影に真偽のあるものか 灯取りの窓から射し込む風に僅かな雪の香りが混ざっていた。同じ天の雫であっても、湿潤を誘う雨とは異なる、澄んだ香り。薄暗い煙硝蔵の中で、久々知は窓を見上げた。四角に切り取られた光が、鈍く空間に滲んでいる。明け方の頃は辛うじて薄曇りと呼べた空は厚い雲に覆われているのだろうと考え、小さく息を吐く。
「久々知先輩?」
隣に並んでいた後輩が首を傾げた。微かな吐息さえ白い息に変わる蔵の中では、隠そうとしなければ溜息に気付くことは下級生でも容易い。青い頭巾の下の双眸が自分の仕事に手落ちがあったのかと、心配を隠さずに瞬いた。
「ああ、ごめんね」久々知は溜息を誤魔化さず、しかし、微笑んで言った。「雪になりそうだなって」
「雪ですか?」棚の向こうから水色の頭巾も顔を出す。「朝は晴れていましたけど」
「風の感じが、そろそろ降りそうだなって感じなんだ」久々知は再び窓を見上げて言う。「三郎次も、伊助も、今日はもう終わりにしよう」
「え、でも」池田が火薬壺の並んだ棚を横目に口籠る。「掃除は休みに入る前に終わらせないといけないんじゃぁ……」
「心配ないよ。明日はタカ丸さんも来れると言っていたし、そもそも今日は少し早めに終わらせるつもりだったから」
「そうなんですか?」
「土井先生に呼ばれていてね。まあ、それも、雪が降るならどうなるのか分からないけれど」
はたきと箒を二つずつ手に持った二郭が池田の隣に並ぶ。先ほどまで池田と使っていたものを回収してきたのだろう、一瞬だけ池田を睨み、彼は丸く戻した目を久々知へ向けた。
「どうしてずっと蔵の中にいたのに、天気がわかるんですか?」
「アホ、風が雪の降りそうな感じの風だってさっき仰ってただろ」久々知よりも早く池田が口を開く。
「それなら三郎次先輩は、この蔵の中で、雪の降りそうな風が分かるんですか」
「それは分からないけど……そうじゃなくて、僕が言いたいのは、久々知先輩がそう仰ってたのを聞いてなかったのかってことだよ」
「二人とも」言い合いになり始めた二人の肩を軽く叩き、久々知は喉奥で小さく笑った。「喧嘩はダメだろ」
「すみません」少年たちが揃って呟く。
「ここで活動していれば、その内嫌でも分かるようになるよ」
久々知は二人の肩を再び叩き、それから徐に顔を扉へと向けた。一呼吸分の間を開けて、金属の擦れる鈍い音が響く。開かれた扉の隙間から人影が伸びる。
「久々知、ちょうどよかった」風に舞う髪が簾のように肩へ落ちる。丁寧に扉を閉めてから、影は久々知へ近寄った。
「立花先輩」久々知は驚きを見せることなく、軽く頭を下げる。「何かご用ですか」
「お前に言伝けを預かっていてな」
「立花先輩が、僕に?」
立花が煙硝蔵を訪れることは珍しいことではない。焙烙火矢を得意とする以上、火薬を受け取りに訪れる機会は少なくない。火薬委員会からすれば馴染みの来客であり、しかし、彼が委員個人への用件のために煙硝蔵を訪れることは珍しいと言えるだろう。
「土井先生から、今日の実験は中止だと」立花は頬に張り付いた前髪を指で払いながら言う。確かに伝えたと示すように、爪先が地面を叩いた。「委員会も早めに切り上げて雪が降る前に長屋へ戻りなさい、だそうだ」
「ありがとうございます」礼を口にした後で、首を傾げる。「ところで、どうしてそれを立花先輩が?」
「火薬の調合のことで相談に伺っていたんだ。そのまま今度実習で使う火薬をもらいに行くと言ったら、ついでにと頼まれてな」
「ああ、それでしたら、」久々知は背後の棚を振り返り、すぐに正面へ向き直った。立花を見据え、口を閉ざす。
平静を崩さない表情のまま、立花は真っ直ぐに久々知を見つめ返す。
二秒、三秒。
彼らよりも低い位置にある頭が顔を見合わせる。
「三郎」久々知が口を開く。
口を閉ざしたまま立花が俯き、それから、顔を上げる。瞬きに等しい僅かな間。
