Fractions#87_裏・トランの英雄と丹盤廿王 丹盤(タンバン)という地は、西方大陸の北東部に位置し、自らを同一の巨人の子孫と称する二十の王族が土地を分割統治し、やがては自分の族が地を平定したいと思いながら、相争っている所である。お互いに隙を見せれば侵略を仕掛け合う情勢は、一八〇年も続いているのだが、民心はさておき、諸王は、戦いに倦むことがない。彼らは決定的な一打を他の族に加えて、戦を終わらせるのは自分だ、と信じている。
この地に伝説がある。昔、丹盤の地に足を踏み入れた様々な部族の頭領たちは、丹盤の地のおおよそ中心にある裂け谷へ、先祖を祀る祭器を投げ込めという声を聞いた。夢であったり、虚空から響くものであった。祖霊と言葉をかわすための祭器を、深い崖に捨てろというのは、彼らにとっては血脈から受ける揺るぎない庇護を捨てることであり、正気の沙汰ではなく、ほとんどの族長は土地の魔物の悪戯と思って忘れ去ったのだが、これを啓示と捉えて、本当に祭器を崖に投げ込んだのが、今日まで残っている二十氏族である。
そうしなかった一族はどうなったか。不可解な奇病が流行って、人間だけが死に絶えた。家畜も、財物も、他の取るところとなった。
二十の族長は、このおそるべき事態について協議するべく集まった。当時はまだ、彼らは、別々の理由で同じ時に同じ場所に入植したというだけの、ただの近所の住人どうしだった。思えば、丹盤という広大な沃土に誰も先住の人がいなかったのは、奇怪なことであった。
会同の地で、族長たちは文字の刻まれた岩塊を見つけた。岩自体は自然石であり、地面から突き出ている。それに、比較的最近に、人間が道具を用いて刻んだとしか見えない一文があったのだ。
「裂け谷の底、至真の口に二十王の宝を納め、奉ること七歳にして、二十のうちの一の王、二十に二十倍する力を我がものとするべし。」
会同は沈黙の中で終わった。この地にある、または棲む「何か」が、彼らに要求しているのは、互いに敵対し、傷つけあい、陥れあうことだった。
一八〇年の間に、戦いから離脱しようとしたものも、話し合いで落とし所を見つけようとしたものもあったが、それは、数十年に一度、たまに生まれてくる変わり者によって、短い間試みられるだけであった。いくつかの氏族の間で停戦が約された事はあったが、人間の一代より長く続いた試しはない。これが、丹盤という土地のあらましである。
激しい争いの絶えない土地であるので、安全な旅行など望むべくもない。そこで起きていることは、二十氏族の闘争の圏外で、漏れ聞こえてくるのを拾うしかない。
近頃流れてくる噂に、こういうものがある。
第十六部族の首長、マスカダル戎(じゅう)は、先王であり父である故マスカダリ洗(せん)の弔いのため、第四族オルドワ岳(がく)の族を攻めていた。オルドワ岳は、第十一族クレモン必(ひつ)と裏で手を結び、クレモン必がマスカダル戎と同席して丹盤の外の商人と交易する市に刺客を入れて、戎を亡き者にしようとした。しかしそこで一人の旅人がマスカダルを襲う剣を防いで、マスカダルと共に、数で優る刺客を相手に立ち回り、マスカダルを危地から脱出させた。マスカダル戎はこの旅人に謝して、武技と機転を高く買って己の幕下に迎えたいと申し入れたが、旅人は訳あって丹盤に留まることはできないのだと答えた。
(……ははーん、話が読めたぞ。)
旅人は我が身は呪われていて、行くところには必ず流血の動乱が起こると言った。これに、マスカダル戎は答えて言った。「見よ、この地を。我ら丹盤廿族、至真の口を巡りて戦うこと一八〇歳、一夕の平和なし。戦禍地に根付き、族の血を啜りて育つこと大樹の如くにて、去らざる。我らその樹下に住む。いかでか一鳥の梢に留まるを災いとせんや。」
リオウは報告書から目を上げて窓の外の遠くを見、ぎゅうぎゅうにシワの寄った眉間をほぐした。そんな話し方を本当にする人がこの時代にいるものだろうか? 西方大陸は未知の場所だ、リオウには信じられないようなことが当たり前、そんなこともあるのかもしれない。
ひどく読むのに苦労したがとにかく、丹盤というところは百八十年も戦争をし続けている土地だから、戦乱を呼ぶ真の紋章持ちの一人や二人どうってことないという理屈で……報告書の続きを読むと、“旅人”はマスカダル戎の幕僚に加わった。のだ。なんということだろう。「この旅人がテラ・マクドールである可能性は否定できず、報告するに値すると――」
リオウは報告書を手から放して柔らかな絨毯の上に膝から崩れた。どたっと上体を床に横たえて、低めの視点で自分の執務室というものを見てみた。壁は石造りで頑丈、窓は飾り枠に国章をあしらって、やや高い天井に吊り燭台が五つもある。静かだった。これがリオウの小さな世界だ。北はハルモニアとの長い国境がいつも緊張状態にあり、南はトランとのまめやかな交流があり、西はグラスランドを中継してゼクセンとの通好を模索している、大きな一つの国となったデュナンの意志、行動の全てが、ここから発してここに帰ってくる。
