その名は知らない ふしあわせという名の猫がいる
だから私はいつも
ひとりぼっちじゃない
/「ふしあわせという名の猫」
頭を風が撫でた。
かぶっていた帽子が拐われ、抑えられていた明るい髪が風に舞い上がる。細い髪の表面に跳ね返る光が波のようにうねり、視界を眩ませる。
西園寺は前髪ごと顔に掛かった髪をかき揚げた。晒された額を汐風が撫でて行く。海から運ばれた光の鮮烈さに彼は目を細め、それから風の行先を見た。空ではなく、地を。風もいつかは翔ける力を失くし、やがて空気中に滞留し、沈んでいく。そして新しい風に生まれる変わるまで空の底で時を待つ。風は常に死と生を繰り返す。
そんなものに運ばれて、海を渡ったのか、と彼は不意に自嘲を溢した。南蛮で作られた最新式の船であれど、沈むか否かは常に五分と五分。死と生のように。死に傾かなかったのは、つまるところ、ただの幸運なのだろう。
ゆっくりと歩きながら彼は髪から手を離した。雑に払われた前髪の先がもつれあい、緩く流れる風に梳かされていく。やがて建物の影に隠れ、風が遮られた。髪が肩から背に溢れ、沈黙する。彼はかがみ込み、影に潜んだ黒い帽子を拾い上げた。片手で軽く埃を払う。地面に触れていた部分に付着した微かな砂が音もなく地面へ落下した。
背筋を伸ばし、帽子をかぶる。頭に重みが戻る。初めてこの帽子を被った時には、不安定で身動きに制約を与えるだけの機能にしか思えなかったが、今はこの重さにも馴染んでいることを実感する。頭巾の結び目の硬さに比べれば、帽子の方が少しだけ自由だと、気付いたからかもしれない。
片手で帽子を抑えながら、彼は顔を上げた。
建物の陰に蠢く影が一つ。
力無く地を這いながら、
陰から抜け出すこともできず。
もがいている塊。
その度に微小な毛が剥がれ落ち、
風に流されて散逸する。
西園寺は瞬きを二回繰り返した。そして、それが生命であることを理解する。彼は足音を立てずに影へ近寄り、その塊を見た。掌に簡単に収まるであろう小さな薄茶色の毛玉。三角の耳だけが、何かに抗うように空へ向かい伸びている。何かとは何だろうか、と西園寺は一瞬考えた。
死か。
或いは、苦痛だろうか。
苦痛であれば、逃れる術は手の届くところにある。彼は布を幾重にも蓄えた袖口に指を伸ばし、苦しみの無い場所へ送るための刃を指にかける。
気配を感じ取ったのか、毛玉が顔を上げた。
月のように平淡な双眸。
光と影が収縮し、
一瞬、小波のように揺蕩う。
二つの月は生命の危機を訴えることも、助けを乞うこともなく。
瞬きもなく。
ただ、彼を見た。
否、見ているのはその先にある光か。
西園寺という物質が作り出す影との境に生まれた、拡散されていない光。茫洋と漂わない、先鋭。
その光を、見ている。
西園寺は袖から手を離し、それから毛玉を抱き上げた。まだ暖かさの残る毛並みに指が埋まる。見た目よりも毛の長い生き物のようだった。布の織り重なった袖に錆色が滲む。西園寺はそれに構うことなく獣をマントに包み、ゆっくりと歩き出した。建物の陰から、港の通りへ戻っていく。光の中で獣は初めて瞬きを落とし、震えながら「ミャア」と鳴いた。
*
西向きの窓から射し込む斜陽を真っ直ぐに見つめる。太陽光線の婉曲が視界を歪ませ、やがてその中央に茫とした黒い空白が滲む。耐えられずに目を閉じれば、無数に広がる緑色の軟体が、明滅しながら、瞼の裏をしきりに行き来する。決して目を開いている時には目にすることない景色。尤も、それを景色と呼ぶべきだと彼は考えたことはない。蠢く緑がやがて暗闇に溶けていくのに合わせ、ゆっくりと目を開ける。同時に、窓の対角線にある扉が前触れもなく開かれた。
「ただいま」
橙色のマントが奇妙な角度で揺れる。白いブーツが彼の方を向き、それから潜めていた足音が響くのも気にかけず、彼の元へ真っ直ぐに歩き寄る。手を勢いよく離されたためか、扉は音を立て、ひとりでに閉じた。
「ちょっと、王子」
「おかえり」流石は頬に跳ねた横髪を指で触りながら、彼を見上げた。背もたれのない椅子に浅く腰をかけたまま、しかし、すぐに目を逸らす。窓の向こうでは、夕陽を反射させた波が、空と海の狭間を赤く燃やしていた。「光雲、」
「何起きてんの」流石の言葉を遮り、西園寺は言った。「しばらくの間は絶対に安静って言われたよね」
「安静にはしている。部屋からは出ていない」
「安静っていうのは無闇矢鱈と動かないってことだよ」西園寺の眉間に険が寄る。「伊作に嫌ってほど言われてきただろう」
西園寺とよく似た風貌の少年を思い出す。一つ下の後輩だった彼は二人に最もよく懐いていた後輩の一人だったが、怪我人に対する厳しさは常に尊敬とは無関係に発揮されていた。実習で怪我をした後に浴びせられた小言の数は、彼からもらった賞賛の数に負けないだろう。
「……しょうがないだろう」唇を尖らせながら流石は言った。子どもじみた仕草は、かの後輩がここにいたならば決して見せない表情だった。「ただ寝ているのは性に合わない」
「それで、布団から抜け出して?」西園寺が流石の足へ視線を向ける。「まだまともに歩けもしないのに」
「無闇矢鱈と動いていたわけじゃない。どこまで動けるのかは確かめておくべきだろ?」
