Like or Love?確か、あいつは年の割には落ち着いていて、親父臭いとまで思わせるほどの奴だったはずだ。口調、振る舞い、態度、そのどれもが。
見目もまだ成長途中といった感じだが、骨太だ。青臭い、雄の匂いがしていた。将来はあの厳つい父親に似るのだろうか。しかし、髪の色、瞳、それらは母親似だ。昔、あいつの両親を見たことがある。よく見れば、母親に似ていなくもない。瞳は存外に大きいからだ。顔立ちも整っている方といえばそうだ。
正直、世間知らずの子供だと思っていた。
一般的なベオクと変わらず、ラグズを蔑むのか、「半獣」などという蔑称を用いた。しかし、こちらが指摘するとすぐに改めてきた。これは面白い奴だと思った。
その後、興味を引いてやまない。
どうやら幼少時の記憶がないらしいあいつには言っていないが、自国で昔、顔を合わせたことがある。とても朗らかで素直で可愛らしい子供だった。元気一杯で、腕白坊主という言葉がよく似合った。それでいて甘えたがりだ。母親の服の裾をよく掴んでいた。
こんなことを今言えば、頬を膨らませるだろうか。
そして、あいつは任務として住民からの暴行に耐える自分を庇った。デインから追われ、隠密行動中にも関わらず。
そんなあいつに若さを感じた。
そして惹かれてやまない。
明らかに、あいつに対して好意を抱いている。
ただ、あいつは男だ。
それは友情、これは親愛という名の情。
そして「あいつ」と再会した際、違和感を覚えた。まず、匂いが変化していた。鼻腔を擽る甘い香り。ベオクには感じないであろう範囲のものだが。ベオクも無意識化で感じて、それにたぐり寄せられているのだが、ラグズの中で特に鼻の利く獣牙の彼は明確にその匂いを嗅ぎ分ける。
「よう、アイク、久しぶり」
「ああ、ライ、来てくれたのか」
久々の再会だ。
「あいつ」ことアイクは、以前と違い、将軍位の軍装を纏っていた。小さな傭兵団の長であったが、デインに襲撃されたクリミアの姫を保護して以来、成り行きで爵位を受け、クリミア解放軍の総指令官となった。
ライは、アイクらの当初の亡命先であった自国ガリアにてアイクの案内人となった。それ以来の縁である。
ライはアイクらがトハ港から出国する際、デインの追跡をくい止めた。それから顔を合わせていなかった。季節を二つほど過ぎたくらいだ。
ガリアがクリミア軍へ兵を派遣する手筈が整い、こうしてアイクと合流したのである。
ライは直にアイクと対面して違和感を覚え、耳と鼻をぴくぴくと動かしていた。
(何だろう?)
そんなライを凝視するアイク。
「おまえ、風邪でもひいたか?」
声の調子が違うのだ。それにしても掠れ声というわけでもなく、むしろ高い調子の声になっている。
「いや」
アイクは首を横に振る。
「元気か?」
「ああ」
端的にライが問いかけるとアイクは一言相槌を返す。
「変わりはないか?」
「……あるといえばあるか」
常套句で問いかけてみると、引っかかりを覚える言葉で返る。ライは微かに耳を動かした。
そして、
「俺、女になった」
耳を疑う言葉。
冗談かと思った。
しかしそれは冗談ではなかった──
それはアイクらがガリアから渡航してベグニオンへ着き、神使より直接依頼を受けたときのことであった。
商人に扮した不穏な一団がいるという。その積み荷を押収するという任務にあたった。
「……まったく聞く耳を持たないな」
敵はラグズを差し向けてきた。それは自我を失い狂っている。化身を解くことなく獰猛な獣の姿を留めていた。同じ獣牙の者が働きかけても応じない。ただ攻撃を仕掛けてくるのみ。
仕方なく、その者の命を奪った。
そして一団を壊滅させると無事に積み荷を押収する。
アイクは団員に積み荷を任せると、命を奪ったラグズの元へ寄り、神妙な面持ちになった。死を悼むとともに思案していた。
「こいつも連れ帰って、神使へ報告した方がよくないか?」
傍らの参謀へ問う。
「それは任務外のこと。報酬を上乗せできるかわかりません。積み荷を運ぶので人員は手一杯ですが」
参謀セネリオは冷徹にそう助言した。
「……わかった。俺が」
そしてアイクは己の倍はあろうかという大きさのラグズを身一つで運ぼうというのだ。いたって真剣な表情だ。神使へ報告すべきと思うほか、弔いたいという気があった。
「こいつ……妊娠していたのか」
ラグズの腹に触れ、様態を確認した。そして、運びやすい体勢を考えようと抱え、ラグズの腹を圧迫したそのとき、ラグズの口から粘液状のものが流れ落ちた。
「……アイク!」
粘液状の液体は醜悪な臭いを放ち、大量に流れ落ちる。アイクはそれに塗れた。揮発し、蒸気のような気体が沸き起こった。アイクは噎せ、思わずそれを吸い込んでしまった。
「それを吸い込んでは、なりません……!」
セネリオは本能的に危機を感じ、口を塞ぎつつアイクへ叫んだ。しかし時すでに遅し。アイクは倒れ込み、意識を失った。
目が覚めたときにはベグニオン宮廷内客室にいた。ベグニオンへ辿り着いたときから滞在している部屋だ。
「ん……」
木戸が閉められ、日が遮られているが、漏れ差し込んでくる光で昼間なのだと思った。そんな光で時刻を察するアイクであったが、身体に熱っぽさを感じ、気怠かった。
己の身を抱くように身を縮めた。そして違和感を覚える。己で触れたその身の感触が今までにないものだ。
「なんだ……?」
胸部の張りを覚える。身を捩り、俯せになると痛みを覚えた。
「……っ!」
思わず跳ね起きる。
「…………」
言葉を失った。目線を下げるとそこには山と成す己の胸部があった。おそらく脂肪が詰まったそれは──乳房だ。
信じ難いと思いながらも、確かめるべく肌着を捲り、胸を裸にする。それは確かに女性と何ら変わりのないもの。両手でその双丘を掴み、揉む。馴染みのない感触であるが、弾力がありながらも柔らかい。快い触感だ。
心情的にはその逆だが。
アイクは不可解な己の身体の変化に顔を強張らせた。
何度も確かめるように己の胸を弄る。潰すように乳頭の周りの肉を指先で摘む。
「……っ」
少し張りを感じる。何か別の生き物のようにふっくらとその先端は立っていた。薄桃色に色づいた乳輪がそこを主張するようだった。
「なんだよ、これ……」
指の腹で乳頭の先端を撫でる。男体に申し訳程度存在するそれとは明らかに異なるもの。
アイクに性交渉の体験はなかった。異性の裸を積極的に覗こうという趣味もない。今までにこうしてまじまじと女体を眺めることなどなかった。
ただ、母が子へ授乳するということは当然ながら識っている。乳房というものはそのためにあるのだと。だから乳頭が小指第一関節の半分程の大きさなのだと、まじまじと己のものを見て思い知った。赤子がこれを吸うのだと。
摘んだままの乳頭の先端、窄まったそれ。そこをもう一度指の腹で擦ると、刺激を感じる。思わず顔を顰めた。
そうしながら、任務の際手に掛けたラグズをうっすらと思い出した。腹が張っていたので妊娠していたであろうそれ。
それを思い出しながら、乳房を触っていると、そのラグズの意志が取り憑いたのかとすら思える。そして胸が締め付けられる想いを感じた。
自然と、腹をさすり、感じるそれ。
そのまま指を下肢へ。
「……ない」
いつもそこにあるものがない。脚に当たる感触を感じないので、そうだと思っていたが、触って確かめると改めて思い知らされた。
失われた陰茎と睾丸は何処へ行ってしまったのだろうか。彼は思わず掛け布をめくり、寝台の上を見回した。
しかし、見つかることもなく。
何時も、無神経・鈍感・無礼などと称される彼であったが、この事態には焦燥してしまった。受け入れ難いと、目眩を起こしたように寝台へ倒れ込んだ。
「俺……女になったのか」
倒れ込んだまま虚を見つめ、呟いた。
そして思い立ち、勢いよく寝台から飛び出した。平服を纏い外套で身を包むと、部屋を飛び出した。
「アイクー! どこへ行ったの?」
「お兄ちゃん~! もうごはんの時間だよ!」
「アイク、出てきてください」
部屋から消えたアイクを捜索する面々。副長、妹、参謀がそれぞれ声掛けをしていた。
一方、アイクは外套で身を隠しながら宮廷内を彷徨い歩いていた。すれ違うのは侍女が多い。彼女らは夕飯時が近づいているので支度に奔走しているのかせわしなく動いていた。
「おおっ、君、どこの子? あまり見かけない顔だけど」
挙動不審になっているアイクへ声掛けをしてきたのは同じ団員の男。
アイクは思わず口を結んで首を横に振り、振り切ろうとする。
「怖がらなくていいよ~。おれ、ガトリー。クリミアの姫の護衛をしているグレイル傭兵団の一員だ。怪しい者じゃない。よかったら、ちょうどご飯どきだし、一緒に食事でも」
ガトリーは彼へ誘い掛けてくる。この男は女好きで、女性絡みの失敗談など数多くある。つい先日も、アイクへどの侍女が好みか、などと持ち掛けたばかりだった。
アイクはこのガトリーの態度がらしいと思いながらも、この態度により己の見目が女になったのだと思い知る。
「なんだい? 恥ずかしがり屋なのかい? ごめんな。でも可愛いよ、君。もっと堂々と歩いてもいいよ」
熱っぽく口説いてくるガトリーにアイクはこそばゆさを感じていた。
「ん~、でも、どこかで見たことあるんだな。何だろう、そうだ、ヤツに似てる……?」
ガトリーが指す主は彼のことである。彼はガトリーが思案して目を逸らした隙に逃げた。
「あっ、待って! ごめん!」
遠くにガトリーの声が響いた。
物陰に隠れ、人の気配がない場所へ佇んだアイクは一息ついた。そのまま座り込み、頭を垂れた。
これは呪いなのだろうかと思った。
子を宿しながらも命を潰えた母ラグズの呪い。決定打を繰り出し、止めを刺したのは彼自身だった。
(こんなことになって、戦えるのか……。親父が見たら何て言うんだ。俺の息子じゃない、って言うか。だよな、女だし)
そう自問自答すると仕舞には笑えてきた。
「アイク、アイク」
彼を呼ぶ声が聞こえる。アイクは思わず顔を上げて首を激しく横に振り、辺りを見回した。少し怯えたような様子で。
「僕です」
現れたのはセネリオだった。セネリオは指を手に当て、声を止めるよう指示する仕草をする。アイクはその仕草に安堵し、座りながらセネリオを見上げ、口を結んだ。
「精霊に聞きました。あなたの風は泣いている。その尻尾を掴んでここまで」
その言葉にアイクはほのかに頬を紅潮させる。
「……俺、どうしたらいい?」
アイクは静かに口を開く。
「俺が俺じゃなくなった。こんなことで、グレイル傭兵団の団長が務まるか」
外套を払い、すっと立ち、変化してしまった身体を見せる。寸法が合わなくなってしまった服の上からも分かる艶めかしい体の線。皮帯だけは腰の細さに合わせて締めているので余計に線が際立つ。
セネリオは思わず唾を飲み込んだ。彼は異性へ性的興奮を覚え、露わにする質ではなかったが、アイクの様態を見つめ、沸き起こる衝動を感じた。
(これは、アイクだから……)
顔が熱くなるのを感じる。
これまで、この主へ執着とも言える敬愛の念を抱き、接してきた。ただ、性的な欲望は抱いていなかったはずだ。
「あ、アイクは、アイクです。ほかの何者でもありません」
少し吃音りながらも主へ強く進言した。
「そうか」
セネリオの言葉にアイクは少し表情を緩めた。
「おまえは俺が俺だと分かったか? ガトリーなんか完全に俺のこと女だって思ってわからなくて口説いてきた」
