火の国のアルフ・ライラ・ワ・ライラ <三>(サスサク)
サクラは後宮と王様のお側を行ったり来たりして過ごしました。
変わらぬ王様の寵愛を受けて、サクラは甘い寝物語だけでなく病院を作ったり、子供らに教育をする施設のあり方について話をしました。
余裕のあるものが困っているひとを助けるのは当たり前のことですが、親を亡くした子供の憩いとなって守ってくれる場所があれば良いとサクラは申し上げました。
孤児がいれば引き取って、子供の寂しさに寄り添うことが大事だとサクラは熱心に語ります。
お医者さまになる夢とともに、困っている子供にも何かできたらとサクラはずっと考えていたのです。王様に本の他に欲しいものはあるかと聞かれ、幼い頃に抱いていた夢がにわかに思い出されたのでした。
宝石でも美々しい衣装でもなく子供の保護を説かれ、王様は戸惑いましたがわるい考えではありません。
王の名のもとにサクラの言うような病院や学問所を町に作ろうと言われます。さらに後宮でもやりたいことがあれば好きなように施設を作って良いことになりました。
王様の慈悲深い言葉にサクラは心から感謝しました。
後宮でサクラは詩の朗読を侍女に頼んだことがあったのですが、侍女のなかには長い文章の読めないものや文字が書けないものもいます。それでも仕事ができるのなら問題はないのですが、学びたいと思っているなら話は別です。
皆の希望を聞いて文字を教えるのも良いでしょう。後宮は女の技芸を磨く場でありましたが、学問を修めることも大切な素養です。特別な施設などなくてもこれならすぐに始めることができるでしょう。
やることがたくさんできたのでサクラはにっこりしました。
「そんなことが嬉しいのか」
王様は不思議そうにサクラを眺めます。歌も詩も興味はないし、サクラの語る話こそ聞く気になりますが、王にとっては実際に役立つ知恵こそ意味のあるものです。
サクラの言い出したことは、彼女が今まで話していた物語の親切な話や賢い話、優しい話の数々をサクラが本気で信じて実践しようとするかのようで面白く感じました。
王様は家族をお持ちではありません。幼いころに両親も兄も亡くし、誰に庇護されることなく王として成長し、それ以外の生き方など見向きもせずに生きてきました。
サクラも両親を幼いころに亡くしています。だからというわけでなく、サクラの提案は国にとっても良いものですから、好きにさせようと思いました。
サクラから後宮で侍女達と楽しく学んでいること、義姉とも香燐とも一緒にやっているのだと嬉しそうな報告を毎日のように聞かされました。
「すべて王様のおかげです」
いつもサクラは話の最後に心からの感謝を込めて王様に言うのでした。女だけの後宮でなら、重吾とカカシは仕方がないとして、サクラが誰と何をしても良いと王様は考えています。
後宮のことだけでなく、王様は宰相やサクラの養父である大臣に命じて病院などの建物を作らせています。国は活気づき王様の治世はますます称えられていきます。
王様は今の生活に満足していましたし、これで良いのだと思いました。
しかしサクラが再び体調を崩すようになり、王様は非常に心配しました。
あれだけ快活に話していたサクラが急に大人しくなって、王様の前でもなんだか体を庇うようにしています。顔色だってあまり良くないようで、折れそうに細い手首に青白い顔はいかにも栄養が足りていないように見えました。
「御前に参りましたのに、申し訳ありません」
急にいろいろなことを始めたせいだと王様は思いました。サクラは何かに夢中になると食事も忘れてしまうことがあると言ってましたから、それでまた痩せてしまったのかもしれません。
王様はまず甘い果物や菓子を食べろと言いましたが、サクラは食欲がないと言って手をつけません。王様の勧めを断るとはなんということでしょう。
仕方なく王様はサクラの体を柔らかな布で包み、いたわるように全身を撫でました。サクラは最初王様のすることを不思議そうに見ていましたが、すぐに嬉しそうな顔になって、「ありがとうございます」と言いました。
王様はサクラの額に口づけて休むように命じました。サクラは幸せそうに微笑むと新緑のような瞳をそっと閉じました。
