海は続くよどこまでも羽田から釧路まで約1時間半、空港から視察する漁業組合まで車で1時間半、そこから視察が3時間ほど行われてホテルに着いたのはもう夜の7時、周りは思ったほど繁華街がなく仕方ないのでホテル内のレストランで済ました。
だがそこでも刺身や海鮮焼きなど海の幸が堪能できたので2人はそれだけでご満悦になっていた。
「あーこれで温泉に入れたら最高なんだけどな」
東海林はベッドに倒れ込みながら春子に言った。
「遊びに来たんじゃないんですよ」
「わかってるよ、仕事だってことは。でもな、この広い北海道でせっかく道東の釧路まで来てるんだから少しは楽しんで帰りたいじゃないか」
「あなた、この間まで旭川にいたくせに釧路には来なかったんですか?」
「来れるわけないだろ!旭川から釧路まで車で何時間かかると思ってるんだ」
仕事の内容は、釧路の勝手丼を東京の百貨店でも売り出そうという話を地元の漁業組合に持ちかけ、それを実現させるための話し合いと視察のために東海林は春子と釧路を訪れていた。なぜハケンの春子と2人なのかと言うと、ロシア語が話せるからだった。
ここの漁業組合で働く人の中にはロシアの人も多いという事で東海林が春子を指名した。
そして夫婦なのをいいことにホテルもちゃっかりツインで取っていた。
春子は根回しに呆れつつも、いつもと違う空気感に心が躍っていた。だが東海林のように露骨に浮かれてもいられない、なんせ仕事できているのだから。
そろそろお風呂に入ろうと、春子は大浴場へ向かうために着替えを取り出そうとベッドから立ち上がった。すると、東海林が春子の腕を掴んで自分の体の上に重ねてきた。
「なぁ、春子…お風呂の前にしないか?」
「本当に浮かれすぎですよ、あなたは」
「いいんだよ、夜は勤務時間外だから」
東海林は肩を引き寄せて、接吻をすると春子の体を服の上から撫で回し、ゆっくりベッドに倒した。
春子も仕方ないと思いながら東海林のシャツのボタンを片手で素早く外して、素肌に触れていった。
東海林と春子は旅の疲れか深夜1時すぎには眠りについてしまった。それから5時間後の朝6時に、東海林は目が覚めてしまった。
いつも目覚ましを鳴らしている時間だからだろうか、あまり眠気は感じない。
せっかく釧路に来たなら少し外を歩いてみようかと、東海林は服を着て軽く洗顔と髪をセットして、寝ている春子を置いて部屋を出た。鍵は二つあるのでフロントには預けずそのまま持って出かけた。
スーツしか持ってきていなかったことを少し後悔しつつ、海岸通りの道をゆっくり歩く、東京は秋でもここはもうすでに冬が始まっている、コートを持ってきたらよかったと東海林が後悔するくらい寒くなっていた。
すると、漁港ではないところに船が一台止まっているのが見えた。通りの木の茂みに隠れるように止まっていたその船は、小規模漁船に見えたが漁船がこんなところに止まっているはずがない。気になった東海林は確かめる為にその船の近くまで寄って行った。
目の前に着くと、無造作にロープが柵にくくりつけられていた。そして、船の前に書かれている文字を見る。それは日本語ではなくロシア語だった。
何か嫌な予感がして、東海林はおもわずその船に近づいて飛び乗った。
そしてデッキを見渡すと、中央には水槽が4つあり網がいくつか無造作に置かれている。やはり漁船のようだ。操縦席はどこだろうか、そこに許可証でも貼られていたら確認できるだろうと東海林は手前に回った。
窓越しから操縦席を覗き込むが曇っていてよく見えない、部屋から繋がっているようなのでそこから回っていけば見られるだろうか。
デッキの方へ戻り、部屋の扉を開けてみると、鍵がかかっていなかったので安易に入ることができた。
中は無造作に物が置かれて、ごちゃごちゃしていた。
そして中央のテーブルには何か紙が置かれていた。
東海林はそれを目にする、そこには釧路周辺の地図とロシア語で何か書かれていた。
