火の国のアルフ・ライラ・ワ・ライラ <一>(サスサク)
それは遥かなる時をこえた、
今とは異なる世界の物語――。
西のほうにある砂漠の向こう、都より離れた辺境の地に、小さな王国がありました。
木の葉生い茂るオアシスのもとで作られたという、その国には火をあやつる武勇長けた一族がおりまして、いつのときか一人の若い王様が国を治めておりました。
王様は幼いころに戦争が原因で父上と母上を同時に亡くされ、その後も優しい兄君を病で亡くし、もう何年も一人で国王を務めておられます。幸いにもこの王様は賢く文武ともに優れていたためみな心からお仕えし、小さな王国は昔からそうであったかのように平和な国となりました。
さて、争いもなく国が穏やかで王様がお年頃となれば話は決まっています。王様はお妃様をお迎えし、お世継ぎを作らなくてはなりません。
王様はお生まれになったときから愛らしいお姿の良さが評判で、亡き王妃様によく似た面差しは長じてからは凛々しい少年となり、今では月光のように冴え冴えとした美貌の君になられました。国中の娘が王様に憧れ、ちらとでもお姿を拝することがあれば悲鳴のような歓声をあげてため息をこぼすのです。
しかしこの王様は少々気難しい方でありました。
君主らしい合理性を重んじる性格は政や武芸の稽古にはいたく熱心であられますが、詩歌や音楽などはお好みにならず、そうしたものは時間の無駄だと生真面目に言われます。
他にも、甘いものがお嫌いでスパイスのよく効いた辛い料理を好まれる性質で、およそ世情が親しむ遊びというものをあまり理解されません。辛党の王様は余暇を過ごすことさえ甘やかな時間を苦手としておられます。
英雄にありがちな色遊びにも興味をお持ちでなく、むしろ自分に色目を使う若い娘を疎んでおられましたので、王様は女嫌いであろうと噂されました。類いまれなる美貌があだになったのかもしれません。
そうは言ってもお年頃の若く美しい王様には縁談の申し込みが降るようにございました。
近隣諸国に鳴り響くほどの美貌が評判の教養豊かなお姫様。竪琴のお上手な歌舞音曲に優れた王女様や、詩の朗読がお好きな淑やかな麗人、賢くお優しい声の持ち主であるなど、いずれの国からも素晴らしいお姫様方の長々しく喧伝された紹介文が届きました。
なかにはそれはそれは素晴らしい姫君からのお申し込み――あの徳の高い教王様の治める都で探してもこれほどの方はおられまいという良縁もございましたが、王様が首を縦にすることはございません。
ご家来衆は困ってしまいました。それとなくお世継ぎのこと、女性の素晴らしさ、ご家族をお持ちになる喜びを王様にお話しましたが、どうしても自身のご結婚について承諾していただけません。
宰相の大蛇丸は悩みました。
「困ったわねえ……」
お若いといっても王様です。ご結婚は君主の義務ですから嫌いで通るものでもありません。しかし王様はまだ幼いと言って良いころから王様として立っておられる立派な方で、ときに敵の首を一刀のもとに跳ねられる力と気性の激しい一面がございました。
あまりにも好みからかけ離れたものを王様のお眼に入れ、逆鱗に触れるような真似は宰相といえど避けたいものです。
王様は冷酷というわけではありませんが、ご意志の強い頑ななところがございました。
「彼の好みって難しいのよね。馬や武具なんかは少しわかるんだけど、見た目なんて気にしないと言うくせに、派手な装飾は邪魔だと言って嫌がるから聞いてあげてるのに。仮にも王妃にするなら容姿だって大事な要素よ。それを不要だの一点張りだもの。機能美だって色々あるんだから、もう少し具体的な好みを言ってくれなくちゃ……」
宰相の心配は尽きません。
「既成事実を作ろうにも、彼相手に無理強いのできる娘はいないでしょうしね」
大蛇丸は夜遅くまで思案を巡らしました。
「ねえ大臣、あなたのところに年頃のお嬢さんがいたわね」
宰相は翌朝大臣を自室に呼びました。
大蛇丸は目下に対しても丁寧な言葉で話しかけます。
「非常に美しくて賢い方で、国中の評判になっているそうじゃない。素晴らしいわね。婚約者はいらっしゃるの?」
「……娘は自由恋愛をしたいと考えている。私もそれに賛成だ」
硬い表情の大臣はしぶしぶ答えました。大臣家ほどの名家では珍しい考えです。
「まぁそれは素敵な考えをお持ちね」
宰相は大臣の家庭について調査済みで、娘には婚約者はなく、恋人らしい存在がいないことを知っています。仮にいたとしたらその相手は遠からず不慮の事故に合ったかもしれませんが、今回は問題ありません。
「では聡明なお嬢さんは、お父様が決めた結婚相手は気に入らないかしら」
「何を……?」
「お嬢さんにあなたから王様のハレムに行く気があるかどうか聞いてくださる? 輿入れは一ヶ月後の満月の夜にしたいから、お支度も含めてよく考えてちょうだい」
宰相の申し入れは思いもしないものでしたが、大臣の反論を大蛇丸はすべて封じ込めてしまいました。
こうして大臣家の娘に白羽の矢が立ちました。
彼女がやってきた夜、それはそれは大きな満月が東の空に昇りました。
夜空は蒼く広がって行き、砂漠の王国を黒く深く包んで行きます。
月が天空に向かって輝くころ、灯りに照らされた王様の寝室では主の訪れを待つ一人の娘がおりました。彼女は王様のハレムに献上された大臣家の娘でした。
身じろぎもせず娘は床に座っています。
ほどなく布を払う音がして王様が現れました。娘は頭を深く垂れて、恭順の意を示します。
