ショートケーキ・フォア・フィフティーンイヤーズ「楓に婚約者っつって男紹介されたわ……。」
玄関でチャイムが鳴ったものだから扉を開けると、虎徹の白髪交じりのつむじが目の前にあった。肩を縮め足を引きずり、見るからに意気消沈している。出迎えたバーナビーに半ばもたれかかるようにして、やっとのことでリビングにたどり着く。崩れ落ちるようにして椅子に座る。テーブルに肘を預けて両手を組み、そこに額を乗せる格好でうめき声をもらした。娘が年頃になるに比例して増えた姿。今や見慣れてしまっている。しかしとうとうこの日が来たことに、バーナビーも少し驚いた。
「へえ!それは……よかったじゃないですか、って言って大丈夫ですか?」
「おう、構わんよ。」
そうは言っても虎徹の姿勢は変わらない。うなだれた頭は微動だにしない。
「楓ちゃんももう24歳か。で、どうしたんですか?」
「んなもんお前、反対できるわけねえだろぉ。なんかよく喋る好青年だったしさあ。」
娘を溺愛するこの人が素直に相手の男を認めていることが意外だったが、そう言えば彼は娘に対して多少の負い目を感じている。むしろ自慢の娘の決めたこととあっては口を出せないのだろう。それにしても彼が娘を取られながらもなお好青年と評する人物とはいかなるものかとバーナビーは純粋に気になる。それを口に出すと、しおれた声で食事の予定があると告げられた。
「お前も一緒に来て会ってみりゃいいじゃん。んで感想きかせて。」
「え、僕も、ですか?」
家族の行事に誘われたことに今度こそ驚きを隠さない。今でこそ友好的な関係だが、全てを話した当初は当然こじれた。憧れのスーパーヒーローだと思っていたら、自分の父親をゲイにした男。しかも仕事のパートナー。あらゆる意味で父親を奪われたと感じたに違いない。しばらくは虎徹ともバーナビーとも顔を合わせたがらない日々が続いた。結局
すったもんだの末認めてもらえたが、そこに至るまでにバーナビーも虎徹もひどく消耗した。誠意を持って自他に向き合うことの苦しさを再確認せざるを得なかった。けれど、今となっては意味のある苦しみだった。
そんなわけだから、楓の結婚の問題に自分が首を突っ込めるとは思っていなかった。まるで家族のように扱われて、胸が高鳴る。
「そりゃお前、楓も色々と世話になってるし、未来の旦那見に来るったら何もおかしかねえだろう。」
そう言うと虎徹は、自分で言った旦那という言葉にうちひしがれてまたうんうん唸りだしてしまった。フォローを入れるのも面倒なのでそれを放置して、バーナビーは彼の提案について考える。しかし当たり前のように誘われたくすぐったさと興味、そして楓に対する親心に似た感情から、受け入れることを決めた。
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ゴールドステージのパーキングエリアに、銀色の高級車が止まる。そこから、勢いよく長い足が突き出た。意気揚々と車から降り立ったのはバーナビー・ブルックス・Jr。いかにも高級そうなつやを放つダブルのスーツは、ちょっとしたいたずら心であり虎徹への援護射撃だ。自分の姿を見れば恐らく楓の恋人だという若者は萎縮してしまうだろうが、そのくらいでないと自分の隣にいる男が哀れだ。まるで刑務所にでも行くかのような面持ちをしている。そしてそれに遅れて浮かない顔をした虎徹が車から這い出してくる。バーナビーのものと比べると値段こそ落ちるが、こんな時でも遊び心を忘れない彼らしい背広姿。シャツの袖口やカフスボタン、ネクタイの選択に小粋な趣向が凝らされている。嫌味の無い、とても好ましい服装だと思うのは贔屓目のしわざだろうか。気の重い様子の虎徹をバーナビーが愉快そうにせっついて歩かせる様子は、捕虜と軍曹のようだ。そうやって正反対の表情をした二人は、そこからほど近い気軽なフレンチのレストランに入っていった。あまり格式ばるのもかわいそうかと思い、バーナビーが慎重に選んだ。馴染み客の顔に、何も言わずともリサーブ席に案内される。
約束の時間に遅れることなく、若い二人も到着した。話にこそ聞いていたのであろうが、しかしあまりにも有名な男の登場に、青年はしばらくの間場所も忘れてぽかんとしていた。バーナビーがにっこりと笑うと、慌てて居住いを正してたどたどしく虎徹とバーナビーに挨拶をする。
