すら傀儡として──
(──オルティナ、あなたの国はこのように蝕まれてしまった)
この国の行く末を嘆くのは一人の男。
祖である女王の伴侶であった男。
しかし、この男の名は歴史の彼方へ葬られている。
彼はかつて、エルランという名であった男。鷺の民である彼は果てなく永く生きる者である。神話の時代より存命だ。
しかし、それを世へ明らかにすることもなく、歴史上から姿を消した。
彼は時折、長い生涯のうちの一瞬の煌めきであった思い出に浸っていた。
それは、かつての伴侶オルティナとの幸福な日々。
彼女はその強さ、高潔さで人々を導き、纏め上げた。
始めは集落の発展系ほどの規模であったが、彼女の人望により、各地より有力者が自然と寄り集まり国家として形成されたのであった。
もとは女神のものであった魂。人々は知らずとも惹かれていく。
「畑が広がり皆、日々汗を流し働き、収穫の喜びを分かち合う……。機を織り、鉄を打ち、家を造り……」
彼女は民の営みを慈しみ、それが根付き、広がりゆく様を幸せに思った。
「このまま普遍的に、幸せに生活を続けていけばきっと女神アスタルテも納得してくれると思う」
あたかも神殿の如く設えられた居城より女王は女神との誓約を語る。傍らの伴侶へ。
「それでもちょっと悪さする輩はいるもの。そういう輩を罰し、正しく生きる者を守ることは必要だから剣を手にすることを止められない」
略奪や諍いは起きる。それを完全に防ぐことはできない。発生してから諫めるほかない。
「それが女神に咎められたら……私は抗議しなくてはならない」
「はい、オルティナ。私はずっとあなたが築いてきたものを見つめてきました。あなたは慈悲を以て治めようと尽力してきた。それを女神に咎められたら私も抗議します」
彼は彼女を傍らで支え、見つめてきた。二人は手に手を取り合いここまで歩んできた。
「ありがとう、エルラン。私は幸せよ」
彼女は伴侶の愛を受け、笑みを浮かべる。腹部へ手を当てその幸福を噛みしめていた。
「私もです。もうすぐ、会えますね」
彼らの幸福、その一部──新しい生命の芽生え。
そして彼女は新しい命を生んだ。
それと引き替えのように悲劇は起きた。
彼は導きの塔で眠るアスタルテへ世の動きを思念によって伝えていた。アスタルテもまた彼へ念を送りそれへ回答を返していた。そうして彼は女神と疎通し、己の役割を果していた。
それは鷺の民の能力の一部であった。人の心を感じ取る能力を筆頭に、思念に関わる能力を有する。
その能力が失われ、呪歌謡いとしての能力も失った。そして化身する能力も失ったのである。
それはこの世に彼らの子供が生まれ落ちたときから。
彼は絶望した。
ラグズとしての能力を失った。これでは女神とヒトとの橋渡し役を担うこともできない。己の存在意義も失われたということ。
約束を交わし、眠りに就かせたユンヌを揺り起こすこともできなくなった。
そして自制心を失い、自害まで試みたのだ。それは未遂に終わったが、もはやこの事実を真実として扱うことはできないという結論に至った。ラグズとベオクの交わりがラグズの能力を奪うという事実をを民衆に晒すことはラグズ、ベオク両種族間の溝を深める原因になってしまう。
彼は正気を取り戻した後、己の存在を歴史上から抹消し、ラグズとベオクの婚姻は禁忌であることを公布することを提案した。
それが間違いだったと、気付くのは途方もない年月を経た後──
「こんなことを言ってもあなたの心に届かないかもしれないけど……。私はあなたがラグズだから愛したわけではない。呪歌の力を愛したわけではない」
絶望に打ちひしがれる彼へ掛けられた彼女の言葉。
「私たちの子は禁忌の子などではない。こうして等しく生を受けた存在。そもそも、ラグズもベオクもその違いは髪の色や瞳の色が違う、それくらいの違いでしかないと思う。私たちの子も同じ。あなたはどうあってもあなたであることは変わらない。私たちの子もひとつの命であることには変わりない」
どのような言葉も届かないであろう彼の背中に投げ掛けられた言葉。
「それを皆に話して、分かってもらえないかしら」
慈悲深く、凛とした意思。
それが逆に彼の心を苦しめる。
──なんと、この心は弱いのだろう
その強さが妬ましいとすら思った。己の弱さが露呈する。
「……あなたには分からない」
彼女へ背を向けたまま彼はそう返した。
「私はこうなれば無力だ。手足をもがれたと等しい。何も果すことができない」
そんな背中に彼女の手が触れる。
「……エルラン、あなたは絶望してしまったのね」
そして彼女は彼をそっと抱く。
「私も、あなたが自ら命を絶とうとして、いなくなってしまうと思ったとき、絶望しそうになった。この理があなたを苦しめるもので、それが女神が架した運命だなんて、って」
愛しい声が響く。
「あなたが生きているというだけで嬉しかった。生きていることって嬉しい……」
その声は突如淀んだ。彼は何かを予感して振り返る。
「あなたは、まだ……生きられるのだから……為せることがある……はず」
眼前には愛しきその人が眉を歪め、口元を押さえる姿。手を離せばそこには赤黒い血液。
「ヒトとして生きて、女として生きられた。私は幸せだった」
それが最後に聞いた彼女の言葉だった。
女神の分身として生み出された命。しかし、それはヒトとしての肉体を得たがために永遠ではなく。寧ろ、短い生涯となった。
「……ベオクの限界を越えて戦った。当然よね、普通はこんな細い腕であんな剣、二本も持てない」
彼女は床の中でそう語り、ユンヌとの対戦時よりもさらに細く、そして衰えた腕を伴侶に見せた。
「あなたは、こうなることを分かっていて戦ったのですか?」
彼はその腕を取り、問うた。
「私が生を受けたのはそのためだから。私は願われて生まれた。あなたに」
彼女は女神の魂と、呪歌謡いの唄が媒体で生まれた。女神が初めて直に創り出したベオクである。それは肉体を持った生体であった。
「……もう少し、頑張れると思う。あなたのような思いをする者が現れないように、責任は果す。でも、もう戦うことはできない」
その肉体は脆くも果てようとしていた。
負の気を取り込み、肉体の限界を超える力を発揮し、戦場を駆ける。それが彼女の戦士としての強靱さの仕組みであった。
そして、限界まで酷使された肉体は寿命を縮める。
「子供を産む力は残っていてよかった……。あなたと愛し合えてよかった……」
それは彼女の意志、あるいは女神の──
「私も、幸せでした、オルティナ……」
彼は彼女の細腕を床へ戻し、穏やかに応える。
「ねえ、唄って、最後に」
「わかりました」
彼女は彼の唄が好きだった。遠い昔、女神が慰みに捧げられたそれを愛したように。
彼は己の呪歌の効力が消失したのを識りつつ、彼女へ唄を捧げる。効力が残っていたなら、痛みを和らげることもできたのに。
それでも互いにそれは口にせず、残された短い時間を謳歌した。
彼女は決して苦しみを見せずにいた。
負の気により蝕まれた身体は彼女に苦痛を与えていた。この世の嘆きを、苦しみを、怨嗟を受け止め、胎に返した。それを抱くように大地に溶けゆく。
彼の失われた呪歌を受け、心は安らかに──
そして彼はベグニオンを去った。
彼女は彼の提案を受けてラグズとベオクの交わりは禁忌であると公布した。
彼は不慮の事故死を遂げたとされ、しばしの後、彼女は新たな夫を向かえ、彼との子をその夫との実子として育てた。新たに夫となった者は彼らの内情を知り、心から尽くしていた臣であった。彼女はその忠臣に看取られ逝った。
その後もラグズとベオクが交わり子を成せば、ラグズがその能力を失うという事例が他にも上がり、彼はその事象に確信を得た。
(……果たして私とオルティナの子供は禁忌の存在だったのだろうか……)
我が子の生誕は喜ばしいことであった。
しかし、彼は罪の意識に苛まれた。
(ラグズとベオクの交わりは本当に禁忌であるのだろうか……)
それが女神の怒りを買い、力を奪われたのか──
それとも
(女神は確かに、私の「願い」を具現化しオルティナを遣わせた。しかし、それを生体として扱うべきではなかったのか。ヒトとして愛すことは罪であったのか。まして、肉欲を抱くなどと、冒涜であったのだろうか……)
神とヒトとの交わり。
それこそが禁忌であったのだろうか。
彼は長い年月を掛け、悩み続けた。
落胆した彼を案じた友デギンハンザーは、友の悲劇を繰り返すことのなきよう、後の時代にラグズの王たちへラグズとベオクの交わりを禁忌として伝承していった。
そうしてラグズの間でベオクとの交わりを禁忌とされた。
かくしてそれがラグズの伝承として受け継がれていったが、ベオクの歴史での伝承はこのようになっている。
──ラグズとの交わりは女神の定めし理を犯す罪。ラグズとの交わりにより生まれた混血児は忌むべき不浄の存在──と。
もとよりベグニオンという国家の行く末を案じたエルランの提案から公布された事項であったが、もう一つそれを厳守されるべき理由が後に生まれた。
ベグニオンではラグズを奴隷とし、虐げてきた。それは元老院の政策としての方針であった。
その方針を推し進めるなら神使の系譜にラグズの血因があるという事実は門外不出である。神使の威光を翳し、神性を以って統治するという仕法に支障があるのだ。
ラグズの血を引くベオクは身体の一部に印が現れることがある。それをベオクは『印付き』と称した。印付きは重ねられてきた歴史によりベオクの世界ではラグズとともに迫害対象となっていた。
彼は永く、ベグニオンで虐げられるラグズの身を案じてきた。元老院の対応を期待し、改善されるのを待った。しかしその兆しは見えず。
友デギンハンザーへゴルドアの民、強大な力を持つ竜鱗族を動員し、警告を発しようと訴えかけたが、デギンハンザーは戦いを肥大させることを是非とせず、岩のように動くことはなかった。
しかし彼は今そのとき虐げられているラグズの身を案じ、解決の手だてを探るべく、一度は離れたベグニオンへ再び足を踏み入れることとなった──
ラグズとしての能力を失った彼であったが、それとは異なる能力を開花させていた。転移の術、ヒトの記憶に干渉する術等、奇跡と呼べる術を行使できた。
それは女神の加護によるものであるのか、女神と交わったためであるのか、彼自身には分かり得なかったが。
彼はその術を以て難なく当時のベグニオン神使と謁見した。
そして、そのひとのみに己が始祖であることを告げた。
「神使ミサハ、突然の謁見をお許しください」
神使の私室へ突如姿を現す一人の男。神使ミサハはそれに動揺することもなく彼を受け入れた。それを予見していたかのように。
「どなたか訪れる、そのような予感はしておりました。……あなたは?」
「私はエルランと申します。あなたの先祖です。そして、この国の始祖オルティナの伴侶でありました」
ミサハは初対面である彼の言葉を疑うことはなかった。
歴代神使は印付きである。
それは始祖であるラグズ──エルランの血を引く者。
しかし、始祖オルティナの伴侶がラグズであったことは歴史の彼方へ葬られ、その伴侶はベオクであった、とされた。
印付きは何らかの能力を擁する者であった。
それは保有するラグズの血因に拠る。
ベグニオン神使に於いては、予知の力がそれである。
それは「神託」とされ、国を統べる力となる。
しかし、歴代神使が印付きであるという事実は元老院によって隠蔽されてきた。
神使は元老院の傀儡として祀り上げられ、神託を授かる巫女としてのみその命を全うしてきた。
「初対面の……私の言葉を信じるのですか?」
「はい。わたしには分かります。あなたは嘘をついていないと……」
ミサハは神使が神託を受ける者であることを彼へ告げた。
「本来……あなたが享けるべき啓示です」
彼は理解した。己の失われた力はこうして受け継がれたのだと。
「ああ……女神よ……! 私とオルティナの子は祝福されない存在だとばかり……」
そして歓喜する。
「……これをご覧ください」
「この印は……」
ミサハは手の甲を彼へ見せ、そこへ印があることを示した。それは『印付き』の証。
彼女はそれを秘密として元老員に隠されてきた。
それ故に彼女は罪深き者として生まれてきたのだと心のどこかで恥じて生きてきた。そして、民を欺いているのだという良心の呵責に苛まれていた。
だが、彼女に生を繋いだ先祖を目の当たりにして、その血は恥じるものではないと理解したのであった。
「その証に……わたしは自分が印付きであることを公にしようと思います」
それは彼女の身を危険に晒す行為にほかならない。
彼はそれを思い反対した。
しかし彼女は元老員の妨害に屈することなく、指導者としての使命を果たすべく決意を表明した。
「……なんと強い意志なのだろう。その双眸は……オルティナによく似ている」
彼は大いなる希望を抱いた。
かつて愛した伴侶と似た子孫の強い意志を秘めた双眸。女神との誓約を果たすべくベグニオンという国家を建て、民の幸福を祈ったあの日々──
すでにミサハはラグズ奴隷解放令を発していた。それは彼が待ち望んだ希望そのものであった。
ラグズとベオクが共存し、争うことのない、幸福な世界
「女神の手によって創り出されし命に優劣など存在しませんもの」
ミサハの声が慈悲深く、優しく響く。
彼にとってこれは天恵にも等しかった。
彼は永い時を生きたがために、罪の意識と孤独に苛まれ続けてきた。地層のように積もり積もったそれ。
己の無力さを感じつつも崇高なる願いを抱き続けてきた。
それがすべて報われ、救済されうるような存在と対面し、希望を抱く。
しかしその希望は打ち砕かれる。
『神使ミサハ暗殺』──『セリノスの大虐殺』によって。
燃え盛る炎の中にいた。
静寂を湛える豊かな森は業火に飲まれ死んでゆく。
炎の中へ飛び散った羽根が巻き込まれ、ちりちりと音を立てて燃えて灰になる。
それはかつてのこの森の住人のもの。
戦う術を持たぬ心美しき民。静かに日々を営み、謡い、森とともに生きてきた。
ミサハと会談した彼は羽を隠し、ベグニオン城下に留まり民の生活を眺めていた。
ラグズへの差別が横行するベオク社会に於いて、ラグズがベオクの前に姿を現す場合は、身体的な特徴を隠蔽する必要があった。
化身の要領で目立つ部位を衣服と同化させるのが完全な隠蔽法である。しかし、化身時に体力を消耗するのと同様に消耗するため長時間行うことはできない。極力、衣服などで覆い隠すのが常套であった。
彼はラグズとしての能力を失っているため、後天的に発生した能力によって翼を隠蔽していた。幻術の一種である。
そうしてベオクとして振る舞い、ベオクの生活に溶け込んでいた彼であった。
──ある時
「う、嘘でしょう!? あたしたちの神使様が……!」
「わしだって信じられん。だが、この耳で聞いたんだ。元老員の発表をな」
ざわめく民衆。尋常ではない雰囲気であった。
彼はその渦中にいるらしき神使のことが気にかかり騒ぎ立てている民衆の一人に尋ねた。そして、
神使ミサハは──
「亡くなられた」
彼は感嘆の声を上げて一瞬呆けた。
それは夕刻に行われた出来事という。
──セリノスの鷺の民による神使ミサハ暗殺
それが元老院によって発表された。
そして民衆は各々武器を手に鷺の民が棲むセリノスの森へ向かっていく。報復のために。
信じ難いことであった。
セリノスの鷺の民は争いを好まない。そして戦う術を持たない。一度たりともベオクの生活を脅かすことなどなかった。それどころか、木の実を糧とし、殺生をすることもない。
何よりも、彼の血族である。その心はどの種族よりも心得ている。
彼はそんなはずはない、と心で叫んだ。
崩れゆく大地を行くように彼は森へ急ぐ。
「どうした、あんた? 気分でも……」
燃え盛る炎を目にし、血の気が引いていくのが感じられた。そうして目に見えて青ざめているのが分かり、声を掛けられるほどに。
すべてが欠落していく感覚。何もかもを忘れていくような。
「バケモノっ! 鳥のバケモノよぉっ! 誰か!」
いつしか術が解け、ラグズとしての身体的特徴が露わになっていた。それを目にした民衆が彼を指差す。
畏れ、慄く。罵倒する。
それは呪詛となって彼を襲った。
(こうして、こうして……私の血族は、同胞は……)
彼はこれまで、ベオクのラグズへ対する差別を目の当たりにしたことはなかった。世情として把握はしていたが、当事者となったことはなかったのである。
(女神はそれでも等しく愛そうと……)
遙か昔、かつて一つであった女神とともにあった幸福な時を想う。
(この世界は……すべてに等しくはない……)
呪詛を向けられ、同胞が虐げられてきた歴史を省みた。
(この翼が……耳が、尻尾が、牙があるだけで虐げられる。異形のものであると)
ラグズが奴隷として扱われてきた歴史。永く、俯瞰で眺めてきただけでも陰惨と思ったその歴史。そして当事者となり受ける苦痛。改めて、同胞が永く苦痛を抱いてきたことにまた心痛を覚える。
武器が振りかざされる。彼を捕らえようとする暴徒たち。
彼はそれを顧みることなく飛び立ち、森の深部へ急いだ。
彼が降り立ったのは祭壇であった。
ここにはメダリオンが安置されていた。
呪歌で封印した負の女神は呪歌によって鎮められる。ラグズとしての能力を失った彼は、セリノスに棲む鷺の民へメダリオンの安置を命じていた。
最も能力の高い一族がその命を受け継いできた。その一族は鷺の王族となった。そして、祭壇に安置されているメダリオンを呪歌で鎮めてきた。
その優しい歌で心地よく包むように。それは子守歌のように。
「メダリオンを鎮めなくては……大変なことになる……!」
暴徒と化したベグニオンの民衆が鷺の民へ向ける敵意、憎悪。それは負の気となり渦巻く。それにより不当にユンヌが揺り起こされてしまう。そうなればアスタルテとの誓約が果たせない。
「この娘は……」
祭壇の前に一人の鷺の民が倒れていた。この娘は鷺の王族であり、メダリオンの守人として呪歌を捧げてきた者だ。
祭壇には負の気に反応し、それを蒼い炎として具現化するメダリオン。
娘は膨れ上がった負の気に耐え切れず倒れてしまったのかと男は判断した。
そして喧噪が聞こえてくる。
暴徒となり鷺の民を狩るベグニオンの民衆。それらが森の深部まで到達し、彼らを追いつめようとしていた。
「いけない……負の気で目覚めさせては……」
彼はメダリオンを手におぼつかない足取りで祭壇を降り、焦点の定まらないまま民衆の前に立つ。
「……っ、負の……」
彼の世界が暗転する。
そんな世界に去来する彼が光としてきたものたち──
ともに永い時を生きた友の想い。
己の血は恥じるものではないと、危険を承知で民衆へ打ち明けると約束した子孫の言葉。
己の言葉を聞き入れ、もう一度ヒトを信じようと約束した女神の言葉。
そして
「あなた……誰よりも優しい、私のエルラン……」
──深く愛した伴侶の言葉、笑顔
その光が影となり彼を刺す。
彼は苦悶した。
何故、私の力はなくなった
何故、私の血族は奪われた
何故、何故、何故……
光は闇へ
希望は絶望へ──
「ああ……あぁ……」
言葉にならない。感嘆だけが漏れる。
「なんだ、こいつは? さっきから呆けてやがる」
そんな彼を得体が知れないと、民衆は遠巻きに様子を伺っていた。
「すぐには殺すなよ。たっぷり苦しめないと……」
しかし、彼が動かない様子であるのを確認するとにじり寄っていく。拷問をしようとしていた。
信仰にも等しく神使へ抱いていた尊厳。それを踏みにじられたという想いを発散させるように。
否──民衆も皆、心の奥底では分かっていた。鷺の民が犯人ではないだろうことを。心の柱を折られたという不安、怒り、そのやり場を求めていたのだ。
ただ暴徒と化すことでそれを解消しようとしていた。
しかし、彼にそれを思い計る余地などない。
ただ絶望に打ちひしがれる。
「神使様の仇だ……死なないように痛めつけて痛めつけて、痛めつけて……それから殺してやる……!」
そうして暴徒たちが彼を襲う。
──裁きを
彼は望んだ。
この瞬間から。
──暴徒へ、愚者へ、裁きを
彼は無意識に印を結び、宙へ陣を描く。そして発動される光。その光は雷のように暴徒を打ち、飲み込む。
森を焼くことはなく暴徒のみを罰する。
無抵抗の、無実の鷺の民を殺めた者へ降り注ぐ裁きの光。
それはあたかも女神が下した審判の如く。
そうして光が失せ、彼の目の前にあったのは息絶えた暴徒の姿であった。
「裁きを……」
虚ろな目で焼けた森を見つめる。
「裁きを……」
その歩みは緩慢で。
「裁きを……!」
その瞳は光を失い。
ヒトはあまりにも不完全だ
この世界にヒトなど要らない
ベオクも、ラグズも等しく公平に
彼は祭壇に立ちメダリオンを天に掲げた。
お目覚めください、女神たちよ
そして──裁きを……!