部屋の真ん中で小さくなっている娘に一瞥を投げて、王様は奥に進むと寝台に座られました。
王様が落ち着かれるのを待って娘は面を上げました。
何かお言葉がないものかと主を待ちますが、王様は何もおっしゃいません。
所在無げにしていた娘は顔を隠していたベールを取りました。王様の前で隠していても仕方がないと思ったのです。
さらに娘は頭部から全身をすっぽりと被っていた布を取り外し、長い髪を露にしました。金銀の刺繍が施された透けるような薄いグリーンの下から、絹のように細い髪が肩に広がっています。王様のターバンの下に収まっている漆黒の髪とは全く違う淡い色の髪です。
それから娘が薄布をすっかり取ってしまうと、肉付きの薄い肩とほっそりとした二の腕が見えました。中国の陶磁器のような白い膚に、しゃらしゃらと軽やかな音を立てる首飾りが胸のうえで揺れています。華奢な姿態は少女のようで、布で被われた胸も膨らんだパンツから透けて見える足も無垢な白さがありました。光る石がへその穴に埋まってはいますが、ハレムの女というほどの派手な様子はありません。
実際のところ娘は夜伽というものにも慣れておらず、この場にいるのが怖いと思っていました。薄布を脱いだは良いが手放すこともできず、体の前で握りしめたまま娘はもじもじと視線を落としました。
「…………」
王様はまだ無反応です。何だか明日の朝陽が昇るまでこのままのような気がします。
娘は勇気を出して寝台にすす、と近づきましたが、お許しがなければこれ以上何もできません。
仕方がなしに娘は次のような口上を述べました。
「……あの、王様、夜のお慰めに呼ばれましたが私はご覧のような器量です。せめてものお暇潰しに、都より手に入れました書物の一節をお聞かせしてもよろしいでしょうか?」
それでもお返事がありません。娘は困り果てましたが、もうどうにでもなれとこの場にふさわしいと思う気に入りの話を諳じることに致しました。
「私は少しばかり物覚えが良いだけで他に誇れるものがございません。僭越ながら夜の寂しさが紛れますよう、お話をさせていただきます――」
娘は記憶のなかの書物を一行目から語り始めました。
「――ですから、物々交換と違って物資に見合った金銭の支払いという概念が成り立つなかには、概念を共有する者同士の信頼があるというのが面白いと思いました。この信頼が揺らぐと物価が高くなると言っても良いかもしれません……」
娘は熱心に書物にあった学者の説を語り、ときに自らの考えを述べました。緊張していた娘は話すうちに舌が滑らかに解れていき、家族の前で大好きな本の感想を話すように学術書の内容を諳じることができました。
王様は最初こそ寝台に座ったままの姿勢でしたが、だんだんと体を楽にされ、仕舞いにはごろりと横になられました。
退屈な話だろうかと娘は不安になりましたが、王様はずっと娘の方を見ています。時おり頷いたり、首を傾げられたりと、話を聞いてらっしゃるそぶりもなさいます。噂通りに王様は真面目な方で、政治経済に関わる話をお好みなのでしょう。娘の思惑は当たりました。
にっこりと微笑みながら娘は満足して語ることができました。これなら王様のお暇潰しを一応果たせたような気がします。
「……おい」
「はっ……はい」
初めて聞く王様の声です。
「お前はその本の内容を全て覚えているのか」
「面白かったので、読んだときに覚えてしまいました」
「ふん」
「……」
「腹が減った」
「……は」
王様の視線の先を見て、食事の用意があることを思い出しました。丸いテーブルにはおいしそうな料理が並んでいます。
「すぐお持ちします」
王様は寝台のうえから動きません。娘は大皿を取って王様の前に置き、杯の用意をして給仕に務めました。
「ん」
王様は杯を受け取り飲み物に口をつけました。蝋燭の火に照らし出された冷悧な横顔が娘のすぐ目の前にきました。
娘は息を飲みました。王様の頬に波のような紋様があるのです。
それは左側の頬から目の回りにかけて、水のうねりのような、火の粉が踊っているかのような、不思議な痣とも飾りともつかないものでした。それだけではありません。王様の膚が嵐の夜の雷雲のようにうっすらと黒いことに娘は気づきました。
王様は娘の様子を見てわずかに口元を弛めました。その表情はまるで、どうだ畏れ入ったか、と言っているようです。
娘は王様への敬意を示すために眼を伏せて、
「王様に魔物が近づきませんように」
という意味の経典に乗っている聖句を唱えました。
彼女には顔の紋様が古代から伝わる魔除けの印だとわかったのです。同時にあの魔除けは敵と戦うために自ら魔神の力を手に入れることを意味しています。普通のひとは恐ろしがって滅多に行う者などない特別な呪の証です。そんな恐ろしいものを身にまとうのは王者としての責任感でしょうか。王様は若くして家族を亡くされ、国を思う気持ちは人並みではないと噂されます。猛々しく優しい、まさに王のなかの王だと皆心より崇めております。尋常ならざる王様の姿もそうしたお気持ちの表れなのかもしれません。
畏敬の念とともに娘はそんな風に考え、あの模様は王様にお似合いだなと思いました。
夜に馴染むような黒い肌、お顔を彩る炎のようなたくさんの痣。強者の印は王様の孤高の美しさに猛々しい力を注ぎ込んでいるようでした。
王様は娘の言葉に鼻を鳴らし、褒美だと言って肉入りのパンを一つくださいました。恐縮しつつも娘は喜んで小さな歯を立てました。
