【サンプル】青い森にいる【超忍Fes.2025】【サンプル】青い森にいる【超忍Fes.2025】
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第一章 青年の証言
見慣れた門の前で尾浜は足を止めた。深く息を吸い、吐く。一瞬遅れて、自分の行動を意識された動きだと分析する。安堵。緊張。割合は六対三程度か。最後の一割は喜びだろう。
少なくともまだこの場所を真正面から訪れることができるのは、尾浜が選んだ道の結果であって幸運ではない。それでも尾浜が生きていることは幸運に近い。忍であれ、農民であれ、一国の主であれ、人は誰しもいつか死ぬ。戦や病といった恐怖だけではない。明日にも山道で足を踏み外す可能性をどうして否定できるものか。生きている限り死は常に傍にある。ただ、人間はそれを忘れることができるというだけのこと。或いは、忘れている状態を生と呼ぶのかもしれない。
徒に巡る思考を止め、尾浜は再び息を吸った。
「こんにちは」木戸を叩き、声をかける。
長い月日を物語る、色褪せた門を勝手に潜り抜けることを試みたことは未だ一度もない。塀の向こうに足を踏み入れた瞬間に気付かれてしまうのであれば声をかけて入った方が良いと考えていたし、敢えて礼儀を欠く必要もなかった。
戸を叩いてから数秒の差を開けて、門の向こうで何かがぶつかり合う音が響く。
やがて間の抜けた悲鳴とともに、扉が性急に開かれた。
「あっ、尾浜君」柄だけになった箒を手にした青年が明るい声をあげる。先の悲鳴のことはもう忘れてしまったのか、穏やかな笑顔で彼は懐から筆と紙を差し出した。「こんにちは。入門表にサインをお願いしますね」
「お久しぶりです。小松田さん」尾浜は筆を受け取り、入門表の一番下に自分の名前を書き付ける。自分よりも前に訪れた人間にドクタケ忍者の名前を見つけ彼は苦笑を漏らした。この学園は相変わらずの様子らしい。「お元気そうで何よりです」
「尾浜君も元気そうでよかったです。半年ぶりくらい? 尾浜君は卒業してもよく来てくれていたから、最近来ないなぁって、心配だったんですよ」
「あはは、ありがとうございます。仕事でちょっと遠方まで行っていまして。そうそう、先生方や皆さんにお土産持ってきたので、後でもらってくださいね」
「わぁ、楽しみだなぁ。今日は学園長先生にご用事ですか?」
「ええ。庵にいらっしゃいますか?」
「はい。少し前にヘムヘムと将棋を指していらしたから、まだいると思いますよぉ」間延びした声が明るく響く。
「ありがとうございます」尾浜は丁寧に頭を下げ、つま先を庵の方向へ傾けた。
学園の中には涼やかな風が緩く流れている。尾浜は髪を揺らしながらゆっくりと歩いた。
やがて、午後の授業中なのだろう、校庭の方角から木がぶつかり合う小気味良い音が聞こえてくる。まだ木刀を使っているのならば、一年生か、二年生の授業かもしれない。時間があれば覗きに行こうかと一瞬考え、すぐに止めるべきだと首を振った。
卒業してから四年経っても尚、この学園は何一つ変わらない。正確には建物の位置関係が幾つか変更されていたが、敵対する者たちに情報を握らせないための微小な変化にすぎない。外見ではなく内部、即ち空気や雰囲気といった土台の部分は常に安定している。入学と卒業に伴って人が入れ替わり続けているにも関わらず。否、変わり続けているからこそ、安定しているのかもしれない。自然は不均衡であるために、安定を求めて動き続けるのだと言った同級生の顔を思い出した。
中庭の角を曲がり、水練用の池を横切る。学園の中で唯一、学園長の庵は常に最奥に位置していた。まだここの生徒だった頃は大抵の場合、校庭を突っ切って訪れていた。それが一番近道だと知っていたからだ。今は、僅かな遠慮のために、生徒たちの邪魔にならないように外回りの道を選んでいる。