そして彼は「エルラン」という名を捨てた。
「ヒト」へ抱いていた希望とともに。
「あなたにはもう少し眠っていていただきます」
祭壇の前に倒れている娘へ小さく声を掛けたとともに術を掛けた。その手には蒼炎を放出するメダリオン。
〈ダメ、エルラン、アナタハ……〉
娘が目を覚ましたとき目の前へ現れるのは野心を抱いた猛る王。それが彼が描く筋書きの始まりだった。
〈タスケテ、タスケテアゲテ……オルティナ……!〉
メダリオンが泣く。炎を上げて。
メダリオンは彼の嘆きを感じ取った。深い闇に気付いた。それは「負」の感情。それを最も鋭敏に感知する。なにしろ、その中に眠る者は負の女神そのひとであるのだから。
そして助けを求める。彼を救って欲しい、と。
それはかつて、彼が愛した伴侶へ。
彼の「願い」そのものへ──
蒼い鳥が飛ぶ。
その願いを受けて。
それはオルティナの魂だった。
彼女の肉体が滅んだ後、その魂は女神が生成した時同様に卵型の光の珠となっていた。彼はその魂をアスタルテが眠る導きの塔にて発見し、安置していた。
その魂は殻を破り、蒼い鳥となり飛び立った。
女神へ裁きの審判を求めようと決意した彼は、再び導きの塔へ足を踏み入れる。そしてその魂が孵化し飛び立ったことを知った。
「オルティナ……あなたは……」
その魂は転生の時を迎えた。
女神の願いを叶えるべく──
穢れなき乙女がその魂を拾い上げた。
彼女はまだ未熟な修道女。日々研鑽を積んでいた。神学を学び、女神の施しとされる治癒の術などを修練する。
「ガウェイン、いいかしら?」
彼女はまだ未熟な術を恋人へ施す。
「毎度すまない、エルナ。しかしこれくらいかすり傷のようなものだ」
そう言いつつ彼は彼女の術を受ける。半ば、彼女の練習台になるため傷を作っているかのような。
やわらかな癒しの光が彼の腕を包み、傷を塞ぐ。
「どんな傷でも治させて。私、もっと、治癒の術を使いこなせるようになりたい」
術を終えると、彼女はその媒介である聖杖を握り締め訴える。
「神騎将ガウェインの妻たる者、治癒の術ひとつ満足に使いこなせないようでは務まらない」
それが彼女の主張だった。
彼女は彼との婚姻を控えていた。二人は婚約者同士だ。
ここデイン王国は実力主義の軍事国家である。
国王が代替わりしてから家柄に関係なく実力次第で取り立てるという事例が増えた。
彼は外来の者で元は市井の傭兵であったが、すでに『神騎将』という異名を得るほどの実績から新国王が即位後、すぐに『四駿』として抜擢される。それからも武勲を挙げ、名を馳せたのだった。
それまで名家の出で代々四駿の座に就いていた一人は彼の台頭によりその座を降りることとなったのだ。
彼は将来が有望される身であった。
そんな彼へ縁談が持ち込まれた。それは元四駿の令嬢との縁談である。彼女は宮抱えの神殿へ修練に励みつつ仕える身であった。
この縁談を受ければこれまで後ろ盾のなかった彼も安定した地位を得ることとなる。その家にとっても彼が婿養子となることにより、再び四駿の名を得ることとなるのだ。
彼は色恋沙汰に疎いたちであり、婚姻に対する興味もなく、出世にも無頓着であった。しかし、意図せずとも己が出世することによりその家が没落したことによる引け目があり、顔合わせくらいはすることとなった。
「ガウェイン様、よろしくお願いいたします」
彼女は笑みを湛え彼へ礼を述べた。そして目線を送る。
「……またあんたとこういう形で会うとはな」
少しばつが悪そうに彼は会釈して返した。
彼らはとある縁から見知った仲であった。
そうして彼らは日々会話を交わし、交流を重ねていく。どちらかといえば彼女の方が積極的であった。
そのうち彼女は常に細かい傷を負う彼が気になり、その度、修練中である術を施すようになった。
積極的に彼へ接触する彼女。彼は特にそれが嫌ではなかったので受け応え、会話を交わしていた。
逢瀬はいつも王宮騎士団の訓練所裏手の木陰にて。
「将自ら前線に立つなんて、戦術的に賢いとは言えない……とはよく聞きます」
彼は常に前線にいた。
そして無敗だった。
「ですが、それがあなたの振るう剣」
瞳を輝かせ、戦場の彼を想い描き語る彼女。
「己が矛となり、盾となり駆ける……それが神騎将たる所以とも聞きます」
「あんた、神に仕える身だというのに随分と血生臭い話とか好むな。さっきもずっと訓練を見ていたし」
彼は、己の武勇譚を瞳を輝かせて語る修道女を訝しげに思った。
「……私の家は代々武の誉を挙げてきた家。私も男であれば戦場へ赴いていたでしょう。
ですが、この身では力が及ばないのは弁えております。そして、女という身に与えられた仕事は、婚姻により家の繁栄を担うこと……。
神殿へ仕えるのも貞淑さを養うための教養に過ぎません」
こともなげに彼女はその身のあり方を皮肉る。
そして聖杖を剣のように両手で構え、剣技の型を見せた。それは洗練された動き。細身剣でも手にしていれば暴漢から身を守る程度はできると思われる。
「……司祭長が見たら倒れるな」
彼は彼女の振る舞いに感嘆しつつ、その闊達さには好意を抱いた。
「私、神術の才はあまりないようです。武家の出ですし」
「そうか」
「ですが、あなたの傷を癒すことができるなら修練に励みたい。配下の者の盾となるあなたを守ることができるなら。あなたの志は私の志と同じ。だから」
たおやかに笑み、そのような志を述べる彼女。
その細腕には確かに頑強な剣があった。
こうして共に歩めるならそれは幸福であろうか、と彼は惹かれていく。
強い志を抱き、神騎将ガウェインの妻となることを心に決めていた彼女だが、神術はさほど上達しなかった。
(本当に……かすり傷くらいしか治せない。ライブもろくに使えないなんて……。司祭様方のように光魔法を扱うことなんて遠い夢のよう)
治療と称した逢瀬の後、彼女は一人反省し、下位の治癒の術も満足に扱えないと溜息をついた。
(きっと杖で暴漢を殴る方が強いわ、私……)
主に護身用として司祭たちは光魔法を修得するのだが、高位の治癒の術を扱える技量があればこそであった。
(ガウェインがリカバーを必要とするほど深手を負うような戦いをしないとは思うけど。あの人は強いから……)
恋人への信頼。その強さへ寄せる信頼。上位の術が必要になる事態などないだろうと思っていた。
(でも、私もあの人に負けられない。そして、あの人が助けを必要としたら応じられるように……)
そのときは、命を投げ出してでも助けたい
それが彼女の願い、志だった。
「あら?」
一人反省をし、家路に着こうと歩いていた彼女は道すがら木から落ちたのかと思われる蒼い鳥を発見した。そしてそっと拾い上げ、容態を確認する。
「……まだ息はある?」
その身を撫で、注意深く確認すると微動を感じる。
「頑張って、まだ、あなたは」
彼女は鳥を柔らかい草の上に置き、聖杖を掲げた。
(女神よ……この子をお救いください……)
そして治癒の術を施す。
(え……?)
今までにない光の波動。途方もない力が流れ込んでくるかのようだった。それは司祭が施す上位の術の波動に似ていた。
否、それを遥かに超越した慈悲の光──
あたかも女神が直に光臨したかのような波動だった。
彼女は己の術がここまで急に上達したとは到底思えなかった。しかし、その手を止めることなく術を施した。
(いいえ、これは私の……ではない)
己は聖杖と等しく媒介となったかのような。
そして蒼い鳥はその身を起こし、ふわりと翼を広げる。光を纏ったままその身が再構築されていく。粒子状までに分解され、ひとつの塊となる。
──それは魂と形容するに値するような
〈あなたは己の因果を受け入れる覚悟はありますか〉
そしてそれは彼女の魂に問う。
「……よく、わからないけど……」
彼女はこの状況を飲み込めないが、その魂のありようは理解した。
「私は、己の使命は成し遂げたい……」
それは祈り。彼女の祈り。
彼女は杖を地に置いた。そして神の啓示を受けるかのように、膝を着き、両手を組み、それを受け入れた。
〈ありがとう。私はあなたから生まれる。そして私の使命を果たさせてください。生まれ落ち、会える日を楽しみにしています〉
そうしてひとつの塊、卵型の珠となった光は彼女の身へ吸い込まれ、消えていった。彼女は無意識に下腹部へ手を当てた。
(私から……生まれる?)
