うちはの三つ巴
昔の人間は今より何倍も長生きだったという。
三百年、五百年生きる者は数多くいたし、誰でもたいがい二百年は生きた。なかでも、六道仙人とも呼ばれる大筒木ハゴロモという人物は千年も生きていると噂され、死してなお意識を保ち、生者に関わることも可能だったと言う。
時代が下るに連れ、百年を生きる者はいなくなった。仙人の話も伝承とされ、歴史ではなく神話やお伽話としてかろうじてこの世界に残された。今は科学の発展によって人々の寿命はまた百年を越えることも可能になったが、皆、普通の人間でしかない。
彼らと我らは異なるのだ。
うちは一族の創始者、大筒木インドラは夜を照らす数多の光のなか、目的の家を見つけ出し艶やかに笑みを作った。
春野サクラは両親を事故で亡くし天涯孤独の身となった。もしかしたらサクラが知らないだけで、親類縁者がどこかにいるのかもしれない。しかし悲しみに打ちひしがれる彼女に差し伸べられたのは勤労学生という道だった。
何代も続くお屋敷の主という人物は印象的な眼差しと長い黒髪の男の人で、家族を失ったサクラから冷静な判断を奪うには十分な魅力を持っていた。気づけば彼女は中学生にして住み込みのメイドという、縁もゆかりもない大金持ちの家で働くことになったのだ。
「サスケ様、起きてください」
寝台の大きな塊に声をかける。
「サスケ様、」
ふかふかとした布団を揺さぶって同じく声をかけるが反応はない。
サクラは少しためらったが、枕元に周り、黒い髪の耳元にそっと声をかけた。
「サスケくん、起きて」
形の良い耳の持ち主はぴくりともしない。いけない。これは本当に寝ぼけてる日だ。
サクラは布団をめくり、自分と同い年の主人にもう一度声をかけた。
「サスケくん朝だよ起きて。服着て顔洗ってご飯食べよう」
「……」
彼はあまり寝起きの良いほうではない。だが普段なら声をかければ反応するし、日によってはサクラがドアをノックする前から、「サクラか」と声をかけ、身支度も完璧に終わらせて待っていることが多い。
なのに時折、いたずらのように寝起きがわるい。彼の兄によれば甘えているのだと言うが、こんなイケメンの少年に無防備にされれば思惑のままに甘やかしたくなるものだ。
反応がないのを確かめると、サクラは洗面器に用意した水でタオルを絞り、顔を拭き始めた。叱りつけるよりこのほうが早い。
湿らせた生地で優しく目元を拭う。
「サスケくん、まだ寝てるの?」
反応がない。次は着替えだ。
事務的にボタンに手をかける。なんだかいけないことをしている気分になるが、これは仕事だ。
クッションを使って上体を起こし、急いで肌着を身につけさせる。白いシャツも着せればサクラも落ち着いた。こんなこと、仕事でなければと思うが、学生である以上学業は大事だし、サスケをきちんと学校に送り出すことがサクラの少なくも大事な務めである。
しばし無心にボタンを留める。
十ほども進んだころになってサスケは覚醒したようだ。サクラの手の動きを黒い両眼が追っている。
「おはようサスケくん」
「……」
「今日の朝ごはんは、お二人がいないからわたし達だけだよ」
「……」
「サスケくんと一緒に食べたいな。ね、お願い、服着て?」
こくりと頷いたサスケはベッドから降りて自分で服を着替えだした。ほっとしたサクラは寝具を直し、彼が脱いだ寝間着を片付ける。
「じゃあ食堂で」
「サクラ、」
「…はい」
すす、とサクラが近づくと、サスケはその広い額にキスをした。これが彼らの朝の挨拶である。
「失礼いたします」
声をかけ、一礼して部屋を辞す。自室に戻り、エプロンを外して学生鞄を持ち、サクラは階下へ向かった。
表情を硬く抑えても、色付いた頬はあまり直らなかった。
インドラに連れられてセーラー服姿のサクラが現れたとき、「春野サクラだ」としか紹介されなかったが、彼女のことは既に聞かされていた。
かつてインドラは神に近い身の上だったと言う。何百年も生き、同族を率いて敵と戦い続けた。長い戦いは彼が死んでさえ決着がつかなかったため、インドラは転生を繰り返し、戦争は続いた。その生まれ変わりの一人がマダラであり、今生ではサスケだと言う。
そしてサクラは歴代転生者の妻になるべき女だと。
インドラの妻だった女はマダラの時代にも生まれたはずだが、戦いにあけくれた男は妻と出会わない内に死んだ。