眼前に立花の姿はなく、代わりに新緑の制服を纏った級友が唇で三日月を浮かべながら立っていた。
「おや、バレていたか」
「立花先輩なら先日いらしたから」久々知が平淡に答える。
「なんだ、それは失敗した」
「わざとだろう」
「まさか」肩を竦め、鉢屋は悪戯気に笑う。
「どうして立花先輩に?」
「ちょっとした悪戯心だよ」鉢屋は両手を広げてみせた。「それから、土井先生からの伝言は本当」
「分かった」久々知は頷く。「ありがとう、三郎」
「どういたしまして」
鉢屋は素早く踵を半回転させ、久々知に背を向けた。用は済んだとばかりに手を上げる。入ってきた時のまま、一人分の隙間だけが空いた扉から外へ出ていく。その背を見送りながら、久々知は淡い光の、茫洋とした眩さに目を細めた。光に溶け込ませるように白い息が滲み、すぐに消散した。
「三郎」
呼び止める声に鉢屋は足を止め、首だけで振り返った。
「どうして?」短く問う。声音は変わらず平淡で、しかし、蔵の中では奇妙なほど判然と響く。
鉢屋は答えることなく、代わりに僅かに目を眇めて見せた。そのまま身を滑らせ、外へと消えていく。久々知もそれ以上に問いかけることなく、扉から視線を外した。
黙ったまま立ちすくんでいた後輩の肩を軽く叩く。時が戻るかのように少年たちは背筋を伸ばし、瞬きを繰り返した。仮死状態から戻る、小動物を思わせる仕草に微笑が浮かぶ。
「さあ、もう今日は終わりにしよう」
手に持ったままの筆をしまい、代わりに煙硝蔵の鍵を取り出す。簡単には開けることができないように細かな細工を施した鉄の鍵を掌で回転させる。掌に収まるものを握る時に大人しくしていられないのは、よくない癖だなと考えた。尤も、忍びにとって大概の癖は良いものとはならない。
「あの、」池田が久々知を見る。二郭が持っていた荷物をいつの間に引き受けたのか、両手には箒を抱えていた。「久々知先輩は鉢屋先輩を見分けられるのですか?」
「え、」久々知は思案するように眉を寄せ、すぐに首を振った。「いや、難しいよ」
「でもさっきは見抜いていましたよね」二郭が池田の隣で首を傾けた。「それに庄左衛門が前に言ってました。尾浜先輩は鉢屋先輩を見分けられるそうなので、五年生の先輩方には見分けられるんじゃないかって」
「雷蔵はともかく勘右衛門や八左ヱ門がどれだけ三郎の変装を見破れるのか、俺は知らないけれど」久々知は声音を変えずに続ける。「少なくとも俺には難しいかな」
「じゃあ、さっきの立花先輩が鉢屋先輩だと気付いたのはどうしてですか?」
「立花先輩は昨日火薬をもらいにいらしていたから。つまり、あれは立花先輩じゃない別の人ってことになるけれど、あんなに上手く変装できる生徒は三郎くらいだからね。それに、三郎も隠す気はなかったみたいだし」
「何でわかるんですか?」二郭が尋ねる。
「ちょっとした癖を隠してなかったからね。三郎が本気で変装していたなら絶対やらないことだから……それに立花先輩が火薬を取りにいらした時、三郎も一緒にいたから。隠す気があったらわざわざ言わないよ」
「それじゃあ久々知先輩より鉢屋先輩の方が上手ってことですか?」唇の先を尖らせながら二郭が言う。級友、それも同室の友人からの自慢に対抗できないことが悔しいのか。子どもらしい仕草がまだ似合う少年は残念そうに「えぇ……」と呟いた。隣で池田が嗜めるように彼の肩を小突き、失礼だぞ、と叱り付ける。再び言い合いの気配を見せ始めた後輩たちを手で制し、久々知は微笑んだ。
「俺に三郎の変装は見破れないよ」
少年たちは顔を見合わせる。久々知はそれ以上何を言うこともなく扉へ近付くと、厚い鉄の扉を片手で押し開ける。煙硝蔵の沈澱した冷たさとは異なる、常に流れゆく北風が頬を撫でる。
「見破るには、いつも遅い」
誰にともなく、久々知は呟いた。
*