「ふうん、」西園寺は小首を傾け、先を促す。「それで?」
「……壁伝いならなんとか動ける」
「悪化しても知らないから」わざとらしく溜息を吐き、西園寺が言う。「ほら、戻るよ」
流石はもう一度窓の外を見やる。夕陽がゆっくりと海に埋まっていく、残光を目に焼き付けるように。西園寺は流石の背後から覆い被さりながら、しかし体重をかけることはなく、窓の外を覗き込んだ。
「何かあった?」
「ん、いや、」流石は首を横に振る。それからすぐ傍らにある西園寺の顔を振り向き、微笑んだ。「太陽と対決をしていたんだ」
「は?」
「目を背けたら俺の負け、目を背ける前に太陽が沈んだら俺の勝ち」
「馬鹿じゃないの」呆れを隠さず、西園寺は再び溜息を落とす。「そんなの、対決にもならない」
「それくらいしかすることがなかったんだよ」
「この対決馬鹿」
「それに、波に反射した夕陽が綺麗だったから」流石は微笑んだまま、西園寺の髪を一房手に取った。「光雲の髪色みたいで」
緩やかな曲線を描く髪が指をすり抜け宙へ落ちる。その名残を追うように伸ばされた指が軽く叩かれる。言葉の代わりだったのか、西園寺は何も言わず、流石の腕を肩へ回した。
「ちょ、光雲! 大丈夫だ!」
「黙ってて。抱えられないだけマシだと思ってよ」
抵抗を示すように首を振りながら、しかし、流石はそれ以上に暴れることなく立ち上がった。脚を引きずりながら床を歩き、彼が抜け出した跡をはっきりと残したシーツへと押し込められる。西園寺の表情は固く、手付きだけが奇妙なほど慎重だった。
顔を上げ、流石が布団へ戻ったことを確かめ、ようやく息を吐く。その後で、左手に持ったままの毛玉の存在を思い出した。それは宿についてからずっと彼の手の中に蹲り、鳴き声ひとつ上げていない。僅かに痙攣する瞼だけが、毛玉の生命を伝えていた。
「光雲、」諦めたのか、流石は大人しく西園寺を見上げて尋ねた。「その手に持っているものは何だ?」
「猫」
「猫?」
「多分。きっと、猫かな」
「……なんで曖昧なんだ」
「道で拾ったんだよ。烏に襲われたのか、街の子どもに虐めれたのか。怪我してた」西園寺は事もなく言う。「断定しないのは、猫によく似た生き物がポルトガルにいるかもしれないから、かな」
空いている方の手で耳の間に触れる。獣の丸い瞳孔が細く狭められ、小さな口の隙間から僅かに牙が覗く。嫌悪。或いは抵抗。獣の見せた初めての意思に、西園寺は喉の奥で小さく笑みを溢した。
「どう見ても猫だろう」流石が呆れたように言う。
「そうみたいだねぇ」耳から手を離し、顎の舌をそっと撫でる。猫は抵抗せず、されるがままに目を閉ざした。薄桃色の鼻から吐き出される呼気が自らのヒゲを揺らす。全ての力を使っているかのように。呼吸を繰り返すたびに全身が膨張し、収縮する。身体が未だ小さいためか、或いは全身の力を賭けなければ呼吸もできないほどに衰弱しているためか、西園寺には分からなかった。
「伊作なら何とかしてやれたかな」西園寺は呟く。未だ生きているのなら。言葉の続きは、しかし、舌の裏に押し込められたまま。音になることはなかった。
「光雲?」首を傾けながら流石が尋ねる。
不意に黙り込んだ西園寺を真っ直ぐに見上げたまま。いつものように。西園寺の気紛れを楽しむかのように。ゆっくりと微笑が浮かぶ。
「決めた!」西園寺はその視線から逃れるように叫び、それから己も微笑んでいることに気付いた。時折、感情と身体が別に動く。どちらの方が速いのかは、分からない。
「何を?」表情を変えずに流石が尋ねた。
「名前」
「その猫の?」
「うん」
「光雲、その猫は飼えない」後輩を嗜める時を思わせる口ぶり。控えめに振られた首は、優しさの表現だろう。
「分かってるよ」
西園寺は当然に言い、猫を抱えたまま踵を半回転させる。身に纏ったままのマントが遅れて円を描く。肩に羽織った布の存在を思い出したのか、片手で器用にそれを脱ぐと、扉に向かう。黒い革靴が小鳥のように足音を弾ませる。
「また出掛けるのか?」ベッドの上から流石が声をかける。
西園寺は首だけで振り返った。僅かに歩みが遅くなりながらも、止まることはない。窓際に置かれたまま、座る人を失くした木製の椅子にマントを置き、それから扉へと向かう。角のない金属質が掌へ水滴のような滑らかさで密着した。
「井戸に行ってくるだけ。埃を落としたいし、コイツも洗ってやらないと」
「光雲」
「もう決めたから」西園寺が喉奥で笑いながら答える。「何を言ってもダメだよ、王子」
「その猫の名前は?」流石が問う。
西園寺は上体を捻り、部屋の奥を見た。かつての長屋の倍以上もある、広い部屋。しかし、その果てまでが明瞭に映る。彼にも己の表現がはっきり見えているのだろう、と西園寺は考えた。問いに答えるよりも早く扉を開ける。
「 」
扉が閉まる直前で、彼は言った。
己の表情を隠すように扉が閉まる。一足早く閉められた扉に遮られ、流石には西園寺の表情は見えなかっただろう。西園寺自身も、自分が今どんな表情をしているのか分からなかった。
*
言葉よりも身体が速く動く瞬間がある。尤も、思考を巡らせる力と身体を動かす力において、強いのはいつも後者の方だ。身体の自在さに比べれば、言葉は不自由。地域に、人に縛られ、同じ言葉を使っていたとしても、思考は常に正しく伝わらない。