こんなにも優しく王様が見守っているというのにサクラの体調はなかなか良くなりません。
わるい病ではないかと心配しても、サクラは大丈夫だと言ってどうしても医者にかかろうとしません。休んでいれば治るのだから立派なお医者様は不要だと言うのです。
王様は気に入りませんでした。絶対に拒否できないよう、西方一との評判高い綱手という伝説の名医を王宮に招くことにしました。
綱手はもう何十年も前から知るひとぞ知る伝説の医療術の使い手で、変わらぬ容姿から不老不死の秘密を知っているとも噂されています。サクラも憧れている医者だということで、王様は名前を聞いたことがありました。
サクラが倒れたと聞いて居ても立ってもいられなかった王様はすぐに宰相に命じて綱手を王宮に召し出しました。宰相の大蛇丸が知る限りでも実力は確かだといいます。王様はひとまず安心しました。
あの綱手だと聞いてサクラも観念したようです。綱手が後宮に向かい、すぐに戻ってくるかと思えば治療には時間がかかるという返答です。長い間待たされて王様はやきもきしました。
半日も過ぎてから綱手はようやく王宮に戻ってきて、王様の前で病状についての説明をしました。綱手の見立てでもサクラは決してわるい病気ではなく、時間が立てばきっと元のように回復するだろうと言います。
王様はいったん安堵しましたが、「きっと回復するだろう」とはどういう意味かと尋ねました。
綱手は、ひとの命は絶対などと軽々しく言えないものだと王様に説明します。王様はすぐに「絶対に治す」よう命じました。
綱手は顔色一つ変えずに医者として全力を尽くすと言いましたが、王様は安心できません。
再び「本当に大丈夫なのか」と問えば、しばらく静養が必要なので王様はサクラに会わないほうが良い、後宮の部屋からあまり他の場所に行くべきではないと言われました。
サクラは王様に会うと疲れてしまうからというのが綱手の診断です。王様はむっとしました。
王様は確かに王様ですからサクラが王様に気をつかうのは当然ですが、はっきり言って王様はサクラにとても優しくできます。体を労って、決して無理なことはさせません。サクラを寝かしつけてやることだってできるのです。
それをよく知りもせずこんなことを言うのは不敬です。許しがたいことですが、王様は苛立ちを抑えてサクラがなんと言っているのかを聞き出しました。
『ご心配をおかけしてすみません。お会いできないのは寂しいですが、養生いたします』
仕方がありません。医者に診てもらうよう命じたのは王様です。
王様はもう一度、絶対にサクラの不調を治すよう命じました。もし綱手がついていてサクラの身に何か起これば命はないと宣告しました。
「私がついていてそんなことがあるものか」
綱手は気の強い女性でした。宰相とは旧知の仲らしく、歳のころも近いそうですが、王様にはこの二人の年齢がよくわかりません。こんな女は苦手だと思いましたが綱手に任せるしかありません。それにサクラと同じ女ですから後宮に置いても心配ありませんでした。
王様は綱手に、サクラが治るまで後宮に留まるよう命じます。綱手は快く了解し、シズネという付き人と一緒にサクラの治療をすることになりました。
王様は最後に、「何も心配せずによく休むよう」サクラに伝えました。
綱手は任せろと言って初めて頼もしい笑顔を見せました。
彼がその赤ん坊を眼にしたのはあらゆることを知る神の御業である。
神は偉大なり。
王宮に来ていた賓客が、ある美人を見かけたがあれは後宮のものだろうかと彼に尋ねた。
話を聞けば王の寵愛深い女性の義理の姉であることがすぐに分かり、客にしつこくせがまれた彼はとっておきの秘密を教えた。
後宮の庭の一つ、最も奥深い中庭の一画を覗き見ることができる、彼以外に誰も知らない隠し穴。王の寵姫とその義姉はきっと庭に出て二人きりの時間を過ごすだろう。その姿を覗くことができる――。
少々客の相手をもてあましていた彼は客とともに隠し穴に向かう。知ってはいたが実際に覗き見をしたことのない彼も寵姫の顔が見たかったのである。
神もご覧であろうに、寵姫とその義姉は顔を隠しもせず楽しげに談笑しながら一人の赤ん坊を抱いていた。
