インドラの花
俺を庇って倒れるなど――
だから戦場には来るなと云ったのだ!
怒号のような声に女は閉じていた眸をうっすらと開いた。
重たげな睫毛をようよう持ち上げる。
常ならば恐ろしいほどの静けさを湛えている男の眼には半身を喪う不安と怒りが渦巻いている。
「あなた…」
花のようだと謳われた眼差しは変わらない。だが血の気が失せた顔色は透き通るほどに青白く、女の躰から力が失われていることは明白だった。
「喋るな」
男は妻のそばに寄り添い白い手を取った。その両眼には世界を支配し得る力が備わっている。
命の火を繋ぎ止めんと、能う限りを行使する。
已んぬる哉、理の流れは堰き止められないのだ。
別れのときが刻々と近付いてくる。
失われてゆく命をこの場に留めることは、かのインドラをしても不可能であった。
女はこの世の名残を、声にならない想いを込めて、夫の顔をひたと見詰める。
ごめんなさい
次はきっと貴方を守れるぐらい強くなりますから…
莫迦を云うな、次などと、
おまえをどこにも行かせはしない。おまえは俺のそばにいれば良いのだ
いけません、
それに…、女にだって愛しい方を守りたいと思う気持ちはあるのですから
だめだ、次などない。来世になど行かせん。今のおまえでなければ俺は…
わがままなひと
でも、わたしは貴方のわがままが愛しくて、大好きだったの
だから俺に付いてきたのか
いやだ
貴方がわたしを攫ったんでしょう
厭がらなかったろう
ええ、嬉しかったんですもの
だから、ねえ
貴方だけのわたしになって逢いに行きますから、待っていてください
………、
残される子らは、何とするのだ…、
(可愛い吾子たち、)
―――あなたがいます
…………、
………、
――俺に釣り合う強さなど、女の身で得るのは不可能だ
厳しいこと、
女が一度こうと決めたらしつこいのよ
時間がかかっても、きっと貴方に迫ってみせますからね
…誰が待つものか、
俺が、女に守られるような男だと思っているのか
ふふ
ほんとうに困ったひとね
(ああ、愛しいひと)
では、貴方は好きに行ってください。わたしが貴方のところへきっと追いつきますから、
どれほどの刻がかかっても、かならずあなたのもとにいくわ
(だから、なかないで、まっていてね)
愛する男の腕のなかで、花が音もなく散るように彼女は息を引き取った。
インドラはその後も戦いつづけた。
誰も知ることのできないほどの遠い昔、唯一人の男の魂に刻み付けられた妹背の君よ。
優しいひと
「おかげで届いた」
あなたがわたしを受け止めてくれた
そこにいたのか………よ
インドラ、インドラ、
わたしの背の君、やっと貴方の魂に声が届いたわ
おそい―――
待ちくたびれたぞ
ええ、ええ、ごめんなさい
共に戦える女が良いと、今の貴方はわたしが強くなるのを待っていてくれたのね
強くなれと云いながら、貴方はいつもわたしを守ってくれていた
今度こそ、わたしが貴方に付いていく
あなたが寂しがり屋のやさしいひとなのだと、古の遠い時代から、誰よりもわたしは知っていたのだから
男の眼がどれほど冷徹に光ろうとも奥底に眠る火を女の魂が知っていた。
彼女の魂が愛する者のうえに、そのたおやかな腕を巻き付けて寄り添う姿はまだ誰にも知られなかった。
***
「ねえパパ、パパはどうしてママと結婚したの?」
「…ママが殺そうとしても簡単には死なないぐらい強かったから、だな」
「えっ?」
「冗談だ。子どものころから好きだったから、大人になって結婚しただけだ」
「ええっ! パパって子どものころからママが好きだったの?」
「そうだ」
「で、でも、ママはずっと自分の片思いで、自分ばっかりパパを追いかけてたって言ってたよ」
「子どものころは…、パパがママを好きなことはずっと隠していたからな」
「なんで隠してたの?」
「ママに追いかけられるのが好きだったからだ」
「へ、へぇ~」
パパって子どものころからSなんだ。
「じゃあパパの初恋も、もしかしてママなの?」
「もしかして、とはどういう意味だ。初恋も何も、ママ以外に人を好きになったことはないぞ」
「へえ~~~!」
パパとママって実はお似合いカップル、じゃなくてお似合いの夫婦ってこと?
「じゃっ、じゃあ子どものときのパパって、ママのことなんて思ってたの?」
「そんなことを聞いてどうする?」
「いいから教えて! ママはいつだって、パパは子どものころからずっと格好良いって言ってるけど、パパはママのことどう思ってたの!?」
「………初めてママを見たとき、なんてきれいな女の子だろうって思ったんだ」
「………」
「なのにママは、パパのことが好きだって言って、平気な顔で近寄ってくる。なんて振る舞えばいいか、あのころはわからなかったんだな」
「ママ、美人なうえに可愛いもんね」
「ああ」
娘のおまえにも言われてしまう位にな。
「じゃあパパって、ママと同じくらい幸せ者なんだね」
「その通りだ」
こんなに母親想いの、可愛い娘もいるしな。
「今の話はママには内緒だぞ」
「うん」
(ママにはね。)
もちろんすぐにバラしました。
「だってママに内緒ってことは、他のひとに話して、そのひとからママに話が行くのは別に良いってことだよね」
「サラダかしこい!」
「ママの娘だもん」
うちはサクラは可愛い娘と愛する夫のおかげでたいそう幸せだった。
時至り、彼らは傍目にも仲睦まじく寄り添っている。
花は咲き続ける。
愛によって。