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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    しおり
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    しおり
    月の二面月の表月の裏側月の表  消灯時間を過ぎたラボの中を歩き回る者はそうそういない。
     治験協力者達は全員、消灯の三十分前には各々の居住エリアへ戻るようにとラボの全域に放送が流れるし、行儀悪くも辺りをうろつこうものならパトロール用のドローンに目ざとく見つけられ、自室まで付き添われる羽目になるからだ。
     職員である研究者達も例外にもれず、特別な事情のない限りはラボの中を手前勝手に動き回ることは許されていない。治験協力者達より一時間ほど遅れた後に就業時間を終え、あとはそのまま真っ直ぐ研究者専用の居住エリアに帰ることになる。
     そうしたルールに縛られることなく、いつも自由にラボを歩ける人物は、たった一人しかいない。

     長く、広い廊下に忙しなく響く、ローファーの硬い靴音。
     最低限の灯りが足元を照らす道を足早に進んでいたのは上位者のパゴダだ。
     素性を偽り、いち研究者としてラボに紛れて職員の動向を監視する、孤独なキズ持ち。黄緑色の髪色を微かに残した白髪は、そのまま下ろすには仕事に差し障る長さであるのでバレッタでまとめ上げている。緊張の時間を終えてしまえば、気分の切替もかねて髪をほどく。クセの残った髪に指を通しながら、パゴダのつま先は目的の場所を向いている。

     白のビニル床と壁材によって象られたラボの中は、まるで街の縮小図のように、明確な役割を担う複数のエリアによって構成されている。
     キズ持ちやキズの研究を担う研究者の為の居住エリア。
     実質の職場である研究エリア。
     街での役割を失い、衣食住と引き換えにその身柄をラボに提供する治験協力者の為の居住エリア。
     担当者である研究者と共に利用する研究エリア。
      双方が息抜きや娯楽の為に訪れる購買やカフェテリアなど。
      だがパゴダがこれから向かおうとしているのは、上位者の権限で、自分の為に作り出した秘密の場所だ。
     通称、回り道廊下とあだ名されたそこは、定期的に増築の進むラボにあって利便性を無くしたまま放置された通路だった。ラボは新しい施設の拡張と同じくし、各エリアへのアクセスを向上させる為の通路をセットで作るものだが、その新参の誕生によって、効率性を失ってしまった通路が必然的に一つ誕生することになる。
     ここ一ヶ所にとどまることなく、回り道廊下と称されたそこ全てがそれだ。かつては使い道に困る通路は都度壊していたものの、明らかに割に合わないコストを自身と同じ上位者の、街の建造物の創造を担うニコラ・コスに押し付けるには憚られ、近年は必要に迫られない限りは古い通路もそのまま残しておく運びとした。
     古い通路をわざわざ通る研究者は殆んどいない。それ故に、仕込みをしやすいのだ。
     パゴダは研究者の居住エリアと治験協力者のエリアを繋ぐ回り道廊下の、丁度真ん中で立ち止まった。それから白一色に占められた清潔で息苦しい塗装の、少々色の剥げかけている壁に指を這わせる。微かに設けたくぼみを押し込めば、それが入り口を開くスイッチだ。
    (古典的、子供じみている)
     音もなく前触れもなく、パゴダの眼前に黒い四角い扉のような穴が開く。慣れた足取りで、灯りもない暗闇の中に自ら呑まれていった。

     目が慣れても辺りには何も見えはしない。それでも迷うことなく進む足の先が暗闇に隠された壁にぶつかったり段差につまずかないのは、目的の場所を明確に思い描いた人間を迷わず導く機構が備わっているから。つまりはここを歩いて無事に出口にたどり着けるのは、理屈でいくならばパゴダだけだ。
     そうでない者が仮にここを見出だし、好奇心で歩を進めたのなら。
     事情の分からない行方不明者がラボに現れた記録は存在しない。だからパゴダは別段問題に思わなかった。

     パゴダが秘密にこしらえたのは、月を臨める展望室だ。
     この隠し部屋はそのコンセプトの通りに、たった一つ再現された人工の月がこれまた夜空を再現した映像の中にポツリと浮いているだけだった。本来の夜空にはあるはずの名もなき星々も、惑星も、一つとして存在しない。
     滑らかな暗闇に満たされた空間を照らしているのは、あの偽物の月から注がれる月白色の明かりだけだ。誰の立ち入りも許さないここは、パゴダにとって数少ない、安らげる場所だった。そうであったはずなのに。

