【五忍晴れ‼︎伍】白木蓮の咲く部屋で【展示】 午前十時に待ち合わせ。
一番新しいメッセージはその一言で、どこで、とも書かれてはいない。一言だけの約束を眺めながら、鉢屋は小さな駅の壁に凭れていた。人が改札が溢れ出すたびに顔を上げ、数秒の間人波の中を視線が彷徨い、再び俯いて画面を見つめる。スクロールされることも、更新されることもない。時々端末が振動し、誰かからのメッセージを報せたが、彼はそれらを全く無視していた。いかなる連絡であったとしても重要なことではない。絶対ではなく相対として。今、待ち合わせをしているという事実以上に優先される物事が、鉢屋にはなかった。
再び三つだけ並んだ改札口から人が溢れ出す。平日の昼前であっても、想像以上の人間が常にどこかで活動している。鉢屋は再び顔を上げ、それから、瞬きを一つ落とした。メッセージアプリを閉じ、端末をポケットへしまう。それらの仕草が完了すると同時に、彼のつま先を影が覆った。
「おはよう」影が言う。
「おはよう」鉢屋は几帳面に答え、正面に立つ影を見る。ほとんど同じ高さにある視線が交わり、少しの安堵を誘う。「兵助」
「三郎、もしかして寝起き?」
「深夜三時まで仕事をして、それから少し寝た」
「ごめん、言ってくれればよかったのに」
「一方的に待ち合わせを送りつけてきた奴がよく言う」
「だって、着いてきたいって言ったの、三郎だろう」久々知が口の先を尖らせる。子どものような幼さの残る仕草は、しかし、奇妙によく似合っていた。「それに、こうして伝わったんだから」
「お前は妙なところ面倒くさがる」芝居がかった仕草で、鉢屋は溜息を吐いてみせる。「まあ、確かに一理あるのだけれど」
「だろう? それに、三郎だって返信くれなかったじゃないか」
「返信する必要がないだけだ」
「必ず来てくれるから?」
「私がいなければ、お前は足を止めずに駅を出ただろうから」
鉢屋は久々知の双眸を覗き込んだ。澄んだ黒の奥が一瞬光を放つ。錯覚。もしくは周囲に漂う陽光を取り込む瞬間の現象。瞬きをすればもう見えなくなっている。
「だって、いないってことは、来ないってことだから」久々知が平淡に言う。「用件も、来るか来ないかもわざわざ言う必要はないよ」
「私たちの間では、」鉢屋も表情を変えずに言った。「誰も彼もがみな思考を想像し合えるわけじゃない」
「俺からすれば三郎が一番分からないよ」
「だからこそ、一番分かる」
「そろそろ行こう」久々知は前触れもなく言った。その後で視線を手首に落とした。デジタルデバイスではない、古典的な金属質が駅の蛍光灯を反射し、鈍く光を散乱させる。
シルバの針は、ちょうど午前十時を指していた。
「そうだな」どこへ行くのか、鉢屋は尋ねなかった。
人の減った駅を光の方へ歩いて行く。二人の歩幅はほとんど同じ。並んで歩くたびに、鉢屋はいつもそのことに驚かされた。なぜ同じなのだろう。いつの間に、同じになったのだろう。疑問が思考の片隅に浮上する。隣を歩く青年の顔を見やれば、彼も同じことを考えているのか。規則正しい歩調を数える瞳が見えた。
足と思考が切り離されている。
彼の身体を制御しているのは誰だろうか。
己の身体を、操っているのは。
問いが巡る。
足は進む。
駅の正面にある小さな横断歩道を二人は渡った。途中から青が点滅を始めたが、どちらも走り出すことはなかった。そのまま正面に待ち構える、古ぼけた梁が剥き出しになったままのアーケード街の入り口を潜る。白褐色の天井からは薄い日差しと、祭りの開催を告げる色褪せた旗が揺れていた。側に記された日付は一昨年のものだった。
七割方シャッタの閉まった路を歩いて行く。数年前に閉店したことを告げるコピー用紙を貼り付けた店が半分、残りの半分には居酒屋の看板が掲げられていた。夕方になれば、この内の数店には明かりが灯るのかもしれない。いずれにせよ、生きているのか死んでいるのか分からない猫のような商店街だった。
