海の向こうは海 私はこたえた
しあわせの国があるのだ と
/「サンゴ Coral」
石畳の街並みは行き交う人で溢れていた。西へ、東へ。何を求め、何を手放そうとするのか。誰一人の足音も揃わない雑踏。張り出された露店から聞こえる聞き慣れない言葉。何もかもが統一されていない空間は、無秩序であることが唯一の秩序と言わんばかりに喧騒で溢れている。
流石は人混みを器用にすり抜けながら歩いた。周囲を注意深く見ているものでなければ彼が通り過ぎていったことにも気付かないだろう。革靴で石畳の上を、音を立てずに歩く方法ならば船を降りて一番に身に付けていた。港町の猫よりも彼らは静かに歩くことができる自負があったし、事実、そうでなければ海を渡った意味がない。
彼ら。
つまり、流石と西園寺の二人にとって。
港町であれば、南蛮衣装も和装も多種多様で、そもそも目立つ者ではないことも幸いするのだろう。また一つ人影を縫い、細道へ入り込む。人の中は隠れやすくもあるが、今はその必要もない。顔を隠すには心許ない帽子の傾きを直し、大きく息を吐く。潮の香りを運ぶ風が流れ込み、下ろしたままの髪が首筋をくすぐった。
「もぅし」
背後から声をかけられ、流石は跳ね返るように振り返った。二歩後退し、袖口へ指を伸ばす。ボタンの付いた服ではかつてのように袂へ武器を隠すことはできず、代わりに、布地を重ねた袖口へ十字の刃を忍ばせていた。武器を構えると同時に顔を上げ、周囲を見渡す。路地は薄暗く、しかし、闇を駆けることを本職とする流石にとっては十分な明るさと言えた。
表通りと比べれば襤褸を纏った店が点々と並んでいる。店先に座る人々は皆どこか不安定な姿勢で石畳に座り込み、明るい方へ顔を向けようともしない。路地の端に転がった果実の瑞々しさだけが奇妙に鮮明な影を落としていた。
「もぅし」再び声がかけられる。同じ抑揚。同じ呼吸。
声の方向へ顔を向ければ、俯いたまま視線だけを流石へ向ける人間が目に入った。長い前髪で顔は半分ほど覆われ、口元は皺に弛み、どこの国の人間かは判然としない。ただし、かけられた言葉が滑かなポルトガル語であったことを思えば、この土地で生きてきた人間なのだろう。そう考え、流石は初めて、自分がポルトガル語で話しかけられていたのだと気が付いた。無意識に言葉を理解するほど、しかし、この国の言葉に馴染んではいない。気が付かなかったのは、単に別のことへ意識が向いていただけのこと。
「こんにちは」路地裏にへ似つかわしくない、爽やかな調子で流石は挨拶を返した。老人の前にしゃがみ込み、窪んだ眼窩に潜む黒目を覗き込む。忍として振る舞うには、顔を覚えられてしまうという危険性も含めて、軽率な行為かもしれない。後から考え、しかし、目の前の老人を警戒する意味はない流石はほとんど本能的に結論付けた。直感は大体の場面において正しいために。
「若いの。アンタ、思い悩んでることがあるだろう」老人が嗄れながら、奇妙なほど判然とした声で言う。
「なぜですか?」流石は小首を傾けた。老人の言葉を否定も肯定もせず、代わりに問いを返す。
「顔見りゃ分かる。ワシはもうずっとこの路地に出ているんだ。地元の奴らでもなしにこんな細道に迷い込んでくるやつは決まっとる。好奇心で身を滅ぼしかねん奴。自分の力を過信した自惚れ。我々を駆除すべき鼠、或いは保護すべき野犬とでも思っとる役人。それから、表通りの賑やかさに辟易した迷子。まあ、大抵そんなもんだ」
「危ない?」わざとらしくあたりを見渡しながら流石は言った。
単語だけを発したのは、異邦人であると気付かれている以上、言葉に深くは通じていないフリをした方が有利だと考えたからだ。油断が隙を誘うのはあらゆる人間に共通することを彼は知っている。有利とは、しかし、何に対してのことか。眼前の老人はきっと、真実、ただの老商だ。