セネリオは激しく首を縦に振る。
「僕が見間違えるはずがありません」
そして心の中で、あとでガトリーの尻へ小さな風を打ちつけてやろうと思った。
「……あのラグズの体液を少し、調べてみました」
一呼吸置いて彼は報告する。アイクは目を見開き彼を注視する。
「まず、胎児から遠い口の粘膜で試しました。幼虫へ与えると本来しないと思われる動きをとりました。そして蛹を通り越して突如羽化します。その後、数分で死に至りました」
淡々と実験結果を述べるセネリオ。アイクはその報告を対峙したラグズと重ねていく。
「胎児と思われる個体は半分液状化していました。その半分は体内に残留しております。もう半分の完全に液状化したものがあなたの身に掛かったのでしょう」
当時の状況を思い出し、アイクの眉が歪められる。
「確実なことは申し上げられませんが、生体を歪める何かが作用していると思われます。ラグズが狂い、化身を解かなかった方の作用が主だと思いますが。たまたま妊娠していたラグズへ施され、また別の反応を示したのかと」
セネリオは実験の結果からそう結論づけた。
「……あいつを連れ帰ったんだな。ちゃんと弔ったか?」
ラグズの不正の理由より、その身が埋葬されたかどうかを気にするアイクであった。
「レテ達も同胞があんなことになったのを見て、嘆いていた。こんなことが蔓延しているのであれば、止めなくてはならない」
アイクは狂った同胞を止められなかった獣牙兵達のことも思った。
セネリオはそんな彼を見て、自分が矮小だと思った。
そしてただ頷いた。
「……はあ、仕方ないな。どうなろうが前に進まなきゃならないんだ。まだやるべきことはたくさんある」
一息吐くとアイクは背を正し、堂々たる振る舞いを見せた。
「はい」
そしてそんな彼の姿が至極美しいとセネリオは想いを抱いた──
ずっと隠し通せるわけがない、ということでアイクはその姿を仲間に晒した。
「お……お兄ちゃん、じゃなくて、お姉ちゃん、って呼べばいいのかな……?」
戸惑いながら妹ミストが言うとアイクは激しく首を横に振った。
「ちくしょー! あれ、アイクだったのかよ!」
見知らぬ美少女と思い込み、口説いていたガトリーが頭を抱えて悶絶していた。そんなガトリーをアイクは睨みつけた。セネリオも同時に睨みつけた。それら二つの目線を受けてガトリーは顔を引き攣らせた。
「あっ、アイク……気をしっかり持って。大丈夫、あなたなら乗り越えられる」
動揺しつつも副長ティアマトはアイクの両肩を持ち、強く励ました。
「ティアマト、あんたの方が大丈夫じゃない」
アイクはさらりと返した。
「マジ?」
怪訝な表情を浮かべアイクを指さすのは幼馴染みのボーレ。泥臭く喧嘩を重ねてきた相手の変化がにわかに信じられないという表情だ。
「ほら~、ビックリドッキリ大作戦とか、おれは騙されないぞ」
おもむろにボーレはアイクの胸を両手で鷲掴みした。アイクの眉間がぴくりと動く。
「どうやってこんな生あったかいおっぱい作ってんだよ。おれを騙そうったってそうは……ギャッ」
ボーレはミストの平手打ちとセネリオの魔道書の角による攻撃を同時に食らった。
「これが偽物に見えるか? 偽物ならどんなにいいことか」
アイクはおもむろに服の合わせを開き、乳房を露出させた。
「ギャーーー!」
痛む箇所を押さえながら、見紛うことなく女性のそれそのものである乳房を目にし、ボーレは思わず叫んだ。
「お兄ちゃん、やめて! しまって!」
「アイク!」
ミストとティアマトが慌ててアイクの胸を隠した。
「マジ……本物のおっぱいだ」
ボーレとガトリーが同時に呟いた。そして目線をなかなか離せないでいた。
「ああっ、もう、ボーレもガトリーもエッチ!」
ミストが甲高い声で二人を罵った。
「アイク、なんとか治す術がないか調べてみるよ。こんな症例は見たことないけど……」
至極心配気な表情で神官キルロイが声を掛ける。
「よろしく頼む。セネリオがいろいろ調べてみたそうだから聞いてみてくれ。あんたの力も借りたい」
少し安堵したような表情でアイクはキルロイへそう返した。
「大将、元気出してね。女だからって弱くなるってことはないよ! あたしとまた修行しよう!」
鍛錬好きの剣士ワユがアイクの肩を叩きつつ元気な声で励ました。アイクは少し口端を上げて笑みを漏らした。
「それにしてもあたしよりおっぱい大きいんだ。いいなあ。しかも大将、すっごい可愛いし」
その言葉にアイクはぶるぶると首を横に振った。
「それにしてもこれ、シノンさんが見たらどう言うのかな~」
ガトリーが、アイクとは仲の悪い古株のことを指し、ぼそりと疑問を口にした。シノンはアイクの父が没したのを機に団を抜けている。
「ああ~っ、シノンさん……。元気かな……」
シノンの愛弟子であるヨファが思い出し呟いた。
「はっ、シノンなんてもう帰ってこねえよ!」
少し怒りを見せて口を尖らせるボーレ。
「ボーレ、なんでそんなこと言うのさ。ボーレのバカ」
拳を握り兄へ抗議するヨファ。
「二人ともやめなさい。今の団長は誰だ? 今は大変なときだ。喧嘩なんかして団長を困らせるな。今はおまえたちが団員なんだ」
そんな兄弟二人を諫めるのは長男オスカーだった。
兄に諫められ、二人は口を結んで喧嘩を収めた。
「アイク、私はどんなことがあろうとも団長である君の命に従うよ。困ったことがあったら、私にも相談してくれ」
オスカーはアイクの容姿が変わろうとも変わらず接する。アイクはそれに心強さを感じた。
「ああ。頼む」
そして短く一言返した。
「ああっ……アイク様……申し訳ありません……」
アイクの姿を見て申し訳なさげにする者がいた。アイクらの依頼主でもあるクリミア王女エリンシアだ。
ベグニオン貴族との会合を済ませて、遅れてその姿を目にしたのであった。
「エリンシア様が謝らなくてもいいですよ!」
同席していたミストがエリンシアへ向けて言った。
「……これは俺の不注意からのことだ。あんたが気に病むな」
アイクもそう進言した。
「姿が変わってしまっただけだ。病気をしたわけでもない。深手を負ったわけでもない」
胸を張って言い切る。そしてその動きにともなって胸が揺れた。ミストが思わず小さな声を出した。
(お兄ちゃん……さっきから気になってたんだけど、歩くたびおっぱいが揺れてるの……)
そんなことも思うが、口に出せないでいた。それとともに自分の胸と比べてしまう。彼女はまだ手のひらを緩く曲げて収まる程度の膨らみしかない。それと比べて少し消沈してしまう。
「アイク様……、私はどんな姿になろうともあなたをお慕いします」
元の姿であれば上目遣いであった目線は、まっすぐと彼へ向けられた。
「あ、いいえ、今のは忘れてください」
胸の内を言ってしまったが、エリンシアは慌てて取り消した。頬を紅潮させている。
「なるべく足を引っ張らないようにする。まだ元の通り戦えるか試していないが、早めに慣れるよう調整する」
アイクはエリンシアの様子に全く気付くことなく眉を上げて決意を述べた。
(お兄ちゃん、まったく気付いてない……)
エリンシアからアイクへ向けられている好意をまざまざと感じたミストは、それに気付いていないであろう兄の朴念仁ぶりに溜息が出た。それとともに、兄の姿が女性であるため奇妙な光景でもあると思った。
「……アイク様、さしあたって、お着替えになってはいかがでしょうか?」
寸法の合わない、元々着ていた服を指し、エリンシアはそう勧めた。
「そうだな。無理矢理ベルトで締めたりしているが、どうも具合が悪い」
アイクは肘を上げるなどし、服が合わないことを仕草で示す。
「私にお任せください」
柔らかく笑みを湛え、エリンシアが申し出た。
「あ、ああ。頼む」
アイクは素直にそれを受けた。
(え、何? ちょっと面白そう……)
エリンシアの密かに少し楽しげな様子に気付き、ミストも期待感を膨らませた。
「アイク様、よくお似合いです」
「お兄ちゃん~! 可愛い~! ちょっと……みんな呼んでくる」
「あっ、待て! ミスト!」
目を輝かせながらミストは退室して駆けていく。
アイクはエリンシアのドレスを着せられていた。その見目はどこぞの深窓の姫かと思わせるような装いになっていた。
「なあ、これは今、必要ないだろ。早く脱がせてくれ」
内心はこの装いを拒否したかったが、エリンシアに「女性の姿になったならこのような正装で神使に謁見するのが礼儀」と諭されたため着用することにした。
先だって、神使へ不敬罪として首が刎ねられてもおかしくない態度をとったことを彼なりに反省していたため、従うことにした。雇用主であるエリンシアの立場が悪くなるのは一傭兵として避けなければならないこと、と思っている。
しかし、今、神使へ謁見するわけでもないため、彼は早くこのドレスを脱ぎたいと訴えた。
「アイク様、その姿も役に立つことがあるかもしれません」
エリンシアのその言葉にアイクは眉を上げる。
「剣だけではない、立ち振る舞いも武器となることが」
腕を胸の前で合わせ、真摯な瞳で彼女は述べた。それを受けてアイクは、彼女がここに至るまでの苦難を思った。そして最近はベグニオンの社交界で気を揉んでいることも。
「……あんたも大変なんだよな」
彼はただその一言を返した。そして彼女は目を瞑り首を横に振る。
「ありがとうございます、アイク様」
エリンシアはそっとアイクの手を取り、見つめ、たおやかに笑む。その細い指先が絡む。
「ふふ、そのお姿、とても素敵です」
「まあ、そんなに面白いならこれを見て笑えばいい。あんたの気休めになるなら」
そして、二人が手を取り見つめ合っているところへ団員たちが大挙して押し寄せた。
「うわああああ! 誰だおまえ」
開口一番ボーレがアイクを指差す。
「うっそおー! おまえアイクかよ!」
ガトリーも指差す。
「っていうか、あっ、お邪魔しました!」
ミストが口を押さえ、美女二人が手を取り見つめ合い、ただならぬ雰囲気を醸し出していた現場を指した。密かに高揚を覚えてもいた。
(なんだろう……ちょっとドキドキしちゃった……。どうしてお兄ちゃん、女の姿になってからの方がエリンシア様といい雰囲気なの)
「ひゃあああ! 大将きれいっ! エリンシア様と並ぶともう本当これはお姫様ふたりって感じ!」
少女趣味を持つワユが目を輝かせてドレス姿のアイクに感嘆を漏らした。
「あなたたち騒がしいわ! エリンシア様がいらっしゃるの! 失礼でしょ」
団員たちを諫めつつもティアマトもアイクへ視線が釘付けである。そもそも興味本位でここまで来たわけだが。
「いいえ、いいえ。皆様、すみません。アイク様はあまり気が進まないとおっしゃっているのに私が無理を」
「これで神使も納得するって言うんだ。仕方ない」
アイクは憮然とした表情を作り、目線を皆から逸らし言い捨てた。
「ははっ、そうだな。この間おまえ、神使にえらい啖呵切ってたし。っていうか、神使におまえが女になったって言ったか?」
ボーレにそう指摘されてアイクは首を横に振った。
「そんなに見た目変わっちまったらおまえだってわからなくって追い出されたりしてな」
そう笑いながらボーレが言うと、アイクは目を見開いてある一点を注目していた。
「サナキ様~、どこへいらっしゃったんですか~」
遠くに聞こえるのは親衛隊隊長の声。アイクの目線の先にあるのは神使そのひとだった。
ボーレ以外、皆、気付いたのか頭を伏せて礼をしていた。
