呑まれることなかれ「てめえら……よくも横取りしやがったな!」
酒精臭い息とともに言葉を吐いて、男がこぶしをテーブルに叩きつけた。
静まり返る店内。
乱暴に揺らされたのは、ハイドらが座っている大衆酒屋の席である。
中身の零れかねない容器類は気の利く後輩がすばやく持ち上げており、惨事は回避していた。しかし彼は右目を剣呑に光らせるものだから、制止の意も込めて、そのまま持っておけと目配せで指示をしておく。
ハイドは椅子の背にもたれかかったまま、あらためて壮年の男に視線をやった。
見覚えのあるような、ないような……ああ、思い出した。彼は昼間の“へび”討伐に居合わせていた男だ。
依頼者いわく「おとなを複数まとめて丸呑みする顎と凶悪な毒牙」を持ち、すでに幾人もの犠牲者を出している異形。それをを駆除し高額報酬を受け取るべく向かった岩場で、ハイドらより一足先に剣をふるっていた。
男はうろこに覆われた蛇のからだを勢いよく切りつけていた。ところが、剥き出しの肉が覗くそばから、新たな鱗が形成されていたのである。大蛇の動きは鈍っていたが、あの早さで再生するようでは、いずれ力尽きるのがどちらであるかなど明白だった。
美学と称するにはあまりにも単純な、好みの問題で成果の横取りはいささか気が進まない。しかしそもそも男には敗北しかありえないのであれば、決着を待たずにこちらの好きにして構わないだろう。ハイドは大蛇の眉間に戦斧を叩きこんでから、ようやく、そんなふうに思考を巡らせた。
ほどなくして蛇は死に絶えた。驚異の生命力でハイドの一撃にはなんとか持ちこたえていたものの、直後に食らった後輩の雷撃によりあっけなく絶命した。そのとき男がどんな反応をしていたのかは記憶に留めなかった。
そしてさっさと牙を手折って帰還し、討伐の報告後に夕食がてら酒をたのしんでいた――のだが。
「おい、聞いてんのか!」
飽きずにひとりでなにやら喋り続けていた男が、ひときわ大きな声を出す。距離が近い。つま先がぶつかる。呂律はやや回っておらず、酔いと怒気のせいで顔は真っ赤に染まっているが、殺気だけは一人前である。
これは確信と同義の勘であるが、男は高級娼婦の一晩まるごとを買える金が欲しかったわけではないだろう。ハイドらの行動によって矜持を傷つけられたと感じている。
尤も、現在おのれを最も貶めているのは自分自身では、と思わずにはいられないが。
「悪い、聞いてなかった」
「あァ!?」
「でもまあ、ようは気にさわったんだろ?」
ひゅう、と煽るような口笛を他の客が吹いた。
男は血走った目をかっ開いて、一転、つんざくようなさけび声から地を這うような声で吐き捨てた。
「調子にのりやがって……。勘違いするなよ。大体てめえみたいな、なまっちろいのが倒せるわけねえんだ」
途端、怒りの矛先が後輩へと向けられる。
「こいつに倒されてるのをお前も見てただろ。多分」
「どうせイカサマしたに決まってる、女みてえな顔してるくせによ」
「ずいぶん面白え言いがかりだな」
ハイドは表情を変えず、軽い調子で応酬する。
たしかに後輩は異様に肌が白く顔もやたら整っているが、むりやり食べさせ時に気絶めいて眠らせた甲斐あって、相応の少年へと成長を遂げている。年頃だというのに視線を下に引っぱる身長も、いちいち骨折を心配してやらねばならないからだも、その面影は残っていない。
酔っ払いの充血したその双眸は節穴である。
事実にすら即していない、稚拙な雑言の羅列だった。とはいってもやはり、哀れな醜態を晒す人間の戯れ言である。女性を侮辱しているわけでもないので流してやろうと思った。
さて。ハイドは律儀に持ち上げられたままのジョッキを横目に見る。
いいかげん酒が呑みたい。いっそ男を屋外へ連れ出して、適当に殴って失神させてしまおうか。明朗にして手軽な方法である。
「よし。一旦外に出ろ」
決めるが早く、ハイドは背もたれにあずけていた体を起こした。
すると男はつられるように小さく飛び上がって、「やんのか?」と威勢よく吠えたのとは裏腹に、大げさにあとずさった。
そして指先にあたったらしい他の客、いや男自身の席にあった……酒瓶を手につかむ。
まだ未開封だったようで中身こそ零れなかったが、適度に重さのある瓶を持った男の動作はどこか危なっかしい。かと思えば、男はそれを振り上げて――。
女性客の悲鳴。
――こちら目掛けて勢いよく殴りかかってきたのを、ハイドはかるく片手で受け止めた。
「詫びの酒か?」
喉の奥で短くわらう。
呆気にとられて固まった男の手から、瓶を奪い取る。ひびが入ってないのをさっと確認する。
元からどことなく笑んでいるような目元の表情は変えず、ハイドはくちびるに不敵な弧を描いた。
「普通に渡せよな」
言うや否や――椅子に腰掛けたまま、加減なしで男の足首を蹴り飛ばす。頭を打ちつける勢いでその体が床へ倒れこむ。
一拍空いて、野次馬の歓声が弾けた。
うごかなくなった男に、店員が駆け寄ろうと近づいてきたのを認めて、ハイドは健気な少年に「もういいぞ」と声をかける。
彼は静かにジョッキを置いて、伸された男ちらりと見た。
「いっぺん叩き起こすか?」
「……なんで?」
「オレはお前への悪口を流したからな。そのぶんお前が一発食らわせたっていい」
「どうでもいいよ」
なかば返答がわかりきった言葉を口にすれば、案の定、後輩はとゆるく首を横に振る。
「――それもそうだな」
ハイドは今しがた手渡された瓶をテーブルに置いた。まあまあ悪くない酒である。せっかくだ、このまま頂こう。
テーブルの上に用意されているナイフを使い、栓をくり抜き取る。瓶の注ぎ口を向ければ、彼はもう男を気にかける必要はないと理解したようだ。少々残っていた中身を空にして、自分のジョッキを差し出す。
ハイドは機嫌の良さが顔に滲むのを自覚しながら、しゅわりと泡立つ酒をそそいでやるのだった。