チョコ・ホリック3日前 ほら、と視界に差しだされた手を見てから、ランサー=クー・フーリンは怪訝な表情でその手の主を見た。スーツの袖をのぼって肩からシャツ、ノリの効いた襟ときっちり締められたネクタイのノットを辿り、口元だけ笑った男と視線を合わす。
オフィスチェアに座ったままでいるせいで、立った相手──アーチャー=エミヤからは見下ろされる格好だ。
背もたれを傾がせることで鷹揚に見上げてやる。片腕はデスクに載せた。
「あ?」
「バレンタイン」
「……は?」
「知らないのか?」
「ンなわけあるか」
半眼で否定する。知らないわけがない。
アーチャーは肩をすくめる動作で差しだした手とそこに乗る箱を軽く振り、
「チョコがほしいと言っていただろう」
片眉を上げて、今ここで箱を突きつける理由を告げた。
数日前。確かな日数は思い出せないものの、そんなことを口走った記憶はあった。聞いていたのはこの男だったか、同僚だったか。それさえも曖昧な、他愛のない願望だ。
「そりゃ言ったがな」
この時期になれば、それが本心からであろうとなかろうと、とりあえずは口にしてみるものだ。チョコがほしい、という建前を糊塗した、愛がほしい、という我慾。
実際にもらったらもらったで今度はひと月後のオカエシが待っているのだから面倒な行事であることも否定できないが、麻薬のような承認欲求は、もらえなかったらなかったで、また宥めるのが面倒な自意識だった。
近頃は“女性陣一同から”という渡され方をされるのだから、社会人にとってはバレンタインも正月とたいして変わりのない挨拶行事のひとつでしかない。会社以外のサプライズを期待して嘆きたくもなる。
──しかし。だからといって、男からチョコレートを渡されるとは思わなかった。
「私からでは不満かな」
「男からもらうもんじゃねえだろうよ」
「それは偏見だ。男から花を送る風習もある」
「女にな。ま、そうでなくとも、ここじゃあ少数派だ」
バレンタインデーは女から男へ、ホワイトデーは男から女へ。それがこの国の一般的な慣習だ。
ランサーがいつまでも箱を受け取らないでいると、アーチャーはそれをデスクの端に置いた。
「市販品だ。手作りではないから安心したまえ」
「そらどーも」
「いらなかったら捨ててくれ。ああ、犬猫にはやるなよ。彼らにとっては毒物だ」
そう言って背を向ける。
デスクに戻るのかと視線で追えば、コートとカバンを取りあげた。スケジュールを確認する。出張らしい。
パーティションで作られた死角に頭を戻す。
ちょうど届いたメールを開き字面を追っているうちに、アーチャーは出かけたようだった。他のメンバーも出払っているせいで、離れた別チームが打ち合せる声がノイズとして届く。
「…………」
残された箱を見る。腕がふれれば、バランスを崩せば、デスクの下に置いたゴミ箱へちょうど落ちる位置に置かれたのは故意か偶然か。
社会人にとっては正月とたいして変わりのない挨拶行事のひとつとなるバレンタインも、世にあっては華やかなイベントのひとつだ。会社以外のサプライズを期待して嘆き、通勤途中に手渡されるような、到底起こりえない妄想すらちらりと頭を掠める。
しかし、まさか男から、それも職場の上司から手渡されるとは、誰も想像できないだろう。
世間の浮かれた空気に流されでもしたか。
「……義理かね」
日頃の礼として。部下を労うために。
ランサーはチョコレートの箱を取りあげると、デスクの端からカバンの中へ落とした。
当日 ぜひ、とまで言われてしまっては断れない。
「おいしいです、アーチャー」
しっかりと目を見て心からの感想を告げてくる女性に、アーチャー=エミヤは小さく笑い返した。
傾けていたティーポットをゆっくりと水平に戻す。
「口にあったようで何よりだ」
紅茶を注ぎ、紙杯をデスクの端に置く。
口の中のチョコレートブラウニーを飲み込んだ女性──セイバー=アルトリア・ペンドラゴンは、ありがとうございます、と礼とともに頬をゆるめた。湯気の立つカップに口づけて、またブラウニーをひとくち。
甘いものは幸福感を得やすいとは言うが、食べている姿を見ているだけでも得られるものらしい。アーチャーはオフィスチェアの背もたれを引きながら、いたずらっぽく嘯いた。
「お返しは期待できるかな」
「!! も、もちろんです! お任せください」
聞いたセイバーは目を丸くしてから拳を握る。
胸でも叩きそうなその勢いを、「冗談だ、本気にしなくていい」片手を振っていなし、腰掛けた。
金色の眉が下がる。
「ですが」
「私としては、今日、何かもらえるものと思ったのだが」
思い違いだったかな、と片目を瞑る。真剣に受け取られるのは本意ではない。
世はバレンタインデー。由来を横に置かれた年中行事はその数日前からテレビでも街頭でも文字が踊り、男女問わず否が応でも意識させられた。
アーチャーはセイバーの期待に応えてブラウニーを作ってきたものの、この国の風習からみれば、本来は貰う側だ。
話を向ければ、
「もちろんです、アーチャー。──これを」
セイバーは膝に載せていた小さな紙袋から中身を取り出した。リボンの巻いてある箱を差し出す。
「日頃の感謝を込めて」
味は確かです、と続く。
きっといくつも試食したうちで一番その舌に叶ったものが選ばれたに違いない。
「ありがとう」
セイバーらしいと笑いながら受け取る。
「──お取り込み中のところ悪いんだが」
コンコン、と軽いノックとともに声がかかる。