薄陰に包まれたアーケードの下で、場違いなほど白く明るい保険屋の前を過ぎ、久々知は足を止めた。隣に並んだ保険屋ほどではないが、アーケード街には不釣り合いな小綺麗な光が内側から道を照らしている。外壁を覆うガラスには一面にポスタが貼られ、整えられた店構えの中でそこだけが奇妙に浮き上がっていた。ポスタを目立たせたい、というデザインならば的を射ているのかもしれない。
久々知は一瞬だけ鉢屋の方を見た。それから、不動産と描かれた扉に手をかけ、押し開ける。見かけに反しクラシカルなベルが低く鳴り響く。店のカウンタに座っていた店員が顔を上げ、それから丁寧に頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
「すみません、この前お電話した、久々知ですが」
「ああ、はい。久々知様ですね。お待ちしておりました」
カウンタの前に置かれた椅子を手で示し、店員は微笑んだ。座るように、というジェスチャだろう。
久々知は大人しくカウンタまで歩き、静かに椅子へ腰を下ろした。手から離れた扉が、背後でゆっくりと閉まる音がする。どのような仕組みか、ベルは鳴らなかった。見かけだけをレトロに繕った、機械仕掛けなのかもしれない。久々知が椅子の上で鉢屋を振り返る。鉢屋は久々知の背後に立ち、しかし、隣の椅子には座らなかった。
「本日は内見のご予約でよろしかったでしょうか」店員が言う。言葉の裏でキーボードを叩く軽妙が響いている。カウンタの下、客の目に見えない場所にコンピュータが置かれているのだろう。「お部屋の方は、変更ございませんでしょうか」
「はい」久々知は頷いた。
「かしこまりました。それでは案内の者が参りますので、このまま少々お待ちください」
店員が頭を下げ、席を立つ。同時に部屋の奥からコピー機が紙を吐き出す音が聞こえ、店員同士だろう、何かを囁き合う笑い声が聞こえた。
やがて、奥からスーツの人間が現れる。胸の位置には不動産屋の名前が記されたプラスティックのバッチが、覇気なく取り付けられていた。案内の担当者なのだろう、片手にはバインダとファイルを重ねて持ち、笑顔で二人頭を下げた。
「本日ご案内を担当いたします。よろしくお願いします」
久々知は立ち上がり、つられるように頭を下げま。鉢屋は佇んだまま。久々知の座る椅子の背に手を預けていた。
「お部屋の方、少々早くても問題ないとのことなのでこのまま向かおうと思いますが、予め聞いておきたいことなどございますか?」
「いえ、特には」
「承知いたしました。それではご案内させていただきますね」
スーツの人間が先頭に立ち、ドアを開ける。二人は開けられたドアをくぐり、それから、担当者がドアを閉めるのを待った。五秒ほどかけて歩き出す。担当者が先頭に立ち、その後ろに久々知と鉢屋が並ぶ。鉢屋が半歩後ろに下がったことを久々知は視線だけで確かめた。二人とも、何も話そうとはしなかった。
アーケード街を抜け、駅前から住宅地を進む。公園や一軒家の並ぶエリアから外れ、古いアパートの続く道に出た。急勾配な坂道に沿って建てられているせいだろう、すべてが斜めに傾き、同じ高さの建物はどこにもなかった。
坂道の途中にある建物の前で担当者が足を止めた。不動産屋からおよそ十五分かかっていた。二人だけで歩いたならば、きっと十分程度で済むだろう。
アパートは、周囲の建物と比較して、小綺麗な外観をしていた。コンクリートが顕になったデザインはむしろ、木造の家々が並ぶ中では浮いて見える。アルミの金属質を隠さないインタホンと自動ドアもまた、異質さを助長していた。