路地の薄暗さのせいだろうかと考え、すぐに否定する。忍であれば闇は友。何より、海を渡る前にも忍務や実習で不穏な取引の横行する市に足を踏み入れることはあったが、その後ろ暗い空間と比較すれば今立っている路地はただ視覚として暗いだけだ。見慣れぬ者を警戒する視線や品定めする囁きもない。
そんな老人から、そんな街から、どんな利を奪おうと言うのか。
「まあ、いいさ。お前さんは悩んどるんだろう」老人が口の端に白い泡を滲ませながら笑う。「そんな奴にぴったりの品がある」
厚い皮膚に幾重のしわを、傷を刻んだ手が軒先の中央を指で示す。黒い塊が幾つか寄せ集められ、小さな山を成している。硬く、鈍く影を映す凹凸は岩を連想させる静謐さがある。傍らには小さな木の札が置かれていたが、長く風雨に晒されたのだろう、文字も数字も全てが黒いシミに変わっていた
「あー……いや」流石は首を横に振った。「悩んでいるのは俺じゃない」
老人が肩を竦めた。流石を見上げ、笑んだまま頷いて見せる。その歪な笑みに、老人の片頬が連動していないことに気付く。麻痺か。硬直か。薄暗いために気が付かなかったのだろう。そのためにこの路地は薄暗いのかもしれない。
「悩んでいる奴を知っているのなら、お前さんじゃなくても構わんさ」
「ここには来ないと思うな」流石は苦笑をこぼした。落ち込んでいる友を連れて来たい場所ではない、とは言えなかった。
「来る必要はない。お前さんが持っていけばいい」
「何を?」
「これだ」当然だと言うのだろう、鷹揚な仕草で老人が石を一つ取り上げた。流石に向かい差し出し、慎重に言う。「これは宝石を産む貝だ」
「貝」
流石は繰り返し、老人の手に握られた物質を見やった。それから、互いが互いに埋もれて一つの塊になった石を見つめる。その輪郭を一つずつなぞれば、確かに、境の位置で目にした真珠貝の姿に似ていると思い出す。尤も、特に興味があって残された記憶ではない。その姿は茫洋と輪郭を広げ、曖昧な線にしかならなかった。
「すべての貝に宝石が眠るわけではないからな。運が良ければ、宝石が手に入る」
「そんなものを、どうしてあなたが売っているのですか?」ポルトガルでは滅多に見つかるものではない。その知識は口に出さずに、流石は眉間に皺を寄せた。
村一つの子らが十分に食べていけるだけの値段をつけられた取引されていく様を思い出す。境の街でそれを買っていったのは海の向こうから来た南蛮人だった。売っていたのは寂しい漁村の老爺で、偶然見つけた宝石を良からぬ者に奪われないよう、偶然居合わせた流石と西園寺の二人が境の港まで守るためについて行ったのだ。尤も、きっと、そういう実習だったのだろうと、振り返れば気付くことができる。そのように大層な宝石を持った人間と出会うことも、それを買おうと言う商人が簡単に現れることも、偶然と言うには出来すぎている。隣に西園寺がいなければ、きっと、当時も気付いていただろう。尤も気付いたところで、何が変わるわけでもない。
「時々、お前さんと似た顔立ちをした商人たちが宝石や珊瑚を運んでくる。その中で、時々、紛い物と見做されたものが捨てられる場所があってな。そこから時折くすねているだけさね」老人が手にした石を振った。肩の周りが僅かに痙攣する「さてどうする。買う? 買わない?」
「……幾らですか?」流石はズボンのポケットから巾着を取り出した。
まだ新しい、波のように重ねられたフリルの袖には不似合いな、草臥れた紐が潮風に揺れる。結び目を解いて口を開けば、何度も縫い直されたのだろう、不規則な縫い目が花開くように模様を変えた。
老人は指を三本たて、それから一瞬の逡巡の後で、薬指を下ろした。
流石は影に置かれた値札へ視線を落とした。黒く滲んだ文字に変化はなく、判別は難しい。少なくとも、しかし、微かに浮かぶ数字の羅列と老人の示した金額が一致しないことは確かだった。
