【単発現パロ三池兄弟】夏の幻【霊力フェス‼】 父が、再婚するという知らせを受けたのは春というには少し早いが暦の上では立派な春の時期だった。
大学の時に家を出てからというもの、年末年始と盆には帰省していたが、男二人、それも揃いも揃ってあまりおしゃべりではないのでいつも沈黙が真ん中に鎮座していた。母がいた頃はおしゃべりな母親が一人で話しており、こちらは相槌を打つだけだったが、今でもおしゃべりな女性を見るとそんな昔のことを思い出すので、正直なところ再婚の知らせに困惑がないわけではなかった。
それでも、もう母が亡くなって七回忌も終えている。父の年齢を思うと将来最後を共にする相手が出来るのならいいことだと思うし、さすがに兄弟が出来ることはないだろうと思ったので気軽な気持ちだった。普通に「良かったな」と答えると、少しほっとした様子で式などはせず、身内だけで食事をしてお披露目とすると。当然そこに光世も参加しなければならない。適当に休みが取れそうな日程を伝えて、まずは相手と普通に顔を合わせようということになった。
久しぶりに地元に帰る。一時間もすれば帰れる距離だが川を渡ることに変わりはない。特に会いたい友人知人もいないので、真っ直ぐに指定されたファミレスに向かった。初めての顔合わせがファミレスでいいのか? と思ったが、まあ、二人がいいと言うならいいだろう。
「光世」
久しぶりでも、さすがに肉親の声はすぐにわかる。ひらひらと振られた手の平に向かって歩いていくと、ボックス席にもう三人座っていた。
三人?
「こっちこっち。久しぶりだな。ここなら場所が変わってないからわかるかと思って」
「ああ」
「こんにちは、光世さん」
「あ、はあ、こんにちは……」
父の隣に座らされ、荷物を置いてると、父の目の前にいた女性が立つ。慌ててこちらも立ち上がる。女性が立った時に、頭をぺちんとはたかれてその隣に座っていた金髪の青年も立たされていた。
「このたび、お父様とお付き合いをさせて頂いております。どうか、お見知りおきを」
「あ、いや、その、わざわざご丁寧に……」
「こちらは私の息子のソハヤです」
「どうも」
反抗期真っ最中のような見目と態度に思わず吹き出しそうになるのを必死に耐えた。制服を着ている。見覚えのあるエンブレムに、今度こそ懐かしさに少しだけ口角が上がった。
「一高か」
「あら……」
「ああ、光世もそうだったな」
「え、お兄さん、じゃあ先輩ってこと?」
先ほどの不貞腐れた態度はなんだったのか、というくらい急にパッと表情を変えた。おそらく、この感じでは光世を見定めようとしていたのかもしれない。悪意はなさそうだし、素直な反応にお互いもう一度「どうぞどうぞ」と席に座りなおしながら青年を見た。少しリニューアルしているようだが、自分が着ていたのと基本のデザインは変わらない様子だった。
「ジャージは今でも濃紺ですか?」
「はい。どこ行っても学校がバレる」
「ジャージで買い食いするからでしょ」
「腹減るんだから仕方ないだろ!」
ほらほら、じゃあまずは食事をしよう、といって父がメニューを広げた。
父のその言葉に素直に従った再婚相手と連れ子の様子に普通に良好な関係を築けているようで、改めてよかった、と感じる。
母と似たような話し方をする女性だった。そこに少しだけ安心してしまって、同時に胸が少し痛んだ。
*
「俺さあ、最近兄ちゃん出来たんだよな」
「は? 後から兄貴って出来るもんだっけ?」
昼にいつものメンバーで屋上に集まってソハヤがそう報告すると真っ先に反応したのは獅子王だった。弁当組の山姥切国広は大倶利伽羅と一緒に先に食べていたらしい。口の中のものがなくなってから「再婚か?」と聞いた。
「そう。母ちゃんが」
「へ~、あるある」
「そうかぁ? お前新しく兄弟出来たことあんのかよ?」
「うち、じーちゃんしかいねえもん」
そういえばそうだな、となって、またそれぞれの話題に適当になっていった。
ソハヤは母の再婚は賛成だった。