「はっ……、はあっ?」
振り返るとそこには神使。
「う、うわああああ!」
その姿に気付いたボーレは勢いよく頭を伏せ、地に頭を擦るように礼をした。
「おぬし、アイクだな?」
「ああ、そうだ」
慌てふためく団員に目もくれず、神使サナキはアイクの元へ歩み、品定めするように彼のドレス姿を見回した。
「余興にしては手が込んでおる。なかなかに楽しませてくれるではないか」
悪戯な笑みを浮かべ、サナキはアイクへ目線を投げた。これは奇しくもエリンシアが亡命してきた苦労を笑っての言い種と同じだ。
「……アイク様は、余興などでこのようなお姿になったのではありません……!」
そこへ割って入ったのはエリンシアだ。
「サナキ様、あなたの命を受けて任務に当たられたアイク様は、性別が変わってしまうという一大事に陥りました」
その言葉にサナキは驚きを見せた。
「まことか?」
「ああ。何なら証拠を見せる」
「お兄ちゃん! おっぱいを神使さまに見せるのはやめて!」
アイクが胸を露出しようとしたのを咄嗟にミストが止めた。そしてセネリオがいきさつを簡潔に説明した。
「なるほど……わかった」
何か思うところがあるのか、サナキは言葉を飲みつつも納得したようだった。
「おぬしがアイクであるということは、納得したぞ。何よりこのクリミア王女が証明してくれた」
サナキは顎でエリンシアを指し、彼女の静かに憤っていた様子から納得したのであった。
「……ただ、これは面白半分であろう? わたしは一傭兵の服装などにまで指示はせん」
サナキのその言葉にエリンシアは図星であったのか頬を紅潮させた。
「すみません……」
エリンシアは思わず顔を覆った。
その隙にサナキはさらにアイクの元へ寄り、背伸びしてアイクの胸を両手で触った。
「うむ。確かに」
「サナキ様っ!」
サナキが満足気な顔を浮かべるとともに、彼女を諫める声の主が飛び込み、その姿を現した。
「なんじゃ、うるさいのう……シグルーンよ」
「また悪い癖が出たのですね……! だめですよ! 何度言ったらお分かりになるのですか。以前もこれで命の危機が……」
サナキには臣下の目を掻い潜り、遊び回るという癖があった。実年齢はまだ年端もいかない子供であるためか、そもそもの気質であるのか。
船旅の途中にもそれを発揮し、そのときに海賊に襲われたことがある。その危機を傭兵団が救い、行方不明であった彼女を直接アイクが介抱したことにも繋がったのだが。
「……さらばじゃ、アイク姫」
シグルーンに手を引かれ、サナキは笑みを浮かべ、そう言い残して退出していった。
「……」
アイクはまた一杯食わされた、といった表情でサナキを見送った。
思えば、エリンシアへの侮蔑と見てサナキへ檄を飛ばしたときも、それがサナキの計らいであったとあとで知ったからだ。他貴族から立場を守るためにと。
そして思わず触られた胸を己の手で触れた。
「はあ……」
脱力したボーレが座り込んでいた。
「神使様は思慮深い方だ」
オスカーがいつもの表情で一言発した。アイクはそれを受けてこくりと頷いた。
「でもお転婆だよね」
小声でヨファが呟いた。思わずボーレが笑うも、すぐに激しく首を横に振り、辺りを見回した。
「大将、あたしも大将のおっぱい触っていい?」
ワユが冗談めかして言うとアイクは首を小さく横に振りつつも少し笑った。
(アイク、綺麗ですよ。何処の姫にも負けず)
心は男であるため、そのようなことを言っても嬉しくないであろうアイクへ向けてセネリオは密かに心の中で言い放った。頬から耳の辺りが熱くなるがその鉄仮面は変えず。そしてその熱が恋であることに彼は気付いていなかった。
「あー、アイク姫かあ。まあ、黙っていればそうかと思うかもな。もうおれは騙されないけど!」
ガトリーが眉を上げて息巻いていた。
(これ、シノンさんがいたら確実に頭叩かれてる……)
ヨファが心の中で突っ込みを入れた。
「はあ……」
そんな団員たちのやりとりの中、アイクは一つ大きな溜息をついた。
「どうしたの? アイク……」
心配気にティアマトが訊いた。
「腹減ったな」
ぼそりと呟いた彼のその一言に皆、脱力したという。
そしてもうすぐ夕飯時だったことを思い出した。
セネリオは手にした風の魔道書の魔力を解放したいと何度も思った。
(翼を持つ者の弱点は弓と風魔法……)
戦闘上の有利さを思い出し、口だけをもごもごと動かし、何度も反芻する。
彼の目には翼を持つ隆々とした男が獲物として映っていた。もう一人、美麗で線の細い男も。こちらは素手でも勝負になると思った。
「ようやくわかってくれたか、俺は男だ」
そんな翼を持つ男たちにアイクは言い寄られていた。
「そう言われたら信じるほかないけどよ。男にしておくにはもったいねえ。はあ、久々にベオクでこんなにいい女がいるって思ったけどな」
「ティバーン、私も同感ですがアイクの言うことは真実です」
「そうか、リュシオン。おまえが言うなら間違いないな」
ティバーンという名の隆々とした男は、線の細いリュシオンという男の言うことに納得した。リュシオンは思考を読む能力があるため、それを受けて納得したのだ。それを知らないアイクはそのやりとりを目にし、僅かに眉を顰めた。まるで思考を読まれたかのようだと。
この二人は鳥翼の王族だ。それぞれに鷹王、白鷺王子という。
アイクはサナキの命を受け、任務にあたっていた。
ベグニオンでは一部の貴族の間で、ラグズを奴隷や鑑賞物とするなどの腐敗が蔓延していた。それを暴く目的でサナキはアイクら傭兵団を差し向けたのだった。
氷山の一角として、タナス公が摘発された。タナス公はリュシオンを捕らえていた。アイクらが立ち入った隙にリュシオンは脱出した。アイクはそれを保護しようとタナス公と交戦しつつセリノスの森の奥へと進んでいった。
途中、アイクは鷺の女性を発見する。それはリュシオンの妹リアーネだった。生き別れになっていたかと思われたものを発見したのだ。それをアイクは身を挺して守り抜き、任務も終えた。
鷺の民は、先代ベグニオン神使暗殺の濡れ衣を着せられ、ベグニオンの民に焼き討ちにされたという過去がある。そのため、ベオクに強い憎悪を持っていた。生き残ったのは王族の一部のみとなった。その後見であり同胞である鷹の民も同様にベオク、特にベグニオン人へは憎悪を抱いていた。
今回、アイクが鷺の姫を救出し、神使サナキによる鷺の民への贖罪を助力したとして、鷹王、白鷺王子ともへ恩義を生んだ。そして、その身を張って成し遂げた姿に感銘を受けたのか、彼自身への好意へと繋がった。
──見目麗しい女性の姿であるから増して。
「正直、ベオクを完全に信頼しちゃいねえし、心底好きかと言えばそうとは言えねえが、おまえには力を貸す。俺はおまえ自身に力を貸す」
鷹王ティバーンはその力をアイクへ貸すと言った。自国の軍勢を貸そうというのだ。
「あんた、義理堅いんだな」
上目遣いで少し首を傾げてアイクは返した。ティバーンはその仕草に息を飲んだ。密度の高い睫に隈取られ、潤いを持ったその大きな瞳に見つめられると、思わず笑みを漏らしたくなる。
その夜、ティバーンとリュシオンはベグニオン宮廷の一室で語り合っていた。
「いや、本当、まだベオクってやつは信じきれねえ。まあ、神使が膝を着いてまで土下座してきたんだ。それは誠意として受けられるが、死んだ同胞が戻ってくるわけじゃねえしな」
椅子に足を組んで座り込むティバーンが息を吐きながらそう漏らした。
「ええ、私たちの同胞は戻ってきません。森は再生の呪歌で蘇らせることはできましたが、全てが元へ戻るのは果てしない時間が掛かります」
両手を卓に置き、組みながらリュシオンは返す。
「でも、いろんな奴がいるもんだ、ベオクにも」
ティバーンが思い浮かべるのはただ一人。リュシオンはそれを読み、笑みを漏らす。
「読んだな、おまえ」
思考を読まれたであろうことをティバーンは指した。
「……健康的な肢体に聡明かつ頑健な心。まさしく理想です」
リュシオンも同じ人物を思い出し語る。
「おまえも気に入ったか。いいだろ、あのベオク」
ティバーンも笑みを浮かべる。上目遣いでその強い瞳が己を見つめてきた光景を目の裏で再生していた。
「年の頃は俺らでいえばまだ雛鳥って感じだが、あれで成人間近っていうな。俺はもうちょっと熟れた方が好みだが、あの年の頃っていうのはなかなかにいい」
そう言い舌で唇を湿す。
「ティバーン、またあなたの悪い癖が」
リュシオンが諫めるように言い放つ。
「なんだよ、おまえも食ってみたいと思ってんだろ。だから言い寄ってたじゃないか」
そう言われてリュシオンはさっと顔を熱くした。
「い、いえ、私は恩人たる彼へ親愛と敬意を……」
「へっ、しっかり乳見てたんじゃねえか」
さらにそう指摘されてリュシオンは首を強く横に振った。
「おまえ言っただろ、健康的な肢体が、とか。確かにいい乳してたな。腰も括れて骨盤もしっかりしている。いいガキ生むぜ、ああいうカラダは」
ティバーンは笑みを浮かべながら卓上の葡萄酒を呷った。
「鷺の民だと皆、細造りだからな。ああいう女はいねえだろ。鷹の民だとまああんな感じだが」
リュシオンは目線を逸らし、水を飲みながら木の実を音を立てて齧った。
「だが、アイクは男だ」
ティバーンへ目線を合わせないままリュシオンはそう指摘した。
「そうなんだよな。それも、狂わされた獣牙の奴の体液を被ってあんなことになったっていうな。ベグニオンでラグズが奴隷とされていた件絡みだ。その大元も気になるところだ」
真面目な話題に変わったところでリュシオンは目線を戻す。
「ええ。ベグニオンの一部の貴族の間でラグズを奴隷化していることと、ラグズの生態を歪めて操作していた件は同じ件であるかどうか」
「まだ分からないことが多い。俺らの同胞も多く捕らえられ、操作されているかもしれない。アイクへ力を貸し恩義を返すとともに、それらを突き止められればいいが」
ティバーンのその言葉にリュシオンは深く頷いた。
「……彼も、元に戻れればいいですね」
アイクが元へ戻れることを願う。
「……惜しいですが……」
そしてそう小さく呟く。
それを聞き逃さずティバーンは大きく笑った。
「正直惜しいな。あれはいい女だ。本当に女なら娶りたいほどだ」
ティバーンのその言葉にリュシオンはぴくりと反応する。
「まあ、俺は男だって」
そんなリュシオンに向けてティバーンはにやりを笑みを向けた。その顔は獲物を狙う猛禽そのものだった。
「女になってあれだ。元も大層いいのだろう。なにより俺らは奴の魂に惚れたんだ。違うか?」
「いいえ」
リュシオンは戦禍から妹を守り抜いた彼の姿を思い出し、その魂へ想いを巡らせた。
そのころ。
「アイク、アイク」
「なんだ?」
セネリオが書類を抱え、アイクへ問い掛ける。
「次の進軍の準備が始まります。補給部隊へ希望の食材を注文できますがいかかでしょうか」
「じゃあ肉を」
予想通りの答えが返ってくる。
「わかりました。どんな肉がよろしいでしょうか」
「食えれば何でもいいが」
そしてにやりと笑みを浮かべるセネリオ。
「では手羽先など。食べごたえのある赤身、少し骨の多いであろう小振りなものを」
アイクは彼の黒い冗談などには気付かず、先の進軍について考えを巡らせていくのであった。
対戦したときも、何かおかしいと思ったんだ──
それが傭兵団を出戻った男の感想だった。
目を開けたときにそこへいたのは一人の女。