赤ん坊の髪は夜のように黒く、二人の女に囲まれ、おとなしく抱かれたり頭を撫でられたりとご機嫌な様子だ。女たちのくつろいだ姿に男二人は覗きに徹した。美しい女達を無言で見詰める黒い目玉。
それからしばらくして覗き穴の前には大きな木が植えられ、その中庭を見ることは誰にもできなくなった。
王宮での出来事など知らず、後宮ではゆるやかに時が流れていきました。
サクラは綱手と王様の大きな愛に守られ、後宮で穏やかな日々を過ごしました。
綱手は話に聞いていた通りの医療術のスペシャリストでサクラが憧れていた以上の人物でした。明朗な人柄に患者思いのさっぱりとした気性、サクラはすぐにこの年齢不詳の年上の美女のことが大好きになりました。
打ち解けたサクラが後宮で行っている侍女の学問のことなどを相談すれば、気っ風のよい綱手は「それは良い考えだ」と賛同し、シズネとともに侍女の教育を引き受けてくれました。
サクラは重吾に、何度も王様への感謝の気持ちを伝えるよう頼みました。
後宮では綱手もシズネもたくさんの侍女たちも、サクラのことを常に気にかけて大事にしてくれます。いのと香燐も毎日のように様子を見に来ます。
後宮で心配することは何もありません。重吾はいつも少し離れたところで見守ってくれますし、カカシの報告でも警備に異常はありません。
ある気持ちのよい天気の日、サクラは気に入りの庭に行き、屋根のついた小さな休息所に座ってのんびりと草木を眺めることにしました。
ここは一番奥の庭でサクラを邪魔するものは誰もいません。重吾はサクラを気遣って庭の入り口のほうまで下がりました。
備えつきの長椅子にもたれて日光の温かさや庭の緑、ひとのいない静かな空気に身を浸しました。こうした時間は大好きな本を読むのと同じくらい心が休まるのです。
噴水の飛沫や庭を流れる細い水路では光と水がきらきらと反射しています。しっとりとした水音が絶え間なく流れ、鳥の声が時おり園内に響きました。
サクラは持っていたベールを広げ、少しの間だけのつもりで微睡みました。
決して誰もこないはずでした。
草木の匂いともバラの香油とも異なるものが辺りを漂いました。
ふと気配に気づいたサクラは目蓋をゆっくりと震わせました。
重吾が起こしに来たのだと思いましたが違いました。サクラのすぐそばに黒い影が立っています。
黒服の男はカカシでも警備兵でもありません。なんとしたことでしょうか、近くに重吾の姿も見えないのです。
奥庭に現れた侵入者にサクラは短い悲鳴を上げました。すぐに我に返るやベールを掴み、かたわらにあった白い布で包まれた籠を強く胸に抱き寄せます。何よりも守らなくてはいけないものです。
そのままサクラは賊を睨むと、
「何が目的なの? 重吾はどうしたの?」
と震える声で問い質しました。
すると男は、
「落ち着け」
と実に静かな声をかけました。黒い眼はサクラをねめつけ射抜くような力があります。サクラは恐怖に叫びそうでしたが耐えました。気を失うわけにはいきません。なおも必死に男を睨んでいると、
「見舞いだ」
と男は言いました。
「……えっ」
男の言葉の意味をはかりかねて、サクラの緊張はまだ解けません。こめかみから汗が流れます。
互いの異なる色の眸を二人が黙って見詰めていると、白い籠から小さな声の気配がしました。
「あっぶぅ……」
場の空気を和らげる愛らしい音に、サクラは優しい顔で籠のなかを覗きました。
「大丈夫よ」
清潔な布に包まれた籠はサクラに抱えられたままです。
男は無表情に、
「おい、それはなんだ?」
と尋ねました。サクラはまた硬い表情になって男を睨みます。
「それって、あなた失礼だわ。あなたこそ一体どういうつもり? ここは後宮の庭よ。ここまでどうやって、誰の許可を得て来たっていうの?」
サクラは話しかけながら少し落ち着いてきました。そして改めて男の顔を、夜のように黒い眼と通った鼻筋、白く秀麗な顔立ちを見ているうちに、サクラの思い出の底にしまっていた宝箱に光が差し込みました。
懐かしい記憶が太陽のように眩しく思い出されたのです。
「あなた……サスケくん? もしかして子供のころに会った、商人のサスケくん?」
「……ああ」
男は少しだけ表情を弛めて頷きました。
