水中火/ほか2編p1:偽物(2020/10/01設定資料集の記述に切なくなって書いた、アズールのお見舞いに行くイデア)
p2:21時、展望ラウンジにて(2020/10/22こういうモブ目線連作が読みたいという話)
p3:水中火(2020/11/08ワンライ(お題:炎)に寄せたもの。オクタイグニで遊びに行く話)
偽物 君の立つ戦場は眩しすぎて、目を開けているのもやっとの僕には君を見つけることさえできない。だからどうか来ておくれよ、君の方から。
アズールの部屋は一度だけ訪ねたことがある。何のことはない、罰ゲームの命令だ。彼の所属する寮の華やかさをあげつらって大袈裟に怯えて見せる僕を面白がって、それじゃあ週末僕の部屋まで来てくださいと、そういう遊びだった。「こちらスネーク、只今ウツボの巣前を通過」「段ボールは必ず中身を改めるよう、寮生に通達しておきますね」そんなような戯れの末命からがら辿り着いた僕を、アズールはあの豪奢なベッドに悠々と腰掛けて出迎えた。ご褒美ですよ、と言って僕に握らせたガウンの腰紐。やたらツルツルしたその布の下には一糸纏わぬ彼の肢体があって、まんまと興奮した僕は馬鹿な犬さながら跪いてその完璧に磨き上げられた素肌にむしゃぶりつくなどした。そういうことがあった。
そういうことがあったから、再び訪れる決心をつけることができたのかもしれない。期末試験直後のアズールの失墜を知って、僕は一週間近くも懊悩した。お陰で後日提出のレポート課題は散々な出来で、気を遣ったクルーウェルが背中を鞭打つ代わりに肩を叩くようになるほどだった。だけれども結局、僕は彼の部屋を訪ねた。アズールは僕の生活に思った以上に深く食い込んでいて、彼の現れない部活動時間はどうにも耐え難かったのだ。
足音を忍ばせて通過した第四チェックポイントの双子の部屋からは、人の気配がしなかった。それもそのはずだ。辿り着いたアズールの部屋の前に彼はいたんだから。
「は? ホタルイカ先輩じゃん。何」
あからさまに機嫌の悪い陽キャ――というか、フロイド氏ともなると最早チンピラだが――の何、ほど恐ろしいものはない。アレェ。おかしいナァアズール氏にメッセ入れたんだけどナァ〜? 伝わってないのかナァ……? 肩を縮こめながら、僕は手に持った紙袋から林檎を取り出してみせる。
「ヒ、あ、あああのお、お見舞いに」
「ア? あー……何か言ってたか。いーよぉ、入れば?」
入室を許した番人は、しかし通り抜けざまに大きな舌打ちを寄越してきた。アズールゥ、ホタルイカせんぱぁい。乱暴な呼びかけがそれに続く。最後に大きな音を立てて閉められた扉を背に、僕は既に殆ど死にかけていた。
それでも、その時のアズールよりは生気があったんじゃないかと思う。かつて彼が誇らしげに身体を横たえていた部屋が、今日はやけにだだっ広く感じられた。大きなベッドの真ん中にちょこんと座って、ぼんやりと窓の方を眺める彼はまるで幽霊のように希薄だった。射し込む昼下がりの光が彼の髪を透かして、輪郭の無い影をシーツに落としていた。
「ア、アズール氏元気……なわけないか、これだから陰キャは、えっとその、あ、でも顔色は……先週より、良いよ」
「まあ、そりゃあ。寝てますから。もうずっと、入学してからこんなに寝たことないってくらいずっと寝てます」
それが何を意味するか分からないほど僕は愚かではなかった。失言に歯噛みし、意味のない音を喉から垂れ流す。
「え、うー、あ、ああ、そう。えっと、に、人間、なんだね?」