これが大人になった証か。
尾浜は頬を僅かに緩めながら、反対に厳密な手つきで襟を正した。背筋を伸ばして大きく息を吸い、吐く。ようやく辿り着いた庵の前で足を揃え、礼儀正しく頭を下げた。
「学園長先生。尾浜です」
戸が静かに開き、頭巾をかぶった犬が喜色を隠さずに「ヘム!」と鳴いた。
「おお、よう来たな。入りなさい」
「失礼します」尾浜は再び頭を下げて室内へ上がり込んだ。膝を揃えて座り、背筋を伸ばす。「お変わりないようで何よりです」
「お前も息災なようで何よりじゃのう」老人が喉奥で笑う。「して、頼んでいたことは……」
「こちらに」真面目な表情で懐から折り畳まれた封書を取り出す。「やはりどこも情勢が少しずつ変わってきていますね。まあ、どこも、安全とは言えませんでした。南蛮諸国と手を結びたがる国も増えています。その分、安定はしている、とも言えますが……」
「仕方あるまい。ここ十年以上、完全に安全だった土地などないからのぅ」
「それでも、学園に影響しそうな均衡の揺らぎは見られませんでした」尾浜は安堵を隠さずに言った。「それだけはよかったです」
「なに、心配せんでも揺らいだら揺らいだで、手を打つまでよ」学園長が笑みを湛えたまま頷いた。「そうやって生き残ってきたのがこの学園じゃ」
尾浜は老爺の顔を真っ直ぐに見つめ、深く頭を下げた。
「いやぁそれにしても助かった。周辺諸国の情勢調査はいつも利吉君に頼んどるんじゃが、今回はどうしても都合が悪いから代理を立てさせてもらっても良いかと言われて少々驚いておったのじゃよ。ああ見えて彼は学園に関わる件は最優先で引き受けてくれおるからのう」
「何か学園に影響しそうな忍務を受けられているのかもしれないですね……実は利吉さんとは何度か仕事で組ませていただいていたんですよ。まあ、それだけだったので、代わりを頼まれた時には驚きましたけれど。良い機会でした」
「学園に来るのも久しぶりじゃろ。ゆっくりしていくが良い」
「ええ、お言葉に甘えて。後輩たちにも会っていくつもりです」尾浜は笑顔で答え、膝を立てた。見送りのつもりか、足元まで近付いたヘムヘムの頭を撫でる。
「それが良い」老爺は笑顔のまま湯呑みを手にした。とうに冷めている茶を、音を立てて啜る。それから一息吐いた後で、再び口を開いた。「ところで、お前のキュウユウたちは元気にしておるか」
級友。旧友。どちらだろうかと考える。
頭巾からはみ出した、柔らかな丸い耳から手を離し、尾浜は静かに立ち上がった。扉に手をかけ、振り返る。
「ええ、きっと」
扉は空砲のように間の抜けた音を立てて閉ざされた。
図書室。保健室。職員室。思い出をなぞるようにゆっくりと学園の中を歩き回る。時折出会う生徒たちは皆礼儀正しく「こんにちは」と言いながらすれ違った後で、眼前の青年は一体誰だろうかと囁き合っていた。
校舎を順に巡り、やがて、委員会でよく使っていた空き教室に辿り着いた。中を覗けば今も教室としては空いたままで、しかし、扉の横に学級委員長委員会と書かれた木札がかけられていた。手本のように丁寧な、やや右側に丸く膨らんだ文字は見覚えのあるものだ。学級委員長委員会も変わらないらしい、と尾浜は誰もいない廊下で一人微笑んだ。彼、或いは彼らがついにこの教室を我が物としたことは驚くべきことではない。教室の隠し扉の奥にある物置にはきっと、学園長から分け与えられた菓子が密やかに隠されているのだろう。
微笑を湛えたまま、校舎の中を歩き回る。やがて教師の質問する声と、勢いよく手を上げる子らの声が聞こえてきた。重なった声の中に、知った声は一つもない。
授業の邪魔をしないように、尾浜は校舎から外へ出た。風向きに合わせて漫然と中庭に足を向けた。