はじめの緊張の山を乗り越えてしまえば、持ち前の快活さでもって青年はよく食べよく笑った。なるほど、とバーナビーは思う。情に厚そうな目や人懐こい仕草は、自分の隣に座る男によく似ているではないか。青年の隣で緊張したように恋人と父親とバーナビーを見比べる楓の顔を見つめる。きっと彼女は幸せな女性になるだろう。自分が虎徹に幸せにしてもらったように。
話を聞けば学生時代は運動部だったとかで、村正に通じる真面目そうな様子も感じられる。虎徹と比べて頼りになる男かもしれない。思考回路は理系っぽくて、もしかしたらここはバーナビーと共通しているだろうか。
ディナーも終盤、探るような表情で虎徹が顔を覗きこんできたものだから、満面に笑みを浮かべて頷いてやった。それに頷き返すと、虎徹は背筋を伸ばし、改まった調子で青年の名前を呼んだ。若者も表情を引き締めて返事をする。少し不安げなところがかわいらしい。青年と楓と、交互に顔を見ながら語る。
「楓を、不幸にさせたら承知しないからな。」
「はい。」
「……正直、俺は楓のこと随分放ったらかしにしてて、寂しい思いをさせてたと思う。だからお前は、楓を寂しがらせないでやってくれ。もし楓が泣きながらうちに来るようなことがあったら、お前のことぶん殴りに行くからな。」
「はい。」
「楓はいい子だ。……よろしく頼む。」
「……はい、任せてください。楓さんは本当に素敵な方です。僕の全てをかけて、きっと楓さんのことは幸せにします。」
短いやり取りなのに、バーナビーは胸にこみあげるものを感じた。見れば、楓も少し涙ぐんで、優しい青年からハンカチを受け取っている。虎徹と来たら緊張の糸がとけた途端に顔をくしゃくしゃにし、片手で顔を覆ってしまっていた。
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翌日、虎徹は一日いなかった。もろもろの報告をすると言って、今では兄と年老いた母が一緒に暮らしている田舎に楓と一緒に帰って行ったのだ。あれだけしおれていたが、心の準備が整ったのか虎徹は晴れ晴れとした顔をしていた。
一人娘を良い青年にやれる幸せをかみしめる虎徹を送り出し、バーナビーは彼を知る人々にメールを送ってやる。個性溢れる祝辞に笑みがこぼれる。それをまとめて虎徹に転送すると、身じまいをして取材に向かう。バーナビーのデビュー15周年記念日が近かった。
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神妙な顔をして虎徹がバーナビーの名前を呼んだのは、デビュー15周年パーティーを終えた夜のことだった。方々からの誘いに乗ろうとするバーナビーを話があると引き留めて、二人のマンションに帰ってきていた。
テーブルの上にはささやかなショートケーキとロゼワイン、つまむようにとプレッツェル。祝い事があると、苺の乗ったショートケーキを食べるのがバーナビーの決まりだった。4歳の誕生日を最後に、20年間バーナビーが苺のケーキを食べることはなかった。それを彼は、月日を取り戻すように好んで食べる。でも彼に言わせれば、何もないときに食べてはいけないのだ。誰かと一緒にするお祝い、そして苺のショートケーキ。それはバーナビーにとって幸せを感じるためのセットになっていて、節目を迎える度の儀式だった。
ワインの注がれたグラスを鳴らして、静かに乾杯をする。満たされた心地にバーナビーはうっとりする。視界の端に、見慣れたシュテルンビルトの夜景がちらついていた。けれど一瞥をくれただけで、すぐに目を戻す。それよりも、蛍光灯に照らされたテーブルの上、街で買ってきた赤と白のケーキと二組の食器。その向こうに初老にさしかかろうとする好きな男。その眺めの方がよほど美しかった。
「改めて、15周年おめでとう。もう39歳かあ。会ったときの俺の歳も飛び越えちまったな。」
「ありがとうございます。虎徹さんも、もう52歳ですか。」
「おじさんだよなあ。」
「あの頃は、こんなふうになるなんて想像してませんでしたよね。」
「だな。39歳のお前の面こんなふうに向き合って見ることになるなんて。」
「好きです、虎徹さん。」