サクラの両親はまだサクラが幼いときに流行り病にかかって亡くなりました。
それまでは普通の家庭で、両親とも元気に暮らしていたのに、ひどくあっけない家族との永久の別れでした。
サクラの家は外国から移り住んだものだったので、近所のひとは良くしてくれますが親類縁者の繋がりがありません。両親が存命ならばどこかに血縁の誰かがいたことを知っていたのかもしれませんが、サクラは何もわからないまま葬儀が終わりました。そして仲良しだった友達のいのの好意で、サクラは立派な大臣家にお泊まりをしていました。
これからどうすれば良いのかわかりませんが、いつまでもいのに甘えていられないとサクラは思いました。
ちょうどその日は大臣家にとって非常に重要なお客様がいらっしゃるということで、サクラは一人で部屋に閉じこもっておりました。いのもご挨拶をするかもしれないとサクラを残して行ってしまったのです。
最初は大人しくいのが戻ってくるのを部屋で待っていたのですが、部屋の外で大勢の大人が立ち働いている物音が聞こえると、自分は何の役にも立たない子供であることが切なく感じました。
寂しくてたまらなくなったサクラは誰にも言わずに部屋を出ました。
子供が自由に行ける場所など限られています。サクラは大人に見つからないよう気をつけました。大臣家の中庭も広くて立派ですが、いのに教えてもらった特別な場所があったのです。
大きな木々に囲まれたそこは人気のないひっそりとした空間で、サクラは隠れるように木の根元に座りました。
そして木陰のなかで声をあげずに泣きました。サクラは泣き虫でした。
「何を泣いてる」
男の子の声です。サクラはびっくりしました。
たとえ幼くともめったなことで家族以外の男のひとと会ったりしてはいけないのですが、サクラはもう家族がいないので、その感覚が麻痺していました。ぽろんと素直な気持ちがこぼれます。
「お父さんとお母さんが病気で亡くなったから、わたし一人になって、それで泣いてるの……」
言葉にすると悲しい気持ちがますます大きくなります。ぐすんと鼻をすすろうとしたとき、男の子がぽつりと言いました。
「オレも同じだ」
「えっ?」
「病気で兄上が亡くなられたから、オレは一人になった」
男の子の言葉にサクラは衝撃を受けました。サクラと同じ年ごろなのに、家族をなくした子供が自分の他にもいるなんて思いもしなかったのです。しかも両親だけでなく兄弟を亡くしたなんて、ひとりっ子のサクラにはわかりませんがとても辛いことだと思いました。
サクラは思わず男の子の手を握りました。
「なんだ?」
「お母さんとお父さんだけじゃなく、お兄さんまで死んじゃうなんて、ひどい」
自分の両親だけでなくこんなにたくさんのひとが死んだなんて、悲しくてたまりません。止まっていた涙がまた少しこぼれてきました。
驚いた男の子はサクラの顔をまじまじと見詰めました。
サクラの濡れた瞳に男の子のきれいな白い顔、涼やかな黒瞳が映りました。本に書いてある月光のような美しさです。サクラはこれまで友達のいのほど美人な女の子はいないと思っていましたが、彼は女の子のようにきれいな顔です。
サクラは泣いたままの顔でいることが恥ずかしくなりました。それに男の子は身なりのよい立派な服装をしています。きっと今日のお客様と一緒に来たのだとサクラは思いました。
「ごめんなさい」
我に返ったサクラはしおれた顔で謝りました。力なく手を離して部屋に戻ろうとすると、今度は男の子に手を掴まれました。
「待て」
自分が先に手を握ったのに、サクラは男の子の手の強さに驚き、不安な気持ちが生じてきました。やっぱり男の子と二人きりで会っていることは良くありません。いのの家族に知られたら、優しい小父さんでも叱られてしまうでしょう。
「……わたし帰る」
「どこへだ?」
「どこって」
「家族がいないのにどうするつもりだ」
ひどい。サクラは思わずぽろぽろと泣き出しました。
サクラはこの家に来てからいのに心配させまいとして、出来るだけ泣かないよう気をつけていました。それでも度々いのの前で泣いてしまっていたのですが、このときは様々な哀しみが胸に迫り、堰を切ったように涙が流れました。
「どうして泣くんだ」