西園寺にとってそれが教科と実技を並行して学んだ六年間で得た答えで、異を唱える級友や教師の顔も思い浮かんだが、彼にとって最も分かりやすい言語とは行動そのものである。だからこそ、自分が地面に突き飛ばされた瞬間に起きた事象を、彼は正しく理解した。
「王子!」遅れて、言葉が喉を突く。
黒い服を着た男たちが三人、彼らの前に立ちはだかっている。強盗か、或いは自分たちをカルロスの手の者と知っての奇襲か。どちらにせよ、彼らを襲ったという事実には変わりがない。
名前を呼ばれた青年は石畳の上に膝をつき、しかし、大丈夫だと伝えるように手を上げた。そのまま、いつの間にか手に握った苦無を投げる。黒鋼の刃は空を裂き、中央に立つ男の肩に命中し、鮮やかな赤を散らす。手から滑り落ちた金属が石畳へ打ち付けられ、鈍い音を響かせた。
西園寺はその一瞬に身体を起こし、青年を振り返ることなく三人へ向かい走り出す。
肩を押さえた男を庇うように前に出た黒い服が二人。手には小刀に近い形をした刃物。
袖から棒手裏剣を取り出し、右側の男に投げつける。
剣が金属を弾く高い音。
反対側から突き出される刀を身体のしなりだけで避け、
左足で男の腹を蹴り飛ばし、
半回転。
右足で手首ごと剣を吹き飛ばす。鈍い手応えの後に、微かな呻き声。
骨が折れたか。
繰り出される刃の先鋭が首先を掠める。
まだ動けるらしい。
それでも無駄の多い動きだ、と西園寺は考えた。
考えるだけの、余裕が生まれた。
再び剣を突き出された瞬間に敵の手首を掴み、
人であれば曲げられない方向へ捻りながら、
鳩尾を蹴り付け、
右手を庇う男に向かい投げつける。
三人目の男へ目を向ければ、肩の傷のために右腕は動かないのだろう、左手で地面へ落としたものを拾おうとかがみ込んでいた。
素早くそれを蹴り飛ばし、奪った刀の柄で傷の上を突く。
反射的に傷を庇う男の顔へ蹴りを入れ、縺れ合った二人の男の方へ投げ捨てた。
黒い塊から言葉にならない音が響き、
やがて、沈黙が訪れる。
気絶したのか、或いは。少なくとも、死んではいないだろうと考える。死ぬような攻撃を彼はしていなかった。
死ぬかどうかを決めるのは、しかし、己ではない。
地面に散乱した武器を拾い上げながら、掌に生暖かい感触が伝っていることに、彼は遅れて気が付いた。
「光雲」背後から声をかけられる。壁を支えに立ち上がった流石が無表情に尋ねる。「無事か?」
「そっちこそ」振り返り、西園寺は両手を上げた。抱擁を求めているわけではない。「脚、撃たれたんだろう」
右手に握られた銃の引き金が、その小さな部品に添えられた爪の先が、光を受けて鈍く光る。
「掠っただけだ」流石は脚を引きずりながら、西園寺の方へ歩き寄る。黒ずんだ軌跡が滲み、石畳を汚す。
「ちょっと!」西園寺は眉を顰め、流石に駆け寄った。不自然に宙へ浮いた腕を取り、肩に担ぐ。「ばか、無理するな」
「そんなこと言ったって、とりあえずここから移動しないと」
「怪我の具合は?」
「……血はまだ出てる。でもさっき、光雲がアイツらの相手をしてる間に止血したから大丈夫だ」
「分かった。とりあえず、移動する」西園寺はわざとらしく溜息を一つ落とし、それから額に寄せた皺を緩めた。溜息は切り替えるための儀式のようなものだった。「このまま歩くよ」
「自分で歩け……」
「黙って」流石の言葉を遮り、西園寺は歩き出す。
流石は微笑み損ねた唇を歪ませたまま、しかし、何も言わなかった。
活気のある道を避け、路地裏をゆっくりと進む。銃や火薬、最先端とも言うべき武器を揃えた国であっても、常日頃からそれらが力を奮っているわけではない。常にあらゆる場所で戦火の上がっていた日本の方が、むしろ、怪我人が目立たなかった。彼らの顔立ちがこの国では馴染みのない造形であることも関係しているかもしれない。どちらにせよ彼らにとって、或いは忍にとって、今の状況は十分に安全とは言えない。怪我をしていようと、いまいと。通りを一本挟んだ先にある、大きな通りから俄かに歓声が上がる。大道芸者でも来ているのだろう。海辺の街に相応しい賑わい。穏やかな午後にはうってつけの輝き。安穏とした世界と道一つを隔て、彼らは静寂と影の中を歩いている。
血を流し。
重みによろめき。
寄り添うのは互いだけ。
彼らにとっての安全を確かめるように。
重みを預け合う。
大通りを抜けるよりも二回多く角を曲がり、二人は宿に辿り着いた。海に面した、普遍的な宿。否、見かけ通り、特別な事情を何一つ持たない宿だった。カルロスが二人に泊まるよう指示する宿は、常に彼らとは無関係な場所にあった。部屋を案内した女将は二人をを東方からの商人だと信じきっていたし、彼らもそれを否定しなかった。確かに彼らは仕事のために海を渡った。支払ったものが、金か、己かの違いに過ぎない。
玄関を潜らずに、裏手に備え付けられた古い階段を上がる。入り口には一本の鎖と進入を禁じた看板がかけられていたが、彼らはそれを読まなかった。階段の途中に彼らの泊まる部屋の窓があることは、即ち、もしもの時はここを使えという意味だ。