    「は?」
     と、思わず声になって出たがった疑問符をどうにかして呑み込む。
     見間違いか幻覚の類いを疑って瞬きを数度、それから軽く目を擦る。辺りは暗く、互いの間にそれなりの距離はあったものの、自分の目が馬鹿になった訳ではないのを確信した今、そこにいた人物をよもや他の人間と見間違えたり幻覚であると一蹴することはもはや不可能であった。
     先程までうるさく廊下を叩いていたローファーの底を、打って変わってしとやかに、慎重に床に降り立たせながらパゴダは見慣れた背中に近付いていく。

      大柄な体躯は意図せずとも威圧感や存在感を与えるものだろうに、あの男を見て抱く印象に、そうした観念はなかった。例えるならば、朽ち木や廃墟を眺めた時にパゴダが感じること。
      壊れかけて、終わりの近いもの。パゴダにとっては必要不可欠な居場所。
    「ヴァイアス」
     気付けばパゴダは彼の名前を呼んでいた。男の後ろ姿を認めた瞬間、彼がどんな手品を用いて自分しか知り得ない場所に至れたのか。そんなことは既に些末な話となっていた。

    「おぉ」
     名前を呼ばれた男……ヴァイアス・ウェインは、一度ふらりと身体を揺らした後、片足を軸にして後ろを振り向いた。冬物のコートと手袋、マフラーを着込んでもなお寒そうに身を震わせる彼は、キズ持ち特有の体質変化がネガティブな方向に発現したケースである。今や短時間であったとしても、低温下の環境に置かれようものなら彼の身体は生命活動を維持出来なくなってしまう。
     それだけにパゴダは気がかりであった。いつからここにいたかは知らないが、そうでなくとも、ここは他の場所より少しばかり冷えているから。
    「リウビアじゃねえか。もしかしてお前も寝れないクチか」
    「あぁ、まあ」
     額にかかる黒髪を払いながら、のしのしと大股で近付いてくる。リウビアとはパゴダの、研究者としての名前だ。
    「お前さんは特に模範的な研究者かと思っていたが、見立てが外れたな。こんな時間に一人で探検とは」
     歩数にして大股五歩ほど。互いの全身が視界に収まる距離で立ち止まったヴァイアスの、つま先から頭のてっぺんまでを一瞥する。寒がりのくせにサンダルを履いている理由は何であったか。
    「お前もお前だ。よくドローンに見つからなかったな」
    「ドローン? いたっけか? そんなの」
     とぼけたふりをしているのか、あるいは本当にドローンの目を掻い潜ったのかは知らないが、ヴァイアスはそう言ってわざとらしく、辺りを見回してみせた。展望室には月を眼前に見る為の簡素なベンチと隅には一人分のベッド、それからデスクにチェア。どうせ誰もこないと見越していたので、内装の見た目など考慮したことはなかったし、警備用のドローンも置いていなかった。
    「掃除用のロボットくらいは置いてても良いだろうに」
     大きく張られた窓の手前、手すりを指差したのを見てパゴダは息を吐く。窓枠もそうだが、そこはいつの間にかうっすらとホコリが乗っていた。訪れるのは久しぶりでもない間隔であるが、掃除はおろそかにしていたかもしれない。掃除用のドローンくらいは設置すべきであるとして、パゴダはなるたけ自然に意識を切り替える。
    「自分の部屋の惨状を棚に上げておいて?」
    「言うようになったな」
     思わぬ反論にからからと、声をあげて笑う。声をあげてといっても、ヴァイアスの感情はどこか他人への配慮で無理を圧しているような気だるさが目に着いていけない。パゴダは改めて、目の前に立っている大男を見た。
     ヴァイアス・ウェインはかつて狩人として、上位者の一人、狩長ハイテレス・ブロンの元にいた過去がある。街に流れ着いてしばらくは体調も安定していた所、急激な暴走の兆候を垣間見たハイテレスに見限られ、最終的には。