授業中のためだろう、中庭に人の姿はなかった。未だ新しい青葉のそよぐ庭は一面に枝葉の影を輝かせ、穏やかな静寂を湛えていた。彼らの在学中には散りばめられていた、罠を知らせる印は当然ない。歩きながら振り返れば、真っ直ぐに残された足跡が見える。薄い砂に刻まれた軌跡は、しかし、すぐに風に流され、何も残さずに散逸した。
その微粒子を掴もうと、手を伸ばす。
掌を宙に掲げ、握り、ゆっくりと開く。
指の影が閃き、尾浜は反射的に瞼を閉ざした。
「尾浜先輩」
横から声をかけられる。尾浜はすぐに目を開き、首だけを傾けた。上げたままの片手を軽く振る。
「やあ」軽やかに、尾浜は言った。
「ご無沙汰しております」頭を下げながら、深緑の制服を纏った少年が言った。その半歩後ろで、同じ色を纏った少年が曖昧に会釈をする。
姿勢が戻ると同時に、前に会った時よりも背が伸びていると気付いた。尤も、もう一人の少年が大きくなったのかどうかは分からなかった。
「久しぶりだね、庄左衛門」尾浜は完全に振り向いてから言った。「それから、伊助も」
「尾浜先輩がいらしてると小松田さんから伺ったんです」黒木は一歩、尾浜に近付いた。かつてのような足音は聞こえなかった。「せっかくなのでご挨拶しないと、と思いまして」
「嬉しいなあ。二人とも、もしかして忍務帰り?」尾浜は二人から目を逸らさずに、小首を傾げた。「制服には土埃が付いているし、足袋の先が泥まみれ」
「さすがは先輩。忍務ではなくて実習ですが、ちょっと山道を走り回るハメになりまして」
「君たちも相変わらずみたいだね。それにしてもちょっと見ない間に、庄左衛門、背が伸びたんじゃないか」
「そうですか? うちの組にはもっと高いやつもいるし、土井先生もいるのでピンと来ないですね」
「いやあ伸びたよ。たぶん、もう、三郎より高いな」
馴染みのある名前を出し、それから彼の姿を想像する。鉢屋三郎という人物を思い浮かべる時は決まってこの順番だった。それは、学園を卒業する前からずっと変わらない。
黒木は鉢屋の名前に一瞬目を見開き、背後を掠め見た。黙ったままの少年が息を詰める。尾浜は表情を変えずに彼らの変化を観察した。観察することができるようになった、という方が正確か。プロの忍であれば自然に行ってしまうこと。卵だったころにはまだ持っていなかった癖。失った素直さを惜しむ自分も観測できたが、それは子どもの晴れ着のように、外側から見える時にだけ慈しめるもの。内側にある時には余計にさえ感じるものだ。
「あの、」黒木が躊躇いがちに口を開いた。二度、唇を開閉した後だった。決意するための、深呼吸だったのかもしれない。「とても失礼な質問をしてもよろしいでしょうか」
「礼儀正しい聞き方だね」尾浜は微笑んで言った。素直な問いかけに対する、素直な感想だった。「聞いていけないことはないよ。答えるかどうかはともかく、聞くかどうかを決めるのは庄左衛門だ」
「それではお聞きします」黒木はそう言い、しかし、口を噤んだ。
後ろから手が伸ばされる。黒木の肩をそっと叩き、小さく頷く。
「あの、僕からでもよろしいですか?」二廓は初めて口を開き、真っ直ぐに尾浜を見据えた。
「もちろん」尾浜は頷く。
二廓が息を吸う。
「久々知先輩が、」
瞬きもせず。一瞬だけ閃いた眼光が鳥を連想させる。
「死んだと聞きました」
一度目が伏せられる。顔も俯いた。呼吸を二度繰り返し、二郭は顔を上げた。丸い黒目にはもう、鳥の影はいない。錯覚だったのかもしれないと思考の一つが言う声を聞く。錯覚よりもむしろ、願望の方が正しいと尾浜は思った。
「殺された、と」二郭は声を震わせずに言う。抑制された声音だった。我慢というより、忍の卵としての矜持に近いだろう。「殺したのは、鉢屋三郎先輩だ、と」
微動だにしない笑みを浮かべたまま、尾浜は真っ直ぐに二郭を見つめる。間合いを測るように。或いは、混乱を内包した後輩にかける声を探し求めるように。