いくら陰キャだってここまでひどい話題選びもないんじゃないか。即座に僕は後悔した。いつだってそうだ。気付いた時には手遅れで、僕は失っちゃいけないものを失い与えるべきでないものを与えてしまっている。ごめん、変なこと聞いたね、いや変身薬って負担になると思ったから、てっきりまだ。言葉を空回りさせる僕はしかし、うっそりと振り返ったアズールの様相の凄まじさに口をつぐんだ。何も骸骨のように痩せ細っていたとか、ゴーストさながら青白かったとかじゃあない。ただその獏とした目が、血管まで透けてしまうんじゃないかってくらい、無防備に剥き出しで僕の前に曝け出されていたのだ。
「……ああ、はい。今朝から」
「そ、そう。ええと、体はもう、大丈夫なので?」
「まあ、そうですね。正直座っているのも辛いと言いたいところですが、あなたがいらっしゃると言うので」
淡い視線が僕の上をたゆたう。彼の声はひどく掠れていた。無理しなくてもいいのに、と言いかけた言葉を僕は飲み込んだ。それを言うことが彼のなけなしの、最後に残された矜持をばらばらにしてしまうことは明白だった。自分がまだアズールの弱さの底を見ることを許されていないことに落胆する。その誂えられた二本の足こそ彼が僕に捧げるものだと言われて納得するには、僕はまだ少し子供だった。
ベッドサイドに腰掛けて、僕は持参した林檎を剥く。果物ナイフを持ち込むのを忘れてマルチツールのナイフを使っているので、古新聞の上に落ちる皮は歪に途切れがちだ。知らなかったんだ、誰かのお見舞なんてしたことないんだから。でも少し考えたら分かるだろ、果物を持ってくるならナイフも必要だってことくらい。僕は自分のこういうところが、本当に嫌になる。それなのにアズールは何が面白いのか、僕の手元に透明な眼差しを投げかけている。
「……器用なものですね」
「そう? アズール氏のが上手いでしょ、一応本職なんだし」
「さあ、どうかな。本当は僕何もできないかもしれませんよ。……滑稽でしょう。僕は全部偽物だって、暴かれてしまいました」
ぶっきらぼうに投げ捨てられた言葉に、僕は俯いていた首を僅かばかり起こす。前髪越しの彼は、自分の両手に視線を落としていた。真っ白の、何も持たない両手だ。なんだかたまらなくなって、僕は剥きあげた林檎から適当な大きさの一切れを切り出し、彼の目の前に差し出した。
「じゃあさ、いる? あげよっか?」
アズールの顔が持ち上げられ、茫洋と僕を見た。彼は何も言わない。僕の手の中で、空中に差し出されたままの林檎がじんわりと温くなって行く。決まりの悪さに耐えられなくなってそのままアズールの唇の間にねじ込めば、彼は存外素直に上下の歯を開いてそれを受け入れた。
残った果肉を割り、自分も一切れ口に運ぶ。暫くの間、咀嚼音だけが僕らの間に横たわった。甘い林檎だ。僕は胸を撫で下ろす。酸っぱかったら僕は自分を嫌いになっていたかもしれない。
僕の口の中が空になってしまっても、暫くアズールはもごもごと咀嚼を続けていた。ようやく彼の喉仏が上下し、色の薄い舌がひらめいて唇についた果汁を拭う。そしてまた口を開いた彼の声は、さっきよりも幾分か滑らかさを取り戻しているようだった。
「いりませんよ、そんなの」
「いいの? 何でも作っちゃう器用なお手手ですぞ」
「それを失ったら、あなたもっと大切な物まで手放すことになるでしょう」
核心に触れる言葉は、僕の意地悪な問いかけへの仕返しだろうか。それに、と彼が続ける。
「あなたは僕に借りは無い。あなたに支払いの義務はない。対価なき奉仕はただの犠牲だ、そんなものくそくらえだろ」
僕を睨みつける彼の目の中に、見覚えのある光が生まれつつあった。それは触れるものを飲み込む青い太陽で、瞳は底無しの暗闇だ。
「欲しいものは奪ってこそ、ですよ」
「そう。そりゃ良かった。これでまたきみに林檎を剥いてあげられる」