巾着袋に指を入れ、数枚の硬貨を掬い上げる。細かな装飾が施された小さな貨幣は冷たく、おもちゃのように軽い。人の命のように、軽い。銅貨二枚の価値とはどのくらいだろうかと考える。貨幣の価値も、意味も、日本のお金のように自然には換算されない。同じ価値、機能であることを理解しても、馴染まない。異邦であること。外側に立っていること。その意味は、きっと、こういうことなのだろう。
流石は硬貨を転がし、老人の掌に落とした。金属の縁がぶつかり合う、軽い音が響き、すぐに消える。皺だらけの掌に転がった三枚を見つめ、老人は微かに眉を上げた。狼狽したようにも、驚いたようにも見える表情。何かを言うつもりか、口を開き、それからゆっくりと閉じた。硬貨を握り締め、拳ごと懐に抱える。
「選んでいいのか?」流石はしゃがみ込み、言った。
「もちろんだ」
「ありがとう」
黒い山を二秒睨む。
一番大きな殻に隠れた貝殻を掴む。
山を崩さないように器用に引き抜き、凹凸を埋めるように手のひらを置いた。
「これにするよ」
「それでいいのか?」
老人の問いかけに答えるよりも早く、どこからか、はしゃいだ声が聞こえてきた。続けて船の軋む木材の悲鳴が微かに響く。風に乗って運ばれてきたのだから、きっと、今より少しだけ早く発生した音だろう。少しだけ古い音とも言える。二秒か、三秒か。その差を長いと言うべきか、大したことではないと言うべきか、流石には分からなかった。時間とは大抵いつも恣意的なものだ。
「賑やかだな」老人が呟く。
「……大砲を運ぶ船が出たのでしょう」流石は一瞬躊躇い、続けた。「それから最新式の銃と大量の火薬を」
港でいくつかの噂を聞いたことを思い出す。引き換えに運ばれてくるものは真珠か、珊瑚か。幸運など持たずとも、力によって奪えるものは山ほどある。
そこまでを言うことはできず、流石は不自然に口を噤んだ。老人も口を閉ざす。乾燥した唇が二度呼吸を繰り返す。
「そうか」
「それでは」手にした貝を抱え、流石は踵を返した。「ありがとうございました」
「幸運を」
背中に声がかかる。流石は振り返らずに路地を歩き出した。大通りへ抜ける方角へは戻らずに、潮騒へ向かう。足音はない。露店の店主たちは誰も顔をあげず、路地の端へ辿り着く。俄かに明るさを増した視界に目を細める。
遠ざかる帆船の影。
黒く泡立つ波の縁。
手の届かない宙に、かもめが二羽。
*
「海の向こうから来たの?」と子どもが尋ねた。
流石は自然な仕草で片膝をつき、子どもと目を合わせた。それからはっきりと笑みを浮かべる。話しかけられたことを歓迎していると伝わるように。
「そうだよ」
答えながら、この子どもは誰だろうと考えた。シャツの布地は薄く、所々に解れを直した跡が残っている。靴は履いているが、やや大きいのだろう。足首のあたりで紐がきつく結ばれている。爪の先には細かなささくれと土汚れがこびりついているが、気にする様子はなかった。当然のことだと言うように。
「君は?」隣に立っていた西園寺も同じようにしゃがみ込んだ。彼が何かを聞き出そうとする時の、人好きのする笑みで明るく問いかける。「どこから来たの?」
子どもには見えない角度で、流石は軽く西園寺の背を小突いた。それに応えるように西園寺の足が流石の踵を蹴る。
「僕の家、そこなんだ」
子どもが西園寺たちの歩いてきた方向へ指を向けた。
二人は顔を上げ、わざと周囲を見渡した。道の左右には、どこまでも葡萄畑が広がっている。村一つ分にもなるかもしれない広大な土地。しかしこの場所が村ではなく、一人の男によって所有される農地であることを二人は知っていた。
そんな男の子息は決して、大きさの合わない靴を履かないだろう。
「葡萄を作っているんだ。みんなで」
「みんなって?」西園寺が穏やかに尋ねる。
「お兄ちゃん」
「お父さんとお母さんは?」
「二人とも死んじゃったから、もういないんだ」
西園寺の目尻が一瞬鋭さを帯びる。呼吸が僅かに乱れ、音にならない声がこぼれ落ちる。流石が再び、子どもからは見えない角度で西園寺の腕に触れた。