ロシア語を久しぶりに見た東海林は頭の中で日本語に変換する。
『釧路にはスケトウダラ・シシャモ・マダラ・サケ・サンマ・イワシ・サバがいる』
そして端の方には、こう書かれていた。
『夜よりも昼が目立たない、日本の船に紛れて盗んで帰る』
見つけた時点で怪しいと思っていたが、やはりこれは密漁船だ。そう確信した東海林は少し動揺しつつも早く通報しなければとポケットから携帯を取り出す。
「110番……違う、海上保安庁に連絡か?あれって何番だっけ…」
どこに連絡すればいいかわからなかった東海林は、とりあえず春子に聞いてみようと着信履歴から春子の番号へと電話をかけた。
だが数回コールしても出ない、まだ寝ているのだろうか。段々と焦りが出た東海林は電話を切り、ひとまず警察に電話しようとキーパッドの画面に変えようとした。
だが、画面は変わることなく携帯は床に落ち滑るように東海林のもとから離れていった。
目が覚めて横をみると、東海林がいない。スーツに着替えた形跡があったのでどこか外に出ていったのだろうか。春子はそのうち帰ってくるだろうと思い、汗ばんだ体をスッキリさせようとシャワーを浴びた。
そして、タオルで濡れた体を拭きながらベッドに戻ると、携帯が光っていた。どうやら着信があったらしい。
画面をみると東海林の名前が載っていた。そういえば今日は帰るまで釧路の街を散策してリサーチしようと言われていたのでその下見にでも行っているのだろうか。
とりあえず早くホテルに戻って来いという為に春子は電話をかけた。だが、電源が入っていないというアナウンスが流れる。こんな所で充電切れでも起こしたのだろうか。仕方ないので東海林が戻ってくるまで待っていようと、春子はドライヤーを手にして髪を乾かした。
「Японцы вторглись…Убирайся отсюда, пока не узнал об этом.」
「Потому что я собираюсь отдохнуть в месте, как это.」
3人のロシア人の男が、狭い部屋で言い合いをしている。最初は4人いたが1人は操縦席へ移動して船を走らせていた。東海林は警察へ連絡しようとした時に後ろから襲われて、拘束されていた。
スーツを着ていたせいか警察かなにかと勘違いしているようで、急いで船を出して逃げようとしている。ロシア語がわかるせいで、何を話しているかは大体つかめる。だがそれが余計に不安を募らせた。
漁業用の荒い縄で手首と体を縛られて、口には詰め物をされて猿轡を咬まされている。襲われた時に落とした携帯は電源を切られてまた床に投げ出された。
こんな状況なので、船が海へと進むほどに懸念も大きくなってきた。そして追い討ちをかけるように
「Брось его в море.」
1人の男がそう言った。
「こいつは海に落とせばいい」
1時間経っても戻ってこない上に携帯も繋がらない、春子は不安になりホテルのフロントマンに東海林の行き先を尋ねたが、鍵は預けておらずスーツ姿の男性が出ていったことしかわからなかった。ひとまず荷物をまとめてチェックアウトして、スーツケースなどはフロントで預かってもらい昨日行った漁業組合へ向かった。
「東海林さんおはよう。1人でどうしたの?」
組合長が春子に気が付き笑顔で挨拶してくれた。
「おはようございます、うちの東海林が来ていないか確認させて頂きたいのですが…」
「東海林…旦那さんの方か、ここには来てないけどね、喧嘩でもしたの?」
「いえ、来ていないのなら失礼します」
春子は仕事の邪魔をしてはいけないと足早に去ろうとしたが、その場にいたロシア人の1人が呟いた言葉に足を止めた。
「Он шел по улице в конце.」
ー彼なら向こうの通りを歩いていたよ。
「Во времени и где он?」
ー何時頃どの辺りで?
