どうか全力で構わないから 絶望的な戦いだった。
なんのための戦いだったんだ。あれは、一体、なんのために、影山は、なんで俺の前に。何度も何度も。あんなことをいうために?
「最高傑作」
その言葉の指す意味がわからないような頭をしていればよかった。
だが、それならばこのような関係になんてそもそもなっているはずがないのだ。
サッカーを通し、自分が得たものは大きく、莫大で、自分のまだたった14年の中の人生の半分以上、ほとんど意識してからの生活を占めている。その生活すべては、この言葉が端的に表してしまったというのだろうか。きっと、ヤツにとってはそうなのだろう。
そして、自分にとっても、ある意味でとてもしっくり来ている事実が、俺の中に座っている。
落ち着いた居場所を見つけたその言葉の安定感に、なにを言えばいいのかわからない。
物扱いされることでこれほどに憤っているわけではない。
佐久間や源田たちを使い捨てられたことだけでこんなに怒っているのではない。
不動の行動や言葉に痛いところを突かれ自らを貶められたことでもない。
俺は、結局、最後になにをしようとしたのか。
その答えが見つからないことが、さらに俺をどん底に突き落としていた。
***
佐久間と源田が病院へ運ばれ、意識が戻ったことを確認後、とりあえずこの場所から市街地へと戻ることになった。とにかく、自分たちの身体のメンテも含め、この場所は陰気すぎる。少しでも明るいところを目指すために、みな疲れた顔だったがバスへと急いで戻る。
最後尾にいたはずの鬼道のマントが引かれ、ガクンと身体を揺らして立ち止まる。いつもは真っ先にバスに戻る円堂がまだ後ろに残っていた。円堂の存在に気がつかないのは鬼道らしくなく、しかし今の状態の彼からすれば当然のことだった。
円堂は、鬼道のマントを掴んで一歩前のバスのステップに出ると、入り口近くの瞳子監督へと普段よりも少し低い声を出した。
「監督」
「なにかしら、円堂くん」
「少しだけでいいので、時間をください」
「なんのために」
「鬼道と、話がしたい」
そのときにはしっかりと監督の目を見返していた。
「わかりました。ただし、ここから見えるところでね」
「ありがとうございます!」
深く頭を下げる円堂と、監督の間で、一度も意見を聞かれることのなかった鬼道は、一人困惑していた。
なにがどうなったって?
***
「鬼道」
バスから少し離れたところへと、もう一度戻る。円堂にマントを引っ張られるがままに、鬼道は円堂の後をついてきた。バスからチクチクと仲間たちの視線を感じる。春奈も、あの中にいる。
「なんだ、円堂。悪いが、今は、まだ、少し、落ち着いて話せるとは思えない」
円堂がこちらの気持ちも考えずに人の中に踏み込むタイプではないことはわかっているが、それでも今日起きたことを、自分自身でも理解しきれていないうちに話すことが鬼道はこわかった。どう自分の中に落とし込めばいいのかわかっていないのに、それを人にさらけ出すことは、好きではない。それがたとえ信頼している円堂でも、唯一の血を分けた妹であってでもだ。
だが、円堂の答えは素早い。
「俺もだ。
いろんなことがありすぎて、なんていえばいいのかわからないし、お前に俺がなにかいっていいことはほとんどないと思う。
それでも、とにかく俺はお前に先に言っておきたいことがある」
そういって、円堂はしっかりと鬼道を見据えてその目の前に立つ。
「影山に、何を言われたんだ、鬼道」
やはり、と思った。
あのとき、円堂は気付いていた。鬼道が引き返していたことも、それが影山に会うためだったことも、あの崩れる艦の中で鬼道がひどく動揺していたのは、自分の身に迫った危険などとはまったく違う理由だったことも。
だが、それがいえない。それがいえたら、どれほど楽だったか。いや、違う。言ったところでなにも変わらない。あいつの中の自分はずっと「最高傑作」のままだ。それが辛い。
辛い? いや、それも違う。どうしてだ。なぜなんだ。なぜ、俺なんだ。
どうして、それほどに、俺にこだわる。そして、俺は
「鬼道」
静かに、両腕をつかまれて、ようやく意識が浮上した。ハッとして円堂の心配そうな瞳と目が合った。ああ、いつもの円堂だ。俺は、コイツといることで、新しいものを次々と発見する。それが楽しい。それが嬉しい。それでは、なんでいけないんだ。なんでその思いだけを抱えて生きていけないんだ。
それが、自分自身の暗部であることが、これほどに絶望だとは思ってもいなかった。
「鬼道」
「すまん。今は、まだ、言えない」
「そうか」
そして、円堂は、すんなりとその両手を離した。その軽さに少し違和感を感じて、鬼道は円堂の表情を追いかけた。
「えんど……」
「なあ、鬼道」
「ああ」
「俺は、お前と影山の間には入れないよ」
ハッとした。円堂が言おうとしたことに。
「仕方ないことだと思う。でも、それでいいと思う。お前が影山とどんな関係でも、どんな繋がりになっても、きっと俺には断ち切れない。そして、それをお前がどう思っているかも、俺にはわからない。俺には、関係ない」
「円堂?」
「でもな、だからこそ、俺はお前に言うよ。俺はお前に言わなくちゃいけないんだ。お前と影山の関係じゃないから、俺が言わなくちゃいけないことがあるんだ。
お前は、今は、大切なものが、あるんだろ? 取り戻したんだろ!?」
そして円堂の両手が今度は強く鬼道の肩を掴んだ。鬼道は、それに応えられなかった。
俺の?