途端に強烈な痺れを感じて娘は咳き込みました。あまりの苦しさに涙がこぼれます。体を折り曲げて咳き込む娘に王様は戸惑ったようです。
「どうした」
「申しわけ、ありません……」
王様好みの味つけが娘には辛過ぎたのです。娘は甘味が大好きで、辛いものが苦手でした。パンにたまたま入っていたスパイスの塊が娘の舌をヒリヒリと刺激します。
「見せろ」
涙混じりの娘はよろよろと口を開けました。
「赤いな」
王様は娘の顎に手をかけてじっくりご覧になります。娘は恥ずかしさと痛みで舌だけでなく体にも熱を感じました。王様はまだ娘を離しません。
たまった涎を飲み込んで良いかわからず、困った娘は口を開けたまま王様に慈悲を乞いました。
「おっ、おゆるしをっ……」
すぐに口の端から涎が垂れていくのがわかりました。王様の手が離れたので娘は急いで顔を背けて唾を飲み込み口の端を拭いました。
羞恥と熱さで体の中に火の棒が埋め込まれているかのような心地です。何か甘い果実でも食べなくては熱が出て倒れてしまいそうでした。
娘の背に王様は苛立たしげに声をかけます。
「許せとは何だ?」
王様の声の調子に娘はうろたえました。王様がくださったパンが辛かったなどと申しあげるのは憚られますし、娘の様子を気にかけてくださった王様に手を離せというのも不敬です。
「何がしたい。早く言え」
王様は即断即決を好まれます。娘は自分のことをそれなりに賢いと思っていましたが、こんなときに限って言葉が何も出てきません。焦った娘は思わず本音を漏らしました。
「あっ、甘いものが欲しいです……!」
王様の甘いもの嫌いはとても有名な話なのに、咄嗟に出た言葉に娘は自分でも呆れました。しかし王様は呆気に取られた顔をなさいましたが、葡萄の房を手に取って娘に渡してくださいました。
娘は喜びとわずかな恐れを抱きました。王様の御前で再び失礼な態度を取ってしまってはいけません。
「食べないのか」
気遣ってくれる王様の言葉に申し訳なくも、娘は蚊のなくような声で果実について尋ねました。
「これは辛くないでしょうか?」
王様は答えず、ちっと舌打ちをなさいました。
娘がうなだれるのを尻目に、王様は葡萄の実をご自分の口に入れました。そしてあっと思う間もなく娘の顎に手をかけ、口移しで葡萄の実を食べさせてくださいました。
娘は驚きました。
小さな葡萄の果肉と王様の舌が飛び込んできたのを、ごっくんと飲み込みます。
「甘いだろう」
「えっ?」
味なんてわかりませんでした。そう答えると王様は顔をしかめ、また葡萄の実を口に入れて、また娘の口にその実を押し込みました。
娘はびっくりしてまたも葡萄の実を飲み込みそうになりましたが、今度は耐えました。葡萄の果肉を味わおうと舌を動かしますがあまりうまくいきません。下手に歯を立てて王様を噛んでしまってはたいへんです。どうにかして葡萄を飲み込むと王様はまた尋ねました。
「どうだ」
なんと答えれば良いのでしょう。辛くないことは確かですが、王様の舌が邪魔をして葡萄の味がわからないとは言えません。
娘が困っていると王様はもっと食べるかと尋ねました。娘ははいと答えます。
三度王様の舌と葡萄の実が口内に侵入しました。娘は観念して王様に身を委ねます。
唇から唾液が溢れ、王様の舌と娘の舌の間で葡萄の実が転がります。必死になって舌を動かし揉むように葡萄を捏ねて擦り潰していく内に、娘はたまらなくなって王様にすがりました。葡萄の味なんてわかりません。娘は王様の舌ばかり味わいました。
葡萄の果肉が娘の口からすっかり消えてしまっても、王様の舌は娘のなかに入ったままです。もしかしたら王様は娘の舌の痛みを和らげようとしていたのかもしれません。痛いほど熱い舌のうえに王様の舌が重なり、ぐちゅぐちゅと二人の唾液が混ざる音が絶え間なく響きます。己のなかから聞こえる水音に娘はますます身を熱くして涙をこぼしました。
気づけば娘は寝台に横たわり王様に組み敷かれておりました。舌だけでなく体の奥がじんじんと痺れています。
娘は自分の体が燃えていると思いました。
娘は水が欲しいと思いました。
しかし王様は娘がどれほどお願いをしても王様ご自身しか与えてはくれませんでした。
王様は辛くありませんが、娘の体に忘れられない熱を与えました。
こうして夜は更けていきました。
翌朝に娘は王様の寝室で目覚めました。
体の節々が痛みます。とりわけ純潔を散らした場所は今もじくじくと痺れを感じ、王様の熱が埋まっているような感覚でした。
一夜の内に起きた我が身の変化に娘は戸惑いました。
「失礼いたします」
娘が目覚めたのにあわせて召し使いが湯の用意をして参りました。
体のいたるところに王様の残した跡があります。娘は羞恥を感じながら体を拭かれたり髪を整えてもらったりして、大人しく身仕度を終えました。
娘は自分の部屋に帰ろうと思いましたが召し使いに止められました。王様が戻るまで部屋から出ないよう厳しい命令が出ているというのです。
「王様は何かお怒りなのでしょうか?」
「いいえ、そうではありません。後で医者も参りますので、こちらでお休みください」
「でも王様の部屋で私一人が休むなんて……」
「王がそれをお望みです」
娘は頷くしかありません。
王様は執務に行かれたらしく、娘をゆっくり休ませるよう命じられたそうです。
娘は手を洗い、王様の寝室で食事を取りました。娘のために用意された大皿には食べる前から甘い香りのする熟した果実に、砂糖と蜂蜜が使われた甘くてたまらないパンがどっさり盛られています。
