今日は豚しゃぶにしようと思う。 ただいま、と声をかける。返事はない。
靴を脱いでスリッパに履き替えた。風呂場とトイレのドアと、物置となっているせいで開けっ放しのドアの前を通り過ぎてリビングへ。
立ちはだかる扉は出かけるときに閉めていったせいだろうと、過去の所業をアーチャーに突きつけた。冷たいドアノブを握る。
「──ただいま」
扉を開ける。リビングが暗いことは、ドアに嵌めこまれた黒いガラスからわかっていた。
日が沈むと電気なしではいられない。眠るとき以外は明かりなしでは何もできない。
だから、部屋が暗いということは、同居人の男が昼間に出ていったまま、まだ戻っていないことを表していた。
明るいうちにソファで昼寝をしたまま今の時間になるまで寝こけていた。──そうであれば帰宅の言葉に応えがないことも、電気がついていないことも説明がつく。けれど二人掛けのソファは無人を晒していた。
電気をつける。急な明かりに目が痛む。
片手に下げていた買い物袋を持ってキッチンへ。床に下ろしてからシンク上の明かりをつける。
「……夕飯は、どうしようか」
値引きのシールが張られていたから、つい、いつもよりランクの高い肉を買ってきてしまった。卵の残りが心もとなかったから。牛乳が切れていたから。砂糖が安かったから。葉物が安かったから、つい。
鍋にすればちょうどいいと思った白菜は、独りの部屋で見ると過剰に感じた。
自分以外に食べる人間がいないのなら、肉も白菜も買いこむ必要はない。なかった、とアーチャーは買い物袋を見下ろして、数十分前の己を省みた。
暖房の入っていない部屋は冷えて寒い。すべての窓をきっちり閉めたところで隙間風は入る。二重ガラスでもないため、薄いガラス越しに外気が染みた。しばらく放置したところで肉や卵が急に腐ることはない。
アーチャーはのろのろと腰を曲げてしゃがみ、買い物袋から卵と、肉と、牛乳とを順に取りだした。砂糖の上に乗った白菜がバランスを崩して袋を倒す。
昼間、同居人とケンカをした。
些細な言いあいはどこで何が拗れたのか。ランサーがドアを叩きつけて出ていってしばらくはアーチャーも苛立ちが収まらず、部屋にこもっていても腐るだけだと外に出た。
目的もなくぶらついて、キッチン雑貨の店を冷やかして、最後にスーパーへ足が向いたのは日頃の慣れだろう。
夕飯を作りはじめるならばいつもより少しだけ時間が遅い。買ってきたものをすべてしまってキッチンを出た。無地の買い物袋を適当に放ってソファへ座る。足を投げ出す。
ずるりと座面を滑り、背もたれに沿って体を倒す。食べられる予定のない食事を作る気にはなれなかった。
「…………」
片腕で目を隠す。明かりを遮る。そういえばカーテンを閉めなかった、と思う。
黒い水のようなガラスには、ソファに寝転がった間抜けな男が映る。
うたたねから目を覚ますと、ソファの傍ら、フローリングに直に座ったランサーが、頬杖をついてアーチャーの顔を眺めていた。
「…………」
「おはよう」
「──お、……」
かけられた挨拶を復唱しようとして舌を止める。窓を見た。
黒いガラスと、アーチャーとソファと、いつのまにか帰ってきていたランサーの姿に、まだ外は夜だと知った。
「まだ朝じゃない……」
夜だ。
「そりゃそうだろうよ。寝ぼけてんのか?」
ランサーが吹きだした。珍しい、と笑う。
アーチャーは肘で上体を起こし、失笑に眉根を寄せた。
「君がおかしなことを言うからだろう。声をかけるならせめて、……」
せめて、なんだ。言うべき言葉を探して部屋を見る。
気づけばエアコンが動いていた。暖房のスイッチを入れたのはランサーだろう。リモコンは、ソファで寝ていては届かないテーブルの上にある。
フローリングの上にはランサーのジャケットが、買い物袋を下敷きにして脱ぎ捨ててあった。帰ってきてジャケットを脱ぎながら部屋に入り、床に落として、リモコンを取りあげて暖房を入れた。
一連の行動が見えるようだ。
笑ってしまう。
「おかえり、ランサー」
声をかけるなら、せめて『ただいま』だろう。
「……おう」
ランサーは気まずげに肩を揺すると、メシは食ったのか、と尋ねた。