現世にサスケとして生まれ変わったときインドラの魂は周囲を見、サクラがいないことに気づくやこれではいかんと肉体を持った。前代を繰り返すつもりはない。マダラの魂にも協力させ、サクラを探した。
見つけたサクラはごく普通の家庭に生まれ両親と平凡ながら不自由なく暮らしていたと言う。それなのに不慮の事故だ。
インドラがどういうつもりで彼女を引き取ったのか、サスケは己のことのように理解できた。
インドラは屋敷に着いたサクラに、サスケに仕えるよう命じた。学校は転校し、できるだけ彼と同じ時間を過ごし、寝食を共にするように。
サクラはメイドとして、頑張って務めると言った。サスケは若いが、己やマダラと同じだと思って接するようインドラは言葉を添えた。
「わかりました」
サスケには意味がわからなかったが、彼女のなかでは得心があったようだ。真剣なサクラの様子にインドラは満足したらしい。
「賢い女は好きだ」
インドラの言葉に彼女が気を緩めるのがわかった。
マダラは同じ部屋にいたが彼女をろくに見もしなかった。
サスケはサクラに、自分と二人だけのときは、「サスケ様」と呼ばないようにと言った。困った顔の彼女が「じゃあ、サスケくん」と言ってうつむいたとき、胸のなかで何かが燃えた。
「サスケくん」
サクラは夜になるとインドラとマダラに就寝の挨拶に行かされる。
二人は屋敷にいないこともあるが、いれば必ず呼び出されて、サクラはパジャマ姿で男達に会いに行く。
サスケの部屋に来るのは最後だ。
「何もされてないな」
「うん」
インドラにサクラは、頬におやすみのキスをする。マダラは何もしていなかったのに、最近になって挨拶時に抱き上げられるようになってしまった。距離が遠くて、サクラの声が聞こえないと言うのだ。
(そう言ってくれれば、もっと大きな声を出したのに。)
サクラはインドラとマダラが怖い。中学生のごく一般的な女子として、あの二人の圧力は気後れするだろう。
たくましいマダラの腕に、ぎゅう、と抱きしめられると言葉が出なくなってしまう。力が強くて痛いくらいだ。最初にサクラがあげた悲鳴にすぐやめてくれたけど、慣れた今もやはり緊張する。
他には何もない。インドラとのことだって、初めは彼から頬に口付けられ、サクラは泣き出してしまった。
今はサクラが彼の頬におやすみの挨拶をすることで落ち着いたが、当初は悩んでサスケにも心配をかけた。
(サスケは今も挨拶に行くサクラの身を心配している。)
「いずれ一族に迎える」
正式な披露目はないがサクラはサスケの許婚としてうちは本家に迎えられた。
サクラが会ったのはインドラとマダラの他はサスケの両親と兄のイタチだけで、本家の人々には会っていない。
何故こんなことになったのか、サクラは全てを知らないまま、家族になれる相手がいることをひっそりと喜んでいた。
インドラやマダラと同じように、きれいで怖いサスケだが、若い彼は大人である二人よりは親しみやすく、何より家族を亡くしたばかりのサクラを気遣ってくれたのだ。
サクラの両親が事故で他界し、身寄りがなくなったのは、あいつらが裏で何か手を回したせいじゃないのか。
大体何故オレが跡取りなんだ。
サスケは全てを知りながらも、彼らを心から信頼していない。
「サクラ、今夜はここで休め」
サクラはまだ若い。なのに彼女のことをインドラだけでなく、興味がなさげだったマダラまで気にかけ始めている。
インドラがサスケの前に現れたとき、おまえの先祖だ、前世なのだと言われ、サスケは当然のように彼らを信用しなかった。それでもサスケはうちは本家の養子に入ることになったし、この屋敷で生活している。
一族は同族意識が強く、逆らうことはできない。兄や両親に自由に会えるのは救いだが、籠の鳥だ。
彼女も同じく鳥だ。
サスケは苦い思いで家族を失ったサクラを見た。
そして男の言うことが真実であったことを知ってしまったのだ。
彼女は自分のもの、妻になるべき女だと。
「一緒に寝よう。いいか?」
「…はい」
サスケとおやすみのキスをしてから、サクラは主人のベッドで横になった。これが彼らの夜の挨拶である。
宿命の敵との戦いなどより身内の敵こそ、目下のサスケの戦いである。
先は長い。サスケが使える時間は多いが、経験のある奴らから彼女を守り続けることが肝心だ。
サスケはたとえ相手が神であれ、負ける気はなかった。
サクラの初恋は男たちの密やかな戦いのなかでゆっくりと育っていった。