「そっか」
「うん」子どもは何事もなく頷いた。空は青い。葡萄は赤い。それらと同じ、単なる事実を告げるように。「五年前に死んじゃったんだ。その時、僕たちが任されてる畑はここじゃなくてずっと東側にあったんだけど、その辺りが戦場になっちゃったんだって。近くで起きていた戦争で起きた火事がここまで広がったんだ。葡萄も土地も、働いてた人たちもみんな燃えちゃったんだって」
二人は黙ったまま頷いた。眼前の子どもは、見慣れた東洋の子どもとの差異はあれど、七つよりも大きいとは思われない。燃え盛る炎も、人も、覚えてはいないのだろう。現実を認識するには幼かったと言うべきか。
「僕はお兄ちゃんと一緒に西側の畑にいたんだって。ちょうど夏の剪定の時でね、人手が足りなかったんだ。お兄ちゃんが僕をおぶってこっちに手伝いに来ていたから、炎に早く気付いて、逃げられたんだって聞いた」
葡萄畑を風が走り抜ける。無数に、そして複雑に絡みあった蔓と葉が擦れ合い、音を立てる。小波を連想させる響きだった。まだ実りには早いのだろう。どこにも果実の影はない。
ちょうど今の時期だったのかもしれない、と考える。戦をしていたという領主は畑の主人とは別の人物であったはずだ。そのために流石と西園寺が東洋の商人を装って屋敷を訪れていた。主人たる男がカルロスらと親密な関係を築いているのは、きっと、二度と己の畑を燃やされないためだろう。彼に渡した手紙に書かれていたのはそのための条約か。取引か。畑も、葡萄も、人も、失わないために。それらは全て、金を産むための道具という意味で、価値は等しい。
「そっか」西園寺はただ頷き、微笑んだ。学園にいた頃、下級生相手に向けていた、何もかもを包み込み、包み隠す笑みで。「お兄ちゃんと仲良しなんだね」
「うん。この靴もね、お兄ちゃんのお下がりなんだ」
「丈夫そうな、いい靴だ」流石が言った。靴の先についた黒い染みから目を逸らす。
「でももうぼろぼろだから、今度新しいのを作ってくれるんだって。足に合ってないと上手く走れない。上手く走れないと、次にまた戦が起きた時に、すぐに逃げられないからって」
「素敵なお兄さんだな」流石は頷いた。心の底から。
子どもは応えるように何度も頷き、それから僅かな神妙さを目尻に浮かべた。無邪気さの中に一抹の、生き延びるための習性から生じた賢しさが滲む。
「ねえ、旦那様は、また戦争があるかどうか知っていた?」
二人は顔を見合わせた。一瞬の沈黙。
「ごめんね」
「すまない」
同時に言葉が口をついて出る。子どもの真っ直ぐな双眸が瞬きを繰り返す。ポルトガル語で謝罪を意味する言葉を、彼らは一つしか知らない。こぼれ落ちる言葉は、きっと、日本語だったのだろう。
「Desculpe」西園寺が言い直す。耳慣れない、しかし、正しい発音で。
「ごめんな。俺たちはただの商人だから、知らないんだ」流石は立ち上がり、マントの裾を軽く払った。
子どもは黙って首を振る。それから二人に向かいはっきりとした笑顔を向けた。
「別に、いいよ。海の向こうの人に会ったのは初めて。それだけで少し幸運だったから」
そのまま背を向けて畑へ走り出す。一度だけ振り返り「Adeus」と叫ぶ。小鳥のように伸びやかな響きに流石は手を振りかえす。小さな影はあっという間に葡萄の葉に隠れ、見えなくなった。
影が消えるまで手を振り、流石は整えられた道を一歩進んだ。
「光雲?」
西園寺は葡萄の影を見つめたまま、微動だにしない。夏でありながら乾いた風が、彼の柔らかい髪を揺らす。一つに結った姿を最近は見ていない。
「行かないのか」
呼吸を一つ。
何かを断ち切るような鋭さで息を吐く。
「行こうか」
猫を思わせるしなやかさで西園寺は身体の向きを変え、流石の半歩先まで一足に進む。
下ろした髪と帽子は頭巾よりも表情を隠すのに向いているらしいと、流石は考えた。
*
