坂道東海林と春子は都心から少し離れた住宅街に家を建てた。
そこは新興住宅で近所は若いファミリーが多い。その中に40代の夫婦は少し浮かないかと思ったが、意外にも若い家族とも気が合い顔を合わせば挨拶をしていた。
2人の家は、坂道を登りはじめ300メートルほど行ったところにある。4LDKの白を基調とした注文住宅だ。ずっと一緒に住むからと頭金と20年ローンで思い切って購入した。
無期限で帰る場所があるということに不思議な感情を抱きつつも春子は今日も駅から家まで坂道を登っていく。手には駅前のスーパーで買った野菜たち。今夜は天ぷらにしよう。そしてビールを飲むだろうからおつまみに家にあるアジでなめろうでも作ろう。自分はノンアルコールで我慢、そんなことを考えながら買い物袋を揺らしながら歩いているとー
後ろから突然目を塞がれた。
「だーれだ!」
大きな手で自分の目を覆う、こんなしょうもないことをするのは1人しかいない。
「誰であろうと私の視界を遮るものは許せませんよ」
「こえーよ!もっとかわいい反応しろって」
そう言いながら目を塞いでいた主の東海林は手を離した。
「荷物持つよ、かして」
言う前から手を伸ばして袋の取手を掴む、こういう気配りをされると戸惑ってしまう、からかうのもやりにくいしかと言って素直にありがとうというのも照れくさい、とりあえず黙って歩き出す。25度ほどの坂道は地味に足に負担が来る。普段ならこんな坂道どうってことはない、だが今は自分の体だけではない。
少し冷たい風がカレーの匂いを運んできた。もう太陽は街に沈んで東と西で色が違う。
こんな平凡な毎日も悪くない、春子がそう思っているとそっと手に36度の温もりが伝わってきた。
「そういやさ、昔坂道歩きながら手をつなぐCMあったよな…洗剤だったかな」
「私の手は繋ぎたくなるような手ではありません」
春子の手は少ししわが増えてひび割れもできて少しカサついている。毎日仕事のあとに家事を引き受けているからだ。ネイルなんか塗る暇もない。そんな卑屈になっていた春子に東海林は照れ臭そうに言った。
「どんな手でもいいんだよ、しわくちゃのおばあちゃんの手になっても繋ぎたいんだよ」
その言葉に胸を焦されそうになった。
「しわくちゃのおばあちゃんだなんて、失礼な人ですね」
そう反論する口元は少し緩んで、そして瞳が潤んでいた。
これから心臓が止まる時まで、ずっとこの坂道を登って下って行くのだろう。時には疲れて歩けなくなる時もあるかもしれない。だけど、手を差し伸べてくれる人がいるからきっと諦めて下ることはしない。
ゆっくりと地面を踏み締めて、2人は家路についた。