【ゆく妖/腐】微妙な19のお題:06【柏秋】
【06. たくさんの好きと、たくさんの愛を、きみに】
「…………やっと、わかったお。これで、やっと…やっと、……」
続く言葉は飲み込んで。電子の海の中から、やる夫の意識を移したコンピュータが置かれただだっ広い部屋のソファで一人、ぼんやりと座っている女性に向かって声を掛けた。
「――香主! 今、いいかお? …例の装置、解析完了したお」
「! 本当か?」
「やる夫にこんな嘘吐く理由なんてないお? 思った以上に時間かかっちまったけど、やっと全貌を解析できたお。これで、何年何十年だろうと自由に巻き戻れるし、張さんやあんたの旦那さん、息子さんたちをこっちに呼ぶことも、逆に彼らが生きてる世界にあんたを送ることも、可能だお」
「ッ…!」
香主の体が大仰なほどにがたがたと震える。泣く寸前みたいな顔をして、それでも三合会日本支部トップとしてのプライドか、歯を食い縛り、自らの体を抱きしめるように腕に爪を立て、耐えているようだ。その姿は、とてもマフィアのボスとは思えない。まるで、親を見失って泣く幼子の如く。
彼女に対して何らかの情を覚えたことなんて、知り合ってから一度だって無かった。直接関わってはいないとはいえ、彼女だって「彼」を苦しめ絶望のどん底へと陥れた、あの忌々しい三合会の一員なのだから。それについて思うことがないのかと問われれば、否とは言い切れない。
だが、やる夫の目的を達成するためには、どうしても彼女と手を組む必要があった。面倒なことを避けるという意味でも、やる夫が常駐できるコンピュータと時間転移装置を、誰か生身の人間に確保してもらわなければならないという意味でも、起こり得る悲劇の種をひとつひとつ確実に潰していくためにも。三合会日本支部のトップである彼女の存在は、どうしても必要だった。だからこそ、複雑な思いこそ消えなかったものの、ただやる夫の邪魔をしないでいてくれるのならそれでいいと心に決め――彼女と手を組むことを選んだのだ。
そう、彼女の「立場」こそ必要なものではあったが、彼女という人間自体には如何なる感情をも持つことは終ぞなかった。恨んではいない、憎んではいない。だけど好意どころか一欠片の情さえ持ち合わせてはいないし、これからだって永遠に情を持つことはないだろう、そんな存在。なのに今、何故だか…純粋に、「良かったな」と、そう思えた。
何と引き換えにしてでも取り戻したい大切な存在がいること、その掛け替えのない存在を理不尽に奪われた絶望…その気持ちだけは痛いほどに理解できるから、だろうか? 同情ではなく、共感としての想い。
「…………」
ふ、とコンピュータの中でひとり、小さく笑いを零す。最後にもう一度、と電脳の海に二つの映像を映し出す。かつて永遠に失った――大事な大事な青年の、笑顔と、死に顔。対照的なその二つを前に、改めて決意を固める。
必ず、この手で全てを掴んでやる。そのために自分は生きてきたのだから。
「香主。約束通り、やる夫はあんたの目的に全面協力してきたお。だから、あんたも…」
「わかっている。お前がやろうとしていることは、うちの部下たちや張の命を守ることにも繋がるはずだからな、なら文句なんて無い。全て、お前の好きにすればいいさ。……………………………………………協力、感謝する」
最後のは、人間の聴力なら聞き取れなかったんじゃないかってぐらい、小さな小さな声。情報生命体と化したやる夫をもってしても、音として拾い、解析するのに若干のタイムラグを要した。
あの忌まわしい事件から今日という日まで、思った以上に長い付き合いとなったが、彼女は最後まで素直じゃなかったな、と少しだけ笑えた。
後は互いに何も言わず、部屋に備え付けてあるコンピュータから香主の持つ携帯電話に意識を移し、共に装置の転移台へと足を踏み入れてもらう。あとは人間の香主と電子生命体である自分が、上手いこと同時に時間転移できるのを祈るのみだ。
香主はまだいい。脳の構造や肉体の構成が全く同じ――自らの肉体に転移できるのだから。でも、やる夫はどうだろうか。意識だけがプログラムと化した自分が、もはや脳も肉体も持たない自分が、生身の肉体に転移できるのか? もしも叶わなかったらと思うと、ひどく怖い。そのときこそ、やる夫の希望は、生きる望みは全て打ち砕かれてしまうのだ。