下腹部に己の掌の熱を感じつつ、何か意志が宿ったのを感じた。
それから彼女は高等神術を扱えるようになっていた。
「不眠症でしたら言ってくださいね。スリープを修得したわ」
高位の術である催眠の術を修得した、と彼へ告げた。
「なんか、急にどうしたんだ? エルナ……」
「わからないけど、これも修練の賜物かしら」
彼女は蒼い鳥との対話は秘密にした。何故か、口外してはならない気がしていた。
「そうか、おまえはすごいな。いいだろう、いつものように俺を練習台にしろ」
まるで子供へ対するように彼は彼女を労い、己もまた子供のように笑んで己を指差し、術を掛けろと促す。
「えっ、別に、いつもあなたを練習台にしているわけじゃない……!」
「いいから」
「……わかった。おやすみなさい、ガウェイン」
その呪文の詠唱は子守歌のようだった。
彼は優しい彼女の術にかかり、木漏れ日に包まれながら微睡み眠りに就いた。
(戦場で使うより、こんな風に使うだけならいいのに)
彼女はその膝を彼の枕にしつつ、無邪気にも見える彼の寝顔を見つめ、ひとときの幸福に浸った。
いよいよその因果の糸が彼女を絡め取り、歩ませる。
否、もとより彼女はそれにたぐり寄せられるよう生きてきた。
囚われの姫君がそこにいた。
蜂蜜色の艶髪、雪のような肌、翡翠の瞳。その身を包むのは神話の住人が纏うような衣。それだけであれば、精巧な人形かと紛うかもしれない。
「……天使、さま?」
その者の正体を知らされているにも関わらず、彼女は首を傾げそう呟いた。
姫君は白く美しい翼を持っていた。その容姿にその翼、それらを目にすれば、彼女の呟きのような感想が漏れるのは無理がない。彼女がこれから世話をしようというのはそんな見目の姫君であった。
彼女は神殿へ仕える身として一つの任務を受けた。
それは神殿の一室へ虜囚された姫の世話係である。その名はリーリアという。翼を持つのは神話の住人だからではない。鳥翼族の鷺の民だからだ。違う種族だからである。
国王直々の命であった。
(あの人、何考えてるのかしら。どこからそんな、鷺の民の王女様なんて浚ってきて。手に負えなくて私に命令するなんてよっぽど……)
彼女は国王その人の顔を思い浮かべ、その人の傍若無人ぶりも思い出す。
(きっと姫君に失礼な行いをしたのよ。あの怖い顔なら驚きもするし。何よりもその志が好きではない。配下の者ごと敵兵を射殺させようなどという人なんて。私もあの人……アシュナードなんてお断りだった)
それはまだ、現国王アシュナードが王子の身であり、彼女の婚約者が四駿ではなかった頃──
彼女の家は四駿という立場を利用し、王子と縁談を取り付けようとしていた。
王位継承権を持つ王子はアシュナードの上に相当数存在し、彼女の家もより継承権が上の王子と取り結ばれるよう工作していた。
彼女は個人的に国営の闘技場へよく足を運んでいた。
そこでは軍事国家である国柄、身分を問わず、実力者が招かれその武技が競われていた。王族も自ら参戦する。戦場での成果の他、そこでの成績によって配属も加味されていた。
そこはあまりにも血生臭い場所であった。
時に、猛る獣が放り込まれ奴隷剣士が戦う場面もある。そこで命を落とす者もある。
しかし、そこは希望を掴むための場所でもあった。実力次第で出世が望めるのだ。鼠のように地を這い蹲り生きる者へも等しく与えられる機会であった。それが故に国王が支持される国柄でもあった。
そのような場所へ深窓の令嬢が足を踏み入れるとその瘴気に中てられ、気分を悪くし、二度と足を踏み入れないことが殆どである。
そのような中、彼女はそこへいた。
「また来てるな、エルナ嬢」
「さすが、四駿の娘といったところか?」
「物好きとも言うな」
猛る荒くれどもの群に混じり、神職の令嬢がひとり戦場を見つめる。それは名物ともいえる光景だった。
「でも、あの娘に見てもらえば何か勝率が上がる気がしてな」
「はは、さしずめ勝利の女神ってところか」
「まあ、王子に取り立てられるためのパフォーマンスにしてもよくやるこった。大抵のお嬢様はこの空気に耐えられなくて一目見たら来なくなるというのに」
彼女が闘技場へ現れるのは、王子へその姿を示し、印象を上げる工作であると言われていた。
「こんな国の女王になるってんじゃ、特に肝が据わってなきゃやってられないだろうな」
「女も実力主義だぜ~、こうやって勝ち上がっていくんだ」
歓声とともにそんな雑談が混じり、皮肉混じりの笑い声が響いた。
「お、始まるぜ、今回一番の注目勝負! アシュナード王子とあのガウェインの対決だ」
「よし、こりゃ見逃せねえ」
彼女の目的もそれであった。
その瞳はガウェインというひとりの戦士へ向けられる。
彼は外来の剣士。何処の国より来たり。傭兵としてこのデインへ身を置いた。その強さは神懸かり的と言えた。そして前衛の将として戦場を駆けるようになる。
父や部下などから伝え聞いたその武勇譚が彼女を捉える。その姿を直に目にする機会がこの闘技場での対戦だった。彼女は彼の試合がある日は必ず闘技場へ訪れた。
「降りてこい、『勝利の女神』よ。我の勝利をとくと目に焼き付けよ」
戦場から切っ先を向けられ、彼女は指名される。
「おい、ついにアシュナード王子直々に指名だぜ」
ざわめく観衆。
彼女はその命を受けて戦場へ降り立った。
「御武運を」
その言葉は王子ではなく一介の戦士へ向けられる。
「……おい、王子じゃなくてあっちかよ……」
「何考えてんだあの女……」
観衆が彼女の行為を怪訝に思い、再びざわめく。
しかし、アシュナードはそれを意に介せず剛剣を勢いよく振りかざし、戦闘態勢に入る。
「ふ、勝利の女神は強者にこそ微笑む。我は女神すら屈服させてみせよう」
その笑みは醜悪とも言えるものだった。略奪し、蹂躙し、支配する。それは覇気とも言える。
「おい、女。貴様はなかなかに興がある。我は媚び諂う女どもには飽きた。
どうだ? ここは。愉しいだろう? 我のものとなれば本物の戦場を見せてやろう。殺し、奪い、頂点を極める。これほどの享楽があろうか」
彼女は求婚とも言える王子の言葉を受け、愛らしい瞳を向け微笑みつつも首を横に振った。
「……王子、それは私の趣味ではありません」
その言葉に観衆が凍り付いた。
「マジかよ……王子からのプロポーズっていうのかあれは……それを断りやがった……」
そんな言葉も聞こえてくる。
「ならば、どのような享楽を好むというのか」
「それは……この人の剣に答えが」
彼女が指すのはひとりの剣士。
「……もとは市井の傭兵である「成り上がり」か。確かに、それは享楽的であるな。
いいだろう、勝ち上がれ。我の元へ下れ。そして我が御す」
そうして試合が行われる。この日の二人の試合は決着がつかぬまま終了した。
試合後、彼女は彼と会話する機会を得た。そして彼と言葉を交わすのはこれが初めてであった。
彼女はアシュナードより受けた彼の傷を癒したいと申し出、二人で会話する機会を得たのだ。
「すまない」
「いいえ、完全に治癒できなくて申し訳ありません……。この額の傷も完全に消えない。私、こんな申し出をしましたが、まだ治癒の術は未熟なのです」
彼女は己の不甲斐無さを詫びながらもどこか愉しげである。
「あんた、いつも俺の試合を見てるよな」
「気付いておりましたか」
彼女は彼の指摘に頬を染め、笑み、そう返した。
「いいのか? あんたの家は王子との縁を得るのが目的なんだろう」
「ええ、あくまでも私の「家」は。
ですが、アシュナード王子は王位継承権から最も遠い身。家からの命はより王位継承権に近い王子へ近付くこと」
悪戯な笑みを浮かべ、彼女はそう返した。
「でも、他の王子よりは「興がある」でしょうか。あの人の言葉を借りるなら」
「……確かに、強さだけでいうなら」
彼も笑みを含み相槌を打った。
「強さにもいろいろあると思います。あの人は覇王になろうとしている。あの人が王になったこの国は、今までよりさらに弱肉強食になるでしょう」
「そうだな」
「私はあの人があまり好きではありません。戦い方が特に」
眉を上げそう力説する彼女に彼は少し気圧される。
「聞いた話ですが……。混戦しているところへ平然と矢や砲弾を放たせてそのまま配下の者もろとも押しつぶすように進んだりするなんて。挙げ句、己が中心にいてもそこへ矢を放つよう命じるとか……狂ってる。
いくら領土を拡大するためといっても闇雲に戦場を生み出すのも好きではありません」
吐き出すように彼女は王子の行いについて触れた。
「戦士は皆、戦場を求めるもの──それは仕方ないことだと思いますが。あなたは少なくとも盾である」
彼女の言葉を受け、彼は目を見開く。
「あなたの武勇も耳にしております。あなたは部下を守るように戦い、皆生き残るように戦う。可能であれば敵も殺さず生かし、勝利する」
そう語る彼女の瞳は輝いていた。
「どうかあなたに御武運を。あなたも生きて、生き残ってください」
かつての王子は国王となり、覇を唱える。
最も王位継承権から遠いはずだった王子。しかし、王位継承権を有した者が次々と流行り病に倒れたという。そしてアシュナードは王位に就いた。
(そもそも、あの人なら何かやりかねない。まんまと王位に就いたなんて……。そして鷺の姫を連れてきてどうするの? 娶るにしてもこれは扱いが虜囚と変わらないから違う……)
彼女はこの命を授かってから、それ以前にアシュナードが王位に就いたときから様々な疑念を抱いていた。
(だいたい、呪歌を聞き出せ、などという命からして何を企んでいるの?)
鷺の民は繊細な種族であるという。鷺の姫は猛々しいアシュナードの覇気に中てられただけで気を失うほどであった。それでは目的が果たせない。それで、清らかな乙女が世話係にあたり、心を許せば目的のものが得られるであろうという目論見であった。
「初めまして、リーリア姫」
彼女は精巧な人形のようである美しい姫と対面した。
リーリアはそれまで硝子細工に皹が入ったかのような表情を湛え、一人で震えていた。それが、彼女と対面した途端花が咲くように笑みを湛える。
「……言葉、わかりますか?」
「す、こし」
鷺の民は古代語を主に使う。彼女の話す現代語は理解できるものの自ら発することはあまりできなかった。
「ずっと、ここで、ひとり、でしたか?」
彼女は寝台へ腰掛けて佇むリーリアへ目線を合わせ、ゆっくりと問い掛けた。
リーリアは何度も首を縦に振り縋るように彼女へ手を伸ばした。
「光も入らないこんな部屋で……。
これからは、私があなたのお供をします。よかったら、寂しくないように、たくさんお話をしましょう」
ここは外へ脱することを許さぬよう、窓は固く閉ざされ、光も入らない冷たく暗い部屋だった。かつて温かな森の住人であった鷺の姫にとって牢獄以外の何物でもない部屋だった。
「……めがみ、さま?」
リーリアの手が彼女の手に触れる。
「あたた、かい……正の、気にみちて、ます」
彼女はリーリアの言葉に首を傾げながらも、否定することなく柔らかく手を握り返した。
「もう、こわく、ないですよ」
その声は聖母のごとく。柔らかく響き姫を包んだ。
鷺の姫は何か伝えたいことがあるようだった。
そして彼女はそれを受け、運命は急転する──
彼女は毎日、リーリアの元へ訪れ、世話をした。
食事を運び、湯桶を運び沐浴を手伝い、着替えを用意する。そうした身の回りの世話は勿論、談話の相手となり、虜囚である姫の心を一時癒す。
(一体、リーリアがこの部屋を出られる日は来るのかしら……)
一時の慰めはできよう。しかし、この場所から抜け出す以外にこの繊細な姫君が救われる方法はないと彼女は思った。
「エルナ、あなたも、でたい?」
そんな思考にたゆたっているとリーリアが逆にそう尋ねてきた。思わぬ問い掛けに彼女は目を見開き、驚いた。
(あなたも、籠の中の鳥なの。でも、自分の力で飛び立とうと、道を選び、歩んできた)
鷺の民は心を読む能力がある。それにより、リーリアは彼女の深層心理を感じ取っていた。そして心の中から問い掛ける。
「私……?」
「うん。あなた、王子と結婚、したくなかった、って」
彼女はリーリアの質問の意図を理解した。鷺の民が心を読む能力があることは聞いている。そして自身の身の上話もしていた。その上で、投げ掛けられるリーリアのその質問。
「あ……、家のためにより王に近い王子に近付いて結婚するっていう話……。そうね、それは私の希望じゃなかったもの」
家のための政略結婚。それを望まぬ彼女。
「でも、よかった、ガウェインはあなたの、すきな人」
しかし、彼女は自ら望んだ恋をした。そして巡り合わせて結ばれることとなった。
「ふふ、ええ……、あの人は素敵な人」
彼女は頬を赤らめて笑み、恋人のことを語る。
これまでも彼女は話題として自分の婚約者のことを語った。彼の武勇譚、馴れ初め、どのような人物であるか、など。
(あなたがそう語るのであれば、彼もあなたを信じ、正しき道を切り開き歩んでいけるはず)
リーリアは彼女と彼女の伴侶となる人物を見定めていた。これから託そうという案件のために。
「エルナ、あなたは、約束された、将来を、だめにしても、だいじょうぶ?」
そして確認する。
「え……?」
「あなたに、頼みたいことが、あるの」
そして彼女に差し出されたのは円盤状の物体。
「きっと、あなたなら、だいじょうぶ。そっと、さわってみて」
言われるがままに彼女は円盤状の物体へ手を伸ばした。そしてそれはゆらゆらと蒼い光を放ちつつもそっと彼女の手の中に収まる。
「……これは?」
「メダリオン。青銅の、メダリオン」
リーリアは不慣れな現代語を必死に駆使しつつ彼女へ説明した。
このメダリオンの中には邪神が封じられているという。それを鷺の民の一族がセリノスの森の中で呪歌によって鎮め、管理してきた。
しかし、森は焼き払われ、一族は皆殺しにされた。その折、リーリアはメダリオンとともにある男に連れ出された。
リーリアにはその正体が語られることはなかったが、それが現デイン国王アシュナードその人であった。
アシュナードは『解放』の呪歌により邪神を目覚めさせよとリーリアへ強要した。
アシュナードは目的を語ることはなかったが、リーリアは己の能力によってそれを察することはできた。
邪神を目覚めさせ、大陸を戦乱の渦に巻き込むこと──
それがアシュナードの目的であった。
それは禁じられたこと。リーリアは断固として拒否した。
「だめ、むりに、目覚めさせては、だめ」
心痛を訴えるその顔。壊れゆく硝子細工のような。
そして彼女は恐怖に震えるリーリアを優しく抱きしめた。
「かえして、森へ。セリノス、へ」
彼女の胸の中で震えながらもリーリアは訴えた。
「あの歌は、うたえない、の。オルティナの名を、持つ娘にしか」
そう言い切るとリーリアは彼女の精錬とした気を澄んだ空気を吸い込むように取り込み、平静を取り戻す。そして、『解放』の呪歌はオルティナの名を持つ娘が歌わなければ効力を発しないと説明した。
「……私が? これを、セリノスへ持っていけばいいの?」
彼女がそう訊くとリーリアはこくりと頷いた。
「つたえて、あの歌を」
リーリアは彼女へ歌を教えていた。目的は告げず、ただ手慰みにと言い歌ったものだ。彼女はそれを子守歌のようだと言った。
「……あの、子守歌?」
言い得て妙と言えた。その旋律は優しく、聴き手を包むような。
「わすれない、ように、ずっと、歌って、聴かせて」
リーリアの言葉に従って彼女はメダリオンを胸に抱き、その歌を口ずさむ。
(不思議ね。ただのベオクがこんな精錬とした気を持ち、メダリオンの負の気に全く取り込まれることもなくいられるなんて)
リーリアは彼女の歌を聴きながら、彼女の魂のありようを思った。
メダリオンは普通のベオクが手にしたなら、内包する負の気が持ち手の負の気と反応し、精神を狂わせ暴走させる。
しかし、彼女はメダリオンを手にしても全く精神を乱されることはない。
(負の気が全くないというより──極端に正の気が強い、といったほうが正しい。まるで女神が光臨したかのような……)
そのあまりにも強い正の気により、メダリオンが発する負の気に感化されない。
(どうしてなのか、これでいいのか確証は持てない。でも、私は彼女に託すしかない。私はもう……)
リーリアは己の命の限界を悟っていた。陽の光も入ることのないこの部屋に閉じこめられ衰弱していたのだ。もとより虚弱な種族である。彼女が世話係として訪れるようになってから少し持ち直していたが、それでも長くはないと思った。
「……わかった。私がこれを持ち出してセリノスへ返し、この歌をオルティナの名を持つ娘へ告げればいいのね?」
『解放』の呪歌を歌い終えた彼女はリーリアの話をすべて理解し、納得した上で確認した。
リーリアはそれを受けて頷く。
「だから、あなたは訊いたのね、約束された将来を不意にしても大丈夫か、と」
そして彼女は微笑む。
「大丈夫、って分かってて訊いたのでしょう?」
その笑みは少し悪戯な。
「……私も外へ出たい。だから」
彼女の深層心理を読んだリーリアが指摘したそれ。
籠の中の鳥──彼女は飛び立ちたいと。
「私は怖くない。あの人と一緒なら」
そして彼女はリーリアの両手をそっと握る。
リーリアはその手を握り返し
(私の翼はあなたに──)
そんな想いを贈った。
そうしてメダリオンを手にした彼女はリーリアから受けた話を整理する。
アシュナードがメダリオンに封じられた邪神を解放させようと目論んでいる。そしてその目的は大陸全土に戦火を点すこと。
これまでにアシュナードという人物に触れてきたことから、そのようなことを目論むのは十分に納得がいった。
(あの人は──狂っている)
かねてより戦闘狂とも称されるその覇道ぶり。ただ己の戦闘本能に忠実なあまり繰り広げる侵略。
(そんな人へこれを渡したらどのようなことになるか)
リーリアは決してこのメダリオンは他人へ渡してはならないと言った。それは彼女の伴侶とて例外ではない。普通のベオクなら精神が侵され悲劇を招くと。
(どうして私は大丈夫なのかわからないけど、現に大丈夫だから……)