鍵のかけられた窓に流石の背を凭せかける。離れた背中の半分を風が撫でる感覚に清涼を思い出す。西園寺は流石の額に触れ、それからひどく眉を顰めた。手を離せば、波の冷たさとは異なる湿潤が手のひらを濡らす。
「あと少しだけ我慢して」
流石は口の端だけで笑む。唇は微かに動いただけで、言葉を発することはない。
西園寺は手摺を乗り越えて地面へ飛び降りた。砂よりも硬い岩の道が足の裏へ微かに痺れをもたらす。痛みと呼ぶには鈍すぎる感覚は骨を伝い、そしてすぐに消えていく。落ち着いた足音で表に周り、入り口にいた人間へ軽く会釈し、奥へ進む。新しい客だろうか。気のいい女将はカウンタの奥に備え付けられた棚を覗き込んでいた。
そのまま真っ直ぐに廊下を進み、階段を登る。足音を立てながら。慌てることなく。歩幅だけが常よりも半歩広いことに気付ける者は、まだ外にいる。
与えられた部屋の鍵を開け、後ろ手で鍵をかけた。それから、足音を立てずに窓辺へ走り寄り、外開きの窓を大きく開け放つ。
「ごめん、お待たせ」西園寺はそう言うと流石の腕ごと胴体を支えながら、彼の身体を引き上げた。体格差はあれど、腕力に差はない。大人一人を悠に持ち上げることは、彼らにとって容易なことだ。「誰かに見られたりは」
「いや、大丈夫だ」西園寺に引き上げられるまま、窓枠を乗り越える。足を部屋へ下ろす瞬間、流石の表情が一瞬歪む。「誰も来なかった」
西園寺はその表情を見つめながら何も言わず、黙って彼を抱え上げた。流石も唇を結んだまま、抵抗せずに運ばれる。ベッドの上に流石の身体を寝かせると、二人同時に息を吐いた。
一人は安堵。
そして、一人は苦痛から。
「足、見せて」言いながら西園寺は血に濡れた布を裂き、傷を露わにする。いつの間にか手には苦無が握られていた。
刀傷よりも粗く、擦過傷よりも直線的な傷があった。流れた血のためか、黒く淀んだ塊がこびりついている。火傷も負っているのか傷口の所々が微かに爛れ、その部分だけ茫洋と赤が滲む。
表情を動かすことなく、西園寺は怪我の状態を観察し、やがて息を吐いた。
「何が掠っただけだ」
「命中はしていない」流石は微かに口を尖らせた。額から流れた汗が唇の形をなぞりながら落ちていく。
流石の言葉に返事をすることなく、西園寺は部屋に置いたままの鞄の前で膝をついた。金属の留め具を外す鈍い音。無数の物が詰め込まれた中から筆と紙を取り出し、床に置く。そのまま左から右に文字を書き付け小さく丸めると、彼は立ちあがり窓辺に近付いた。両開きの窓の片側だけを開け、身を乗り出す。それから人差し指と親指を唇の下につけ、思い切り息を吹いた。
原初の笛の音。
指の隙間から音を鳴らすことができると気付いたから、人は笛を生み出した。
彼は窓辺でじっと待つ。
脈が七十を超えた頃、一羽の鷹が窓枠に舞い降りた。
羽音をさせずに翼をしまい、鋭利な嘴を西園寺に向ける。彼は丸めた紙を鷹の足に結え付け、それから鷹の嘴を撫でた。挨拶でも、親愛の表現でもない。それがこの鷹を再び飛ばせるための合図だった。
鷹は何を伝えるでもなく羽根を広げ、空へ帰っていく。その行き先がどこであるのかを考える必要はなかった。確実に辿り着くかどうかも。今、西園寺の持ち得る手段の中ではこれが最も速い。重要なのはそれだけだった。
音を立てずに窓を閉め直し、再び鞄の元へ戻る。底の方を腕で掻き回しながら、やがて、小さな木箱を探り当てるとベッドの方を振り返った。
「これも幸運かもしれない、王子」西園寺は呟いた。「僕たちがあの国に一度戻っていたことは」
立ち上がり、ベッドの脇へと戻る。傍に据え付けられた小さな机に置かれた蝋燭に火を灯し、木箱の蓋を取った。中には生成り色の布と、針と糸、紐で結ばれた貝が一つ。
「痛む?」横たわる流石を見下ろし、西園寺は尋ねた。当然のことを尋ねた己の愚かさに一瞬笑みが込み上げる。微笑ましいと感じたのかもしれない。笑みは、しかし、次の瞬間には霧散しどこにも残らない。
「……いいや」流石が荒い呼吸の隙間で答えた。
「そう」表情を変えずに西園寺は頷く。「それじゃあ、そのまま我慢してて」
針の先を蝋燭の炎で炙り、細い糸を通す。それからベッドの脇に膝をつき、傷口を確かめるように目でなぞる。
呼吸を一つ。
血で汚れた皮膚に針が刺し込まれる。
皮膚の表層だけでは縫い止めるには浅い。肉と肉を繋ぎ合わせるように、継ぐように、鋭利な銀が皮膚を貫く。新たに鮮やかな赤が膨らみ、やがて限界を迎えては流れ落ち、ベッドを覆う薄い布へと滲む。一針一針を慎重に押し進めながら、西園寺は不意に、後輩が傷口を縫合する時の素早さを思い出した。そして、不均等な間隔と長さとは比較にもならない正確に、洗練された糸の美しさを。
端まで辿り着き、糸を結ぶ。鋏の代わりに糸を断ち切った犬歯が、針によって反射された光を受けて鈍く光った。
「どう?」犬歯の先が舌に触れる。光りの名残を舐めるように、彼は尋ねた。
「問題ない、このくらい」流石は頭の形に滲んだ汗を気にする様子もなく答えた。「また慣れなきゃならないしな」
「何に?」
「自分たちの手当てに」
「……僕の手当てが下手って言ってる?」
