問.枯れない花は何色か 星を遮った影が夜の波のようで、彼は息を止めた。緩やかな曲線は支点もなく宙に揺れる。その度に弧の角度に合わせて星影が仄かに拡散し、波の輪郭を光らせる。海が宙を写すものならば、これは凝集された宙。或いは隔離された海。小さな夜の写し。
夜の先端が風に揺れ、彼の額を掠めた。銀の光が眼前を過ぎる。箒星の尾の錯覚。流れ星の軌跡の幻想。
その先に、二つの星を見る。
「兵助」彼は星を見上げながら言った。「なぜここに」
「三郎がいると思って」彼の顔を覗き込みながら、久々知は答える。「やっぱりいた」
久々知は屈んでいた姿勢を戻すと、真っ直ぐに立ち、宙を仰ぐ。肩から一房の髪が流れ落ちる。内包された星影が飛沫を模して散りばめられ、すぐに消失する。夜に髪を溶け合わせながら、彼は夜空を指で示した。
「ここは星がよく見えるから」木製の板の上で均衡を崩すことなく立ち上がる。「俺もよく来るんだ」
「星」鉢屋が繰り返す。それから、自分がどこにいるのかを思い出す。「兵助も、星を見に?」
座ったままの姿勢で久々知を仰ぎ見る。遮るもののない宙。遥か、人の手では届かない、遠い星。夜を透かし、溶かし、薄雲が絹のように流れては消えていく。それら全てを視界に収められる。それら全てが目に映る。長屋の屋上でしか見られない景色。瞳という額の全てを夜で縁取れる場所を、彼は他に知らなかった。
「今夜は違うよ」久々知は微笑みながら言う。一度だけ宙を振り返り、そっと屋根の上に腰を下ろす。鉢屋の肩に彼の黒髪が触れ、音もなく滑り落ちた。「言っただろう。三郎を探しにきたんだよ」
「どうして?」
「落ち込んでいるだろうと思ったから」
「……知っているのか」鉢屋は目を伏せた。「誰から聞いた」
「誰からも」久々知は表情を変えずに続けた。「見ていたら分かるよ。三郎と雷蔵が喧嘩していることくらい」
「喧嘩じゃあない」
「何でもいいけれど」
重要なのはそこではないと示すように久々知は唇の先を尖らせた。尤も喧嘩という表現を選ぼうが、選ぶまいが、鉢屋と不破の間に澱みが生じていることは事実。それを呼ぶための言葉として喧嘩という言葉を用いることができるのは、彼らがまだ子供だからだろう。
「それで、今度は何をしたの」鉢屋の顔を覗き込み、久々知が喉奥で笑みを溢した。「雷蔵の顔を借りて悪戯をした? 雷蔵の大事にしていた本の結末をばらした? 隠れていいお饅頭でも食べた?」
「私が原因なことは疑わないのか」腕を組み、その交点に顔を埋める。丸められた背中に降り注ぐ星は熱さも冷たさも感じさせず、ただ背骨の形に影を写す。
「雷蔵が原因なら三郎は落ち込まない」平淡な口調で久々知は言った。「自分が悪いと分かっているから落ち込むんだ」
「私のことを知っている?」鉢屋は問う。
「自分のことなら」久々知は躊躇わず答えた。「他人のことならどうとでもなる。切り離せばいいだけ」
世界が違うと。星が違うと。線を引き、空間を断ち、果てに時間を隔てることができる。否、はじめから、同一ではない。同じ星を見ていようと、裏と表のように。内部と外部のように。交わることはない。存在は認め合いながら、影響されることはない。影響されることができない。波に飲まれるのは、波を起こすのは、常に己の思考。それだけはどうすることもできない。
「切り離せないのは、己なんてもののせいなんだ」鉢屋が呟いた。「私は誰にでもなれるのに、私にだけはなれない」
「同時に、常に鉢屋三郎は鉢屋三郎から離れられない」
黒い髪が夜のように肩に触れる。そのまま胸の前を流れ落ち、輪郭を掠め、指先に絡む。遅れて傍らの重さを知覚し、久々知が肩を凭せかけていることに気付く。
鉢屋を探しにきた、と彼は言った。謝罪を勧め来たわけでは、しかし、ないらしい。もしそのために探していたのであれば、引き留めるように座り込むことはしないだろう。慰めに来たのだろうか、と一瞬考え、その思考もすぐに沈む。慰めが不要なことは鉢屋が最もよく知っている。つまり、久々知も知っているだろう。