自分が泣かせているのに何を言うのでしょう。男の子は戸惑っているようでした。
「泣くな。オレがいるんだぞ」
知らない男の子に言われても嬉しくありません。サクラの涙はぜんぜん止まりませんでした。
男の子は業を煮やしたのか、「泣き止め」と言ってサクラの目元を手で覆いました。いきなり顔を触られてサクラはびっくりしました。
「やだっ」と言って逃げ出そうとしましたが、すぐに転んでしまい痛くて悲しくて嫌になってしまいます。
男の子が助け起こしてくれましたが、サクラは彼を無視して最初の大木のところに座りました。男の子も隣に座ります。
男の子は隣に来てもサクラに話しかけるのでも謝るでもありません。なんなのでしょう。先にいたのはサクラなのに、男の子はまだここに居座るようです。
このまま男の子と二人でいたら、大人にきっと叱られます。いのだって心配するでしょう。それに彼が本当に大事なお客様であれば、何かしらこの家にも迷惑がかかるかもしれません。でも男の子はぜんぜん平気そうです。そんなに彼は偉いお客様なのでしょうか。
「あなたの家はお金持ちなの?」
「なんだと」
「だって……、あなたの家は偉いお家なんでしょう?」
「それは……」
サクラは今日のお客様をよく知りません。特別なことだから、名前も秘密なのだとこっそりいのに教えてもらっただけです。
「あなたは知らないけど、わたしは罰をうけることになるかも……」
男の子にいじわるを言ったつもりはありませんが、ちょっとぐらいは意趣返しの気持ちがありました。サクラはいのの部屋に戻りたいのですが、男の子の雰囲気がそれを許してくれそうになかったので、自分は今困っているのだと伝えたかったのです。
男の子にもその辺りは通じたようでした。
「大丈夫だ。誰にも文句は言わせない」
「そんなにすごいお金持ちなの?」
いののお父さんは王宮の仕事をする偉いひとです。サクラの父は普通の仕事をしていたので、王宮に勤める以上の偉いひとが思いつきません。たとえば国王なんて職業はサクラにとって別世界の話で、ぜんぜん現実的ではありませんでした。
ただ男の子の着ている服装や飾り布はサクラの眼にもつやつやでぴかりとしていて、豪華で素敵なものに見えました。だから彼はお金持ちなんだろうと見当をつけたのです。
「そうだな」
男の子が同意をしたのでサクラは少しだけ興味がわきました。
「ねえ、よその国に行ったりする?」
「まだないけど、行く予定だ」
「そっかぁ」
サクラはお話に出てくる砂漠の隊商を思い浮かべました。このときサクラは彼の家が大きな商売をしているなら、雇ってもらっても良いなと思いました。そうして国から国へと旅をしたら、いつの日かサクラのことか、サクラの両親の知り合いに会えるかもしれません。飛躍的な考えですが、サクラは両親が外国の出身であることを思い出したのです。
本当はいのの家で何でも良いから働かせてもらえればと考えていました。
いのはずっと家にいれば良いと言ってくれますが、それならば、大好きないののために働くのが一番だと思いました。
いののお父さんにそう言ってお願いしようと思っているのに、いざとなると気後れして言い出せずにいました。サクラは一人で働いて生きることに不安を覚えるほどに幼くて、友達の好意に遠慮をするくらいには子供ではありませんでした。
「わたしも外国に行きたいな」
サクラは男の子に少し慣れてきたので、夢のような思いきったことを言いました。
「外国なんて行ったらだめだ」
「だめ、かなぁ」
「当たり前だ。ずっとこの国にいなきゃだめだぞ」
男の子はやっぱり怖い。厳しいほどの返事にサクラはしょんぼりしました。また少し泣きそうです。
「そんなに外の国に行きたいのか?」
「ううん」
もういいのです。先ほどの言葉はただの思いつきに過ぎません。サクラは何が悲しいのかよくわからなくなりました。
「この国にいたほうが安全だ」
「……うん」
「いつか――」
いつか――、彼がなんと言ったのか、サクラはよく覚えていません。
ただそれから一ヶ月ほど後に、送り主のわからない届け物がサクラの元に届きました。
