眠る真似事 照明を落とした寝室は、大きく備えられた窓から注ぐほのかな街明かりのお陰で、カーテンを閉めない限り完全な暗闇に満ちることはない。互いの姿や表情が柔らかな闇の中に浮かぶ、この夜の暗さをクレトは好ましく思っていた。カーテンはいつも窓の三分の一程度を目安に引いており、そこから伸びた影は二人並んで眠るベッドの、ちょうどエキニシィがいる場所にくるよう密かに計算してある。
エキニシィは追憶を夢の中に視ることが多いのだと聞いた。こんな事で眠りの内から彼の心を叩いてこじ開ける、あの追憶の痛みを和らげてくれるなど流石に期待していないが。
「……エキニシィ」
二人が同じタイミングで眠ることは少なくなった。代わりに、今日最後の挨拶を交わし、安らいだ意識が遠くに旅立ったあと。クレトはエキニシィの寝顔をそっと盗み見るようになった。
一段濃い影にその姿を隠して、しかし輪郭は確かに感じられる。確かにそこにいる。
静かで優しい闇の中に眠る姿を、眠れない自分の分まで、静かに見守っていたかった。
「……だから最近は寝不足なんだ?」
頬杖をついてエキニシィは向かい側のクレトを見る。テーブルの上、コップに注いだホットミルクは二人ともとっくに飲み干していた。夜は程よい塩梅に更けており、煩わしいものなどここには存在しない。沈黙が苦痛になることはなく、静寂な空気はどこからともなく、緩やかな眠気を運んでくれる。
「ほら、すごいことになってるよ」
エキニシィの大きな手が、クレトの目尻をそっとなぞっていく。白い肌では余計に目立つ、くっきりと刻まれた隈。
「それもあるけれど」
くすぐるように頬を揉まれて思わずクレトの表情が綻ぶ。人肌の、正しくはエキニシィの温もりが、冷え切った身体に熱を与えてくれた。しばらく続くであろうクレトの沈黙に対し、エキニシィは辛抱強く返事を待つつもりらしい。忍耐強さでは未だに彼には勝てない。
──時間にして約十秒。
観念したクレトが早口に告げた。
「……夢が多すぎて眠れないんだ」
頬を撫でていた手が、今度は四方八方に跳ねるクセ毛をたしなめるように梳かしていく。群青の髪はクレトの自慢だ。髪の半分を染め上げた黒髪は、染色をしただけだというのにやけに持ちが良い。
エキニシィも、左半分を黒髪に染めている。彼自身の赤髪はとても艶やかな色合いで、クセのない、真っ直ぐとした毛質。あの奇妙な夢を視るようになってからというもの、クレトは自分の冷たい手が彼に触れることを、最近は躊躇するようになっていた。
自分はまさか、あの男と同じ意図で、触れようとしているのかと。
伸ばしかけた手を、空のコップの持ち手に添える。
「そう」
クレトからの告白に、エキニシィの表情が強ばることはなかった。うたた寝をしているかと思えば急に目を見開いて飛び起きたり、何のこともない話をしている時にいきなり怒鳴り散らし、必死の形相で腕を掻き切ったり。事情を尋ねても取り合わない理由は既に分かりきっていたので、それ以上は何も言わなかった。
クレトは“あの時”のように、少しずつ独りよがりになってしまっているのではないか。
話し合う時間はたくさんあるのに、伝えるべき言葉が足りなくてやるせない。
彼を独りにして、
それからどうなったか。
それはエキニシィ自身が痛いほど理解していたはずだ。
「じゃあ、今日は一緒に眠ろう」
だから今夜は久しぶりに、ぼんやりと座ったままのクレトの手を取った。程なくして冷たい指が、離すまいとばかりにエキニシィの手をぎゅうと握り返す。
窓から射し込む光の一切も煩わしいと言わんばかりに、カーテンはしっかり最後まで閉められていた。
二人並んで眠るベッド。部屋を満たす一段と濃い闇は、今夜はクレトもエキニシィも包みこんでいる。
「ふあ」
眠れる保証があるわけでもないのに、思わず間抜けな吐息が漏れた。目の奥に涙が浮かび、喉元が震える大きなあくび。エキニシィは相変わらず多くを語らないが、クレトにも話せないことは多くある。そうした秘密は今だって少しずつ増えている。
「おやすみ、クレト」
触れ合った身体に互いに腕を回し、このまま一匹の生き物になれたらと願いながら瞼を閉じる。早くも真っ暗な視界に鮮烈な色の花弁が舞い始めたが、もうこれは自分で選んだ結果。仕方がないのだろう。
「おやすみ、エキニシィ」
気取られないように挨拶を交わし、瞼の裏に広がる世界へクレトは旅立った。
願わくばせめて、そこには笑顔の彼がいますように。