火の国のアルフ・ライラ・ワ・ライラ <六>(サスサク)
サクラと王様は小さな娘を囲むようにベッドで横になりました。
サクラは娘を優しい手つきで撫でます。王様はその上から二人の体を包むように腕を回しました。サクラが王様を見ると、「触れたらつぶしてしまいそうだ」と言いました。サクラが笑って大丈夫だと言っても、今夜はまだ早いので明日から練習するそうです。
微睡む娘の顔をじっと見つめる王様の顔は真剣です。サクラは幸福を噛みしめました。
娘を持参した揺りかごに寝かせると王様はサクラを強く抱きしめました。
「サクラ」
「王様……!」
サクラも強く抱き返しました。安心して、嬉しくて、泣きそうで、大きな声をあげたくなって、その分だけ王様にしがみつきました。
王様はサクラの髪やこめかみ、目蓋のうえなど様々な場所にキスをしました。髪をまさぐり、深い口づけをして、体のどこもかしこも手を伸ばしてサクラを撫で回しましたが、丸くなったお腹だけはどう触れて良いのかわからないご様子でした。
サクラは王の手を取って、
「王様のお子がおります」
とふくれた腹のうえに乗せました。
王様は恐る恐る腹を撫でて、
「神に感謝する」
ため息ともに呟くと、サクラに「ありがとう」と言いました。
抱き合った二人の真ん中で、丸いお腹が父母の体温を繋ぐようにふくれています。二人は長い間の会えなかった夜を埋めるようにそうしていました。
二人は眠る娘のそばでしばらく抱き合っておりましたが、クッションや布を持ってきて娘のそばで横になりました。
サクラは興奮が収まらずなかなか寝つけずにいたのですが、王様が気づかって囁くような小さな声でおしゃべりをしました。
ずっと伝えたかった多くの話がありました。
綱手や香燐やいのは自分が頼んで黙っていてくれたこと、大臣家に帰っていた間も養父は何も知らないこと。いつものように王様はほとんど黙っていましたが、今回のことでは誰の罪も問わないと言ってくださったのでサクラは本当に安心しました。
一晩中話していたような気がしましたが、いつのまにかサクラは眠っていました。
翌朝、サクラはベッドで目覚めました。
目の前に娘の揺りかごがあります。王様が運んでくださったのでしょうか。
見回すと王様の姿はなく、部屋に残っているのはサクラと赤ん坊だけです。
以前にもよくこうして残されたので慣れていますが、今日は少しあじけなく思いました。
「あーまー」
娘は揺りかごからベッドにはみ出んばかりにしています。
「起きよっか」
娘に話しかけて、部屋にある水差しや大皿を使って簡単に手と顔を洗います。
朝食代わりに果物を少しつまんで、後宮に戻ろうかとサクラは考えました。
それともここで待っていたほうが良いのかな。王様は法官を呼ぶと言っていましたから、ここで待っているほうが良いでしょうか。
いつもなら後宮まで重吾が運んでくれますが、今朝は姿が見えません。法官を呼びに行っているのでしょうか。
王様の私室では、サクラは重吾以外とは口を利いてはいけないことになっています。たまに後宮からサクラの世話をしに侍女が来ることもありましたが、王様の身の回りに仕える近習は男ばかりで、そんなときサクラは布を被って黙っていなければなりませんでした。
今はもう少しばかり自由にして良いでしょうか。
娘は起きたばかりで元気な様子です。
重吾がいないのに後宮まで帰るのは流石に気が引けます。
サクラは王様のプライベートなお部屋のなかでも、ベッドのあるこの寝室しか知りません。
寝室といっても広いのですが、少しだけ布で区切られている隣の部屋を覗いても良いでしょうか。
「お散歩ね」
サクラは娘を抱き上げると部屋のなかを一周しました。
なんだか不思議です。今までも王様を待っている間は必要なものを確認していたので、この部屋のことはよく知っているつもりでしたが、日差しのなかで見ると知らない場所のように見えました。
壁飾りの布や窓枠の形、精巧な調度品に彫り物を眺めながら、サクラは少しだけ歩きました。
布で隠れた先までは行こうと思いませんでした。
ただ少しだけ、その奥がどうなっているのか、少し伺い見るだけで――。
「あれ?」
人がいました。
男の人です。あまりサクラが見たことのないタイプの人です。
「へぇ……君が香燐の構ってた女か」
サクラは驚きました。ほんの一瞬だけ優しげな人かと思いましたが、その顔は笑っていながら安心できない笑顔をしています。
知らない男の人ですが、相手はサクラが誰かわかっているようです。
ここは王宮の一部ですから、言うなればサクラのほうが部外者で、この人は王様のそば近くでお仕えしている家来かもしれません。文官とも武官とも言えない、優男という印象ですが、独特の雰囲気がありました。
それに香燐の名前を言いましたので、知り合いならばと黙礼をして、サクラは引っ込もうと思いました。
「ちょっと、ねえ待って。それって何なの?」
なぜ男の人は母親が引っ掛かるような言い方をするのでしょう。
「赤ちゃんよ。見ればわかるでしょう」
サクラはちらと男のほうを見てぴしゃりと言いました。男は不躾に赤ん坊を覗き込むと驚くようなことを言います。
「うっわ、サスケみたいなチビ」
ドキンとサクラの心臓が大きく脈打ちました。
「香燐のやつがもったいぶるわけだ。こんな面白いもの独り占めして」
また香燐と言いました。もしかして香燐と親しい立場の人でしょうか。
そういえば香燐も王宮に勤めるにしては独特の雰囲気を持っています。
香燐もこの人も王様の配下でなく、サスケの仲間なのでしょうか。そう考えれば辻褄が合います。
王宮にいながら香燐もサスケも王様に対して対等なところがありました。
サスケだけでなく香燐も王様と友人のような間柄だったのかもしれません。
今までそう考えなかったのが不思議なくらいです。
それにこの人の先ほどの言葉は何であったのか。
サスケは王様に似ているとサクラは感じていました。
自分だけの大発見のように思っていましたが、王宮でもそんな風に思われているのでしょうか。