「……それが聞きたくて、会いに来てくれたんだね」
「ご挨拶したかったのも本当です」黒木が静かに言い添える。
彼がまだ少年と呼ばれるべき歳だった頃から変わらない、冷静さに満ちた口調。そこに気遣いの影はない。昔から気は回れども、先輩相手にも過剰に気を遣うことはなかったことを思い出す。
「どちらであっても嬉しいよ。俺たちにとって庄左衛門たちは一番かわいい後輩だったから」
「俺たち」黒木が繰り返す。「そこには、鉢屋先輩も、含まれていますか」
尾浜は微笑んだ。肯定も、否定もせず、一瞬宙へ目を向ける。遅れて、鐘の音。聴き馴染みのある、聴き馴染みのあった、懐かしい振動が鼓膜をゆっくりとさざめかせる。校庭の方角から響き始めた少年たちの声に、尾浜は僅かに目を眇めた。
「風は俺たちが考えるよりもずっと遠くまで、声を運ぶんだ」
黒木と二郭は一度顔を合わせ、それから頷いた。六年間部屋を共にした友人同士には言葉がいらないと信じているのかもしれない。分かりあうための言葉などは、しかし、元から存在しない。言葉は分かり合うためには存在していない。
「それなら、こちらへ」
二郭が懐から鍵を取り出した。一目で鉄製と分かる、鈍く光る黒い鍵。重厚さに反して先端部分に彫られた溝は細かく、複雑な模様を描いている。
「ああ、」反射的に声を漏らし、尾浜は頷いた。「懐かしいね」
「ご存知なんですね」一度鍵をしまい、二郭は言った。
「まあね。兵助が二年間、大事に保管しているのを側で見ていたから」
「この焔硝蔵の鍵は火薬委員長に代々任されますから」
「つまり、今は伊助が委員長ってことだね。兵助はきっと喜んだと思うよ」
二郭の黒目が揺れる。呼吸一つで平静を取り戻し「こちらへ」と言った。
統制の取れた感情。制御された精神。卵としては上出来なほどの能力だろう。かつての先輩をよく見習っていたのか、或いはそれを間近に継いできた者たちから、彼もまた引き継いだのか。尾浜は鼻先で小さく息を吐き、少年の影へ視線を落とした。そこに何が在るとも信じてはいない。それでも、彼ならば見ただろう、という予感があった。
そんな期待をしたかったのかもしれない。
「焔硝蔵の場所、また変わったんだね」尾浜は口先だけで問いかけた。半年前に訪れた時とはまた別の道を辿っていることは、聞かずとも分かっていた。
この学園は時々ひっそりと建物の位置を変えるが、中でも焔硝蔵は他の建物と比較して頻繁に場所を移していた。その中にあるものが重要だと、信じる者が多かったからだ。教師も、生徒も、学園を狙う者も。信じていなかったのは、いつかの火薬委員会委員長代理――後には正しく委員長となった、彼だけだった。蔵に管理されているものは、彼にとってはただの素材にすぎなかったのかもしれない。或いは、数年に一度繰り返される大変な行事に辟易していたのかもしれない。少なくとも尾浜には、場所を変えることは道理のように思えていた。道理を飲み込む能力が、それを問わないだけの鈍さが、あったからだろう。
「場所以外は、何も変わっていません」二廓が言った。
尾浜は微笑んだ。何に対して微笑んだのかは、問われなかった。聞いてもらいたいことは大抵、誰からも聞かれないものだ。
「仕事の手順も、棚の並びも。久々知先輩から教えていただいた通りのままです」
「そっか」尾浜が頷く。久々知が委員長代理になったとき、それまでの仕事のやり方を変えていたことを彼は知っていた。「豆腐パーティも?」
「時々やっていますよ」二廓が小さく吹き出しながら答える。「先輩のように豆腐から作ったりはしませんし、安いものでもありませんからね。今では歓迎会とか、そういう、お祝いの時にしかできませんけれど」
「よかったよ、兵助の豆腐好きが受け継がれたわけじゃなくて」