ソハヤが産まれてすぐに警察官だった父は強盗事件で店員を庇って犯人に刺殺されたという。職業上致し方ないという想いは母子ともにあり、今でも実父の写真はきちんと仏前に添えてあるし、毎朝夕の掃除とお供えは欠かさない。そんな母が、ようやく心惹かれる相手が出来たというのは、思春期ではあったが自分のために身を粉にして働く母を見て来たソハヤとしては正直なところ嬉しかった。
おしゃべりで小うるさくて、でも愛情たっぷりで、実家に行けば瓜二つの同じく口やかましいジジイがいるが、やはり愛されていると実感できるので非行に走るような不満はない。生活は楽ではないが、貧乏ではなかった。ソハヤもアルバイトをして家庭を支えている。だが、自分のために母の人生を棒に振らせたのではないか、という気持ちはずっとあった。
とても良く似た親子なので、もういい加減ソハヤも母の強がりだってわかる。何度か手を挙げられたこともあるが、毎回謝りながら泣き崩れる母親になにもしてやることが出来ずにいた。
早く大人になりたかった。
母の重荷ではなく、支えていける、一緒に歩んでいけるような大人になりたかった。
なので、初めて交際相手を紹介された時は本当に驚いたのだ。母の「母」以外の顔を見せられたことに。
初めて相手の男性と会わされた帰り道、あの強気な母が恐る恐るというように自分の顔色を伺いながら「どうだった?」と聞いてきたのを忘れられない。
「いい人なんじゃねーの。まだよくわかんねえけど。母ちゃん、おしゃべりだから、あれくらい静かな人のがいいだろ」
「そう……」
「父ちゃんも静かな人だったんだろ? 全然似なくて悪かったな」
「バカ。アンタは私に生き写しなのよ」
そういってもうとっくに追い越したのにワックスで尖らせた頭を無理矢理撫でられた。
それから母の実家にも行き、一緒に食事をするようになり、時々外食をして、ついには相手と二人きりで映画を観た。
静かで、穏やかで、二人の生活にはなかった空気だった。安心する、凪いだ空気には時々泣きたくなる。
いつもソハヤと母親の間には忙しなさと焦りと、そんな切羽詰まった毎日への息苦しさに対して倍量以上の互いへの愛情だけでやり過ごしてきた無駄があった。破たんしなかったのは、お互いがお互いのためだと我慢をしていたからだ。
関係者が二人しかいないと矢印の向きがいつも定まってしまう。
けれど、こうして第三者が現れると、途端にスムーズになった。ソハヤも母も、この新しい家族になるかもしれない人に色々なことを話した。それを受け止めてくれた。懐が深いと素直に思った。
間違っていることをしていればソハヤにも母にもきっちりと「それはよくない」などと言う。勉強しろ、とは言わないが、あまり学校はサボるな、と注意はされた。一つの授業がいくらなのか計算してみるといい、と少しだけ笑われたけれど、効果はてきめんだった。バイト代を無駄にしているようにすら感じた。
だから、このまま三人で新しい家族で過ごしていくんだと思っていた。本当の父は、ちゃんとずっと仏壇にいる。胸の奥に、自分の中に血として残っている。
あの日まで、そう思っていた。
「おいおいおいおい、あんな兄ちゃんいるなんて聞いてなかったけど⁉」
「いや、すまん。すっかり忘れていた」
「よかったじゃない。あんた昔お兄ちゃんかお姉ちゃんが欲しいってビービー言ってたでしょ」
「いつの話だよ! 物理的に不可能だろ!」
「まだ閉経してないわよ!」
「そういう話じゃねえ!」
夕飯まで一緒にいたが、実は父子ともに酒に強いらしく飲んでも飲んでも顔色が変わらない。呆然としているソハヤをよそにグラスが空になれば「次、なにを飲むんだ?」と聞き、皿の上になにもなければ肉や野菜を適度によそい、義父同様物静かなのにぎこちなく気を使ってくれた男だった。
二十代半ばだと言うから十まではいかないが小学生以上には離れている。やけに背が高くて、少し伸ばした髪はハーフアップにしていて格好はシンプルながらに品があった。そんなところまで父子そっくりである。
聞いてねえよ! あんなにかっこいい息子がいたなんて! 知ってたら俺だって学校帰り制服のままでなんて行かなかったのに! せめて私服で出会いたかった!