いつも人気のないときに限って現れたので、あまり人前に出ない人だと思っていましたが、サスケにだって王様の他に知人や友人がこの王宮にいるのでしょう。香燐もそうです。
サスケを避けようとしたのはサクラですし、香燐が仲間にもサクラの秘密を黙ってくれていたのなら、二人は今どうしているのか。
サクラは申し訳なさと苦い感情が沸き起こり、ふいと我に返りました。
「そう、似てるかしら……」
口に出してはサクラはそう呟きました。
「あんたも似てるな。怒らすと怖そうだ」
何でしょうこの人は。サクラと赤ん坊を面白がって、怒らせようとしています。
「どなたか存じませんが、失礼します。王様に咎められてはいけませんから」
サクラは肩にゆるくかけていた布で我が子を男の眼から隠すと、もう一度来たところを戻ろうとしました。
「王なら地下にいる」
またこの人はサクラの心臓を驚かせることを言います。
「宰相と二人きりで怪しい儀式をしてるんだ。ボクはその見張り役さ」
何故そんなことをサクラに教えるのか。
「ねえ、今行ったら面白いものが見られと思わない。君は何も知らないんだよ。あの二人の関係を」
にやにやと笑う男の顔。その口許には刃のような歯が並んでいます。
香燐は不思議な術の使い手でした。この人も何か特別な術の持ち主かもしれません。
サクラを誘いかける目的は何でしょう。
「あなた何を企んでるの?」
「ボクは別に。君は王の奥さんだっていうのに何にもわかってないみたいだから、言わば親切だね」
王宮のことは何も知らないサクラですが、これは親切ではありません。むしろ悪魔の誘惑に近いものです。
王様のことを人と話すとき、サクラはいつも喋りすぎないように気をつかい、王様のお心をあまり人に尋ねないようにしていました。
一度だけ宰相様のことを王様にお聞きしましたが、王様の答えを聞いてからは自重したつもりです。
侍女たちの噂話も、楽しい話は一緒になって聞きましたが、王宮の中枢にかかわることは聞き流すようにしていました。
下手な詮索をして、調子に乗っていると思われてはいけません。
王様が何を考えておられるのかは、直に会っているとき以外のことは当てにならないと思ったのも確かです。
自分は王宮でどう思われているのか。我が儘だとか調子に乗っていると思われないように、できるだけ控えめになるよう立ち居振舞いに気をつけました。
後宮に引きこもっていますから、まず人の口に上るようなことはありませんでした。それに後宮で聞く話はサクラに気づかっているような気がしていましたから、大臣家で聞いたいのの話は助かりました。
いのはサクラにわるいところがあればちゃんと指摘をしてくれます。
香燐もそうでした。
だからこんな話に乗ってはいけないとわかっていました。
なのにサクラはどうしようかと迷うそぶりを見せました。
商人はお金を得るために、召し使いは主人の機嫌のために耳に甘い言葉をささやきます。そして悪魔の甘言は魅力的です。
「あなた香燐とは親しいの?」
「あんな女とは親しくなんかないよ。だけどまぁ仲間みたいなもんかな。君のところにいる重吾もそうさ」
重吾、まさかその名前が出てくるとは思いませんでした。
驚いたサクラを見て男は畳み掛けるように言いました。
「重吾はいない。王の遣いだって、ついさっき出かけていった」
「じゃあ香燐はいないの?」
「香燐なら、大蛇丸様に最近何かと呼び出されてるから中にいるかもね。行ってみる?」
男の言うことにサクラは混乱しました
「危険なことはないさ。あの二人があんたに危害を加えたりしない。信じられないか?」
後になって思えば、完全にこの水月という男に唆されてサクラは自ら蛇の牙にかかりに行ったようなものですが、もしもまた同じことがあれば、サクラはこの誘いを振り切ることができるでしょうか。
「行くわ」
サクラは娘を抱いたまま、勇ましく答えました。
さほど魅力的な悪魔には見えませんでしたが、サクラは男の誘いに乗ったのです。
置いていくなんて考えもつかないことですから、娘が一緒なのは当然でした。我が子は恐れを知らない黒い眸でサクラと同じく向かう先を見つめています。
ただ、男が赤ん坊を見て表情をしかめたことに少しだけ不安がよぎりました。
王宮のなかは絶対に安全だと思っていたのです。
サクラと男は別の部屋に行き、さらに布で隔てられていた奥の部屋に向かいました。
そこは朝なのに光の入らない場所で、部屋中に小箱や書物の束、行李が山のように積んであります。異国風の怪しげな瓶が並び薬草の匂いがいくつも入り混じっている豪華な物置のような部屋でした。
王宮にはこういう物を保管することもあるのでしょう。
ここは王様の私室の一つであるはずなのに、サクラは呪(まじな)い師の仕事部屋にいるような気持ちです。
男が部屋の一角で何やら調べ物をしている間、サクラはちらりちらりと周囲をうかがいました。
薄暗いなかで目を凝らせば、小さな彫像などが眼に止まります。この部屋には王宮の秘密のお宝も置いてあるのかもしれません。
ぱしゃんと水が跳ねるような音が聞こえました。
ふと見ると箱の上に鈍く光っている物が見えます。あれは広間にでも飾る置き物でしょうか。
棒状の置物は近くで見ると剣のような柄がついており、サクラの手にとても握りやすそうに見えました。
すいと手を伸ばすとしっくりと馴染みます。
柄を握れば不思議と大丈夫だという気持ちが沸きました。
硝子でも水晶でもない鈍い光はサクラの知らない国で作られた模擬刀か、装飾品でしょうか。
軽いのに不思議な安心感があって、護身用に持つのにぴったりです。これなら刃がついていないので、腰の帯に挟んで持つことができそうです。
持っているだけで剣を構えている気になれますが、サクラは剣術が得意というわけではありません。
それでもサクラは念のため、服の中にこの異国の飾り刀を隠し持つことにしました。
すぐに男に声をかけられ、掛け布に隠されていた通路に入るよう言われました。
通路の中は薄暗く、視界の先がよく見えません。
「ここでやめるかい?」
