薄氷白い息が霧のように散る。
薄く舞い落ちる雪が宙で溶ける。
ただ背中が温い。そこにあるのは人の体温。視界の先には深い森。陣営から離れた場所にいた。野営の炎も見えない。ただ輝くのは夜空の星だった。
腕を組み、ただ佇む。掌に握った銅貨の固い感触を弄ぶ。
その背に感じるのはひとりの女の体温。
「ねえ、きいて」
顔は見えない。きっと、花が咲くような唇でそう紡ぐのだろう。
握った銅貨は契約の対価。だから顔は見ない。それが女の願い。だからそのままでいた。そしてその背がさらに寄り掛かってくる。
確かに言った、己は金次第の沙汰でどんな依頼も受けると。
拷問の類で口を割らせるも、厳重な警備を掻い潜り内部情報を得るのも、利権のために不利益になる者を葬るのもすべて金次第の沙汰。
そしてこの女はこんな依頼はどうだと訊いた――
「……『わたし』を『女』にして」
すでに、この娘は己の手で花を散らしていた。この言葉の持つ意味を正面から受け止めればそれはもうすでに済んだことだと。
――情で抱いたわけではない
少なくともこの娘はそう思っているだろう。契約の対価としてその身を窶せと己が求めたのだから。子供だと思っていた。そんな言葉を吐くなど考えられないと思うほどには。しかし、女というものはどんなに子供であろうとも女だ。
その唇が妖しく笑う。
「……抱け、というわけではない。それはいつもの……対価だろう?」
この娘とは大金が絡んだある重要な契約を結んでいた。それは娘の父から託された依頼。父の死により娘に継がれたのだ。それとは別な、軍用の依頼は別口で請けていた。その対価をこの娘の身を以って受ける。
それが契約だと言い聞かせれば一線を越えることはない。
たとえ、最奥で繋がろうとも。肌と肌で触れようとも。
それは、薄氷を踏むような歩み。
「わたしはどうして戦っているのだろうと……時々思う」
女は背中越しにそんな科白を吐く。
布擦れの音がする。腕を動かしたのだろう。わかる。その傷だらけの腕、躰。そして手。握り締めたその手は指先が硬く、鍛錬の積み重ねを思わせる。情事の際、指を絡めて握り締めれば必ず握り返してくるのだ。
そうして情愛の篭った所作で抱けば抱くほど残酷であるとわかっている。
ほのかな加虐心が疼いた。それが業務の対価などとなんと滑稽なのだろう。じくじくと、己の胸の奥も確実に痛めつけていくのだから。
離すことを前提にした手。それを繋ぎ、互いの心を傷め合っている。その中に潜れば潜るほど浮かび上がるのに苦痛を感じる。それでも毎度、それを止めないのは己に被虐心がある故というのか。
「いっそ……男だったのなら、望むとおりの子になれたかもしれないのに」
そう、諦念を含み聞こえてくる言葉。
そんな思いを口にすることが、紛れもなく女である証だった。
それは本能。それが男という餌を絡めとるのだ。弱く、狡猾な、愛しい生き物。
可愛らしい少女を装う。いや、それはそのものなのだ。
「それでもわたしは、嫌になるくらい女なんだ……弱くて、ずるい」
震える背中。
(ああ、そうだ。おまえは女だ。弱く、狡猾で、強い)
そして、美しい。
さらさらと、溶ける。指の上に落ちた雪。
これが幾重にも積もると野山すら埋め尽くしてしまう。
握った銅貨が温くなっていた。これは対価という盾。酒代にすらならない額の金だったが必要不可欠なものだった。少女になる対価が錆びた銅貨だなんて、どんな歪んだ世界だ。
やわらかく、朗らかで、穢れのない少女であるこの女の妹はそうであるためにこんな対価など必要としないのに。二人の父はそう役割を別った。あげく、対価を必要とする娘は父の死に様を見せ付けられ。責を負わされたのだ、呪縛のように。
ただ少女のように振舞いたい、それだけの依頼。それだけだ、と笑うことなかれ。そもそもそのような依頼をするに至ること自体が異常だ。
これは同情?
――流されてはならない
それは、この娘も望んではいないだろう。
否定も肯定もせず、ただあるがままに。半端な情は深くこの娘を切り裂くだろう。
「けれど、そんな自分を認められない。女になってしまったら何も守れないのではないかと……」
掌に溜まった雪が、溶けて流れる。
満身創痍だ。それでも歩み行く。そしてもうすぐ新雪に足跡がつく。
体温が離れた。
「付き合わせて悪かったな。……俺はもう大丈夫だ」
少女の時間は終わり。
そこにいたのは一人の戦士。血に染まった手を翳し、雪を受けて白く染める。
永遠など、ないと思った――
─了─