見知らぬ女。いや、見慣れた顔、それと似ている。
男は寝台に横たわり、介抱されていた。横たわったまま目を開き、目線を上へ向けると覗き込んでくる顔。その手前に顔を隠すほどの山となす乳房。
瞳の色、髪の色はあの小憎たらしいと思っていた、傭兵団団長の息子のものと同じ。
「シノン、目を覚ましたか」
その口調も同じ。ただ、それは女声である。
「誰だおまえ」
「アイクだ」
まさかとは思ったが、やはりそうなのだ。
元団員のシノンが傭兵団に戻った。
それは力づくといってもいい経緯を経てだが。
シノンはグレイルの没後、団を抜けた。恩義があったグレイルが没したのもそうであるが、アイクが団長となったのも契機だ。個人的な感情からアイクへは常に反発していた。尤も、生来の天の邪鬼な性格も手伝ってだが。
野心を抱き、デイン軍へ雇用された。実力さえ伴えば、出世を見込める場所とあって、登り詰めようと奮闘していたのだ。そして、デインの国境であるトレガレン長城に配置された。
デインの手からクリミアを奪還すべく動き出した、アイク率いるクリミア解放軍と衝突したのである。
団員らはシノンの説得を試みた。しかし、シノンはそれに応じることなく、抵抗を続けた。半ば意地であった。性格上、素直に投降することはなく。
愛弟子であるヨファが涙ながらに訴えるも、最後まで戦うと宣言し、戦闘を続行する。
そしてアイクと対峙した。アイクはここまでくれば、彼が投降することはないと踏んでいた。正面から勝負し、勝つ。それしか彼を納得させる方法はないと。
そうして、アイクはその剣でシノンを沈めた。致命傷は負わせていない。即、治療を施し、軟禁状態にした。
「はあ? アイク? てめえ、その乳は何だ」
目を覚ませばそこに乳房があったのである。シノンは当惑しつつも憎まれ口を早速叩いた。
そしてアイクは事情を説明した。
「ったく……バカが」
シノンはアイクがラグズを弔いたいとその身に触れたことを非難する。そう吐き出しながら、目線は乳房へ釘付けである。
(何か変だと思ったんだよ! ちょっと小さくなったんじゃねえかとか)
アイクと対峙した際、小柄になったと感じた。戦闘中は胸に晒布を巻き固定し、甲冑を着用しているため、乳房の有無は分からなかった。分かるのは全体的に小柄になったということと声の変化。
あまり話をしたくはないと、彼へ目線を寄せるのは避けたいところであったが、改めて顔も確かめるように見つめた。
(……まあ、女っていえば女だ)
元より、瞳は大きく印象的であったが、女性の姿となり丸みを帯びたせいかそれが際立っていた。唇も薄桃色に色付き、ふっくらとして見える。頬も柔らかそうに見える。
(チッ……)
そうとはいえ、元は男であり、確執を抱く相手には変わりない。
「あんたにはまたここで働いてもらいたい」
真剣な表情で訴えてくるアイク。
「へっ……敗戦兵は捕虜として労働させるってか」
皮肉で返すシノン。
「あんたはグレイル傭兵団の一員だ」
少し身を寄せアイクはもう一押し訴える。シノンは近づいてきた乳房へ思わず目を遣った。よく見ると胸元が緩められていたため、少し谷間が見える。
「ああもう、わかったよ。てめえがそこまで言うならオレ様が力を貸してやろう」
谷間へ目を遣りながらシノンは手を振り言い捨てた。その言葉にアイクの表情が少し緩む。
シノンは思わず息を飲んだ。その表情に可愛げを感じてしまった己に嫌気をさした。
(……はあ、こいつが女だったら、なんて考えたことなかったが)
そわそわと落ち着かない気分である。シノンは彼と過ごした過去を思い返し、彼が女であったらという仮定でそれをなぞった。
(ミストなんか到底乳臭くて女っていうか、ただのガキだが……)
年齢も離れており、まだ心身ともに未成熟である彼の妹を思い出し、もう一度彼の乳房を見る。そして首を激しく横に振った。
(ハッ! 乳がでかくたってガキはガキだ)
顔が熱くなっていた。それを見て、アイクは彼の容態を問うが、彼は再び首を横に振る。
「ったく、やたらに胸元開いとくんじゃねえ。見せびらかしてんのか」
「何がだ?」
シノンの指摘にアイクは首を捻る。
「だから! 胸の谷間見えてんだよ! 無駄に見せつけてくるな」
「……別に見せてるわけじゃない。苦しいから開けてる。本当に邪魔だなこれ」
そう言い、アイクは両手で豊満な乳房を持ち、その存在を示すように揺らして訴える。シノンは思わず音を立てて吹き出す。
「ああーっ、もう、揺らすな!」
目の遣り場に困ると思いつつ、目が離せない光景であった。
「ああ、いちいち揺れてかなわん。結構痛い。こうやって持ってると楽だな、少し。ずっと持ってるわけにいかんから晒布で巻くんだが。それも圧迫されるから好きじゃない。だから戦闘のとき以外はしない」
淡々と女性ゆえの悩みのようなものを打ち明けるアイク。シノンはそれに倒錯めいたものを感じ、密かに興奮を覚えた。
「はっ……女は戦場に立つんじゃねえよ」
そんな興奮を隠しつつ、小さく吐き捨てる。
「俺は男だ。そして戦場では男も女もない」
そう強く言いながらも乳房を抱えている彼の姿を見て奇妙な光景だとシノンは思った。
「……おまえ、生理は?」
「来るぞ」
その問いにアイクは眉を歪めて答えた。
「マジで女になりやがったな。そしたらガキも生めるってか。恐ろしい」
「ああ。嫌で仕方ないが、女として生まれてきたら当たり前のことだ。皆、こういう思いでいるんだろう」
すでに達観したような口調で言うアイクだった。シノンは彼のその言い種をらしいと思った。
「まあ、せっかく女になったんだ、楽しんでみろ。女になればどこぞの金持ち捕まえて玉の輿にでも乗れるぜ? 男だったら成り上がるしかねえがな」
己が辿った道を持ち出しつつ、皮肉な笑みを浮かべてシノンは言い放った。
「だから言っただろ、俺は男だって」
アイクは眉を上げて反論した。
「はっ! どこからどう見ても女だ、てめえ」
次第に頭に血が上っていき、興奮状態へ陥っていくシノンは身を乗り出し、彼の腕を掴む。
「そうだ、教えてやろう。てめえが女だってこと」
勢い任せにシノンはアイクの腕を引き、寝台へ引き倒す。
「……っ、あんた、何をする……」
「いいな、これ。いい気味だ」
その指が胸元へ寄せられる。
「本当に孕むのか? ちょっと試してみようか?」
脚を割り入って開かせ、体全体で彼を押さえつける。
「女になってみたら、ヤってみたいと思わなかったか? 男の数十倍イイらしいぜ? ヤってみないと勿体ねえぞ」
下卑た言葉を投げ、腕を押さえ、胸元を開こうとしたその時。
戸を叩く音がする。シノンは反射的に動きを止めた。その隙にアイクは逃れ、シノンを蹴り飛ばした。
「ギャッ!!」
「シノンさんっ!! 大丈夫っすか!?」
シノンは悲鳴とともに寝台から落ち、その派手な物音に気付いてガトリーが部屋に飛び込んできた。
「アイク、おまえ、何やってんだ」
そこには寝台の上に横たわるアイクと床に転がっているシノンという光景があった。
「へっ……勝負の続きだよ! あれはオレに不利な状況だった。このままこいつに引き下がるわけにはいかねえ」
シノンは勢いよく立ち上がり、咄嗟にそんな言い訳を発した。
「シノンさんっ、もういいですって! またおれたちと一緒に戦いましょうよ!」
ガトリーは縋るようにシノンを抑え、寝台へ座らせた。アイクはさっと寝台から降りる。
「……っ、痛てて……」
今頃になって傷跡が痛み出したシノン。
「大丈夫ですかっ!」
ガトリーがシノンの身を抱え、彼を寝台へ横たわらせる。
「アイク、おまえ、何やってんだ。シノンさんは怪我人なのに。しかもおまえが斬ったんだろ」
「随分元気そうだが」
アイクは憮然とした表情でガトリーへ返した。無意識に胸元を正している。そしてぷいと顔を背けて退室していった。
「ったく、ひどいですね~シノンさん。いくら仲が悪いっていっても」
そんなアイクの様子を見て、甲斐性がないとガトリーはシノンへ同意を求めるように言った。
「あ、ああ」
どこか上の空でシノンは応えた。
「聞きました? あいつ、女になったんですよ。おかしいですよね~。おれは騙されませんけど、あの乳は本物ですよ。でも騙された奴は気の毒ですね!」
ガトリーのその言葉にシノンは眉間に皺を寄せ、口を突き出す。
「はあ~、でも、女になったらちょっと男たぶらかして遊んでみたいっすね」
冗談めかして言うガトリー。シノンはその冗談に苦笑した。
「いつもおまえはたぶらかされてるからってか」
そしていつもの皮肉を浴びせるのだ。
「ひどいっすシノンさん!」
皮肉を浴びせられながらもどこか嬉しそうなガトリーであった。
シノンの部屋を出たアイクは無意識に胸を抱え、自室へ戻っていった。
そして倒れ込むように寝台へ身を沈める。
手足を縮めて横たわり、先ほどのことを思い返した。そうしながらぶるりと身を震わせた。
あの男はいつも憎まれ口を叩き、彼へ好意を持っていないことは明らかだ。鋭い視線で睨み、時に吐き捨てるように言葉を投げる。
そんな感情の捌け口の一環か?
先ほど、寝台に押し込めて、胸元を開こうとしたその時の顔。勢い。
「そうだ、教えてやろう。てめえが女だってこと」
そんな言葉。
彼はぶるぶると首を横に振る。
(俺は男だ。違う)
そう強く念じた。
しかし己の腕で抱くその躰が柔らかく、元の筋量を持った身体ではないことを嫌というほど識る。
この体になったばかりの頃、元のように剣を振るえるか試したとき、明らかに筋量不足を感じた。剣を支える腕が重かった。それでも彼は乗り越えた。より一層の鍛錬に励んだのだ。
「くそっ……、くそっ……!」
アイクは横たえながら寝台を拳で叩いた。
急に込み上げてくる悔しさ。そして今頃襲ってきた恐怖。
あの男がとてつもなく怖く思えた。あの一瞬。
彼自身はそれが何故なのか説明できないが、それは本能的に感じたこと。性的に慰みものにされようとしたこと、それに対する恐怖。
あの場は隙が生まれたので脱することができたが、その機会がなければ身が竦んで動けなかったかもしれないと思うと悔しさが込み上げてきた。
そして、そのままこれまでの出来事を走馬燈のように思い浮かべていく。
父が没するという一大事。居を離れ、遠くまで来た。確かに、苦難の道であったがそれまで彼は確かに「息子」であった。
今、見ることのできなくなった顔を思い浮かべ、そのひとが見たらどう思うか。それを思った。
父や母、そして。
(ライ、おまえはなんて言う?)
すっと身を起こし、胸の合わせを開き、乳房を露出し確かめるように触れ、それを眺める。
そうしながら種族の違う友を思った。
任務であるからと、差別を行う港町の住人から暴行を受け抵抗しなかった。辿り着いた異国の地で案内人となり、世話を働いてくれた。口頭で友情を交わし、名言したわけではなかったが、確かに情は存在する。体が自然と動いた。
アイクはライを庇った。騒ぎを起こすべきではない状況の下で、それを愚かと言う者はあろうが、構わず。
(俺は、ラグズやベオクだから、って差別は馬鹿らしいと思う。少し、体の作りや能力とかが違うだけだ。皆、それぞれ違う。それだけだ。なのに)
暴行を加えた住人のことが心底理解できなかった。
(でも、俺が普通じゃないのか?)
妹が正直に告白してきた。それはラグズの者と接し、深く理解するまで畏怖を抱いていたという話。
(……怖がるな、というほうが無理か?)