男がにやりと声をかけるのに、サクラは不敵に笑い返しました。
まこと神のお導きは想像を越えた力を人の身にもたらします。
妻として母として、サクラは勇ましく王の元に駆けつけます。
胸に抱いた娘と腹で眠る子は母の無茶な行動をどう思っているのか。止める者がいないのを良いことにサクラは進みました。
廻廊は暗く明かり取りの小窓はぽつねんと僅かにしかなく、狭い階段を降りてからもサクラは暗闇に向かって歩きました。
王宮のどこかにいるはずなのに感覚が麻痺していきます。一人では帰れないかもしれません。
暗がりに怯えていた娘はいつしか眠ってしまいました。サクラの腕は抱きっぱなしでだんだんと疲労を感じているのですが、男は暗いなかでも気軽に進んで行くのでサクラは文句が言えないでいます。
時おり何か喋っていましたが、サクラは子供が気にかかるのと知らない場所への緊張でほとんど聞いていませんでした。
「待った」
階段が終わってしばらく歩いたところで男が急に立ち止まりました。
ずいぶん歩いたような気がしますが建物の外には出ていません。地下に入るときはサクラにも見当がつきました。空気がどこか違います。
ふうと息をつくと強い香の匂いがしました。何かの気配も。
「あの蛇は大蛇丸の……やばいな」
男はある一角の小さな隙間から中を覗きこみました。
「蛇って、蛇がいるの?」
こんなところで蛇なんて、観賞用だとしてもあまり会いたくありません。宰相様が飼育されているのかしら。
「……思ったより深刻だなぁ。やっぱり逃げようか」
「えっ、ここまで来て何よ」
「じゃ自分の眼で見てみなよ。あっと、声は出すなよ」
仕切られた布の向こうに、明かりの弱い部屋があります。何やら低い話し声も聞こえてきます。
分厚い布から覗いた先に誰かが床に座りこんでいる姿が見えました。
その回りには座る人を取り囲む形で文字が線になって描かれています。あれは呪術で使う魔方陣のようです。
魔方陣の周囲で何かがうごめいています。
「ひっ……!」
サクラの喉がひきつりました。なんて恐ろしい光景。蛇が何匹もうねっているのが見えました。
座っている人の周りには人間の背丈の何倍もありそうな蛇達が睥睨しています。
そして大蛇が占拠しているような部屋のなかで平然と立っている人物は間違いなくこの国の宰相様です。
サクラは見ているものの異常さに言葉を失いました。
これは悪い夢か、神に逆らう恐ろしい魔術の現場にでも居合わせたのでしょうか。
母の緊張を知ってか娘の小さな手はサクラの服を夢うつつに握りしめるのを、柔らかな頬が胸につくほど抱き上げました。こんな恐ろしいものをこの眼で見るなんて。
「サスケどういうつもりだろ……」
サスケ? 隣の男の呟きにサクラはあわてて眼を凝らしました。うつむいていてよく見えませんが、座っている男の人は確かにサスケに見えます。上半身は裸で帽子もなく、円の中で敷物もなく座る姿は罪人にしか見えません。
サスケは円陣の真ん中で苦しげに呻きました。
「ど……どうしよう、サスケくんが食べられちゃう……」
あの半裸の人がサスケだとしたら、どうしてあんな恐ろしい場所に大人しく座っているのか。あれでは邪神に捧げられる生け贄のような光景です。
恐ろしい想像にサクラの胸が恐怖で締めつけられます。
「確かにやばい。大蛇丸のやつ、ついにサスケを乗っ取るつもりかも」
サクラの心配に気づかないのか隣の男の声はどこか面白がっているように聞こえました。男の言葉にサクラは戦慄し、ぐいっと詰めよりました。
「あなたサスケくんの仲間なんでしょ。こんなところで見てないで早く助けなくちゃ」
「おいおい勝手なことを言うなよお姫様、あんたは子供もいるから良いだろうけどボクははっきり言って危ないんだぞ」
「子供って、王様の子供がいたら何かあるって言うの……?」
一瞬でサクラの脳内にある想像――高貴な血筋の子供は生け贄に相応しい――が駆け巡りました。サクラの青い顔にも男は呑気です。
「言っただろ。あんたと子供は安全だよ。大蛇丸だってこの国の後継者のことは気にしてたから、王国を乗っ取るのに子供がいたほうが都合が良いのさ」
「そんなこと……、宰相様は王様から信頼されてたんじゃないの」
まさか大蛇より宰相様のほうが危ないなんて。
「だからあの二人は怪しいんだ。大蛇丸がそういう奴だってわかってて宰相にしてるんだから、互いに利用してる関係なんだ」
「でも王様は……」
「わかってないな」
サスケが危ない目に合っているのでサクラは藁にでもすがる思いなのに、男は突き放すように言いました。
「サスケのことをどう思ってるか知らないけど、あいつは敵なんか表情一つ変えずに殺せる男だぜ。あんただってもしあいつに逆らったりしたら、どんな目に合うかわからないんだよ」
サクラは泣きそうなのに目の前の男もサスケも王様も、こんなことが当たり前だとでも言うのでしょうか。
サスケは蛇に食べられても仕方のないひとだとでも。
「……少しはわかってるわよ」
サスケも王様も本当の戦いというものを知っています。戦争だって経験しているのです。命令によって多くの人の命を奪うだけでなく、自ら手を下したことだってあるでしょう。
でもどうしてサスケが王宮の地下で、大蛇に殺されようとしているのか。それもこの国の宰相が下そうとしているなんて、そんな宰相の行いを王様もご存知だなんて、そんなことまで理解するのはサクラにはできそうにありません。
サクラは不安と悲しみで泣きそうでしたが、こんな男の前で泣くのは嫌でした。
赤く震えそうな鼻を必死で我慢して、娘を抱え直します。
サクラの態度に男は鼻白んだようです。
「あっそう」
なら良いじゃん。
うそぶく男に背を押されて、サクラは部屋のなかに飛び出てしまいました。
サクラは固まりました。眠る娘はずっしりと重く抱き続けた腕はだるくて痺れそうです。お腹には新しい命がいます。こんな女に何かができるはずがありません。
「あら、そこに誰かいるのかしら」
サクラがどうすべきかと迷っているところに声がかかりました。