彼女は何故、己がメダリオンに触れても大丈夫である、極端に正の気が強い体質であるのか疑問に思ったが、思い当たる節はあった。
急に神術が上達した要因──光の珠となった蒼い鳥との対話。あたかも女神の啓示であったかのようなあの出来事。
(そして、とにかく、この国を離れてメダリオンを遠ざける。折を見てセリノスへ赴き、元の場所へ戻し、然るべき人物へ呪歌を告げる──)
それは国王の命に背く行為。メダリオンが紛失したことが知られれば、国から追われる身となろう。
(お父様、お母様、申し訳ございません。この娘は国賊となろうとしています。私は私の道を──大陸の命運を抱え、それを無事に送り届けたいと思います)
そして彼女は事情と決意をすべて未来の伴侶へ告げた。
彼へはリーリアとの遣り取りを逐一告げていたのだ。遂にはアシュナードの野望を察するに至り、互いにその意志を共有するようになっていた。
「俺は──失うものは何もない」
元々市井の傭兵であった彼は、これまでの功績、地位などには固執していなかった。
「あるとすれば、おまえのみ」
彼のその言葉に彼女は心強さと愛おしさを感じた。
「……本当に己の力のみであそこまでのし上がってきたものならまだよかったんだがな。アシュナードの奴」
彼もまた彼女との計画を実行に移すにあたり、思うところがあった。
「え?」
「ちょっとな、噂を聞いたんだが……。アシュナードが即位する前、王族が次々と死んだだろう? その頃からどこぞの者とも知れない、旅の賢者なる者が出入りしてたとか」
四駿として王城へ出入りする機会の多い彼はそのような噂を耳にしていた。
「大体、メダリオンとかそんな話、俺もおまえも知る由もなかっただろう。アシュナードがそこまで博識なのか、知らないが……。その賢者って奴が入れ知恵したとなれば腑に落ちる」
点のように散りばめられた事項が線で繋がっていくような感覚。彼は己の勘が、彼女の決意は正しい、と告げているのを感じていた。
「アシュナードが王位に就くため同族殺しをしたのかは確証はない。俺は魔道とかよくわからんが、呪いとかあるのかもしれない。その賢者が何かしたのかしていないのかもわからないが」
彼女は彼の話を食い入るように聞く。彼女もまた彼の話を飲み込み、点を線で繋げていく。
「ただ、分かるのは、そいつを持って逃げて、追っ手が来たらおまえの話は正しいということだ」
そう言い切り、彼はニッと笑った。精悍な面構えであるがそのときばかりは少年のように。
「世の中にはまだまだ知らないことがある。当たってみないと分からない。俺はそろそろこの国を出てもいいと思った」
そして手を差し出した。
彼女はその手を取る。
「エルナ、祝言を上げられることはないが、この道はおまえとともにある。いいか?」
「……はい」
そうして二人は密やかに誓いを上げ共に歩むこととなった。
それは逃避行ともいえる行為。
(でも、女神様はきっと、認めてくれる)
彼女は下腹部へ手を当て、彼との前途を想った。
(そして、きっと会える)
まだ見ぬ未来へ想いを馳せて。
生まれるであろう命を抱きながら──
二人は夜半のうちにデインを脱した。誰もに告げず、知られず、遠くへ。
異変に気付かれるのは二、三日後ほどだろうか。リーリアの世話係として毎日神殿へ通う彼女が姿を見せないことからその所在を問われるだろう。それから、リーリアの手にメダリオンがないことに気付かれるのはもう少し先か。
「ふふ、さしずめ逃亡劇ってところね」
「あのな、見つかったらきっと死刑だぞ」
彼の騎馬に同乗し、彼女はその背に身を任せながらそう言った。少し楽しげに。
「こうしなくても、いずれ戦渦に巻き込まれるかもしれない。遅いか早いかの違い、かしら?」
蹄の音が響く。できるだけ遠くへ駆ける。距離を稼ぐ。見慣れない風景が流れる。
「あの鷺の姫の言うことが正しいならな」
「疑ってるの? もう遅いわよ」
彼女のその問いに彼は振り返らず首を横に振り応える。
「でも、私たちが遠くへ行けば行くほど追跡兵がやってくるのかわからなくなる」
「それについては手配した」
彼のその言葉に彼女は顔を上げて反応した。
「クリミアのある酒場で合流する。そこでそいつに聞く」
彼は情報屋へ追跡兵の有無を報告するよう依頼した。金次第の沙汰で仕事をし、口が堅いことで有名な情報屋であった。
「え、何?」
「……おまえは関わらなくていい」
「嫌、嫌よ。これは私の責任でもあるんだから」
──闇の者。本来は彼女のような者が関わりになることのない。彼は彼女へ関わらせることを良しとしなかった。
「分かった。おまえに何と言っても今更だろう」
風に流れるその声は優しく、共犯者めいた愉しげな声色で。
「もう、俺はデインの四駿ではない。全て捨てた。ついでにガウェインという名も置いていこう。全てはおまえが導くままに」
それは騎士の背中。一人の女に捧げられたその剣。
その女は天秤に大陸の命運と己の将来を掛け、前者をとった。彼女は天秤の担い手。
「……そしたら、どうするの? 何と名乗るの?」
「おまえがその名を与えてくれないか」
騎士は委ねる、その主に。
彼女は騎士へその杯を授ける──
「……グレイル。あなたはグレイル」
それは「聖杯」という意の名であった。
彼女の脳裏に啓示のように浮かんだ名。それを唇に乗せて告げ、彼に与える。
「そうか。分かった。授かり物として恭しく享受しよう。その名にかけて俺はおまえの使命を遂行する手立てとなろう」
瞬く星が二人の神聖な儀式を見届けた。
月明かりが二人の行く道を照らす。
崇高な使命を掲げる若者二人。
そしてただの男女が二人。
その炎が二人の身を焦がした。
その夜の交わりが実を結び、一つの魂が彼女の肉体に固定した。あとは十月十日。生まれ落ちる日まで、眠れる女神とともに子守歌を聴き胎内に揺られゆく。
二人が向かったのはデイン隣国クリミアであった。
辿り着いた頃にはデインでは二人がメダリオンを持ち、逃亡したことは騒ぎになっているだろうと思われる。
「クリミアってこんなに賑やかなの」
城下町をゆく彼女はそんな感想を漏らした。
生まれてから一歩もデインから出たことのない彼女は、その賑わいぶりを目にし、高揚していた。
クリミアは武より文を重んじる国家だ。優美な王城がその象徴であり、城下町にも品を感じさせる様式の建築物が多かった。物資も豊かに流通しており、行き交う人々も顔に豊潤さを湛えている。
デインは質実剛健な風土で、建築物の様式も質素である。城下町の色合いは灰色と形容できる雰囲気で、貧民窟も存在する陰鬱さを具えていた。
「俺もそう何度も来たわけじゃないが、おまえは初めてだったな」
彼女の様子はまるで物見遊山だが、ひとときでも喜ばしい思い出を共有できればと、彼は彼女の気の赴くままに街を歩かせた。
「……なんか、ちょっと視線を感じる」
「そうだな、やっぱりこれは被っていた方がいい」
すれ違う人々からそれとなく視線を感じると訴える彼女へ彼は外套を被せた。
「ここはデインとの国交は殆どないからな。デイン人は目立つ」
生粋のデイン人である彼女はそれと分かる特徴を持っており、クリミア人の視線を集めた。
「その髪の色と瞳の色はここでは珍しいようだ」
「そうね。あまり注目を浴びるのは良くないわ」
数日滞在し、約束の日となった。
彼らはとある酒場でその男を待った。
店の一番奥で彼らは注文した食事などを口にし、一般客を装っていた。
そして音もなく戸を潜るその影が一つ。
着崩れた服、無造作な髪、無精髭。いかにも酒場に入り浸る酔客といった風貌だ。ゆらりと気怠るそうな足取りで店主側の卓へ着く。
「もう酔ってそうよねあの人」
そんな男の様子を観察して彼女はそのような感想を漏らした。それを受けて彼は口端に笑みを浮かべた。
「……あいつだ」
「えっ?」
二人がそんな遣り取りをする間に男は杯を手にしつつ彼らの席へ近付いていた。
「同席願おうか」
「ああ、火消しよ」
火消しと呼ばれた男は報告した。
デインでの調査結果だ。男は彼らが逃亡を決行したときから王宮内の動きを探っていた。いよいよ異変に気付いたアシュナードが追跡隊を結成したところを確認した。
「……事実、ということか」
彼は確証を得た。鷺の姫が訴えていたことは真実であると。そしてこの逃亡劇は真に迫るものであると。
「クリミアなんかはすぐに手が回るだろう」
手をひらひらと振りながら男はそう忠告した。少し軽薄そうな雰囲気を醸し出しつつ。男の杯はとっくに空になっていた。
「どうしたらいいかしら?」
淑女たる笑みを湛え、彼女は男の杯へ酒瓶を差し出し、酒を注ごうとする。男は軽く会釈をしそれを受けた。
「……デインは半獣を嫌う」
こくりと喉を鳴らし、男はそう応える。
「ガリアか」
彼の切り返しに男は頷いた。
「さすがに俺もガリアには行ったことがない。ラグズの国家か……」
「ラグズ……」
「そうだ、向こうで半獣なんて言ったら殺されるだろう。あっちは獣牙の国だ。あの鷺の姫よりよっぽど獣といった風貌だ」
反ラグズ政策が敷かれているデインに於いてラグズを蔑称の『半獣』と呼ぶのが常であった。しかし、外来の者であり、各地で傭兵業を経験してきた彼は、仕事上ラグズと関わりになることもあり、その蔑称を用いるのは良しとしなかった。
彼女もそれに倣う。そして、鷺の姫との触れ合いによりラグズへの偏見は払拭されていた。否、もとよりそれは持ち合わせていなかったのだが。
「果たして、俺たちが受け入れられるか否か」
ラグズ側もまた、ベオクへ偏見を抱く。隷属された歴史、その記憶。それが両種族へ深い溝を形成している。
「……ガリアではベオクによるラグズ狩り……いわゆる半獣狩りが横行しているという」
男が彼へ投げかける端的な情報。
「ベオクの手口はベオクがよく心得ているだろう」
そして彼へ投げかけられる男の視線。
「あ……! そう、そうだわ。ガ……いえ、グレイル、あなたの腕なら」
彼女も彼へ目線を投げかける。
男は彼女が口にした彼の元の名の断片を聞き逃さなかった。もとより彼の名は十二分に存じていた。そしてそのように改名したのだと知る。
「よし、直談判といくか。傭兵業再開だ。売り込む先はガリアの獅子王その人がいいか」
「さすがだな、元四駿。あんたでなければ為し得ない。普通の人間なら酔狂だと笑い飛ばされるだろうさ」
さらりと男は彼の経歴に触れる。それを受けて彼女は少し慌てた表情を見せた。
(……知ってたのね。それはそうね、デインで依頼を受けたのだし)
仄かに頬を紅潮させた彼女を目にし、男は口端に笑みを浮かべた。
「そうなれば、またここから新たな契約となろうか」
彼らはクリミアを脱し、ガリアへ向かう。
騎馬はもうない。代金として男へ譲渡した。男もまたそれを金へ換えた。足がつかぬよう闇の流通先にて。
「本当にあの人、ついてきてるの?」
「ああ、いる」
彼は男の気配を感じつつ前へ進む。彼女は神経を尖らせている彼の背を見つめながら歩む。
「……うん、聞こえた。あの人の足音」
「聞こえるのか……?」
彼女は神経を集中させると僅かな物音でも捉えることができる。これは蒼い鳥との邂逅を経たときからだった。
「まるでラグズだな」
「ふふ、それも悪くないわね。でも、化身はできないわよ」
彼の軽口に冗談混じりで受け応える彼女。
「……あ! もう一つ……!」
彼女がもう一つの物音を察知したときには背後に一つの死体が倒れていた。
同時に彼も剣を構え応戦の構えになっていた。
「……賊か」
剣を鞘に戻し彼は呟く。
「これはただの山賊だ。例の件とは関係はない」
死体から得物である短剣を抜き、血を払いながら歩み寄りそう告げる影。
「この程度ならまだいいが。エルナですら察知できる輩だ」
「馬鹿にしないでくれる?」
彼が地に伏した山賊をそう評することにより彼女の能力を見くびるような発言をすると彼女は不機嫌そうに言い放った。
「グレイル殿、奥方は大した度胸だ。死を目の当たりにして動じることもない。その察知能力も侮れぬ」
「こいつ、デインでは闘技場に入り浸りだったからな」
「誤解を招く言い方はやめて下さる? グレイル」
そう言い捨てると彼女は地に伏した賊を仰向かせ、手を組ませると聖句を唱えた。死者への弔いだ。
「聖職者という者は常に死と親しい、か」
「ええ、あなたと同様」
弔いを済ませた彼女は向き直り男の呟きに応える。
「火消し……あなたの本業は暗殺。死と親しき者」
見開かれるその蒼。吸い込まれるような瞳。
「僧であるあんたは俺を咎めることもないのか?」
男は問うた。
「そう、あなたは人の命を糧としているわけね。野の獣も同様に生きているわ。獣と違うのは、死して悲しむ者がいるか否か、だと思う。私は今、こうしてあなたの人生の一地点に立った。だから私はあなたの死を知れば悲しみを覚えることでしょう」
そして彼女から投げ掛けられたのはそんな言葉。
魂を直接掴むような言葉。
一瞬、人ならざるものが彼女の中に内包されていると感じた。それはあまりにも眩く圧倒されるような。
こくりと男は唾を飲み込む。
──聖女、聖母
そのような単語が脳裏をよぎった。
「さあ、行くぞ。引き続き背後を頼むぞフォルカ」
彼の声で男は現実に引き戻された。通り名ではなく本名で呼ばれ思わず身を竦めた。
通常、依頼主に本名を告げることはないのだが、男は気まぐれに告げたのだった。
「ねえ、火消しさん。あなたの名を教えて下さらない?」
酒場で訊かれたそれに答えた。
何故か逆らうことができなかった。
「フォルカ……フォルカさん。よろしく頼みます」
男の名を紡ぐその唇は鮮やかな色だった。
そして男は彼らの道を最後まで見届けたいと思った。
彼らはデインの追跡兵と遭遇することなくガリア入りを果たした。
「では、俺の役目はここまでだ」
彼らの護衛を務めた男は期限を告げる。
「尤も、これから平穏が約束されているとは思わぬが」
「ああ。もとよりその覚悟だ」
彼はこの先の予感を告げる男へそう切り返した。
「……そのときは、よろしくお願いします。私からも」
彼の代わりに彼女はその続きを口にする。
「やれやれ」
彼は苦笑いした。
「そのときにはこの子の顔をあなたに見せることができるのかしら」
彼女は下腹部を擦りながら男へそう言い放った。
「……顔を会わすことがない方が望ましい未来と思うが」
「そうね。このまま何事もなく、無事に事を済ませて、私たちは平穏に生きられたらそれが最善」
慈愛を讃えた表情で彼女は男へそう返す。
「私も、無駄には死にたくない。あなたも、生きて」
その微笑みは生涯忘れることのない──
それから彼らはガリアの特別居住区に住まうこととなった。
彼が傭兵としての腕を直接ガリアの獅子王へ売り込み、それが認められ、さらにはその仕事の成果が認められた上での結果だった。
「やはり、ベオクの手口には手を拱いていたようだ。毒矢に魔道……道具を駆使するのは常套」
ガリアでは所謂「ラグズ狩り」が横行していた。数が多く、地理的に捕獲が他種族より容易であるガリアの獣牙族はその標的にされていた。
「デインでは反ラグズ政策や教育がなされていたけど、ラグズを捕獲するということはなかったのに」
「……よく囁かれているのはベグニオンの貴族連中が奴隷や鑑賞物として闇で取り引きしてるということだな。確かにそういう仕事はあった」
彼のその言葉に反応し、彼女は彼を凝視する。
「してない。俺は」
彼がそう言い首を横に振ると、彼女はこくりと首を縦に振った。
「これは、根が深そうな問題だ。セリノスはベグニオンの領土となっている。セリノスの民は先代神使暗殺を行ったとされ、森ごと焼き払われた。その真相は果たして分からぬが」
彼の述べる状況説明を耳にし、彼女は無意識に懐のメダリオンを触る。
「そう易々とベグニオンへ渡ることもできないだろう。民が不在となったセリノス……。メダリオンの守り手は果たして生き残っているのか。そして、オルティナの名を持つ娘……。まだ見当もつかない」
そして彼は彼女の下腹部に触れる。
「何より、これからは無理はできない」
そんな彼の言葉を受け、彼女は眉を下げ彼を見つめる。
「ごめんなさい、私が言い出したことなのに」
「どうして? どうしておまえが謝る必要がある」
彼の手が彼女の肩を抱く。
「こんなに嬉しいことはあるか。俺たちの子供が生まれるんだ」
彼女が見た彼のその顔は優しく、幸福に満ちていた。そこには確かに未来があった。
「ええ……。それは嬉しい、泣きたいほど嬉しい。やっと会える」
彼女もまた幸福を湛えた顔に。しかし、一点の曇り。
「どうした?」
「この子は、平穏に生きられるかしら」
彼らはそもそも逃亡中の身であった。いつでも追跡兵に捕まる可能性がある。そして、その役割を果たすのはかなり先の話になりそうであった。
「……できれば、何事もあってほしくはない。しかし、それは保証されない」
そして彼は天井を仰ぎ見る。
「それ以前に、満足に飯を食わせることが叶わないこともあるかもしれない。俺には財も何もない。ただの傭兵だから」
その背中はすでに父となろうという覚悟を決めたもの。彼女はその背を目を細めながら見つめる。
「俺が渡せるものは何だ」
「その剣は?」
彼女の言葉に彼は振り返る。
「あなたの剣をこの子へ」
彼女は云う。彼らの子へ継がせられるものは、彼のその剣技であると。
「……ああ、そうか。そうすると、俺と同じ道を歩まざるを得ない。この稼業は決して褒められたものでもないぞ」
傭兵──それは戦場を求め、金銭を得る。ときに人の命を狩り、それを糧とする。
「いいえ、あなたはただ無益に命を奪ったりはしていないでしょう?」
その澄んだ双眸が彼を見据える。
「今だってこうして、ラグズ狩りの横行を防いでいる。あなたは戦場で多くの命を奪ったかもしれない。でも、同時に多くの命を救っている」
そして口元に笑みを湛え。
「あなたは強い。だからこの子も強くなる」
彼女のその言葉を受け、彼もまた笑みを湛えた。
「ああ、おまえの子でもあるからな」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておく」
「……あなたの剣を継がせるというなら」