もちろん、光世はすでに成人しているし仕事もあるので一緒には暮らさない。だが、適度には帰省しているとのことでこの様子だと父親の様子見がてら盆暮正月はきっと顔を出してくれるだろう。
急激にソハヤの中で興奮が止まらなくなった。あんなカッコいい兄ちゃんと兄弟? マジかよ?
しばらくは浮かれていたらしく母から「ずいぶん気に入ったみたいね」と呆れられるほどだった。
*
意外なところから電話がかかってきた。
「もしもし……」
なにか、良くない知らせだろうかと背筋が凍ったが、なんてことのない、そして願ってもない話だった。
「本当に良かったのかよ、せっかくの夏休みこんなことに使って」
「構わない。どうせ夏季休暇を取ったって毎年することもないんだ。することがあるだけありがたい話さ」
再婚してからの生活は特に何事もなく進んでいるらしかった。すでに光世と顔を合わせた頃には同居をしていたというから、なおさら変化は少なかっただろう。家族四人のLINEが出来て、一ヶ月に一度くらい野菜や生活用品が送られてくるようになった。強制的に調理が必要になったので土日あたりは健康的な食事になって関係ないと思っていた光世の生活まで少し潤いが出来た。
そんな中、義母から連絡が来て恐る恐る話を聞くとライブのチケットが余っていて困っているが興味はないか、というものだった。
ソハヤと母で行くはずだったが、急遽仕事になってしまった。普段なら母の分のチケット代は諦めるが、今回は地方公演。ホテルも取ってしまっているしさすがにソハヤも一緒に諦めさせるのは可哀想だ、ということでダメ元で連絡が来たようだった。最悪一人で行かせるというが、未成年のため出来れば行かせたくないとのことだった。電話の背後で「一人でいけるって言ってんだろ!」とか「他人に迷惑かけるな! 母ちゃんのせいだろ!」と盛大な親子喧嘩が聞こえた。
聞けば光世もよく聞くアーティストだ。なんなら自分で車を出すと伝えると素っ頓狂な義母の声が響いた。
「本当に⁉ 本当に一緒に行ってくれるの? この子うるさいけど!」
「はあ、構いませんよ」
二、三度しか会ったことがないが、父子家庭だった光世には、生まれてからずっと母子家庭だったソハヤがそんな分別のつかない人間ではないだろうこともなんとなく察していた。ホテル代とチケット代は構わないと言われたが、さすがにホテル代くらいはと払うことにして電話を切った。
それが二週間前のことだ。
ソハヤは待ち合わせの十分前にいた。黒いキャップを被ってハーフパンツに黒いサンダルというすっかり夏の装いに、今回のツアーTシャツをもう着ている。光世もつい浮かれてデザインが気に入った二つほど前のツアーTシャツを着ていた。荷物は背中のリュックと紙袋だけらしい。
「ソハヤ、くん。すまない。待たせたか?」
「あ、いや、いえ、俺も今来たんです」
嘘をつけ。首元のタオルがもう濡れている。
助手席に座らせ買っておいたペットボトルの水を渡す。ライブに行く前に熱中症になられてはたまらない。
「あ、ありがとうございます」
「敬語もいい。一応家族なんだし……」
「へ! あ、はい! あ、いや、うん。あの、俺もソハヤでいいんで……」
「あ、そうか?」
キャップを取って髪をタオルで拭き取る。そのままぐるりと頭に巻いてゴクゴクと水を浴びるように飲む。
「冷えピタもあるが……」
「あはは、ほんとに大丈夫だって! あー! 生き返った! あ、これ母ちゃんからです」
紙袋を渡されて中を簡単に改めると光世の好物であるイカの塩辛の瓶詰めだった。
「悪いな。こちらこそ棚からぼた餅だというのに」
「いえ、車まで出してもらって嬉しいっす!」
光世がシートベルトを締めると、ソハヤも慌ててそれに倣った。
