恋活してみませんか? 結婚しないの? カノジョは? 出会いがないならいいアプリがある──しきりに勧めてくる同僚に根負けした。仕事中に何をしているんだかと思いながらアプリのダウンロード完了を待つ。
ここで客先から電話の一本でもかかってくればうやむやにできたものを、デスクの隣り合った同僚にもアーチャー自身にも連絡がないままにインストールまで終えた。肘掛けから身を乗り出す同僚の視線に負けてアイコンをタップ。アプリを起動。ピンク色を基調としたスタート画面が広がる。
最初に名前。年齢。次に写真を求められたが自撮りなんてしたことはない。写真フォルダーにも己の顔写真など入っているはずがなく──あるのはメモ代わりに撮った白板などで面白みもない──いきなり躓いたところ、横から伸びてきた同僚の手に取り上げられた。
乾いたシャッター音がひとつ。ほら、と返された画面には間抜けヅラを晒した男が映る。
*
新着で並ぶ顔写真はどいつもこいつも同じに見えた。現実にはいないアバターのようで、しかし実際はこのプロフィールひとつひとつに生きた人間が紐づいている。──何割かはサクラだろうが、顔写真に近い人間が存在することは確かだ。
化粧と加工で大きくした瞳のいくつかをざっと眺める。どの女にも食指が動かない。クー・フーリンオルタは適当にひとつをタップして、スクロールして、プロフィールという文字の羅列を眺めて閉じた。読む気がしない。
顔を上げる。昼休みの終わりが近い学食では空席のテーブル越しに外が見えた。
混雑時は人の壁で埋まるため、一転して空間が広がったように感じられる。
窓の外は晴れていた。
背もたれに腕をかける。肘をつき、顎を支える。手のひらに収めたスマートフォンが画面の明るさを下げた。電池残量を示すアイコンがやせ細って点滅している。
寝るかと、クー・フーリンオルタは重くなる瞼に同意した。もうあと五分もしないうちに次の授業が始まるけれど。
アプリを落とすつもりで
戻るキーをタップ。するとページが勝手に更新され、新着表示のついた顔がずらりと並ぶ。
女しかいない
群衆の中に、色の違う顔が。
数秒前までは確かに頭を占拠していた眠気は欠片も残さず吹き飛んだ。無感動に据わった赤い瞳が瞠られた様を見た人間は誰もいない。
*
『会って話がしたい』
送られてきたメッセージには簡潔な、その一文だけが綴られていた。
挨拶はもちろん、社交辞令の応酬もなくいきなり『会いたい』とは、ずいぶん積極的な女性だ。
「慣れているのか?」
それにしても危ない真似をすると、アーチャーはスマートフォンの液晶に向けて眉をひそめた。素性の一切わからない人間と二人きりで会うとなればもう少し警戒心を持つべきだ。寄りかかった椅子の背もたれがみしりと軋む。
出会い系アプリをダウンロードさせた同僚は煙草を吸いに席を立ち、今はいない。パソコンの
画面と向き合ったアーチャーは
端末を横に仕事を進めようとして、しかしデスクの振動によって再び端末を取り上げた。ロック画面に通知がひとつ。開けて表示されたメッセージが
件の要求だ。
メッセージ上部に表示された相手の名前をタップした。クー・フーリンオルタ。本名か、偽名か、区別はつかない。顔写真は
灰色だった。NO PHOTOの文字列が躍る。
写真がなくとも登録できたらしい。それ以外はアーチャーと似たような──趣味も好物も何も登録していない──状態で、辛うじて年齢だけ判明した。二十歳。未成年不可の規約を信じるならば大学生か。
「…………」
眉間の皺が深まった。
ちらりとモニタに目をやる。開いたままのメーラーは新着メールを何件か並べていたが、件名から、どれも緊急性は低いと判断。アーチャーは手の中にある端末の返信ボタンをタップした。
同僚はまだ戻って来ない。
*
クー・フーリンオルタはくわ、と大口を開けた。顎が外れるくらいに大きな
欠伸のあと肩を下げる。ガードレールに乗せた尻が鈍い痛みを訴えるくらいには座り続けていた。
手持ち無沙汰につけた
携帯端末の光が眼底を突き刺した。日暮れの早くなった夕方は時間帯のわりに夜が濃い。街灯と、ビルの明かりと、すぐ後ろを行き交う車のヘッドライトがちらちらと目を焼く。
新着が1件。送り主を確認しないままにメッセージを読み、少しだけ眉根を寄せる。ホーム画面に戻してから顔を上げた。駅の改札口を眺める。