「ん?」
「この子は、男の子がいいかしら」
彼女は下腹部を撫でながらそう言った。
「そうだな。男なら余すところなく伝えられようか」
「うん、そうね。そうだといいわ」
かくして願いは発せられた。
かつて、嘆く女神を慰めるため発せられた呪歌謡いの願い。それを現界させた魂は新たな願いを受け、再び肉体を構築し、生まれ出る準備を始めた。
「ねえ、オルティナ、そこにいるんでしょう?」
深い海の中へ呼びかけられるその声。幼い少女の声。
「ユンヌ、あなたなの?」
海の中からその声が返る。
彼女は羊水という海の中にいた。
蒼い鳥となった魂。それは一人の娘と邂逅し、盟約を交わす。
いずれ使命に導かれ、最愛の伴侶との再会を果たすため肉体を得る。
その剣で彼を──解放する
(エルラン、私のエルラン……優しすぎるあなた。もうこれ以上苦しまないで)
彼女もまた嘆き、泣いていた。
遠い昔の記憶を胸に、後悔もした。
その想いを胸に、再び生まれ落ち、もう一度彼に出会おうとしていた。そして歯車を違えた彼を正し、解放しようと。
「オルティナ、あなたは悔いているのね?」
海の中へ語りかけられるその言葉。
メダリオンへ封じられた『負の女神』ユンヌの言葉である。そのメダリオンを肌身離さず持つ娘の胎内にいる彼女へその言葉は届けられる。
彼女はもとよりユンヌの半身であるアスタルテより生成されたもの。そうなれば、その魂はユンヌとも共通であるのだ。
「ええ、もっといい道があったかもしれないと。それを選べば歴史も歪んでいかなかったかも、と」
それはベオクとラグズの歩んだ歴史。争いが絶えなかった歴史。
「でもね、悔いてばかりではいられない」
「私は生まれるの。もう一度。そして……」
ヒトが皆、分かり合える世界を──
「そうね、それが願いだったもの」
ユンヌは彼女が生まれた経緯へその想いを馳せた。
争いを嘆いた女神の願い、その女神が哀しむことがないようにという呪歌謡いの願い。
「そしてまた、願いが発せられた」
彼女はこの胎の主である娘の願いを受けた。
「ふふ、私……男の子として生まれるのね」
「それは、エルランが見たらどう思うのかしら」
彼女が己のこれからの運命を想い、笑みを漏らすとユンヌもいたずらに笑んだ。
「びっくりする?」
「そうかもね。でも、きっとわかる」
ユンヌと会話を交わしながら、彼女はその身が溶けていくような感覚を覚えた。
「私は再構築される。もう、オルティナとしての記憶は認識できなくなる」
「……そうみたいね。でも、消えることはないわ」
ユンヌも彼女が作り替えられていくことを感じていた。
「これからあなたはベオクとして、純粋なベオクとして生まれ変わる。でも魂の記憶はあり続ける。新たな記憶をその魂に刻んでいくのよ」
ユンヌのその言葉に彼女は頷いた。
「オルティナ、私はあなたが好きだった。エルランと一緒に守ってくれた」
「……ユンヌ、あなたを守れてよかった。だって、あなたは必要なの。正も、負も、ひとつでなければ……」
「さようなら、また会いましょう」
そうしてその魂は分解され、新たな願いと混ざり合い、再び形作られる。
胚となり魂を抱いた肉体は母という海の中で愛を受けながら芽吹き始めた。
「……はじめまして、アイク」
女神が海の中に眠る命へその名を与えた。
その名にはマンナズに替わるヒトの祖、という意味が込められる。
「……アイク。アイクがいいわ」
鼓動が聞こえるようになった腹を撫でながら彼女は突如呟いた。
「男の子ならアイク」
「どうした? エルナ」
「あのね、聞こえた気がするの、この子の名前」
そう言い、彼女は懐のメダリオンを触れた。
それは彼女の胸の中で呼応するかのように光を放っていた。
子守歌が聞こえる。
それは胎内に眠る命へ届けられる唄。
彼女は忘れないようにそれを歌っていた。
「解放」の呪歌として伝えられたものだ。本来の歌い手ではない彼女が謡うそれは、本来の力を発揮するわけではないが、子守歌としての役割を果たしていた。
とくん、とくん
その命は胎動で返す。
母である彼女はその胎動を感じ、幸福を感じる。
そしてメダリオンの中の女神も胎動を感じ、歓びを得ていた。
暗い、狭い、寂しい
「封印」されたその身はそのような概念とともにあった。
しかし、メダリオンの守り人となった者たちが唄を捧げるとそれが取り払われるのだ。そしてまた眠る。深く、深く。
それは子守歌。
(おかあさん)
ぽつりとメダリオンの中から眠れる女神が呼び掛ける。
そう呼び掛けるだけで心に灯が点る。
そしてともにその子守歌を耳にしている命へ想いを馳せる。
(オルティナ、あなたが見込んだ通りエルナはきっといい母親になるわ。安心して生まれてきてね)
そうして育まれた命は産道を通り光溢れる世界へ生まれ出た。メダリオンに眠ったままの女神はそれを寂しくも思ったが嬉しさも覚え、祝福した。
「やった! エルナ……! 男の子だ」
寝台に横たわり、乱れる呼吸を整えつつ感慨に耽る彼女へ彼がそう呼び掛けた。
彼は彼女が出産の苦しみに耐え、生み出そうとしているその時、ずっとその手を握り、励まし続けていた。
「おめでとう」
産婆として手伝いに来ていた近隣の老婦がにこやかに彼女へ告げた。彼へ産湯の浴ませ方を伝え、彼の手で母となった彼女へ彼らの子を抱かせた。
「ああ……アイク、アイクだわ。男の子なのね。だから」
その手に我が子を受け取った彼女は涙混じりに語った。
「よくやった。この子は……強くなる。強くするぞ」
赤子は大きな産声を上げ、生まれ出た。
それは命の宣言であるが如く。
「あなたたちは、いい父親と母親になるわよ。一生懸命、育てなさい。いっぱい愛してあげなさい」
老婦が穏やかに二人へ語り掛けた。
「……はい。不自由させることは多いかもしれないけれど、伝えられることはいっぱい伝えたい。幸せと感じられるようにしたい」
我が子を柔らかく抱きながら彼女はそんな願いを宣言する。
「そうだな。俺は守り通す。おまえと、この子を」
彼はその手に重みを感じた。
我が子の重み。それは小さくも大きな。
そして母となった最愛の人。
危機が訪れればその身を盾にしてでも守り通そうと誓った。
思い出せばいつでも涙を零せるような想い
その命の尊さ。嬉しさ。
その誓いは何物にも代え難かった──
それから数年。
平穏な日々が続き、家族は慎ましいながらも幸福であった。
「ねえねえ、おかあさん、みせて、メダリオンみせて」
舌足らずな幼い声で幼い少女が母にそうせがむ。
「ふふ、ミストはメダリオンが好きね」
そう応え、母は懐からそれを出し、娘へ見せる。娘の目の前に差し出されたそれは呼応するかのように青白い炎のような光を発する。
「きれい。きれい」
娘が頬を紅潮させ手を伸ばすと母はそれを少し遠ざける。
「言ったでしょ? 触ってはだめ。そしてこれは他の人にあまり見せてはだめなのよ」
「はーい……」
母に窘められ娘は手を下げ、こくりと頷いた。
「おかあさんの、だいじなの。だから?」
「そうよ。とても大事なものなの。こうしていつも離さずに守らないといけないの」
「わかった。ミストもメダリオン、まもるの」
娘はメダリオンが仕舞われた母の懐へ身を寄せ、母を覆うように抱きついた。そして母は優しくその肩を撫でる。
そして子守歌。
優しい歌声が娘を包む。娘もまたそれを真似して口ずさむ。いつしか娘の幼い歌声は途切れ、寝息に変わった。
「……アイク」
母は息子がその光景を見つめていたことに気付いた。そして口元へ人差し指を当て、静かにするように、という仕草をする。息子は口を結びつつ頷いて、静かに母が着く卓へ着いた。
母は息子が椅子へ難なく座れるようになったことに気付く。その椅子は大人用で彼にとっては少し大きい。それまで彼は木によじ登るかのような動作で着席していたのだ。
着席した彼は母をちらりと見て卓へ伏せる。
母はそんな彼を見て再び子守歌を歌う。
窓からは柔らかく暖かな光が漏れ差し、彼らを包んだ。
数年のうち、彼には妹ができた。
依然、ガリアの特別居住区に住まい、彼らは四人家族として仲睦まじく暮らしていた。
父は変わらずラグズ狩りの横行を防ぐため傭兵として働いていた。
「母さん、あのな」
「なあに?」
妹の寝息が静かに響く中、彼は母に呼び掛ける。
「さっき外で猫の兄ちゃんに会った」
「まあ」
「元気にしてるか? っていって。あと、ちょっと猫になったところ見せてもらった」
彼は先刻、外で一人遊びをしていた。この集落には同年代の子供はいないため、妹の相手をするとき以外は彼はいつも一人遊びをしていたのだ。
そんな折、この集落へ定期視察のため訪れたガリア王の側近である部隊長と顔を会わせた。
(ライさんね。定期視察だわ。それにしても、化身姿を見せてくれるって)
母はラグズと親しくする息子を想い、目を細めた。
「すっごい、大きいんだ。でもすっごくふかふかで……」
彼は化身した猫ラグズの身を枕にし、その柔毛に触れたという。それを語る彼の目は輝いていた。
「こわくなかった?」
母は敢えて彼へそう訊く。彼は勢いよく首を横に振る。
「兄ちゃん、こわくないよ。優しいよ」
ラグズの青年は彼へにこやかに接し、頭も撫でた。彼はそれを嬉しく思った。
「友達……なんだ」
それを聞き、母は彼にそのような存在がいることを嬉しく思った。それとともに、この集落には彼と同年代の子供が存在せず、そのような存在に不自由していることを心配していた。
「お友達……。よかった。アイク、お友達ほしい?」
「うん。もっといっぱい」
彼は母の問いに両腕を大きく広げて応える。
「外にお出かけして、お友達にまた会えるといいわね」
「うん」
「お友達と何をして遊ぶ?」
「えーと……」
母に訊かれ、彼は両手を合わせ、剣の構えをとる。
「傭兵ごっこ! 父さんに教えてもらった剣でおれは」
溌剌とそう語る彼を見て母は微笑んだ。
「教えるんだ、おれの父さん強いんだって」
そして、父から着実にその剣と心を受け継ぐ彼を見て感慨深く思った。
「なあなあ、母さん」
「なあに?」
「また明日、遊びに行く。父さん、明日はずっと仕事でおれ、訓練できないから」
「わかった。あまり遠くへ行き過ぎたらだめよ。そしたらお弁当作ってあげる」
「やった!」
「お友達に会えたら、一緒に食べるといいわ」
「うん」
次の日、その夜──
「それで、あの子が会った新しいお友達はセネリオという子なの」
「……この集落では聞いたことないな」
夫婦は子供らが寝静まった頃、会話を交わしていた。
「かなり飢えていたらしく、あの子がお弁当を差し出したらすごい勢いで食べたって」
「デインの貧民窟ならいざ知らず、妙だな」
「でも、よかった。あの子がその子を救ったのよ。あの子はとても優しい子なの。そういう子を放っておけないの。あなたもそうでしょう?」
妻の言葉に夫は照れを感じながらも笑んだ。
「強く、優しくあれ、だ。剣を持つ者はそれを心掛けなければ」
夫は己へ言い聞かせるかのようにそう言った。
「ええ。それがあなたの信条。だから私は……」
そしてひとときの夫婦の時間。二人は抱擁を交わす。
「今日はアイクへ剣の訓練をしてやれなかった。明日も仕事が入っているがなるべく早く戻る」
「……お願いします。あの子、あなたとの訓練を楽しみにしているから」
寝台で交わす睦言は家族の話が占めるようになり。
それはまた、二人だけでは得難い幸福である。
明日も、明後日もその次の日も、家族の成長とともにずっとそれが続くと思っていた。
それはよく晴れた日のことだった。
父はいつも通りの傭兵業。ラグズ狩りの横行を防ぐための警護だ。以前より手が空くようになった。ベオクの手口をガリアの獣牙兵へ伝え、講習を行い、かなりの率で検挙することが可能となっていたからだ。それとともにガリア王との信頼関係も深いものとなっていた。
父は息子を思い、早めに帰路に着こうとしていた。居住区に同世代の子供が存在せず、妹と遊ぶ以外は一人遊びの多い息子と接する時間をなるべく多く持ちたかった。
「今日はお父さん、早く帰ってくるから」
「うん」
父の帰りを待ち、窓の外を見ては卓に着き、また椅子を降り、時には外へ出る、という動作を何度も繰り返す彼を見て母は微笑ましく思った。
妹は午睡の時間だ。寝台の上で寝息を立てて深く眠っていた。
そんな温かな光景がここで壊される。
母は察知する。
「母さん、どうしたんだ?」
顔色を変え、突如立ち上がり窓の外を確認する母の姿を見て彼は首を傾げる。
遠くに聞こえる軍靴の音。蹄の音。
「……アイク、この家から出てはだめ。いい? ミストを守ってね」
母はそう告げて彼の両肩に触れ言い聞かす。彼は突然の母の言いつけに戸惑い首を傾げるが、母の険しい表情を目の当たりにして思わず頷いた。
「この集落は包囲した! 我らはデイン国王の命により重罪人ガウェインとその婚約者の身柄の引き渡しを要求する!」
喧噪とともに響きわたる宣告。
デインの追跡兵だった。軍単位でこの集落を包囲し、脱出不可能だ。
住人たちは怯えながらもその名に心当たりはないという。何せガウェインは現在グレイルと改名し、そう名乗っているのだから。
「ならば立ち入り調査をする。抵抗すれば無用で処す!」
軍靴が集落を踏み荒らす。怯える住人、乱暴に荒らされる住居。中には無抵抗なのにそこへ立ち尽くし道を塞ぐという理由で槍で薙ぎ払われた者もいる。
妻は夫の到着を望んだが、その気配を感じることはなかった。この集落が蹂躙されていくのを目の当たりにし、己にできる術は一つ。
「ここにいます! 私はガウェインの妻、エルナ。あなたたち……アシュナードの所望するものはメダリオン、この青銅のメダリオンでしょう?」
彼女は凛とした声で宣言する。集落の中央へ足を歩ませて。
「これを引き渡します。ですからこの集落の方への手出しはおやめ下さい!」
そして懐から取り出すのは今までその身を追われながらも死守してきたメダリオンそのものであった。
「……やめろ!」
そんな中、デイン兵の包囲網を破り中央まで駆けて彼女を阻止しにかかってきたのはその夫だった。
「それを! それをそいつらに渡したら、俺たちが今まで為してきたことはどうなる!」
「あなた!」
彼は叫ぶ。
「突破しなくてはならないんだ! さあ! ここを犠牲にしてでも……!」
世界のために、少数の犠牲を──
「でも……! でも……」
彼は次々と襲いかかるデイン兵を薙ぎながら妻を説得していた。
「どうするの!? アイクとミストも捨てて……?」
彼女は問う。しかし彼は答えを告げない。それでも彼女はその答えを感じ取る。
それが捧げた剣の重みだった
家族全てを連れてこの包囲網を脱することは不可能に近い。彼らにとってメダリオンの死守が最大の使命である。メダリオンの守り人である彼女は絶対に必要。したがって、彼ら二人のみでこの場を脱することが最善──彼はそう判断していた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……! 私が、私が受けた使命というのにあなたにそこまで。でも、もういいの……」
彼女は涙を流し、夫へ訴えた。
使命より家族や恩人たちの命を重いものとした。
「まだ諦めるな……!」
彼のその言葉に彼女は目を見開いた。
まだ光はある、そう思わせる彼の言葉。
「あなた……」
そんな矢先、襲いかかる敵勢の攻撃から彼はとっさに彼女を庇う。その勢いで振りかぶった手がメダリオンを握る彼女の手に触れた。
──力が欲しい
窮地を脱する力を。
使命感に押し潰されそうだった。
ハヤクカイホウサレタイ
「……ウ、ウオオオオオオ……ッ!」
獣のような咆哮が響いた。
青白い炎を纏ったメダリオンが吸い込まれるように彼の手に。
脳が沸騰するような感覚に押し流され、彼は正常な意識を手放した。そして衝動のままに剣を振るい、見境なく薙いでいった。
「い……いやあっ、ガウェイン……っ」
獣のように理性を失い暴走し、デイン兵どころか、集落の住人まで惨殺していく夫の姿を目の当たりにし、彼女は絶望とともに叫んだ。
それとともに、メダリオンの力が本物であると認識し、己の成すべき使命は本物であったと確信を得たのだ。皮肉にもこの場に於いて。
殺し、殺して、殺し尽くす。
集落を包囲するほどの数の兵がたちまちのうちに屍と化していく。
デイン兵の数が少なくなったあたりで彼は民家の戸を破り、怯えながら身を隠していた住民まで手を掛ける。人の気配に反応し動いているようだ。
いっそ、誰か殺してくれれば──
一瞬でもそう思った彼女は自責の念に駆られた。
全ての罪は己が発端であると。
彼は己の「使命」と称した不確かな約束ごとに付き合わせたに過ぎないと。
(ガウェイン、ごめんなさい。そしてありがとう。あなたは最高の騎士でした。私は……ただの女でした)
開く扉。
飛び込んできたのは母。
「母さん……」
「アイク、何があっても希望を捨てちゃだめ。強く、優しく生きて」
それだけを言い、一本の杖を手に母は再び扉の外へ。
彼はそんな母の言いつけを破る。
扉を開け、外へ出て目の当たりにした。
──地獄を
「……父……さん?」
何か別の生き物のように暴れ狂う父。集落の中央には積み重なるように倒れている未知の兵隊の死体。見慣れた住人の遺体。
空は青い。煌めく太陽の光が鮮明にその光景を映し出す。
「どうした……の?」
彼は異次元の世界へ迷い込んだのかと思った。しかし、見上げた空から降り注ぐ光を目にし、眩しさを覚えるとそれは現実なのだと認識していく。
そしてもう一つ見慣れた姿。
「母さん……?」
聖杖を掲げる母の姿があった。
たまに怪我をしたときなど、治癒の効果がある杖を用い、治療されたことはあった。しかし、今掲げているものはそれとは違う。
母が発した神術、それは催眠の術。
メダリオンにより異常をきたしている状態の父への効果は足止め程度のものであった。
しかし、母はその隙を見計らい、父の懐へ飛び込む。
「ガウェイン! あなた、もういい、もういいの……っ!」
母の手が父からメダリオンを奪取する。
それとともに父の剣は母の胴を貫いていた。