彼は己の乳房を見つめ、思う。
(女になってしまったことが怖い、なんて言ったら、女に悪いか)
深く息を吐く。
(ライ、おまえはベオクに親しげだが、どうだ。怖くはないのか。どんな者へも一切合切どうだ?)
人懐っこい笑顔を思い出す。
変わってしまった己の姿をその前に晒けて、どう思うか。その笑顔がどうなるか。彼は思った。
それとともに欲情に駆られたシノンの顔を思い出した。
(男だとか……女だとか……)
アイクは苦い顔をしてさっと胸元を閉じた。
そして戸を叩く音がする。入るように促すと、見知った人影が差した。
「……フォルカ、あんたか。何の用だ?」
影の正体である男は相槌も打たず、部屋へ入ってきた。
「まあ、ちょっと押し売りに来た」
男の含みを持たせた言葉に彼は眉を顰める。
「体術の鍛錬も欠かしてはいないようだが、戦闘時以外にも応用の利く護身術などを」
彼は男のその言葉に含まれる意味を察した。
男は彼の影として働く。軍属ではなく彼の私兵として。彼の父と縁のあった情報屋として近付いてきたが、戦闘力も卓越していた。
先ほども、男は彼とシノンの一部始終を把握していたのだ。いざというときのために得物である投擲用の短剣を構えながら。
「あんた……っ、もしかして」
彼がそれを指摘しようとしたその時、男は手早く彼の手首を掴み、瞬く間に寝台へ磔にした。
「さあ、どう逃れる?」
その紅い瞳が刺すように彼を見つめ、固く手首を固定する。この状況が先ほどのことを蘇らせ、彼の身を萎縮させた。
「万事休すか」
見下すように言葉が投げられる。
「おまえのその無防備さは獣の檻の中に生肉をぶら下げているようなものだ。増して、戦渦の中。兵の慰安に情婦が宛がわれる意味を分かってるのか?」
男の手が緩められた。
「おまえも男だろう? 分からぬか」
その言葉に彼は顔を熱くする。
男であると認められた、それは嬉しく思った。しかし、それに答えることはできなかった。
「そんな豊満な胸を近づけて迫ってみろ。おまえは何も感じないか?」
「何が……?」
男の問いに彼は口篭る。
「男の情欲を刺激する。それから身を守れなければ、不本意に孕んで戦闘も出来なくなる」
「は……孕む……」
男の言葉を反芻して彼は下腹部を触った。
「嫌だ」
口を結び首を横に振る。
「それ以前に、女の身となれば常に貞操に気を配るものだろう」
男がそう彼へ諭した。
「わかった。そう易々といいようにされるのは気に食わん。それにしても皆、そんなにこれが気になるのか。俺はどうでもいいが。もう見飽きた」
そう言い、彼は乳房を両手で掴み、揺らして見せる。男の眉がぴくりと歪む。
「それが気になるというのだ。挑発をするな」
男は目を見開いて彼の両手首を再び掴む。
「何だ、あんたも気になるのか?」
小首を傾げ、潤いの持った瞳で見つめ、薄桃色の柔らかな唇がそう訊いてくる。その下には揺らされていた豊満な乳房。晒布で巻いていないため、上着の布越しに乳頭の形が僅かに分かる。男は奥歯を噛んだ。
(グレイル殿との契約では、「息子を守るように」ということだったが、これは果たして息子といっていいのか。いや、何にせよ契約違反は起こせない。増して、女の身であれば尚のことだ)
彼の父親との契約を思い返す。その意志を継いだかのような庇護欲と単純な性欲の間で葛藤する。そして、渇きを覚える喉へ唾液を流し、
「ガキの誘惑などに乗るか」
と、一言投げた。
「くそっ、子供扱いするな」
男の売り言葉に彼は買い言葉を発した。己を子供扱いしたことに腹を立てる。その心の奥底にはまた違った憤りもあったが。
「もっとも、それが対価で、仕事の依頼があるというなら話は別だが?」
男は含みを持った言葉を投げる。意味が分からないと、彼は首を捻る。
「……娼婦のように体を売って、俺へ仕事の対価を払うということだ」
男の口が歪み、笑みを作る。
「……もういい、フォルカ、あんたは……くそっ」
彼は頬を紅潮させ、胸を隠すように抱え、言い捨てた。
「分かったか。じゃあ、教えてやろう」
「何をだ?」
「男に襲われたら、こう、急所を」
男は脚を蹴り上げる動作をしてみせた。彼は納得し、大きく数度頷いた。そして、
「よし」
男へ向けて脚を蹴り上げる。男は咄嗟に逃れる。少し焦りを見せた。
「避けるなよ、練習にならないだろ」
笑みを浮かべ、彼は言い放った。
「わかってる、そこを蹴られたら痛いってこと。俺も男だから」
数刻後、アイクはシノンを廊下で見かけ、すれ違おうとしていた。
「な、何だよ」
シノンはアイクに睨みつけられ、先ほどのこともあり、非常に気まずかった。しかし相手は構わず近づいてくる。思わず身が硬直してしまう。
そして
「ギャッ!」
アイクの脚が蹴り上げられる。
「俺も男だからな、そこを蹴られたら痛いのは知ってる」
「バッ……馬鹿野郎!」
股間を押さえながら、シノンは憤りを吐き捨てた。
「これでおあいこだ。さっきのようなことは、二度とないからな」
そして踵を返し、アイクは立ち去っていった。
「これだから女は嫌なんだ……、いや、あいつは男……」
ぼそりとシノンは呟いた。
憤りは消え、奇妙な感覚を覚えていた。
そしてそれが恋のようなものも含まれていると、気付くはずもなく。認めるはずもなく。
ライと対面して、彼と再会するまでの間の様々な出来事をアイクは思い出した。その中から選んで話していく。
「そうか……獣牙の奴がそんな」
生態を歪められ、狂わされたラグズのことを聞き、ライは心痛を覚えた。そしてそれに厚く対応したアイクへ益々の好意を抱いた。
「あれは氷山の一角に過ぎなかったようだ。行く先行く先であんな状態の奴と対戦している。デインの奴らが差し向けてくるということは、デイン側に何かある」
眉を上げ、真剣な表情のアイクへ向けて、ライも同じような表情でそれを受けた。
「ああ、今日もそんな奴と対戦した。あれは普通じゃない」
合流元であるオルリベスでの対戦にて、ライもそのような状態のラグズを目にしていた。
「デインと対戦していけば、いずれ、大元を突き止めることができるかもしれない。こんなことは止めさせたい」
「ああ。まったくだ」
深く息を吐き、同胞を思うライ。そんなライの表情を伺うようにアイクの目線が向く。
「あ、久しぶりだっていうのにな、しんみりしちゃって。おまえが元気でよかったよ」
すぐに気付いたライはおどけた笑顔を作る。アイクはそれを目にするも眉間に皺を寄せたままだ。
「……まあ、大変だったみたいだが」
そんなアイクの表情を見て、ライはそう声を掛ける。
二人は燭台の炎に照らされ、その影が部屋に揺らめく。駐留先の城内の一室にて、寝台に腰掛けつつ積もる話をしていたのだ。
ふと、視点を変えてこの状況をライは見渡した。
──密室に男女が二人。
ともに寝台に腰掛けている。あとは、雰囲気が盛り上がり流れを作れば、そのまま深い夜へと突入。
(こんなときに何を考えているんだオレは!)
首を横に振り、そんな考えを振り切ろうとするライ。
男だと思っていた友が、女になった。それも、注視するとそれなりの美貌。女性となり柔らかみを得ただけでこうも違うのかと思った。ただ、艶麗というよりは、凛とした、という言葉が似合う。
ふっくらとした頬と唇が触れたくなるように色付いている。潤った瞳、密度の濃い睫毛。狭くなった肩幅は抱きしめると、さほど隆々としていない彼の身にも収まるかと思われる。何よりも明確に性差を強調するのはその乳房。男の劣情を直に刺激するのは言うまでもなく。
さらに、鼻の利く獣牙のライは彼から発せられる芳香にも気付き、鼻孔の奥を擽られていた。
(何で気付かなかったんだ、オレは。こいつ、まるっきり女だ……)
アイクは戦闘中の装備で固くそれを覆っていた。それを解除するとこれほどまでに違うのかと。
そう悶々としているライへアイクはふいと頭を彼の肩へ寄せた。
「な、なんだ」
ライは内心、悶々としていたところだったため、かなり驚きながらもそれを隠し、さらりと彼へ声を掛ける。
「別に」
アイクは小さく返す。
「いや、いいんだけど」
そのまま肩を貸し、ライは胸を高鳴らせた。
「男って、普通は女の胸ばかり見てるんだな。こんな姿になって、皆、随分と俺のこれが気になったようだ。俺も男だから分かるだろ、と言われたけど分からん」
少し疲れたようにアイクはそう吐き出した。
「男だろうが、女だろうが、関係ない。ラグズだろうがベオクだろうが、関係ない」
そしてアイクは唱えるようにそんな言葉を紡ぐ。
「俺は俺だ」
自分へ言い聞かせるような言葉を聞いてライは彼がここまで思い悩んできたことを察した。
「おまえは……そうだよな。変な奴だよ。初めてラグズを見ても怖がらなかった。そして自分の身をさておいてオレを助けてくれた」
ライは滔々と彼に語りかける。
「そしてスケベ心もないのか、女をそういう目で見ないのな。ん、目覚める前にそんなことになってしまったか?」
その言葉にアイクは首を傾げ、考え込む。
「そういう気持ちを持たなければおかしいだろうか。ガトリーが女を見れば楽しそうにしているがあれが普通か? ボーレも裸の女の絵が見れる本を見つけてきて俺にも見せてきたが、何が楽しいのか分からん」
頬をほのかに紅潮させてアイクは団員の異性に対して色めき立っていた様子を告げる。
「おまえ、本当に興味ないのか?」
ライはそう訊くとアイクは少し考え込み、
「……何か、嫌だ」
さらに頬を紅潮させ、少し身を捩り、そう小声で言うと口を結んだ。
(……ウブなんだな、こいつ。っていうかその姿でそんな風にされるとヤバイ)
肩に寄りかかられる感触、頬を染めた愛らしい表情、その仕草、それらがライの情欲を刺激する。どう見ても純情な乙女にしか見えなかった。
「でも、俺は男だ」
「ああ、わかってる」
彼の宣言に対してライは優しく相槌を打つ。
「ライ、おまえも変な奴だな……ラグズの中では。ベオクが怖くないのか? レテとかが言ってた、血に刻まれている過去の記憶とか、ないのか」
アイクのそんな問いかけにライは一呼吸置いて答える。
「正直、完全に畏れがないとは言えない。でも、それは個々によるだろ。ベオクの中でもおまえのような奴がいれば、ラグズの中でも性根の曲がった奴はいる」
アイクが頷き動いた様子を感じる。
「おまえのような奴に出会いたい。だからオレは見極める」
ライは首を回し、アイクの方へ視線を寄せた。そのまま自然と指を重ね。ゆらりと尻尾が揺れた。
緩やかに流れる時間。
指と指が触れ合う温もり。肩を寄せあい、語らう。
「ライ」
「何だ?」
「おまえも女の胸は気になるのか?」
甘く緩やかな時間の中、そんな質問を投げかけられ、ライは軽く吹き出した。
「いや、まあ、その……。そりゃ、オレも男だから。気にならないといえば嘘になる」
「おまえもそうなのか」
「でも、嫌がる相手のものを無理に触ったり、じろじろ見たりはしないさ」
「そうか」
何か納得したような様子でアイクは相槌を打った。
「無理矢理触ってきたら金玉蹴ろうと思った」
アイクのその言葉にライは盛大に吹き出した。
「何か、護身術っていうらしい。そうされたらそうしろと。女の身であれば特に、らしい」
冷や汗をかきながら、その話の出所が気になるライであった。そして深く息を吐き出した。
「どうしても触りたいなら考えてやらんこともないが」
「いやいやいや……」
反射的に恐れを見せ、首を横に振ってしまうライであったが、自分に対してそういった意向であることに気付き、心の中で盛大に喜んだ。
「でも、俺は行軍中だから孕むわけにはいかん」
そしてアイクがさらりととんでもないことを口走っていることに気付くライ。
「はっ……?」
「俺はこんな身体になって、さらに生理があるから孕むそうだ。……俺だって知ってる。男と女が性交すれば子供ができるって。家畜を例に教えられた」
明け透けなことを淡々と告げていくアイクにライは体温を急上昇させた。
「不本意だが、俺の身体は今、女だ。だから」
「だから、って……おまえ」