「豆腐だけじゃありません。甘酒も、歓迎会も、受け継いでいます」
「へえ」尾浜は一瞬、宙を見た。烏だろうか。鳥の影が視界の影を掠め、消える。「タカ丸さんも、三郎次と羽丹羽君も。ずっと、そうしてきたんだね」
二廓は微笑んだ。誇りに満ちた笑みで、一度頷く。「今では、後輩たちからなぜ豆腐なのかと、よく聞かれます。でも、きっと、僕が卒業した後も続くんだと思います。誰も本当の理由を知らなくなっても。ずっと」
「それが人間だから」尾浜は言った。その後で、自分の発した言葉の意味を考える。「何かを継承したい、なくなったものを再現したい。そんなことをしようとするのは、人間くらいだ」
「……尾浜先輩?」黒木が尾浜の顔を覗き込む。
「感傷は人間最大の特徴だ。獣にはそれがない。共感や群れの意識はあっても、感傷で何かを生み出すことはない。だから人間の世界がこんなにも不条理で非理論的で、それ以上に優しさを求めたがる。それらを断ち切れば、もっと自由になれるのに」
「それは、尾浜先輩の言葉ですか?」黒木が尋ねた。
「まさか」尾浜は肩を竦める。「三郎の言葉だよ」
そして久々知も同じことを考えていた。言葉にするのはいつも鉢屋の方だったというだけのこと。そう続けようとして、尾浜は言葉を飲み込んだ。代わりに小さく咳払いを落とす。
黒木と二廓は何も言わなかった。
尾浜が歩いてきた方向から、校舎を反対周りに回る。走り回る少年たちはすれ違うたびに、変わらず礼儀正しく挨拶をしては駆けて行った。誰の顔も分からないが、制服の色と無邪気な笑みだけは変わらず同じで、自ずと頬が緩む。前を歩く二人を除いて、深緑と藍色の影が見えないことだけが残念だった。実習か、或いは裏裏山で鍛錬をしているのだろう。知った顔がどれだけ残っているのかさえ、尾浜は知らなかった。
裏庭を過ぎ、校舎と畑の間を抜ければすぐにその建物は見えた。かつて、即ち尾浜の在学時には生物小屋があった場所だ。半年前に来た時には何があったあだろうか、と考える。数秒の間思い出そうとしたが、すぐに諦めた。思い出は常に印象の強い方が勝つ。
「こちらです」厚い鉄の扉の前で立ち止まり、二廓は再び懐から鍵を取り出した。鈍く金属の噛み合う音。錠が均衡を崩し、不安定なまま戸にぶら下がる。二廓は慣れた手つきで鍵を取り外し、ゆっくりと扉を開いた。「どうぞ」
先に入るように、黒木が目で促す。尾浜は素直に蔵の中へ足を踏み入れた。仄かな明暗の差に、一瞬の眩暈を覚える。これが敵の罠であれば、振り向く間もなく蔵に閉じ込められているだろう。不意に過ぎった妄想に心の中で笑みを溢す。子どもの頃に見る悪夢のように微笑ましい妄想だ。振り返れば、黒木に続いて二廓が蔵の中に入り、丁寧に扉を閉めていた。内側から閂をかけ、それから一つ息を吐く。
「内側に閂なんてあったんだ」尾浜は素直な口調で言った。事実、彼は焔硝蔵の扉が内側から戸を閉められる構造であることを知らなかった。昔からそうであったのかも含めて。
「僕が火薬委員に入った時から時から、ずっとそうですよ」
「へえ、初めて知った」
「ご存知なかったんですか」二廓が驚きを隠さずに言う。それから、黒木を見やる。
「尾浜先輩と久々知先輩が僕らと同じ火薬委員会と学級委員長委員会だったからといって、知っていることが同じなわけじゃないさ」
「俺たちはあんまり委員会の話をしなかったからね」
「どうしてですか」
「アイツは豆腐の話ばかりだったし、」尾浜はそこで言葉を切り、小さく息を吐いた。「俺たちには三郎もいたからね」
「……鉢屋先輩も」黒木が呟く。
深緑の頭巾に覆われた頭が一度向き合い、視線を交わす。何かを確かめるように。或いは、譲り合っているのかもしれない。二つ、三つ。四つめの呼吸を繰り返したところで二人は尾浜に向き直った。姿勢を正す。黒木は尾浜をわずかに見下ろし、二廓はわずかに見上げた。