「今、」身体の半分を預けながら久々知は口を開いた。「勘右衛門と八左ヱ門が雷蔵のことを慰めているよ」
「二人と一人。人望の差だな」
「自分で言うんだ」
「事実だから」諦めも自嘲もなく、鉢屋は続けた。「雷蔵ほどいい奴はいない」
太陽の眩しさを指摘するのと同じ。ごく当然のこととして。しかし、星は。星宙は眩しくとも、星一つ一つの眩しさを語る者は少ない。群れとなれば明るく夜を照らすとして、たった一つでどれほどの宙を照らせるのか。尤も、星の全てが太陽ほどに眩ければ夜空はとうに焼失しているかもしれない。遠く、小さな微粒子。爪の先に散りばめられる微光。だからこそ抱きしめられる。赤い熱は一つで十全。
「そんなに雷蔵が大切なら怒らせなければいいのに」久々知は真面目な声音で言った。肩の重みは変わらず、そよぐ髪が時折、耳殻に風の声を囁いていく。
「大切であることと、委ねることは違う」
「傷つけたくない、という気持ちも嘘じゃない」
「傷つきたくもないんだ、私は」
久々知が一度だけ瞬きを落とし「ああ」と言った。それから鉢屋の肩に擦り寄るように身を縮める。理解していることを示したのだろう。傷に怯える真似ではない。目に見えない傷は、しかし、誰にでもある。
「だから謝れない」呟きながら、久々知が鼻を鳴らす。一瞬涙と錯覚し、しかし湿度のない声音が、すぐに幻想であることを教えた。「きっと、許されてしまうから」
「許されることは即ち、私を誰かに預けることだ」鉢屋は宙を見上げた。「許される者と許す者。いつだって二つに一つで、許しながら、許されることはできない。その不自由さをどうして許せる?」
「それなら」久々知は静かに目を開いた。鉢屋の双眸を真っ直ぐ見据える。瞳の奥で反射する、己の髪に星を見つめるように。「俺が許そうか」
「何を?」星を見つめ返し、鉢屋は尋ねた。
黒目に滲む光で、己の顔は見えない。不意に、いつも見えていないのかもしれない、と思いついた。己の顔を己の目で見ることはできない。それこそが生の意味か。即ち、死と生が対極でないことの証。死の中では、生の目は喪われる。同質でなく。等価でもない。生とは気付かれることのない唯一。死とは忘れられた無二。星影の明滅のように。法則のない輝きこそが死と生を結ぶもの。
「三郎が」久々知は視線を逸らさずに続けた。「許されることを」
「許せる?」
お前に。
そう続けようとした言葉は音にならず、喉をゆっくりと下降していく。紡ぐ必要のない言葉であることを、彼は知っていた。否、知っているのは彼ら。
「許すよ」久々知が笑う。夜風に似た柔らかな声音。「何を許される必要もなく」
許しには許す者と許される者が必要だという摂理を微笑に伏して彼は言う。神でさえ、許すものがいなければ何をも許せないというのに。全てを許すという矛盾。極点。尤も、それは言葉だけの、音にされただけの許し。意味はなく。価値もない。在るのは優しさだけだ。だからこそ、鉢屋は彼の言葉を信じた。疑うことなく。疑うという思考すらなく。
「だから安心して許されておいで」久々知が目を細めた。星の眩さのためではないだろう。「ちゃんと、謝って、ね、」
伏せていた顔をゆっくりと上げ、鉢屋は視線だけで久々知を見た。微笑みの影を焼き付けるように瞬きを落とし、小さく鼻を鳴らす。
「……私が何をしたのか聞かないのか」
「想像できるから」特別な響きもなく、久々知が言う。「当ててほしい?」
「いいや」鉢屋は首を振った。久々知は、言葉通り、想像できるだろう。不破から聞いている可能性もあるけれど、その違いはあまりにも微差。辿り着く答えが同じであれば、辿った道が違うことに何の意味があるだろうか。「雷蔵が大事にしていた栞を破いてしまったんだ」
「押し花が付いたやつ」