その耳も手も届かないところだ、西方大陸とは。
リオウが倒れた音を聞きつけて、宰相となったシュウと侍人二人が慌ただしくやってきた。何でもないことを告げて、シュウのお供は下がっていったが、シュウは片手を上着のポケットに入れて、こわいオーラを出しながら、床にへこたれたままのリオウを見下ろした。
西方に送ったスパイの報告はシュウもすでに読んでいる。シュウはやろうと思えば、報告をリオウに見られないうちに処分してしまうこともできるので、次からこの手のやつは捨てられてしまうかもしれないな、とリオウは思った。王下直属の諜報部が必要だ。使途は自分の趣味みたいなものだが。
「いつまでそうしているおつもりですか。」
表情に冷たさがないのはシュウの自制心であろう。
「このマスタードなんとかってやつが死ぬほど妬ましい。」
「ぶっちゃけるのはほどほどにしろ。」
「ねえシュウさん。」
「なんだ。」
シュウのリオウに対する敬語は時々取れるようになった。シュウの中の軍師としての“あるべき姿”から、彼は今自由なのだ。
「このマスカルポーネとかって人は良くてぼくはだめなのなんで?」
シュウは呆れかえったようすで前髪を掴みながらハァっと急速なため息をついた。名前を出すのも厭わしいあのアレのことで、リオウがメランコリやマニアックの様相を示すことは度々であった。だが、今、リオウが自らの君主としての器の大きさを自らに問うているのは、統治者としての資質に関わることであり、そのこと自体は悪くない。
「試みに臣従を求めてみたことさえ、そもそもあるまい。」
それはそうだった。リオウとシュウの間、そして今はマカロネージュなんとかとテラの間、その関係を君臣という。リオウはテラに臣下にならないかと誘ってみたことがなかった。発想すらしたことがなかった。国の内外を問わずに優れた人物を探し求めていながらに、驚くほど近くにかなり有用な人がいたにも関わらず見過ごしてきたのは己の蒙(くら)さであったと、リオウは反省した。それとももしか、テラと会う時のリオウは、一瞬も「王」でなかったのかもしれない。
「君臣の間柄となれば、もう『友人』ではない。律儀な男だ、一度でも己の主君として仕えたなら、名目上やめたとしても、再び『友』に戻ることはないだろう。」
リオウは口を結んで考えた。テラに我が君、と傅かれてみたい気持ちは、王というものになってはじめて湧いた感情だ。それがもしも受け入れられてしまったら、代わりに友達でいられなくなるのだ。そのことを、シュウは心配してくれている。
「また、例の紋章がこの国に益することはないのは明らかです。どうか無用な空想はやめて……」
シュウは言葉を慇懃にした。すると軍主と軍師だった頃のいろいろなやりとりが思い出されて、リオウは懐かしくなる。
「その無様な態度を改めろ。」
「えーん、シュウさんがいじめる。」
シュウは、ツンとした。
「シュウさん。」
「なんだ。」
「結婚してね。綺麗な奥さんもらって。」
「何の話だ。」
「子供もたくさん作ってね。」
シュウがリオウの顔から何か読み取ろうとしたので、リオウはよそを向いた。
そうした会話のあった時から六年ほど後、ふいにテラがリオウを訪ねてきた。面会のための室に入ると、テラは旅の荷物を全て背負ったままで、都に着いてから、まだどこにも着座していないのではないかと思う煤けと疲労が、顔の上にあった。思うたけ久闊を叙したあと、リオウは切り出した。
「丹盤の方はどうなりました?」
そうしたことを言ったのは、テラに、ここ数年の彼の動きをデュナン国として監視していたのを明かす意味があり、また、紋章にまつわる懸念を共有していた、より心に即した言い方をすれば、心配していたことを伝えたかったためであった。
リオウの口から出た丹盤の名にテラは眉をぴくりと響かせてからほの笑んだ。リオウが放った間諜が身辺を喧しくしていたであろうに、まるで知らないといったふうだ。
「ああ、お聞き及びか。話が早くて助かる。大方まとまったよ、残るはカルナック合(ごう)とムルシャヒ錢(ぜん)の族の一騎討ちだ。」
リオウは血の凍える思いがして少しの間息を止めた。今、残っているのは二族しかないということは、六年前に十八あったそれ以外の氏族は、いずれかに滅ぼされるか収合されてしまったのである。テラを幕臣に迎えたマスカダル戎(じゅう)も、その仇敵であったオルドワ岳(がく)も、武力と謀略の激しい相剋の間に摩滅して、掠れていったのだろう。果たして遠い異国の地で一八〇年続いた戦乱の時代が、今しも終わるかもしれず、歴史の大きな流れが節目を結ぶ時と場所に、またしてもソウルイーターはあった。