潮騒だけが何も変わらずに響いている。海岸に敷き詰められた砂は粒度が粗く、よく乾いている。微細で、逃れられない水分が常に湿度を蓄えた、冷たい砂とはまるで異なる存在。徒に指で掬い上げればすぐに風にさらわれてしまう。知らない声で鳴きながら彼らの頭上を旋回する海鳥。水平線に沈みながら反射と散逸を繰り返す、朱よりも明るい赤光。西洋式の帆船の後に伸びる波の名残り。不規則に、しかし、弛まずに打ち寄せ続ける波のさざめきだけが現実のように、鼓膜を優しく揺らす。
「光雲」
西園寺は頭上に降りかかる影にまず気付き、それから、人間の声を認識した。
「王子」視線を動かさずに西園寺は言った。かけられた言葉が日本語でなくとも、背後に立つ人物が誰であるかを確かめはしなかっただろう。光雲という、どこか間延びした発音に響く名を、一つ一つ輪郭を明らかにするように、丁寧に呼ぶ者は一人しかいない。日本でも、海の上でも、海を渡った先でも。
「こんな所にいたのか」探したんだぞ、と彼は続ける。言葉に反して怒っている素振りはなかった。
「うん、ちょっとね」
「港は見てこなかったのか?」
「うん」
「俺は少し様子を見てきた」
「どうだった?」
「悪くない。よくある港町で色んな人間が歩いているから紛れ込めば何をするにも動きやすい。ただ細かい路地も多いから、万一の時は、土地勘って点で俺たちが不利だな」
「知らない土地だし、港だから」西園寺は短く答え、微笑んだ。「結局、どこに行っても同じなんだよね」
流石は言葉の代わりに微笑みを返した。光を受けた鏡のような、反射に近い仕草だった。笑みを浮かべたまま、流石は西園寺の隣に腰を下ろした。カルロスから与えられたマントに、薄黄色の微粒子が付着する。汚れてしまう、と西園寺は考えた。自分のマントも、ズボンも、とうに砂に汚れていることに遅れて気付く。元より、些細な汚れを気にするほど細やかな性格はしていないのだから、当たり前だろう。何を見据えて、見逃すのか。残酷なまでに、はっきりと。忍の仕事は常に線を引くことを求め続ける。
「人間が行き交う場所だからな。何もかもが混ざりすぎて、普遍的なものしか見えなくなってしまうんだろう」流石は空を仰ぎながら言った。教師の問いに答える時の、真面目な口調で。「それ以上に踏み込むこともないから、余計にな」
「……分かってるよ」西園寺は抱えていた膝をさらに身体へ引き寄せる。「王子に分かることを、僕が分からないわけがないじゃん」
「そりゃそうだ。お前に分かることだから、俺にも分かる」流石が当然のように頷いた。それから呼吸を一つ。「だが……」
「だが、何?」西園寺が視線だけを僅かに持ち上げた。
「お前が何に怒って、何に喜ぶのかは、いまだによくわからん」
「……分かってよ」
「無茶を言うな」
「本気なんだけど」
「それなら、光雲。お前が言葉でどれだけ伝えられるか、俺がどれだけ受け止められるか」流石が西園寺の前に拳を突き出す。「対決だ」
「…………対決ばか」
ゆっくりと西園寺が額を空へ向けた。押し付けられていたためか、緩く痕を残す前髪が潮風に舞う。明るい茶色が太陽の光を受けて微かに煌めきをこぼす。その眩さから目を逸らすように、西園寺は目を細めた。
「この前、任務の帰りに、子どもにあっただろう?」
「葡萄畑の」流石が頷く。
「この国にも戦で焼け出された子どもがいる。親を失った子どもと、子どもを失った親がいて、何とか食い繋ぐために誰も彼も必死に歩いている。そんなの、当たり前に知っていたのに。それどころか、海の向こうにも戦があって、暴力や権力による争いがあることを知っているからこそ……忍の仕事が求められるって、分かってた。忍者が世界で活躍できるって、つまり、そういう意味だから」
流石は再び頷いた。伝わっていると示すように。西園寺の言葉を遮らないよう、言葉を口にせず。