鈍く垂れ込めた雲に反して、雪は踊るように宙を舞い降りる。針の先よりも細かな結晶は、月明かりの下でならば星の輝きにも見えただろう。灰色の雲は、しかし、僅かな光をも覆い隠している。暗闇の中に踊る仄かな影は星と呼ぶには寂しく、灰のような静謐さだけが織り重なっていた。
水分を含み、殆ど黒に近い色をした地面が真白に覆われるのも時間の問題だろう。久々知は柔く足跡の残りやすい土の上を器用に進みながら、一瞬だけ宙を見上げ、すぐに視線を戻した。時刻と方角を測るには星を見るのが一番早い。忍を志してからいつの間にか身についた癖、或いは反射のようなものであったが、星が見えなければ意味はない。微小な仕草は首の運動にすらならず、無駄とさえ言えるだろう。
久々知は立ち止まり、ゆっくりと瞬いた。標を求めて星のない宙を見上げるのと同じ、意味のない動き。
肩に暖かな物が被せられる気配。
「三郎」振り返ることなく名前を呼ぶ。
「風邪をひく」鉢屋は久々知の肩にかけた半纏を押さえながら言った。
「断定しなくたっていいだろう」
「そんな薄着では誰だってこう言うだろうさ」
「俺、寒いのは嫌いじゃないんだ」
「好き嫌いの問題じゃあない」
「冷たくて、肌に凍みて、」久々知が雪に指を遊ばせる。暗闇の中に浮かぶ白い手に落ちた薄灰は結晶の鋭角を閃かせ、しかし、瞬く間に溶解する。「どこまでも澄んでいる」
肩に乗せられた手が、重みを増す。雪のように舞い踊り、消えていくのを拒むかのような。正しく、重さとしての力。
沈黙。
静寂。
風の音もなく、ただ、走馬灯のように雲だけが微かに動いている。
「何を」鉢屋が尋ねた。「何を、そこまで研ぎ澄ませたい?」
「すべてを」久々知は躊躇わずに答えた。「忍としての夢も、究極の豆腐も。全て同じこと。叶えるのは自分の他にはいないから」
「この世界には、自分しかいない?」
「自分って?」久々知が問う。
鉢屋は問には答えず、肩から手を離した。雪に濡れた掌を包む。
指と指を組み合わせるように。
重なり合わない骨と節が不自然な影を生む。
「これが自分」
どれほど完成された変装であっても、他者と全く同一になることは不可能。
全く同一であったとしたところで、その影までを重ねることはできない。
その差異こそが、己。
その影こそが、真実。
「偽物も、本物もないだろう。鉢屋三郎には」久々知が言う。「三郎は三郎というだけだ」
「兵助にとって、影は現象に過ぎないから」鉢屋は微笑んだ。同時にわずかに眉が歪む。複雑な表情だった。「だから、お前は私を見抜かない」
「見抜けないだけだ」
「嘘つけ。見破ろうとしないんだ、最初から」
「勘右衛門や八左ヱ門のような観察力とか、雷蔵のような無二の時間とか、そういうものが俺には欠けているから。諦めているだけかも」
「それなら、補えば、見つけてくれるのか?」鉢屋が問う。久々知の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「……三郎は、三郎だから」久々知は自然を逸らし、代わりに指を握り返した。「何を見抜けばいいのか、俺にはそれが分からない」
曲線を描く影が鉢屋の指にかかり、彼がここにいることを伝える。
彼とは、しかし、誰のことか。
「これが私」
繋がれた指を頬に寄せる。面の下から伝う微熱が指先を赤く染める。
「それだけ知っていてくれれば、いいさ」
「うん」久々知は目を伏せ、ゆっくりと頷いた。「それだけは知っている……三郎が、教えてくれるから」
雪が二人の足元に染み込み、影を広げていく。掌の他は氷のように冷え、感覚もない。
繋がれた指だけが、存在している錯覚。
「帰ろう」
「戻ろう」
二人は同時に言った。
声は重なりながら、交ざり合うことなくそれぞれに、凍てついた夜空吸い込まれ消えていく。
雪は、まだ溶けない。
*
「尾浜先輩」正確無比な正座を保ったまま、しかし、唐突に黒木は顔を上げた。