それは外国で作られた腕輪だと、サクラを引き取ってくれた養父に教えてもらいました。シンプルな揃いの腕輪は子供のサクラには少し大きくて、腕に通すとなくしてしまいそうです。サクラはいのと相談して大事に仕舞っておくことにしました。きれいなリボンで結んで、なくさないよう布にくるんでお守り代わりにしていました。
腕輪の送り主は不明でしたが、サクラはあの男の子からだと気づきました。
彼はサクラに外国はまだ危ないから絶対に行かないことを約束させたのです。
「今はこの国が混乱して何が起こるかわからないからな」
自分の思いつきに彼が心配しているのだと理解できたので、サクラは軽率だったと謝りました。
「おまえがわるいんじゃない。国がもっと強くなればいいんだ」
だからこの国がもっと豊かになるまでサクラはこの家から外に出ないほうが良いと彼は言いました。確かにいのと別れて外国に行くなんて、寂しいに決まっています。
サクラはやっぱりいのの家に置いてもらえるように頼んでみることを決意しました。
うなずくサクラを見て彼は安心したようです。特別だと言って彼は名前を教えてくれました。
「サスケくん?」
「……そうだ」
初めて彼の気難しそうな顔が和らぎました。サクラはまた少し安心して彼ともう少しお話ししたいと思いました。
「サスケくん、外国のこともたくさん知ってるんだね」
サスケはまだ幼いけれど外国について勉強しているのだと教えてくれました。
サクラがどうしてと尋ねると、
「オレは、その……」
商人だから知ってるんだと彼は言いました。いずれ自分も外国に行く必要があるのだと。お金持ちの商人の家はすごいものだとサクラは思いました。
彼はサクラと会ったことは誰にも言わないと言ってくれたので、サクラはほっとしました。サクラも、彼の名前と彼に会ったことは、誰にも、大切なお友達のいのにも言わないと約束しました。
そのためサクラは部屋に戻っても誰にも叱られることはありませんでした。
それどころか翌日にはいのの父がサクラに会いにきて、サクラが嫌でなければいのと姉妹にならないかと聞かれました。サクラをこの家の娘として引き取って、いのと同じように遠慮せず暮らして欲しいというのです。
サクラはいのと一緒にいられるのが嬉しくて、とても安心して、男の子のことを話さずに過ごすことができました。いのにも内緒だったのですが、新しい家に慣れることが忙しく、腕輪が届くまでいったん忘れることができたのです。
いのは贈り物の腕輪のことは不思議がっていましたが、サクラが大切に思っているのを見て、いのもその腕輪を大事に取り扱ってくれました。
サクラは大好きないのとそれからずっと一緒でした。
この思い出のなかで、大金持ちの商人のサスケはサクラの王子様でした。
サスケという名前は砂漠で知るひとぞ知るな英雄の名前でしたので、珍しいものではありません。国王や町の若者にもこの名前のものはおりましたが、サクラがサスケくんと呼ぶのは思い出の彼だけです。
彼は不思議な思い出でした。泣き虫だった自分が庭で見た夢だったろうかと思うときもありました。腕輪がありますが、それとて絶対の品とは言えません。しかしこれらの思い出は時に両親を思い出すよすがであり、何かにくじけそうなときの大切なお守りになったのです。
その思い出の彼が目の前にいます。
夢でなく現実です。サクラは昼寝から目覚めて、後宮で最も奥まった場所にある、王様の特別な証の庭で彼に再会したのです。
「本物のサスケくん? 夢みたい。すごい、まさかまた会えるなんて……。わたしもしかして夢だったんじゃないかって、だって誰もお客様のことを教えてくれなかったし、いのも知らないって。でも腕輪があったから、あの、サスケくん、ずっと気になってたんだけど、」
サクラが幼いころの贈り物について尋ねると、サスケは確かに自分が送り主だと答えました。外国に行きたがっていたから、その代わりになるものを贈ってくれたのだと彼は言いました。
サクラの喜びは爆発しました。ずっと彼だと信じていましたがすべては両親を思って泣いていた自分の空想で、腕輪のプレゼントも優しい養父の心配りだったのではないかと考えたこともあったのです。
やっぱりあれは夢ではありませんでした。
一瞬この場所も立場も忘れ、彼に抱きつきたいほどの衝動に駆られましたが、抱き寄せていた籠がサクラのいる状況を思い出させました。
