もとめよ、さらばあたえられん それは、家主である少年が留守だったことと、自宅警備員と化している騎士王が珍しく不在であったことと、あかいあくまに呼びつけられ滞在を命じられたことが重なってできた偶然の
暇だった。
ライダーから借りた本を手に、縁側に腰を下ろす。
壁を背もたれに胡坐をかき、字面を追い、時折、洗濯物の揺れる庭へと顔を上げつつ読書に興じる。
まったく過ぎた平穏だ。
*
ランサーは玄関をくぐらず、衛宮邸の門からまっすぐ縁側を目指した。靴を脱ぎ捨てて室内に上がる。床が軋む。
庇の影に隠れた男から小言が飛ぶより早く、その目を奪う本をひょいと取り上げた。
「ランサー」
咎める声に、おう、と答える。ランサーはそのまま背中を向けて膝を曲げた。座る先は、ひなたぼっこをしながら読書をしている男の前、脚のあいだ。
「ほら、手」
宙に浮いたアーチャーの手を取り引き寄せて、取りあげた本を元のように掴ませた。読みかけのページに挟んでいた指が抜けてしまい途中がわからなくなったが、まあいいよなと気づかなかったことにする。
背後で眉をひそめる気配。
「これはどういうことだ?」
「どうって、べつに。俺のことは気にするな」
「ならんわけあるか、たわけ。途中がわからなくなったではないか」
ランサーの両脇から前に回された手がページを繰る。読み途中を探してぱらりぱらりと紙が過ぎた。
黄色ベースのアロハシャツに、アーチャーの黒シャツの袖が影のように横断している。
ランサーは後頭部をぐりぐりと押しつけて背中をずらして、据わりのいい位置を探した。ゆるく胡坐をかくアーチャーの脚を縦断する形で両足を伸ばす。座椅子に背を沈める。薄いシャツ二枚越しに伝わる体温が熱い。
「お前、体温高いな。風邪か?」
「日なたにいるせいだ。サーヴァントが風邪を引くわけなかろう」
「あー、なるほど」
アーチャーはランサーの肩越しに本を読む。よっぽどおもしろいのか、ランサーの邪魔など気にしては負けと思っているのか。
最初は、おそらく後者だったに違いない。それが途中から前者に変わったのは、ランサーが座ったきり特にいたずらをするでもなく、じっとしているためか。
「……ふは」
やわらかい息が漏れる。背中が熱い。
なんだ、と訊ねる低い声に、いいや、とランサーは
応えを返して目を閉じる。口元に笑み。
今日はバイトも買い物もない日だったらしく、家主はまだ日の明るいうちに帰宅した。
縁側にいるランサーから三メートルほどの距離をもって、家主こと衛宮士郎がその足を止める。
「……なに、やってるんだ?」
訊きたくないけどそうはいかないと、不要な義務感にかきたてられでもしたか。恐る恐る絞り出された声はずいぶんと小声で聞き取りづらかった。
「見てわからねぇか?」
「あまりわかりたくない、かな」
「ふむ」
ランサーはまばたきで間を繋ぎ、
「あまやかしている」
にやりと口角を吊り上げ、目を細めた。半歩ほど後ずさる士郎に笑みを深める。
ランサーの体勢は、縁側に上がり腰を下ろしたときから変わりない。アーチャーを座椅子代わりに長い両足を庭へ向けて投げ出している。
簡単な間違い探しのように、異なる点は明らかだ。
ひざ掛けのようだった陽光は太陽が傾いたことで、今や顎下あたりにまで伸びた。ランサーの脇から腹へ回され本を掲げていた褐色の腕は力なく落ちて、本はその上向いた手のひらに重しのように置いてある。寄りかかるランサーの右肩には白い頭が落ちていた。
「寝てるのか…?」
今度は意識しての小さな声に、ランサーはただ笑い返すことで答えた。
「坊主もやってもらったらどうだ?」
「えっ」
「嬢ちゃんに」
「あら」
「え!?」
肩を跳ねさせて振り返る。少年の背後から現れた遠坂凛は、
「やる? 士郎」
腰のうしろで手を組み、覗きこむようにして、蠱惑的な笑みを浮かべて首を傾げた。黒髪がひと房、その肩から垂れる。
一緒に帰ってきた凛はここまで傍観していたが、話を振られたことで前に出た。
「と、遠坂! この場合どっちが、ってそうじゃなくて」
「何よ、嫌なの?」
「イヤとかそういう問題じゃ」
「ほかにどういう問題があるのよ」
しどろもどろに弁解しながら後ずさる士郎に、逃がすまいと凛は距離を詰める。
「お、俺、夕飯の支度があるからっ」
言い訳にしてはまっとうだがどこか苦しい弁解とともに回れ右。制服を着替えようと自室に向かいかけていたのだろうが、今は撤退すべきと判断したらしい。カバンを胸に抱えて消えた。
凛は半眼でその背を刺し、ため息を吐く。ランサーへ片手を軽く上げてから士郎を追う。
ランサーは、いまだ人形よろしく抱えられた格好のまま苦笑した。
「嬢ちゃんも苦労するな」
なあ? と背後に同意を求める。褐色の腕をさする。シャツの袖からその内側に指を伸ばして、いたずらに引っ掻いた。
それでも無反応な男を、
「タヌキめ」
やや低めの声で咎める。
「──あまやかしているのではなかったか?」
笑み吐き出された息が首筋にかかり、腹に回された両腕が力を込めた。
そうだ、それでいい。
「これ以上は延滞料金が必要だな」
「超過分は支払おう」
「倹約化のお前が、また随分と気前のいいことで」
「倹約と浪費は別だ。必要なときに出し惜しみしないためにもな」
「ハッ!」
笑ってしまう。
支払いは必要なことだとアーチャーは言う。だからお前たちには苦労するのだと、ランサーは言った。同意を得られそうな少女は今ごろ、少年と並んでキッチンに立っているだろう。
「何がおかしい」
嘲笑めいたランサーの態度に、アーチャーはやや気分を害したらしい。隙間なく張りついていた背中の熱が離れる。
ほどけそうになる腕の拘束を押さえて止める。
「貴様はあまえたいときにあまえればいい。素直にな。見返りなんぞ不要だ」
そんなものを用意することこそ無礼千万だと、なぜ気づかない。わかっていながらも自身を切り売りしなければ落ち着かないか。
あの坊主はまだ“照れ”が幾分かを占めていた分、改善する余地がある。けれどこの、ランサーが座椅子代わりにしている男は、凛がしたものと同じ申し出をしたところでさらりと躱して離れるのだ。
対価がなければ望むことさえ罪とする。欲を持てるようになっただけマシになったとも言えるが、まだ、手を伸ばしてくるまでには至らない。
アーチャーは呆れの滲む息を吐いた。ランサーに腕を掴まれ、両足にかかる重しを突き飛ばせないせいで動けない。自由になる頭を下げる。
「延滞料金と言いだしたのは君だぞ」
「そうだな。だが、あの返答は不正解だ」
「正解があるのなら聞かせてもらおう」
「そんなもの簡単だ」
ランサーは上体をずらして振り返り、アーチャーと顔を合わせた。
朱が強くなってきた西日が縁側を余すところなく燃え上がらせる。
薄墨の刷いた眼を覗いて、ひとこと。
「──お前がほしい」
ただ請えと告げる。
*
過ぎた平穏だ。
この身には余る。