「唐突だな。……ああ、俺も好きだ。」
「唐突に言いたくなったんです。さ、ケーキ切りましょう。」
コルクを片手にもてあそびながら、ナイフを操るバーナビーを微笑みながら眺める。空いた手でポケットの中を探って、小箱がそこにあるのを確認した。
天下のバーナビー・ブルックス・Jrにはやや似つかわしくないありふれたショートケーキ。食べてみれば、甘ったるいだけだ。それを幸せそうにバーナビーは頬張る。今さら何を緊張することがあるのだろうと思いながらも、虎徹は緊張していた。自分も食べながら、ショートケーキの儀式の終わるのを待つ。
かたんと音をたてて、食べ終わったバーナビーがフォークを置く。それを合図に、虎徹が口を開いた。
「バニー、今までごめんな。」
突然の謝罪に、バーナビーがいぶかしげな顔をする。
「この間実家帰ったときな、奥さんの墓に挨拶してきた。俺、けじめつけるわ、バニー。」
バーナビーの瞳が恐怖に揺れる。長らく続いてきた幸福な日々が奪われる予感を感じてしまったのだ。別れを言い出されるのではと体を硬くする。
けれど次の瞬間、虎徹は左手を胸の前に持ってきて、何十年間も外すことのなかったシルバーリングを薬指から抜いて見せた。
目の前でなされたことの意味を理解できず、バーナビーがぽかんとする。その様子に虎徹が苦笑する。
「いつまでもうだうだしててすまん、バニー。けじめつけるってつまりこういうことだ。奥さんのことどうでもよくなったわけじゃねえぞ。でももうこの指輪はしない。」
「でも、そんな、良いんですか?僕だって一応その指輪については納得して……。」
「だあから、俺の残りの人生全部お前にやるっつってんだ。楓もあのイケメンにやっちまったしな。いいから素直に喜べよ。」
それでも動揺を抑えられない様子のバーナビーに、虎徹は微笑んで続けた。
「あのな、15年。今日でお前と俺が会ってかっきり15年だ。でな、おれと奥さん。17の時に出会って、32で亡くなった。わかるか?」
「あ……。」
虎徹がにっと笑った。
「これからは、お前と過ごした時間のが長いんだよ。」
言われて初めて気がついた。バーナビーは、虎徹が妻と過ごした時間に追いつけるという発想を持ったことがなかった。バーナビーにとっては虎徹の妻という存在は、自分の知らない虎徹をたくさん見てきた、永遠に勝てない人だった。仕方ないと受け入れてはいても、虎徹の体温と同化した指輪のかたい感触を触れ合う肌に感じる度に胸にちくりとした痛みを覚えざるを得なかった。
それがこれからは自分の方が虎徹を知っていると言われる。目から鱗が落ちるようだ。決して手が届くことはないと思っていた場所にいつの間にか立っていた。二度まばたきをして、出会った頃と比べて白髪もしわも増えた虎徹の顔を見据える。本当に、おじさんになっていた。もう初老だ。その白髪もしわも、自分と一緒に過ごす時間にきざまれたものだと思うとたまらなく愛しい。
思わず触れようと伸ばした手を、虎徹に捕まれた。
「それで、だ。何もないんじゃ寂しいから、埋めてもらえねえかな。」
そう言って虎徹が、空いた右手でポケットを探る。出てきた手には、ビロードの小箱が握られていた。
「まさか、あなた。」
「ああ。そうだ。けじめその二。こいつ、受け取ってくれる、か?」
片手で器用に開いた箱の中には、銀色の対の指輪が入っていた。必死で何度も頷く。いい年をして、胸が一杯で言葉が出なくなった。虎徹が優しく微笑んで、バーナビーの左手をとり直すと、薬指にそっと指輪をはめた。そして解放された手を、バーナビーはまじまじと眺める。
「幸せです……。」
思わずもらした呟きに、虎徹がにやにや笑う。そして小箱を、今度はバーナビーの前に置いた。虎徹の薬指のサイズの指輪。気を取り直して、バーナビーがそれを手にとる。はやる気持ちを宥めて、そっと虎徹の左手を取った。妻との指輪の跡の残る薬指におずおずとはめる。まるでもとからそこにあったかのように、しっくりと虎徹の指に馴染んだ。
「こんなきざなこと、僕の専売特許じゃありませんか。なんだっておじさんがこんなスマートに……。」
笑いながらたわむれの恨み言を言う。目の端に浮かんだ涙を、手で乱暴にぬぐった。
「おじさんだってな、たまにゃあかっこつけたいんだよ。なんたって年上だしな! ……気に入ってくれたか?」