大切なもの?
それは、
「お前は! 絶対に、やっちゃいけないことをしたんだぞ!!!」
「円堂、おれは……」
「音無を、置いて、行くなよ!!!
お前の、たった一人の、妹、だろ!!!」
その声に、鬼道の頭は、強いひび割れのようなものを感じた。
ああ、そうだ。俺は、なんという、ことをしたのかと。
もう一つの、うずいていた胸の奥で、割れたガラスがチクリと刺さった。内出血のように溜まっていたものが、ようやく痛みとして知覚を取り戻すように。
***
鬼道が一人で行ってしまった。
気付いたときには遅かった。
手を伸ばす暇さえなかった。
円堂は、鬼瓦に連れ戻された鬼道を見て、胸の痛みに気づいた。
鬼道が行ってしまった現実を、受け入れることが、これほどに苦しいとは。
豪炎寺が去った。あのとき、届かなかった声と手がある。アイツは俺の傍を離れないと思っていた。一緒に困難を乗り越えて、自分を支え続けてくれていた親友が、なにも言わずに行ってしまったこと。行ってしまったことがつらいのではない。あのとき、彼の役になにも立たなかった自分自身。そしてなにも言ってもらえなかった自分たちの関係。しかし、あのときの彼の悲しみの目は、確実になにかを自分に伝えようとしていたのにそれに自分が応えられなかったこと。それらすべてが実は足元に絡みつくようにして円堂をずっと捉えていた。
だが、まだ、傍には鬼道がいた。
鬼道は、FFを途中参戦とはいえ、共にピッチに立ってからは円堂を同じように元キャプテンとして、そして雷門に入ってからは名ゲームメーカーとして支えてくれていた。豪炎寺が抜けた後も、鬼道がいてくれた。
豪炎寺が抜けた悲しみを共有しながらも、新しい仲間と一緒にやっていこうと話していた。
だが、違うのだ。違ったのだ。
そうなのだ。鬼道だって同じだ。
去っていくかもしれないのだ。
影山になにかを言われた鬼道は、隠してはいるが、円堂にわかる。
ああ、なにか、とても、重いことを言われたのだ、と。
鬼道のすべてを揺さぶる、なにか、二人の間でだけわかる言葉があったのだと。
それには誰も、誰だって入れないことが、円堂にはわかってしまった。
だから、もしかして、鬼道も、行ってしまうかもしれないのだ。
その事実を突きつけられたことが、円堂にとって、今一番つらいことだった。
自分のことでいっぱいいっぱいになっている鬼道を思いやることよりも、鬼道がいなくなったときの自分の辛さを考えて心を沈ませている自分が、憎いと思った。
だが、同時に、円堂は怒ってもいたのだ。
鬼道と影山の関係とは別のところで、鬼道は「兄」である。
だから、それはやってはいけないことだ。
祖父に置いてかれた母のように、監督に死なれて元チームメイトを憎むしかなかった元雷門イレブンのように、置いていかれる側の傷を伝えなければいけない。置いていくほうが傷ついていることも知っている。置いていくことの苦しみがあることはわかっている。
しかし、違うのだ。置いていかれた側はそれを言う機会もない。置いていくほうはその自覚も覚悟も、それに至るまでの期間があるが、置いていかれるほうはその覚悟もなしに現実を突きつけられるのだ。それが、どれほどに、罪深いことか。
円堂は、そんなことを鬼道にさせるつもりはない。
だから、影山に鬼道を渡す気は、微塵もなかった。
***
鬼道に対して怒っている円堂の肩を掴む手が、震えていた。
それが怒りから来るものなのか、それとも怒り以上のなにかがあるのか、鬼道は判別しかねる。
真っ直ぐに見つめられる瞳に、こっちが圧倒される。揺れる瞳から目を逸らしたいが、それはもう一つの絶対にやってはいけないことだ。今鬼道に出来るのは、円堂から目を逸らさないことだ。
「円堂、俺は」
「置いて、いくなよ」
「円堂」
「置いていっちゃ、ダメだろ!!」
ああ、これは、なにかが違う。
違う。
これは、鬼道と春奈を思うと共に、円堂の気持ちだ。
置いていかれる。
置いてけぼりにされることへの恐怖。豪炎寺という支柱をすでに失っている円堂が搾り出すようにこぼしたこれは、自分が犯した罪によって引き出してしまった。
円堂は、こんな物言いなど絶対にしない男だ。
円堂は、こんな弱音など決して吐かない。