声を潜めて話していた二人ですが、こそこそと話し続けれぱ気配は伝わるもの。
サクラの両足は恐る恐る部屋の中央に向かって歩みました。
恐ろしい呼気を吐く蛇がいます。宰相がいます。そしてサスケがいます。
サクラの帯には武器になるかわからない異国の刀が挟んであります。
部屋の中央まで来ると、たくさんの蛇の姿はなく、サスケのすぐそばに大きな蛇が一匹いるだけです。
それは人の何倍も大きな牙を持つ大蛇で、サスケを攻撃する隙を伺っているかのように油断なく睨んでいます。
「サスケくん……」
サクラは呻くように囁きました。
大丈夫かと聞きたいけれど恐ろしい状況になんと声をかければ良いのかわかりません。サスケのそばに行きたいのに怖くて近寄れずにいます。
蛇は部屋のあちこちに隠れて、宰相様の指示で今にも襲ってくるのかもしれません。
サスケはサクラの登場に最初は驚いていたのですが、今はどこか辛そうに見えました。まだ蛇に咬まれたりはしていないようですが、彼はこの運命を受け入れる気なのか。たくましい上半身は美しくさえ見えるのに、サスケは武器になるようなものを何も持っていないようでした。
大蛇丸は声をかけられない二人を見て口元の笑みを深くし、いつもの丁寧な口調でサクラに話しかけました。
「このような地下深くまで王妃様がお越しくださるなんて光栄だわ」
宰相様は相変わらず男か女がわかりづらい麗人です。面白がる宰相の声音にサクラは恐怖よりわずかにうんざりとした気分になりました。
「……あの、何度も言いますけど、私は王妃ではありません」
「すぐにこの国の王妃になられるかたでしょう。王女もお連れくださるなんて、拝謁が叶い臣下として恐悦至極に存じます」
サクラの胸元ですよすよ眠る娘を見て挨拶をする宰相は、サクラが王の子を産んでいたことに気づいていたのでしょう。
それに王がサクラと正式に結婚する気になったことを知っているかもしれません。それなら確かに危害を加えられる心配はなさそうです。
たとえこの場で不興を買っても法官が来るまではサクラの命は保証されます。
サクラは男が話していた安全の意味を理解しました。
それでも苦手なことは変わりません。蛇はまだサスケのすぐそばにいます。今すぐどうにかなる様子はありませんが、サクラの行動を宰相様は面白がっているようです。
王様がいてくださればサクラはなんと言われても恐ろしいことはやめていただくようお願いするのですが、この場にはサクラが頼みとする国王の姿がありません。
王様と宰相様がいるという話だったのに、王様はこんなことを命じておいて、政務に戻ってしまわれたのか。二人はお友達だと思っていたのに大蛇に食らわせるような非情な命を下すのが王の責務なのか。どうしてそれが今このときなのか……。
サクラはちらりと周囲を見渡して、サスケが脱いだであろう上着を見つけました。
それを手に取ると、蛇とは遠いほうからサスケに近より服を着せました。
「サスケくん、これ……」
サスケが大人しく着てくれたので、サクラはほっとしました。
服を着るサスケの足元には蛇がいますが、サクラが近寄ると少しだけ離れました。
宰相とサスケと蛇、蛇が恐ろしくとも宰相様のそばに近づく気にもなれませんし、蛇がいなければもっと助かります。
サスケは近寄るサクラに「何故こんなところに来た」と尋ねました。本当にどうして来てしまったのでしょう。
サクラは「心配になったの。王様と宰相様がおかしなことをされてるって聞いて……」と言い訳しました。
あの変な男に唆されたとしても、無理に連れてこられたわけでもありません。つまりサクラの失態ですが詳細は省きました。
サクラの軽率な行動にサスケは舌打ちしました。怒っている様子も王様に似ていて、サクラはどきりとしてうつむきました。
サスケは「大人しくしてろ」と言ってサクラと赤ん坊を自分の背に隠して蛇から遠ざけます。サクラはたくましい背に素直に隠れました。
「仲が良いのね」
大蛇丸はずっと含み笑いをしています。この状況ではこうする以外ないと思うのですが、宰相様の目の前でサスケに身を寄せていることは落ち着きません。早く解決するしかないとサクラは思いました。
最初は生け贄か何かで大蛇に食べられるのかと思ったサスケですが、二人の様子を見ているとどうも違うようです。
蛇はサスケと宰相様の中間に位置を取っています。
サクラには蛇の表情なんてわかりませんが、彫像のような眼はこちらを睨み、いつでも攻撃できるよう警戒しているようでした。
一体あの蛇は何なのか。サスケと宰相様は何をしていたのか、王様もご存知のことなのかをはっきりさせなくてはサクラはこの場から逃げ出すこともできません。
「サスケくん、ここで何をしてたの」
ひそりと声を抑え、サスケの背にサクラは尋ねました。宰相である大蛇丸に問いただすべきかもしれませんが、サスケのほうが聞きやすいのです。
サスケは答えませんでしたが、彼の口の重さを知っているサクラはすぐ次の質問をしました。
「蛇に咬まれなきゃいけないようなわるいことをしたの?」
まだサスケは答えません。
「じゃあ蛇を使って何をするつもりなの? それは王様のご命令?」
サクラにはサスケが何者か、本当に只の商人なのか、もしかして悪人なのかもわからないのです。
これにもサスケが答えないのでサクラは弱りました。
でしゃばった真似でサスケと宰相様と、王様の邪魔をしたのかもしれません。
サクラはずっと二人の様子を眺めている宰相様のほうをちらと伺いましたが、大蛇丸は素知らぬ顔をしています。
怖い大蛇は自分達をまだ睨んでますが、人を丸飲みしそうな大蛇が危険なものでないのなら、サクラがこの場にいる意味はないのかもしれません。
サクラがぐるぐると悩んでいると、沈黙に耐えきれないというように哄笑が響きました。
「いい加減に観念したら、サスケくん」
宰相の呼び方にサクラは嫌な気持ちになりました。サスケが宰相様とぐるだとしたら、サクラはやはり余計な心配をしたことになります。
そのとき胸に抱く娘がぱちりと目を開きました。