学級委員長委員会室には二人の他に姿はなく、二人は向き合って座っていた。尤もその姿は対照的で、尾浜は肘をついて黒木の手元を覗き込んでいる。一年は組の学級日誌だろう、少年の背筋と同じ歪みのない文字で、その整然さに似合わない愉快な課外活動の記録が綴られている。今日は二人組で裏山からきのこ峠の麓まで行って帰ってくる授業だったらしい。その道中で全員に何があったのかを書き残す几帳面さは、しかし、彼らの教科担当担任の胃痛を引き起こすだけだろう。
「ん?」尾浜は曖昧に微笑みながら顔を上げた。「分かんない字でもあった?」
「いえ、日誌のことではなく、その……」一瞬言い淀み、息を吸った。「鉢屋先輩のことなのですが」
「また三郎にしてやられた?」
「そういではなく、その、尾浜先輩は鉢屋先輩の変装を見破れますよね」
「随分と突然な話だね」
「すみません。ですが、ちょうど思い出してしまって」
「いやいや全然いいんだけどね。三郎も彦四郎もいないんじゃ、雑談くらいしかすることないんだから」
「竹谷先輩も、鉢屋先輩と不破先輩を間違えたところを見たことがないと三治郎から聞いたことがあります。不破先輩は変装されているご本人でいらっしゃるので、間違えようがないですよね」
少年が尾浜の反応を探るように、言葉を止める。尾浜は否定も肯定もせず、ただ目線だけで話の続きを促した。
「それでは、久々知先輩は如何なのでしょうか」
「……どうしてそれが気になったの?」想像はつくけれど、という言葉を飲み込み、尾浜は尋ねた。分かっていることを尋ねてあげるだけの余裕が彼にはあり、それを優しさだと彼は考えていた。
「伊助が言っていたんです。久々知先輩が、鉢屋先輩の変装を見抜くことは難しいと仰ったと。でもその時に久々知先輩は、立花先輩に変装した鉢屋先輩だと見抜いていたそうで……久々知先輩はなぜ自分には見抜けないと仰ったんだろうかと。それを思い出して、急に気になってしまいまして」
「兵助のやつ」尾浜は喉の奥で小さく笑い声をこぼした。「もっと適当に誤魔化せばいいのに」
「誤魔化す?」黒木は筆を置き、首を傾げる。「それでは、久々知先輩もやはり鉢屋先輩の変装を見抜けるのですか」
「逆だよ。俺たちも別に、三郎の変装を見抜けるわけじゃない。俺は三郎の悪戯に何度も手を貸してるからね。何となくアイツが変装して遊ぼうとしているのに気付きやすいってだけ。普通に間違える時もある。八左ヱ門は三郎と雷蔵の身体の動きをそれぞれ個々に認識しているから、二人を間違えることはないけど、雷蔵じゃない時の三郎には気付かないことだってある。雷蔵は誰より三郎の変装を知っているけれど、知っているからこそ、自分ではない誰かに変装している時は見逃しがち」
悔しさも賞賛も感じさせない言葉。雪は冷たいと言うような、当然のことを言っているだけにすぎない抑揚。肩を軽く竦める仕草だけが奇妙な爽やかさを感じさせた。
「それに、大前提として、三郎の変装を見抜けることが即ち優秀というわけじゃない。六年生の先輩方は三郎の変装に騙されることもあるけれど、そんなことに関係なく、とても優秀だろう?」
「そうですね」黒木は頷いた。「ですが、六年生の先輩方と違い、先輩方は仲の良さを強みにしている学年です。だからこそ先輩でさえ騙してしまう変装を見抜くことが、その繋がりの強さになっているのではないかとも考えられます」
「さすが庄ちゃん。冷静ないい分析だね」
「尾浜先輩は竹谷先輩も不破先輩も全てを見抜くのは難しいとはいえ、ある程度は分かるとすれば、久々知先輩も同じなのでしょうか」
「さあ?」両手を顔の前で広げ、尾浜は微笑んだ。向日葵の物真似ではない。
「え」黒木が丸い目をさらに丸くする「ご存知ないのですか」
「見抜けるのかどうか、俺だって知らないんだよね」表情を変えずに尾浜は続ける。「まあ、兵助はそもそも、見抜く気なんてないだろうし」