重なった二つの体は離れ、倒れる。
母は絶命した。
父はメダリオンからの負の気の供給が突如絶たれ、気の乱れに耐えきれず昏倒した。
「父さん……母さん……」
彼は現実感を伴わないまま歩む。
そして横たわる両親の前に立ち、見下ろす。
「あ……」
手を伸ばし、触れた母の亡骸。その手に濡れた感触、赤い色。
「……父さんが、母さんを……」
彼の小さな胸の中で鼓動が鳴り響く。晴れ渡る空とは裏腹に暗くなっていく視界。ただ体の中に響く音だけが鮮明に。血の気が引き、凍える体。
「あ……あ……っ」
全身の震えが止まらなくなる。奥歯がかちかちと鳴る。
「ああああああああああっ!!」
少年の絶叫が屍塚と化した集落に響いた。
その後、彼はその時の記憶を失った。
「何をなさったのですか?」
「記憶を封じました。あまり良いことではないけれど……。子供が背負うには重すぎます」
二人の男が一足遅かった、と集落に訪れ、この惨状を目の当たりにした。
そして彼と交わる──
男は平和だった集落の惨状を目の当たりにした。
そしてそこで立ち尽くす子供を目にした。
「ガウェイン将軍!」
男とともに訪れたデイン騎士が叫んだ。彼は元ガウェイン配下のゼルギウス。
彼はガウェインを慕い、師事していた。剣の師と仰ぎ、到達すべき目標としていた。人格者としても尊敬していた。
「将軍! ……よかった、生きておられ……! まさか……奥方を手にかけられたのか?」
そのガウェインが引き起こしたこの惨状。
「おそらく……メダリオンを手にし、負の気によって暴走したのでしょう。お気の毒に……」
そんな彼へ男は静かに声を掛けた。
少し違えた歯車は再び目論んだ通りに回り出す。
メダリオンがこうしてこの夫婦により持ち出され、アシュナードの元から離されたのは想定外のことであった。
──男は裁きを求めていた。
正の女神による粛正。
時が満ちる前に大陸へ戦火を点し、膨れ上がった負の気により、メダリオンへ封印した負の女神を目覚めさせる。それにより誓約の通り、正の女神が粛正を為すのだ。
男は旅の賢者として戦乱の世を求むデインの王子を揺さぶり、王位へ就かせ、実権を握らせ、糸を引いた。
メダリオンには邪神が封印されており、それを解放することにより世を破滅へ導くと吹き込んだ。そのためには負の気を満たすための戦乱が必要であるとも。
アシュナードは力を求めた。
戦乱の世で己の力が至上であると示したい、それが動機だった。
男はそんなアシュナードを装置として用いたのだった。
メダリオンの流出は想定外のことであった。
歯車を修正すべく、アシュナードの手へ戻すよう動いていたが、この集落の惨状を目の当たりにし、機が熟す前に事故が発生する予感を抱いた。
「おにいちゃん!」
とある民家から幼い少女の声が飛んでくる。
「あ、おとうさん! おかあさん!」
あまりに幼すぎてこの惨状を目の当たりにしても悲惨さを理解していないようだ。
「おとうさんもおかあさんも……おねんね?」
舌足らずな口調で横たわる両親の状況を指す。
「……二人とも、とても疲れているんだよ。だから、そのままに」
男はそんな少女へそう説明した。
この少女の言葉により、彼女とここへ立ち尽くしていた少年はガウェインの家族であると理解できた。
少女は、風邪を引くから横たわる両親を家へ連れて行くと言う。そして立ち尽くす兄へ同意を求める。
兄は何も言わない。動かない。目の前のものが見えていないかのように立ち尽くしていた。
「私が連れていこう。家まで案内してくれるかい?」
騎士がそう、少女へ声を掛けた。少女はその声に顔を明るくして騎士を家まで案内した。
まず、ガウェインが搬送される。
騎士は腕に師を抱きながらこの悲劇へ思いを馳せた。明るく案内をする娘の姿がそれを際立たせていた。
「……せめてその眠り、安らかならんことを……」
男は少年の母へ聖句を唱え杖を翳し、弔いをした。
少年は依然、立ち尽くしたままである。
男は己が身勝手であると自覚していた。
裁きを求めれば、この集落より膨大な規模での犠牲が生まれるのに、こうして今目の前にある悲劇に涙を禁じ得ない。
一人の子供が今まさに抱えた絶望に想いを馳せた。
そして女性の手にあったであろうメダリオンが地に落ち、蒼く光る様がそこにあった。
(この方は夫の手から決死の覚悟でメダリオンを奪取しようとしたのだろうか。神術の心得があったようですね。これで……)
催眠の術を施したであろう聖杖が転がっているのも目にした。
状況を確認しつつ、メダリオンを回収しようと彼が手を伸ばそうとすると甲高い少女の声が響いた。
「あ、それ! おかあさんの、だいじなの! ひとに見せたらいけないの!」
家から飛び出してきた少女が男を制止し、メダリオンの前に立った。
「それに触れてはいけな……!」
男は反射的に少女を制止する。しかし少女はそれをものともせずさも当然というようにメダリオンを拾い上げた。
「なくしたらだめ。ミストがもつの」
少女は全く気を乱される様子もなくメダリオンを手にし、大事そうに抱えた。
「君は……平気なのか……」
男は思わず少女に訊いてしまう。
「ね、おかあさんも」
「あ、ああ……」
少女は男の問いには答えず、騎士へ母を運ぶよう訴えた。騎士は半ば呆然としながらそれに応える。
その間にも立ち尽くすばかりの少年。
妹が心配気な表情で様子を伺う。
「大丈夫、大丈夫……」
男はそんな少女に優しく微笑みかけ、少年へ歩み寄り、杖を翳した。
「……君は、見てしまったんだね。……可哀想に……」
魂は語る。
彼の記憶、それは魂の記憶──
男は少年へある術を施した。それは記憶へ干渉する術だ。
少年の記憶から今ここで起きた悲劇を封印すべく施す術。
全ての記憶を封印するわけにはいかない。これまで学んできた生きるための知識などを奪ってしまえば赤子同然となってしまう。そのため、情報の取捨選択を行うのだ。
彼の魂の記憶を辿る。
十にも満たない子供の記憶だ。赤子の時代まで遡っても男が生きてきた年数に比べれば水一滴の量ほどだ。
(……まだ、続きが……これは!?)
彼の魂には赤子の記憶より以前の記憶が存在していた。それだけであれば、転生前のものであることは理解できる。だが、男はその内容に慄いた。
それは男がよく知る人物のものと思われるからだ。
逆回しに再生される記憶。
彼が産道を通った記憶、それ以前からは『アイク』の記憶ではない。
肉体を持たぬまま彼の母に干渉し、この世に生まれ出るための約束を果たした。
長い間導きの塔にて眠り続けていた。
最愛の夫と別れた後、最期まで民に尽くし逝った。
使命を果たし、新たな命を産み落とした後、肉体の限界を迎えた。
その強さ、高潔さで人々を導き纏め上げ、一つの国を創った。
「ヒト」として正の女神へ訴えた。その半身である負の女神を消滅させてはならないと。
彼女は生まれた。
男の唄と女神自身の願いによって──
(……オルティナ……!)
彼女は再び生まれた。
その愛を貫くため。
その剣で男を粛正せんと──
男は理解した。
この魂はかつて愛した妻のものであると。
「彼」は知る由もない。
しかし「彼女」の理念は生き続ける。
今は一人の少年として人格を持ち、違う人生を歩み、とある男女に育まれ生きてきた。
男が彼の記憶をこうして覗くとともに彼の悲鳴が響く。
彼は繰り返し両親の悲劇を脳内で再生し、精神が崩壊したかのように叫んだ。熱した鏝を押しつけられたかのような痛みを訴えて。
男はその熱を取り除くように記憶を選定して塞いだ。
家族のことは認識できるように。生きるための知識は残して。
封じたのはこの集落、ひいてはガリアという土地の記憶。ラグズという種族のことも含まれる。これらの事象は紐付けされて封じた記憶が解放されやすいと判断したためだ。
(……せっかくお友達ができたというのに)
仲良くなった獣牙族の青年のことも、食事を与え救った少年のことも封じられた。
(いつか、会える日が来ることを祈ります……)
男は彼が再び友に出会える日が来ることを祈った。
「いい子だ。そのまま、おやすみ」
そして、術による処置は終了した。
「何をなさったのですか?」
騎士が男へ尋ねた。
「記憶を封じました。あまり良いことではないれど……。子供が背負うには重すぎます」
男は彼の魂から得た記憶を反芻し、己の罪を再認識する。
もう動き出した歯車を止めることはできない。
ただ、裁きを求めた。
そして時を満ちるのを待つ。
「……メダリオンは、どうされますか?」
「今は……この家族へ預けておきましょう。時が満ちるまでは」
騎士の問いへ男はそう答えた。
「ガウェイン将軍の処遇は?」
「……追跡隊の損害はガリア警備兵によるものと報告することです。集落の者へ被害を与えたということで」
「はっ」
男はメダリオンの件については隠蔽工作を行うと言う。
騎士は男へそのこころを問うこともなく了承した。絶対的な忠誠である。
(オルティナ……いえ、アイク。いずれまた私はあなたと相見えましょう。強くおなりなさい。そしてこの愚かな私を……)
──男はその剣で貫かれる未来を夢見た
彼には、母に抱かれた記憶はあった。
しかしいつしか母はいなくなっていた。
彼が最後に母の顔を見た場所──
それは、土の中。
彼の父、グレイルは遁走した。
メダリオンを手にし、膨大な負の気に中てられ、その供給が突如断たれ、気を失い、倒れた。目覚めたときには寝台の上にいた。
グレイルはそれを不可解に思ったが、状況は把握できた。集落の惨状は己が引き起こしたものであり、一刻も早くその場を立ち去らなくてはならないと。
デインの追跡兵に追撃される前に姿を消す。それが速やかに為さなければならないこと。
惨殺してしまった集落の住民を弔い、処理をしている間はなかった。
自宅にある財をかき集める。当座の食料と着替えなど最低限の手荷物を纏めた。
子供たちは健やかな寝息を立てている。もう一つ、最後の仕事を終えたらそんな子供たちを抱え、その地を去るつもりであった。
人、一人分の穴を掘った。自宅の裏に。妻が好きだと言っていた花が咲く場所。掘り終えたところで寝台に横たわるその人の遺体を運ぶ。そしてそっとその身を収めた。
「……母さん」
土を被せようとしたその時、背後から小さく響いたその声。息子の声だった。眠りから覚めて、母を抱える父の姿を追ってきたのだ。
「アイク……」
父はただそんな息子の名を呟くことしかできなかった。
「さよなら」
息子は小さく手を振って母を見送る。
「母さんは、遠い所へ旅立つ。そうだよな、父さん」
「ああ」
涙も流さずに息子は母が二度とは帰らないことを理解して父へ言葉を求めた。
「さよなら」
父が土を被せるともう一度別れの言葉。
その言葉を発した途端、彼は魂を抜かれたかのように意識を手放し倒れ込んだ。父は反射的にその身を支える。
それは先刻この集落へ訪れた賢者──エルランの術によるもの。
せめて母との別れを遂げさせようという配慮だった。母との別れが鍵となり、記憶の再編成が行われる。目覚めれば母に別れを告げた記憶も封印される。
グレイルはそれを知る由もないが、眠りに就いた彼を抱え、そのまま集落から離れることにした。彼が目を覚ましたときにはもう、その目の前に惨状はない。
願わくば、この惨劇を忘れて欲しい。そう思った。
(俺が願うか? そんなことを)
乾いた笑いが漏れる。
(この手が、この手が……)
妻の命、子らの母の命を奪った利き手を見つめ、己の罪を省みた。
そして二度とこのような惨劇を起こさぬためならその腕を失ってもいいと思った。
それから、彼が目覚めるまで三日かかった。
彼は宿場で死んだように眠っていた。
「おにいちゃん……ずっと、おねんね?」
「ああ、静かにしていろ。大丈夫だ」
娘は兄がずっと目覚めないことに不安を示していた。グレイル自身も不安に思っていたが、血色と呼吸に異常は見られないので静かに見守っていた。
「おかあさん、元気かなあ……」
時折、娘が呟く独り言。
今はまだ、真相を語ることはできない。グレイルはそう判断した。子はあまりにも幼すぎる。
「母さんは家を守っている。父さんはその間安心して仕事をしてくるからな。おまえたちもいい子にしていろよ」
娘の呟きには決まってそう返していた。いずれ、娘にも母は死んだという事実は死の概念とともに教えるつもりでいた。生死まで隠し通せるとは思っていない。息子は母の死を理解していた。
「……おはよう」
そして彼は目覚めた。日が沈みゆく夕暮れ時だった。眩しい西日が窓から漏れ射し込んでくる。妹は遊び疲れて眠っている。
「ああ、おはよう」
ずっと息子の様子を見守っていた父は優しく応える。
「父さん」
「なんだ?」
少し遅く起きた朝の目覚めのような表情の彼は父へ静かに呼び掛ける。
「母さんはいないんだよな」
「ああ」
父は息子の問い掛けに相槌を打つのみで応える。
「……おれは、アイク」
「そうだ」
瞳の焦点が合っていないまま彼は己を確かめるかのような言葉を紡ぎ出す。記憶の再編成が為され、それが彼の新たな記憶として起動する。その一歩。
グレイルはその事実を知らないが、惨劇による精神的な記憶障害が生じたのではないかと予測し、彼の様態を探るように、慎重に言葉を選び応対した。
「おれは、どこで生まれたんだ?」
「……クリミア。ああそうだ、クリミアだ」
逃走先に選んだ地だった。しばらくはそこへ定住しようと思っていた。父は彼にそんな新しい記憶を与える。
「そうか。母さんは、母さんはどうしていなくなった?」
グレイルは焦点の定まっていない息子の眼前に手を振り反応を確かめる。それでも彼は首も目線も動かすことなく父の言葉を待った。
「……賊に。賊にやられた。父さんの帰りが遅かったんだ。母さんはおまえたちを守って逝ったんだ」
心音が激しくなるのを感じながらグレイルは息子へ嘘の記憶を与える。
「そうか。母さんは……おれたちを……」
そして定まっていく焦点。
「すまんな」
父の手が息子の頭を撫でる。彼はそれを心地良さげに受けた。グレイルはそんな彼の穏やかな表情を目にし、安堵とともに罪の意識に苛まれた。
「おれが……強くならなくては、ならないな。おれが強ければ……」
そして大きく開かれる瞳。
「おれは、父さんのような、傭兵になるんだ」
そう言い切り、彼は笑みを見せた。憧憬の眼差しを向け。
「おれはアイク。クリミアで生まれた。母さんはおれたちを守って死んでしまった。おれは強くならなくてはならない。おれは父さんのような強い傭兵になる」
まるで呪文を詠唱するかのように彼は一続きにそう言った。
「さよなら」
母へ告げたその言葉。
それとともに辛い記憶と決別し、新しい記憶とともに生きる。それは彼の宣言だったのだろうかと父は思った。
「アイク……」
グレイルは喉の奥から込み上げるものを堪え、ただ彼の名を呼び、彼を抱いた。
「父さん、苦しい」
「アイク、すまん……すまん……」
溢れる涙はもはや止めることもできず、贖罪を求めグレイルは息子に縋った。
息子はその涙の意味を知る由もなかった。ただ、父の姿を少し小さく思えた。
しかしその温もりは心地良いと思った。
そしてその記憶も朧げになっていく。温もりだけが残った。
「母さんは、やさしい人だった」
「そうだろう」
「子守歌を歌ってくれた」
「ああ、おまえはそれでよく眠っていた」
「飯もうまかった。弁当も作ってくれた」
「そうだ。みんなで食べていた」
「ケガしたら治してくれた」
「おまえはよく怪我をしていたな。母さんは心配してた」
父の温もりを感じながら、彼は母の記憶を語る。
その記憶は失われていないことに、父はそれがせめてもの救いだと思った。
そして彼は歩んでいく。
母はいない。肉体は地へ還った。
しかしその愛は彼の中に在り続けた。
神話の時代から生き続ける男にとって、彼が成長し、戦乱の中へ身を投じるまで成長するまで時を過ごすのは、一瞬といえる長さであった。
撒いた種は芽吹き、萌える。火種という種だ。
アシュナードはメダリオン捜索を一時中断した。
メダリオンに関する情報を提供し、王位奪取への手を回した賢者の話に拠ると、手元にメダリオンが無くとも、戦火を点し、大陸中を負の気で覆えば邪神が解放されるという。鷺の民の呪歌による邪神解放が失敗に終わったため、その手段にかけることにした。
アシュナードはそれを実践すべく準備を重ねた。兵の増強、錬磨。身分に関係なく取り立てるという方針を強化し、兵力を高めていった。
その間十数年。
地方貴族の小競り合いなどはあったが、大戦はなく、概ね大陸は平和といえる状態であった。
その水面下では相も変わらずラグズが奴隷や鑑賞物としての用途で取り引きされるなど、淀みは浄化されぬまま。
(これは、かりそめの平和)
アシュナードへ旅の賢者として近付いた男は女神の徒である男。神話の時代から生き続ける男。
男は一瞬の時の流れの中、変わらぬ平和を謳歌する者、変わらず虐げられる者を見つめ、先を見据えた。
(なるほど、愛というものは不平等、矛盾を抱えたものですね)
虐げられる者へ対してはその状況を打破してやりたいと思う。しかしそれは、それで益を得、生き抜く者の糧を奪うこと。
(アステルテ様、あなたが愛という概念を疎ましく思うのはわかります。それを捨て去らねば、痛みに負けて折れてしまう……)
男は、かつてメダリオンによる惨劇を目の当たりにした少年の瞳を思い出す。
(あんな瞳を見たくはない、というのは愛なのでしょう)
しかし、男が為そうとしていること──それは
すべてを無に
(いっそ、すべて無に返せば皆平等。あのような瞳を見ることもない)
正の女神が欲する「秩序」
そのために男は暗躍した。
すでにその翼で飛ぶことはできない。
飛ぶことは赦されないと思った。
そして燃えゆく火種。
舞台装置は稼働した。
デイン王国がクリミア王国への侵攻を開始したとともに──
アシュナードは大陸全土を戦渦に巻き込むことを目標としている。
無論、大国ベグニオンも例外ではない。しかし、即侵攻することはままならない。国力も兵力も規模が格段に違う。侵攻したところで鎮圧されてしまうであろう。