王様なら見るだけで顔をしかめそうですが、お腹のすいていた娘は喜んで手に取りました。
瑞々しい果物は疲れた体を癒しましたし、大好きな蜂蜜入りのパンの味に娘はほっとしました。王様にいただいた昨夜のパンもてっきりこれと同じ甘い蜂蜜パンだと思ったのですが、今思えば見た目も全く違います。今日用意してもらったものはパンのうえに砂糖がまぶしてあって、蜂蜜による独特の風味のする娘の大好きな甘いパンです。
果物とパンだけでなく、娘は水をたっぷりと飲みました。王様との激しい夜の合間に何度も飲みたいと思った冷たい水です。王様は娘が何を言っても口づけばかりで、娘が許されたのは王様が口移しでくださる僅かな水だけでした。
満足のいく食事を終えて、娘は長い長い一息をつきました。
おかしい、こんなはずではありませんでした。
食べものは美味しいけれど、当初の計画と全く違う展開に娘は首を傾げました。
宰相の話では、王様は女性に不慣れであるから、まずは話でもして若い女性を身近に感じていただくこと。そのために王様が好ましく思うようなお暇潰しの相手をするというのが、国一番の才女である大臣家の養女サクラに与えられた任務でした。
サクラは大臣家の娘ではありません。養い子として実の娘のように育ててもらってますが、サクラの親友のいのが大臣家の娘です。
いのとサクラは幼いころから一緒に育った幼なじみで、サクラの両親が流行り病で亡くなった後、いのの家にサクラが引き取られてからは文字通り姉妹のように育ちました。
サクラが大臣家の養女だというのはよく知られた話です。
養女だからこそ、今までにもサクラを望む声は度々あって、大臣家には身分の大小に関わらずサクラとの結婚を申し込む者が何人もありましたし、大臣家の娘であるいのも、その器量と家柄の良さから然るべき申し込みが何件もありました。
年頃で評判高いサクラといのは二人揃って引く手あまたでしたが、この賢い娘達は好きなひとと結婚したいという幼い頃からの夢を持っており、できれば結婚してからも互いの家に自由に行き来できるような相手が望ましいと、よく話し合っておりました。たわいのない少女の夢です。
その夢を盾にして、数多くの縁談の申し込みを二人は笑って断りました。父である大臣もあえて無理は申しません。二人はとても賢いので、自由に振る舞って良い事柄をきちんとわきまえていたからです。
そして今回のお話で、サクラは長年の恩返しをするときがきたと思いました。
今回のお話では、王様のお相手はいのでもサクラでも良いとのことです。
二人とも賢く美しく優秀だと評判で、どちらが王様のハレムに入っても良いと宰相は考えられたそうです。いまだ正妃をお迎えでない王様のお手付きになるということは大臣家にとってもわるい話ではありません。
ただしこの話は王様ご自身がまだご承知ではないというので、まずは様子見の意味でサクラが行くことになったのです。宰相のお話では賢い娘をご所望ということでしたので、それならサクラだろうと、話の流れで決まったようなものです。
そういう風に話を進めました。何か事が起こったときに重い責を大臣家が取らなくて済むように。
宰相は、王の友人になって欲しいという建前とは別に、もしかしたら酷い言葉ではねつけられるかもしれない、もしかしたらご機嫌を損ねて王宮から帰ることができず、大臣にも家族にも二度と会えないかもしれないと、非常に厳しい可能性についても言及しました。王宮とはそういう場所です。
たぶん処刑はないだろうし、もしそうなれば必ず宰相が間に入って助けるからと言われても、ぞっとせずにはいられません。
王様のご気性や女嫌いについては国中の者が知っています。本当はお優しいのだと言う者もおりますが、王様は若い娘を見ると嫌そうな顔をして眼を背けるのが常だと言われます。それには宰相も大臣も同意しました。
どんな気まぐれでサクラの首が胴体から離れないとも限りません。もしかするとこれが本当に今生の別れになるかもしれないのです。
サクラといのはとことん話し合いました。
やはりいのは大臣家の実の娘ですから、無理に王様に近づいてご不興を買い、それで父の大臣まで疎まれるようなことは避けたいとサクラは言いました。それにサクラよりもいののほうが女性の魅力にあふれてるとサクラは考えています。
自分のほうが男性に性的な刺激を与えない見た目をしているので、王様にも特別な関心を持たれないのではないか。いののような女らしい女を見たら女嫌いの男性はどんな反応をするのか。考えるだけでも恐ろしくなります。
王様のことは君主として尊敬してますが、サクラにとってはいのと大臣家のほうが大切でした。
「ちょっとデコりん。あんたは心配しすぎよ。王様が私の美貌を見て女嫌いを返上する可能性もあるじゃない」
「いのブタは能天気で幸せね。そうして王様のハレムに入って一生王宮のなかで暮らすのね。お父様にも二度と会わずに贅沢な暮らしができるんだもの、それは最高の暮らしね」
いのは一人娘でした。大臣家にはいのの他に男の子もおりません。だからいのはお婿さんを貰いたいとサクラに話していました。子供の頃とは異なる夢ですが、サクラはいのの考えを心から応援しています。
お父様の大臣は、お前達が幸せならば良いといつもおっしゃいます。本当に良い方です。
だからサクラはできるだけ長く王様のお暇潰しの相手になり、王様に似合う女性を他に見つけていただくよう説得するために王宮に行くことにしたのです。