「気に入らないわけ、ないじゃありませんか。ばかみたいに嬉しいですよ。」
「ああ、それなら良かった。ったく、柄にもなく緊張したぜ。」
「こっちだって柄にもなく感動してるんですよ。あなたって人は、本当に……。」
続く言葉をバーナビーは見付けられなかった。何を言っても虎徹を一言で表すことはできない。触れた指先からじんじんと体温が伝わってきて、それが一番雄弁だった。
「そうだ、大事なこと言ってねえわ。その、あれだ、バニー、バーナビー……。」
虎徹がくちごもる。その隙をバーナビーは逃さなかった。虎徹の目をまっすぐ見据える。
「結婚しましょう、結婚してください、虎徹さん。」
「っだ、言わせろよバニー!」
「僕にだってちょっとくらいいい格好させて下さいよ。こっちだって男なんだから。」
虎徹がふてくされ顔をするのを見て、バーナビーがくすくす笑う。すぐに虎徹も表情をほころばせる。揃いの指輪が蛍光灯に照らされて優しく光った。
ワインも皿もそのままに、ふたりどちらともなく立ち上がる。顔を寄せ、鼻先の触れる距離で互いの体温を感じあった。バーナビーより拳ひとつ背の低い虎徹が少し顔を傾けると、誘われるように唇を合わせた。まつげが触れ合う。
お互い深追いはしないキス。体を離すと、ワイングラスを手にもってソファに身を寄せあって座った。腕を伸ばしてバーナビーがせびると、虎徹がそれに応えて無理矢理左手同士をつないだ。こうして甘えられていると、若い頃に帰ったみたいだと虎徹は思った。
ワイングラスを置いて、バーナビーの髪をすく。酔ったのか、バーナビーが眠たそうに数度緩慢なまばたきをした。
「珍しいな、こんな甘えてくるなんて。」
「気持ち悪いですか?」
「んにゃ。おじさんも酔っぱらってるからなー多少のこたあ嬉しいぞ。」
「その言い方じゃ、素面ならアウトじゃないか。」
バーナビーが苦笑する。安心させるように、頭をわしわしと撫でてやる。久しぶりの子ども扱いに、バーナビーは半ば嬉しそうに身をよじる。
「なんか、悪くないな。良いな。」
「なにが?」
「そりゃあ、ほら、この時間がだよ。」
「ああ、そうですね。悪く、ないです。最高です。下手したら、僕の人生の絶頂かもしれないな。もう僕ね、あなたがいるならあとはもう死ぬだけでいいです。」
「おいおい、もうお互いおじさんなんだぜ。縁起でもないこと言うなよ。」
そうは言いつつも、恋人をしてそこまで言わしめるプロポーズの成功に、虎徹は心の中で歓声をあげる。先ほどのケーキの甘い味が口の中に残っている。今日まで来るのに、本当に色々なことがあった。苦い思いもたくさんした。今夜だけはこんな、安物のケーキみたいに甘ったるいだけの幸せも悪くないじゃないか。心の底からそう思った。
「バニー、一緒に死のうか。」
「そうですね。ここまで来たら比翼連理です。逃がしませんよ。」
「初めはお前の方から逃げてくと思ってたのになあ。よく一緒にいてくれたよ。ありがとうな。」
バーナビーが一瞬面食らって、次の瞬間こぼれるような笑みを咲かせた。硬質な顔がこんなにもやわらかく笑えることを知っているのは恐らく自分だけだ。虎徹は愉悦にひたる。
「墓ぁどうしようなあ。」
「まだそんなことまで考えなくたっていいでしょう。」
「んー、まあな。ま、色々考えることはあるわな。」
「あんまり、気が重くはなりませんね。わくわくしてます、僕。とりあえず結婚発表しますか?」
「あー、面倒くさくなりそうだなあ……。また今度にしようぜ、考えんの。」
バーナビーが何かと言い募る前に、もう一度キスをして言葉を塞ぐ。今度は長くて深いキス。肌を撫でる睫毛の感触が心地好い。唾液を交換し、互いの形を確かめる。口を離すと、満足げにバーナビーが喉をならした。
体が熱くなっているのはアルコールのせいだけにはできないだろう。最後についばむようなキスをして、バーナビーが立ち上がりシャワールームに姿を消した。虎徹は引き出しを探ってバーナビーに差し出したものとは別の小箱を取り出すと、外した妻との結婚指輪に心を込めたキスを落とし、そっと大切にそこに納めた。箱は虎徹の指に従ってぱこんと軽やかな音を立てて閉まる。それが妻の笑い声に聞こえて、虎徹は目をしばたいてこみあげた涙を払った。