「では、行くか」
そうして出発して二時間半。途中のPAで暑いのに二人してなぜかラーメンを食べて汗だくになり、少し打ち解けたような気分になった。気がつけばあっという間で、もうすぐ目当ての県に入るところまで来た。
「光世さんはこのアルバムならどれが好き?」
「最近のは聴いてなかったからこの話を受けてから聴いた。まだあまりちゃんと聞き込めてないな」
「じゃあとにかくコレ! コレ聞いてくれよ! これがドラマのタイアップになってめちゃくちゃ売れたんだ。プロデュースもいつもと違う人で全然雰囲気違うんだぜ」
「ほう」
最初はぎこちなかった二人の会話だが、ソハヤが会話を途切れさせないのが上手い。こちらを気遣う発言も多く、やはり年齢の割には大人びているように感じる。
それでも好きなものの話になると楽しそうに年相応になり熱を帯びるのは母親とよく似ていた。
新アルバムを流しながら高速を降りてひとまず先にホテルに向かう。そこから会場までは電車で二駅だ。会場に駐車場もあるし車で向かっても良かったのだが、この時間では駐車場の位置取りが微妙であるので辞めた。それにライブ後に酒も飲めない。
母からもらったホテルの情報をカーナビにあーでもないこうでもないと操作するソハヤを見ながら新鮮さを感じた。この車に父と、同僚を時折仕事の都合上送る以外で誰かを乗せたことがない。高校生なんてもってのほかだ。騒がしい、と彼の母親は謙遜したが、その騒がしさはなぜだか苦ではなかった。思わず口元が上がりそうなるのに気付いて慌てて力を込める。
「そっちの決定ボタンだ」
「あれ? こっち?」
「ああ、無事設定出来たな。出発するぞ」
「はーい」
*
ホテルについて、手慣れた様子でチェックインをする姿を見てソハヤのテンションは昂っていた。めちゃくちゃ大人って感じで格好いい。
カードキーを受け取り足速に歩く光世の後ろをついて行く。時々後ろを振り返られるのが、気にかけてもらえているようで嬉しかった。俺は犬か!
「あ~~、ベッドだ~~」
「疲れていないか?」
「全然!」
夏用のジャケットをハンガーにかけ、ゴロリとベッドに転がったソハヤと反対のベッドに腰かける。
「光世さんこそ、運転ずっとしてて疲れただろ? 休まなくていいの?」
「物販に行くんだろう? 運転は慣れている。こちらのことは気にしなくていい」
「え、一緒に行ってくれんの?」
「保護者で来ているんだぞ、一人で行かせられないだろう」
「え~~」
「ただ、先にシャワーを浴びたほうがいいな。それでも十分間に合うだろう」
「は~~い」
光世がシャワーを浴びている間、荷物を整理しながらずっとソワソワしていた。ライブの遠征は何度か来ているが、二十歳になるまでは一人での旅行は禁止されていた。
友人との旅行もである。大学生になったら誰かと一緒ならいいと言われていたが、母親や祖父以外の家族と一緒に泊まるのは初めてなのだ。友人の家ではない、ホテルで、ほとんど話したことのない「兄弟」と一緒に。よく知りもしないのに、相手は自分のことを「兄弟」だからと安心してくれているらしい。そしてまた自分も同じように「兄弟」だから、と勝手に信用を高めている。
安いビジホで悪かったと母が後悔していたが、シャワーの音が聞こえてくるのに耐えられずに何度も事前通販で買ってあったパンフを出したり入れたり、読んでる振りをしていた。
「ソハヤ。入らないのか?」
「入る入る!」
上半身を拭いただけで、まだ下着も付けていないのだろう、腰元にタオルを巻いた状態の光世におかしな声が出そうなのを必死にこらえて入れ違いにシャワーに入った。
軽く室内で干していただけなのにすっかり干上がったTシャツに、ホテルの室内の乾燥のすごさに呆気にとられるソハヤを光世が笑った。
