アップルドリーム2017年、春子は旭川の洋菓子店でパティシエとして働いていた。
北海道のスイーツ店はどこもレベルが高くて、春子の店にも超一流のパティシエが揃っていた。
「どうして大ちゃんは旭川に来たの?東京に住んでたんでしょ?」
人懐っこい店長の男性から質問されると
「たまたまです」
そう愛想なく返事した。
本当はここに気になる人がいるからだなんて口が裂けても言えない。
仕事を終えて社員寮へ帰る、ここの店は寮完備で風呂付き食事付きで生活する上でも便利だった。
食事は食堂で賄いさんが作ってくれて帰りが遅い人はチンして食べられるようにラップをしてくれている。
今日はチキンカツに煮しめにマカロニサラダだった。
春子はそれを1人黙々と口にする。
あの人はちゃんと食べているのだろうか…箸を止めてそんなことも考えたりする。自分がこんな近くにいることをあの人は今日も知らずに生きている。いっそのこと目の前に現れて驚かせてみようかとも考える。
でも、昔のトラウマのせいであの人をそっと見守ることしかできない。
春子は食事を終えて食器を洗いながら思い出す。
名古屋でもう一度話そうと会いに行った時、あの人はすでに他の女性と出会い結婚までしていた。俺が本当に結婚したいのはお前だなんて言っていたくせに、ひどい嘘つき男だ。でも、勝手に消えた自分に彼を責める権利など一つもないことに気がつくと、それならせめて見守っていようと、時々名古屋に様子を見に行っていた。そして月日は流れてあの人は離婚して旭川へ飛ばされてしまい、それなら私もと勢いで旭川まで来てしまった。彼がなぜ旭川に移動になったのかはわからない、でも名古屋よりもさらに小さな営業所で細々と働く姿を遠くから見ていると悲しくなる。
いつかあの人を本社に戻してあげたい、そう思った春子は陰ながら力になることにした。
「東海林さん、また荷物届いてますよ」
大きなダンボールに貼られた伝票にはまた送り主が不明になっていた。
「またか、この人一体何者なんだろうな」
東海林は中身を開けて入っているものを取り出す。
そこには旭川にある菓子店のお菓子が入っていて、ひとつひとつに特徴の書かれた紙が貼られていた。それはワードで打ったものなので筆跡などはわからない。
3ヶ月前から月1ペースで届いているこの荷物。最初は怪しいと思ったが「S&Fのファンより」と書かれたメモと、商品に対するプレゼン能力が優れすぎていて、今ではその荷物が届くことを楽しみにしてしまっている。だが、これに頼りすぎてはまた他人の力で手柄を取ってしまうことになる。
東海林はジレンマを抱えながらも、今日もそのお菓子を食べながら、検索してホームページを見たりして研究していた。
「大さん、今日S&Fって会社の方が話を聞きに来るんだけど」
春子はそう言われた時、一瞬空耳かと思った。
だがもう一度聞き返すとやはり「S&F」だと言う。
春子はもしかしたら東海林にまた会えるのかもしれないと、期待と不安で生クリームのホイップが強くなっていた。再会したとして、何を話せばいいのか。なぜ旭川にいるのか理由を聞かれたら、本当のことを話して引かれてしまったらどうしようなど、頭の中まで泡立て器で混ぜているようだった。
こんなことなら送った荷物にここのお菓子を入れるんじゃなかった。春子は少しの後悔を抱きつつも時計を気にしながら過ごしていた。
そして、ガトーショコラのカットをしている時に店のドアが開く音がしてそこに目をやると、そこには春子がずっと会いたかった相手が笑顔で店長に挨拶をしていた。
「すみません、急に腹痛がするので休憩室で休ませて下さい!!」
春子は手を止めて一目散に厨房を出た。
「大さん、大丈夫…?」
そんな同僚の声も春子には届かずに。
「綺麗な店内ですね」
東海林は店長に案内されて飾られた焼き菓子やショーケースのケーキを見ていた。
「うちは清潔感も大事にしていますから、ケーキも白いイメージなので店内も白にまとめてみました」
店長は大企業からの視察ということで少し浮ついているようで、いつもより高いトーンで話す。
「このケーキ、面白いですね。綿菓子が乗ってるんですか」
東海林が指さしたケーキはパイ生地の器にスポンジとムースが重ねられその上にはリンゴのコンポートが飾られているが、その上に綿菓子で隠されている。
「これはアップルドリームというケーキで、食べる時に赤いシロップを綿菓子にかけて溶かすとしたからリンゴが現れてまるでりんご飴のようになるんです」
「へー面白いですね、りんご飴かぁ…懐かしいな」
「そこなんですよ!懐かしの味を楽しんでもらうって言うのがコンセプトなんです、これを提案したのがうちの…あれ、大ちゃんどこいったんだろ?休憩中かな?」
「あ、忙しいでしょうし大丈夫です」
東海林はメモを取りつつまた別の商品の説明を聞いていた。
東海林が帰る頃を見計らうかのように、春子は厨房に戻ってきた。
「大ちゃん、大丈夫?腹痛なら衛生的な事もあるし早退していいよ」
「そうですね、念のため休ませてもらいます…失礼します」
春子はそう言って更衣室へ向かった。結局会えるはずが自分から逃げてしまった。こんな時に度胸もない情けない自分に腹が立つ。もし、この店がS&Fと関わりを持ったらきっとまた東海林とも顔を合わせることになるだろう。その度に逃げるわけにはいかない。この店には世話になり人間関係もよかったが、離れないといけないかもしれない。ちょうど3ヶ月ほど経つしハケンで契約終了したと思えばいい。春子は帰りに求人雑誌を購入し新しい仕事を探すことにした。
「昨日行ったお店、アイデアがすごいんだよな」
会社の仲間たちと飲みに行った先で後輩に力説する東海林はビールを飲みながら熱く語っていた。
「俺みたいな平凡な奴には思いつかないわ…綿菓子からりんご飴なんてさ」
「あのお店最近よく流行ってるらしいですよ、3ヶ月くらい前にすごいパティシエが来たとか」
「そっか、そんなスーパーパティシエもいるんだなぁ」
「そう言えば最近来るようになった荷物も3ヶ月前だったかな、まさかその人だったりして」
「そうかもしれないですねー」
冗談まじりで笑いながら話す東海林は、春子が近くにいる事をこの先も知らずにいた。
そしてこの一年後、黒豆ビスコッティを開発することになる。