また、ラグズ国家も巻き込むことを念頭に置いていた。
親ラグズ国家であり、ガリアと国交のあるクリミア王国を経由することにより、揺さぶりをかけることができる。
そして隣国であり、文を重んじ武に疎いクリミアは御し易い。
そうしてクリミア王国は陥落した。
王と王妃は討たれ、王弟は人体実験の末、洗脳された。残る王族は隠蔽されてきた存在である王女のみ。
王女は辛くも生き延びていた。
(まだ、貴女には存命でいただく)
王都から脱出したクリミア王女エリンシアは、遠方の護衛の兵が傷付き倒れていく様を目の当たりにした。その兵が倒れゆく瞬間、光が降り注ぎ再び立ち上がるところも目の当たりにした。それは彼女が発した術ではない。
エリンシアは治癒の術を心得はしていたが、遠方まで効力の及ぶ聖杖は持ち合わせていなかった。
これは女神の加護であろうか、と思った。
しかし、再び立ち上がった兵は致命傷を負い、倒れていく。
己が手にする聖杖の効力が及ぶ範囲の兵が傷付き倒れる頃には、デインの追跡兵も目に見える範囲では屍と化していた。
それでも最後の力を振り絞り襲い来る残兵。
彼女は護身用の刃で残兵へ致命傷を与え、力の限り走り、逃げた。
まだ追っ手は見えない。
しかし、すぐにも追撃の手が回るだろう。
彼女は目立たぬよう木陰に隠れ、荒く乱れた呼吸を整えようと脚を休めた。
その瞬間、死屍累々とした戦場の様子と、その手で人肉を断ち切った感触が蘇る。
馬術や剣術の指南は受けてきた。しかし、実戦経験はない彼女。隠蔽された存在故、帝王学はさほど学ばず、処刑の現場に居合わせた経験もなかった。
戦場を目の当たりにした衝撃から嘔吐感を催すほどまで疲弊した彼女はそのまま気を失い、倒れた。
(貴女もまた、運命に翻弄される者のひとり)
気を失った彼女の様態を確かめる男。
(そして、駒の一つ)
護衛の兵に治癒の術を施した聖杖を抱え、男は彼女へ一瞥をくれる。
(これから、ある少年と英雄譚を作り上げていただきます)
近づいてくる足音。それは──
(アシュナードと戦い、勝ち抜いてください。そして、クリミアをその手で奪還するのです)
男はその足音を耳にしつつ彼女から離れゆく。
(彼はきっと成し遂げてくれますよ)
「おい、大丈夫か! しっかりしろ」
足音が止まり、少年の声が響いた。
彼はその糸に手繰り寄せられ、彼女の元へ──
(何せ、彼はオルティナの生まれ変わりなのですから)
男はやがて彼と対面し、その成長を目の当たりにできようことに期待を抱いた。そして、聖杖を手に傷ついた者が倒れた戦場へ戻っていった。
それは愚かな禊ぎだった。
可能な限り治癒の術を行使し、戦場に倒れた者を癒す。デイン兵もクリミア兵も区別無く。
(公平ということは、なんと素晴らしいことでしょう)
彼はそれを続けた。
場所を変え、巡礼僧として戦火が灯りゆくクリミアの地を歩み、傷付いた者を区別なく癒していった。不審者としてデイン兵に捕らえられるまでの間。
そして捕虜収容所へ護送されていく間、悦すら感じていた。
(私は裁かれるべき者──)
そう思い、皮肉な笑みを漏らした。
「希望を捨てないでください、あなた方に助けは必ず訪れます」
牢獄の中でともに虜囚となった者へ男が掛けた言葉。
「ありがたやありがたや……」
虜囚は女神像を崇めるかのように男に手を合わせた。
「わしにはかみさんと食い盛りの子がおるんじゃ……。わしがここでくたばったらどうするんじゃ」
戦士というより農夫といった風貌の男だった。その純朴そうな貌からそれが伺える。
「聖者様、あんたは旅の途中で戦場に出くわして、傷ついた兵隊さんたちを癒してたんだって? それからそれを続け、わしらも癒してくれた……」
「はい」
「そんな、偉い方が捕まるなんて……。でも、デインにとっちゃあ、クリミア兵の治療をしていたら敵と見なすのかあ……」
落胆したような考え込むような表情で虜囚は溜息をついた。
「でも、あんたはデインの兵も治療してたんじゃろ? デインのやつらもそれを考えてくれてもよかったのにな……」
「あなたはクリミアの方ですよね? デイン兵への治療行為を好く思わないのでは?」
「いや……傷ついて痛がるのはみんな同じじゃ……」
深く溜息をつく虜囚。
この虜囚は、戦士には見えない風貌の通り、元は農村出身で、クリミアがデインに侵攻されたと聞き、志願兵となったとのことであった。
「武器を持って戦えばみんな、痛いんじゃ。クリミアのために戦おうとしたらデインの誰かを殺すことになるんじゃ……。わしはもう、人殺しなんじゃ……」
男は思う。
これが愛。
この虜囚は気付いている。
祖国愛という愛を掲げ、武器を取り、それが誰かの命を奪うことになることを。
決して天秤の針は等しくならない。
このように、牢獄にて男は問答を繰り返していた。
虜囚と語り、そして己と語り。
術を行使すればこの場を脱することも容易いが、敢えて脱獄することはなかった。
その光が射し込むまで己の内に問い続ける時間とした。
「我らはクリミア解放軍。捕虜を解放しにきた。脱出の手筈は済んだ。さあ、意志のある者は牢獄を出るんだ」
そして現れる若き統率者。
男は魂を震わせる。
着実に、その道を歩み、先を進んでいく様。
(アイク、大きくなりましたね)
男はかつて悲劇を目の当たりにした小さな少年が、こうして成長し、勇ましく戦渦をゆく姿を目にし、感慨を覚えた。
男は彼へ問うた。
「あなたなら、目の前にいる怪我人を放っておくことができますか?」
ただの巡礼僧として。
彼は、この状況下でデインに楯突いてクリミアへ味方する巡礼僧と名乗る男を不審者と見た。そして何故クリミア兵を救助したか問う。それに対する男の問いだった。
(人を見ようとしているのですね)
彼は駆け出しの統率者として、人を見定めようと目を養っているところだった。男の目にもそれが伝わっていた。
「……通常ならできない。だが、この状況下で、命と引き換えにやるとなると……悩むところだな」
彼は、その行為が利に反するということは理解していた。
「ふふ、正直なお方だ」
それを包み隠さず口にする彼に対し、男はそう称した。
「だけど……本当にその場に居合わせれば、あなたのような方は迷いませんよ。怪我をしている者を見れば反射的に体が動く……そうでしょう?」
穏やかな口調で男は彼の心をそう断言し、同意を求めるように問いかけた。
彼は相槌を打つこともなく、男の素性を再び問い正す。
男もまた、それに答えることはなくその場を立ち去った。
捕虜解放を果たしたクリミア解放軍はベグニオンへ渡航すべく、一度は避難したガリアからクリミア方面へ向かった。港町トハ入りを果たす。
ガリアから王の補佐官であるライが案内人として派遣されていた。
ライが乗船の手配を済ませ、乗員らの準備が済み、順調に事が運ぶと思われた。しかし、デイン軍が町全体を包囲していた。だが、この段階では隠密行動を行い、速やかに乗船すれば逃げ切るように出航できる。
そんな折、ライが一般町民と接触し、獣耳を覆い隠していた外套が外れ、ラグズであることが町民へ露呈してしまった。
そして騒ぎとなる。
町民らはラグズへの差別心を剥き出しに、ライへ殴る蹴るなどの暴行を加えた。
ライはただ耐えた。この隙に一行が港へ向かえるようにと時間稼ぎとして。この騒ぎではすぐにデイン兵が向かってくる。一行が港へ向かうには、こうなってしまった以上このときしか隙はなかった。
「だが、この状況下で、命と引き換えにやるとなると……悩むところだな」
彼は確かにそう言った。
彼はそれを分かっていた。
利害を優先させるべき場面において、それを履行すべきだということは。
しかし彼は迷うこともせず。
「ライの奴……化身していないってことは、戦う意志がないってことだろ!?」
ライを置いて速やかに港へ向かうべきと諭す、ライの部下らへ彼は激昂しつつその状況を指した。
「一方的にやられるのを見てられるか!!」
彼は行く。
それを青さと、愚かさと称す者はいる。
「おまえたち、正気か? この国の王はデインに殺されたんだぞ? そのデインにおまえたちは協力するのか……!?」
彼は友を庇い、敵国へ与しようとする町民らを糾弾した。
それは彼の正義だった──
強く、輝ける、確かな意志
その正義に反する者は問答無用で処すという。
(やはり……あなたは……)
男はその光景を目にし、笑みを浮かべた。
(だからこそ、あなたに惹かれる、焦がれる。その強く輝く美しい魂)
そして胸に手を当て、俯く。
(この爛れた心には痛いくらい)
それでも一度始動させた歯車は止めない。
決めた道筋を通すため、男は奔走していた。
クリミア解放軍をベグニオンへ渡航させ、ベグニオンの力により兵力を増強させ、デイン打破への道を──
男のトハ入りもその目的遂行のための一環であった。
デインへ間者として送り込んだ「漆黒の騎士」へ指示を与え、彼らの渡航を促した。
「──ということがあったのじゃ」
ベグニオン帝都シエネ、マナイル大神殿にて。
神使サナキは悪戯が成功した子供のような顔で男へある出来事を報告した。
「サナキ様、あの者のことは気に入られたのでしょうか」
男はそんな彼女を愛おしく見つめ、笑みを湛えて耳を傾けていた。
「セフェラン、おぬしの見立てに間違いはなかった」
彼女はその出来事と話題の人物のことを思い返しながら評していく。
「あやつはまことに馬鹿である。無知である。それ故に怖いものを知らない」
男は穏やかな笑みを崩さず彼女の話へ耳を傾ける。
「だからこそ、強い。確かである」
「──お気に召されたようですね」
男がそう返すと彼女は仄かに頬を紅潮させて少し苦い笑みを浮かべた。
「馬鹿者。わたしを子供扱いしたあやつなんぞ……」
男は正の女神の裁きを求める徒として暗躍する。
そして、ベグニオン宰相という顔も持つ。それは男の目的のための手立てに過ぎないが、神使サナキへ抱く愛情は偽りのないものであった。何しろ、彼女は彼の子孫にあたるのだから。
それがなくとも、幼い彼女がその腕で泣き止んだときから親心のような情が芽生えていた。
男が各地の情勢を伺うため視察するといい、席を空けている間、クリミア王女エリンシア及びクリミア解放志願兵と王女の護衛の一団がベグニオンへ到達した。
護衛を請け負った傭兵団の長アイクは、己がクリミア王女の身元を保証すると神使へ訴えた。
しかし、市井の出身である彼の訴えは不確かなものとして取り下げられた。
「平民はその貧しさゆえ、金を積まれれば、どんな話であってもその片棒を担ぐのであろう?」
という理論であった。
しかし、彼は己の信念から嘘をつくことはないと訴える。
「俺たちとエリンシアの間にある信頼を侮辱するようなことは許せん」
そしてその信念を強く推した。
サナキは彼らの動向や身元をセフェランからの報告で把握していた。そのことから彼らの身元を確かなものと認めた。元よりそのための問答であった。
そしてこの場は収束すると思いきや、サナキがこの問答を余興と称したところ彼が激昂した。
「人の苦労を笑い話にして、何が楽しい!?」
エリンシアは国も家族も全てを失った。その境遇を知った上で不安を煽る問答を行ったことに彼は怒りを示したのだ。
しかしサナキはベグニオンの権威を示し、その力無くしてはクリミアの再興はならないと諭し彼を説き伏せた。
高圧的な物言いであった。
しかし、これはその場を収める口上であった。
本来ならば、彼は不敬罪で死刑となってもおかしくはない言動を犯した。それを神使そのひとであるサナキがその場の収束を以て防いだのであった。
「奴の強さ……何も持たぬ故、こうして力添えしたくなる、そのような力というか。興のある奴め。そう言えばまた激昂するかのう」
年相応の少女のような笑みを浮かべ、語る彼女。
「いいえ」
そんな愛らしい彼女へ男は笑みを返した。この時ばかりは心からの安らぎを感じていた。
「しかしわたしは許さぬぞ。ただの子供と見間違え、気軽に背負ったことなど」
ベグニオンへ渡航中の彼らに海賊船から守られたときのことであった。彼女は甲板へ出歩き足を挫いたとき、彼に背負われて術者の元へ搬送され治療された。
そのとき彼は彼女の正体を知らず、ただの子供として扱ったのだった。
「……やはり、私の見立てたとおりでしたでしょう?」
「まあ。まことに無礼であり、不躾であるが、為そうとすることは実のあることである。間違いはない」
男は微笑む。
己の子孫である彼女との愉しいひととき。
彼女も彼のその魂を認める──
(私は遠くない未来、彼の剣に貫かれて死ぬのです。それが望みなのです。サナキ様、どうかその時は泣かないでください)
彼は歩んだ。無限の如く続く回廊を。
この塔は外部から目測した規模と、内部の規模が明らかに乖離していた。
これは女神の奇跡であった。
案内人であるもう一人の女神に拠ると、使命に導かれ確かな心を抱き歩むならば足を踏み外すことはないと。
しかし、畏怖を抱く者であれば心を奪われ、道に迷い果てるだろうと。
「人はいつでも何かを求めて動いているわ」
傍らの女神は語る。
彼女はヒトの欲求を全て肯定する。
奪い、殺すことすらも。
「生きている限り挑んで、挑んで、それでだめなら挑みながら死んでいけばいい……」
彼女は混沌・自由の女神ユンヌ。
伝承では邪神とされ、永く封印されてきた。
その封印は解け、『暁の巫女』を拠り代に彼を導く。
かくして男の野望は達せられたのだ──
彼、アイクのクリミア奪還へ至る軌跡を経て三年。
クリミアはデインの統治権を放棄していた。デインはベグニオンへ統治を委ねられ、駐屯軍が圧制を敷いた。
それを打開すべく、義賊集団が解放活動を行った。『銀色の髪の乙女』と称される者が旗頭となり、デイン前王の遺児を擁立し、駐屯軍との抗争の後、国権を勝ち得た。
一方、クリミアでは内乱が発生し、女王として就任したエリンシアは王座を追われる危機に瀕した。
しかし、腹心が秘密裡に依頼したグレイル傭兵団の働きにより危機を脱し、内乱は鎮圧し危機を脱したのであった。
──それらは種火に過ぎず。
ラグズ連合がベグニオンへセリノスの大虐殺についての謝罪を要求した。しかし、元老院が使者を葬ることにより斬り伏せた。それにより戦乱が勃発したのだ。
謝罪を要求し、ベグニオンへ侵攻したラグズ連合軍。
ベグニオン元老院と結んだ『血の誓約』により進退窮まったデイン軍。
元老院の手により監禁され陥れられ、ベグニオン奪還をはかる皇帝サナキ率いる皇帝軍。
それらが退くことなく歩みを続け、一つの戦場で合間見えることとなった。
こうなれば戦場で生まれる負の気は膨大となる。
邪神と称されてきた負の女神が目覚める規模だ。
そしていよいよ目覚めの刻は近づく。
正の気が強い者が倒れ、その兆しを見せる。
「解放の呪歌を……早く……手遅れにならな……うちに……」
かつてメダリオンの守り人であった少女ミストが、戦場にて警告を発する。
彼女の体質は特異であった。
遠く聞こえる音を察知するなどの能力。ベオク離れした能力といえた。そして何よりも、メダリオンを手にしても狂わされないほどの正の気。
それは彼女の母も同様であった。
彼女の母は神の魂を宿した子を産む母体となった。
身体はそれに耐え得るよう造り変えられる。それとともに、他の能力が付随する。
産むためには胎を有してなくてはならない。必然的にそれは女という性でなくてはならないこととなる。
そしてその胎は受け継がれる。
そうして、メダリオンを保持するという使命も継がれた。
彼女は遠く聞こえる声を察知する。
「そう、ミスト。お願い。伝えて……」
訴える声。
それは負の女神による警告──
負の女神はメダリオンの中から訴える。
正の女神への談判が可能なように、負の気によって己を目覚めさせてはならないと。
解放の呪歌はオルティナの名を持つ者が謡った時のみ効力を発揮するという。
しかし、オルティナの子孫であるサナキが旋律を口にするも効力は発揮されなかった。
その最中、デイン軍指揮者であった『暁の巫女』ミカヤが現れた。彼女は予知の能力を持ち『銀の髪の乙女』と称されていた者である。その能力で求心力を得、デイン軍指揮者となった。
呪歌は旋律と歌詞で構成されるもの、と彼女は指摘する。
彼女は彼女ならざる口振りで、その唄を生まれる以前から知っていたという。
そして、女神は目覚めた──
「……あんたの考えも極端だな」
回廊を歩み、彼は負の女神ユンヌへ語り掛ける。
彼はこれより、正の女神アスタルテの元へ向かう。
ユンヌは「解放」の呪歌にて目覚めた。
しかし、アスタルテはかつて交わした盟約を履行せず、問答無用で大陸全土のヒトを石と変えた。
幸い、まだ石化せず残った者たちがいる。その者たちでアスタルテの膝元である『導きの塔』へ向かい、ユンヌともども直談判へ向かおうというのだ。
彼は言う。
アスタルテは人が完璧でなければ許さない。
ユンヌは人のあらゆることを肯定し、それを楽しんでいるようであると。
「あんたとアスタルテの真ん中くらいの女神はいないのか?」
中庸であれと。それが彼の正直な感想であった。
「そうね、かつては……」
ユンヌは半身であるアスタルテとかつてひとつの身であった頃を思い出し、郷愁を含んだ顔を見せた。
私たちはひとつだった
一人の少女だった
願われて女神となった
だけどひとりだった
でも、みんな、私を悲しませまいと
姿を変えて私に近付いてくれた
その変化は、喜ばしいものであったはずなのに
その変化──進化を続けるからこそ
優劣を主張する
それが争いを生む
それが悲しかった
そして導き手を望んだ
そんな願いを謡う唄を聴いた
彼女は声には出さず口ずさんだ。
かつて、一人の女神であったとき、エルランに贈られた唄を。
すべての嘆きを受け止め
母のように胎へ返す
その御身には炎
双剣は手足の如く
天を舞い、月のように太陽のように
嘆きも希望とともに炎に乗せて
燃やし、そして芽吹く
我ら愛しき大地へ──
(ねえ、アステルテ、あなたも知っていたじゃない。愛というものを)
彼女は心の中で半身へ語り掛ける。
(だからオルティナを生んだのでしょう?)