「保健委員に比べりゃ、みんなそうだ」流石が笑う。それから、力んだ拍子に傷が引き攣ったのか、或いは西園寺の頬に浮かんだ不機嫌のためか、眉間に皺を寄せた。「そうだったって、思い出しただけだ」
床についていた膝を伸ばし、西園寺は大仰に肩を竦めた。海を渡ってから一年以上が経っている。それを、学園との違いを、或いは学園の記憶を憚らず口に出せるようになったのは、もう一度あの国を出た日からだった。
今更のようで、この一年間蓋をして、空白にしてきたものの影を振り払うように、首を振った。
机に手を伸ばし、木箱から小さな貝を取り出す。二枚の貝を閉じるための紐を指で解き、上部の貝を机に置く。中には真珠ではなく、燻んだ鈍茶色の軟膏が収められていた。
「安心してよ」西園寺は貝を片手に持ったまま振り返り、微笑んだ。「これはその、保健委員会委員長が作ってくれたものだからさ」
「保健委員会委員長……?」
「つまり伊作だよ。今の委員長は彼以外にいないだろう」
「いや、そういうことじゃあなくて……」
「見送りを断った後に、こっそりくれたんだ。あの時、誰かが銃で怪我した時のために用意していたらしい。こちらには銃があることを知っていたから」薬を指で取り、傷口にそっと載せていく。粘土のように固く湿った感触の中から、どこか懐かしい薬草の香りが薄く漂った。「でももう使わないから、どうぞって」
南蛮に向かう彼らにとって、銃の脅威に晒される可能性は、彼らの故郷と比較にならない。確かにこの薬を必要とする可能性は善法寺よりも西園寺の方が高だろう。西園寺は、しかし、かの後輩が不必要になったために渡してきたわけではないことを知っていた。
薬が、針と糸が、使われなかった幸運を。分け与えるために。
瞼の裏で、それが手渡された時の彼の表情を思い出す。六年生とは思えないほどの素直さと、意志に満ちた微笑を。
一年生に持たせたお守りと同じ祈りが、きっと、そこにはあった。
「それをこんなにすぐに使うとはね」西園寺が呟く。半分残った薬を再び貝で閉じ、紐を結える。「少し足を動かすよ」
一声だけをかけ、包帯を手にする。保健委員がいない実習や忍務の中でも包帯だけはよく巻いてきた。自分にではなく、対決と称してすぐに戦いたがる級友のために。
手際よく包帯を巻き終え、流石の表情を伺う。体力が尽きたのか、双眸は閉ざされている。額には再び汗が滲み、吐く息は荒い。しばらくは目を覚さないだろう。ベッドの周辺に散らかした道具を片付け、蝋燭が灯ったままの机に腰掛ける。流石が起きていたならば、行儀の悪さを口に出されただろうと想像し、頬に手を当てる。冷えた感触。実際に冷えているのだろう。生きているのは己の方であるというのに。生きようとしている者よりも、ずっと、冷たい。
生きている。ただそれだけであるのだから当然か。
生まれ落ちたのも、生き延びたのも、すべては幸運。
呼吸をする一瞬に生を感じたとしても、その感覚は息を吐く時にはもう忘れてしまう。桜が散るよりも速く消えていく、その一瞬だけが、今。あとは全て過去であり、すでに死んだものに過ぎない。次の瞬間に己が目を覚さなくなったとしても驚きはしないだろう。西園寺はそう考え、それから、首を振った。己が目を覚さなければ悲しむ者がいることを知らないはずもない。彼が過ぎ去った死を過去と呼び、暖かな記憶として再び口に出すことができるのは、彼のせいだ。
いつ消えるかもしれない今のまま、ずっと寄り添うことを許した彼の。
*
舟の甲板に男が二人並んでいた。正確には、男から一歩下がった位置に青年が立っている。横並びではなく、甲板に沿って縦に並んだ姿は彼らの力関係そのものと言えるだろう。
西園寺は黙ったまま、不意に甲板の手すりへ手を伸ばした。潮風に傷んだ甲板の手すりには何度も直された跡が残っている。大きな揺れもなく、安穏と海を進んでいる舟で均衡を崩す心配はない。行動の全てに意味がなければいけないという理由も、しかし、彼にはなかった。意味を求めない行動の方がむしろ好ましいとさえ思う。意味もなく対決をしたがる者のように。
「彼の具合は?」低い声で男が尋ねた。機嫌が悪いわけではない。彼の声は元より低く、そして投げかけた問いは公にはしたくないものだった。男、或いは男の属する組織において。「一月の間は安静にするように伝えたが」
「宿で留守番を」
「そうか」男は海を見据えたまま言った。
「閣下のご心配には及びませんよ。むしろ、退屈がって動き回ろうとするくらいですから」
「それは何より」男は抑制された声音のまま言った。表情は帽子の下に隠れ、伺うことはできない。「心配ならばお前も共に休んで構わないと言ったのだけれどな」
「まさか、」男の言葉に西園寺は一瞬眉を顰め、すぐに微笑を浮かべた。海へ視線を逃す。空を写した青が波の狭間で光を拡散させる。弾け、散る、薄青の光。その一瞬の輝きとよく似た男の顔を、西園寺は思い出した。「一人にしておけないほど子供じゃないです」
男に言葉を返し、子供とはどちらのことだろうか、と考えた。頭上に影が走り、すぐに光を取り戻す。翼の形をした影は、遅れて羽ばたきの爽快な響きが降り注ぐ。