    「まだ、嫌な夢は見るか」
     首筋にチクチクと触れる白髪を手櫛で避ける。ヴァイアスは重たげな瞼をゆっくりと開くと、伏し目がちに床に視線を落とした。何が気がかりなのか、足の指をサンダルのかかとで踏み潰している。
    「覚えててくれたのか?」
     まるでこちらが毎日の診断を疎かに行っているというような口振りに感じられたパゴダは、間髪入れず
    「思わしくない症状は必ず記録する」と言い詰めた。
    「覚えているのは当たり前なんだ。研究や実験ばかりが取り上げられる仕事だが、担当を任された治験協力者についてずさんな扱いはしない。少なくとも俺は」
    「……そうかい」
     ヴァイアスは眉を下げながら、口角は緩くつり上げてパゴダに向き直った。
    「夢はもう見てないよ。追憶は相変わらず、鬱陶しいくらい視えてるが」
     追憶。
     キズ持ちであるからには避けることの出来ない、トラウマの想起。どうしたもんかねと肩を落とすヴァイアスの姿に、かける言葉を出しあぐねた。
     キズとキズ持ちの理解を深める過程において、追憶の存在を無視することは不可能である。人間生きていれば思うことはあり、時々それは強いイメージを伴って記憶に刻まれている。キズ持ちのそれは一生忘れる事を許さない。
     未練を抱いても、やり直しをしたいと願っても、誰かに怒りをぶつけても、取り戻したいものは二度と戻ってこない。
     やらずとも、試さずとも知っている。だからもう、何もしない。
     キズ持ちの救い難きは、その挫折をよしとする生き方にだってあるのだろう。
    「それにしても」
     ヴァイアスはパゴダの横をすり抜けて、少しばかり埃っぽい手すりに背をもたれた。振り返り気味に見上げたのは、淡い光を注ぐ仮想の月。
    「まるで本物みたいだ。眺めてると落ち着く」
     目を細めて笑んだヴァイアスに誘われるようにして、パゴダも二人分の間隔を空けて並び、月を見上げた。柔く静かな光を受けながら、頑なだった唇が自然と言葉を紡ぐ。
    「…月光が」
    「うん?」
    「月光は、キズ持ちの精神を安定させると」
    「ああ」
     サンダルが床を擦る音。目線だけを隣に向けてみると、ヴァイアスが半歩程の距離を詰めていた。思わず退こうとした足を何とか踏ん張らせる。
    「迷信なんだろう?」
     わざとらしく肩を竦めて笑うヴァイアスに合わせて、パゴダも何とはなしに肩を竦めてみせた。
     月、月光、ともかくは、太陽を頼りに強く照るもの。そうしたものがキズ持ちの精神を癒やすというのは、実際のところ、殆どの噂がそうであったように、世の中にはびこる迷信の一つに過ぎなかった。
     解き明かしたのは他ならぬパゴダだ。だが真実を知ってしまった自分が今もなおこうして月を見上げる場所までこさえて、知らぬ間に得ている安らぎは一体何なのだろう。解き明かせない疑問はいつだって、心の中から生まれてくる。
    「まあ事実がどうあれ、単純に見てて飽きないもんだよ。偽物だろうがなんだろうが」
     ヴァイアスはそう言いながら、殊更大きく伸びた二人分の影を見下ろした。手すりの影の輪郭と溶け合って、二人の影は歪な形を作り出している。
    「お前は? 月を見るのは好きなのか?」
     真っ白に輝く月に背を向けたままヴァイアスがそう尋ねてきたので、自らに答えを問うように、改めて月を見つめる。思うがままに答えても良いのだろうか、それとも彼が望むような答えを見つけるべきなのか。パゴダは逡巡し、気付けば利き足のつま先で床を叩いていた。
    「……どうなんだろう」
    「と言うと?」
     結局のところは、前者を選んだ。ヴァイアスには隠さずとも、自分の本質を見破られるのは時間の問題のように思えてならなかったから。
    「迷信を信じていた頃の癖が抜けていないだけかもしれないし、或いはお前が言うように、月を見るが好きなのかもしれない。でも……」
     パゴダの沈黙は誰にも妨げられなかった。ヴァイアスはただじっと、答えを待っている。パゴダは襟足の白髪を掴むと、くしゃりと手の中で握り潰した。柔らかな針のような髪の感触が、痛くもないのに肌を刺す。
    「好きが何なのかわからないんだ」
     静寂の中でパゴダのこぼした言葉は、淀みなくヴァイアスに届いてしまったろう。盗み見るようにして視線を向ける。彼は何も言わず、静かに腕を組んでいた。頭を殴られたような衝撃がパゴダの上体を僅かに揺らす。二つに一つを選ぶ必要があった時の、選択の基準になるものならば確かにある。赤いものよりは青いもの、審美性より効率性、相手のことより自分のこと。無意識のうちに、唇を噛み締めていた。
    「自分が何を考えて、どうしてこんな事をしているのかも、時々わからなくなる」
     ひた隠しにしてきた本心を外に出そうとすると、まるで全身が拒否反応を起こしているようだ。最後の言葉は震えて、音に乗せるのも難儀になる有り様だった。
     「今の研究者って職業は? 自分から希望したんじゃないのか?」
     何とはなしにヴァイアスの口を突いたのは、パゴダが先に話した[好き]についてだった。適性診断だの何だのとまどろっこしい段取りはあるようだが、毎日あれだけ必死に仕事に打ち込む姿からして、それこそ彼の自覚していない[好きなもの]になっているのではないかと思ったらしい。
    「こんな場所。居ろと言われたからいるだけだ」
     思わず吐き捨てるように言葉を返した事をパゴダは内心で悔やんだ。この場所はそうだ。どれだけの権限と保障と褒美を与えられたとしても、パゴダにとっては強要されて押し込められた場所だ。
     ただ彼は。
     