パーティションを叩いたのはランサーだった。
衝立はデスクの周りをぐるりと囲っているとはいえ、出入り口だけは開いていた。ノックのできるドアはない。
「では、アーチャー。私はこれで」
「ああ」
セイバーは空にした紙杯を持ったまま立ち上がり、ランサーの横を抜けた。
その後ろ姿をパーティションの向こうに見届ける。長身のランサーとは違い、小柄なセイバーは衝立を挟むと頭も見えない。
入れ代わりに対面したランサーも同じように見送り、視線を戻すと、デスクに置いてある箱とケーキを見つけて眉を上げた。
「逢引きならもっと隠れてやったほうがいいんじゃねえか?」
「下衆の勘繰りだな。ゴシップ記事でも書くつもりか」
止めはしないがね。
アーチャーは背もたれに背を預け、スクリーンセーバーの起動したモニタにパスワードを打ち込んだ。放置していたメールを少し書きなおしてから送信ボタンを押す。新着を告げるポップアップを無視して重要なメールに目を通す。
「──いつまでも立っていないで、座ったらどうだ」
未読表示の並ぶタイトルを読み流しながら、デスクを挟んで立つランサーへ水を向けた。
呼びつけたのはアーチャーだ。今期の成果評価と面談のためであり、私的な用はない。その点はランサーも承知している。
ちらりと窺った灼眼は、ランサーの気を引くものがあったらしく、アーチャーを見てはいなかった。
視線の先にはセイバーからの箱とブラウニーの詰まった箱があり、──どちらに焦点を結んでいるのかまでは、二つが近すぎてわからない。
ただ、
「バレンタインか」
と呟いた。
アーチャーが何かを言う前に、ランサーは、さっきまでセイバーの座っていたイスに腰を下ろした。
チョコレートブラウニーを顎で差す。無地の箱に敷き詰められた茶色の焼き菓子は明らかに市販品とは異なる。
「手作りか?」
「……セイバーにねだられてね。面談のときには何か用意するようにしているが、今日は特別だ」
殺伐としがちな職場にあって、菓子類はコミュニケーションツールとして効果的だ。上司と部下という関係性においてもその雰囲気を円滑にし、話しやすくする。
いつもは市販のチョコレートだったが今年はバレンタインが重なった。
「食べたい、と直截に言われてしまっては断れまい」
モニタ越しに肩をすくめてみせる。もちろん、個包装されたチョコレートの詰め合わせも用意してある。
引き出しを開けて袋を掴みだす。
パッケージを開ける前に、「じゃあこれ、食っていいのか」ランサーの手がデスクに伸びた。
蓋を開けたままだったチョコレートブラウニーがひとつ、攫われていく。
「──なんだ。悪かったか?」
「あ、ああ。いや、構わないが」
アーチャーは口ごもり、どうぞ、と促す。
よほど間抜けなツラを晒していたらしい。怪訝に問いかけられて、自身の顔を撫でた。
ランサーの口に放られる茶色の塊から目を逸らす。
「うまい」
「…………」
ぽろりと漏れ聞こえた感想に息が詰まる。
口にあったようで何よりだと、セイバーへは返せた言葉が喉につかえた。代わりに、
「チョコレートにもグレードがあってね。それにはクーベルチュールという製菓用のものを使っている」
つらつらと不要な語りでもって、不自然に強張った間を流す。
「板チョコとは違うのか」
「添加物や砂糖などの割合が異なるし、何よりカカオ分が違う」
「へえ」
ランサーは相槌を打ちながら、指先についたらしい油分を舐めた。
紅茶は、とアーチャーが訊けば、いる、と返された。広めのデスク脇に置いた電気ケトルを取り上げる。
「セイバーにねだられて、ね」
「…………」
含みを持たせた言い方に、紙杯を用意する動きに紛らせて目をやる。
ふたつ目のブラウニーを齧るランサーは盗み見されることを予想していたらしく、アーチャーをしっかりと見返した。
「オレにはわざわざチョコ買って寄越すたぁ、たいそうな嫌がらせじゃねえか」
「嫌がらせをしたつもりはない」
眉根を寄せて否定する。鼻で笑われた。
今日というバレンタイン当日より前にランサーへ渡したチョコレートはアーチャー自身もたまに購入する店で買ったものであり、味については、セイバーではないが、保証する。何をもって“嫌がらせ”と断じられるのか。
ランサーの言い方では、手作りが欲しかった、と取れる。──しかし。
「好意を持てない相手から手作りの菓子を送られたところで、扱いに困るだけだろう。市販品ならばまだ手をつけやすい」
誰かにあげてしまうこともできる。
だから嫌がらせではなく、アーチャーはただ、欲しいと言ったランサーの言葉を免罪符に押しつけた。迷惑だとは百も承知だ。
アーチャーでは、ランサーが求めるモノを渡すことは叶わない。
「…………」
ランサーはがりがりと頭を掻くと、はああ、と大きなため息を吐いた。
膝に両手を置いた反動で立ち上がり、ブラウニーの詰まった箱を掴む。蓋を閉めた。
「こいつはもらっていく」
「は?」
ティーポットを持ち上げたアーチャーが反応できずにいるうちにチョコレートブラウニーは攫われた。呼びかけは青い尾の先をかすめただけで振り払われてしまう。
囲いの中は甘いにおいだけが残された。
「……面談は、まだ終わっていないんだが」
はじまってすらいなかったが。
強制的に終わらせられた。
「…………」
デスクを眺めて息を吐く。仕方がない。
淹れたばかりの紅茶は自分のカップに注ぎ足した。
二時間後にやってきたセイバーからブラウニーの所在を問われてアーチャーは正直に話すべきかを迷い、ランサーを売った。