それはエルランが女神アスタテューヌへ贈った物語上の女の名。強く優しき導き手。その気高さで民を正しく導く英傑。
(この唄が好きだったから)
アスタルテはオルティナをベオクの剣士として具現化し、ユンヌを討とうとした。
(それは、愛……恋慕だった)
エルランへの──恋慕
(それを以て私──半身を滅ぼそうなんてどうかしてる)
ユンヌは振り返り、彼を見る。
オルティナの魂を有し、一人のベオクとしてまた違う人生を歩んできた青年を。
(アイク、私はあなたを愛してる)
その魂には彼がベオクとして歩んだ人生が刻まれていた。
オルティナとして民を愛し導き、一人の男を愛した人生。
アイクとして両親の元に望まれ生まれ愛され、家族のような団員と過ごし、様々な人間と関わった人生。
彼女はその魂を愛した。
(エルラン、あなたも見てきたでしょう?)
彼女は回廊の先にいるであろう男を想う。
歩みを進め、待ち構える女神の徒を御し、いよいよ登り詰め、最後の女神への扉を守るのはその男。
(あなたも愛しているはずでしょう?)
それは、「ヒト」そのものの象徴。
その魂はヒトとして生きた。
女神の願いは、ヒトとして生きること──
「……それでも、行くしかないだろ」
彼はそう言い歩んできた。
それがヒトとしての歩みだった。
もがき、苦しみ、嘆こうとも。
それが、彼の軌跡だった。
そして邂逅を迎える。
すべての嘆きを受け止め
母のように胎へ返す──
女神に捧げられたある男の唄。
その男は理想に破れ、嘆き、耐えきれず破滅の道を歩んだ。
だが、その男の唄の主役は具現化し、男の理想をなぞってきた。
男はその気高さ、強さに憧れた。
そして嫉妬すら抱いた。
(そうして理想に押し潰されるのです……。私はとても脆弱で愚かだった……)
「強いのですね、あなたは。けれどすべての者が……あなたのように強いわけではない……」
男は語る。眼前の青年へ向かい。
彼は男を乗り越えようとする。
正の女神へ直談判し、ヒトの未来を勝ち得ようと、男が塞ぐ扉を開くため。
男は己の生命を鍵にした術で女神の部屋への扉を封じていた。彼らが女神へ対峙する──則ち、それは男が死を迎えるということ。
「あんたを救う、などということは俺にはできない。したくもない。あんたのしたことは許されざることだ。
ただ、最後……あんたが生きたいように生きろ。それだけは俺が見届けよう」
そうして彼は剣を掲げ、男へ向ける。
男は術書を手に詠唱を始める。
「ありがとうございます、アイク」
涙が流れそうなほどだった。男は死の淵へ追い込まれようというこのときが安寧の時だと思った。
そして、生きている──と思った。
何故、術書を手に彼の剣へ抵抗しようというのか。
簡単な答えである。
死にたくない
ただその想いのみ。
彼の剣に貫かれる死を望んだ。しかし、死の淵に立った今、生きようともがく。
その矛盾。
「生きている限り挑んで、挑んで、それでだめなら挑みながら死んでいけばいい……」
それは負の女神の言葉。
──何が望みで生きるのか。
(ああ、このようなことにすら気付かなかっただなんて)
生きる、ということ自体を望み、ヒトは生きる。
(だからあなたたちはその扉を開けようとする)
男の詠唱が終わる。
光の粒子が空間を歪めるかのように圧縮され、解放する際の衝撃により彼を分解せんとする。
彼は進む。確かな意志を持ち。
己が分解されぬよう、ただ前を向き、見据え、突き進んだ。
ただ己を見失わないこと。
それが彼の力の条件だった。
彼はユンヌの加護を受けていた。神の将として戦うための力を授けられた。それは、通常のベオクを越えた力を引き出す。
この力は彼のみ耐え得るものである。
負の女神であるユンヌが授ける力、それはメダリオンの力とほぼ同様のものだからだ。他の者がその身に受ければ精神が耐えきれなくなるであろう。
他に耐性があるのはユンヌの依り代であるミカヤのみだ。彼女は行方不明とされたオルティナの末裔、サナキの姉にあたる。従来の『神使』の条件を満たす者であった。
他の者へは武器のみに加護を付与していた。
彼は武器──神剣ラグネルへの加護とその身へ加護を。
その身へ受けたのは加護というより呪いともいうべき力であった。
負の気そのものを身体に取り込む行為。
それはかつて彼を蝕み、多大なる負荷を掛けた力。
それを使いこなすため精神鍛錬を欠かさず、制御してきた。幼い頃からそれを身に受け、溜め、慣らしてきた。
正の女神の魂から生成されたその魂。負の気はそれと一つにならんとし、彼の魂へ吸着されゆく。
クリミア=デイン戦役の際、その力を以て、メダリオンを所持し力を得たデイン国王アシュナードと対峙した。
その戦闘の後、メダリオンへ負の気を戻し、彼への負荷は解消されたが、再び蓄積し、そしてユンヌの手により完全に還元される。
彼の戦いは、身体能力の戦い、というより精神の戦いであった。
(セフェラン、俺は耐えなければならないんだ。痛みも、苦しみも俺自身が背負って、受け止めて、乗り越えて……自分のものにして生きていくんだ……!)
剣を握る手に力が籠もる。そして心中で男へ語り掛ける。
光の粒子の衝撃は彼に付与された負の力──蒼炎が雲散霧消する。彼が行うのはその力に飲み込まれないようにすること。
痛みが蘇る。
切り裂くような、押し潰すような痛み。
こうして負の力を纏い、悲劇を招いた者がいる。
それは彼の父親──
彼はその記憶に耐えていた。
それはよく晴れた日のこと。
父はいつも通りの傭兵業へ出掛け、彼は父の帰りを待ち遠しく思いながら母と過ごしていた。
小さな足で窓辺へ歩み、小さな手で窓枠に触れ、見えない父の姿を望む。
父は厳しかった。
彼が幼い頃より手を抜くことなく訓練を施した。反面、それは彼の父の愛であった。彼もそれを理解していた。
父は強かった。
いつもその背を見つめていた。広く、大きな背中。獣へ化身するラグズと渡り合い、征する剣の腕。
父は優しかった。
同年代の友人がいない彼を気にかけ、森へともに足を運び虫や小動物の名前を彼へ教え、遊ぶ。肩に担がれたときの視線は何物にも代え難かった。
そんな父が好きだった。
(父さん……どうして……?)
そんな父が得体の知れない化け物のように暴れ、狂う。
青い空、煌めく太陽。それにそぐわない光景が彼の眼前で繰り広げられた。
未知の兵隊の死体、見慣れた住人の遺体。それらが集落の中央に積み重なるように倒れていた。
その惨状を招いたのは他の誰でもない、彼の父だった。
光が眩しかった。
だからそれは現実なのだと分かった。
みしみしと胸の奥に皹が入り、粉々に砕けるような感覚。地と足が同化し、一歩も踏み出せない。
現実を現実と認識しても受け入れられない。
しかし、その間にも彼の母が聖杖を掲げ父の動きを止めていた。そして母はそのまま父の元へ走り──
(母さん……?)
母の手が父から元凶であった物体を奪取していた。
それとともに父の剣は母を貫いていた。
それは──死
手を伸ばし、母に触れた。
ぽっかりと開いた穴。
どくん、どくん、ながれる、あかい、あかい、いろ
うごかない、わらわない
「あ……あ……っ」
涙は流れない。ただ全身が震える。奥歯がかちかちと鳴る。
さむい、くらい、つめたい
「あああああああああああっ!」
彼の絶叫が屍塚と化した集落に響いた。
とうさんが、かあさんを、ころした
その事実。
敬愛する父が、母を殺した。
ただそれだけで十分だった。
ただそれだけで彼は絶望できた。
何も知らない、無垢な、幼い彼が。
彼の父は彼の世界だった。
そして、彼の父の所業は彼に対する世界の裏切りだった。
それは失われた記憶だった。
その惨状を憐れんだ男が彼の記憶を塞いでいた。
その記憶は男と対峙する前、彼の因縁の相手──『漆黒の騎士』との対決の後蘇っていた。
漆黒の騎士は彼の父を殺した。
彼は父が討たれてから復讐を糧にしていた。
それは生きる力ともいえた。
(たとえどんな悲劇であろうと、悔やまれることであろうとも、俺が今、ここにあるということは、それらは俺を形作るもののひとつ)
辛い、苦しい、憎い
それは負の気の一種。それに飲み込まれてしまえば己を見失い、精神が崩壊する。
だが、それは無にすることはできないもの。
(俺は、俺でしかない……!)
光の壁を破る。跳躍する。
体感にして十数年分の距離と思えた。
しかし、それは一瞬のこと。
その剣が男の胸を貫く──
「アイク、あなたは……いまどんな気持ちですか? あの時の痛ましい記憶にあなたは耐えていけるのですか?」
それが男の問いだった。
(何であろうと受け止めて、生きていくしかないんだ)
それが彼の答えだった。
「セフェランっ! しっかりせよ!! ……目を開けるのじゃ……っ!」
横たわる男へ泣き縋る一人の少女。
彼女はベグニオン皇帝として常に威厳を湛える皇帝サナキ。しかしこの時ばかりはただ悲しみを湛える少女だった。
男は息も絶え絶えに呼び掛けに応じた。それは風前の灯火。
サナキが男の傷の手当てを所望するもユンヌがそれはできないと言い切る。
女神の部屋への扉はこの男の命と引き換えに開く。
「……だって、あなたは最初から死ぬことを望んでいた……」
そして男の願い。
「泣かないでください、サナキ様」
いつか男が心中から語り掛けた言葉。
こうなる未来は予測していた。望んでいた。
彼女は最後まで男を信じ、その動向を己等のためのものと思ってきた。
「……全てあんたが裏で糸を引いていたのか?」
男との対決の前、彼は最後通告のようにそう問うた。
「はい」
男は迷いなく肯定した。
「皇帝だけじゃない、多くの者があんたを信じていた」
静かに響く声。冷たさすら感じさせるその響き。しかし底知れぬ怒気が含まれていた。
「もう一度だけ聞く、あんたはそれを全て裏切ったんだな?」
切っ先がかつんと床石に触れる。
「はい」
水滴の落ちる音のように響くそれを耳にし、男は淀みなく答えた。
水滴は溜まり、その重さで滑り落ち、儚く落ち消える。
闇に光る一滴の水。
もう、弁解する余地もない。する必要もない。
(私はその剣で裁かれたかった)
眼前の青年の姿はかつて愛した女の姿に。
(なんという甘えでしょう)
男は語った。
女神アスタルテを目覚めさせ、世界を裁く。
そのために大陸全土を巻き込むほどの戦乱を勃発させた。
それが己の望みだと。
サナキはそれを信じ難いと膝を着き放心すらした。
それは──裏切り
彼はその様子を目にし、父が母を殺害したという事実を脳裏に蘇らせた。
己の世界に対する愛する者の裏切り。
それがどれほどの絶望であるか彼は識っていた。
男は語らない。
何故、女神の粛正を求めたのかその理由。
それは、限りなく純粋に人々を愛し、その人々に裏切られたから。
「……セフェラン、もういい……。そなたと過ごしたたくさんの時間が……嘘でなかったなら……わたしはそれでいい……」
命の灯が消えゆく。
それを惜しむようにサナキは想い出とともに男を慈しんだ。
たとえ、その結末が、事実が、
悲しいものであろうとも
信じ難いものであろうとも
ともに在った時だけは紛れもない、真実であった。
「ありがとうございます……」
男は彼女の手の温もりを感じ、弱々しく、しかし幸福そうに礼を述べた。
「では……もう失礼します……」
そして最期に最愛の女の名を述べ、その生涯に幕を閉じた。
「……どうしたの、アイク」
その光景を見つめていた彼の頬に伝う雫がひとつ。
ユンヌがそれを指摘した。
「なんだろう、これは」
彼はその雫を己の指で拭う。
理由は説明できない。そんな涙が流れた。
「泣いているのは、俺じゃない」
彼は零れ落ちるような想いを留めるように胸を押さえた。己であって己でないような何かが胸の奥に棲んでいると感じた。
「ええ、あなただけどあなたじゃない」
ユンヌは郷愁を漂わせた笑みを浮かべ、彼へそう言った。
彼女は知っている。その正体を。
〈エルラン、おつかれさま。あなたはもう裁かれた〉
温かな女の声が響く。
〈あなたは許されざることをしたけれど、それでも私はあなたを好きだから。あなたと過ごした時間は大切なものだから。それだけは裏切らない〉
彼は意識の中に立っていた。
そこは暁の空が広がる無限の大地。その上に一人立つ。
頭上に女の声が響く。
居る。居るのだ。己の中に。
それは理解できた。
その女は、あの男を──愛していた。
「……それでも好き、なんだな」
そして彼は彼の意志で呟く。
「幾ら裏切られようと、捨てられない情がある」
その目に映るのは男の亡骸に手を重ねる少女の姿。
「俺はあいつを許せないし、許すつもりはないが、憎いとは思わない。あいつという存在があったということは忘れない」
扉が開く。目映い光が空間を埋めゆく。
「行こう」
その手が胸を叩く。胸の奥へ呼び掛けるように。
「ええ、行きましょう」
ユンヌもまた、彼の胸の奥へ呼び掛ける。
「……さよなら、エルラン……」
彼らが歩み、アスタルテの元へ消えていき、最後に一人残ったユンヌは振り返り、別れの言葉を告げた。
きっとその願いは成就する
私たちはひとつになれる
あなたが謡った唄のように
気高い理想がそれを成し遂げてくれる
それを成し遂げるのは──
金色の剣を手にした勇者は女神の元へ。
その先の未来を信じて。
─続─