「久々知先輩が、」躊躇うよりも早く、彼は言った。「鉢屋先輩に殺されたという噂は、本当ですか」
真っ直ぐな視線が尾浜を射抜く。
尾浜は自らを貫く視線を認識すると、すぐに辺りを見渡した。目を逸らすというよりも、辺りを確認するための、意識的な仕草だった。敵と相対するならば敵のことばかり見ていてはいけない。距離が近くであれば、尚更。反射を頼っても、人の身体には限界がある。
「どこでそれを?」尾浜は尋ね返した。表情は変化しない。
「峠の……覚えていらっしゃいますか? キノコヶ原から街へ向かうまでにあった峠の、古い茶屋です」
「ああ、うん。覚えているよ」頷きながら尾浜は右手の指で顎に触れた。「近いね」
「近い?」
「遠くまで噂になっているわけじゃなさそうって意味」
「遠くまで噂になっていたら、意味があるのですか?」
「さあ? でも、三郎も兵助も世の中からすればただの忍にすぎない。そんな彼らが死んだところで……殺し合ったところで、何の噂にもならないさ」
「この噂に意味を持つのは、お二人を知る人物だけ、ということですね」黒木が落ち着いた口調で言う。「つまり、その噂を流したのは……」
「庄左衛門は噂を流した人を知りたいの? それとも、噂の真偽を知りたい?」
黒木は口を閉じ、数秒黙り込む。
「僕は、真実を知りたいです」隣で二廓が言った。はっきりと。意思のある声で。
「真実を知ろうとするのは、一番難しいことだ」尾浜は眉を押し下げながら二廓を見据えた。下級生のわがままを押し留めていた時の、優しさに満ちた笑みが頬に影をさす。「でも、それなら、俺が知っていることは話そう」
両手を広げ、深緑の頭巾に触れる。手を下ろせば簡単に包み込めた頭は、もう肩よりも高い位置にあると実感する。
頭を撫でる。
変わらないのは掌に伝う丸み。
変わったのは腕の角度。
自らの身体を通して、それを知る。
通さなければ、分からない。
見ることも、聞くことも、眼球や鼓膜を通している。全ての意識の入り口は自身の身体だ。
故に、真実は己の中にしか存在し得ない。
故に、他者と共有することは不可能。
それが尾浜の真実であったし、限界であることを、彼は知っていた。
「二人が聞いた噂は、三郎が兵助を殺した、と名指していたわけじゃないだろう?」尾浜は壁際に寄ると、大きな壺が並んだ棚に背を凭せ掛けながら言った。
「ええ、もちろんです」黒木が答える。尾浜が話す姿勢になったことを察したのか、微かに目が細められる。「名前までは聞いていません」
「どんな噂だったのか、まずは、聞いていいかな」
「茶屋の主人の話では、少し離れた山で戦が起きそうだったけれど何も起きずに終わったと。戦のための往来で人が増えれば儲けになるから少し残念だ、とも言っていました。ここまでは茶屋の主人の世間話です」黒木が整然と答える。頭の中で何度も整理されたことが分かる話し方だった。「それから、実は戦場になりそうだった山の山守が、敵の忍に暗殺されて、早々に片が付いてしまったらしい、と茶屋の主人から聞きました。なんでもその山守は代が変わってから一度も争いに敗れたことがなく、山を守り続けていたそうです。だから暗殺なんてされてしまったんだろう。暗殺した忍は変装の達人で、なんでもその山守の恋人に変装して殺したそうだ……なんて、妙な噂も流れているのだと」
一度言葉を切り、深く息を吸う。冷静さを保つための呼吸。
「ひどく曖昧でよく意味の分からない噂でした。でもその話に出てくるのは、もしかして、と思わざるを得ない内容でしたから……」
「庄左衛門、はじめはこの噂のことを誰にも言わなかったんです。ただの噂ですし、真偽も定かじゃない。余計に広めて混乱させてはいけないからって」
「庄左衛門は冷静だね」尾浜は微笑む。「昔から変わらない」