「それなのに、僕は」西園寺が言葉を切る。息を止め、空を、地平線を睨みつける。遠ざかる船影はもう、鳥の影よりも小さく、不鮮明に掠れていた。「海を渡れば、自由だと思い込んでたんだ」
掌を砂に埋める。薄く透けた爪の先に砂が入り込む。そのまま砂を掴み、握りしめた。
一瞬。
力を込め、
指の骨が弧を描く。
放出。
散逸。
砂は連動しないままに落下し、
音もなく風に消える。
「ここにあるのは、最も大切なには手をかけなくて済むという我儘だけだね」
西園寺は砂のこびりついた掌を空に翳し、流石を振り返った。影に安らぐ猫のように、微笑。
「それが、一番、」流石はゆっくりと言った。「大切だった。だから選んだんだ」
「誰かの大切を蹴飛ばして?」西園寺が鼻を鳴らす。「分かってるよ。友ならば許せず、友でなければ許す。そうやって線を引く自分を、無根拠に、無罰に、許している。僕もそうだし、王子、君だって同じだ」
「そうだな」
「結局この国は僕にとってだけ、幸せな国なのかもしれない」
誰かの不運が誰かの幸運。
即ち、誰かの幸運は誰かの不運となる。
「そう思ったら、ムカついたんだよ」
「ああ、なんだ」流石が瞬きを落とした。「やっぱり、言葉にされないと分からねえな」
「……え、なに? お前の方こそ勝手に一人で納得しないでくれる?」
「俺は、お前が落ち込んでいると思ったんだ」
「海を眺めてたら落ち込んでいるなんて、僕、そんな分かりやすい奴じゃないんだけど」
「あはは、すまん。海を渡って、俺だけしかいなくなって、少し素直になったのかと思ってな」
「自信過剰!」
西園寺の拳が流石の肩にぶつけられる。ほとんど力のこもらない衝撃は、波のように名残もなく、すぐにうち消える。
「だから悪かったって」流石は唇を尖らせた。それからマントの影に手を伸ばす。「ほら、」
ゆっくりと、掌に収まる大きさの貝殻が差し出された。西園寺は一瞬眉を顰め、貝であると認識したのか、今度は首を傾げた。
「何、コレ」
「市場で買ったんだ」
「え、なんで? 食べるの?」
「食べられる貝に見えるか?」
西園寺が黙って首を振る。答えを促すように軽く睨みつけながら。
「市場の裏路地にな……まあ、どこの国にもあの手の裏路地はあるもんだな。表から追い立てられた露店が並んでいたんだ。商売が認められなかったのか、商人の存在が認められなかったのか。その辺は分からんけど、とにかく、その一つで買った。なんでも、輸入品の中からこぼれ落ちた真珠貝らしい」貝を揺らし、流石は真っ直ぐに西園寺を見た。「真珠が入っていたら、幸運だな」
「どう考えても怪しいんだけど」
呆れを隠さずにため息をつく。流石の顔と貝を交互に見やり、再びため息をついた。両手で貝を受け取り、顔の高さに持ち上げる。
「選んだのは王子でしょ。絶対入ってないから」
「開けるまでは分からないだろう。それで、開けるのは光雲だ」
「分かるよ」
「何故言い切れる?」
流石の問いかけには答えず、西園寺は貝を睨み付けた。
「だって、」
指をかけ、ゆっくりと継ぎ目に力を加える。
硬い感触。
鈍い感覚。
貝は微かに軋みながら、
百年閉ざされた扉のように、
光を受け入れる。
「僕が、」
貝の内部が風に晒され、
海底の空気が空に還る。
光を知らない艶やかな表皮。
虹色よりも曖昧な色彩。
「望んでいるから」
空白。
空洞。
空だけが在る。
「どう?」西園寺は首を傾げた。眉間に寄った皺に気が付いてはいないのだろう。口元だけで弧を描く。「これが、現実」
何もない、宝石は愚か本来その内に宿るべき実さえも残されていない殻を掲げる。指の隙間から覗く双眸は流石の反応を僅かも見逃すまいと、瞬きさえも許さない鋭さを浮かべていた。
流石は指を伸ばし、貝殻を包む手に触れた。彼の双眸を真っ直ぐに見つめ返し、言葉を待つ。
