Log15-4 怪談セ「――“幽霊”っていると思う?」
リ「幽霊?」
セ「そう。幽霊。未練だとか怨みだとかの思念体云々いわれてるアレ」
ウ「んなこと訊いてくるってことは、何かあったのか」
セ「何か、うん、何もなかったって言いたいけどあったんだ」
ウ「つまりなんなんだよ」
セ「…リエちゃん。昔からユクシルは、たまに『影のない人間、体の透けた人間は偶に見る』って言うんだ」
リ「それって、“幽霊”そのものよね」
セ「一応ね。で、今までは見かけたって話を後から聞くだけだったんだけど……つい昨日、一緒に歩いてるとき、ふと城壁のほうを見て言ってきたんだよ。『櫓の屋根に男が座っている』」
ウ「座ってたら相当目立つな」
セ「だろ? それでユクシルの視線を追ってみるじゃん? 誰もいないんだよね」
ウ「時間帯は」
セ「昼。視力的に、ユクシルに見えるんだったらジブンにも見えるはずなのに、どんなに目を凝らしても誰もいない」
ウ「……それで?」
セ「居ないじゃんって言ったら、『北西の…いや。消えた』って」
ウ「『消えた』じゃねえよ」
リ「どうしてそんな平然としてるの」
セ「やっぱりジブンと同じこと思ってる」
リ「どちらかというと幽霊は信じてなかったけれど、その話を聞いちゃうとちょっと変わりそうだわ」
セ「認めたくない、んだけど実際に目の前であんなこと言われたらなーって。あっでも! まだ、まだ完全には信じたわけじゃないからね」
ウ「まあ、確かにいないほうが良いな……」
『静寂に口無し』
銀糸に隠れていた眼窩の奥の、深淵を見てしまった。
延々と広がる底なしの黒。いっさいの光も音も無い、全てを呑みこむ晦冥。
あるいは彼と目が合った。ただそれだけ。
しかし男には、そこらじゅうにある暗がりが、急に恐ろしくてたまらなくなった。
建物のかげを避けながら自宅に戻った男は、ふと気が付く。
部屋の中には、靄のような暗やみが満ちているではないか。
どっと肝が冷える。男は慌てて外へと飛び出した。
帰途には思い至らなかったが、日のもとでは黒がついて回るではないか。
背後から喰われるのではないかと平常心が蝕まれる。男は追跡者を振り払うべく走り続けた。
西のかなたへ陽が沈み、東からは夜を伴い月が昇る。
縺れる足で必死に前へ前へと、いつの間にか辿り着いたのは街の外、森の入り口。ざらついた呼吸を繰り返し、男はそこに篝火を見る。
濃くなる影に思わず篝籠を押し倒す。地面には乾いた枝が落ちていた。火は小枝に移り、その体積を増す。
僅かながらも、先より明るくなる視界。
男は刹那、恐怖を忘れ、灯に手を伸ばした。
四方を火柱が取りかこみ、影が死に絶える。
視界を覆うのは、高く燃え上がるひかり。
耐え難い苦痛からようやく解放されたのだと。男は安堵の思いを噛みしめる。
黒暗から逃れられものだと思うばかりに、熱に喉が痛もうと、やつれた顔には穏やかな笑みがにじんだ。
もう既に、炎の囲いの外へは出られそうになかった。
【闇を忿怒させること勿れ】
『後に残るはからのはら』
若い女は、夏の月夜にさまよう黒い浮遊体を手ですくい、やさしく閉じ込め、家へ連れて帰った。
銀の淡いひかりを双眸にもつそれの名称は、“やみまる”。親指ほどの小さなからだと無害そうな外見とは裏腹に、何物でも余すとこなく食べてしまえるらしい。
だからと言って無差別にものを食べてしまうわけでもなく、好物に関しては許可を、それ以外のものに関しては学習させて初めて口を開けるという。
断定的な情報がないのも、捕まえて持って帰ったのも、ひとえに女は、やみまるの創造主と直接の面識がないからである。いや正しくは、向こうはこちらを認識していないにちがいないのだ。
女は偶然やみまるの存在を知り、またその性質に関する会話に聞き耳をたて、その小さないきものが欲しくなってしまった人間にすぎない。
なぜ放されていたのかはわからないが、しかし浚われたと同然の黒いかたまりは、それでも暴れることなく手のひらに座り、おとなしく女を見つめていた。
灯りも点けず、暗い部屋の中。女はやみまるを机の上に乗せる。
《冷》が込められた星魔石のたっぷり敷きつめてある、台所の冷蔵庫から問題となる食材の切り身を取り出してくる。
やみまるを連れてきたのは、この食材の処理を手伝ってもらうためだった。
言ってしまえば、食べきれなくなってしまったのだ。
レシュアとて夏は暑く、冷蔵庫で冷やし続け保存するのも一苦労だ。だが近所の人間に配るわけにもいかず――女は自分の食嗜好が一般のそれからずれていることを理解していた――多分な食材の扱いに、切実に困っていたのである。
食べてよいものだと学ばせれば、やみまるは食べはじめるはずだ。