ライは心なしか不安気な顔をしているアイクを見遣った。そして、彼の身に何かあったのでは、と察した。
「すまん、おまえに言ってもなんだ」
ライは思わずそんなアイクの手を握り、首を横に振った。
「何か、辛かったら言え。オレたち、友達だろ、な!」
ライがそう強く言ってやるとアイクは口を結び首を縦に振る。ただ、もうそれ以上は何も告げることはなかった。
そして思わず口から出た「友達」という言葉。
(……友達……)
握りしめた温かい手の感触。それがその情を向ける相手のもの。
(ああ、オレは卑怯だ)
そう思いながら彼は口を開いた。
「なあ、アイク。もう、夜も更けてきた。そろそろ寝ようか」
すらすらと台詞を流し、相手が頷くのを見ると
「ひとつ、教えてやろう」
ニッ、と口端に笑みを湛え
「獣牙族の挨拶だ。寝る前にこう」
相手の手を握ったまま、顔を近付けて、唇に唇を重ねる。
「おやすみ」
小さく手を振り、そっと部屋を出た。
そして扉の前で唇の感触を思い出すように指で触れ、思い出し笑みを浮かべるとともに罪悪感を感じた。
(あんな、誰彼も信じるような奴、危なくて放っておけない。……友達として、な)
ライが退室した後、アイクは指で唇を触れ、首を傾げつつもラグズの習慣を一つ知ることができたと納得していた。
そのまま寝台に横になろうと思ったが、用を足したいと思い部屋を出た。
「あ、レテ。もう寝るのか?」
「そうだ。休息も立派な任務だ」
通りすがりにライの部下である女性獣牙兵と出会う。声を掛け、アイクは近寄る。
「……なっ!」
アイクに手を取られ唇を重ねられたレテは驚き、顔を赤くした。
「何をするか!」
憤りなのか照れなのか判別できない表情と声で抗議する。
「獣牙族の挨拶なんだろ? 寝る前の。俺は知らなかった。ラグズに関して俺はまだまだ知らないことがあるようだな」
アイクのその説明に拳を固めつつ顔を引き攣らせるレテ。
「おまえ……それを誰に聞いた……」
翌朝、アイクは爪で引っかかれた痕のあるライと顔を合わせ、首を傾げていた。
クリミア解放軍は苦戦しながらも順調に駒を進め、首都奪還が目の前となった。
そんな中、グリトネア塔にてリアーネが囚われているという情報が入った。
リアーネは一旦、フェニキスにてティバーンの保護下にいたが、ティバーンの不在時にデインの手により囚われてしまった。
リアーネ救出のため、アイクらは別動隊として乗り込んだ。
その情報をもたらしたのは竜鱗族の女性であるイナだった。デインの幹部として内部にいたため、事情を知っていた。イナはリアーネがグリトネア塔に囚われていること以外にも情報を持っていたようだが、言い淀んだ。
それが何であるのか実地で悟ることになる。
ライは塔に近づくにつれ、表情を険しくしていった。
「どうした?」
それに気付いたアイクは彼に問う。
「獣の気配がする……それも、多数の」
ライの尻尾と耳の毛が逆立っていた。嫌な予感がしていた。
「なあ、アイク……あの塔、何か変だぞ……」
今までにない表情でライは息を吐き出すように言葉を吐いた。そんな彼の瞳は化身する直前のように光る。
アイクはそれが何なのか訊く。彼もまた、ライの普通ではない様子に息を飲んだ。
「……めちゃくちゃ嫌なにおいがする……」
ベオクにはそこまで感じられない臭いでありライほど感じられなかったが、確かに空気が淀んでいる感じはするとアイクは思った。
そしてイナが、塔には不正に生態を歪められたラグズが多数いると告げた。それも、種族も様々な。
「やっぱり……」
ライは呟き、奥歯を噛んで表情をさらに険しくした。嫌な予感が的中したのである。
追い打ちをかけるようにイナが一番多いのは獣牙族であると告げた。
その言い種にライは苦い顔をしたが、イナは正確な情報を告げたのみ、ということだった。
「ともかく、暗闇になると一気にこっちが不利になることは間違いないようだな」
獣牙族が暗闇に強いということを引き合いに出し、それらが多いという情報を合わせ、アイクも淡々と戦況を述べた。
そんなアイクの動じなさにライは軽くため息をついた。それとともに、知らず己の精神が弱まっていたことに気付く。少なくとも、戦闘が終わるまでは気を保っていなければ、と思った。
「……ライ」
そう思い直したところにアイクが声を掛けてくる。
「おまえは安全なところまで下がっていてくれるか?」
その言葉にライは背を熱くした。
そして見つめてくる瞳。
先程、イナとともに獣牙族が一番多いという話をした際は無神経かと思った。しかしそんな気遣いを求めるのも贅沢な話と思った。むしろ、彼の負担になってはならない。
しかし、彼のその言葉──
「ああ、」
絞り出すように声を出す。
「どうしてもためらいが出るかもしれない。おまえたちの足を引っ張るようなことになるかもしれない」
拳を握り、地面を見つめ
「……オレの仲間たちを、頼む。元に戻す術がないなら……せめて」
アイクの剣柄を見つめた。
「わかっている、まかせておけ」
そして見上げるとその強い瞳で訴え、返ってくる。
(ホント、情けない限りだ)
ライは自分の不甲斐無さに憤っていた。
先程も、鷹王が各種族取りそろえている、と軽口めいて言い放ったとき、不謹慎だと憤ったが、続いた言葉は「俺が楽にしてやる」という。
同胞を思う気持ちは同じだ。
己も同胞を思い、心痛を覚えているが、鷹王はそれを越えて最終的な手段で彼らを解放しようと決意していたのだ。
ライはそれも含めて、自分が不甲斐無いと思った。
そんな思考にたゆたっていると、
「……一連の問題の総本山かもしれない」
アイクがそう口を開く。ここがこれまで対戦した『なりそこない』の発生源ではないかと推測した。
「何か、手がかりがあるといいな」
ライはそう返した。それは、彼が事故により女の姿となってしまった解決法がそこにあればいいという意味で。
「ああ」
短く返しアイクはライへ背を向けて前へ進んでいった。
ライは愛おしげにその背中を見つめた。
──そこにあったのは悲劇としか言いようのない惨状だった。
なりそこないとデイン兵の部隊を退け、無事にリアーネを救出した。それは喜ばしいことであったが、対戦の結果、多数の犠牲となったラグズがいる。
「あいつらは……どのみち、助からねえ」
険しい顔をしていたアイクへティバーンがそう声を掛けた。血飛沫を浴び、染まった拳を握りしめながら。
アイクは、ここへ進軍しなければ少なくとも、なりそこないたちの命は据え置くことはできたかもしれないと思ったが、ティバーンの言葉で納得した。
「おまえは、悪くない」
憔悴の色を伺わせる瞳を向けてライは言葉を絞り出した。
結局、ライも前線に立ち、戦った。それが同胞の弔いになると思った。体に受けた痛みより、心に受けた痛みが大きい。
「……おまえも」
アイクはそう返す。
そしてイナが塔の地下へ案内するという。アイクらは地下へと向かった。
近づくにつれ、腐敗臭が強まっていく。ベオクの鼻でも分かり得るほどの臭いだ。アイクがこの臭いを指摘している。
ライは地下へ案内される前にこの臭いに気付いていた。塔が見え、狂わされているであろうラグズの気配を感じたときより嫌な予感を覚えていた。
足を進め、階段を降りきって、地下室への入り口を潜った、彼らは──絶句。
檻の中に詰め込まれるように獣の死骸。肉が溶け、骨が見えるもの、白骨化したもの、欠損したもの、その部位。
皆、言葉を失い、立ち尽くした。
檻から流れ出ている液体はもとは個体であったものが液状化したもの。蛆が泳ぐ。蠅が飛び回り腐った肉に群がる。
そこには個としての尊厳はなく、廃品のように捨て置かれていた。
「答えろ! これは一体何なんだ!?」
激昂したライがイナに詰め寄る。
「ライ!?」
今までにないライの取り乱した様子にアイクは思わず彼の名を呼んだ。
イナは淡々と、これはラグズ……もとはラグズであったものであると告げた。後に、デイン国王が各地から強者を募る際、対戦用として利用するため、薬を投与されたということも告げた。
「薬による実験でしょうか。その成れの果てがここに眠ると」
表情一つ変えず、さっと前に歩み、部屋全体を見渡し歩いていくのはセネリオ。
「……っ!」
その言葉を耳にしたライは体がわなわなと震えた。無意識に拳を握りしめていた。そして体が押さえつけられていたことに気付く。
振り向くと、口を固く結びただ見つめてくるアイクがいた。
「……ええ、僕は半獣は嫌いですよ。ですが、ここまで悪趣味ではありません」
その言葉は誰に向けられているのか。セネリオは一人呟く。腐敗したラグズの液体を躊躇なく採取していく。
「気味悪りぃな……あの参謀殿は」
そんな彼の姿を見て呟いたのはティバーンだった。
(この液体はアイクが被ったものと似ている。より投与された薬の成分が濃いと思われるものを採取。そして分析すれば……)
そんな外野など気にも留めず、セネリオは作業を続けた。
「そうか、あれは……」
ライはセネリオが何故ラグズの腐汁を採取しているかを悟った。
「くそっ、ちくしょう……っ、オレは、オレは……」
膝を折り、ライは嘆く。自分の不甲斐無さと同胞の悲惨さを目の当たりにした心痛から。だらりと尻尾を地に付けて、手も地に付けていた。
アイクはそんな彼の様子をいつもにないと思って見ていた。普段、余裕の表情で接してくる彼。諭すように案内してくる彼。冗談で笑わせようとしてくる彼。怒り、悲しみ、などという表情は見せない。それが今、剥き出しに怒り悲しむ。
地下から戻り、本隊と合流して結果を報告する頃には、ライを含めたラグズたちは平静を装い、過ごしていた。
「姫、大丈夫ですよ、オレたちは」
少し笑みを作り、ライは本隊の指揮を務めていたエリンシアへそう告げた。
エリンシアはそれを、普通に振る舞っていたようだが痛々しい様子だとアイクへ言った。
その夜、アイクは静かにライの部屋の扉を叩いた。
扉を叩く音がする。
ライはそろりと寝台から起き上がり、扉を開けた。
「どうした?」
首を傾げ、少しおどけたような表情で扉の向こうの主へ顔を向ける。
「入るぞ」
アイクはつかつかと部屋の中へ立ち入っていった。
「おい」
そんな強引さにライは少し惑うがゆらりと尻尾を揺らし、追う。
アイクは寝台に座り、ライを凝視する。口を結んだまま。ライはそんな彼の様子を見ながらそろりと横に座る。アイクの目線がライに合わせて移動する。
肩を張り、両拳を膝の上に置いて座るアイク。何か言いたいことがありそうだが、ライは訊かずにおいた。そしてそれとなく感じるその心。
「あのさ、」
しばしの沈黙。そしてライが口を開く。
「オレ、大丈夫だから」
彼の気遣いは感じていた。何か励ましの言葉でも掛けにきたのだろうかと思った。それでも不器用な彼のこと。どのような言葉を掛けるべきか悩んでいるのだろうか。
だから先手を打って言葉を発した。
これ以上情けのない己を見せることもないと、ライはいつもの様子、調子で彼に接する。
「はっ!?」
急に手首を捕まれた。
「いいぞ、触れ」
そして吹き出す。
その手は彼の乳房に誘導され、温かく柔らかな感触を感じた。
「お、おまっ……! 何を」
思いもよらないアイクの行動にライは戸惑いを見せる。
「こういうとき、男はどうしたら元気が出るか……って、俺も男だが、普通じゃないようだから他の奴に聞いた」
そして彼は胸元を開いていく。
「……どうだ」
上着を脱ぎ、現れたのは薄布で仕立てられた下着を纏う女体だった。乳房を象るようにレース模様があしらわれ、乳頭部分が透けて見える。申し訳程度に躰を覆うその薄布は優美な線と肌を透け見せている。
「いや、あの、おまえ、それは……」
ライは顔に血を上らせる。
「こんな下着を身につけていると効果的だって言ってた。どう調達しようものかと思ったが、ララベルが」
ライは彼にこんなことを教えたのは誰なのか気になり、彼に言い寄る道具屋の女が面白半分でこんな下着を貸したのかと思った。
(別のところが元気になるって!)