「見抜く気がない?」黒木が繰り返す。
「そう。目の前にいる人間が三郎だろうと雷蔵だろうと、三郎だと言えば三郎として扱うし、雷蔵だとすれば雷蔵として扱う。例え本当は三郎であっても、誰であっても」
「でも、鉢屋先輩に用があった時に、それが鉢屋先輩でなければ困るのでは?」
「うん、だから必要がある時は目の前にいる人間が三郎かどうか判断しようとはする。でもそれは三郎を見抜こうとしているわけじゃない」
「どういう意味でしょうか」
「兵助にとって、大切なのは用事のある人間かどうかなんだろうね。三郎かどうか、という基準をアイツは持っていない。なんて言ったらいいかなぁ……俺たちは三郎と雷蔵が並んでいるのを見ると、雷蔵と、雷蔵に変装した三郎がいるって思うだろう?」
「はい」
少なくとも忍術学園において、不破の顔が二つ並んでいれば、片方が鉢屋であることは予想に難くない。誰もがそう考えるだろう。
「兵助の場合、二人が並んでいても、三郎と雷蔵がいるとしか思わないらしい。どちらが雷蔵で、どちらが三郎かは考えない」
「変装を意に介さない、ということですか?」
「本人曰く、同じ光だからって、太陽の光と月の光をわざわざ見分けようとする? そこに光がある。それで全てじゃない? だそうだ」
「ですが、太陽と月は別の存在です」
「うん、俺もそう言った。そしたら兵助はなんて答えたと思う?」
「想像もつきません」黒木は首を振った。
「太陽と月の話じゃない、光という現象の話だよって言うんだよ。兵助にとって他人っていうのは多かれ少なかれ現象でしかない。だから三郎が誰に変装していようと三郎という現象でしかないし、反対に三郎という現象として現れなければ、三郎と見做す必要もない」
「えっと、つまり?」
「本物の三郎とか、偽物の三郎とか、兵助には無関係なんだよ」
鉢屋であろうと不破であろうと、二人の他に変装した第三者であろうと。人間が二人並んでいることだけは揺るぎない事実である。同じように、誰の姿を借りていようと素顔でいようと、鉢屋三郎という人間が存在することも久々知は知っている。その認識だけで、彼は鉢屋三郎の定義を完成させられる。どうしてそれ以上に、鉢屋の存在を問おうとするだろうか。
尾浜は指先を回転させ、宙に円を描く。曖昧な理解を他人に伝えるための、言葉を探すための手遊びだった。
「庄左衛門だって、遠くから人を見た時、知り合いと間違えて手を振っちゃうことってあるだろう?」恐らく適切な例ではない。尾浜は直感を無視して言葉を続けた。そも、尾浜自身、何も知りはしないのだ。「兵助にとって変装した三郎を間違えるのってそういう程度の話なんだよ。人を見間違える時にわざわざそれが本物なのか偽物なのかなんて考えないようにね」
「分かったような、分からないような……」黒木が眉を顰める。「とにかく、久々知先輩が鉢屋先輩の変装を気にされてないことは分かりました」
「忍務中に明らかにふざけて変装していたら怒るけどね。真面目だから」
「それはそうでしょう……いえ、待ってください。結局久々知先輩は鉢屋先輩を見抜かないのであって、見抜けないと言い切る理由にはならないのではないでしょうか」
「見抜かないから、見抜けないんだよ」
頬杖を付いていた腕を床につく。重心が僅かに後傾し、頭が自ずと天井を仰ぐ。自然な傾きだ。人は皆、傾いている。尾浜はそう、思い付く。平衡を保ち続けることはできない。傾いているからこそ、しかし、支え合える。触れ合える。
「どういう意味でしょうか」
「三郎って案外構われたがりだから」尾浜は微笑んだ。「見抜こうとされないのは寂しいんだろうね」
人と関わるとは、即ち、そういうことか。
微笑みが次第に笑い声に変わる。
「三郎が先にバラしてしまうんだもの。兵助は見抜くまでもないってこと」