アズールが二度瞬きをし、その表情に笑みが浮かび上がった。僕はようやく安心して、残りの林檎から芯を外すのに集中する。アズールの指が仕上げたばかりの一切れを掠め取り、瑞々しい音と共に歯を立てる。
「林檎さ、まだあと何個かあるんだよね。でも、やっぱり持って帰ってもいい?」
「あなたのなんですから好きにして頂いて構いませんが、なんです? 気に入りました?」
「んや、部室に置いとくわ。だからさ、また出てくるよね?」
シーツに覆われた彼の両脚に、僕は視線を滑らせる。祈りによく似た気持ちだった。今も部屋の前で目を光らせているのであろう、彼の腹心を思う。彼らもまた、アズールが再び立ち上がるのをドアの向こうで待っているんだ。
「偽物なら偽物でさ、その偽物の二本足で、来てよ。僕はきみに見つけてもらわなきゃ」
彼の膝小僧のあたりを撫でる。待ってるからさ。そう言い添えると、彼の脚がお魚みたいに大きく跳ねた。
Nine o'clock, PM, at bar lounge on 52nd floor of Ambre Bell Hotel その日、四時間に及ぶ商談を終えたゲキモク氏は、アンバーベルホテル(ラグジュアリーホテルである。この街を訪れる際は必ずここに泊まることが、氏の断固たるこだわりであった)の展望ラウンジで寛いでいた。以下は、氏の偶然預かり知ることになった若い恋人たちの夜の一幕である。
「アズール、改めておめでとう」
「ありがとうございます。ふふ、あなたがこんなに素敵な場所を予約してくださっているだなんて」
「君の卒業祝いだからね」
卒業、と、高級ホテルのバーラウンジには凡そ似つかわしくない言葉が聞こえたことが、ゲキモク氏の興味を引いた最初の理由であった。さり気なく周囲を見回すも、それらしき――つまり、浮ついた学生と思しき明らかに場違いな客は見当たらない。となればあの二人しかないかと見当をつけたのは、窓際の席で向かい合う瀟洒な二人連れであった。纏う雰囲気が一見そうは思わせないが、目を凝らせば確かに肌艶など若々しい。
ゲキモク氏が彼らを知っているのは、全くもって偶然のなすところであった。氏は魔導工学を手がける企業人であり、当該分野の麒麟児と名高きイデア・シュラウドとの繋がりを得ることに日々血道を上げていた。それ故、テーブルクロスの裾を捏ね回しながら眉を下げて笑う青年がかの天才その人であることに一目で気付くことができたのだ。
そして彼と向かい合う白皙の青年。彼がアズール・アーシェングロットという名の若手実業家であることも、ゲキモク氏の承知するところであった。それは彼が先日めくっていたビジネス誌に由来する。巻末付近の連載にて次代を担う若者として紹介されていたのが、まさにそこではにかんだように笑う青年ではなかったか。
ゲキモク氏は優れた脳容量を持つ人物であったので、アズール・アーシェングロット青年のインタビュー記事の内容を記憶の底から引き出してくることは造作もなかった。
『将来は魔導工学分野への進出も考えております。有用な魔法を非魔法士でも扱えるようにする補助的技術は、間違いなく社会を豊かにするかと』
自身もまた魔法士であるという彼が、それを鼻にかけることなく記者に述べた内容に、なるほど慧眼を持つ若者もいたものだと感心したことを覚えている。その彼が、魔導工学界の新星とグラスを傾けている。ゲキモク氏の頭の中で、いくつかのピースがするすると繋がり始めた。
功名に逸った若手実業家が歳の近い有能な人材の籠絡に勤しんでいる。そう勘ぐることは、無論飛びつくに容易い結論だ。しかしそれにしては、二人の間に流れる空気は濃厚な親密さを孕んでいた。実のところ、因果関係は逆なのではあるまいか。つまり、天才の仕事を間近で見ればこそ、秀でた実業家はその技術の有用性を知ったのではなかろうか。
