捨て犬、抱擁 気持ちの変わるタイミングとはいつなのだろうか。
男は日射しのよく入る窓際のソファで、昼寝をするのが好きだった。レース状の薄いカーテンに隔てられた向こう、外から聴こえてくるのは相変わらずカラスの鳴き声と、時々遠くから響いてくる車のエンジン音であったり、飛行機の駆動音だったり。猫のように全身を伸ばしながら、大きなアクビをこぼした。
夏場の暑さはとうに鳴りを潜め、今は肌寒さを覚えることの増える季節に差しかかろうとしている。太陽から降りそそぐ暖かな光が男の痩躯とソファをじっくりと温めてくれているので、今日に至っては毛布をかける必要もなかった。
静かに過ぎていく時間を、特に何をすることもなく過ごしていく。
そうして考えることも特に無くなってしばらくした後、遠慮もなしにドアの開く音と、軽やかに弾む靴音が暗闇の中に響いた。
真っ直ぐによどみなく、その踵がこちらを目指して歩いてきているのは、一瞬一瞬と近付いて空気を揺らす気配からして明白。
不意に男は、この瞬間を贅沢なひとときだと感じた。心の底から。
「なあなあ、──」
目を閉じていても機嫌が良いと分かるほどに弾んだ声音が、男の名前を呼ぶ。
声の主は分かっている。幼く純粋な子供。お気に入りの少年。呼ばれたならば返事をすれば良いものを、抗いがたい眠気と、悪戯心に負けてしまう。狸寝入りを決め込むこと、およそ十数秒ほど。
今度は腹の上にどっしりと、無視を決め込むには少々無理のある重みがのしかかってきた。思わず詰まった息が、うぐ、と喉から零れる。男はそれでも、頑なに瞼を開けようとはしない。
リアクションが見たいのだ。男の目覚めを待つ健気な子供の。今起きてしまっては面白くない。
「あれっ?」
男の無反応を訝しんだか、しばらくの沈黙の後、そこから退く気配は微塵もないまま、子供はすっとんきょうな声を上げた。笑いを誘うマヌケなトーンが耳の中をこそばゆくしていくのを、何とかして堪える。子供は上体を左右に揺らしながら次に取るべき行動を練っているらしい。うーん、うーん、と唸るのが聞こえる度に、子供の尻に潰された腹がソファに沈み込んでいく。
(今はまだ十六くらいだったか)
キズ持ちとはいえ、とりあえずは成人している身として。
子供の友人兼共犯者兼保護者として。本来ならばこの手のやましい気持ちは棄てるべきなのだが。
男は、命知らずにも自分の腹に乗って身体を揺らしている子供に対し、度々、下卑た欲求を抱くことがあった。悪戯に擦られたそれがやる気を出さないように、あるいはやる気を出したそれに子供が気付かないように。ほんの少しだけ、腰をずらす。
半ば当然ともいえるが、この無邪気な子供は本人の自覚に関わらず、今や男の好みだけで固められた存在に等しくなっている。
(手塩にかけて育ててきたんだ)
人間の親による子供の育て方など、調べたこともないので知らない。男の人生は人間としてよりも、キズ持ちとして生きてきた時間の方がずっと長い。むしろ今日まで子供の身体が誰にも汚されず綺麗なままであることは、功績として称えられるべきだと自賛したいほど。
それは何故かと問われれば、男は我慢をするのが大嫌いだからだ。
(まだ早い。せめて、あいつの意思を確認するまでは)
何せ目の前にいる少年は、いつものように甘い言葉にくるめれば、強引に事を進めてしまえるくらいには自分を軽く扱う。そうしたことは男にとって望ましい考え方ではない。従って、こうした楽しみは丹念に下ごしらえをしてから頂くのが良い。
互いの意思を尊重する。たまにはまどろっこしく、こいつに対してなら、人間らしく振る舞うのも悪くはなかろう。
いつか未来、今よりもずっと男らしく成長した姿に思いを馳せていた所で、瞼にかかる影と、子供の気配が一段と近くなるのを感じた。
「おーい?」
男の尖った鼻先を、柔らかなものがつんつん触れる。鼻骨から眉間をするりとなぞったそれは、少年の指先だろう。
(何をやらせてもくすぐったいことばかりする)
翻弄されているのは果たしてどちらなのかと自嘲しながら、男は閉じ込んでいた瞼を勢いよくかっ開いた。
*
「───ばあっ!」
「うわぁーっ!?」