担当者が首からかけた鍵の束から一つを取り出し、インタホンの横にある鍵穴に差し込む。鍵にはエントランスと書かれた黄色のラベルが貼られていた。自動ドアの開く機械音が微かに響く。現代において珍しくない、むしろレトロとも言うべき設備。この程度ではもうセキュリティとも呼べないだろうシステムを前に担当者は営業用の笑みで二人を振り返った。
「ここはちょうど去年、老朽化に伴う建て替えを行っているんです。このようにオートロックも導入されておりますので、セキュリティ的なところはご安心して住んでいただけます」
「へえ、そうですか」久々知が頷く。意味のない言葉。相槌としての機能しか持たない仕草。他者のために無駄な挙動をすることもあることに、しかし、鉢屋は微かに目を眇めた。
彼の中では珍しい、といえる精神。機嫌が良いのか。少なくとも、無意味さを許せる状態なのだろう。
アパートの中に入り、エレベータを待つ。電球で表現された数字は、三階から籠が降りて来ていることを示す。数秒だけの間を埋める沈黙がやけに輪郭を明瞭にさせるのは何故だろうか、と鉢屋の一部が考える。視線だけで久々知を見やれば、彼は首からかけたカメラの存在を確かめるように触れていた。久々知の荷物がカメラだけであることに鉢屋は気付く。他はすべてポケットにしまっているか、端から持っていないのだろう。彼にとって必要なのは、それだけだということを鉢屋は知っていた。
「兵助、」鉢屋が声をかける。同時にエレベータの到着を告げる軽妙な電子音が響き、言葉の先を奪う。
扉が開き、中から男女に見える二人組が降りてくる。彼らは三人の姿を見て会話を止める。扉の前を開けたことに対する礼儀か、頭を下げながら早足で隣をすり抜けていった。
「そういえば牛乳もなかったけど」「え、嘘。帰りに買うものリストに入れといて」「おっけー」
日常じみた会話を背に、彼らはエレベータに乗り込む。扉の方を向いた瞬間に、先ほどの二人組が手を繋ぎながらオートロックを名乗るドアを出ていくのが見えた。エレベータの扉が閉まると同時に、担当者が三階のボタンを押す。狭い空間では誰も口を開かず、ワイヤが巻き上げられる音だけが響く。入り口と同じ、レトロな装備。しかし、エレベータの機能は昔から変わらない。ただ機械の性能が上がり、速度と高度の限界が伸び続けているだけのこと。扉と鍵の機能も同じ。何もかも、太古の昔に生み出された一を百に、千、引き延ばしている。それが人の知恵だと、人間性だと、信じている。
エレベータが再び小気味良い電子音と共に停止する。一瞬の浮遊感に、内臓が存在を主張する。身体があることを確認させるシステムなのかもしれない。
静かな廊下に足音が響く。先を歩く担当者の革靴は奇妙に反響し、二人の足音をかき消していた。
「三郎」不意に兵助が鉢屋を振り返った。「さっき、何か言いかけてた」
「ああ、」鉢屋は思い出す。それから久々知に向かい、手を差し出した。「カメラ」
「カメラ?」
「預かっておく」
「え、なんで」
「それを持っている時、お前の目は、何を撮るかしか見ていないから」
「そんなことないと思うけど」
「頭の方はな。でも、視線は違う。いつも、たった一瞬の角度を探しているだろう」
「……癖なのかも」久々知は小さく息を吐き、カメラのストラップを首から外した。そのまま鉢屋の首にかける。金の折り紙を貼ったメダルをかけるように。軽さと恭しさの混ざった、複雑な微笑を浮かべる。「よろしくね」
「代わりにちゃんと部屋を見ろよ」
「分かってるよ」
廊下の突き当たりで担当者の足音が止まる。入り口で出した鍵束から、今度は緑のラベルに三〇五と書かれた鍵を見つけ出し、ドアを開けた。中へ向けて手を差し示し、二人に入るよう促す。全てのドアを開けておくことが仕事なのかもしれない。