春子は咄嗟に問いかけた。
「В 6:30 я заметила это прямо из машины с костюмом и волосами. Подумайте об этом, рядом была рыбацкая лодка.」
ー6時半かな、スーツと髪の毛で車からでもすぐ気がついたよ。そういえば近くに漁船があったな。
漁船のある場所を聞いて春子は急いでその場所に向かった。すると、通りの柵に何箇所か黒い汚れが付いていた。近くでみようと前まで行くと、柵の手前の土に大きな足跡がいくつもあった。
その中に東海林がいつも履いているビジネスシューズの跡が残っている。春子は指で長さを確認して、大きさも形も東海林のものだと確信した。
そう言えば、昨日誰かが話していた。最近密漁が増えて困っていると。嫌な予感が頭をよぎる。
春子はもう一度漁業組合へと引き返した。
船が出てもう40分ほど経った頃、突然エンジンの音が止んだ。小さい窓からは薄暗い空しか見えないので、ここが日本なのかロシアなのかも分からない。
「Здесь нет корабля наблюдения, так что давайте выбросим его сюда.」
ーここなら監視船はないしちょうどいい。
そう話すロシア人たちに東海林は引っ張られてデッキに出された。海はグレーに濁っていて静かな波が余計不気味に見える。足を前に出される度に体重を後ろに倒そうとするが、それ以上の力で押されていく。このまま海に沈んでしまえばお先真っ暗だ。
鼻から出る息も速度を早めていく、ふと北風が吹いて髪をくしゃくしゃにする。
すると、北風から何かの音が聞こえてきた。それはサイレンのような音でどんどん大きくなると同時に南西から波しぶきを飛ばしながら船が近づいてきていた。ロシア人たちも東海林もその方に目線を移すと、船の前に立っている女がひとり。
「そこの密漁船、ぶっ壊すわよ!!」
ドスの効いた声でマイクで叫ぶ春子の姿だった。
春子は双眼鏡で東海林の姿を確認すると
「その枯れたマリモを海に返すのはやめなさい!!」
そう叫んだ、東海林はイラッとして思わず心の中で
(誰がマリモだ!!こんな時にまでネタにするな!!)
そう叫んだが助けが来たことでさっきまでの絶望感から這い上がれた気がした。
だがエンジンが再びかかり気泡を吹かせて船がまた動き出す。
「逃げるならぶつけて沈没させるわよ!!止まりなさい!!」
春子の船はさらにスピードを上げて近づいてくる。そして本当に横から体当たりしてきた。船は大きく揺れて全員床に倒れ込み、東海林は壁にぶつかった。
春子は1メートル幅から密漁船に飛び乗り、東海林の前へ行き猿轡の結び目を外した。
「大丈夫ですか?」
湿った布を吐き出した東海林は開口一番
「お前俺を殺す気か!!」
そう叫んだ。
『東海林さん、大変だったみたいだね。無事で本当によかったよ。大前さんたち全国ニュースにも取り上げられていたよ!密漁船を捕まえた漁業組合の皆さんと海技士資格を持つ女性って』
「賢ちゃん…心配してくれたのか」
東海林は目を潤ませメッセージ画面を見ていた。そんな東海林を横目に春子は呆れ顔で
「あなたのせいで、私までテレビに晒されて困ります」
そう言いつつも口が少し緩んでいたのを東海林は見逃さなかった。
「嬉しそうにインタビューに答えていたのは誰だよ」
「聞かれたことを答えていたまでです、命の恩人の私にもう少し感謝したらどうですか?」
「恩着せがましいんだよ、お前は」
結局警察やら何やらでもう一泊することになった2人はホテルのベッドで横になりながら喧嘩をしていた。
東海林はスマホをナイトテーブルに置いて、布団をかぶると拗ねたように
「今日は疲れたから寝るわ、おやすみ」
壁側を向いて目を閉じる。するともぞもぞと布団の中から春子が後ろから抱きしめた。
肌の温もりが伝わってきて、思わず体が反応する。
「もう、1人でどこかに行かないで下さい」
東海林は体を春子の方に向けて壊れないように強く抱きしめる。
「わかってるよ…ありがとう」
カーテンを開けたままの窓の向こうには黒く染められた海に船の明かりが星のように瞬いていた。