だって美しくて優秀だと評判高い大臣家の娘なら、王様が女嫌いでさえなければすぐにお声がかかってもおかしくありません。王様はすでに近隣諸国の名だたるお姫様を全てふってしまったと言います。火の国には他にも名家と呼ばれる家はありますが、年頃の娘がいる家は限られます。その中でもいのは幼なじみの欲目を抜きにしても、容姿も才能も一番の女性だとサクラは思っていました。
そしてサクラ自身は、叶うものなら医者になりたいと考えていました。いのに良いお婿さんが出来たら自分はこの家を出て、自立した働く女性になるのです。
幸い記憶力の良いサクラは大臣が貸してくださるたくさんの書物を全て暗記して、医学について独学でかなりの勉強をしてきました。庭の一画には小さいけれど薬草も育てています。簡単な薬なら自分でも作れるようになっています。
お父様に一度だけこの夢の話をしたらとても喜んで賛成してくれました。
女一人じゃたいへんだから、力持ちの使用人をたくさん用意しなくてはと大真面目に言われたので、それからは具体的な話はやめています。お父様にはたくさんのものをいただきました。いのとも、親友として姉妹として、毎日一緒に暮らしてきました。だからもう良いのです。
もしも王様が本当に素晴らしい方で、女嫌いでもその実はとても優しい方だというのなら、それなら大切な幼馴染みを紹介しても良いかもしれません。だっていのは国一番の女性ですからね。
だから間違ってもサクラがお妃様になるような話ではありませんでした。
それなのに一夜明ければサクラは変わってしまいました。湯でいくら洗い流しても王様が愛した証がたくさん残っています。初めての痛みも消えません。
王様は素敵な男性であることは確かだと思いました。お優しいとも思います。
ですがあまりにも考えていたことと違う展開に、サクラはどうして良いかわかりません。
サクラは王様の部屋にある大きなクッションにもたれて眼を閉じました。
広い部屋の一角にある寝台の周りは大きな布で仕切られています。サクラが着替えているあいだに新しいシーツに取り換えられたようですが、主のいない場所に一人で入る気にはなれません。
今後のことを考えようと思いましたが、お腹がいっぱいですぐに眠くなりました。やわらかいクッションはお昼寝に最適です。
たった一日なのにサクラは親友に会いたくなって、閉じた両眼からは涙が静かに流れました。
夜になり、サクラは召し使いに起こされて別室で湯浴みをしました。
色とりどりの花が浮かんだ湯船に浸かり、身体中をくまなくマッサージされます。
ばらの香りのする特別なクリームを体に塗り込まれました。臍の穴に赤い石が飾られ、その周りにも筆で飾り模様が描かれます。サクラがどのような形で王様に献上されるのかを召し使い達は本人よりもわかっているような気がします。
昨夜とは別の緊張を感じてサクラはドキドキしました。
仕度が全て終わると、サクラは刺繍のついた薄いベールを被り一夜目と同じように部屋の真ん中に座りました。
今夜は王様の好む味つけの料理も飲み水の位置もよくわかっています。しかし緊張する気持ちはちっとも治まりません。王様はどんなおつもりでしょうか。自分は何をするのがベストでしょうか。サクラは当初の計画を一から思い出して心を落ち着けようとしました。
サクラが敷物のうえに座り、深呼吸を一つついたと思ったら王様が現れました。
昨夜と同じように寝台に座られます。ただ今夜はすぐにサクラに声をかけ近くに来るよう命じられました。サクラは身震いして、そろりと寝台に上がります。王様がサクラの手をつかみました。王様の手は昨日と同じ不思議な黒い肌をしています。
「体は大丈夫か」
「……はい」
「食事はどうだ」
「大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ございませんでした」
サクラは急いで答えました。昼間のうちにお医者様に体を診てもらい、治療も終えていました。それも王様のお指図でした。
王様の部屋で休んでいたサクラのもとにいらしたお医者様は若い女性でした。
「ウチは専門じゃないんだが、命令されたから仕方なくやるんだぞ。おい口を開けろ」
なんでしょう。まるで昨夜の王様です。サクラはお医者様だと思い素直に口を開けました。
彼女は変わった服を着ていました。異国のひとでしょうか、何だか言葉遣いも少し変わっているような気がします。年のころはサクラと同い年ぐらいで、医師というよりも魔術師だったのかもしれません。何故ならその女性の腕を噛むとサクラの体の痛みが和らいだのです。
「――うん、おかしな点はない。だいたい食事に何か入ってたんならとっくに毒が回ってるだろうが。やることやっといて心配するなんて、あの王にしちゃ妙なことをする」
「あの、毒とは一体……」
「お前が急に倒れたから、何か食事に問題があったかもしれないと王が言ったんだ。警備体制も見直すから、お前はここから動くなよ。他に異常はないか?」
なんということでしょう。王様はサクラがパンを食べたときの反応を見て毒の心配をなさったのです。
「お医者様、食事は大丈夫です。私がいたらないために王様にそんな心配をおかけするなんて、すぐにお詫び申し上げないと……」
「そいつはわかってる。言っただろ、本当に毒入りを食べたなら、もっと早くに症状が出てるはずだ。お前は王と一晩一緒だったんだ。なんともないに決まってる」