久々知が先に入り、続けて鉢屋も足を踏み入れた。廊下の先にある扉を開ければ、何もない空間が広がっていた。清掃されたばかりなのか、ワックスの香りだけが薄く漂っている。南向きの窓から差し込む光だけが仄かに明るい。
「こちらがリビングになります」担当者が背後で言った。「そちらの奥に、部屋が二つあります。元々は一つだったのですが、改装に合わせて小さめのお部屋として一つに分けられました」
久々知は話を聞いているのか分からない曖昧な言葉だけを返し、キッチンに向かう。代わりのように、鉢屋が「そうですか」と言った。後は好きに見させた方がいいと判断したのだろう、担当者は微笑みを崩さず、しかしそれ以上に説明を重ねようとはしなかった。
鉢屋はリビングの壁際に備え付けられたクロゼットを開け、中を除いた。何も置かれていない今は広く感じるが、荷物を運び入れることを思えばさほど余裕はない。久々知を振り返れば、彼はキッチンに立って何かを確かめるように辺りを見渡していた。
やがて気が済んだのか、奥の部屋の扉を一度ずつ開け、中を確認してからすぐに閉めた。リビングと称された部屋の中央に戻り、光の方を茫と見やる。人も虫も、明るい方へ引きずられる生き物だ。
「兵助、」鉢屋はクロゼットを閉め、久々知の後ろに立った。引き留めるように肩へ触れる。「この部屋は窓が大きすぎる」
何を止めようと思ったのか。頭の中で声がする。窓が大きいことでどんな意味があるのかは思い出せなかった。きっと。思い出すために必要な記憶自体、存在しないのだろう。
「三郎は、反対?」
「荷物の置き場も多くはない」
「二部屋もあるし、俺の物はほとんどない。三郎が余計なものを持ち込まなければ、十分だと思うけれど」久々知が言う。視線は窓の方を向けたまま、首を小さく傾けた。
つられるように、鉢屋も窓へ目を向ける。
射し込んだ陽光が網膜を焼く。
目眩。
反射のように双眸を閉ざし、
瞼の裏に、人形を見る。
人間も人形も、シルエットは変わらない。
同じ形。
同じ構造。
違うのは、何を見ているのか。
何かを見ているのが人間。
何も見ていないのが人形。
鉢屋はゆっくりと瞼を持ち上げる。光に慣れた神経は、もう目眩を引き起こすことはなかった。或いは、今の自分は人形なのかもしれない、と考える。
「あのぉ」二人から五歩ほど離れた場所で、バインダを覗き込んだ担当者が戸惑いを隠さない口調で言った。「このお部屋の内見をご希望されたのは久々知様で、お一人で住まわれるお部屋を探されているということで、お間違いなかったですよね」
久々知は担当者へ視線を向けてから静かに頷いた。「はい、あっています」
「その……」担当者は鉢屋の方へ一度目を向け、再び久々知へ顔を向ける。話す時は人の顔を見て話すことを義務だと思っているのかもしれない。「お連れ様もご一緒に住まわれる、ということはお考えでしょうか」
久々知も鉢屋へ視線を向け、再び首を傾げた。問いの意味がわからない、という仕草。否、意味は分かっているのだろう。それを敢えて聞く必要を見出せないことを示すための表現だった。
「この部屋は一人から二人用の部屋に見えますが」鉢屋は言った。部屋の奥に見える扉を指で示す。その奥を覗いたのは久々知だけだったが、間取りを考えれば大凡の空間は想像がついた。久々知もきっと、同じ。それでも確認をしたのは、内見という名目と、鉢屋の言葉のためだろう。「例え私が一緒だとして、何か問題が?」
「その、確かにこの部屋はお一人様からお二人様でのお住まいを想定してお勧めしている物件なのですが、同棲されるカップルを除き、ルームシェアは禁止なんです。大家様からのご条件となりまして、加えて当社もルームシェア物件は取り合っておりませんので……」担当者が眉を下げる。申し訳なさを感じさせるための演技としては分かりやすいほどの仕草だった。