「それに、」西園寺は不意に口を開いた。それから、己の言葉が音になっていると気付く。彼らにとってカルロスは仕える価値のある人間だったが、それ故に不必要な会話を交わすことは多くなかった。知り過ぎることは却って信を損ねることになる。それはどちらにとっても同じこと。
視線をカルロスへ向ける。日頃から被っている帽子の下で、視線がぶつかる。僅かに浮かんだ微笑みが、物珍しさ故か、続きを促す。西園寺は小さく息を吐き、もう一度「それに」と呟いた。
「お目付役がいますから」
「…………?」カルロスが僅かに首を傾げた。
「一匹」西園寺は込み上げる笑みを何の支障もなく飲み込み、上部だけは真面目な表情のまま答えた。「猫を置いてきたんです」
「猫」カルロスが繰り返す。驚きを隠さない声音には、常のような芝居がかった仕草はない。「猫を?」
「ええ、そうです。拾ったんですよ……道で烏か何かに襲われたんでしょうね。怪我をして、衰弱していたので」
「助けたのか」
「いいえ」西園寺は躊躇いなく首を振った。「僕は仏じゃありません」
「神でもないな」
「その二つに違いはありますか?」
「私たちには神がいる」
「ああ……そうでしたね。失礼しました」
「構わない。お前たちに仏がいないことは知っている」
「代わりに幸運がついています」
「……その猫の名前は?」
「僕の名前を聞かなかった貴方が、猫の名前はお尋ねになるのですね」
「お前たちに名前はない」カルロスは言った。「過去に繋がる名前を、私は必要としない。今、この時、お前たちが雇うに値を持つ限り」
男は片手で帽子を押さえ、甲板に背を向けた。次の瞬間に一際大きな風が通り抜けた。西園寺は手すりに触れていた手に力を込める。揺れ続ける波には慣れたが、それは揺籠のようなもの。むしろ安定している証だ。その微睡が反転する瞬間には未だ慣れることが出来なかった。
「あと半刻もすれば帰港する。船を降りる用意をしておくように」
「Si」足を揃え、胸の前に片手を添える。返事をする時の姿勢は、彼らが海を渡ることを決めて初めて身に付けた、生まれ故郷にはない文化だった。
男は振り返ることなく船室へ戻っていく。はっきりと伸ばされ背が扉の向こうへ消えるのを見届け、西園寺は揃えた足の先を見やるように視線を落とした。厚い船底の下でとぐろを巻く大波と同じ。この姿勢にもまだ、慣れていないことを思い出す。
揃えた足の重心を崩し、甲板の手すりにもたれかかる。髪の隙間を潜り抜け、汐風が頬を掠めていく。かつての山深い学園に吹く風とは似つかない。暖かく、湿潤を肌に残す風。同じ風が、南向きの窓にも吹き込んでいるだろうか、と考えた。
怪我をした流石を置いて忍務に出掛けることを選んだのは西園寺自身だった。元は彼ら二人で向かうはずの、山を一つ超えた先にある街に住む富豪へ日本から持ち込んだ品を届けるだけの忍務。尤もそれは二人にとっては大した価値にも感じられないよくある焼き物で、つまり、品に添えられた文の方に意志があることは明白だった。品を届けるための船を遅らせられな語ったのもきっと一日、或いは半日でさえも約束が守られないことに大きな意味があると信じている人間同士の取り決めなのだろう。
西園寺からの、正確には彼が飛ばした鷹の報せで彼らの宿を訪れたカルロスは二人の代わりに己が二人の仕事も引き受けるとだけ言った。流石が怪我をした理由も、流石と目を合わせない西園寺についても、問うことはしなかった。礼儀のつもりか、或いは、興味がないからかもしれない。日本で起きた争いを経てなお、カルロスら過去のことはおろか今の彼らにも深く関わろうとはしなかった。彼が東洋人の間諜である彼らのことをどう思っているのか、二人は知らない。二人も、しかし、カルロスのことを知ろうとはしなかった。必要なのは仕えるに足る人間かどうか。それはまだ図りかねている。否、正しくは、もう一度図り直そうとしている、と言うべきだろう。
結局、カルロスが流石の代わりに同行することになったのは、西園寺が行くと言い張ったからにすぎない。或いはカルロス自身、二人だろうと一人だろうと、手紙を届けることさえ叶えばあとは無関係だったからか。自分の仕事は自分が行うと言い張った西園寺に、カルロスは数秒の間眉を顰め、最後には頷いた。ただし、自分も同行すると言い添えて。
西園寺が流石と別行動を取ることははじめてであり、カルロスと二人だけの旅路もはじめてだった。行きの船でも、品を届ける道中でも、会話がなかったことだけは覚えている。日本語を話す時にはわざと仰々しい仕草を好む男は、ポルトガル語では寡黙さが目立つ。どちらが本性なのか、知る日はきっと来ないだろう。それだけが、この旅路で分かったことだった。
否、思い知ったことなら、他にもある。
甲板肘をつき、それから手のひらと顎の間に絡んだ髪をそっと解放する。
深い青の上には白い筋が伸びていた。光の反射か、泡の破裂か。無秩序に虹色の幻影が黒目の中心に忍び込んだ。そのまま焼き付けようと見つめ、しかし、瞬きの間に虹は消えていく。光を捉えることは、人間にはできない。波の狭間を捉えることも、また。瞼の裏に残存する光の明滅は少しの間影を残すが、船を降りる頃にはとうに消失しているだろう。
今、同じ時にいなければこの瞬間は共有できない。
誰と?