電車が着いたのだろう。栓を抜いたように流れ出てくる人の群れは、そのうちの数人が、クー・フーリンオルタと同じように人待ちをしていたものと落ち合って離れていく。駅前に置かれた顔のない銅像は地味な目印だが、待ち合わせによく使われた。
相手はまだ来ない。
液晶画面をつけて確認した時刻は
20時を2分過ぎた。生真面目そうな顔に見えたが──
「おいっ」
思い浮かべた顔が、目の前を通り過ぎた。
反射で手を出した。相手の腕を掴んで引き留める。
「──えみや、だろ。アンタ」
ばっちりぶつかった視線によって思考が止まり、代わりに勝手に動いた口が問いかけた。写真と同じ顔だ。間違いないと、鈍い頭が遅れて肯定する。
相手の男は通り過ぎざまの体勢を戻してクー・フーリンオルタと向き合った。頭から足まで見て、
「クー・フーリンオルタ?」
似たような反応を返す。
「そうだ」
先んじて我に返ったクー・フーリンオルタは顎を引き、頷いた。掴んでいた腕を離す。ぶらりと揺れ落ちた男の右腕、その指に、
何もないことを見とめる。
アプリのプロフィール欄には名前と顔写真、年齢、行動
地域が書いてあっただけで、身長体重や趣味嗜好は空欄だった。出会った今、はじめて相手の身長と体型が判明する。背の高さは同じか少し上だろう。クー・フーリンオルタの履く靴は踵に厚みがあるため目線が並ぶ。体型は、トレンチコートの上からでもわかるくらいに無駄がない。
口角を吊り上げた。いまだ困惑顔の相手との距離を一歩、詰める。
「なんだ、アンタの好みじゃなかったか?」
「いや。……いや、そうではなく」
ええと、と口ごもり、横を向いた。顔を背けるほどではないものの、クー・フーリンオルタから視軸を外す。
駅前定番の待ち合わせ
場所は人の往来が激しい。好奇の目がちらちら向けられているのには気づいていた。が、関わりのない人間からどう思われようと知ったことではない。今、重要なことは、相手からの返答だ。
眼光を鋭くするクー・フーリンオルタに男が改めて向き直る。
「待たせてすまない。話はどこかに入ってからでいいか?」
眉尻を下げての申し出に否やはない。
「構わねえよ」
受け入れて、顎を上げた。立ち話を続けるよりもいい。腹も減った。
酒は飲めるかと尋ねられて頷く。
*
呼び込みをかけている居酒屋はハズレが多い。そうでなくとも下調べなしに入った店で良かったことなど多くない。
よって、選んだ店はどこにでもある大衆居酒屋だ。
おまちどうさまの声とともにビールとお通しが並べられる。カウンター席で肩を並べたアーチャーは、ジョッキと小鉢をクー・フーリンオルタの前に移動させた。
濡れた持ち手を掴み、
「カンパイ」
「乾杯」
形式的な挨拶を口にしながらジョッキをぶつける。
平日中日だが店内の席は八割がた埋まっていた。ボックス席はほぼ満席で、かつ四人席だからだろう、通された席は隣同士肩がふれあう程度に狭いカウンターだ。ガラス越しに焼き鳥が炙られる様を眺めながら飲み食いできる。
お通しは茄子の煮浸しだった。ほとんど鰹節と
出汁の味しかしない茄子ひと切れを食べてから話を切り出す。
「まず確認しておきたいんだが、……」
「なんだ」
アーチャーは言いづらさに口ごもっただけで質問すること自体を伺ったわけではなかったが、クー・フーリンオルタは少しばかり食い気味に先を促した。
まっすぐ突き刺さる視線が痛い。鶏の脂で立ち昇った炎を見ながら、その、と言う。
「……君は、なぜ私に声をかけたんだ? いや、そもそもあのメッセージを送ったのは君なのか?」
腕を引かれた際に名前を尋ねたところ、クー・フーリンオルタは頷いた。己がそうだとすでに肯定されている。
とはいえしかし、アプリの利用目的からすればおかしな話だ。登録者のほとんどは男女のマッチングを目当てにしている(中には例外もいるだろうが) 男から男に対して『会って話がしたい』とは。
真意が知れない。アーチャーは顔写真を登録しているため、女性と間違えて声をかけた、とは言い訳できまい。
クー・フーリンオルタは鼻を鳴らした。口元に寄せたジョッキに嘲笑を落とす。
「『話がしたい』と言っただろう。それ以外の理由が必要ってんなら、アンタに興味があった、としか言えねえな。そういうもんだろ」
それともアンタは褒めちぎられて持ち上げられねえと納得できない
性質か?