鉢屋は無言で頷く。僅かに歪む彼の眦の角度を見守りながら、久々知はそっと身を起こした。それから、水面を立てないように水溜りを渡ろうとする子どもにも似た優しさで、鉢屋の方へ触れる。
「三郎があげたやつだ」
「一年生の頃に。顔を貸してくれた礼にあげたんだ」
「あの頃はまだ、三郎は色んな人の顔をしていた」久々知の爪が顎と面の境界をなぞる。正確に。違うことなく。「そして、やがて、三郎は選んだ」
「栞をあげた時の雷蔵が、あまりにも嬉しそうだったから」
こう為りたいと思った。
こう在りたいと願った。
「選んだんだ。雷蔵を。私の意志で」鉢屋は続ける。「それなのに、あの時の栞を見つけて、怖くなった」
「雷蔵になれなかったから」
「雷蔵にならなかったんだ……相棒になることを、別の人間であることを、選んだから」
「そして、今も選んでいる」久々知が言う。「選択は常に続く。一度選んでしまったら、選び続けなければならない」
「だから破いた。破かなければと思った。この選択だけは変えさせはしないと言いたかった」
「それを選ぶのも、三郎だよ」平淡に久々知は続けた。「選びたいと願っているうちは大丈夫。三郎は自分の望みを叶え損ねるほど弱くないし、望みを捨てられるほど強くもない」
「……褒めていないな」
「事実だからね」喉奥で星が笑う。「でもそれが、三郎のいいところでもある」
久々知は鉢屋の顔から指を離し、代わりに軽く肩を叩いた。謝りに行けということだろう。寄り添う時間は終わりと示しながら急かすわけではなく、ただ背を押すための手付き。どこまでも優しく、しかし、揺るぎのない力強さで彼は再び肩を押す。仲直りしてほしいと願っているのかもしれない。正しく鉢屋を許せるように、尾浜と竹谷が不破のことを慰めているように。形は違えど、誰かを、或いは何かを受け止めることが得意な二人だ。鉢屋の背を押すために、だからこそ、彼は一人で来たのだろう。
「優しくない」鉢屋は呟いた。
「人の物を勝手に破る方が悪いと思うけれど」
「言い返す余地もないよ、全く」鉢屋は口の端を持ち上げて言った。「仕方ない。謝りに行くよ」
「仕方なくはないからな」久々知が釘を刺すように鉢屋へ指を向けた。「三郎はまだ、雷蔵を選んでいたいんだろう?」
「もちろん」躊躇いなく鉢屋は頷く。「不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎ありさ」
「それならちゃんと仲直りしてよ」
「分かった、分かった」
両手を上げてみせれば、久々知が小さく笑みを浮かべる。降参、賛同。どちらの意味に捉えられたとしても、久々知はきっと微笑むだろう。鉢屋は立ち上がり、それから屋根の縁に向かった。つま先だけを宙に浮べ、一度だけ背後を振り返る。星影に縁取られた黒髪の波が風に揺れる。その明滅を一瞬で瞳に焼き付ける。
意志はなく。
選択もない。
選ぶことができるのは、選ばれないものが他に存在するから。
「兵助」鉢屋は呟いた。
双眸に潜む星と星が結ばれ。
次の瞬間にはもう、見えない。
浮遊。
落下。
微かな抵抗。
空宙で身を半回転させ、地面に足をつく。
地面へ伝う振動が衝撃を拡散し、やがて静寂が訪れる。
鉢屋は宙を、宙よりも低い場所にある屋根を仰ぎ見た。黒髪が立ち上がり彼を見下ろす。隣り合うことを選んだ星ならば、星座となれるだろう。偶然、同時に必然でもある星の結びを呼ぶための言葉は、星座ではない。その絶対に。その奇跡に。意志の余地などないと彼は知っていた。
「兵助」彼は屋根の上に向かい、風を囁いた。「明日、ちょっと付き合ってくれないか」
「何に?」
「今晩の礼に」
夜風に舞う髪を払いながら、久々知は瞬きを二度落とした。それからゆっくりと微笑み、頷いてみせる。星影に光る顎の先を見つめ、鉢屋は音もなく立ち上がるった。廊下の縁へ近寄り足の裏を軽く払う。そのまま正面にある扉へ手をかけた。
中からはよく馴染んだ二人の声と、聞き慣れた声の聞き慣れない抑揚が微かに漏れ出している。