    「難しい話だな」
     ヴァイアスは手すりに凭れるのをやめると、両手を頭上に大きく伸びをした。床に伸びる彼の影もつられて大きく揺らめく。パゴダの視線はいつの間にか、見上げる月が切り取った影に釘付けになっていた。
     誘われるように月光から背を向けて、そうしてぼんやり眺めていたヴァイアスの影。それは気付くと、パゴダの影の直ぐ隣に並んでいた。
     左腕に当たっている感触、彼の右腕が触れている。俯いたまま何も喋れないでいるパゴダには構わず、ヴァイアスは続けた。
    「だが興味はある。その話、もっと聞きたいな」
     出来ればもっと、落ち着ける場所で。
     そう言い加えたヴァイアスに一瞥をくれると、パゴダは無造作に首筋を掻いて、それからシワが寄るほど目頭を強く揉み込んだ。この場所以外に、落ち着けるところ。
    「……お前の部屋?」
     あはは。声を弾ませてヴァイアスは笑んだ。火を点けられた訳でもないのに、身体の奥が一気に熱くなる。
    「いや、お前の部屋」
     そこに投下された突拍子も無い提案に、とうとうパゴダはヴァイアスに向き直らざるを得なかった。自室に人を招いた事などこれまで一度も無い。そこに突いて言うならば、他人の部屋に赴いたことだって、ヴァイアスが初めてだった。
    「何にも置いてないぞ」
    「イスとベッドくらいはあるだろう? 座れるもんがあるなら充分さ」
    「ならお前の部屋でいいじゃないか」
    「お前の部屋に行きたいんだって。駄目かな」
     何をどう答えてもヴァイアスは押し切る算段なのだと観念し、パゴダは心中に、シンクに溜まっていた食器や、テーブルに散乱したままの書類。あれらをヴァイアスに指摘される前にどう処理すべきかばかり考えていた。
     すげなく拒否すればいいものを、断り切れない自分がいる。慣れ親しんだ筈の孤独を遠ざけようとしていた。
    「……後悔するなよ」
     絞り出した言葉には勝手に恨みがましい気持ちと、微かな期待が入り交じっていた。交ざりあった感情から更に生まれる名前の分からない感情に、パゴダの心は知らず掻き乱される。
     ヴァイアスはわかっているのだろうか。
     部屋に招いて、話をして。
     それだけで終われる自信はなかった。
     
    「なら気が変わらない内に」
     言うやいなや、ヴァイアスの目に淡い緑の光が灯る。それはパゴダが封じた彼のキズの一端であり、一筋の糸がほつれて千切れてはまた結びつくような儚い軌跡を宙に放った。
     風のキズを纏ったヴァイアスは一度胸元を押さえる仕草をしたが、パゴダの懸念には及ばず、その踵は淀みなく展望室の出口、真っ暗な闇を目指そうとしていた。声を投げるよりも速く、パゴダの手がヴァイアスの腕を掴む。
    「帰り方は知ってるのか」
     ヒュウ、ヒュウ。密室の空間を奔る光の軌跡。心地よい風。
     対してヴァイアスは、パゴダからの問いを聞いて一転、何かとんでもない忘れ物に気づいたような、愕然とした表情に変わった。
    「普通の方法では来れない筈だが」
     うやむやにしておいても構わないと思っていた疑問は、ヴァイアスの反応を見た瞬間、確実に明らかにしておかなければならないという焦燥に取って代わった。俗に言うテレポートを使ってだって来れない場所に彼はいたのだ。
     むしろ何故、展望室で姿を見た直後から真相を尋ねもせず、ヴァイアスを問い詰める気が失せてしまったのだろう。
     パゴダの言葉を真正面から受け止めたであろうヴァイアスは、ぽっかりと開いた暗闇を見、それに背を向けてもう一度パゴダを振り返り、恐る恐るといった様子で口を開く。
    「……俺いつからここにいたんだっけ?」
     双方の間を寒々しく、風が通る。ヴァイアスは何とも罰が悪そうに、パゴダは呆然と俯いた。
    「いや、すまん。酒を飲んで来たわけでもなしに、何で覚えてねえんだかな」
     自らを責めるような苛立ちがヴァイアスの声音に乗る。忙しなく揺れる上体、彷徨う視線。パゴダは苦虫を噛み潰したような表情になるのを隠しきれないままに問うた。これだけは決して本人には言えないが、憶測は立てているのだ。だが願わくば、その通りであって欲しくはない。絶対に。
    「…名前を」
    「ん?」
    「誰かに名前を呼ばれなかったか。声が聞こえて、気付いたら別の場所にいたとか」
     うーんと頭をひねるヴァイアスを、気が気でなく凝視する。
     知らない事は明らかにしたい。白日の元に晒したい。けれど今は、彼からもたらされる答えが自分の想像通りであって欲しくなかった。
    「……本当にごめん。最後に部屋で寝てた以外何にも覚えてない」
     結論として、この謎は今は棚上げ。これ以上は問い詰めた所でどうにもならない。
    「分かった」
     パゴダにとってはむしろ、覚えていないというその言で、真相が見えてしまったも同然だったが。
    「……分からないなら、今はいい」
     