だが、立ち止まってしまうわけにはいかない。一縷の望みに賭け、装置を起動させる。ゆっくりと意識がブラックアウトしていって、ああプログラムの自分でもこんな感覚になるのか、と他人事のように思い、目を閉じた。次に目を開けたときには、希望が待っている筈と、信じて。
――たとえそれが運命に逆らうこと、天地の理を歪める行為であろうとも、全く構わないこと。今更、神の怒りなど恐れはしない。
あの、最も愛しい存在を永遠に失った瞬間に自分を襲った虚空の闇。あれに比べれば、神も悪魔も神話生物も恐るるに足らなかった。
あいつがいない世界で生きていくこと以上に、辛くて、苦しくて、恐ろしいことなんて、この世のどこにも存在しないのだから。
*****
ずん、と脳天にすさまじい衝撃が走る。脳を直接掴まれて、ぐらぐらと揺さぶられるような不快感。十数年ものタイムラグに加え、電脳体として記憶した知識が生身の脳に注ぎ込まれる感覚は、流石に強烈だった。普通の人間であれば、廃人と化しても何らおかしくはないほどの衝撃。いっそ狂ってしまえたらどれほど楽だろうか、それでも理性も感情も、肉体に脳に必死で命令を下す。弱音を吐くな、ここで崩れてしまうわけにはいかないのだからと。そう、意地でも狂ったりしない、壊れたりしない。人の脳では扱いきれぬほどの情報量、だけどそれもこれもすべて、やる夫の目的を果たすためには絶対に必要なものなのだ。
だが、上手く時間転移が成されたとしても、全ての記憶を残せたままとはいくまい。人間の体というものは、合理的でありながら不器用である。どんなに覚えようと、覚えていようと努力しても覚えていられないこともあれば、一目見ただけで覚えてしまうこともあり。逆に、忘れてしまおうと努力してもどうやっても忘れられないことだってある。
さらに、人間の体には、生存本能というものが存在する。平たく言えば、生きていたいと強く思う心。それは人間の持つ本能の中でもトップクラスに強い欲求と言えるだろう。それが存在する限り、肉体を脅かす可能性のあるものを、自分自身すら感知できないほど無意識に、遠ざけてしまう可能性が高い。
…時間転移が成功したとして、生身の肉体に電脳体として得た情報の全てを転送できたとして。その情報量に脳が耐え切れず、生存本能が、無意識に命令を下してしまう可能性だって、否定できないんじゃないか?
――肉体を、生命を脅かす「記憶」を、速やかに「忘却」せよ。…と。
ならば、どうすればいい? 答えは簡単だ。決して忘れたくない、忘れてはいけないことを、心に、魂に刻み付ければいい。生存本能さえはねのけられるほどに強く強く。忘れてしまうことの方が余程、自分の命を脅かすどころか――奪うに等しい行為なのだと訴え続けろ。
――忘れるな。忘れるな。忘れるな。忘れるな。忘れるな。忘れるな。忘れるな。忘れるな。忘れるな。忘れるな。忘れるな…!!
絶対に、忘れるな。もし忘れてしまえば、やる夫の目的は果たされない。他の何を忘れてしまってもいい、他のものならどんな記憶だろうと好きなだけ持っていくがいい。だけど、「あれ」に関する記憶と知識だけは、絶対に取り零すわけにはいかないのだ。
やる夫が願うのは、望むのは、想うのは、たった一つ。
――ずっと「彼」の隣にいたい。魔術もマフィアも神話生物も認識せずにいられるような、穏やかで平凡な世界の中、「彼」の隣で一緒に歩いていきたいんだ――
*****
「…………るお! …やる夫!」
「……ん、お?」
聴覚に届いた、誰かの声。朦朧とした意識の中、その懐かしい声音に反応してゆっくりと目を開く。すると、そこにいたのは。
「ああ! 起きたかやる夫! 大丈夫か? いきなり倒れたから心配しただろ…!」
かつて永遠に失ったはずの、この世界で最も大切な――「彼」の姿。
「…やら、な…いお…?」
「ああ、俺だろ! 大丈夫か? どっか痛いとこないか?」
記憶の中にあるものと何ら変わらない、どこまでも優しくて暖かい、気遣わしげな眼差しを前に、大声で泣き叫んでしまいそうになった。
やらない夫だ。やらない夫だ。映像じゃない、本物の、生身の。それも、学生服を着た、高校時代の――つまり、魔術も神話生物も身につけておらず右腕もちゃんと白い、人を殺してもいない、三合会の連中と関わり合いを持ってすらいない、普通の人間の、やらない夫。
良かった。時間転移は成功したのだ。泣きそうになりながらも現状を確認しようと、目だけを動かして辺りを見る。白い天井と、クリーム色のカーテンが風に揺らめく光景。窓から見える空は、橙色に染まっている。自分はといえば、どうやらベッドに寝かされているようだった。
