欠落は埋めずに 酔っていた。だから、間違えた。それがわかったのは数秒後だ。
「どこの酔っぱらいがガチャガチャやっているのかと思えば……」
捻っても回らない鍵穴に唸っていたところで部屋の中から鍵が外され、ランサーを押しのけるようにドアが開けられた。
出てきたのはアーチャーだ。寝間着だろう黒の上下に、不釣り合いな革靴を履いた格好で、眉間には深い皺。靴は玄関に出してあったものを急いでつっかけたのだろう。
ランサーはその顔をぽかんと眺めて、なんでおまえがオレの部屋に、と考えた。
口に出したつもりはなかったが、
「寝ぼけて、……ああ、酔っているのか。ここは私の部屋だ」
君のアパートじゃない、と言われて呆れた目を向けられて、ランサーは酔いがさめた。ふわふわ浮いた心地が消し飛んだ。
酔っていた。そのせいで、帰る先を間違えた。
先週別れたばかりの男の部屋になど来るつもりはなかったのに。
「シャワーを浴びるなら服は好きに使え」
寝室のドアに手をかけて告げてきた。
言われたランサーは、は? と短く声を上げて振り返る。ソファの背もたれ越しに目を合わせた。酔いさましの水のあとに渡されたコーヒーがカップの中でぐるりと揺れる。
「好きにって」
「終電はない。タクシーか、歩いて帰るつもりならそれでいいが。私は寝る」
だから好きにしろと、そう言い残してアーチャーは寝室の暗がりに消えた。
扉が閉まる。
「…………」
あとにはランサーとコーヒーカップだけが残された。湯気がふちを曇らせる。
何を期待したわけではない。ここを訪ねた理由は酔っていたせいで、偶然だ。己の無意識に悪態をつく。
酸味がちょうどいいコーヒーの残り半分をぐいっと飲み干して腰を上げた。シャワーを浴びるつもりで洗面所へ。
好きにしろと言われたのだから、好きにさせてもらうまでだ。アーチャーの指摘とおり電車はランサーが乗ってきたやつが最後で、今から歩くのは面倒だった。ソファで寝るくらい構いやしない。
あの男がもっと話しかけてくるようなら違っただろう。別れる前と今と同じ態度を取られたならば今からでも出ていった。
ランサーはリビングを出てトイレの横、風呂場のドアを開けた。勝手知ったる部屋だ。着替えもタオルもどこにあるのか知っている。
脱衣場に入ってすぐシャツを脱ぐ。
鏡に映った己を見て、鏡像の横に置かれた歯ブラシを見て、それがひとつしかない意味を咀嚼する前に目を伏せた。
髪留めを外して手に握る。
別れはランサーから切り出した。
食事を終えてソファに座り、特に見たいわけでもないテレビ番組を眺めながら、シンクに立つ男の背中を見もせずにその言葉だけを無造作に放り投げた。
数年単位でつきあった相手に対してずいぶんな態度だったと思う。だがアーチャーもひとこと、振り返りもせずに「そうか」と答えただけだったから相子だろう。理由は問われなかった。
シャワーを浴びて濡れた髪をタオルで掻きながら部屋に戻る。
服は脱衣所にあったシャツとズボンを借りた。寝るときはタイトなレザーパンツより緩めなズボンがよかったのと、煙草に油臭いシャツをまた着る気にはなれなかった。下着はさすがに自分のものだ。
リビングにアーチャーの姿はない。寝ると言って寝室に引っ込んだのだから、当然、宣言どおり寝ているに違いない。ドアが閉め切られているせいで真偽のほどはわからないが。
タオルを首にかけたままソファにごろりと横になる。
明るい天井を見上げて、テーブルの上にあるリモコンに手を伸ばす。ピ、と音を鳴らして消灯。
瞼を開けていても閉じていても変わらない暗闇を目に映した。
同じ部屋にいながら壁を隔てて寝るのは初めてだ。──どれだけ派手なケンカをしても、帰らない限りはベッドで背中合わせに寝ていたから。
友人、あるいは知人の距離感として、これは正しい。そう思う。
目覚ましの音で目が覚めた。うつ伏せでソファから垂れた片腕を突いて起き上がり、髪を掻き上げる。
ガリガリと掻いてようやく瞼を開けた。カーテン越しの薄明かりが眼底を刺す。
「くあ……」
ランサーは顎が外れるくらいの大あくびをして顔を撫でて、昨日から閉め切られたままのドアを見た。
目覚ましの音はまだ止む気配がない。死んでいるんじゃねえかと疑うくらいに物音が聞こえてこない。単調な電子音だけが喧しい。
どっこいせと声に出しながら立ち上がり、とりあえずドアの前に立った。ノックに片手を上げる。しかし叩かずにノブを下げて、静かに押して、足音を殺して侵入した。