     子供のようにしょげてみせるヴァイアスを制し、視線を出口の暗闇に移す。ヴァイアスも促されるようにパゴダを見つめた。
    「この通路は造りが特殊なんだ。詳しい原理はともかくとして、入口の場所もそうだが、ここはこの場所を正確に把握している奴しか行き来が出来ない」
    「知らなかったらどうなる?」
     そう説明されれば当然湧き上がってくるであろうヴァイアスからの疑問に、ようやくといった様子でパゴダは答える。
    「永遠にあの中を彷徨い続ける事になるだろう」
     幸いな事と言うべきか否か、ラボの内部でそのような行方不明者は出ていないが。なおさら腑に落ちないという言葉を顔に貼り付けたヴァイアスは、それを口に出すのもままならず、唸るような声をあげるばかりだった。
    「……とりあえず、まずはここを出よう」
    「ちょっと待ってくれ、どうやってここに来たか分からないのに俺が通ったら迷子になるんじゃないか?」
    「行き先を理解している俺から離れなければ問題ないはずだ。恐らくは」
     果たしてこの確信の無い提案が不安を募らせるヴァイアスへの励ましになったか定かではないが、パゴダは仮に通路から出られなくなった場合を見越し、有事の折には頭を下げて、ニコラに協力を仰ぐつもりでいた。それ故バックアップは完璧であるが、上位者という素性を隠していく為に、この保険を開示する訳にはいかない。話すだけは話したとして躊躇なく暗がりに爪先を溶け込ませた、その時。
    「離れないって、こういう事でいいのか」
     素肌で直接触れ合った訳でもないのに、それは生々しいほどに鋭敏な感覚をパゴダに与えた。するりと腕にまとわりつき、半身に寄りかかる体温。手袋越しに指が絡まり、柔く握られた。ぎこちなく首を動かして、ヴァイアスを見る。
     
    「それはないだろう」
     恋人同士でもあるまいに、彼はパゴダの腕を抱き込んで、あまつさえ手を繋いでいた。至近距離になった事でパゴダの鋭い嗅覚が否応なしに拾っていく、ヴァイアスの好んで吸う煙草の香り。それと通常なら感じ取れもしないだろう、今は彼の体内に溶け込む錠剤や粉薬の匂い。上気した頬を気取られないよう、堪らず顔を逸らした。
    「もっと踏み込んだ事はやってきてるじゃないか」
     パゴダが胸の奥に抱いた期待を感じ取ったか、あるいは単純に事実を話しただけなのか。ヴァイアスは事も無げに、互いの関係性の一端を掘り起こしてみせた。
     研究者と治験協力者。二人は何とはなしに、あるいはどうにも堪らなくなった時に、幾度も身体を重ねている。
    「それには違いないが」
    「なら良いじゃねえか。早く行こう」
     今更寒さが響いてきたのか、一度ぶるりとヴァイアスが身体を震わせる。パゴダは後ろ手に月光を消灯すると、一層に広がる暗がりからも伝わる体温を確かめながら展望室を後にした。
     月の裏側 先にリウビアが話してみせた通り、人工の月を望める展望室への道しるべや誘導灯の一切も有りはしない通路は、到底ヴァイアスが一人で辿り着けるような場所ではなかった。永遠に彷徨い続けるなどと言われた時は流石に誇張表現を疑ったが、事実、あそこを直感だけで歩けば確実に平衡感覚が可笑しくなってしまいそうなくらい、右も左もどこもかしこも、本当の闇の中だった。募る疑問はヴァイアスもリウビアもきっと同じはず。
    「寝ぼけて来たから覚えてない? いやそもそも知らないなら来れないってんなら無理があるしなぁ……」
     ベージュカラーのごくシンプルなソファに寝そべりながら、シミ一つない真っ白な天井を見上げる。奇妙なミステリーに遭遇したと簡単に片付けられれば良いのだが、如何せんヴァイアスはラボに来てからというもの、望まないにしても多くのトラブルに見舞われてきたし、その関係でリウビアも、彼を取り巻く環境下で起こる問題には些か過敏になっている印象を受けた。
     どうすれば良いのだろう。何をすれば彼の負担を減らせるだろう。
    (いっそ……)
     そう思いかけたが、やめた。
     