心の中で突っ込みを盛大に入れた。
「スースーして具合が悪いし、何がいいのかさっぱりわからんし、俺は男だからこんなの身に付けたくないが、おまえが元気になるなら」
あっけらかんとした表情で言い放つアイク。
「あと、胸を触りたいって言ってたから触らせてやる」
まるで菓子でも与えてやろうというような口振りでそう言い放った。胸を張り、強調すると乳房が揺れる。外気に触れたためか少しぷくりと立っている乳頭が艶めかしい。
「おまえ、意味分かっててやってるか?」
ライは喉の乾きを覚えつつ、諭すように訊く。
「おまえは嫌がる相手には無理矢理触ったりしないんだろう?」
首を傾げ、アイクはそう返す。そんな言葉を紡ぐ唇は形よく笑みを作り、触れたくなるような柔らかさを見せる。
その手が引き寄せられる。
「……嫌じゃない」
見つめてくる蒼の瞳。
ライはそんな瞳が訴える心を捉えて己の瞳に涙を溜めた。
そして固く彼を抱き、貪るように接吻をした。
柔らかさの中に溶けそうな、ひととき。
唇を唇から離し、彼の首筋に走らせる。
「もう、分からない、どうしようもない。オレはたまらなくおまえが好きだ。友達だと思ってた、でも」
その手で薄布越しの乳房を撫でる。
「はっきり言って欲情している。おまえをめちゃくちゃにしたいと思っている」
掌に伝わる重く撓わな感触。
「それが愛っていうのか? ホント、オレはどうしようもない」
乳房を揉みしだきながら首筋に鼻を埋め、不足していたとでもいうように鼻孔に甘い雌の臭いを満たす。じわりと唾液が涌いてくる。
「バカだよおまえ。こんな格好して現れてきたら食われるのは必至だぜ?」
瞳孔を開き、彼を押し倒し、息を荒げる。その手は下衣を脱がせにかかっていた。アイクはその動きを助長するように腰を浮かせる。
「おまえがしたいならしたいようにすればいい。俺は構わん」
瑞々しい肢体を寝台に投げ出してアイクは堂々と言い切った。下穿きも装飾が施された華美なものとなっていた。その姿は娼婦のような。しかしその佇まいは将たる風格を思わせる。
「女の躰は金になる。そう聞いた。俺のこの躰にどれくらいの値が付くのか分からないが、少しでも値が付くものなら使えばいい」
またしても彼にそんな知識を与えたのは誰なのか気になったライであったが、寝台で娼婦のように妖しげに肢体を投げ出しつつも凛々しくある彼の姿に感嘆を覚えた。
「物のように言うな。確かに、欲情はするが、金に換えてなんか……」
そのままライは覆い被さり、包み込むように抱きしめる。
「なあ、アイク」
狭くなった肩を抱き
「愛してる、愛してる」
撫で、同じ言葉を何度も投げ、幾度も角度を変えて口づけを与えた。小さく唇を吸う音が響く。
その手は次第に下着を潜り、生の肌を触れる。
そうして少しずつ彼の躰を愛するごとに心臓がごとごとと動くのが分かる。下肢へ集まる熱。
ふわりと髪へ指が触れた。
アイクがライの頭を撫でる。猫の毛のように柔らかな髪だった。耳や尻尾に生えている猫そのものの毛とはまた違う柔らかさ。ふわふわと撫でられる。
そしてライは胸元で抱かれた。撓わな谷間に埋もれながら。
言葉はない。投げかけた言葉に返る言葉は。
しかしこうして返ってきたあたたかな抱擁。それは彼の包容。大地に抱かれているような感覚を覚える。
「……っ、マジでもう……」
頭を撫でられる感触が心地よい。涙が出そうなほどに。
哀しみが溶けだしていくような。
(こいつ、男なのに……)
そんなことを思うが首を横に振る。
(アイク、おまえはおまえだ、だから)
確かに、女の躰に欲情しているが、彼を愛しいと思ったのは女になったから、というわけではなかった。躰がどうなろうとも心は同じ。その心を抱きしめたい。抱かれたい。そう思った。
心を抱くように抱きたい──
ライはそっと身を離し、アイクの目を見つめながら、優しく頬を撫でる。
「好きだ、なあ。好きだ」
指の一つ一つも語るように。
そしてそっと閉じられる瞳。安らかな顔だった。心地よさを感じているのだろうか。ライはそれに心を擽られ、笑んだ。
再び瞳が開けられると手を取り、指と指を絡ませた。手を重ねるとそれが己より小さいと感じる。彼もそれに気づいたのか少し切なげな表情をするが、少し力を入れて握ると口元に笑みを浮かべて握り返してきた。柔らかい手。
「おまえの手、大きいな」
その言葉に胸高鳴らせる。本当は、同じくらいかと思われるのに。相手の手が小さくなってしまったからなのに。しかし、それは飲み込む。倒錯を覚えつつも愛おしさを感じる言葉だった。
返す言葉の代わりにライはもう一つの手を重ねた。
そのまま昂りに身を任せ、より近づきたいと肌と肌を合わせゆく。ライは自らの衣服を脱ぎ捨て、アイクの下着をそっと取り払った。二人は裸で抱き合う。
「ああ、気持ちいい……」
生身の感触。肌のぬくもり。触れる柔らかさ。
言葉はないがアイクは抱きしめられたら手を回し、抱き返していた。そのたび、少し身を捩る。
「ん……」
思わず漏れる声。色を含んだ声だった。
ライは息を荒げて乳房を揉み、乳頭を吸った。舌先で転がすようにこねる。そこは張りつめたように固くなっていた。
「……っ、ちょ……痛っ……」
訪れる未知の感覚にアイクはそう表現するしかなかった。
「すまん、もうちょっと緩くな」
ライは手を緩め、羽根で撫でるように優しく刺激した。
「何か、んっ……何だ……んんっ、」
アイクは顔を紅潮させ無意識に手で口を覆い堪えつつも身悶えていた。瞳も潤んでいる。
「気持ち、よくないか?」
首を傾げつつライが優しく訊いた。
「……わからん、わからん……」
アイクは目を固く瞑り、首を横に振る。
そんな彼へもう一押し、とライは片方の手で背中や肩、腹などを撫で、乳頭を舌先で弾くように舐めた。
「ひ、やあ……っ」
可愛い声が漏れた。それはいわゆる喘ぎというもの。
「アイク、可愛い」
「うるさい」
そう指摘されてアイクは抗議し、指を噛む。
そしてうっすらと、団員のある男の言葉を思い出す。女になったからには性交をしてみろ、快感の度合いが違う、といった言葉を。
確かに感じていた。
これは快感なのだと。
(俺、女だ……)
泣き出しそうな感覚に襲われてきた。そして持て余す。両手の平で顔を覆い、荒くなる息を感じた。
でも、抵抗したいと思わなかった。
目を開けば愛おしげに見つめてくる左右色違いの瞳。
「くそっ、ライ……おまえ」
その感覚、感情。名前を付けるとしたら何か。
ただ、覚悟だけはできていた。
「おまえ、本当に可愛い」
ライがアイクの耳元で熱っぽく囁く。アイクは唇を噛んで首を振るでもなく鼻から息を吸い込んだ。
そんな唇を解くようにライは指で撫で、するりと開かせる。指に伝わる塗れた感触。
唇を開かされたアイクは目を瞑り、なすがままとなった。その表情は至極艶のあるもの。
指を離された後でも口は開かれ、薄く息を吐き出す。
ライの指は躰の中央の線をなぞり、茂みを撫でるとその奥へと進んでいった。
「ん、く……っ、」
アイクは言葉を発するでもなく声を漏らす。頭に血が上りそうだった。下肢を弄られるなど、普通では考えられないと。それでもそこへ至るのが自然の流れであると受け入れていた。
「大丈夫、うん。すごくいい」
ライは彼のこの状態が望ましいものであると言い、行為を進める。
「本当か? 何かおかしくないか……?」
臀部まで伝わり落ちるほど濡れた秘部のことを指す。ライが指でなぞる度にアイクは躰をびくびくと揺らす。自然と脚が閉じ気味になる。
「よかった、オレのこと好きでいてくれてるんだろ? だからこうなるんだ」
その言葉にアイクは返す言葉もなくただ顔を熱くした。そして下肢も痺れさせる。
(なんだ、これ……)
きゅう、と収縮する感じを覚える。
「アイク、好きだ」
そのままライは顔を近づけ、甘酸っぱい蜜を吸う。
「おまえ……っ、そんなとこ」
脚を大きく広げられ、そこへ顔を埋められ、音を立てて舐められる。さすがに羞恥を感じ、アイクは握った手に力が籠もった。自分でも見たことのない、知り得ない秘部が暴かれ、味わわれている。
「すごい、いっぱい出てくる」
「……っ、言うな」
溢れ出る蜜。さらさらと流れ、敷布に染みを作るほど。
「見える、よく見える」
「馬鹿、見るな」
指で拡げられ、まざまざと女性器を見られる。男であった彼にとって屈辱的なことでもある。言葉では抵抗する。しかし、今、こうされているこの相手なら抵抗しまい。躰はそう訴える。
「くそっ……俺も見たことないのにおまえがそんなに見るなんて」
男なら性器は友といえるほどよく目にするもので、近いものであるが、女の身になると見ることもできなかった。だからこそ余計に未知である。
「あのな、いい色、形をしている。心配するな。それでな、ここ、イイらしいぜ?」
同じ男であるからこそ不安に思っているだろう彼に、ライは今目にしているものの様子を告げる。そして剥き出しにした陰核に触れる。
「ひ……っ、」
強い刺激にアイクは思わず全身を震わせ、声を漏らした。
「やだ、っ、な、んだっ……、痛っ」
濡れた指先で滑らかに尖った突起を撫でられる。
「大丈夫。気持ちよくなるだけだ。女はここがイイらしい」
アイクはシノンが言っていた言葉を再び思い出す。これが女体の快感。それも直に感じる強い刺激。男の自慰の際の刺激と似ているがそれより鋭く強い。
「ああ、もう、あっ、やだ……っ」
アイクは首を激しく横に振る。腕を空切らせ、爪を敷布に埋め、背をしならせるなど、上体で盛大な反応を示した。
ライはその反応を目にし、彼に快感の頂点へ達してほしいと行為をさらに続ける。そして己も興奮を高める。
ちゅう、とそこを吸うとぴくりと揺れる躰。
「あっ、あ、」
短く息を吐き出すように漏れる喘ぎ。
彼は未知の快感に翻弄されていた。今までに味わったことのない快感。躰が空を浮くような。
男の体のときは生理的な欲求で排出するかのように自慰をして、それに伴い快感を得ていたが、それとは違う。女体には快感を得るためだけのこんな部位があったなど知るはずもなく。
単純に快感を得るためなら相手は誰でもいいのか?