今の今まで穏やかな寝顔だったものが瞬く間に鬼のような形相に変わったものだから、堪らずに全身で飛び上がってしまった。勢いそのまま床に向かって倒れていくところを、すんでの瞬間に男が腕を掴んでくれたので事なきを得る。
定位置のようにストンと男の腹の上に下ろされたあと、未だにばくばくと騒ぐ心臓をなだめながら男を睨んだ。
「起きてんなら言えばいいじゃん! カラスの意地悪!」
「エキニシィ。カラスは元々意地悪なもんだ」
ざまをみろと言わんばかりに顎をしゃくってみせた男を見下ろして、思わず少年は──エキニシィはため息をついてしまう。
カラス。彼の出身国の言語で"空の巣"と当て字されたそれは、正真正銘、ここにおいては彼を指す名前だった。
キズ持ちに懐く習性を持ち、彼らの遺体に食欲を見出だす。そうでなくとも何かと不吉な神話や因習の登場キャラクターのように扱われやすいカラスは世間の嫌われ者だった。もっとも、エキニシィの認識はその限りではなかったのだが。
同じ名前を冠する鳥に囲まれながら、人々に忌み嫌われるキズを悠然と操る黒髪の青年。
意地は悪いし、素直ではないし、時折底の知れない憎悪を揺り起こしては言葉に乗せる。だが、恐怖を感じたことはあっても、彼のそばを離れる気は起きなかった。
「で? 何の用で乗り掛かってきたんだ」
「あ、えーっと」
要件を促されて隣に座り直すつもりでいたのに、空巣の両手はエキニシィの腰を掴んだままだった。何といったものかと思いながら、答えを焦らしては不機嫌になりかねない空巣を見下ろしたまま頬を掻く。
「寝てるのみたの珍しいなーって思ったのと、あと今日キズ持ちのことが授業に出たんだけど」
キズ持ち。それを聞いた空巣の片眉がくいと上がる。
「ほう?」
エキニシィが公的に教育を受けられる環境を与えられるまでは、空巣が教師のように彼に付き添って、様々な知識を教え込んでいた。空巣の教え方は彼自身の性格と同じで優しいものではなかったが、何度理解出来ない所があっても、分かるまで根気強く教えてくれた。
自分の関与しない環境からもたらされた学びに、多少なりの関心がある。エキニシィは何となくそう思った。
「キズ持ちの身体って、同類以外からの接触には感覚が鈍いんだってさ」
「つまりは人間のお前にくすぐられてもくすぐったくない可能性がある?」
「みたいな感じ?」
「くすぐったかったけどな…」
首を傾げる空巣とは対称的に、エキニシィの表情はみるみる強張っていく。
「ま、まさか……」
「有り得ない。お前がキズ持ちになれば俺が気付くし、カラスからの反応だって変わるはずだ」
キズ持ちに関する情報は今の時代になっても真偽定かでない噂か、デタラメか、そんなものばかりなのだろうか。途端に青ざめかけたエキニシィをたしなめて、口の中でアクビを噛み殺した。
「なぁんだ…」
万華鏡のようにコロコロと表情を変えていく姿を見ながら、痺れ始めた両足をこっそり擦りあわせる。そんな事で落胆することもなかろうにと呆れる一方で、この少年の心から生まれる色鮮やかな感情を眺めることを、空巣は密やかに好んでいた。歯の隙間からスッと息を吐いてから、閃いたように呟いてみせる。
「…とはいえ、だ。教えてもらった内容が全くのデタラメだったと決めつけるのは早い気もする」
「えっ?」
途端に目を輝かせたエキニシィが空巣の方を見つめてきたので、つられて口の端を吊り上げる。嫌味を押し付けた訳ではない。
きっとうれしかったのだ。
「試してみればいい。キズ持ちは個人差があるから判断がつかなかっただけで、触った場所によっては本当に感覚の分からない部分もあるかもしれない」
キズ持ちをお目にかかる機会だって、本来は珍しいわけだしな。
空巣はそう言いながら両手を広げてみせた。もっともの所、先の仮説の真偽を測りたいならばキズ持ち一人、人間一人では検証のしようがないことは承知している。しかしこれはエキニシィが指摘しない限り、その点には気付かなかったという方針でいくつもりだった。
空巣は自分の指先から髪の一本さえ、目の前の少年以外に触らせる気はなかったのだから。
指を擦り合わせながら準備万端と言わんばかりに、エキニシィが重心を倒してきた。ひじ掛けに乗せた頭の横に片手が置かれ、好奇の眼差しが顔を覗き込んでくる。マゼンタの瞳に映る自身の姿、空巣の表情は確かな優越感に満たされていた。