     リウビアの部屋は、ヴァイアスが招き入れられた段階から既に暖かい室温に保たれていた。さり気ない気遣いに感謝しつつ、目に見える範囲で部屋の中を改めて一瞥する。
     それなりに大きな液晶テレビがソファの前に。全体のレイアウトは殆ど弄られておらず、内装の色合いはラボ全体の雰囲気と同じくして、殆どが灰と白。ヴァイアスのくつろぐソファの背後から側面の壁に打ち込まれた移動式の本棚には、如何にも小難しい事が書かれていそうな分厚い本が何冊も収められている。そういう、いわゆる研究にまつわる専門書などの読本の類は棚の上段に。中段から下段には、背表紙に手書きで記された研究テーマが目を引く資料ファイルとノートが詰め込まれていた。
     
    「何にもないだろう」
     声のした方向へ顔を向ける。薄手のブラウスを肘の辺りまで捲ったリウビアがキッチンから戻ってきたようだった。脇に抱えている酒瓶、片手に一つずつ持っているコップを即座に捉え、現金に目を輝かせたヴァイアスが上体を起こす。ソファの脇に備えた小さなテーブルに酒瓶とコップを置き、少しの間隔を空けてリウビアが腰を下ろした。
    「いかにもお前らしいというか」
    「悪かったな」
    「いや違うよ、真面目だなって思ったのさ」
     ヴァイアスはそう釈明しながら、顎をしゃくって本棚を指した。リウビアは流し見程度に視線をやると、そのまま何も言わないまま瓶を傾ける。
     真面目という評価を、堅物だとか退屈な人間への嫌味だとして受け入れたというならば心外だ。少なくともヴァイアスにとって真面目な性格というのは、どう足掻いたって結局は快楽に溺れてしまう自分にはなれないであろう、大層好ましく、そして羨ましい性であったから。
    「清酒は飲めるよな」
    「もちろん」
     二人分の、どこにでも売っていそうな安物のコップが青冴えの液体で満たされていく。ラボの購買で買う安っぽいビールとは訳が違う、本物の酒の香りだ。確か以前にふらりと足を運んだ専門店内の奥にそれらしきものがあった事を思い出す。銘が何であったか、どういう酒であったかは度忘れしてしまったが。鼻腔をくすぐる甘い芳香にヴァイアスの機嫌は上向く一方だったが、対して表情も声のイントネーションさえ、リウビアは微動だに変わらない。黙って差し出されたコップを感謝を伝えて受け取ると、ヴァイアスはそれにそっと口をつけた。仄かな甘みが口腔を満たしていく。酒は適度な温度に温められていた。ちびちび飲むのは性に合わない。一息に呷る。
     口の端から一筋溢れたのをリウビアが無言で見つめていた。
    「味は?」
     端的にそう聞いてきたので、ヴァイアスは既に空になったコップを軽く掲げてみせる。切れ長の目がほんの少しだけ伏せられて、リウビアも続くように酒を口にした。
    「良いもん買ってきたなあ」
     トクトクとコップに注ぎながらヴァイアスがリウビアを見る。額に貼り付いた銀髪を指で軽く払いながら、一人で飲みきれる気がしなかったんだとだけ返された。
    「他の奴とは飲まないのか」
    「煩わしいから飲まない」
     俺と飲むのは案外悪くない?
     喉元まで出かけた言葉は酒に流し込んだ。酩酊しないように、けれど心地良い快楽に沈んでいくように。少しずつ少しずつ、酔いに呑まれていく。