指先に力を入れる寸前で、彼は天上の針を見上げた。
もう見えない屋根の上に吹き抜ける夜風を透かし見るように。
*
春の風が宙を研ぎ澄ませる。青く輝く底をさらうように流れる風は若草の香りを含み、微かに冷たい。陽光に温められた空間では却って心地のよい冷涼に頬を晒しながら、彼らは野道を歩いていた。耳元で空気の擦れる鈍い音が聞こえ、すぐに消えていく。蜜蜂とすれ違ったのかもしれない。黒と黄の鮮烈な見た目に反した柔らかな毛玉を連想させる虫の温度が指先に蘇る。春になれば簡単に出会すことのある虫だ。触れたのは一度だけではなく、簡単に連想することができる。何度も触れ、その度に違う姿に触れる。蘇る感触は、しかし、いつも一つ。蜂という存在を抽象でしか捉えられないのかもしれない。ならば、人は。
鉢屋は日差しから面を守るように額へ手を翳す。足元に溜まった影が泥のように鈍く蠢いた。
「三郎?」隣を歩く少年が首を傾げる。影の輪郭が同じ角度で傾く姿が辛うじて見えた。否、影が動いたから、彼が動いたのかもしれない。「どうかしたのか」
「どうかはしている」鉢屋は答えた。「いつも」
「生きている、という意味?」
「飛躍するなぁ」喉の奥で静かに笑う自分を知覚する。少なくとも生きてはいるらしい。つまり、どうかしている。「考えていたんだ。私たちは私たちの姿を正しく思い出せているのか、ということを」
「難しい」久々知は躊躇いなく言った。鉢屋の問いが難しいという意味ではないことはお互いに分かりきっている。「そも、見えているものがどう正しいかを誰が決める?」
「そう。つまり、私たちはお互いにお互いの存在が正しく見えているか保証のない世界で生きているわけだ」
「正しさの定義については問わないでおくよ」久々知が肩を竦めながら微笑んだ。冗談のつもりだろう。息を一つ継いでから彼は続けた「存在の曖昧さ。その究極が生である以上、生きている限り俺たちは曖昧と抽象でしかありえない」
「具体は幻想?」
「信仰かな」
「それでは、」鉢屋は纏わり付いた影に足を沈めながら歩く。「影は」
「どちらでもない」考える素振りもなく久々知は答える。問われることを知っていたのだろう。鉢屋もまた、その答えを知っていた。「抽象でもなく、しかし、具体存在でもない」
「ただそこに在る」
「波と同じだね」
波もまた、変化にすぎない。水面の鳴動が現象となり目に現れるだけのこと。その運動は確かに存在しながら、しかし、存在としてはただの水だ。水を掬うことはできるけれど、波を捉えることはできない。影を描くことは、即ち影の先にある不確かな姿を描くこと。抽象と具体の枠外にあって、捉えることはできず。影響されては、囚われる。人にできることは、生にできることは、ただ見つめることだけだ。
「ところで」久々知は声音を変えずに言った。「どこに向かっているんだ、俺たちは」
先ほどのやりとりも道中を紛らわすための雑談であったというような、軽い口調。彼にとっては、事実、大差はないのだろう。抽象と具体の対極を簡単に踏み越えることができる。そうでなければ、どうして優等生と豆腐小僧が両立するというのか。
「いいところ」鉢屋は短く答えた。「秘密の場所なんだ」
「誰に?」
「皆に」
「俺は?」
「今はまだ」
唇の前で指を一本立ててみせる。蜻蛉を呼んでいるのではない。まだ春も始まったばかりの季節では、集まるのは蜻蛉ではなく蝶だろう。
行こうと言う代わりに彼の背を軽く叩く。指の節に黒髪が絡み、零れ落ちた。小さな摩擦が起こした熱は皮膚から骨に伝う前に消えていく。どこへ行くのか。不意に思考が巡る。指先を黒髪の間に通し、そっと撫でる。確かな意思。そこにある熱。それらは、しかし、どこへ行くのか。目的地があることの方が、奇跡か。奇跡こそが、目的かもしれない。