起き抜けの黒い瞳を見て、サクラはもう一度勇気を出してみます。
「宰相様、ここで何をされてたんです。王様もご存知なんですか?」
うふふ、と忍び笑いをしていた宰相が声を収めて答えます。
「王妃、確かに彼は神を欺こうとしていたけど、それは全て国を思う故の苦肉の策。この可愛い蛇はいわば苦悩の証よ」
そう言って大蛇丸が手をあげると蛇が突然何匹にも増えてサクラ達に向かって牙を剥きました。
「おい……!」
サスケの焦った声に大蛇丸は嘲笑で応えました。
「あなたが遠慮しているからよ。もういいじゃない。私もずっと我慢をしていたんだから、せっかく良い情報が手に入ることだし楽しませて貰うわ。言わばこれまでの報酬ね」
大蛇丸は巨大な蛇に囲まれてなお余裕の表情です。
「未来の国家安泰は神に約束されたものだから、国王が大切に秘蔵していた情報の一つぐらい私がいただいても良いでしょう。ねぇ王妃様、きっと貴女もそう思うわ、断罪されるべきは彼なんだもの」
宰相が言い終えるとその姿は蛇に呑まれて見えなくなり、サクラの目の前で蛇はさらに巨大になってその頭を増やしました。
あるものは恐ろしい形相で吠え、あるものは天井に伸び、またあるものは周囲に拡がっていき、ぎしりぎしりと音を立てて壁や天井を圧迫します。
宰相と大蛇は部屋が壊れないのが不思議なほどその体積を増していきました。
サクラは悲鳴も忘れて娘を抱き締め、さらにサスケに肩を抱かれるまま男にすがりました。
「ふざけるのは止めろ」
サスケが取り乱すことなく中心に声をかけると、蛇の中から変わらぬ宰相様の声が聞こえました。
「あら、止めるべきはあなたじゃない。ほら、あなたの大切な王妃様にお聞きなさいよ。最後の審判を下すのが神だとして、王妃に何も知らせないうちに事を進めるつもりかしら」
宰相様の声は愉しげで、これこそ人を誘惑する魔性そのものです。
「……サクラ」
大蛇丸に言われるまま、サスケは腕のなかのサクラを見つめました。
「すまない」
「……なにが」
事態の恐ろしさにサクラはほとんどものが考えられません。反射の如く応えました。
「おまえに隠していたことがある」
「……」
「ずっと隠そうと思ってた。神からも隠してしまえば見逃されるだろうと。おまえが王妃にさえならなければ、後宮に押し込めても誓いを破ることにはならないと思っていた……」
「神様は全てをご存知よ」
「そうだ。そして神は寛大だとおまえは言った」
サスケと会ったときに神の御名は出しましたが、話したことはなんだったか。(まごうことなく神はあまねく寛大であり、その御業は賢く強く優しくあらせられます)
「どうして、今そんな話をするの……」
こんな恐ろしいときに告白されるのは一体どんな秘密でしょう。
「それは……」
サスケも言いにくいのか言葉に詰まります。とっさにサクラは聞きたくないと思いました。
しかしサクラの胸元にはぐずる娘がいます。周囲には恐ろしい大蛇が二人を取り囲んでいて逃げられません。サスケに頼らなければサクラ達はどうなってしまうのか。どうあっても娘と腹の子を守らなくてはなりません。
サスケの言葉を聞こうと、ぐっとサクラが涙をこらえたとき帯に挟んでいたものが不思議な輝きを放ちました。
サスケもサクラの腰元の光に気づきます。
「それで……、その秘密はおまえにしか話したくない」
サスケの顔に朱が走りました。
「……なんのことかわかんないよ」
「後で話す」
つまりなんでしょう。サクラが困っているとサスケがサクラの腰に手を伸ばしました。
「貸してくれるか」
サスケはサクラがずっと持っていた守り刀の柄を握りました。
「うん」
サスケに上着をかけたとき、その衣に隠れてサクラは武器代わりに使えるかどうかを訊ねていました。
そのときサスケはわからないという表情をしていましたが、異国の飾り刀でも素手よりは良いでしょう。
サスケが何者でも、王様の次に頼れるのは今この場にサスケしかいません。
「助けてサスケくん」
サクラの頼みにサスケは表情を引き締め、自信ありげに頷きました。
「おまえに会わせてくれた神に感謝する」
サスケは巨大な蛇が渦巻く中心に向かって真っ直ぐに進みます。
そのとき一匹の大蛇の口から、大蛇丸の頭が出現してサスケを迎えました。サクラにはその様子は見えませんでしたが、とても只人の業ではありません。
しかしサスケは顔色一つ変えず、淡々とした声音で魔性の蛇に話しかけました。
「すまない大蛇丸」
「私に謝る必要はないでしょう。王妃をどうするつもり」
蛇は先ほどの宰相と変わらぬ態度でサスケに相対します。余裕のある蛇の眼は勝利を確信した色を帯びて輝いています。
「おまえに謝るのは気が変わったからだ」
人ならぬ魔性と話しているとは思えないほど静かに告げると、サスケは手にしていた武器、霊剣にして王家を守護する封印剣トツカノツルギを掲げました。
それは不思議な光を帯びて輝くと次の瞬間には神の定められた運命の矢のごとく大蛇丸の喉奥にまで切っ先が届きました。
霊剣を埋め込まれた大蛇丸は何が起こったのかを理解しないままその蛇体ごと地に崩れました。
「十拳剣……」
大蛇丸は喉を貫く存在の名に気づいて呻きました。
「そうだ。イタチが亡くなったとき霊器とともに埋葬した」
「……そして私が墓を暴いたときは跡形もなく消えていた……王族の血に反応して……顕現したのね……」
霊剣の力によって蛇と大蛇丸の姿は蝋のように融けていき、か細い声だけを残して塵も余さず跡形もなくその場から消え失せました。
「ちっ、この蛇野郎が……」
王家の秘宝がために墓を暴いて死者を冒涜するとは、蛇蛞のような大蛇丸の行為にサスケは改めてサスケは唾棄する思いに駆られました。しかし彼はそういう者だと知っていながら今の今まで力を借りていたのです。
その力を我が身からようやく切り放すことができました。
実体のない霊剣は突き刺された者に封印術をかけたまま、長らくサスケの体に巣食っていた呪印の元を睡夢の世界に陥れ、この世界から消滅せしめました。