サクラは籠と我が身をベールできちんと隠し、改めて男に向き合いました。
「ありがとうサスケくん。わたしあの腕輪をここに来るときも持ってきてるんだけど、あの……、サスケくんは、どうやってここに入れたの? ここは後宮の一番奥の庭で、王様以外の男のひとは入れないのに……、それに見舞いって、どうしてそんなことまで知ってるの? わたしの体のことは外のひとは知らないはずでしょう」
「……お前が心配するようなことじゃない」
サスケの口の聞き方は王の寵姫に対して非常に無礼なものですが、この場には咎めるものがおりません。何よりサクラはサスケの説明の少ないことを訝しく思い、重吾のことを尋ねました。
「あの男のことは気にしなくていい」
サスケの言葉にサクラは不安になりました。
「まさか、ひどいことはしてないよね?」
「するように見えるか」
サクラは答えられません。サスケが身につけている黒いローブは丈夫そうで衣服も上等な気がするのですが、彼の持つ雰囲気は怪しいような怪しくないような。わるいひとではないと思いたいけれどサスケの正体がいまいち掴めません。
「別に何もしていない。扉の外にいるはずだ」
サクラの不安に気づいたのか、面白くなさそうにサスケは答えます。サクラはひとまず安心しました。
「サスケくんて、商人なんだよね……?」
「それがどうした」
「だって、サスケくんが……」
サクラはサスケが何らかの手段を用いて不法に後宮に来たのではないかと疑いました。商人だと信じていましたが、後宮に出入りする商人は――サクラが見かける数少ない男性の商人でさえ――もっと親しみやすい人物のはずです。サスケは何者でしょう。
迷ったサクラは余計な詮索はせずに言うべきことを言いました。
「サスケくん、子供のころは腕輪をありがとう。わたしずっとお礼を言いたかったから、今日会えて嬉しかった。急なお見舞いでびっくりしたけど、本当に感謝してます。でもここは後宮だから、他のひとに見つかる前に帰って」
彼が何者でも構いませんが、もし彼が警備の者に危害を加えられるようなことがあればサクラは耐えられません。出来れば何も起こらないうちに後宮から立ち去ってくれれば、サクラはこれからも思い出の彼を大好きでいられます。
彼はサクラにとって初めてできた男の友人で、後宮に入った以上、たぶん最後の男の友人です。王様とは違う、夢のなかのお友達でしたが、こうして大人になってからも会えたのですから、このまま何事もなく別れたいというのが本音でした。
サクラの懇願をサスケはどう思ったのでしょう。
「オレはまだ答えを聞いていない。それはなんだ」
サスケはサクラが大事に抱えている籠を指差しました。
「その……、この籠はわたしの……」
サクラは男の目線から隠すように籠を抱きしめました。そのときベールの下から可愛らしい赤ん坊の声がして、サクラは困った顔で俯きました。
二度も聞けばサスケにもその籠が何かわかります。
「なぜ赤ん坊がいる? そいつはお前の何だ」
「サスケくん乱暴な言い方はしないで。赤ちゃんなのよ。大人が見ている必要があるでしょう。だから今はわたしがそばにいるの」
「おい、そいつのためにお前が倒れたわけじゃないだろうな」
「やだ、そんなことないわよ。とっても良い子なのよ。可愛いくて、みんなで大事に育ててるんだから」
「見せろ」
「えっと、サスケくんはだめよ」
「何故だ」
「女の子なの。王様だってまだこの子をご存知ないのに、サスケくんが王様より先にこの子の顔を見るなんて駄目に決まっているじゃない」
「女か」
「そう。サスケくんも、ここは後宮なんだから、ほんとにそろそろ帰らないと。わたし王様以外の男のひととこんな風に会ってたらいけないんだからね」
「王以外は駄目か」
「駄目です」
きっぱりと答えながらサクラは弱ってました。すぐに隠したから誤魔化せるかと思ってましたが、よりにもよって外部の人間に知られるなんて。サスケには念のために口止めをしておかなくてはいけません。赤ん坊は後宮の秘密だったのに。
「サクラ」
気づけばすぐ近くにサスケがいます。これはいけません。
「だめ」