「僕たちももう六年生になりましたから。誰が聞いたとしても同じ判断をしたと思います。むしろ、そうだったから、すぐには学園に噂が広まっていなかったのかもしれません」
「それでも、やっぱり噂は止まらなかった」
「はい。恐らく、誰かが流していたんだと思っています。そのうち伊助も同じ噂を聞いたと分かって、それで、二人で色々と調べてはみたのですが」
二廓が唇を小さく噛み、首を横に振った。「争った城の片方は鉢屋先輩と不破先輩が就職された城で、狙われた山は久々知先輩のご実家が代々管理されている山だということはすぐに分かりました。でも、それ以上は何も分からず……」
尾浜は二人の話を黙って聞きながら二、三度小さく頷いた。話を促すためではない、何かを確かめるような、自己完結した仕草だった。
「なるほど、うん、そういうことね」
「……僕たちは」黒木は深呼吸を一つ挟み、言葉を続けた。「この噂は、誰かが意図的に流したものであると考えています」
「それ、さっきも言っていたね」尾浜が顔を上げて言う。
黒木は表情を変えずに、ただ、黒目を左右へ二度往復させた。説明を考えているのか、或いは、言葉を選んでいるか。やがて、視線を動かしながら口を開く。
「この噂には意味がなさすぎるんです。どの城にとっても戦の情報は大切ですが、これは限りなく規模の小さな争い。利益も少なく、噂に動かされるような城はない。同じように、峠の茶屋に噂が広まるほど、その土地に住む人たちにも大きな利害はありません。どこかの山守とどこかの忍が殺し合ったことに、それこそ大きな意味はないんです」
先ほどの尾浜の言葉をなぞるように黒木は言った。整然とした口調に変化はない。それが彼にとって、冷静さを保つための型なのかもしれない。生来の性質としての落ち着きだけではなく、忍の技量として身に付けた知性だろう。
「だから、この噂は、」
言い淀む黒木の肩に二廓が手を添える。
「僕たちに聞かせるために、広められたのではないかと考えました」二廓が黒木の言葉を引き継いで言う。「僕たちというより忍術学園に関係する人。より具体的に言えば、この噂を聞いて久々知先輩と鉢屋先輩を連想できる人たちに」
「何故そんなことをするのかな」
「久々知先輩が亡くなったことを伝えるために」
「何故?」尾浜が疑問符を重ねる。「何のために?」
「あくまで僕の想像ですが、久々知先輩が亡くなったという事実が必要だったのではないかと思います。久々知先輩という個人を知る人たちに向けて、あの人は亡くなったのだと思わせる目的があった」
「ふうん」
「ふうん、とは?」黒木が首を傾ける。
「何でもないよ。ただの相槌」尾浜は胸の前で腕を組んだ。「その言い方だと、つまり、伊助も庄左衛門も兵助は死んでいないと考えているんだね」
「僕の知っている先輩方は仲がよろしくて……例えプロになったとしても、忍務のためにお互いを殺し合うことを許容するような関係には見えませんでした」と黒木。
「忍務のためでなければ?」尾浜は尋ねた。
「え?」二廓が瞬きを落とす。
「二人の推測はよくわかった。そうだね、手に入った情報と君たちの知る俺たちの関係性だけで出した仮説としては、よく道理を導けていると思うよ」
尾浜は棚に預けていた背を離し、真っ直ぐに立った。
火の持ち込みが禁じられた空間で、唯一開けられた彩光窓を見上げる。天井の高い位置で四角く切り取られた空白は、薄暗さに慣れた目には眩く、両目を細める。瞼の裏に残る影が、地を這う虫のような滑らかさで蠢いた。
「やはり、尾浜先輩はこの件についてご存知なのですね」
「まあね」尾浜は窓を見上げたまま答えた。「その噂、流したのは俺だから」
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