What's your name? 休憩に入るお決まりの文句を口にしながら鉄の扉を押し開ける。滑り出ると同時に手を離すと、自重で勢いよく閉じた。開けっ放しにならないための仕様だが、毎度、指を挟まないよう注意する必要があるトラップだ。
扉の先は小さな広場になっていた。
コの字型に建つビルの裏口ばかりを三つ集めた広場は、広場という名をしながらその実、ゴミの集積所兼喫煙スペースであり、空気は澱んでいる。ランサーは休憩に入るとともに持ち出してきた煙草の紙箱を振って、一本くわえて火をつけた。
そそり立つビルを見上げて煙を吐く。言うほど階数のないビルだが、溝鼠色に沈んだ段差に座って見上げる空は遠い。鼻腔に絡む生ゴミの臭いも相まって、閉じ込められ自由を奪われた人間にでもなった気にさせられた。
実際のところ、ランサーはバーの店員であり、仕事は休憩時間を合間に挟める程度の余裕があり、給金は悪くない。辞めようと思えばいつでも辞められる。
妄想と灰で舌を湿らせる。チリリ、と煙草の先端が赤く燃える。
吸い終割って腰を上げた。三店舗共用の灰皿は広場の中央に置かれている。灰はコンクリートに落としたものの、吸殻は、バケツに網をかぶせただけのそこに落とした。目の大きな網は被せておく意味があるのかといつも思う。
鉄が悲鳴を上げた。
コの字に向き合う扉の一つが開く。
小洒落たレストランの裏口から、白いコックコートを着た男が現れた。
まかないは、ある。
「だがまあ、どうせ食べるならうまいほうがいいだろ」
バイト先のメシがまずいわけではないけれど。
三倍以上の価格設定をしているレストランは賄い料理も美味い。味が値段に依存する場合は店それぞれだが、少なくとも隣の店は値段以上だと、ランサーの舌は判断した。
煙草からスプーンに持ち替えた。座る先は変わらず、椅子という名の家具ではなく、ただの段差だ。服越しでもコンクリートの欠けた感触がわかる。
そこに腰かけて、たった今提供された料理を膝に乗せた。トマトの酸味が香る。
「作ってもらっていながらひどい言い草だな。そちらのシェフに同情するよ」
ランサーの右斜め前に立った男が頭を振る。コックコートの下に隠された厚い胸が上下した。でかいため息だ。
「同情するなら客にだろうよ。シェフはオレだぞ?」
口に入れる寸前のスプーンを止めて抗議。だいたいシェフってなんだ、うちをお前のところと一緒にするな。
店舗数の増加を目標にしたチェーン店はコスト削減のために仕入れの統一が基本であり、出すメニューも決まっていた。当然、作り方にも仕様書がある。レシピではなく
仕様書だ。
まかないも、本来ならば賃金に相当するものであり、いくらか払う必要があると聞かされていた。今の店長はルールを厳守するタイプではないおかげで助かっているが。
「ならばマニュアル作成者に感謝するんだな。ナイフを握ったことのない人間でもまともな料理ができる。すばらしい企業努力じゃないか」
「口の減らねえ」
「褒めてもデザートはないぞ」
「ほめてねーよ」
それともいらないのか、と伸びてきた手からランサーは皿を庇って遠ざけた。トマトの赤いスープに米と野菜が覗くリゾットはまだ半分も減っていない。
褐色の指が空気を握る。
「……餌付けをしている気分だな」
「おう、ケンカなら買うぞ」
食い終わったら、だが。
本来ならばチーズをかけるのだと説明が降ってきた。きっとパセリも散らすのだろう。
「うまかった」
礼を言って器を返す。カラになった皿は無言で褐色の手に引き取られた。
そろそろ休憩時間も終わる。コンクリートから尻を上げる。
「なあ。おまえさん、このあとヒマか?」
あちらも同じらしく、ランサーの器を持って背中を向けたところだった。呼びかけに応えて振り返る。
自身は何を食べるでも、煙草を飲むでもない。いったい何をしに出てきたのかと聞いてやりたいところだが、どうせろくな文句が返ってこないと想像できた。短い休憩時間に顔を合わせるだけの関係でも男の性格はおおよそ把握している。
白眉が跳ねた。
「このあと、とは?」
「あがったあとだ。帰って寝るだけか、女のとこにでも行くあてがあるのか」
「下世話な喩えだ」
「言わせたのはテメェだろ」
噛みつく真似は軽く上下した肩で往なされた。
「別段用はない。帰って寝るだけだ」
予想どおりの回答のあと、それが何か、といった目をランサーに向ける。
用のありなしを聞く動機など限られる。鈍いのか、気づかないふりをしているだけか。
「飲みに行こうぜ」
「君とか?」
「ほかに誰がいるよ」
ビルに囲まれた広場で人間が隠れられる場所はない。建物の狭い隙間とゴミ箱の影にいるネズミや虫でも誘うつもりでいるなら別だが。
「なんだ、おかしいか?」
相手の歪んだ頬に尋ねる。
「いいや」
否定する言葉に反してそこに含まれた色は失笑だ。
笑われる理由がわからないランサーは憮然とするも、手を払ってリセットされた。よく見るスカした
面が戻る。
「先に終わったほうがここで待つ」
「それで構わねえよ」
「承知した」
ではまたあとで。
そう言ったコックコートの背中を見送った。昼でも夜でもコンクリートの鼠色が濃淡を変えるぐらいで色彩のない空間から白が消える。
錆の浮いたドアから視線を剥がして、
「――、あ」
店のドアノブを掴んだところでハッとした。
誘っておいてなんだが、ランサーはあの男の名前を知らない。