「あー、拙者こういうとこのマナーとか知らないから。かっこいいエスコートとかほんと期待しないで……」
「誰もあなたに椅子を引いてもらおうだなんて思ってませんよ。ふふ、いいんです。僕もう今まででとっくに胸が一杯なんですから」
アーシェングロット青年が軽く身を乗り出し、テーブルの上に右手を差し出した。ゲキモク氏の視界の端で、シュラウド青年が小さく肩を跳ねさせる。そしてテーブルクロスを弄んでいた左手がおずおずと持ち上げられ、アーシェングロット青年のそれにそっと重ねられた。
こういう時のマナーなんて、僕だって知りません。でも……」
「でも?」
「多分、あなたの胸ポケットに入ってるそのカードキーが、きっと正解なんじゃないんですか?」
「……そういうの、気付いてても言っちゃうのはマナー違反なんじゃない?」
「だってあなた、何も言わずに放っておいたらその鍵ふいにしかねないでしょう。僕、綺麗にメイクされたベッド使ってみたいのに」
ここにおいてゲキモク氏はとうとう聞くに耐えなくなり、慌てて手元のグラスを勢い良く煽った。のに、使ってみたいのにときたものだ。あの小ぶりな頭蓋骨に詰め込んだ豊かな知性をかなぐり捨てて、彼は甘えた声音でただの馬鹿な男に成り下がる。その仕草はあまりにも初心で、あまりにも巧妙であった。ゲキモク氏の脳裏に、既に遥か遠い思い出の中へと過ぎ去った青春の日々が蘇る。これ以上聞き耳を立てるのは野暮であると、ゲキモク氏はすっかり理解しきっていた。
いつもよりも酔いの回るのが早い気がする。ゲキモク氏はウエイターに目配せをして会計を頼んだ。相場より高いチップを握らせたのはひとかどのビジネスマンとしての見栄、そして彼のこよなく愛するドライマティーニの味を変貌せしめた彼らへの密かな意趣返しである。
「窓際の、あの若い人たちの近くはあまりうろつかないようにしてやってくれるかな」
ウエイターは一瞬そちらに目をやって、そして笑って肩をすくめて見せた。
「勿論、そのようにさせていただく所存でございます」
おや、これは余計なお節介だったかな。赤らんだ顔でそうこぼし、ゲキモク氏はこの日初めて、22時を待たずして部屋に引き上げたのであった。
水中火 ハロウィンも一週間を過ぎれば、街は瞬く間に赤と緑に塗り替わる。その変わり身の早さに呆れつつ、それでも楽しくてたまらないとばかりにアズールは足取りを躍らせていた。週に一度のボードゲーム部の活動では彼の指先はわずかに緻密さを失い、先程から出目操作の失敗を重ねている。
「おやおや、アズール氏はハロウィン疲れですかな? そろそろ隠居のお年頃では?」
「ハ、あなたこそハロウィンで珍しくはしゃいでいたと思ったら、先程のゲームでは戦略と言うものをまるで忘れてしまったようでしたが」
「大口叩くのは勝ってからにしていただきたいものですなあ。……ハイ、拙者ラッキーマス到着~」
「あっ! ……次は、こうは行きませんから」
地の底を這うような声で一頻り悔しがった後、アズールはしかしいつにない軽快さで機嫌を上向かせる。グイと伸びをしてから正面向きに戻ってきた表情は、既にあっけらかんと笑っていた。
「ハロウィン疲れというのは当たらずとも遠からずですね。全く、陸の方々ときたらなんて軽薄なんでしょう! ハロウィンが終わったと思ったらもうクリスマス! 息つく暇もないんですから!」
「はげどっすワ。ハロイベ完走したと思ったらもうクリイベ……拙者でなきゃ見逃してるね」
「僕らもこれから半月でクリスマスディナーの最終調整ですよ」
「えっ、じゃあ忙しくなる系?」
