わがままになる 十二月に存在した金曜日の夜は、そのすべてを忘年会と言う名目の飲み会が占めた。土曜日や日曜日もそうだ。顔の広い男はあちこちから誘われて、終電かタクシーで帰ってくる日がほとんどだった。
大晦日から元日にはさすがに飲み歩くことはなかったものの、その二日はアーチャーが年越しと正月の準備で忙しかった。初詣を済ませたら親しい間柄の家に顔を出して、二人で住むマンションに帰ったのは、やはり日付が過ぎてからだった。
二日目以降はアルバイトと、新年会と言う名目の飲み会だ。ランサーは朝から出かけて夜中に帰宅する。正月が書き入れ時らしいバイト先は一月の半ばまで休みがない。
──つまり、アーチャーは十二月からのひと月半ほど、ランサーとまともに顔を合わせていなかった。
*
商店街を歩きながら思いついた。ここしばらく昼間に見かけていない男だが、会えないならば、会いに行けばいい。
ランサーのバイト先は寺の近くにあった。商店街からは徒歩十分もあれば着く。その近さ故に一月半ばまで人が絶えない。
「らっしゃいらっしゃい〜」
できたてを謳う屋台の呼び込みはよく響く。おかげで、似たような屋台が並ぶ中で、アーチャーは男の居場所を探し回らずに済んだ。
ソースの香ばしいにおいが鼻腔を通って胃に落ちる。
客がいなくなったタイミングで顔を出した。
「ヘイまいど! ってなんだ、おまえか」
「なんだとは随分だな」
ランサーは新しい客を確認してから手元の鉄板に目をやった。キャベツが山になったお好み焼きの両側から
起金──テコ、あるいはコテとも言う──を入れて天地を返す。
年末から従事しているおかげか、元来の器用さからか、その手つきは危なげない。
「冷やかしなら売上に貢献しろよー」
「ではひとつ」
「は」
ちょうど昼時だ、すぐ傍のベンチは日当たりいいし、少しばかり眩しいかもしれないが、天気も時間も屋台飯を外で食べるには誂え向きだろう。
しかしランサーには意外な答えに聞こえたのか。ぽかんと口をあけた間抜け面でアーチャーを見た。
その顔を見返して片眉を上げる。
「なんだ。顔見知りには売れないのか?」
「いや、そういうわけじゃねえけどよ……」
「ちょうど昼だからな。『売上に貢献』してやる」
尻ポケットから財布を取り出して小銭を確認。五百円玉がちょうどあった。
「あら、それならランサーさんも休憩したら? お昼まだだったでしょ」
屋台の裏側、ランサーの背後から、ショートカットの女性がひょこりと顔を出した。その両手には箸と食べかけのお好み焼きを持つ。
その口ぶりからして屋台の主人か、あるいはランサーの雇い主なのだろう。
ランサーは透明な
容器にお好み焼き一枚を入れながら、いや、と否定を口にした。パックの蓋を輪ゴムで止める。
「腹減ってねえし、さっき休んで交代したばっかりじゃねえか」
「でもお友達でしょう?」
「こいつは別に」
「私のことはお気になさらず」
アーチャーはランサーの文句に被せる形で割り込んだ。準備のできたお好み焼きを五百円玉と交換する。ではな、とランサーの顔を見てひとこと。
自分で取る必要のある割り箸をもらい損ねたことに気がついたのは、屋台の並ぶ通りから出て歩調を緩めたときだった。当然、日当たりのいいベンチも遠い。
「…………」
振り返ったところで呼び込みの声は聞こえない。
片手に持ったお好み焼きはできたてだが、部屋に帰りつくころにはだいぶ冷めてしまうだろう。
ランサーの顔を見た。言葉も交わした。目的を達した以上、留まる理由はない。
無駄足だったなと、虚しい感想が心に浮かぶ。
*
バイトが休みになったと聞いたアーチャーは、そうか、とだけ返事をした。己はこれから外出だ。
待ち合わせの時間までは充分に余裕があるものの、部屋にいたところですることもない。早めに行って散歩でもするほうが有意義だと、窓越しに冬晴れの外を見て考えた。寒いけれど肺の底まで洗うような冷えた空気は悪くない。
コートに袖を通しながら寝室から出ると、ソファに座るランサーが振り返った。
「出かけるのか」
「ああ」
そういえば言っていなかったか。が、何があるわけでもなし。今のやりとりで充分だろう。
テレビ番組はまだ正月気分を引きずっているのか鮮やかな振袖姿が目に着いた。
それに気を取られていたせいで、
「帰りは?」
ランサーの質問が掴めずに、理解するまでに数秒の
間が空いた。遅くなるのか、と重ねて問われたことでようやく意味を
解する。
「ああ、まあ。……遅くなる、と思う」
呼び出しの相手は凛だ。目的は明らかにされていないものの、会ってすぐ終わりにはならないだろう。
ランサーは背もたれから片腕を垂らしたまま顔を背けた。テレビに視線を投げた状態で、そうか、と言う。その表情は窺えない。
アーチャーはなんとなく、様子がおかしいと直感した。後頭部を見下ろして首を傾げる。
「何かあったか?」
約束は何もないはずだ。ランサーの休みは今日知らされたばかりで、アーチャーが出かけることはさっき教えた。
「…………」
赤い瞳が無言でアーチャーを振り仰いだ。
沈黙がどことなく責めているようで、アーチャーはぐっと腹に力を入れる。責められる謂れはない。──はずだ。
「ま、いいけどよ」
釣りにでも行くかねと思いつきを口にする男からは今しがた感じた批難の色など消えていた。
あるいは気のせいだったのか。
「港に行くならマフラーくらいは持っていけ」
遮るものがない埠頭での釣りは、この時期、冷たい風に晒される。放っておくと半袖シャツの上にダウンジャケットで済ませる男に一応の忠告を入れてから壁の時計を確認。まだ余裕がある。
「アーチャー」
ちょいちょい、と指先に呼ばれてソファとの距離を詰めた。無防備に一歩。
首にかけただけの薄手のマフラーが掴まれて、引かれて、強引に頭を下げさせられたことに文句を言おうとくちを開けたところで齧りつかれて息が止まる。
離れると、頬を軽く
抓まれた。
「──用が済んだら港に来い。日のあるうちならそこにいるからよ」
ランサーはソファから腰を上げながらリモコンを取ってテレビを止めて、ダイニングの椅子にかけたダウンジャケットを掴んで出て行った。
出かけるつもりで準備をしたアーチャーよりも先に。
「……ま、待て! ランサー!」
だからマフラーを持って行けと言っただろう。