「行くぞ」
「うす」
動きやすいようボディバッグにチケットと財布とペットボトルだけを詰め、光世は適当そうなエコバックになにやら色々入れたものを持って立ち上がる。
駅までわかりやすいホテルで、電車に乗るとおそらく同じ会場に向かうグッズを身にまとった人々ばかりでニヤニヤしているソハヤを見て、光世が微笑んでいる。それに気が付いて思わず恥ずかしくなってうつむいた。
「なにを恥ずかしがることがある」
「いや、だって俺、ガキっぽいな、と思って……」
「そうか? 大人びているほうだと思うが……」
「ええ……?」
電車を降りてからも似たような恰好の人々の列に連なり、タラタラとした緩い上り坂を歩いて会場へと向かう。時折水を飲むように言われるので、幼子のようだと思いながら素直に従う。エコバックを持ってきていたのは2Lペットボトルを持ってるからだと気が付いたのはグッズ列の待機列に並んだ時だった。
「嘘だろ……それごと普通持ってくる?」
「これくらい飲むだろ」
「いや、そうだけど……」
「で、どれを買うんだ」
「地域限定のやつ。母ちゃんの分も頼まれてる」
「……俺もTシャツ追加するか」
「え~買おうぜ!」
「お前が白だから黒にするか」
「うへへへ」
「変な笑い方をするな」
今の自分たちは、周囲から見てどう思われているのだろう。年齢がいやに離れた友人同士だろうか。親戚のなにかか。仕事仲間というにはソハヤは若すぎる。光世だって決して歳がひどくいっているようには見えないが、ソハヤのやんちゃな見た目とはどう考えても釣り合わない。なにかあれば苗字が同じなら兄弟でちゃんと押し通せると義父には言われたが、文字通りの関係ではなく、「兄弟」と自然と見えればいいのに、とずっと思っていた。
もう二度と増えないと思っていた家族がこんな形で増えて、周囲はソハヤが無理をしているのではないかと気を使ってくれるが、本当は逆だ。
すごくうれしい。
なかったものが、手に入らないと思っていたものが増えることがあるなんて考えたこともなかったから。単純にうれしかった。
いつだって、ソハヤは我慢をしていた。母を傷つけたくなかったし、自分だって頑張っていた。この生活が当たり前だと思っていたけど、人恋しい、寂しい気持ちがあったんだと家に自分と母以外の人の痕跡があるのを見てようやく自覚して、にんまりとする。生まれてくるとき人は一人だというけど、死ぬ時だって一人じゃないかとずっと思っていた。だから一人だって平気なんだって思い込もうとしていた。どうせ最後は一人なんだし。
だけど、新しい家族が出来たら、どうやって今まで過ごしてきたんだろうというほど落ち着いた。相性が良かった、これは成功のパターンであって、こんなに再婚が上手くいくはずないことだってわかってる。
だけど、ソハヤにとっては、新しい日々は救いだった。
母が幸せそうにしているから。
忙しい日に帰ってきて疲れた顔ばかりを見せていた人が、少し表情が柔らかくなったことが。
単純にうれしい。
その嬉しさがきっと溢れてしまっていて、今までなかったような幼さを醸し出しているのではないか、と自分では思っていたのに、光世はそんなことはないという。むしろ、大人びている、というのは、きっと彼も父子家庭で二人きりの家族を経験したことがあるからかもしれない。
初めて、友人たちにも言えなかった自分のことを「知ってほしい」と思った。
出会ったばかりの「兄弟」に、そんなことを感じるのはおかしいんだろうと思って、それを口にすることは出来なかったけれど。
*
楽しかった。
普通に。ライブが。久しぶりのライブだったのもあるが、雰囲気が地方というのがいい。それほど自宅から離れていないが二時間以上車を走らせれば空気はだいぶ違うし、景色も違う。いつもと違う空気の中で、いつも単独で行くのに隣に人がいるライブだった。