     ふらつき始めた上体をソファの背もたれに預ける。大きく息を吐けば、酒気を帯びた吐息が宙にこぼれた。酒は飲み干した、後はただ眠いだけ、時間が流れているだけ。
     (好きだなあ……)
     好きだと言ったのは酒に対してではない。
     ヴァイアスはリウビアの事が好きだった。
     きっかけなど何もない。ラボに運ばれてから暫く、暴走の寸前にあったヴァイアスの意識はあってないようなものだった。
     けれど初めて彼を見た瞬間からその意識は途端に明瞭となっていき、気付けば心の中に、思慕を抑え続ける事が苦痛に感じてしまうほどにリウビアが好きで、好きでたまらないという感情が強く刻まれていた。
     研究職というのが具体的にどういった職務であるかは想像の域を出ないし、ましてや、口は悪いが、治験協力者は彼らからすれば実験の為のモルモットのような立場だ。ヴァイアスはリウビアと出会ってからは、それまで敬遠していた本や資料を読んでまでして彼の目的を測ろうとしたり、いつもカフェテリアの端や資料室で一人淡々と思索に耽る彼の役に何とか立ちたくて、そうした知識をかじってきては時々相談に乗ったり、意見交換を試みたり。
     きっと、人が嫌いなのだろう。隣でぼんやりと宙を見つめているリウビアを見やる。
     どれだけ話しかけてみても目を合わせようとはしないし、そのつま先はいつもヴァイアスを通り抜けて、部屋の出口に向いている。恬淡とした彼が真っ向から向かい合ってくれるのは、よりにもよって、制御の効かない衝動にヴァイアスが苦しんでいる時だけに思えた。
     あれは確かいつの話だったかと、記憶を辿り───
     
     ───真っ黒な軌跡を夕焼け色の空に残して飛ぶ、カラスの群れ。
     それぞれが住処へ戻る所を、一羽のカラスだけは真っ直ぐに眼下の街へ落ちていくように飛翔する。
     傍目には見分けもつかないだろうが、このカラスは老い先が短い。年を取って、羽ばたく翼もどことなく弱々しい。ふらりふらりと軽い体を揺らしながら高度を落とし、老いたカラスは差し出された腕に止まった。膨らみのある袖からは想像もつかないほどに細い腕。老いたカラスは手早く翼を整えると、小さくカアと鳴いた。
     「おかえり」
     白い指が嘴と顎を擦り、労いの言葉をかける。街の中でも一際高いマンションの屋上でカラスを待っていたのは、一人の青年だった。白磁の肌を殊更に際立たせる漆黒の髪、闇より深い色の瞳。美しく整った顔立ちをしているのに、眼下を見下ろす彼の表情はゾッとする程に冷たくて。
     身に覚えのない光景が当たり前のように脳裏に浮かぶ度、心は締め付けられるような恐怖を感じていた。
     
     名前を呼ばれたら、戻らなければならない。
     それが怖くて仕方なかった。
     
    「大丈夫か?」
    「あ……」
     まともな反応も返せないまま、気付けばヴァイアスの身体はしどけなくリウビアに寄りかかる体勢となっていた。話しかけられてようやく霧散していた意識が揺り戻る。これは追憶か、恐怖を心に取り残すのならば。過去を振り返ろうとするといつもこうなのだ。
     ヴァイアスの過去は判然としない。暴走をすんでの所で免れたから、頭の中で、記憶の繋がりがおかしくなっているのだろうと検査では聞かされた。
     酔いを理由にしてくっついた訳ではないと弁明したが、身を起こす間もなく腰に手を回され、指の這う感触が甘い痺れとなって全身に回る。
     もしも自分達が睦み合う恋人だったなら、どれだけ良かったことか。寒くもないのに身体がぶるりと震える。
    「なあ……」
    「何だ」
     無愛想な返事に反して、褪せた黒髪を梳く手は愛おしむように優しい。瞳を伏せて、弛緩した身体を委ねる事にする。
    「キズ持ちは全員こんなものなのか? それとも、やっぱり俺は少しおかしい?」
     言わずに留めておいた言葉を声に乗せてみる。殆どの事はヴァイアスにとって最早どうでもいいものだが、リウビアが関わってからは少しだけ、どうでもいいものが減った。どうする事も出来ないかもしれないが、何とかしなければならないと思う事が増えた。手探りでリウビアの腰に腕を絡めると、髪を撫でていた彼の手が背に回る。そのまま強く抱きしめられた。
    「おかしいくらいが、治験協力者としては適任だ」
     全身を包むリウビア自身の匂い。それまで凪いだように落ち着いていた筈の脳がぐらつき、揺れる感情が、抵抗を許さない程の質量でもってヴァイアスの精神を犯していく。
     何を思うよりも早く、気付けばヴァイアスはリウビアの首筋に舌を這わせていた。汗を浮かせた彼の肌は、塩気を帯びてほんの少しだけ塩辛い。口腔から滲み出した唾液が泡立ち粘り、口の端をぬるりと伝っていく。そんなことは構わないとばかりに舌を突き出し、舌体の全てでリウビアの汗を味わいながら、過去に彼自身が吐き出したものよりは随分と淡白な味だ、そんな事を考える。
     晒された喉仏を舌尖で突き、唇で柔らかく食む。以前として抵抗を受けないのを良しとして、リウビアの身体をそのまま自重で押し倒す。影の落ちた彼の相貌は、初めて恋い焦がれて心を囚われたあの時と変わらず、冷たく、美しいままだった。抗えない熱に侵され始めた頭でぼんやり考える。月光にキズを癒やす効果など存在しなかったが、
    「満月が出てるとそういう気分に、なりやすいって、話は」
     唇を動かす度に視界に、鼓膜に、モヤのかかっていく感覚。浅ましく興奮する自分の息遣いばかりが反響している。頭を振って振り払える衝動ではないと分かった上で、ヴァイアスは悔しげに舌打ちをした。
     縋りつくようにリウビアの腰に跨がる。衣服を隔てて触れ合った腹の間、互いの欲は既に屹立の兆しを見せていた。少し身をよじるだけで、もどかしい快感が下肢に広がっていく。
     執着に囚われていく感覚はいつになっても慣れない。自分が自分でなくなっていくような、たった一つの事しか考えられない獣になっていくようで。
     