サスケの黒い眼がサクラを捉えます。侍女も重吾もいないときに王様以外の異性を近づけるなんて懲罰が必要です。ですがサスケの眼は、なんて不思議に深く、妖しい輝きを放っているのでしょう。
サスケは子供のころの記憶からまるで変わりません。偉そうで、優しいのか優しくないのかわからないのです。
椅子に座るサクラは何もできません。ただ被っていたベールを掴んで顔の下半分を隠しました。赤ん坊が眠る籠を離すこともできません。サクラは目元だけで彼をにらみ、節度ある距離を保ってくれるよう訴えました。
彼はそんなサクラを見てにやりと口の端を歪めました。
「サクラ、オレは王の代わりに来たんだ」
「へっ、えっ……?」
黒いサスケの眼が一瞬赤く染まり、炎のような煌めきが周囲に起こったように感じました。
サクラが瞬きをして男の顔を見つめると、彼がサクラの大切な王様に似ていることに気がつきました。顔つきだけではありません。声も話し方も背丈も非常によく似ています。他人とは思えないほどに。
サクラは高鳴る緊張が別のものに変わるのを感じました
「……サスケくんは王様とお知り合いなの?」
「ああ」
「もしかして王様のご親戚?」
「違う」
「じゃあ、王家と縁があるとか王様と血が繋がってるわけじゃないのね?」
「オレは商人だ。王とは親しいが王家とは何も関係ない」
「それじゃサスケくんて、王様の……、秘密のお友達……?」
サスケはぶすっとした顔で、「そんなものだ」と答えました。
「じゃあ本当に、王様に言われてお見舞いに来てくれたの?」
「うるさいぞサクラ。もうそれでいいだろ。王はおまえを心配してる。ごちゃごちゃ言ってないで大人しく休んでろ」
なんて乱暴な言い方でしょう。王様もサスケもお喋りが苦手なタイプだということがよくわかりました。王様には弁舌巧みな宰相様がついていると聞きますが、これで商人とはサスケは大丈夫でしょうか。
こんな風に追及を拒絶されては納得がゆきかねるのですが、王様の名を出されるとサクラは弱いのです。
「最初からそう言ってくれれば良かったのに……」
綱手のときも感じましたが、王様の思いがけない心配りにサクラは感激しそうでした。
「わかったならそいつを見せろ」
「……サスケくん、そんなにこの子が気になるの?」
「おまえが変に隠すからだ」
前言撤回。そんな言葉が浮かびました。
最初は賊かと思ったのに、次は幼い頃の王子様が王様とよく似た妖しい商人に変わったはずですが、ここに来て詐欺師の可能性が浮上してきました。いえ、詐欺師にしては口がわるすぎるとサクラは思いますし、赤ん坊の顔を見たいがためにこんな嘘をつくのはおかしな話ですが、彼の言うことは本当かしらとサクラは考えました。
考えた末に、サクラは次のようにサスケに頼みました。
「サスケくん、この子はまだ王様にもお話していない、後宮の女だけの秘密の子供なの。王様にはいずれ私から申し上げる予定だから、サスケくんがここでこの子に会ったことは、王様にも誰にも話さないでいてくれる?」
「わかった」
サスケはあっさりと請け負いました。
「女の子なんだから、ほっぺを触ったりしてもだめだよ」
「誰がそんなことをするんだ」
「可愛いのよ。とっても」
サクラは籠を隠していた布を取り、中にいた赤ん坊をそっと抱き上げました。
白く甘やかな額に布越しに口づけして、サクラは赤ん坊を胸に抱きサスケのほうを向かせます。
清らかで深い真円の眸が男を静かに眺めました。
サスケは何も言いません。
赤ん坊は視線をさ迷わせたと思ったらすぐにサクラのほうに向き直ってしまい、目の前にあるベールの縁を不思議そうに見つめます。そうして騒ぐでもなく布を掴み、口に含んでは涎で濡らし始めました。
「可愛い子」
言葉もなく行われる幼子の動きにサクラは自然に微笑んで、愛らしい仕草をじっと見つめました。布は大きいので飲み込む心配はありません。
「サスケくん、もういいかな?」
サクラが顔を上げるとそこには誰もいませんでした。
一瞬の後に大きく息を吐き、サクラは眼を閉じました。
赤ん坊はまだサクラのベールに夢中です。
「可愛い子」
サクラはもう一度呟くと、顔を隠していたベールを外して赤ん坊の黒髪に口づけました。
うららかな庭園に鳥の囀りが再び聞こえてきました。