「えと、やる夫、今、どうなってんだお…?」
「ん? ああ、覚えてないのか。ここは保健室だろ。もうすぐ昼休み終わるってとき、五時限目生物だったから、一緒に生物室まで行こうと歩いてたら、お前が突然ぶっ倒れて……」
「ああ…」
この体に転送された情報量の多さに脳がついていけず、気絶してしまったということか。むくり、とベッドから上半身を起こす。まだ少し頭がくらくらするものの、なんとか脳細胞の破壊によって廃人となってしまうことは避けられたようだ。
念のために手を握ったり開いたりして、改めてプログラムではなく生身の肉体に戻っていることを確認する。そして、思い切りよく頬を抓ってみた。…痛い。久々に覚えた感覚に、さらに涙腺が緩みそうになる。
夢じゃ、ないんだ。ここは間違いなく、過去で。自分は肉体を得ていて、プログラムじゃなくなって、文字通り高校時代に戻って、隣には間違いなく彼がいて。ああ、どうしよう…泣きそうだ。
「え、やる夫? 何自分の顔抓ってんの? やっぱ頭打ったか? そんでどっかおかしくなったのか?」
「ッ…や、なんでもないお。えっとほら、ちょっと寝不足で意識とんじゃったみてーで、まだ頭覚醒してないっぽいから抓ってみただけだお。心配かけちまってごめんだお」
崩れ落ちて、その胸にしがみついて泣き喚いてしまいそうになる衝動を堪え、笑顔で答える。莫大な量の情報が頭に流れ込んできたせいで、ジェットコースターに三十回以上は続けて乗ったみたいな倦怠感と眩暈が残ってはいるが、これ以上彼に心配はかけたくなくて。
「寝不足? って、あー…そういや例のゲーム、新作ゲットしたっつってたもんな。まーた徹夜でやってたのか、もしかして? …うくく、やる夫らしいだろ」
気持ちはわかるけど次の日が学校ん時ぐらいは自重しろよ、と呆れたように、それでも目一杯労るように頭をぽんぽんと軽く叩かれ、撫でられる。その手の感触が、あまりにも記憶の中にあるそれと合致していて、叫びだしたくなる己を抑え込むのに必死だった。
喜ぶのも泣くのも叫ぶのも後にしなければ。そう自分に言い聞かせながら小さく深呼吸をして、心を鎮め、そっと口を開く。
「……やらない夫」
何よりも愛しい名前を呼ぶ。あの日から、何度呼んでも返事はあるはずもなく、電脳の海の中、消えていくばかりだったその名前。
「うん? 何だ、やる夫?」
返事と同時に、微笑みを向けられた。彼が、生きている。間違いなく生きて、目の前に立っている。そんな些細なことが、たまらなく嬉しくて、幸せで――今度こそは失ってたまるものかと、改めて固く心に誓う。
「心配してくれてありがとうだお。やらない夫のそーいう優しいとこ、大好きだお」
「ッ、よ、よすだろ。親友なんだから、そりゃ心配すんの当たり前だろ、常識的に考えて」
ま、ただの寝不足ってんなら良かったよ、と照れくさそうに息を吐く、彼を。ほっとしたような、その笑みも。優しく頬を撫でてくれる、その「生身の右手」も。その体に流れる血液も、優しい声も、真っ直ぐな心も、何一つとして誰にも奪わせてなるものか。絶対に、もう二度と。
「親友だから当たり前って言うんだお? だったら、やる夫がやらない夫を大好きなのだって、当たり前だお」
「うはっ、…何、どうした? 今日はやたら好き好き言ってくれるな」
「んー? 別に理由はないお? ただやらない夫が大好きすぎて、言えるときに言っとかないとぶわーーーってあふれちゃいそうだからおー」
「…いや、ちょ、マジやめて、ヤバいから、ほんとに」
「何がヤバいんだお?」
「お前わかってて聞いてないか…?」
やらない夫はやる夫から思いっきり視線を逸らし、両手で顔を覆っているものの、耳や首筋まで真っ赤に染まっていることはよく見て取れた。今は互いに十代なのだから当たり前だけど、その反応が初々しくて笑みが零れる。
ああ、なんて愛しい。やっぱりやらない夫は、大人っぽくて穏やかな、優しい目をしているのが一番似合う。
『憎くてたまらないんだ。この世界そのものが。だから、壊す』
あんな、絶望と憎悪と狂気に満ちた冷たい目、彼には似合わない。あんな哀しい目はもう絶対にさせたくないし、見たくもない。
『悪役は、悪役らしく……最後はみじめに、死なせろよ』