細められた灼眼は喧嘩腰まではいかないものの挑発的だ。
アーチャーは赤い瞳と睨みあい、
「──そうだな」
目を伏せた。ビールをひとくち。
「アプリの利用目的がなんであれ、興味を
抱いた事実に対する理由など後付けだ」
その目的が恋愛だろうと
性交だろうと、クー・フーリンオルタの言うとおり、最初に接触する動機など『なんとなく』がほとんどだ。興信所でもあるまいし──特にアーチャーが使ったような出会い系アプリは双方が軽い
遊びと認識していることが多いせいもあって──、アレやコレやと理由付けすることはまずない。
しかし、と続ける。
「女性から連絡が来るものとばかり思っていたのでね。まさか同性から興味を持たれるとは思ってもみなかったよ」
理由を問うたその真意は、正直に言ってしまえば
美人局を疑ったのだ。人目の多いところで事を起こすほど愚かではないだろうし、もし
そうであったところで素直に答えるとは思っていないけれど。
数秒の沈黙を挟んでから、ああ、とクー・フーリンオルタが合点した。
「アンタ、気づいてねえのか」
「何がだ」
ガラスに薄く映った相手はその手のひらを──自身の
携帯端末を見た。親指を動かすばかりで、アーチャーの端的な質問に対する返事も視線もない。
そのうちに、最初に頼んだサラダと焼き鳥の盛り合わせが運ばれてきた。たいして縦幅のないカウンターは大皿をふたつ置いただけでいっぱいだ。
「見ろ」
店員の手が下がりきる前にスマートフォンが突きだされた。
受け取って、これは先日出たばかりの最新機種じゃないかと余計なことに意識が向く。そのせいで、
「アンタの性別、女だぞ」
「…………、なに?」
告げられた事実と、端末に表示された己のプロフィール欄の不正確な情報を理解するまでに、数秒を要した。
*
名はアーチャー。会社員。一人暮らし。趣味は、たまに釣りに行くくらいで、しかし最近の休みはほとんど部屋にいる。
「男に抱かれたことはあるか」
当たり障りのない個人情報を手に入れたところで、クー・フーリンオルタは単刀直入に切り出した。カウンターに片肘をついて隣と向き合う。空のビールジョッキが残した水溜まりに腕がふれた。
横に座るアーチャーはちょうどグラスに口をつけたところだった。クー・フーリンオルタからの問いを受けて静止、ひとくちも含まずその手を下ろす。
目を合わせて、
「……ない」
もっとも短い言葉で否定した。わかりやすい。
「抱いたことは?」
「女性としかつきあったことはない」
「なら、オレが女役に回ってやる」
「話が見えない」
君は何が言いたいんだとアーチャーは体ごとクー・フーリンオルタに向き直り、眉間に深い皺を刻んで声をひそめた。
互いに大声を出していたわけではない。居酒屋のざわつきはノイズとなって耳を塞ぐ。たまたま近くに来た店員に聞こえるくらいだろう。
クー・フーリンオルタの横にあったビールジョッキが下げられた。
「──わからねえか?」
空のジョッキを見送って尋ね返す。
店員は雰囲気を察してか何も言わなかった。それまでの会話が聞こえていたかどうかは定かでない。
「オレが男だったのはアンタにとっちゃあ想定外だろうが、もとからそういう目的で来たんだろ。だったら話はひとつだ」
ヤるか、ヤらないか。
今ここで決めろ。
「…………」
アーチャーはすぐに答えなかった。沈黙を敷く。目は逸らさない。
クー・フーリンオルタとて、
相手を女と思い込んで来たやつに無茶を言っている自覚はある。しかしこちらは
そのつもりなのだから、あとは
相手の返事次第だ。
隣にいながら対面した男はゆっくり答えた。
「……確かに、のこのこ現れた以上、そう捉えられても仕方がないとは思う。だが私は君を説得に来たのであって、即物的な目的のためではない」
「説得?」
「そうだ」
アーチャーは真面目な、真剣な
表情で、
「素性も知れない男とすぐ会うなんて、危ないだろう」
己の目的についてクー・フーリンオルタの断定を改めた。
まあ、君が女性だと思い込んでの愚行だが。せめてもう少しやりとりを重ねてから。などと重ねてくるがそれどころではない。
「──何が可笑しい」
睨まれた。
俯いて声が出ないよう
堪えてみたが肩のふるえは誤魔化せず、バレた。
口角に笑いの尾を残したまま顔を上げる。
「ハッ、──ああ、悪い」
「…………」
「アンタの目的はわかった。だが、そりゃ説得じゃなくて説教だ。それととんだお人よしだな。女の心配をするよりテメェがカモにされねえよう気をつけな」
「……忠告痛み入る」
「ははっ」
苦々しい表情にまた笑う。通りがかった店員に追加のビールを二つ頼んだ。
アーチャーはむっすり黙ってカウンターと向き合い、残っていた焼き鳥を食べた。すぐに運ばれてきたビールジョッキのひとつをその視界に入れてやる。
「カンパイ」
「何にだ」
「いいじゃねえか」
テーブルから浮かないグラスに無理やりぶつけて音を鳴らす。
一気に半分煽り、ぐっと近づいた。隣の顔を覗き込む。肩を押しつけて手を掴む。勢いづいて椅子から少し尻が浮いた。
「なあ、それでどうなんだ」
オレはと、さっきはぐらかされた答えをねだる。
酒精が回っているせいか体が熱い。