テラが戎族の滅亡のどの辺りまで付き合ったのか、リオウには知るすべがないが、無感動に語る言葉は、一塊の悲愴をその下に伏したような、空しさを抑えたところがあった。
「奇妙に思うよ。人々は伝説の、二十の諸族を平らげる力を手に入れようとして争っていた。だが誰かがそれを実際に手に入れる前に、部族統一が実現されようとしている。」
そうですね、とリオウは肯(うべな)いつつ、知らない異人たちの力への癒えることのない渇望が、かつて見たものに似ているような気がして、それらを頭の中で重ね合わせてみた。
リオウの幼馴染のジョウイは、明確に思い描いた未来の像を叶えるために、力を求めた。狂皇子と呼ばれたルカ・ブライトさえ、その力を振るいたい相手を自分で知っていた。つまり、父親、都市同盟の人間、さらに人間の幸福、愛を憎んでいた。
今、丹盤の地で、他の十九の族を飲み込み、「至真の口」のある聖地を我領として、伝説に語られる力を--それが実在するのなら--手に入れるものは、その力でなにがしたいのだろう。
「統一を維持するのに……もっと力が必要なのかな。」
という言葉がリオウの口から零されるのを、テラはつぶさに観察していて、物思わしげなため息をついた。
「そして、国内を威服してなお余力があるなら、外征を始めるかもしれない。」
海を隔てた、別の大陸の出来事とはいえ、不穏な動静である。もしか、テラがリオウとの面会のあと、デュナンを止まり木にして再び発つ鳥のように、時を置かずにどこかへ行きそうなのは、この情報を別の場所にももたらすためかもしれない。
「それは……その“力”って……いや。」リオウは考えが口から滑り出そうとするのを御した。「テラさんの見立てが聞きたいです。」
テラはリオウの器宇の拡がりばかりでなく、器の中身が充実してきて、人格が重みを増したのを察する。王は“聞く者”だ。重大なものとして取り扱われるだけでなく、自らが重大なものを取り扱うための厳しさが、目の底に光り始めているリオウである。
「真の紋章が人為的に封印されていると考えるのが妥当だろうな。」
それは、リオウの当て推量と一致していたようで、リオウは目をわずかに、鋭く眇めただけだった。
「百八十年かかって、ものすごい数の人が命を落として、それでも解けない封印?」
「おぞましいよな。呪いを吐き散らかしながらでないと、地に鎮まらない紋章なのか、丹盤で生きようとする人々を呪うために、誰かがしかけたのか。」
「至真の口、っていうのはどんなところ? ……もの? ですか?」
「二十の氏族が昼夜となく見張りを立てているから、とても近づけたものではないんだが、紡錘形の岩が上と下から生えている隙間のようだった。」
これぐらいの、とテラは両手の間の距離で隙間の高さを示した。
「ん? かなり近づきましたね。」
「大変だったよ。」
テラが苦労を苦労したと言うのが珍しかったので、リオウはぱかっと口を開けてしまった。それほどか、と考える。行ってみるだけで、人が死んだかもしれない。
テラが去った後の部屋で、リオウは片手を椅子の背もたれに乗せて、まっすぐ立つための支えとしていた。部屋には透明なテラの存在感が残っているように思われた。リオウは目を閉じて、その空気の中で呼吸した。すると、交わした言葉や投げかけられた眼差しが記憶の中に堆積するように感じた。
「話はうまくいかなかったようだな。」
そうとは見えないように壁を薄くしてある側の隣室から、シュウが移ってきた。リオウは毎日顔を合わせているのだが、六年前と比べるなら、青年をやめて壮年に入った肌には脂が乗っている。妻を迎えて二男二女を授かり、一人にはリオウが名前をつけた。
「……それどころじゃなかった。」
リオウは懐から、鎖で括った二つの金属の鍵を出して、机の上に置いた。首都の一画に新造した邸宅と蔵の鍵で、機を見てテラに、デュナンでの仕官を打診すると同時に押し付けるつもりだった。 そんな話は、切り出す端緒すらつかめなかったが。
「またすごい、ひっどい厄種……あの人はいつもいつも。」
シュウはその鍵をちらりと見ただけだった。
「今のあなたは、同盟軍のリーダーだった時よりも守るものが多い。」
その口調は、主君であるリオウに対するものに滑らかに変わっている。
「ハイランドとの戦争が終わった時、ナナミやジョウイと共にこの地を去っても良かった。だがあなたは戻ってきた。……より困難な道を自ら選んだのだ。」
リオウは眉を崩して苦笑した。
「それ、テラさんにも前に言われた。」
シュウはそれになんの感慨も湧かないという顔をしていた、が、多分内心では面白くないと思っている。リオウは息をついて、渡せなかった鍵が吸ったリオウの体温の残りに指先だけで触れた。
「嫌だなあ、って思う方を選ばないと、また大切な人を失うんじゃないかって怖くなるんだ。それだけなんだよ。」
テラとはまた、数年会わない。