鉢屋が半歩前を歩きながら、彼らは野道を抜けた。森を傍に聳えさせた坂道を曲がり、水溜りを越える。児戯に等しい道のり。街へ至る道から外れたとはいえ、獣が行き交うのだろう。草木は半ば倒れ、自然の道を成している。森へ至ることなく坂道を下り、大きな岩に遮られた道の涯で鉢屋は足を止めた。岩の凹凸に掌を重ね、彼は首だけで振り返り、唇の片端だけを上げてみせた。
「兵助ならこの岩を壊せと言われたら壊せるか」鉢屋が尋ねる。「武器は使わず」
「壊せる」久々知は答えた。「岩があるという前提自体を疑えばいい」
言葉の代わりに頷き、鉢屋は微笑んだ。それから岩肌に掌を滑らせる。微細な砂が肌を擦る感触。岩に触った時の感触は簡単に再生できる。今、現実に、岩に触れていることを明かすものは熱でも摩擦でもない。次の瞬間に彼の腕が岩をすり抜けたとして、鉢屋は驚かないだろう。久々知もまた、然り。
鉢屋が片腕に力を込める。そのまま足で地面を蹴った。つま先が岩の窪みを捉え、跳躍。真上に飛び上がり、岩の頂へ。音もなく降り立った先から、砂の欠片が微かにこぼれ落ちた。人間一人ほどの高さを隔て、二人は見つめ合った。一人は宙を見上げ、一人は水底を覗き込むように。
星からの誘いのように、やがて、手が差し伸べられる。或いは波紋を掬い上げ、その手に写すための静謐さかもしれない。いずれにせよ、目に見えない力に手を伸ばすための仕草には変わらない。久々知は一瞬だけ、鉢屋が抽象を手にしようとする矛盾を受け入れたことの意外さに、目を細めた。それから鳥よりも軽く地面を蹴る。
白い爪先に、
影を反射し。
三日月の真似事。
伸ばされた手に月影が触れ、
包まれる。
熱。
身体が持ち上がり。
重さがあることを思い出す。
少なくともこの身体は具体。
身体とは、しかし、何だろう。
足が岩の硬い感触を踏む。岩の上は狭く、遅れて肩が触れ合っていることに気が付いた。
他人と隔てるための檻か。
他人から隔たるための盾か。
身体が傾き、飛び降りたのだと気付く。繋がれた手を引く力。星の光が地へと降り注ぐ力と同じ。最後に人は、必ず底へと辿り着く。或いは、其処に。
音もなく、衝撃もなく地面へ降り立ち、久々知は二度瞬きを繰り返した。眼前の風景に焦点を合わせ、見ているものを認識する。見ることと視ることの差を彼らはよく知っていた。
風に乗り、土と草の青い香りが鼻先を掠める。遅れて燻んだ甘い光が内腑に淡く広がり、静かに溶けていく。赤、黄、桃、橙。濃淡の異なる色彩が視界に揺れる。残光の波のように。押し寄せ、遠ざかり。花弁の角度で明滅する輪郭。円筒を模る曲線。先端に止まった蜜蜂が一匹、調和を奏でながら飛び去った。
「秘密の場所?」久々知は目の前を見つめたまま尋ねた。「きれい」
「たまたま見つけたんだ」鉢屋は答える。「誰かが植えたのか」
「三郎は綺麗な場所を探すのが上手いね」
「綺麗な場所だけを兵助に教えているんだ」
久々知が花畑の中へ足を踏み入れる。天に伸びた葉が彼のくるぶしに触れ、摩擦を起こす。彼は花畑の半ばにしゃがみ込み、花弁の先を辿る。南蛮衣装の袖口を思わせる縁が彼の爪を彩りながら柔らかく歪む。
「チューリップ」久々知が呟いた。「南蛮船から持ち込まれたものは見たことがあったけれど」
「見事だろう」花を見下ろしながら鉢屋は笑った。「この岩がなければきっと皆に知られていた」
「どうして三郎はここを見つけたの」
「たまたま」同じ言葉を繰り返し、それから一秒息を止める。「一人になりたかった時に」
「……だから秘密の場所か」
久々知の指が動きを止める。そのまま、両手で掬うように花を包む。
「私の秘密は、いつだって私の外側にある」
「つまり、」久々知は花に触れたまま言う。「選べない」
「内側にあればいくらでも制御できるからなぁ」
「ままないから秘密にするしかない」久々知は花に顔を寄せた。「いい香りだ」
先ほどの蜜蜂か。一対の小さな翅が久々知の鼻先に触れる。久々知は怖がる素振りもなく、その感触に微笑みかけた。子どもに微笑む教師のように。人に微笑む神のように。