ゲーム盤から顔を上げたイデアの目に映ったのは、にんまりと弧を描くアズールの双眸だった。蛸ってより蜘蛛じゃないのアレ、とその夜イデアは回想することになる。
ともあれ、イデアは蛸の九つの脳の張り巡らせた網にまんまとかかってしまったわけである。ええきっと忙しくなりますね、何と言っても僕まだ陸のホリデーはほんの二回目なので。あなたとの時間だって取れなくなってしまうかも。そう言われて、素直に慌てふためいてしまったのがイデアの敗因だった。結果としてイデアは、目の前の用意周到な後輩が半月後に迫るホリデーシーズンに向けて何の手も打っていないわけがないことにも、そもそも学園から生徒のいなくなるホリデーシーズンが彼にとってさして重要でもないという事実にも思い至らなかったのである。
クリスマスマーケットに行ってみたいんですよね、でも僕不案内で、是非色々と教えていただけませんか? そう請われて、はじめはイデアも固辞しようとしたのだ。アズールは軽くごねた後、思いのほかあっさりと引きさがって対案を差し出してきた。それでは、オルトさんをお借りしても? 彼の案内があればきっと心強いと思うんです。そこで了承した時点で、イデアの運命は既に深海の商人の手中にあった。
「兄さんは行かないの? 僕、兄さんとアズール・アーシェングロットさんとお出かけができたらとても嬉しいな!」
かわいい弟と多分、恐らく、時と場合によってはかわいい恋人とに両脇から迫られれば、イデアに残された選択肢はぎくしゃくと油切れのおもちゃのような動作で頷くことだけだった。かくしてイデア・シュラウドは、生まれて初めて(ほぼ)自主的にクリスマス・マーケットに繰り出すこととなったのである。
◆
「それではイデアさん、よろしくお願いいたします。丁度テラリウム用の苔玉を探していたところなんです」
「アハァ、カボチャじゃねえホタルイカ先輩ちょ~久しぶりに見たァ」
「リーーーーーーーーーーーーーーーーーーチ!!!!!!」
「おやイデアさん、髪切りました? ショートカットも新鮮でいいですねえ」
アズールと双子を交互に見て震えるイデアに、アズールはまるで動じる様子がない。オルトもオルトで、兄が常にない人々と関わり合っているのが嬉しいと言わんばかりだ。
「えっ何……拙者の身内スパルタしかいない……」
「よく御存知で」
「俺は帰らせてもら」
「さ、行きましょうか」
踵を返そうとしたイデアの腕を捉えたアズールの五指は、そのたおやかな笑顔とは裏腹に恐ろしいほどの力が込められている。ヒイヒイと喘ぐイデアの背後をウツボの双子が塞いでしまえば、もうイデアは意気揚々と跳ねて行く弟の背を追う他なかった。なんで行くとか言っちゃったかな、拙者馬鹿なのでは、てかトリオ揃って寮空けるとかある? 哀れっぽい独り言ばかりが石造りの廊下の床を這い、行き交う生徒たちの足元でたちまちぺちゃんこに踏みつぶされる。
揉み合うようにして鏡を抜けた先は、無数のランタンの浮く街だった。冬の気配を告げる重苦しい湿気を追い払わんばかりに、優しい光が五人の少年たちの上に投げかけられる。
「すっご、エオルゼアみたい」
「それ、どっちかっていうと逆じゃないかなあ」
この場所が先で、ゲームが後。弟の冷静な指摘に、イデアは気まずく頬を掻く。人魚の三人は陸の装飾にすっかり魅入られたようで、わあわあと騒ぎながら数歩先を歩いていた。アズールの髪にランタンの光が落ちかかって、金色に燃えているかのようだ。目まぐるしく表情を変える髪に見入っていると、ふいに彼が歩みを緩めてイデアたちに並んでくる。
「いかがです? 僕、一度来てみたかったんです」
「うん、すごく綺麗だね! 動画で見るのとは全然違うよ! 兄さんも綺麗だって」