きっとまたこの国に害なす者があれば、王家に連なる者の手の元に姿を顕すことでしょう。
「大蛇丸を頼ったオレをイタチは許してくれたんだな……」
サスケは呪いの消えた手を見つめ、霊剣の真の持ち主であった兄を思いました。
兄のイタチは賢く優しく立派な人物であり、幼いサスケはずっとその姿を追って、兄のようにならんとしていたのです。
それがいつのまにか、理想のために自らを犠牲にすることが正しいのだと思い込むようになっていました。
若くして亡くなった兄のように国にすべてを捧げるのだと。
「サスケくん……」
サクラが娘を抱いてひたとサスケを見つめています。
サクラが娘と剣とともに現れたのは、神と一族に許されたということなのか。
「もう大丈夫だ」
声をかけるとサクラはわあと声をあげてサスケにすがりつきました。
少なくとも兄は愚かな弟の幸せを喜んでいる。そう思えることをサスケは神に感謝しました。
「すまない……」
サスケは怖がらせたことを謝りましたがサクラは聞いていません。
赤ん坊も驚いて何事かを訴えてますが、それよりもサクラ自身の衝撃が強すぎました。サスケはしばらく二人が泣くままにしていました。
彼女には全てを話さなくてはいけませんが、それには早く王宮に戻らなくてはいけません。こんなところでなく、サスケには何よりも一番にやりたいことがありました。
サスケはまた何も言わずサクラを子供ごと抱き上げました。
驚くサクラに地上に戻ることを告げると大人しくなりました。疲れていたせいか、サクラは子供をぎゅうと抱いたまま眠ってしまいました。サスケの腕は力強く、揺れる動きはサクラを安心させたのです。
母に抱かれた小さな娘がきょとりとした顔でサスケを見あげます。
どうすれば良いのかわからないサスケは腕のなかの宝物に気をつけて歩きました。
もう少しでこの子供が彼のものになるのです。
期待でわずかに歪んでいる彼の口の端を見ているものはおりません。
サスケは王宮の抜け道を足早に進みました。
二人を抱いたまま王宮の広間に着くと、サスケが思っていた通りに準備が整いつつありました。
すぐに召し使いが近寄ってきて、サクラと娘をサスケから受け取ろうとしましたが、サスケは制して、綱手を呼ぶよう指示しました。
サクラと子供はその場に用意された長椅子に横たえられました。
綱手はすぐにやってきて、二人の状態を診ています。
慌ただしい召し使い達に紛れて大臣といのが見守っています。香燐もやって来て、心配そうに駆け寄りました。
サクラはすぐに気がついて、親しい人々が自分を取り囲んでいることに気がつきました。
可愛い我が子の顔に、その奥から強く黒い眸が自分を見ています。
「サスケくん……」
サクラがそう呟くと、周囲の人々の空気がざわりと波打ちました。
聞いてはいけないものを聞いたような周りの気配に、やはりサスケは王宮にとって憚るべき立場なのかとサクラは思い、続く言葉がありません。
するとサスケがそばに来て、綱手と香燐と話を始めました。そしてサクラにはいのが代わりに話しかけました。
「サクラ、意識がないって聞いたけど大丈夫?」
「疲れて眠ってただけだから、大丈夫」
「そう。少しの間、立っていられそう?」
「えっと、平気よ」
サクラが眠ってしまったのは心配と疲れと揺れるサスケの腕が気持ちよくなってしまったからで、娘を抱き続けた腕は痺れてますが、見てくれるひとがいれば問題ありません。
「なら良かった。今日は必要なことだけだから、また今度色々楽しみましょうね」
嬉しげにウインクをした姉はそう言うと、サクラは大丈夫だと周囲のもの達に伝えました。
「何が?」とサクラが問う前に、何人もの侍女達がサクラを囲みます。
「早く早く」と急ぐ皆に連れていかれるままサクラは手早く体を清め、化粧をして髪を結われ晴れ着を着て口元と目の縁に赤い紅を引かれました。
仕上げには貴族の花嫁がするような精緻な刺繍がびっしりとある薄いベールを被ります。
着飾ったサクラが広間に戻ると場の空気がわっと華やぎました。
養父の大臣が進み出てサクラの手を取ると皆は場を開けて歓迎しました。
広間の中央に道ができると、先ほどまで雑然としていた気配は止み、とたんに水を打ったような静けさが広がります。
サクラは何が始まったのかわかりませんでした。いのも養父も喜んでいるのがわかるので、どうしたのかと訊きたいのに訊けずにいます。
そうこうする内に祭壇の前に来ました。
そこには絹の帽子を被りたいへん立派な外套を着たサスケが堂々と立っています。
そばにはしかつめらしい顔をした法官もいました。
サスケはサクラが来ると隣に立たせ、法官と証人によって婚姻の取り決めを交わしたことを神に宣言し、結婚契約書を皆に披露しました。
そして香燐が抱いていた我が子――いつの間にか可愛らしくも立派な服に着替えていました――を受け取り、少しぎこちなく抱き上げ、この小さな娘が第一王女であることも宣言してしまいました。
サクラがベールの下で混乱していると、
「王妃は次の子を妊娠しており、まだ安静にしている必要がある。正式な披露は追って行うが、皆はひとまず祝ってくれ」
サスケが朗々と告げるや大広間が歓声に包まれました。
居並ぶ家臣は次々と祝意を述べ、美しい王妃と愛らしい王女、次に産まれるだろう御子の生誕を神に祈りました。
皆が口々に挨拶を述べるのをひとしきり聞き終えたサスケは王者らしく鷹揚にうなずくと、我々は部屋に戻って休むが、皆には祝宴を楽しむよう告げました。
そして最後に、
「大蛇丸、あとは頼んだぞ」
と言って、宰相の大蛇丸に事後を託しました。
「はい、国王陛下」
謎めいた微笑を浮かべる宰相は謹んで王命に従います。
宰相の姿を見たサクラは驚きに目を見張りました。ぽかんと空いた口が塞がりません。
サスケに「オレがこの子を抱いているから、おまえは腕に捕まっていろ」と言われたのですが、頷くのが精一杯です。
祭壇の前から広間の中心を通って帰るとき、泣き笑いの表情をして喜ぶ養父といのが見えました。また、香燐のそばにはサクラを地下に誘ったあの男がいて、重吾も隅の壁に控えめにいるのが見えました。