エレベータですれ違った二人組を思い出す。ルームシェアが禁止されているのであれば、あの二人の存在はどうなるのか。ただ偶然、どちらかが長い間泊まっている状態なのか。同棲であることの証を、どう証明するのか。思考の一部がわざとらしい疑問を投げては自嘲を溢す。きっと、己の中で一番大人びた思考の一つだ。大人になるほど、分かりきったことに対して無知を装いたがる。知らないことで守られる何かがあると、信じたがってしまう。子どもの方がそういった自己防衛が無駄だということを知っている。むしろ、それを忘れた時が大人になった時と言えるのかもしれない。
「男女なら同棲で、同性同士ならルームシェアということですか」鉢屋は平淡に尋ねた。「ああ、お答えいただかなくて結構です。何れにせよ、この部屋に住むのは兵助一人ですから。ただ職業柄、彼は部屋を長く空けることがあるので、その間に私が留守の番をすることがあるというだけです。まあ、アイツは自分の暮らす部屋に頓着しなさすぎるので。最低限の確認をしについてきた、というのもありますが」
「失礼いたしました。それなら、ええ、問題はないかと」担当者が言う。眉を押し下げたまま、しかし、口元に安堵の表情を浮かべた。鉢屋の言葉に潜む棘に気付いていないのか。防衛能力という意味では、この人間の方が大人であるらしい。「良かったです。その、お一人と伺っていたので手違いかと思いまして……」
久々知は担当者の話を聞く必要がないと判断し、再び窓を見つめていた。光に照らされた埃が大気中に散乱し、微小なプリズムを拡散する。
「あれ、」久々知はゆっくりと窓際に近づく。ガラス戸の鍵を開け、窓を開けた。外界と接続された窓から未だ冷たい風が静かに流れ込む。「どうして」
久々知は靴下のままベランダへ降りた。窓にベランダが付いていることに、鉢屋は初めて気がついた。窓から溢れ出す光が眩すぎたせいかもしれない。
ベランダの端に木の枝が伸びているのが見える。
光を求めるように。
侵蝕するように。
細くも太くもない。
乾いた枝の端々には白い大きな蕾が幾つも膨らんでいた。
「白木蓮」
久々知は僅かに腕を伸ばし、蕾に触れた。
白い指先が、皺一つない白皙の表面に溶け込み、輪郭を滲ませる。
「ああ、すみません」担当者は微笑みを僅かに歪めながら窓際に歩き寄った。ベランダに出ることはなく、ガラス越しに外を見やる。「隣の敷地の木なんです。こちらが改装する前からずっとありまして……どうにかしてくれと頼んでいるんですが、中々対応してもらえず。このお部屋が角部屋の割にお値段が少し相場や低くなっているのは、こういった事情もありますので……」
朝露の名残が指先を伝う。
そのまま骨に沿って流れ、
しかし地面に落下する前に、肌に吸い込まれて消失する。
その最期の光を見つめ、
不意に首元の錘を思い出す。
レンズを覗き、
右手の人差し指がシャッタを押す。
そうすべきだと考えることはなかった。
身体の制御を失ったのか。
或いは、まだ知らない自分の思考があるのだろう。
「三郎?」久々知が振り返る。
人差し指が、再びシャッタを押す。
カメラの奥で小さなノイズが響く。
久々知は蕾から指を離し、ベランダから部屋へ戻る。鉢屋の前に立ち、真面目な表情のまま言った。
「撮った?」
「シャッタを押せば撮れるのは、どのカメラでも同じなのか」
「俺、人は撮らないんだけど」久々知は表情を変えずに言う。
「撮ったのは私」鉢屋は微笑みながら言葉を返す。「嫌だったなら、消してくれ」
カメラのストラップを首から外し、久々知に返す。重みから開放された首を回せば、骨と骨の隙間が弾ける小気味良い音が響く。久々知はカメラを受け取り、首に戻すことなく、慣れた手つきで幾つかボタンを押していく。モニタの光が変化するのを横から眺め、このカメラがデジタルカメラであったことに、鉢屋は初めて気がついた。久々知の持っているカメラの種類を今までに気にしたことがなかったことにも。