「ふふ、それは良かった。貴方たちと来られて嬉しいです、僕」
胡乱気なイデアの視線を察したアズールが、本心ですよと付け足す。いつの間にか随分先に進んでいた双子が、あたたかな光を放つテントに入って行った。フロイドが長身をいっぱいに使ってイデアたちを手招いている。軽く手を挙げて合図を返すと、アズールがするりとイデアに腕を絡めてきた。オルトが双子の方へ跳んでゆき、二人だけが夜空の下に残される。
「てか、双子も来るなんて聞いてない……」
「ふふ、ごめんなさい。二人とも一緒に来ると言って聞かなくて」
「ぜんぜんごめんなさいって声してないんだよなあ」
「拗ねないで。あいつらとも仲良くなってほしいんですよ、僕。これは本当に本当です」
「……まあ別に、拗ねてるとかじゃない、っすけど」
年上のプライドにそれ以上の恨み言を塞がれて、せめてもとばかりイデアは腕に力を込める。歩きにくいですよと笑って、アズールがわざとらしくふらついて見せた。体重をかけられ、本当によろけそうになるのをどうにかこらえる。たたらを踏みながら顔を上げると、アズールが白い歯を見せて笑っている。楽し気に細められた眼鏡越しの目にランタンの光が映って輝く。まるで炎を浮かべた水面のようだった。
双子とオルトが吸い込まれたテントに足を踏み入れると、待ちかねたとばかりに紙コップが二つ、それぞれジェイドとフロイドの手によって突き付けられた。シナモンの甘い芳香が立ち昇る。
「グリューワインですか」
「ええ、定番ですから。よく煮詰めてあるらしいので、アルコールの心配はなさそうですよ」
「ホタルイカ先輩のはチリパウダー入りね~」
手渡されたそれを旨そうに啜りながら、アズールとジェイドが何やら話し込んでいる。テイクアウトだとかメインストリートだとか聞こえてくるので、きっと金もうけの算段だろう。よくやりますわと眉を上げ、イデアはテントの内装に意識を移した。折りたたみテーブルに置かれた簡易コンロの上、大鍋で深い蘇芳色の液体が湯気を立てている。その後ろに据えられた棚には、手の込んだ意匠のラベルを貼った缶がうず高く積まれていた。
「……なにここ、薬草屋?」
「紅茶屋さん~。ワインはついでだってさ。んで見て、クリオネちゃんにはコレね」
「えっ、僕?」
フロイドが店主から受け取ったのは、乾いて縮れた植物らしきものの入ったガラスポットだった。続いて魔法瓶も受け取り、意外なほど丁寧な手つきで湯が注がれる。オルトの目の前で、見る間に水色が青く染まってゆく。それに合わせて、ポットの底に沈んでいた植物が花の形を取り戻しはじめた。いつの間にか議論を打ち切ったジェイドとアズールも、フロイドの手元に注目している。五対の眼差しに見守られて、赤と黄色の水中花が燃え上がるように咲きこぼれた。
「うわあ、とっても綺麗だね! これ、飲むこともできるの!?」
「勿論です。香りも申し分ないんですよ」
オルトが目を閉じ、匂いセンサーを全開にする。再び開かれた双眸は、ガラスポットの中を移してプリズムのように煌めいていた。
「すごいや、これ! 僕の知らないにおいがするよ!」
「ふふ、それは良かった。ビーカーティーバッグとはわけが違いますからね」
眉根を寄せたイデアがアズールをねめつけるのを、銀髪の麗人は意にも介さない。フロイドに代わり、踊るような手付きでテーブルにカップを並べてゆく。
「兄さんはね」
ふと水滴のように落とされたオルトの声に気付いたのは、彼の隣に控えていたジェイドだった。おやと目を上げ、膝を落として少年に目線を合わせる。
「兄さんは引きこもりなんて言うけど、きっとこうしてみんなと過ごすのが嫌いなわけじゃないと思うんだ。ハロウィンの時だって、あんなに……。だから、今日こうやって誘ってもらえて僕とても嬉しいよ!」