心の中で誰かが尋ねる。
「馬鹿みたいだ」西園寺は呟いた。慣れ親しんだ言葉を解する者は、この舟にはいない。「それなのに、離れたがって」
風に流された髪が額に揺れる。海風は一瞬の心地良さを運び、そして、粘着質な潮の名残が肌を覆う。幸せと、不幸せのように。幸せはいつも一瞬に過ぎていく。不幸せは、しかし、肌に寄り添って離れない。怪我を負った猫のように。夕日に伸びる、影のように。
船の進行方向にゆっくりと港の影が見え始める。西園寺は甲板から背を離し、額に張り付いた前髪を乱雑に払った。真っ直ぐに顔を上げ、腕を組んで宙へ大きく伸ばす。筋肉と神経が軋む音が体内に響く。拍子を取るように、背骨が小気味良く鳴る。
今日は鞄を自分で持たないといけないことを、彼は思い出した。
*
木製の扉を押し開ける。古い蝶番の軋む音が鈍く響いた。
「ただいま」西園寺はそう言いながら部屋の中を一瞥し、それから、入り口で足を止めた。「……え?」
ドアノブが手から離れ、扉が自ずと閉まっていく。それに構うことなく、西園寺は瞬きを繰り返した。
「おかえり」流石の声が微笑む。表情は、窓から射し込む橙色の光に隠されていた。
出掛けた時には部屋の隅にあったはずのベッドが、窓のすぐ側に在る。見慣れたとは言えない部屋の、それでも生じた違和感の正体。尤も、すぐに気付かなかったのは、この部屋に慣れていないせいだけではないだろう。
部屋の中など、どうだっていい。
扉の先に真っ先に探した影と比べれば。
瑣末なこと。
カバンを手にしたままベッドの方へゆっくりと歩き寄る。音もなく。流石は何も言わずに彼が来るのを待っている。不意に、薄茶色の毛玉が足の間に滑り込み、髭を白いブーツへ擦り付けた。戯れ付くように足に絡むそれを蹴飛ばすことなく、しかし、西園寺は一瞬眉を顰めると、それをゆっくりと抱き上げた。代わりに置かれた鞄が、たった一つの影を床の上に伸ばした。
「危ないよ」
「ソイツ、ずっとお前が帰るのを待っていたんだ」
「何でそんなこと分かるわけ?」
「そうだなぁ? 二人でずっと留守番してたからかな」流石が喉奥で笑う。冗談のつもりなのだろう。
西園寺は笑わなかった。
「ふぅん、まあ、何だっていいけど」耳の裏を撫でながら彼は口の先を尖らせる。「元気になったのなら」
「そんなに元気なのは初めてだよ」
「そうなの?」
「ああ。むしろずっと大人しかった……いや、衰弱してた、と言うべきだな」
「へぇ……」
腕の中を見下ろせば、流石の言葉が正しいことを示すように、猫は深い呼吸を繰り返しながら目を瞑っていた。先程の元気が幻のように、大人しい。淡い黄金色の目の間を撫でれば、猫は小さくミャアと鳴いた。
「待っていたのかもな」流石は静かに呟き、ベッドの端を手で叩いた。布の内で空気が弾む、間の抜けた音が響く。
猫を抱いたまま、西園寺も黙ってベッドに近付いた。片手が置かれた布の横に腰を下ろす。窓から吹き込んだ風が髪を遊ばせる。遮られた視界には斜陽の朱だけが拡散し、瞼の裏に光を透かす。眩さに目を眇め、それから、窓が開いていたことに気がつく。
何を見ていたのだろう、と考える。
今は、何を見ているのだろう。
「光雲」一抹の意外さを隠さず、流石が西園寺の名前を呼ぶ。西園寺が大人しく彼の招きに応じたことに対する驚きを隠さないのは誠実だからでも、素直だからでもない。隠す必要がないと信じているからだ。「忍務はどうだった?」
「ねえ、このベッド」流石の問いに答えず、西園寺は尋ねた。「どうしたの?」
「宿の人たちが手伝ってくれたんだ。窓が見たいと言ったら、ベッドごと動かしてくれたよ」親切な人たちだな、と続ける。「閣下が面倒をみるように、声をかけてくれていたらしい」
「へえ」
怪我をした西園寺一人では生活はままならない。身動きが出来ないほどの怪我ではないが、痛みと不自由さに耐えることが容易なことではないことを彼らは知っている。平気で耐えられる方が、きっと少ないのだろう。二人も生まれつき忍耐強かったわけではない。そう在らなければ、なりたいものになれなかったから。なりたい姿のままで、生き延びられなかったら。そうなっただけのこと。
「街での喧嘩に巻き込まれたことになっていたよ。商売でこちらに渡った東洋人で、こちらの言葉も不慣れ。喧嘩も弱い。可哀想に、と何度も言われた」
「嘘ばっかりだね」
「東洋人であることは本当だ」
「本当?」西園寺が微笑んだ。「日本でポルトガル語を喋ったら、南蛮人だと思われたのに?」
見た目のどれほど当てにならないものか。
名前に何の意味があるのか。
忍であり、間諜でもある彼らにとって、見えているものは全て、見せているものに過ぎない。
「……光雲」彼の名を呟き、流石が微笑んだ。或いは細く伸びた鼻梁の影が、微笑みに見えただけか。
「王子」
己の名を呼ぶ相手はもう、目の前にしかいない。
「閣下と港で別れる前、しばらくは休めって言われた」西園寺は猫を抱きしめながら言った。「お前が治るまで、僕らに次の仕事はないってさ」
「二人でないと何もできないと思われているわけじゃない」
「分かってる」
「信用がないわけでもない」
「分かってる」
「俺たちは二人の方がいい仕事ができると信じてくれているんだ」
「分かってるよ」流石の言葉を否定せずに、西園寺は深く息を吐いた。
薄茶色の毛並みに指を埋める。薄い皮膚に指が触れ、この獣が生き物であることを思い出す。
人間と同じ。
生きて、
そして。
「ねえ、」息を吸う。「どうして王子は、窓を見ていたかったの」
流石は西園寺の頭に手を伸ばした。汐風に傷んだ髪が輝きながら指に絡まり、爪の先に輝きを運ぶ。
光を指に遊ばせるように、祈るように。
髪の絡んだ指をそっと握りしめる。