「宝石なんてない。あるのは傷つくことに、傷つけることに耐えて生きる人たちだけ……ねえ、王子。その傷は僕たちが置いてきた傷と同じなんだよ。僕たちは海を渡る力と、機会を得る幸運に恵まれたけれど、大抵の人はそうじゃない。葡萄畑の子どもも、路地裏の商人も。耐えることしかできない人たち、耐えることで、せめて、傷に抗う人たちがいるんだ。僕が幸せを感じる傍に。決して交わらず、触れられない。絵の中の背景みたいに」
貝殻を強く握り締め、反して細く息を吐く。微かな風は潮風に紛れ、二人の髪を揺らす。結ったあとのない、真っ直ぐに降ろされた髪が空中で絡み、すぐに解けて落ちていく。
「だからこそ、開かない貝の内側に、夢をみるんじゃないのか?」流石は笑った。「海の向こうに新しい世界が、幸せがあると俺たちが信じたように」
「夢から覚めてしまったら、意味がないじゃないか」
「覚めてないさ」瞳に笑みを浮かべたまま、はっきりと言う。「俺たちはまだ」
「そんなの惰性に過ぎないよ。諦めがつかなくて、縋りついているだけ」
「でも、まだどこかにあると信じている」
「王子はそうだとしても、僕は……」
「信じていなかったのなら、どうして葡萄畑の子どもに本当のことを教えなかった?」
「僕たちは忍務であそこに行ったんだ。子どもとはいえ、知ってることを話せるはずがない」
「だけど、嘘も話さなかった」
「どちらが嘘になるかまだ分からないから。ボスからの手紙を渡して、どうするか決めるのはあの地主だ……ボスは戦になる方を望んでいるだろうけれど。でも、だからこそ、僕たちにできることは黙って去ることだけ」
「つまり、信じているんじゃないか」流石が得意げに笑い声を上げる。嫌味のない、晴れやかな響きに呼応したのか、遥か上空で海鳥が鳴いた。「戦に耐えなくてもいいかもしれない可能性を。閉ざされた貝の内側に、真珠があるかもしれないと信じたみたいに」
「ちょっと、僕は絶対にないって言ったんだけど」西園寺が流石を睨みつける。流石は軽く肩を竦めただけで、笑ったまま西園寺の頬を指さした。
「お前が素直じゃないことは、俺が一番よく知ってる」
「うるさい」
突きつけられた指を掴み、強く握る。共にいる人間が誰なのかを思い出すように。六年もの間隣に立ち続けた仲である以上、相手をよく知っているのはお互い様だ。
「元気になったな」
「励ますのが下手なんだよ、王子は」
「素直な励まされてくれるなら、俺だって素直に励ましてやるさ」
「え、嫌だ。なんか気味悪いし」
「ほぅら、そう言うだろ」
「あーあ、なんだか気が抜けちゃった」鼻先で小さく笑みを溢し、西園寺は立ち上がった。手を使うこともなく。滑らかな、無駄のない動き。暗闇の中であれば、誰にも気付かれないだろう。
「機嫌も直ったか?」
「全然」赤光に照らされ、長い影が遠くで首を振った。「でも、やっぱりここは僕にとって幸運な場所だなとは思うし、それは受け入れるしかないからね」
「俺たちにとって、だ」流石が言い直す。西園寺の肩に寄り添うように並び立った。「お前の幸運が誰かの不運だとしても、少なくとも、お前の幸運のおかげで俺も幸運なんだ」
「ちょっと、人の幸運を勝手に取らないでよね」
「仕方ないだろ。ずっと一緒にいるんだから」
「まあ、それは、そうかもしれないけどさぁ」
「だからこの先も、お前が幸運なら、俺も幸運だ」はっきりと言い切る。
肩が微かに触れ合い、その一瞬に小さな温度が伝う。
西園寺はその熱を追うように踵を反転させ、海に背を向けた。肩が、今度は確かにぶつかり合い、互いの存在を確かめる。
「貝は置いていくのか?」殆ど同じ動きで西園寺と同じ方向へ身体を回転させ、流石が尋ねた。
「うん。僕にとっての現実は王子で十分だから」
「なんだそりゃ」
「分かんなくていいよ」
「それなら今日の対決は俺の勝ちだな」
「えっ、まだ続いてたの」
二人は揃って歩き出す。
徐々に砂浜を侵蝕する潮が一際大きな波を立てる。貝殻は波に攫われ、再び海へと泳ぎ出した。
エピグラフは『寺山修司少女詩集』(寺山修司 著、株式会社KADOKAWA、第18版)より引用しました。