そして宰相様が変わらぬ笑みを湛えて周囲のものに指示を出しています。
己の見ているもの、法官と契約書、サスケが宣言した内容、そして今彼の腕に捕まっていることを含めて、あまりの出来事の数々にサクラは思考することもままならず、サスケの腕に捕まって歩くことしかできません。
高貴な身分の人々が祝いの言葉を述べるのに、きちんとした礼を返せたのかどうか。
そんなサクラの気持ちは他ならぬ宰相様がご存知でした。きっと人前でなければ彼は声を出して笑っていたことでしょう。
事態を正確に理解しているのはサスケと奴隷としてずっと二人のそばにいた重吾、そして国民全てに怪しいと恐れられている、この国の名宰相大蛇丸その人でした。
サスケと連れ立って大広間を出ていくと、サクラ達は王様の自室に入りました。
後宮の次に慣れ親しんだ場所です。
部屋に入ってほっとしたサクラは開口一番に、
「重吾を呼んで」
と強い調子で頼みました。
サスケはすぐに近習の者に命を下します。
王のようなサスケの態度にサクラは複雑です。子供を抱いたままのサスケに、
「私の子を返して」
と言いました。
サスケはこれにも無言で応えました。サクラも無言で手を伸ばしましたが、受け取った子の重みにそのまま立っていられません。腕はすっかり痺れて力が入らず、全身は緊張ですっかり硬くなっていました。
サクラの様子を見てサスケは、
「おい」
と声をかけて体を支えようとしましたが、
「大丈夫」
と言ってサクラはその手を払いました。
そのまま部屋の奥にある大きなベッドまで行って子供ともども座り込みます。
昨夜、王様と娘との三人で共に過ごしたベッドです。サクラはわずか半日とたたぬ間に起こった出来事に疲れきってしまったので、このまま子供と一緒に眠ってしまいたいと思いました。
ひとまず重たい上着を脱いで、娘の着ていた素晴らしい刺繍の衣服を脱がせました。
その様子をサスケがじっと見ています。
サクラと娘の様子が落ち着くと、サスケは瓶と杯を持って二人のそばにやって来て言いました。
「疲れただろう。飲むか」
サクラは疲れていたし、喉も渇いていたのでサスケの用意した葡萄ジュースをごくごくと飲みました。可愛い娘にも同じものを飲ませます。
二人して人心地がつくと、サクラはサスケに硬い声でありがとうと礼を言いました。
サスケは、いや、と言って黙りました。
サスケは腹が減ってないかと聞くので、サクラはお腹がすいて今にも倒れそうだと言いました。
サスケは慌てて部屋の隅に置いてある果物の大皿、焼き菓子の乗った盆に甘くて冷たい冷菓、軽食用のパンの盛られた篭を寝台の上まで持ってきました。
王様のベッドで少々お行儀がわるいのですが、サクラは本当に疲れていたので娘を膝の上に乗せて、並べられた食物をその場で食べ始めました。
娘にも小さなパンのひときれや好きな果物をあげていると、サスケが感心したように食べるんだな、と言いました。
「うん。最近は私と同じものをかなり食べられるようになって……」
話しながらサクラはふいに問いかけずにはいられなくなって、唐突にサスケに尋ねました。
「ねえサスケくん、さっきいらした宰相様は退治したんじゃなかったの?」
「……地下でオレが倒したのは大蛇丸の呪いで、大蛇丸本人じゃない」
「それは……つまり、本物の宰相様はご無事で、捕まえたりしなくていいの?」
「あいつは大袈裟なことを言ってオレをけしかけただけだ」
宰相様が変わりなく宰相様だなんて、今度面と向かって会うことがあればサクラは悪態をついてしまいそうです。
地下でのあの恐ろしいやり取りが何でもないこと、罪に問われないとは、やはりサスケの考えていることがサクラには理解できません。
あれは一体なんの儀式で、サスケはどうして自分と一緒にものを食べているのでしょう。結婚契約書だって変でした。
「……あの、さっきの契約書はどういうこと?」
サクラが結婚した相手は王様のはずですが、いつまで経っても当の王様は現れず、代役のサスケが王様のベッドでサクラと同じように軽食をつまんでいます。
「何って、結婚契約書だろ……」
サスケはぶっきらぼうに答えます。ついさきほど大広間にいる家臣団の前で、まるで国王のように立派に命令をしていたとは思えません。
「ねえ、それじゃ王様は? サスケくんは何者なの? 王様は私と結婚すると言われたけど、このままサスケくんが身代わりでいるなら私は誰の妻になったのかわからないわ」
サクラは朝に目覚めて変な男にそそのかされ、地下に降りてから自分に起きた不可思議な出来事が一つも理解できないでいます。
サスケと宰相の関係、あの恐ろしい大蛇の呪術を王様はご存知なのか。
全ての発端に見えた宰相様が変わりなく王宮で差配をされているとはどういうことか。
何より昨夜の王様はどうされたのか。何故今になってもお会いすることができないのか。自分と娘は一体どうなってしまうのか。
口に出してしまえば恐ろしい何かに飲み込まれそうです。
サクラは一縷の望みを抱いて最後の審判を待つような思いでサスケの言葉を待ちました。
「サクラ」
名前を呼ぶ声にサクラはぴくりと震えました。
「おまえ、この国の王の名前を知らないのか?」
サスケの言葉にすいと顔をあげて、サクラは答えました。
「サスケ様でしょう」
言いながらサクラは、えっ、と呟きます。サスケはまた黙りました。
「えっ、だってサスケくんは商人で……、お顔の色が違うし肩まである痣だって……、えっ?」
サスケの言うことが理解できないのに、サクラの心臓が早鐘のように激しく脈打ち始めます。
「肌の色は術を発動しなければ変わらない。呪印の痣はおまえが来る前にオレの体から抜けたんだ」
「肌が……」
「取り出した呪印はおまえが見つけた剣で封じ込めたから、大蛇丸に記憶を取られずに済んだ」
「ええと……つまり……?」
サスケの言っていることがさっぱりわかりません。
「商人というのは、子供のころになんとなく言っただけだ」
「…………え?」
それはつまり嘘?