あの男に押し倒されたときは危機感ばかり感じた。本能的に遠ざけようという意志が働いた。
だが、今こうしている相手には──
抱きしめ合うだけで快く。
「気持ちいいってことは、好きってことだ」
そんな言葉が響いた。
(女だからか? 女の体だからか?)
どこから発せられるのか分からない声が漏れる。甘く、切なく、高く。
「く……、んっ……」
そして喉を締まらせたような声。
下肢から毒が全身へ回るような甘く痺れる感覚。
彼は背をしならせた後、丸め、波のように押し寄せるその感覚に飲まれて漂った。一瞬で薔薇色に染まる肌。瞑った瞼の奥の眼球がぴくぴくと動く。
「はっ、はあっ、はっ……」
波が引くとともに短く腹で呼吸する。
アイクはそんな感覚とともに寝台に沈み、指を動かすのも忘れていた。
「イッたか? いい顔してた。可愛い」
完全に無防備になっていた彼にライはそんな言葉をかけ、包み込むように抱きしめた。
普通なら「うるさい」と機嫌の悪そうな声で返し、肘鉄の一つでも食らわせるところだが、アイクはひとつの音として柔らかく耳に入ってきたその言葉を心地よく感じた。抱かれ、幸福感も覚える。
「……っ、……だろ?」
掠れ声でアイクは何か漏らす。ライはよく聞き取れなかった。
「……女だから、だろ」
自分でも声が出ていないと思ったアイクの口からその言葉がもう一度発せられた。
ライはそんな彼に胸高鳴らせる。
「オレはどっちでも。男でも女でも。おまえだから」
抱きしめながら返すライ。
「俺は女だから……なっ、女だから」
アイクは向き直り、ライと対面し、肩へ手を回す。
「女だからこうできる、おまえと」
そして口付け。長く、唇を重ねた。
──それが恋人の証
そう言うように。
唇を離すと、彼は目を逸らした。耳まで顔を赤くする。
(期間限定のつもりなんだろうか)
ライは思った。アイクはこの姿だからこそ、こうであると割り切ったのだろうかと。女の姿になったから恋人のようなことをできると。
(オレはいつまでもおまえとこうしたいのに)
抱きながら髪を撫でる。
彼は女だから、と宣言する。それは逆に男であるということの強い宣言。体は女、心は男。それは崩せない。頑なであった。
(でも、分かるぜ、それがプライドってやつだ)
男としての自尊心。それは強く持っている。種族の垣根は気にしないが性別は──
「おまえが、元気出たようで……よかった」
その言葉にライの目が見開かれた。
そして、身を挺して守ってくれたあの時を思い出す。
──ああ、やっぱり、垣根などない
溢れ出すような愛おしさを示すように強く抱いた。そして強く抱き返される。
「……いいのか?」
そのまま二人は身を寄せ合い掛け布を被り、横たわっていた。
「いいんだ。放っておけばおさまる」
ライは滾った一物をそのままに、情交を終えた。
「入れないと終わらないんだろ……?」
「入れたらおしまいだし」
孕ませてはならないと、ライは挿入を避けた。
「まだいろいろと終わってないしな。おまえだって元に戻れるかもしれないし」
まだ行軍が終わっていないことと、セネリオが姿を戻す薬を作ろうと材料を持ち帰っていたことを指し、ライは言った。
「……戻れなかったら」
ぼそりとアイクが漏らした。
「ガリアに来るか?」
ライは軽口めいて返した。
「考えておこう」
アイクはそう言い切るとぷいと背を向けて寝入る体制に入った。そんな背中を見てライはじわりと幸せを感じ、笑みを漏らした。
(………やっぱ、ツライ)
寝息が聞こえてきたとともにライはもぞもぞと動き、先ほどの行為や光景を思い出しつつ自分で自分を慰めた。
最終決戦は熾烈なものだった。
王都奪還を図るべく、クリミア解放軍はデイン国王が陣取っていた首都メリオルを攻略した。
最終的には将同士の討ち合い。
アイクは神剣ラグネルを以てデイン国王アシュナードへ立ち向かっていった。
「おまえ……この体でよくやった」
戦闘が終わり、クリミアの勝利が訪れ、長きに渡った戦役も終了したのだ。アイクはアシュナードに勝利し、クリミア宮廷内の一室にて治療を受けていた。
「ああ、自分でもそう思う」
寝台に横たえながらアイクはライに手を握られ、応えた。
「正直、男の体なら、と思った。何度、耐えきれないと思った。あと、これで打ち抜けると思っても力が足りてなかったとか」
ライの手に力が籠もる。アイクの指がぴくりと動く。
「でも、手数で勝負したんだな」
「ああ」
彼は諦めなかった。何度も、何度も挑んだ。
「勝機というのは突然訪れる。あれは……まさに視界が開ける、といった感じか」
アイクは目を瞑り、そのときの光景を思い出す。
アシュナードの攻撃を避け、退きながらも誘導しそのときを待つ。力が足りなければ足せばいい。助けがあるなら最大限に利用して。そうして飛来してきた鷹王の背に乗り、上段から振り抜いた。落下による慣性の力を足して重みを増したその一撃は狂王を鎧ごと砕いたのだった。
「俺一人じゃ無理だった。鷹王も……皆もよくやった」
口端を少し上げ、彼は頷く。
「おまえも」
頭を上げて瞳を開き、真っ直ぐと向く。瞳を向けられたライも目を見開きそれを受ける。
そしてそのままライは額をアイクの額に付け、緩く擦った。アイクも緩く頭を動かす。その視界にゆらゆらと揺れる尻尾が映る。
窓からは春の木漏れ日が差し込み、あたたかな時間が流れた。
「おまえは、ホントに凄いよ」
ライはふわりとアイクの髪に触れて撫でる。アイクの頬がほのかに朱に染まった。そしてゆっくりと二人の顔が近付き、唇も近付く。深く角度を変えて触れ合う。
「お兄ちゃん~、起きてるでしょ? 鷹王さま来てるよ」
戸を叩くのもそこそこに、先程アイクが目を覚ましていることを確認していたミストが部屋に入ってくる。
「……!」
ライがものすごい勢いで振り返った。ひゅうと口笛の音が響く。
「きゃあ!」
ミストが両手を口に当て、頬を赤らめて黄色い声を出した。その後ろに口笛を吹いたティバーンがいる。
「なるほどな、おまえらデキてたか」
ティバーンがにやにやと笑みを浮かべてそう言い放った。
「い、いいえ! 鷹王! こ、これは!」
挙動不審になったライが手と首を振りながら否定した。
「そっか、お兄ちゃんは女の人になったもんね。ライさんとラブラブなんだ。いいなあ」
赤面しつつもミストはこの恋人同士の光景を思い出しうっとりと語った。
「鷹王、あんたも傷とか大丈夫か?」
アイクはそんな騒動を全く気にせずティバーンへ容態を訊いた。
「俺を誰だと思ってる? へへ、この通りだ」
ティバーンは腕に力瘤を作る仕草をして健在であることを告げた。そしてつかつかと部屋の中まで入っていき、アイクの元へ寄る。ライは思わず体を反らしつつ場所を空けた。
「おまえは大分深手を負ったな。まあ、ベオクにしちゃあ大した生命力だ。しかも女の身であそこまで戦った」
ぐりぐりとアイクの頭を撫でるティバーン。
「あんたが救援に来てくれなければ勝てなかった。そして皆の力があってこそだ」
アイクはしみじみ語り、自分の両手を見る。
「ベオクもラグズも、男も女も、皆、戦った。俺たちに協力してくれた。俺は任務を遂行した、それだけだ」
そんなアイクを見てティバーンは数度頷き、
「くぅ~、いいこと言うな、おまえ。やっぱりな、マジで女だったら娶るぜ」
そう言い放つ。
「……お兄ちゃん、すごいね。鷹王さまのお嫁さんにってこと? 女王様になれるよ!」
「あのな……」
ミストが笑いながら目を輝かせてアイクへそう言うとアイクは苦笑いをしていた。睦言で同じ意味の言葉を言ったことを思い出し、ライも苦笑していた。そして同じラグズにしても向こうは一国の王であることに肩を落とすライであった。
(オレじゃあぺーぺーだし……。一国の王に敵うか)
ライの溜息がひそかに響く。
「鷹王、俺は男だからな」
牽制するようにアイクが宣言する。
「ははっ、もう何度も聞いた。しかし惜しい」
そうしてティバーンの誘いには即座に断りを入れるのだ。一方、ライの誘いには軽口めいた睦言の一つとはいえ、返事は保留されている。拒否はされていない。
その事実を思い出し、ライは緩く笑みを浮かべた。
「そこの青猫」
そんなライに声が掛かる。ライは驚き耳と尻尾の毛を逆立てた。尻尾が倍近く膨らんだ。
「おまえ、軽い気持ちでベオクに手を出すんじゃねえぞ? 分かってるか?」
猛禽そのものの鋭い目つきで睨まれつつ低い声でそう言われる。
「て、手を出すだなんてそんな」
ぶるぶると首を横に振る。
「……お兄ちゃんは?」
ミストが首を傾げながらアイクへ訊く。
「何がだ?」
アイクも首を傾げる。
「ライさんのこと、好きなの?」
ミストの質問にその場が静まり返った。
アイクは眉を上げて一呼吸置き、口を開く。
「嫌いなわけないだろう」
さらりと告げられるその言葉。
「そっか」
そして脱力し、へなへなと座り込むライ。
「嫌いなものを全身で守れるか。俺はおまえたちを守りたいから強くなろうとしてきた。なあ、分かるだろう? 鷹王、あんたも」
真っ直ぐな目でミストへそう返し、ティバーンへも目を向ける。
「はは、そうだな。民たちを……全身で守る。いいな。その言葉」
腕を組み、緩く羽ばたいてティバーンは自国の民を思い笑みを浮かべた。
「っていうか、オレ……」
ライは自分で自分を指差す。
「おまえに守られてんの? 男が女に守られてんの?」
「……俺は男だ」
冗談めいて笑いを含み、ライが腰を曲げアイクへ訊くとアイクは低く一言言い放った。
そうして部屋中に笑いが起きた。
ライは幸福感と彼に対する愛情を感じていた。
そして、この先どのような結末が訪れようとも受け入れ、彼とともにありたいと言った。
セネリオは薬を調合し、実験も終え、思案していた。
「ご協力ありがとうございました」
ともに原材料の成分を分析し、試薬を作り上げていたキルロイへ礼を述べる。
「ううん、僕もアイクには戻ってほしいから……でも、」
キルロイも思うところがあるようだった。
「どうなんだろうね、アイクにとっては」
セネリオもキルロイのその言葉と同様なことを思っていた。
「……アイクは恋をしているんじゃないかな」
このところのアイクの様子を思い出し、キルロイは言った。
「初めはあんなに辛そうで、女でいることが嫌でたまらない、といった感じだった。でも、ライさんと一緒になってから……なんか、柔らかくなった」
キルロイのその言葉にセネリオは複雑な思いを浮かべた。
「体が変わったら心も変わるのかな。それとも心は元々……。だとしたら体は女の方が幸せなのかなって」
セネリオはただ黙ってその言葉を胸の内で反芻する。彼もまた、アイクへ恋をしていた。それはアイクが女の姿になったからなのか、元々なのか。
キルロイはそんなセネリオの想いをはかっていた。どちらにしろ、彼にとっては辛いことであると。
(片思いって辛い。セネリオ、でも君は、アイクのために薬を作ったんだ。その心は素晴らしいものだと思うよ)
そして心の中でそう語り掛けた。それはあえて口に出すまいと。彼の胸の中へしまわせた方がいい感情であると気遣って。
「アイクの人生は……アイクが選びます」
セネリオは手の中にある薬を見つめ、そう呟いた。
「そうだね。それがどんなものであっても僕は応援するよ」
「ええ」
アイクの手に薬が渡された。
そして彼は選ぶ、その道を。
「ああ、決めた。俺はこれを──」
その道がどんな道であっても受け入れると言った恋人の言葉を思い出しながら。
─了─