お医者様の冷静な見立てにサクラはほっとしました。同時に、それで王様はサクラの口内を見るのに熱心で、その後の全てを口移しでしか許さなかったのでしょう。
あまりにもお情け深い行動に王様の君主としての徳の高さを感じました。サクラはありがたさに涙が出そうです。
サクラの感動をよそに、お医者様はぶつぶつと文句を言いながら診断を続けました。
「次は体を診るぞ。ウチがちゃんと仕事をしたって言わねえと、あの王は納得しないんだよ」
サクラは少し恥ずかしいと思ったのですが、男のお医者様よりはましだと思い、服をはだけて見せました。サクラの体に王様が残された跡の多さにお医者様は呆れた顔をなさいます。
「初めての相手にどう心配していいのかわからないんだろうけどよ。なんでウチがこんなことに付き合わなくちゃいけないんだ……」
いちいち診るのは面倒だと、お医者様は己の腕を噛むよう言われました。意味がわかりません。サクラは当惑しました。
「ウチがこんなことをするのはレアなんだぞ!」
押し問答をしたうえにお医者様――香燐というお名前でした――の腕をそっと噛むと、まことに不可思議なことが起こりました。
体にあったうっ血の痕が薄くなり痛みが消えました。何よりも一番大事な場所に感じていた鈍痛がなくなったのです。サクラの表情を見て香燐は治癒の業がうまくいったことを理解しました。
サクラが手を合わせて感謝の言葉を述べると、香燐はベッドで眠るよう指示をしてすぐに部屋を出て行ってしまいました。
まさに人智を越えた不思議な術でした。王様と香燐に心から感謝をしながらサクラはぐっすりと眠りました。
王様のお相手は結構な体力を使ったのです。
サクラは王様がしてくださった数々のご厚意について、丁重にお礼を申し上げました。朝食がとても美味しかったことや、お医者様のおかげでよく眠れたことを話しますと、王様は無言で頷かれました。
サクラの好みが正確に伝わったのか、朝の食事だけでなく夜食の果物も甘いものが用意されています。思えば昨夜の葡萄は甘いというよりも少し酸味のある種類でした。きっと王様の好みに合わせていたのでしょう。
王様の大皿とは別に用意されたサクラの器には、王様が間違っても手を出さない甘い菓子が乗っています。サクラの好きな干した果実が入っている焼き菓子もありました。サクラは嬉しくてにこにこしています。あれは食べたいなとサクラは思いました。
「王様はお食事がお済みですか?」
「まだだ」
「では用意を致します」
サクラは準備の前に夕食を済ませておりました。今日は王様が早くいらしたのでお腹はまだ空いていません。
大皿を持って飲み物の用意もして、サクラは今夜をどう乗りきれば良いかと考えました。昨夜よりは打ち解けた雰囲気だと思ったのですが、王様はまた黙り始めてしまいました。
王様の横顔に浮かぶ妖しい模様と魔神のような薄暗い肌がサクラを不安にさせます。
孤高の王様は何をお望みでしょうか。サクラはこの美しい主に体だけを捧げれば良いのでしょうか。
結局サクラは王宮に来る前から考えていた通りにお暇潰しの物語をすることにしました。夜はまだ長いのです。
「王様、夜のお慰めに昨夜とは別の話をしてもよろしいでしょうか」
二日目は数学の話をしようとずっと考えてました。算術は市場での物の売り買いだけでなく、軍備や兵隊の食事にかかる費用、星の軌道を導きだす天文学にいたるまで、人々の営みと関わりのある素晴らしい学問です。サクラはバザールでの買い物が大好きでしたし、星の運行について書かれた書物を読むのが大好きでした。
王様は否も応もお答えになりません。サクラは気合いを入れ直して、数学者の歴史を語り始めました。
「……王様、この話はお好みに合いませんでしょうか?」
王様は昨夜と同じように話を聞いていたのですか、ふいにサクラのそばに近づくと太もものうえに頭を乗せました。
サクラはびっくりして語るのをやめ、主の様子を伺いました。王様は軽く眼を瞑っています。
サクラが様子を伺っていると、王様は催促でもするようにサクラを見つめ返します。サクラは少しだけ声の調子を落としましたが、話を続けることにしました。
希臘の哲学や印度の数学者について語るのは苦ではありませんが、王様が気になって集中できません。もっと真剣に学問の神秘について説明したいのに、覚えている内容を諳んじるだけになっています。
王様は手慰みにといった風に、サクラの足のやわらかい部分や臍の石を突かれます。サクラはくすぐったいような恥ずかしいような、なんとも言えないふわふわした気持ちになりました。
物語を通じて王様に少しでも近づくことが出来たらと思っておりましたのに、サクラとしては不本意な展開です。王様は女がこんな話をするのは詰まらないと感じているのでしょうか。
王様の手が触れる場所のせいか、腹のなかが熱くなります。こんなからかいにサクラは馴れていません。
サクラは高まる体に耐えながら、予定していたところまで話を終えました。
王様は横向きになってサクラのももに頬をつけて、やっぱり眼を瞑っています。王様の吐息がほんの少しかかるのさえも、やけに切なく感じました。このまま王様が眠られるならサクラの膝枕より寝具のほうが良いでしょうか。
サクラがもじもじと身の処し方に悩んでいると王様が眼を開かれました。
魔力を持つ強い眼差しがサクラを見上げます。
「……お前、今日はいいのか」