共に寝ていたときも目覚ましの音で起こされたことはあった。が、はっきり覚醒した覚えはあまりない。
当時は──と言ってもつい数日前の話だが──ランサーか、アーチャーの手が目覚ましを止めて、騒がしい安眠妨害のもとがなくなったら二度寝に入ることが多かった。
今日はベッドではなくソファで寝たせいか、眠りが浅かった。睡眠自体は充分取れたが起き抜けに懐く布団も枕もなければ嫌でも覚醒する。
踏み込んだ寝室はカーテンが引かれて薄暗い。一人用にしては広いベッドには不自然に偏った山があった。
目覚ましは元気にサイドテーブルで自己主張を続けていた。鷲掴みにして裏面の小さなスイッチをオフにする。
「……ランサー?」
もそりと、毛布の中からアーチャーが顔を出した。
見下ろすランサーに気づいて目を擦る。ぼさぼさに乱れた白髪を掻き上げて、
「もう起きたのか……、今日は早いな」
何かあったのか、と言った。
寝ぼけている。尋ねる声にもキレがない。
ランサーは目覚ましをサイドテーブルに戻してやった。しょぼついた目をした男を見下ろして小さく笑う。
「なんでもねぇよ」
「そうか……」
寝室から出たあとに、あ、と何かに気づいた声がした。
*
解消した関係性は“恋人”であって、“友人”であることまではやめていない。あっちは“知人”と思っているかもしれないが、それであっても縁を切ったわけではない。
だからランサーは
あの日から、
度々、気兼ねなく男の部屋を訪ねていた。終電がなくなったとか、酒を飲みにきたとか、近くまで来たからとか、どうでもいい理由をつけて。
今日は、雨が降ったから。自分の
部屋に帰るよりも近いから、ついでに夜も遅く帰るのが億劫だったから、頭から肩から濡れた格好で、見慣れたドアの前に立った。
玄関扉の横に据えつけられたボタンを押す。持っていた合鍵は資格を捨てたときに返していた。
「……留守か?」
ピンポーンと間延びした電子音がドア越しにも聞こえたが、それ以降は何も聞こえない。物音ひとつしなかった。
携帯端末で時間を見る。数字はもうすぐリセットされてゼロが並ぶ。
今日は休日だ。平日ならば仕事の可能性を考えたが、休みの日に夜更けまで不在にする事情など、ランサーには思いつかなかった。──自分といた頃ならまだしも。
「…………」
寝ているのかもしれない。風呂に入って、あるいは便所にいて、出られないだけかもしれない。
それでももう一度呼び出す気にはならず、ランサーはドアに背を向けた。
マンションの廊下を歩きながら端末ごとダウンジャケットのポケットに手をしまう。連絡を入れるほどの用もない。
濡れたコンクリートに立つと、剥き出しの耳と鼻に冷たい雨が落ちた。
バイト先のカレンダーを一枚破り捨てた。
月が変わったくらいでランサーの生活に変化はない。しいてあげるなら、紅茶を淹れる頻度が上がった程度か。零度の上と下を行き来する気温は客の
注文を決めつけた。
ホールで受けた注文をキッチンに渡す際に、マスターから休憩に入るよう提案された。
煙草とライターを握って裏口のドアを開ける。冷たい風が首を撫でた。薄く汗を掻いたシャツが冷える。店内は暖房がきいているため暖かく、ランサーには少々暑いくらいだった。
手で風を避けて火をつけて、じゃり、とコンクリートを踏む足音に、伏せた視線を向ける。まず見えたのは革靴を履いた爪先だ。
口の中に紫煙を含む。舌を浸す。溜めたせいで、吐き出す勢いは弱くなった。
顔を上げて、へらりと笑う。
「よお」
「……ああ」
アーチャーは笑いもせずに目を伏せた。
店の裏手は広くない。にも関わらずアーチャーとの距離は遠く、表通りに近い壁にでももたれて待っていたのだろうと察せられた。その位置からなら店の表口も裏口も確認できる。
待ち伏せの意図は読めないが。
「なんの用だ」
今さら、とは言わなかった。その言い方はまるで未練があるようだ。
煙草がちりちりと焼け落ちた。導火線にしては太い。
アーチャーはその場から動かない。
「話がしたい」
「素直に店に来りゃいいじゃねえか。オレが逃げるとでも思ったか」
「違う。……その」
どんな顔をすればいいかわからなかった。
離れていたが、アーチャーの言い訳は聞き逃さなかった。
「…………」
今さらどのツラ下げて会えばいいかわからなかったから様子を窺っていたと。
煙草を深く吸ってさらに縮めてから足元のバケツに投げる。
「──中で待ってろ」