席に着いた女は、つぶらな丸い目が見ている前で、肉をナイフで切り分けて口へ運ぶ。腐食を遅らせる目的も兼ねてたれに漬けておいたため、そのままでも十分食べることができた。
何回かそれを繰り返す。しばらくすると、やみまるは女の手元にまで近寄ってきていた。
興味をもってくれたらしい。差し出せば食べるだろうかと、女は肉の切れ端をフォークに刺し、差し出したのだが。
食われたのは手の甲の肉だった。
女は短く悲鳴をあげる。手を払い、慌てて傷口を確認した。
えぐれた、いや違う、傷口がない。そう見えただけだ。
では一体、何が、あたかも肉が抉れたように見せたのか。
困惑にとらわれた女の視界に、黒い濃いものが、ふわりと入ってくる。
あまりに黒く、向こう側も見えず、気がつけば暗闇との境も曖昧となった霧は、感情など読み取れない眼窩をゆらりとこちらに向けて。
ぱくりと“口”を開いてみせられた瞬間、恐ろしい考えが女の脳裏をよぎった。
食材ではなく自分の手を食もうとした、この小さな闇はもしや、人間としかばねを区別出来ないのではないか。鼻もなければ、耳もない。死臭または生ある者の音が認識できないとなれば、視覚からひとの肉というものを判断しているのだろう。
つまり、肉を食べてよいものだと学んだ闇にとって、自分も皿の上の食材となんら変わりない――。
女は立ち上がろうとして椅子から滑り落ちる。それから逃げようと、身も蓋もなくずるずると後退った。
元はたかだか小さな闇、されども今はどこまでが意思をもった闇なのかさえわからない。
灯りが苦手だという話も聞いていた。
しかし元々は食材を処理してもらうつもりでいたのだ。あかりは月明かりに頼り、闇の働き阻害するものは予め排してしまっていた。食器はもう手の届くところにない。下手に払えば今度こそ食われてしまう。
抵抗するすべはなかった。
背中がぴたりと壁につく。それ以上後ろには下がれず、周りはかげに囲まれる。
漂う闇はゆっくりと、つたうように、確実に近づいてくる。女は啜り泣くように呻き、しかし完全に凍りついた身体では最期の足掻きさえ適わず。
いよいよ闇が、夜が、眼前にまで迫ってくるのを、ただただ見ているしかなかった。
その時だった。
破裂音が鼓膜を叩き、一息置いて居間の窓硝子が割れたのは。
刹那、引かれるようにそちらを見れば、人の身の丈ほどある鳥型の喰鬼が室内に倒れ込んでいた。
後頭部の一点からは血が噴き出している。
「ったく何体いるんだよ! おい、今いった所見てきてくれ!……説明は後でする!」
半ば怒号のような男の声がした後、誰かがこちらへ向かってくる足音が聞こえた。
部屋の一面は半壊しているが、自身は無傷だ。どこにも痛みを感じない。やみまるも見当たらない。
――助かったのだ。
女は安堵のあまり、涙をこぼした。
「あーあ、弁償じゃんコレ。無駄にでかい図体しちゃって……あ、大丈夫? そこの人」
間もなくして、窓際に姿を現したのは剣を帯びた金髪の少年。
確か、やみまるの創造主のそばにいたオプファースである。どうやら街に喰鬼が襲来し、その討伐をしている真っ最中のようだった。
掠れる声で大丈夫です、と答える。ふと少年がテーブルのほうを見遣った気がし、女はどきりとした。
しかしその視線が留まったのは皿の上でも女でもなく、影になりはっきり視認できないものの、恐らく息絶えた喰鬼の頭上のあたりであった。
「お姉さん。怪我もしてない? ガラスで切ったりとか」
「はい、ないです」
「そうだよね。だって庇われてるんだから」
窓枠を乗り越えて室内へ入ってきた少年は、鳥の頭を足で押し上げる。
すると、その下から一段と黒い靄が、否、やみまるが抜け出てきた。
「お姉さんを庇って、ガラス片を受け止めて呑んでくれたんだよ」
そんなまさか。それは自分のことを食おうとしたものだ。
信じられないという顔で思わず見れば、少年の薄らわらった気配がする。
「友好のあかしに甘噛みするんだよなー、やみまるって。でもさ、そんなことも知らないヤツのところに、どうしてやみまるがいたんだろうね」
こつ、こつ。
硬いものが軽くぶつかり合う音。いつの間にか抜いていた剣で、少年が喰鬼の嘴を軽く叩く音だった。
まるで、そう、形状を確かめるような。
「外で遭遇したなら、やみまるは喰鬼に食らいついてるはずなんだよ」
叩く音が止まる。
少年が「おいで」と、小さな闇を懐に忍ばせた途端――空気が凍った。
「いや……オマエがどうやってやみまるを手に入れたのかは、この際どうでもいいや。そんなことよりも」
「闇に、何を呑ませようとしてた?」
月光に、鋭利なしろがねがきらめいた。
【恐ろしきは黒のみに非ず】
#774版本当にあった(かはわからない)怖い(わけでもない)話