母親が好きだというから息子も好きになったパターンで、大体の曲も網羅しているようだったし、ファン相手のコール&レスポンスも光世なんかよりすっかり慣れていた。ほとんど微動だにしない光世と反対にライブを楽しんでいるソハヤはライブ前には入念に各首を回して準備運動していたのも頷ける。終わって居酒屋に入った今も熱さめやらずというていでずーっと話通しだった。
「あ! ごめん! 俺ばっかり喋って……」
「ん? 構わん。ずっと話していていい。俺なんかと話しても面白くはないだろう。
俺は、人の話はずっと聞いていられる性質でな」
「へえ。親父さんと一緒だな」
「どっちの?」
「俺たちの」
「血の繋がってるほうの父親はなんて呼んでいるんだ?」
「父ちゃん」
「なるほど」
父ちゃんと親父か。うまい使い分け方だなぁ、なんて思いつつ、自分があの女性をなんて呼ぶべきなのか今更思い至った。なんとも呼んだことがない気がする。
今更ひやっとしてもう何杯目か数えていない生ビールを煽る。食べやすいよう櫛を抜いた焼き鳥ももう残り少ない。食い盛りに食べさせるには少なかったか? とこちらも今頃思い至った。楽しさにかまけて案外色々おざなりにしすぎたようだ。
「飯は? まだ食えるだろう?」
「あんたこそ、全然食ってねーじゃん。こないだはちゃんと飲みながら食ってたのに」
「よく見てるな……。つまみはなくても飲めるんだが、身体に悪いと咎められるから親父と一緒の時は食っておくんだ」
「ふうん。参考にしとくよ」
そんな生意気なこというソハヤを、光世は笑った。
「その時には飲み方を教えてやろう」
「潰されそうだからいいよ」
そして勝手に光世の分もお茶漬けが注文された。
「寝ないのか」
何度ももぞもぞと動きまわるソハヤに思わず声をかけた。
飯を食ってホテルに戻る前にもシャワー後の楽しみとしてビールを買い呆れられ、シャワーを浴びてパンフレットを見ていたソハヤが気がついたら寝落ちていたので布団をかけてやってから一時間以上たつ。部屋の電気も全て消してあるし、光世も明日の昼食の場所の目処やルート、インターなどを確認し終わってスマホも見ていない。
どこかで目が覚めたのか、隣が何度も寝返りをうってごろごろしているのを気にかけていた。興奮のし過ぎで寝れないだけならいい。明日の車中で寝ればいいのだ。
だが、自分と一緒にいることで今更緊張が昂ぶり返してきたとなっては申し訳ない。繊細な年頃だろうとは思うが、かなりフレンドリーで話しやすい年下の青年に甘えすぎていたのだろうか、と。
「……起きてない」
子どもじみた返事に思わず笑ってしまった。
「ほら、絶対笑うじゃん……」
「寝ていたら、返事はしないものだ」
身体の向きを上向きからソハヤのほうに変えてやる。うずくまっていたのが、少し掛け布団から頭を出してソハヤも光世を見た。
赤の他人で、髪色も話し方も、性格も全然違うが、瞳はなぜだがよく似ていると思った。父からも同じように聞いた。『あの子は、お前と同じような眼をしているな』と。それがどういう意味だったのかは正直よくわからないが。
「あんたは寝ないのか?」
「いつもならまだ起きてる時間だな」
「運転してライブ行って疲れてるんだろ?」
「まあな」
興奮して眠れないのは光世のほうだった。
「なあ、光世さんさあ」
別に何に配慮せずとも普通の声で話せばいいのに、ソハヤはいやに小声で話す。まるで修学旅行の中学生みたいで、微笑ましい。
「なんだ」
「『兄弟』って呼び方、どう?」
「は?」
「光世さんって、言うのも悪くはねえけどさぁ、なんか他人行儀じゃん?