     ヴァイアスには風を操るキズとは別に、もう一つ特異な能力を有していた。ラボを訪ってから発現した異常な力。人の心を操り、自身を犯すよう誘引する狂気を放つ。定義出来ない位置に存在する力は当然ながらパゴダの探究心を煽った。調べて、試して、時には自ら彼を。
    「お前のは体質だろ」
     虚ろな眼差しでこちらを見つめるヴァイアスに、パゴダはそれだけ答えてみせた。奇妙な力に翻弄され、意地を張って笑う傍ら、独り途方に暮れていた姿も知っている。何よりパゴダは例外を知っていた。もっと恐ろしく、もっと悍ましい力を持つ者を。
    「だから気にするな」
     
     その力はパゴダにも責任がある。償いたいなら、彼を好ましく思うなら、代償を払わなければならない。
     
     パゴダを見下ろしたまま、ヴァイアスはそれ以上動かなかった。ただ潤んだ瞳が瞬きをし、涙が一筋、頬を伝う。指の腹で涙を掬い、うなじを撫でて引き寄せる。そこで二人の会話は途切れた。
     渇いた唇を舐めて割り開き、舌を絡ませる。生暖かい呼気に混ざるアルコールの匂いが、酒を飲んだって酔いに呑まれない筈のパゴダの気分を昂らせた。舌先を柔らかく食みながら、絡んだ唾液を吸い上げる。
    「ん、ぅ……う」
     くぐもった悲鳴が口腔に響き、ヴァイアスの身体がびくりと跳ねる。絡み合いながら体勢を組み換え、最後にはパゴダがヴァイアスの腰に跨った。
    「なあ、お前は」
     ようやくこぼした言葉は隠しきれない程の興奮で上擦っていた。絶え間なく額から流れる汗が、組み敷かれたまま動く気も失せたヴァイアスの頬に落ちる。酒に酔ったか執着に呑まれたか、あえかな嬌声をあげることしか出来ないでいた彼の、薄く開いた唇を指でなぞった。
    「こうなるとわかってて、来たんだよな?」
     何の下心もなく家に来たいなどという魂胆だったとは信じない。ここまでくればもう、限界まで張り詰めた欲求を早く解放したい。ヴァイアスが何かを囁いたような気はするが、パゴダは構わず、性急な手付きで彼のズボンからベルトを引き抜いた。震える指を引っ掛けてボトムごとずりおろし、殆ど臨戦態勢になりかけているそれを認めて喉を鳴らす。もう何度となく繰り返してきた行為であるのに、何処かうわの空で彼方を眺めるようなヴァイアスを見る度に緊張と恐怖に苛まれた。
     
     居ろと言われた場所に留まって、あとどれだけ待っていればいいのだろう。知りたい事は数知れず、知れない事も数知れない。膨れ上がる不安を半ば押し付けるようにして、再びヴァイアスと唇を合わせた。
    侍騎士アマド Link Message Mute
    2023/04/19 21:15:51

    月の二面

    パゴダとヴァイアスが駄弁って飲んで寝るお話。R15

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