「太陽の光はお前みたいだから」彼は微笑んで言った。嘘がないことを示すために最も有効な方法だと信じているか。或いは、無意識に微笑んでいるのかもしれない。青空に、人が自ずと微笑みかけるのと同じように。「ここにいる、と思えた」
「……いなかっただろう、その時には」
「その場の話じゃない。今までも、これからも、お前はきっとここにいてくれるだろうって」
「怪我をしたお前を置いていったのに?」
「それは単に不安だったから。違うか?」表情を変えずに流石は続ける。疑問符は形だけの、確信に満ちた発声だった。「自分の不運は誰かの不運。ならば、自分が幸運なら。伊作にあんなにはっきりと不運だとは思わないと言えたお前が、それを考えたことがないとは思えない」
「悲観的に言わないで」
「いや、考えるべきことだろう」はっきりと流石は言い切る。「誰かと一緒にいたいなら、自分が周りに及ぼす影響を考えないより、考える方がずっと良い」
「……王子は強いね」西園寺が猫を膝に乗せた。「僕はダメだ。王子の怪我を見るたびに、あの弾丸がなんで王子を狙ったのかばかり頭に浮かぶ。雷蔵のことを考えすぎなんて笑えないくらいに、ずっと、考えてしまう」
「直感は?」流石が問う。「お前の直感は、なんて言ってる?」
「この怪我は」包帯の巻かれた脚に腕を伸ばし、西園寺は呟いた。「お前の意思」
「そう、俺が庇っただけだ」
「……なんで」
「光雲が痛い目に遭ったら、きっとお前以上に不安になるから」
「つまり、直感?」
「そうだ。だから、お前が気にするとしたら自分の幸運が俺に不運をもたらすかもしれないことじゃない」
「それじゃあ、王子が僕を甘く見てることを気にすれば良いってことかな」
喉の奥で西園寺が笑みを溢す。機嫌が変わっていることに遅れて気が付いた。雨よりも鈍く沈み、風よりも速く舞い上がる。その機微を自分よりも速く見つけた男が目の前で微笑んでいる。出会った時から、ずっと、変わらずに。
きっと最後まで、この笑みが側にあるのだろう。
西園寺は笑いながら、彼の肩に凭れ掛かり、また笑った。
「光雲?」僅かに戸惑う声音。「どうした、疲れたのか?」
二つの頭の影が重なり、輪郭だけが夕陽に鋭く光る。
「ううん」首を振る。かつての寝巻きとは異なる、綿の柔らかな襟と髪が擦れ合う音。髪も指と同じように感覚があればそこにある熱を感じられるだろうか、と西園寺は考えた。「ねえ王子、死んじゃった」
「え、」流石の口から音が溢れる。一瞬遅れて、彼は西園寺に抱かれた猫を見た。その判断の速さと正確さは直感だけでは養えないものだと知っている者は少ない。西園寺にとって、それが彼の美点の最たるところの一つと受け止めていることを知る者も然り。「ああ、そうか……」
猫の身体に置かれたままの西園寺の手に、流石は手を重ねた。そして指を組んだ。
南蛮における祈りの形。
二人で一つの祈りを灯す。
「待っていたんだな、本当に、お前を」
「……猫って死の間際に姿を隠すものじゃないの?」
「南蛮の猫は違うのか、それとも、」指を握りしめて流石は言う。「お前を傷つけてでも、お前の側で死にたかった。この港でたった一人、たった一匹、助けてくれた生き物の側で」
「不幸な猫だね」西園寺は固まった猫身体を撫でる。摩擦よりも冷たい皮膚が、毛並みが、指先を伝う。毛並みが暖かいのは、生きているものの証か。「もしそうだとしたら。苦しみの中を、とっくに手放せたはずの痛みの波に耐えながら、生きる羽目になった」
「それでも、寄り添いたかった。もう一度……そして、ずっと」
「……ちょっと重いかもなぁ」西園寺の双眸が半月の弧を描く。「王子も、そう思うでしょ」
「さあ、どうだろうなぁ」
「曖昧にしないでよ」
「どんな姿でも、帰ってきてほしいと思うから」俺は、と言う声は掠れている。彼の双眸からは雫が二つ。頬から顎先に滴り、空中に消える。半月の瞳の代わりに泣くかのように、彼は涙を流す。「どんな姿だって、それでどんなに俺が不幸な気持ちになったとしても」
「猫の話だよ」西園寺は流石の肩に深く寄りかかり、呟いた。均衡を崩した髪が彼の横顔を撫でて落ちる。「王子。これは、猫の話」
「ああ、そうだな。猫の話だ」薄茶の髪に覆われた頭頂に額を重ね、流石は呟いた。言い聞かせるように。「だけど、ずっと一緒にいられるならなんだっていいんだよ。光雲、俺は」
彼が言葉を発するたびに吐息が髪をくすぐり、西園寺は彼が生きてることを知った。そして、己もまた。
「帰って来ないと思った?」
「そう思う己と対決しようと思うほどには」
流石の答えに西園寺は視線をあげ、彼の目を見た。もう泣いてはいない。本当に、己の代わりに泣いていたのかもしれない。錯覚に心の中で苦笑をこぼしながら、猫に触れていた手で彼の額を叩いた。小気味良い、肌を弾く音が響く。涙を代わるなら、痛みと叱責を代わってもらっても良いはずだ、と西園寺は喉の奥で小さく笑った。
「この対決馬鹿。怪我で心が弱ってるだけでしょ」
「……かもなぁ」
「認めるくらいなら早く治してよ。王子がそのままだと、僕も忍務に行けない」
「悪いな」
「謝るだけなら一年生でもできる」
「あー……その、本当に悪かったって」
「悪かったって思ってるなら態度で見せてよね」
「無茶を言うなってぇ……」
窓から吹き込む風はいつの間にか夜の匂いを連れてきていた。明かりを灯していない部屋は薄闇に沈み、仄かに青い。
「なあ、光雲」
「なに?」
流石が彼の膝に乗った猫に手を伸ばす。重なった三つの影がより深い影を生む。土の中で眠らせるように。炎の中心、最も暗い場所に葬るように。
「コイツの名前の名前って、なんだっけ」
闇よりも暗い影は、ずっと彼らと共に往くのだろう。
彼らがいつか忘れてしまっても。
影の中で、
寄り添ったまま。
エピグラフ引用元/
寺山修司「ふしあわせという名の猫」