お前の、右腕も内臓も抉られてボロボロになって地に倒れる姿なんて、金輪際見たくない。
『…………がとう……る夫……』
あんな悲しみも落胆も絶望も、二度と味わいたくない。…お前の、最期を、看取る、なんて……もう二度とごめんだ。
だから全てが終わったあの日、決めたんだ。必ずすべての運命を変えてみせると。過去を、未来を、この手で作り変えてみせるんだ、今度こそは他の誰かに任せっきりにするんじゃなくて、やる夫が、この手で。
たとえばお前がまたあの北米三合会の連中に付け狙われたとしても、どこにだって逃げられるように手を尽くしてみせる。絶対にそうならないようにあらゆるパターンをシミュレートして取れる手段は全て取っておくけれど、もしも万が一、億が一にもまたあの連中に拉致されてしまったとしても、どんな手を使ってでも探し出し、救い出してみせる。
そのために、香主と同じ時代に飛び、もしも「そのとき」が来てしまったのなら手を貸してもらえるようにと「契約」を取り付けたのだ。やらない夫が奴らに拉致されることもなく、殺し屋として教育されてしまうこともなく、ただの一般人で居続けられたのなら、あの事件でやらない夫に殺された彼女の部下たちや張さんが、あの日に再び殺されることもないはずで。やらない夫が北米三合会の連中に拉致されることのないように守ることが、結果的に彼女の部下たちや張さんの命を守ることに繋がるのだと、彼女を説得することによって。彼女の夫や子供たちとの再会を全面的に手伝うという条件も重ね、彼女を頷かせることに成功したときの歓喜といったら、何にも例えられないほどだった。
「…やらない夫」
「な、何」
「やる夫は、何があっても、やらない夫がどんな奴になったとしても、ずーっとやらない夫が大好きだお。それだけは変わんねーから。覚えててくれお」
「…?」
まっすぐに彼を見て、ひとかけらの嘘偽りもないのだと訴えるように、しがみつくように投げかけた言葉。そんなやる夫を、疑問符を浮かべながら見つめ返してくるやらない夫は、十数秒の沈黙のあと、幸せそうに顔を綻ばせて――
「……ありがとう、やる夫」
彼の、最期と、全く同じ言葉を吐いた。あの時も、もしかしたらこんな顔をしていたのだろうか。そう思ったら、また泣き出しそうになってしまう。気付かれぬように、さりげなく布団の中に震える手を突っ込んで、ぎり、と太腿に爪を立てるように強く握りしめる。堪えろ、と己に必死に言い聞かせながら。
「やる夫。俺も、お前が大好きだろ。お前と会えて、お前と友達になれて良かったって思ってる。…うくく、改めて口に出すと照れるだろ、うくくくく…」
照れくさそうに、楽しそうに笑うやらない夫を前に、心が満たされていくのを感じる。
…なあ、やらない夫。やる夫が、お前と一緒に過ごした日々を何より尊く幸せなものだったと感じているように。お前と出会えた世界を、お前と共に過ごした時間を、愛しく思っているように。今のお前にとってもそうであったらいいと願っている。いや、そうさせてみせる、今度こそは絶対に。
あのときは、お前と世界を秤にかけて、やる夫は世界を選んだ。世界を救いたかったとか、そんな立派な感情じゃなくて、ただお前に世界を滅ぼすなんてさせたくなかったから。もう二度と戻れないのなら、せめて自分の手で楽にしてやりたかった。
お前の敵に回ると決めたこと、後悔はしていない。だけど、あんなに側にいたのに何も気づけなかったこと、お前を助けてやれなかったこと、何一つ相談すらしてもらえなかったこと…全てが後悔だった。
だから今度こそは。…本音を言えば、やる夫は、世界も、お前も、どちらも守りたかった。いや、守ってみせるんだ、今度こそは。やる夫が一番救いたかった「ひとりぼっちの魔術師さん」は、もうこの世のどこにもいやしないけど。今隣にいてくれるお前だけは守るんだ、絶対に。
どんな苦難に見舞われたとしても、何があってもこの世界で生きていたいと思えるほどの喜びや満足感、プラスの感情を、お前にたくさん教えてあげられたらいい。もしもまたお前の心が憎悪に染められる日が訪れたとしても、それを塗り替えられるほどの幸せをあげられたら、きっと何かが変わるんじゃないかって思うんだ。
いっぱい、いっぱい好きだって言うから。たくさんの好きと、たくさんの愛を、お前だけに向け続けるから。やる夫にできる精一杯で、お前を守り通してみせるから。
今度こそはどうか、ずっと共にあれますように――――