鬼道が、引きずり出してしまった。彼が隠そうとしていたものを、彼が気づいていなかったものを、彼が彼らしくあろうとするために不要としてきたものを、鬼道は思いもかけずに引っ張り出してしまった。
すまない、円堂。
だが、俺は、それでも、やっぱり、無理だと思うんだ。
「すまん」
「……」
うつむいてしまった円堂が、次に顔を上げたときには、いつもの顔だった。
鬼道の鼓動が、一瞬大きく響いた。失敗したと思った。違う、円堂。そうじゃない。そんな意味じゃない。それだけじゃ、ないんだ。
「……俺が、言いたいことは、とりあえず、それだけだから」
「まだあるのか」
「たくさんあるさ。でも、鬼道と同じ。なにを言えばいいのか、わかんない」
そういって、円堂はバスへときびすを返す。
「戻ろう」
いつもの彼の声は、見事に先ほどまでの震えもなかった。
鬼道は、思わず、彼の手を掴んだ。全身を震わせて円堂が止まった。
「円堂」
思わず言葉が滑り出る。
「俺を、止めてくれ」
「は?」
振り返った円堂の目が大きく開かれている。鬼道は真横を向いたまま、淡々といつものように作戦を話すときと同じように意図的に続けた。
「俺は、影山が出てきたら、多分、また、同じことをする」
「鬼道……」
「自分でも、どうにも出来ないんだ。
なんでアイツを追いかけたのか、わからない。影山に会ってなにをしたかったのか、なにを言いたかったのか、どうして、俺は、アイツにこだわってしまうのか。
そして、アイツが、俺に、こだわる理由も、だ」
円堂が、鬼道を真正面に据えた。
「影山を相手にすると、なにも出来ないんだ。
考えられない。先に、動いてしまう。行動してしまうんだ。
お前の言うとおり、今の俺にとって、春奈がすべてだ。春奈のためなら、なんだってする。なんだって出来る。春奈を幸せに出来るなら、俺はなんでもする。
でも、それと、これとは、別の、話だ」
「だから、止めてくれ」
「先に言っておくけど」
「ああ」
「容赦しないぞ、鬼道」
「構わん。力ずくでいい」
「お前を、影山には、絶対に、渡さない」
そのとき、初めて鬼道は、円堂を見た。
この瞳に守られて、自分は影山の下を離れたときから、ここにいる。
だから、どうか、頼む。その目で、俺を縛りつけてくれ。
自分を止められない、ふがいない、俺を。
***
バスの入り口で、春奈がずっと待っているのに気づいていた。
円堂は鬼道の背中を押すようにしてバスへと促した。
鬼道の足取りが重いのは、春奈の視線が痛いからだろう。
「お兄ちゃん」
不安そうな春奈の声に、鬼道が背中越しでも笑ったのが、円堂には見えた気がした。それはきっと苦いものに違いなかったが。
「春奈」
そういって彼が、腕を広げた。
そんな動作はひどく珍しかったが、妹にとっては、そうではなかったようだ。
二人はまるで示し合わせていたように鬼道が腕を広げるのと同じタイミングで春奈は彼に飛びついた。春奈は細いほうだが、鬼道は同世代の男子としては細身に入る。年子だけあってそれほど違わない二人の体格だが、兄としてのプライドだけで鬼道は飛び込んできた春奈を支えているようだった。
「お兄ちゃん!!」
「春奈」
妹の細い腕が兄の首に絡まっている。鬼道の腕は、ただ彼女に添えられているだけだ。
「心配、したんだから……!!」
「すまん」
「なんで、こんなことばっか……!!」
「すまん」
「もう、私を、置いてかないでよぉ!!」
「すまなかった」
そういって、彼の手が妹の頭を撫でた。
泣き叫ぶ妹は、しかし一方ではやはり鬼道の妹なのだ。
春奈は気づいていた。
鬼道が、「二度としない」という約束を、絶対にしないことを。
だが、それでもよかった。それしかないのだ。自分たちの関係は。
ただ、こうして今、自分を抱きとめる腕だけは本物である。
近くにいないのではなく、本音を言わなくても、受け止める腕を春奈は信じた。
お父さんとお母さんは、もう抱きしめてくれないからだ。兄の腕だけは生きている本物であることを春奈は今はもう知っている。だから、この腕がある間は、彼女は決してこの腕を放すつもりはない。
そうしないと、兄は、絶対にまた遠くに行ってしまうに違いない。
いつまでも、グスグスと泣き続ける妹の顔を見て、鬼道が笑った。
「変わらないな」
「……なにが?」
「泣き虫」
それには、春奈はドスンと一発兄の腹に拳をぶつけた。