馬鹿じゃねえか、とは口の中で噛み潰した。酔った勢いで押しかけるくらいできねえか。
アーチャーの足元に置かれたボストンバッグは明らかに旅行用だった。窓際の席の客へ紅茶を運んだ際に気がついた。
残り二時間のバイトを終えて、エプロンを外しただけの恰好で向かいの席に座る。
「どこか行くのか」
天気の代わりに振った世間話は、いや、と短い否定で返された。
「帰ってきたところだ」
「へえ」
「ドイツに行っていた。姉に呼び出されてね」
「そうか」
いつから、とは問わない。応答のなかったあの日から一週間かそれ以上は経っていた。正確な日数は数えていない。
ランサーは腕を組んだ。木製の背もたれが小さく軋む。
「で? 話ってなんだ」
「…………」
「
土産でも持ってきたか?」
ボストンバッグからドイツ土産が出てきたところで、この男のやることだ、今さら驚きはない。友人知人の関係なら話題作りに物を渡すことも間々あった。──何が出てくるかはわからないが、「君に似合いそうだったから」などとふざけた前置きつきで渡してくるようならその顔に投げ返してやろう。そういうことは女にやれと。
それはただの妄想だ。もっとも愉快な答えを想像した。
ランサーはアーチャーの返事を待って口を閉じた。
アーチャーは、ジャケットの内ポケットを探ると、
「──君に」
小さな小箱を取り出した。
手のひらに乗る程度の、小さな、革製の箱。それを、丸いカフェテーブルの中央に置いて、手を離した。
ランサーを見た。
「これを、渡したかった」
「……ハッ! こりゃずいぶん洒落た土産だな」
「ランサー」
茶化した文句を嗜めるように呼びつける。
「私は君にあまえていた」
「…………」
「隣にいることが当たり前だと思っていた」
「…………」
「だから、これを捨ててくれ」
「……あ?」
「売ってくれても構わない。ああ、女性にあげるのはやめたほうがいい。君のセンスを疑われるからな」
何が「だから」なのか。
ランサーには脈絡のない申し出としか聞こえなかったが、アーチャーは通じたものとして話をした。忠告めいた文句まで続けて口を閉じる。
あとには小箱が残された。
いったいどんな物が収められているというのか。予想はつくが。
ランサーは無造作に箱を掴み、蓋を開けた。
クリーム色のクッションを台座に、中央に据えられていたのは、思ったとおり指輪だった。縄目のような模様が刻まれた、シンプルな
銀色の指輪。
確かに女へのプレゼントには向かねえな。というのが最初に浮かんだ感想だ。装飾の少なさや大きさから見て、明らかに男物とわかる。
「話はそれだけ」
「オレに捨てさせる理由はなんだ」
「…………」
ランサーは箱を持ったまま、立ち上がろうとする男を睨みつけた。
アーチャーは浮かしかけた腰を戻すと、我儘だよ、と言って自嘲した。仰向くように背もたれにもたれかかり、ランサーから顔を背ける。
「別れたあとも期待させるような真似をした君が悪い」
「オレのせいかよ」
「冗談だ。今さらだとはわかっているが、君に告げておきたかった。これは私の我儘だ。……それと、姉に叱られてね。態度をハッキリさせないまま飼い殺しにした私が悪いと」
指輪は意思の表れで、しかしもう別れた後だから捨てられることは決まっていた。
今さらとなった
理由は姉に叱られたからか、離れてからの後悔か。アーチャーが語った話だけではわからない。
ランサーから別れを告げておきながら何食わぬ顔で、何度も部屋を訪ねた。居心地が良かったからとはふざけた言い訳だ。
挑発するように白眉が跳ねた。
「捨てるくらい簡単だろう?」
手の中に収まる大きさだ。店の生ゴミと一緒にゴミ袋に捨ててしまえば済む。
「──ま、そうだな」
ランサーの肯定にアーチャーは満足げな笑みを刷くと、床に置いたボストンバッグを持ち、今度こそを席を立った。ランサーも引き止めない。
「ではな」
伝票を攫って離れる。レジに向かう。
「…………」
ランサーは箱から指輪を摘み出した。
指輪はふた周りほど大きかった。手を握ると左手薬指に山ができる。一度外して確認した内側にはLの文字があるあたり、渡すほうを間違えたわけではないらしい。
サイズがわからなかったのか。
測っていなければ当然か。
「……馬鹿が」
笑いながら罵倒した。
ぶかぶかの指輪が落ちないよう拳を握ったまま椅子を蹴って立ち上がる。
──ないと思っていた執着を投げつけられた。捨てろと言われたが、従ってやる気は更々ない。