人魚の呼び水に誘われて、オルトはぽろぽろと言葉を連ねた。少し淋し気なその声音に、アズールも手を止めて沈黙する。
「オルト……」
「ええ、確かにオルトさんの仰る通り、アズールの口八丁が無ければ今頃イデアさんはいつも通り自室にいらっしゃったでしょうね」
ジェイド、と尖った声を上げるアズールをフロイドがケラケラ笑う。
「でもさ〜、アズールだけじゃホタルイカ先輩引っ張り出せねえから」
「……まあ、そうですね。僕は発破をかけただけです。今日も、ハロウィンの時も」
「イデアさんを燃え上がらせたのはアズールの安い煽りですが」
「ジェイド?」
「火種は必ずしもそうではないと、僕は思いますよ」
「ええ、僕ら火起こしは不得手なんです。イデアさんの中に元々あった炎に、少し風を送っただけです。今日だって、オルトさんがいなければイデアさんは来なかったでしょうね」
フロイドが隣に立つイデアのふくらはぎを蹴りつけ、ヒィと悲鳴を上げさせる。顎をしゃくって促され、イデアはおずおずと弟の隣にしゃがみこんだ。
「ジェイド氏の言うとおりだよ。ハロウィンの企画、オルトも楽しんでくれたんなら僕も嬉しいし……今日みたいに出かけるのも、そりゃしょっちゅうは無理だけど……オルトが望むなら」
「兄さん、それ、ほんとう!?」
イデアの視線が虚空を彷徨い、人魚たちの三対の目に追い立てられて再びオルトへと戻ってくる。
「あー……その、た、たまにはね」
「うん! 僕、たまにでも十分嬉しいよ!」
オルトが飛び上がり、兄の首に腕を回して抱きつく。それを危うげなく受け止めて、イデアは兄の顔をしてくふくふ笑った。アズールの片手がそっと持ち上げられ、戸惑いがちに空中を泳ぐ。それを認めたイデアが、目を細めて小さく頷いた。半歩踏み出したアズールの手が、そっとオルトの肩を撫でる。
「なー! 花全部開いたけどォ? 写真撮んね?」
「ああ、いいですね。ほらイデアさん、こちらへ」
「あ、それじゃあ僕が撮るね!」
「何を言うんです。何のためにこの馬鹿でかいウツボが二体もいると思うんです?」
「ハァ? アズールひでー。俺ら自撮り棒扱いかよ」
「かさばり方で言ったら似たようなものでしょう。ほらイデアさん、逃げるな」
あえなく首根っこを捕まえられたイデアの両脇を、すかさずリーチの双子が固める。その隙間にアズールとオルトが滑り込み、フロイドがスマートフォンのカメラを構えた。オルトの手に抱えられたガラスポットの中では、青い水に浸された花が爛々と咲き誇っている。
「たまにはこういう、半分アナログなのも悪くはないでしょう」
「……うん! 僕、写真を撮ってもらうことってあんまりないから、すごく嬉しいな」
「んじゃ撮るよォ。さーん、にー、いーち」
めいっぱい伸ばされたフロイドの手の中で、スマートフォンのシャッターが押される。
「さ。飲んだら次はキャンドルショップに行きましょう。すみませんがジェイドはこのまま紅茶の注文を。工芸茶もディスプレイ用含めいくつか見繕ってください」
「キャンドル?」
オルトが首を傾げるのに、アズールが楽しげに微笑みかける。
「ええ、ラウンジに飾ろうかと。オルトさんもお土産にひとつ買って行かれては?めいっぱい大きいのを選べば、きっと春まで燃え尽きませんよ」
オルトが大きな目を更に見開き、そして大きく頷いた。そのまま駆け出して宙返りをするものだから、道行く人が驚いて足を止める。
フロイドの端末ではアルバムが作成され、早速先程の写真が四人に共有された。小さな画面にギュウギュウ詰めになった五人の姿は、暫くのちに印刷され、それぞれの部屋に飾られることになる。