何を言われているのかわからずサクラは目線だけで次の言葉を待ちました。
「葡萄は食べなくていいのか」
王様はずるいお方です。冷たいそぶりや支配者らしい振る舞いをしたそのお顔で、優しい言葉をかけるのです。
サクラは王様の許しを得て葡萄と焼き菓子をいただきました。
王様もパンを一つ食べていらっしゃいます。
食べながら、やはり今日の話は王様には詰まらなかったのだろうと考えました。
早くに寝室にいらしたのはお疲れだったからで、本当は休みたかったのではないか。サクラが話を始めたから眠り込んでしまわないように、ああいう戯れをして食休み代わりに付き合ってくださったのではないか。
サクラはたくさんお昼寝をさせてもらいましたが、王様はいつも通りに政務を執り行っていたはずです。昨夜の王様はとてもお元気でしたのでうっかりしましたが、眠いに決まってます。サクラは自分の考えの足りなさに気づいて慌てました。
「王様、すぐに膝枕をいたしますね」
急いで手を洗いベッドに戻って王様に横になっていただきます。
甘味と水分を補給したサクラは王様に夜食の礼を述べ、お詫びをしました。
「お疲れですのに、長々と詰まらない話をして申し訳ございませんでした」
「いや、面白かった」
そうでしょうか。王様は優しい方なのでサクラには真意がわかりません。ただお怒りではないことにサクラはほっとしました。
せめて安らかに休んでいただきたいと思ったので、サクラは王様の黒髪をそっと撫でました。
王様はすぐに眼を閉じて体の力を抜きました。横を向くとサクラの足を撫でてその柔らかい場所に口づけを始めます。
王様はサクラで遊んでいるのかもしれません。ひとは眠いときに、何故かつまらない遊びをして時間を潰してしまうことがあります。だから王様は暇潰しにサクラの体にちょっかいをかけたのでしょう。今日の話は失敗だったなとサクラは反省しました。
「今夜はもう休まれますか」
早くに寝室にいらしてすぐ横になったのに、わけのわからない話を聞かされたらますますお疲れでしょう。サクラは王様がお休みになるなら部屋を辞したほうが良いと思いました。
「そうだな」
王様はむくりと起き上がるとサクラを引き寄せてキスをしました。
葡萄をくださるわけでもないのに王様の舌がサクラのなかをぐるりと回ります。
「甘い」
王様が嫌そうにおっしゃるのでサクラは反射的に、
「申し訳ありません」
と謝りました。すぐに王様は、
「口直しだ」
と言って唇の表面を舐めてから、もう一度舌を使ってサクラの唾液を嘗めとりました。
王様は何故サクラの唇にまで悪戯をなさるのでしょう。
「……甘いものがお嫌いですのに、どうして」
「毒見だ」
サクラはくらくらした頭で王様が毒見をするのは良くないことだと気がつきました。
王様にお仕えする自分こそ毒味をすべきです。
「お毒味なら、私がいたします……」
サクラはおずおずと昨夜の王様の真似をしました。
正しい毒見は事前に行うべきですが、事後であっても異常がないかを確認するのは有意義なことだと思ったのです。
王様のお口のなかは自分のものと変わりなく見えますが、白い歯も濡れた肉厚な舌も丈夫そうで、なんだか男らしく感じました。サクラは照れてしまいます。
王様の視線を感じながら、サクラは自分から舌を差し出しました。口づけを受けるばかりのときは気づきませんでしたが、王様の咥内はほんのりと香辛料の味がして、ぴりぴりとした刺激を感じます。食の好みの違いでしょうがこれは確かに心配になります。
二人の舌は長い間絡まりました。
サクラのほうが王様に異常がないかを調べなくてはいけないのに、気づけばサクラはまたベッドに倒れ込んでしまいました。王様がうえに被さってサクラの体に悪戯を始めます。
いつの間にか王様は昨夜と同じことを始めようとしています。あれは疲れるので今日は休んだほうが良いと思うのですが、王様との口づけが止まらなくて、サクラは息が苦しくなりました。
「あっ……やめてっ、だめです……!」
思わず制止の言葉を発しました。
「すまん」
王様は困ったように動きを止めます。サクラは何故かそのとき、きゅんと胸が鳴りました。王様がこんなに優しくて素直な方とは思いもしませんでした。
昨日はあんなに怖いと思っていたのに、黒い不思議な肌は変わらず魔神のような畏れを感じさせるのに、王様はご立派な方だと強く感じました。
たぶん自分を抱くのは君主の義務だとお考えなのでしょう。王様が尊敬できる方でサクラは嬉しいのです。だからこそ無理にはしなくて良いと思いました。だって昨日あんなにしたのですから、休み休みでも十分です。
「あの、私よりも、王様の体に差し障りが出たらいけませんから、今夜はもう休まれたほうが……」
サクラは言外に、自分が嫌なのではないと伝えました。
「体なら問題ない」
「お疲れですのに、昨日のように励まれたら辛くございませんか?」
「俺はお前とは違う」
サクラの服に手をかける王様をこれ以上止められるはずもありません。
王様が励まれるのなら仕える者として、出来る限りのご奉仕をしなくてはなりません。
確かに王様は非常にお元気でいらっしゃいました。
サクラは我が身を主に捧げます。
二人は初めての夜よりさらに激しく互いの肌を絡ませました。
こうして二度目の夜は更けていきました。
二晩も王様に抱かれてしまいました。
サクラは翌朝、寝台のうえからぼんやりと王様を見送りました。
王様は本当に女性に馴れていないのでしょうか。