「だからオレが国王で、おまえはオレと正式に結婚した」
なんだか偉そうにサスケは言ってのけました。
「でも、だってわたしずっと王様と……、サスケくんは昔に会ったひとで、昨日は子供も一緒にいて」
「そうだ。昨日おまえと娘はオレと一緒だった。あんな姿で触れてはいけないと思って呪印を解くことに決めた。サクラ」
「えっなに」
「今まですまない。オレは誓いのために大蛇丸の呪印を利用して、神に隠れておまえと会っていた」
このひとはさっきから何を言っているのでしょう。
サスケの話では、商人は子供のころの話で、つまりサスケが王様だと言って、どうしてそんなこと、神様から隠れるなんて、一体どんな魔法でそんなことに?
王様の言われた通りに結婚契約書ができて、サクラは王妃で、家臣のかたがた、いのや香燐もいて、宰相様はずっと宰相様で変わらない……。
サクラの鼓動の高鳴りは頂点に達しました。このままではいられなくなってサクラは叫ぶように声を上げました。
「重吾は、重吾はいるの?」
ばさりと布を払って重吾が顔を出したので、サクラは命じました。
「後宮に戻ります。早く連れて行って」
サスケは驚いて引き留めましたが重吾は王様より主人の命令に従いました。
こうして火の国の国王サスケ様は、かねてよりハレムに入った大臣家の養女サクラと電撃結婚をされました。
それだけでなく可愛い御息女も王女として直ちに国中にお触れが出され、美しく賢い王妃様、父上によく似た愛らしい王女様、満月よりも美しい三国一の美貌を誇る武勇優れた王様がついに愛すべき女性を得られ、国中のあらゆる女達、娘から人妻、孫やひ孫のいる老女までもが喜びつつも嘆き悲しむという日々が何日も続きました。
お城と国中では盛大なお祝いが至るところで行われましたが、当の王様と王妃様はすぐに夫婦喧嘩を始められ、お二人の仲睦まじい様子を国民はなかなか知ることができませんでした。
しかしあの女嫌いの王様が毎日のように機嫌伺いに後宮の王妃様の部屋を訪れて、お口のお上手ではない王様が一生懸命に王妃様に詫び言をなさる姿は王宮の格好の話題となり、名だたる家臣の皆様は、あの王様があれほど妻に弱いとは、全く縁とは不思議なものだと楽し気に話しました。
「おいサクラ」
「しらない! しゃんなろーよ!」
結婚前の王様のなさりようを知る二人の忠実な奴隷である重吾は、お二人の様子に口を挟むようなことはありません。
ただ王妃様の体のためにも早く仲直りができるよう神に祈るばかりです。
ぷりぷりと怒っているサクラはすっかり元気でした。
美味しい果物を食べて、庭に出て散歩をして、後宮まで会いにくる王様相手に色々な文句やおしゃべりをして寝つく様子もありません。
さてさて、ようやく王妃様のお怒りが和らいだころ、王様と王妃様の披露宴がもう一度盛大に開かれました。
その式ではお二人は仲睦まじく、お子様も愛らしく、家臣一同晴れがましい思いで参列いたしましたが、只一人宰相様を見ると王妃様のご機嫌は優れないようでしたが、当の宰相様は一向に気にされませんでした。
むしろ正直で好ましい人柄だと皆の前で言われます。
そういえば王様もときに皆の面前で宰相様を悪し様に言われるので皆は納得し、我が国の宰相は非常に怪しい人物であるが、これはこれで良いのだと頷きました。
国政はこれで滞りなく、火の国はこれからも繁栄を続けるのです。
しかるに王妃様のご念願であった王女様のお名前は無事王様につけていただいたのか。
この物語を読まれる聡明な皆様にはすでにお心当たりがあることと思いますので、この辺でこの長い夜々の物語を追うのをいったん綴じさせていただきます。
まこと神は寛仁にして慈悲深き御方
その御業は人智の想像を越えて大地に平安をもたらします
こうして夜がまた一つ繰り返されていくのでした。
永遠に……
参考文献
このシリーズは既存のアラビアンナイトと特に下記の作品を参考にしております。
・『NARUTO 43』岸本斉史(集英社)2008より「ナンバー392:須佐能乎…!!」
・『アラビアン・ナイト 2』前嶋信次訳(平凡社)1966より「大臣ヌールッ・ディーンとシャムスッ・ディーンの物語」
・『アラビアン・ナイト 7』前嶋信次訳(平凡社)1974より「ニイマ・ビン・アル・ラビーとその女奴隷ヌウムとの物語」
また、『完訳千一夜物語 改版』豊島与志雄・ほか訳、と『バートン版千夜一夜物語』大場正史訳、も参照しています。
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