しかし、明日には忘れてしまうだろう、と確信する。
デジタルであれ、フィルムであれ。久々知にとって道具が重要なのではないのと同じように。
重要なのは、誰が撮るか。
何を撮るか。
物質の問題ではない。
何を撮ろうとしたのかという、
意識。
思考。
「どうして?」久々知が尋ねた。
「何が?」鉢屋が疑問符を返す。
「どうして、撮った?」久々知は再び尋ねる。口元には微かな笑みが浮かんでいる。「何を、撮りたかった?」
「兵助」撮りたかったものはたった一つ。迷いなく答え、鉢屋は言葉を続けた。「兵助が、きれいだったから」
満開になった白い花の下に立つ、シルエットを想像する。白い翼を纏うように、花の下に立つ姿を。
写したかったのは、その幻想。
写したのは、その予兆。
「白木蓮の花はすぐに散ってしまうから」微笑を浮かべたまま、久々知は言った。「引っ越してきた頃には、多分、もうないよ」
「それなら、来年。この部屋でまた見ればいい」
「そうだね」久々知が頷く。それからカメラを首にかけ、ファインダを覗き込んだ。
レンズに囲われた、狭く鋭い視界。
人の目と同じ。見られるものには常に限りがある。
シャッタ音が響く。
鉢屋は反射的に瞬きを落とし、遅れて、無機質な電子音がカメラから響いたことに気が付いた。
「人は撮らないんじゃなかったのか」
「仕事ではね」久々知が悪戯気に笑う。喉の奥から溢れる笑みは軽やかで、まだ早い春の風に流され、すぐに消散する。「これはプライベート」
「詭弁だな」
「お返し、と言ったほうがよかった?」
「どうして撮った?」鉢屋が尋ねる。久々知に問いかけられた言葉をそのまま返す。人に問うことは、大抵、己が問われたいことだ。「何を、撮りたかった?」
「三郎がここにいる、ということ」久々知は迷いなく答える。「次の春には、この花の下で撮らせてね」
「……私には、きっと、似合わない」微笑みながら、鉢屋は首を振った。「だから……」
「いいよ」
久々知が鉢屋の言葉を先回りし、再び笑みを溢した。
「お前ほどうまくは撮れないかもしれないけれど」
「いいよ」久々知が繰り返す。「三郎がそうしたいなら」
久々知の指がカメラに触れる。そこに大切なものがあると示すように。そっと、包み込むように。鉢屋は久々知に一歩近づき、久々知の手に己の掌を重ねた。
皮膚の微かな湿度。
骨の確かな硬度。
そして、
仄かに暖かい、
生きていることで生まれる温度が、
ゆっくりと伝う。
「だから、来年の春はこの部屋に帰ってきてほしい」
久々知はカメラを持って世界中を渡り歩く。日本へ帰ってくる日は決まっていない。いる時はいる。いない時はいない。それが久々知兵助の在り方であったし、それを誰にも制御することはできない。意思のままに飛び回る自由こそが久々知兵助そのものに結びついている。それはとうに固く結ばれ、もう、解くことはできない。
解く必要があると考えたことさえ、鉢屋にはなかった。彼がいない時の部屋を、そこに立ち入るための鍵を渡された時から。ずっと。
今、この瞬間まで。
「いいよ」久々知は軽く頷いた。
鉢屋は瞬きを二度繰り返し、それから目を見開く。
「いいのか?」
「三郎が言ったんだろう」
「私の言葉は私の意思だから」
「俺の言葉も俺の意思だよ」久々知は微笑む。「だから、約束はしないけれど」
同じ意思を持ち続けていれば。それが希望ではないことを、二人は知っていた。言葉にするまでもなく。理解できる。想像できる。
「そうだな」鉢屋はそっと窓を見上げた。もう眩くはないガラス戸の向こうで、蕾が風に揺れている。その微小な運動の残存を追う。
蕾の開く瞬間を連想し、
来年の春を空想する。
白い花で満ちた、光の部屋を。