かといって今更兄ちゃんとかって呼ぶのもなんか恥ずかしいし……」
「はあ……」
眠れなかったのは、そんなことを考えていたからか? 思わず、笑いがこみ上げる。今日一番の、心の底からの、楽しいという気持ちが沸き上がって。
「な、なんだよ! 一生懸命考えたのに!」
「なんだか、任侠映画みたいにならないか? あんまりいい見目をしていない自覚はあるんだが」
「大丈夫だって! 兄弟!」
そんな、朗らかな笑顔で言われて嫌だと断れる「兄」がいるだろうか。弟なんていたことがなくて、ずっと一人で過ごしてきたのに。
急にこんな子犬のような懐かれ方をして、どうしてやったらいいのかさっぱりわからないというのに、ソハヤはずっと楽しそうだ。体力もあって、同年代の中では背も高いほうらしい。自分よりは小さいが、立派な青年だ。
母親がいかに大切にこの子を育ててきたのかがわかるくらいには光世はもう大人だった。
君がそういうのなら、そうしよう。
やりたいことをやるといい。俺とは違って、明るい未来がきっとこの子には待っている。どんなに大変なことも、これまでの苦しさがソハヤを必ず助けてくれるだろう。微力ながら、繋がりが出来た今、光世もまたこの青年の未来に橋架けてやれることがあるのならなんだってしてやろう。
そう思わせるだけの輝きを感じた。
「わかった。なら、兄弟。今日はもう寝ろ。明日、いい飯を食わせてやるから。喰いッぱぐれても知らんぞ」
「え? マジで? 寝る寝る! ちゃんと起こしてくれよな!」
「もちろんだ、兄弟」
明日は、ひつまぶしの店に行こうと思っていた。
この子は、好き嫌いはないだろうか。喜んでくれるといい。そんなことを考えながら「兄弟」という響きに胸の奥が暖かくなって、気がついたら、光世も意識を手放していた。
*
「おっはよー! 兄弟!」
寝起きが悪いらしい兄弟は、かなり人相が悪い表情をしている。だが、実際にはこの人がほとんどなにかに負の感情を向けることがなかったのは昨日でわかった。寝起きが悪いとも言っていなかったので、大丈夫だろうとカーテンを全開にする。まぶしい光に顔をしかめて、それでも俺の顔を見たら少しだけ眉間の皺が緩んだ。
「おはよう、兄弟」
別に、そっちは兄ちゃんなんだから名前呼びでもいいのに、わざわざ同じように「兄弟」と呼んでくれている。それが嬉しい。
「早く顔洗って飯食いに行こうぜ! 七時半くらいから混むって言ってただろ」
「わかった。お前はもういいのか」
「もう俺準備終わってるよ」
「早いな……」
ムニャムニャとした様子で、ユニットバスに向かう。寝巻用のガウンでは小さすぎて足がつんつるてんだ。
面白い。なんにも似てない俺たちが「兄弟」だなんて。ずっと噛み締めている。ガムなら味が無くなるが、この感覚はずっと嬉しい。ずっと噛んでも舐めててもなくならない。
悲しいことは忘れることは出来るけど、なくならない。
けれど、嬉しいこともなくならないんだと、初めて知った。
さあ、今日も、朝が始まる。
*
輝く光の中で、俺のほうを向くソハヤが眩しい。
真夏の熱い陽射しが良く似合う。陰気な空気だとよく言われる俺とは大違いの弟が眩しくて目を細めた。
「道、こっちで合ってんの?」
「合っている」
ライブの帰りによく立ち寄っていた店で、まだ潰れてはいないはずだ。
誰も連れてきたことのない、俺の気に入っている場所。新しい扉を開けたような解放感。
自分の出来ることが少し増えたような気がする。
ソハヤ、お前がいれば、俺もまた、知らないところに踏み出せるような気がしたんだ。
「あっちいな~! 兄弟!」
ああ、まるで、お前が太陽みたいだ。
その眩しさを受けて笑う兄弟の元に、三段石段を飛び越えて追いついてやった。