「前から思ってたけどさ、カラスって鼻高いよね」
人差し指がつ、と鼻をなぞると、目の焦点がぼやけて指先の輪郭がぶれた。
「嫌みか?」
「ううん。でもずっと気になってた」
親指と人差し指が鼻骨をつまむ。形を確かめるような手つきで。
「くすぐったい?」
鼻のてっぺんを指でつつかれた。
「…くすぐったい」
「そっか」
しまいとばかりに鼻をつままれて、息苦しさに酸素を吸い込んだ。
「ここは、触っても大丈夫?」
エキニシィは伺いを立てながら首筋の、特に頸動脈に近い箇所に軽く指先を押し付ける。ほんの少し圧迫された場所から伝わる脈拍。おもむろに空巣はエキニシィの手首を掴んだ。彼の手首からも同じ速度の脈拍がとれた。
「お気に召すまま」
「ほーい」
空巣が手を放したと同時に首周りが温かくなる。エキニシィの手の平が首筋に触れたからだ。傍目から見れば、組み敷かれて首を絞められていると誤解される構図であろう。じっくりと広がる熱を感じながら、いつかの頃、二人で手の平合わせをした時の事を思い出す。あの時から既に、空巣の指は成長著しいエキニシィの指の輪郭にすっかり隠されていた。
これからこの子供はもっともっと成長する。歳をとって変わっていく。触れ合った手の平が伝える熱に、火傷をしそうな感覚を覚えたものだ。
「……聞いてもいいか」
たかだか手の大きさが勝ったから何だというのか。得意げに両手を掲げて笑ってみせた、いつかのエキニシィを想いながら問いかける。
「何? あ、触んない方がよかった?」
引っ込めかけたが言葉の続きに期待して宙に留まった手を見つめて、それから首を振った。
「どこまでやる気でいる?」
「ん?」
「俺が許したら、どこまで触る気でいる」
「ああ」
そういえば、と呟くと、マゼンタの瞳がキョロキョロと辺りを見始めた。壁の隅っこ、ソファに着いた寝タバコの跡、窓向こうをまばらに飛んでいくカラス、
それから。
「…アソコ以外?」
悩ましげに眉を寄せたエキニシィを見上げ、空巣は気付けば両手を伸ばしていた。何を言われるよりも速くその両腕を掴み、思いきり引き倒す。慌てて声をあげていたのも構わず、大きなぬいぐるみを抱えるように抱きしめた。
日向の暖かさにも似た体温が全身を包み込んでいく。ずっしりと身の詰まった体躯に押し潰されている事実も、今となってはさして気にならなかった。苦しくないと言えば嘘になるが。
「え、え、えーっと」
当の、唐突に空巣に覆い被さる形で動きを封じられたエキニシィは、突然の奇行に言葉を失っている様子だった。そう考えてしまうのは無理からぬ話。懲りることを知らないエキニシィが自分からスキンシップを取りに行くことは間々あるが、大体はすげなくあしらわれるか、盛大な拒絶を受けるのがオチだった。
空巣からエキニシィに触れに行くということは数える程しかない。
「い、いきなり何?」
「かわいいなあお前」
左の頬を空巣の肩に押し付ける形で抱きしめられているせいで、首をよじってみたところで空巣の顔を窺い知ることは出来ない。その、これ以上なく互いの身体を寄せた状態から気付いたことがあり、エキニシィは密かに眉を寄せた。
空巣という男はその生来からと思える自信や、何もかもを意のままにしたいという傲慢を形に出来る、類い稀なキズを有している。
その振る舞いや力が関心を薄くさせていたが、今エキニシィがのしかかっているこの男の身体は、薄く、軽く、あるいは普通の人間よりも、弱々しく思えてならなかった。
気まぐれに突っぱねたかと思えば今この瞬間の光景のように、頭から背中までを、まるで大型犬を相手にしているかのようにしてごしごしと撫でてくるものだから。彼が何を思って自分にこのような事をするのか、益々と図れなくなっていく。
(やっぱりキズ持ちの事はわからないや)
ソファの下に蹴飛ばされないのをよしとしてエキニシィは目を閉じる。
レース状の薄いカーテンに隔てられた向こう、外から聴こえてくるのは相変わらずカラスの鳴き声と、時々遠くから響いてくる車のエンジン音であったり、飛行機の駆動音だったり。
次第に暮れていく日の光を浴びながら、大きなアクビをこぼした。