蜜蜂もまた人の存在を畏怖することなく黒髪の上を一周飛び回ると、鮮やかな花の群れへと帰っていく。触れ合いと呼ぶには無機質な交点。星と星が行き交う一瞬にも似た、ほんの小さな偶然。久々知は、しかし微笑んだまま、鉢屋を手招いた。それから小首を傾げて見せる。こちらに来ないのか、という問いか。もしくは、ただの無意識かもしれない。
「摘んでもいいのかなぁ」久々知が呟く。
「いいんじゃないか」鉢屋は首を傾けた。野生の花を摘んではいけないという決まりはない。摘むのなら責任を持って生けろと彼らの級友ならば言うかもしれないが、鉢屋にとって摘んだ自然は既に手折られた生命。死を生かし続ける方が、余程不自然に思える。それは久々知も、きっと、同じだろう。そうでなければ、迷うことはない。「土産にでもすれば、皆、喜ぶだろうさ」
「勘右衛門は花よりお団子の方が喜ぶ」
「時には花を愛でることを知った方がいい」鉢屋は喉奥で小さく笑った。「アイツは」
「雷蔵は?」疑問符の形に唇が尖る。「仲直りの印」
「……昨日、ちゃんと謝った」
「言葉は選ぶためにある」久々知が多色彩の中で笑う。「よかった。二人が仲直りしてくれて」
青い風が山から吹き抜ける。春先の風は陽光に温もりを灯しながら、芯だけが静かな冷涼を保つ。細い葉に溜まった露が風に流され、湿度を拡散させる。燻んだ甘さに満ちた空間を、一瞬の水香が裂き、再び花の香りに綴じられる。朝露の名残だけが宙に散乱し、視界を眩ませる。
残光から逃れるように。残香に導かれるように。鉢屋はそっと足元の花に手を伸ばした。土が指触れる、湿った気配。草の手折られる、末期の香り。
「三郎?」
視線が揺れる。風に揺れる花の視線。
鉢屋は、ほとんど反射と呼ぶべき無意識で、背中に花を隠した。不安定な視線のまま、声を辿る。背骨と平行に伸びる花の色が何色であるかは思い出せなかった。
代わりに、花を抱えた少年が一つ。両腕に集められた花に顔を埋めながら、彼は一瞬目を伏せ、それから微笑んだ。
「それは、誰かのため?」
葉脈の直線が掌に新たな手相を刻む錯覚。生まれついた皺。気がついた時には歪み、捻れ、消えない線。
即ち、運命。
「決まっている」鉢屋は答えた。「ずっと。だから、選べない」
運命だけは選ぶことができない。否、選ぶことのできないものを運命と呼ぶだけのこと。
「選ばない」久々知は言い直した。はっきりと。迷いも躊躇いもなく。「選ばずに逃げることだって、できる。だから選ばないことを、選んだという方が、正しい」
「いいや」小さく首を振り、目を眇める。視線の先に、光の中に、佇む少年の影を捉えたまま。「目さえ逸らさないんだ」
黒目の中央に光源。
目眩。
背中の花。
肌に触れる葉が、薬指を繋ぐ錯覚。
光が滲み、
漂い、
赤と白のあわいへ。
「それでも、手折ったのは三郎自身の手だよ」
薄桃の光。
幻想のように拡散し、
現実として明滅する。
そして、
光を束ねた、
微笑。
「夜になれば星が輝くのと同じ」
腕に光を抱えながら、真っ直ぐに彼の視線が鉢屋に向かう。
揺らぐことなく。
誠実な。
どこまでも、逃れることができない視線。
その両端に二人の双眸は結ばれ、引き寄せられる。
離れていようと、いまいと。
近くにあろうと、あるまいと。
今も過去もなく。
「それならば」鉢屋は呟いた。「何を選んでも同じこと」
「だからこそ」久々知は答える。「俺は選ぶよ」
薄桃色のチューリップが腕の中で揺れる。久々知はゆっくりと、波に似た柔らかな足取りで近付いた。鉢屋の目の前で足を止め、一秒、呼吸を止める。
「俺を好きでいてね」
久々知の腕が宙へ。舞い上がる薄桃の光が光を乱反射し、祝福に似た輝きを放つ。花の雨は鉢屋の頭上に降り注いでいく。鉢屋はそれを見上げた。
背中に握りしめた花が揺れる。
薄桃色と重なり合った花の色を、彼らはとうに知っていた。