夜の帳のなかで王様は逞しい熱量でサクラを翻弄します。寡黙なことに変わりませんが、王様の唇や舌の動きは雄弁で精力的でした。痛みばかりではない余韻に身をゆだねサクラは眼を閉じました。
初夜には苦しいばかりだった王様の熱にサクラの体はようやく応えることを覚えました。このために呼ばれたのですからそうしない訳にも参りません。
召し使いが起こしにくるまでサクラは王様のベッドで休むようになりました。
このような生活が何日も続きました。
昼も夜もサクラは王様の部屋で過ごします。ハレムに用意された自分の部屋に戻ることは許されません。それどころか着替えなどの仕度を手伝おうとすれば王様に厳しく叱られました。寝台から顔を出すなと言われます。王様付きの召し使いが来るとサクラは布を被せられ、声を発することもできません。
サクラは困ってしまいました。だんだんと不安な気持ちが募ります。
王様のことは尊敬しています。一国の君主として立派なかたで、一人の殿方として頼もしいと思えるひとです。そして王様はこの国の支配者で、サクラの全てを決定する力がありました。
それとなく王様に、部屋から出ても良いか、義姉に一目だけでも会いたいとお願いしましたが、あからさまに不機嫌になるので強く言えません。王宮に入る前、家に帰れず家族にも会えないと言われましたがこれほど自由がないとは思いませんでした。
サクラは昼のあいだはずっと一人で過ごし、夜になれば王様と二人きりです。
王様は早くいらっしゃる日もあれば遅くに来てすぐ横になる日もありました。いずれの日もサクラは王様に話を語って聞かせます。それは難しい医術の話であったり、不思議なおとぎ話や短い教訓譚もありました。
サクラが一方的に話すのを王様は黙って聞いています。たまに言葉をくださいますが、王様は口の重いかたで無駄なおしゃべりなんて一切ありません。
サクラはいつも一人ですから王様のことばかり考えます。なかなかおいでにならない日は、もしやご病気かしらと心配します。それともお仕事が忙しいのか、もしかして別の場所で休まれているのかと、王を待つ時間はサクラをいつも悩ませます。結局王様はいつだってお部屋に戻って休まれるのですが、サクラはお待ちしておりましたとしか言えません。
王宮の召し使いはよくしてくれるのですが、王様の予定については誰もわからないと言ってサクラは知ることができません。親密な話ができるのは香燐だけでした。
「香燐さん」
「なんだよ。泣きそうな顔をして」
「そんなこと、香燐さんが来てくれてすごく嬉しいのに」
香燐は医者として毎日のように来てくれました。二人きりで菓子を食べるのはほっとする時間です。サクラは王様のことや家族への思いを本当はもっと話したかったのですが、王様の部屋で不満めいた話をするのは気が引けました。
サクラはハレムの部屋に行きたいとだけ口にしました。どうして自分はここから出てはいけないのかと。
「確かに変だな」
王宮のごく一部の事情通のあいだでは色々と噂があるのですが、おもてだっては何も変わりありません。サクラが来てからも王様の毎日は滞りなく政務が行われ、サクラ自身はずっと部屋にこもっているので存在もほとんど知られてません。ハレムの準備すら単なる掃除だと思われているようです。
「こんな王の私室でなく、後宮の部屋なら家族にだって会えるだろうに」
懐かしさと寂しさに涙があふれてしまいそうです。サクラは香燐の隣に座ったまま唇を噛みしめました。
「大丈夫か」
サクラはこくりとうなずきました。いのに会いたくてたまりません。香燐に凭れるとますます寂しさが募りました。
その夜サクラは王様に、ある国で兄妹のように仲良く暮らしていた男の子と女の子の話をしました。
この二人は長じてからは夫婦となって幸せに暮らしていたのですが、その美しさのために妻が拐わされて離ればなれになってしまいます。残された夫は行方のしれない妻を命懸けで探しあて、二人の互いを思い合う気持ちによって夫婦がまた幸せになるという物語でした。
昔この物語を読んだときは美しい二人を思って胸をときめかせるばかりでしたが、今はつくづくと二人の再会が嬉しく、身に沁みいるように感じられます。
サクラは夫の元から騙されて遠方に連れ去られた妻が日に日に弱っていくのを悲しく語り、夫婦が再会の喜びにむせぶ姿をいきいきと語りました。
自分の話している物語におおいに慰められたサクラは感動を抑えながら話を終えました。
「今日のお話はいかがでしょう。王様なら二人が故郷へ戻るのを許してくださいますか?」
物語のなかで、美しく才豊かな妻はときの権力者に献上されるところでしたが、素晴らしい機転と帝王の公正な裁きもあって愛する夫の元に帰ることができました。
王様はいつものようにじっくりと話を聞いておられましたので、サクラとしては特におかしな質問ではありませんでした。なのに王様は、
「お前は約束した相手はいないと聞いていたが、本当は幼なじみの夫が探しに来るのか?」
とんでもないことをおっしゃいます。物語をそのまま当てはめた言葉にサクラはびっくりしました。
今までにも王様に物語について尋ねることはありましたが、そのときの王様は「仮定の話ではわからない」とおっしゃいます。王様は浪漫というものを解さないところがございますし、そもそも王様はどんな美女も財宝も必要としていないのです。
だから今回も、そうやってサクラのつまらない感傷を切り捨ててくださると思ったのですが。
「私に夫がいないことは王様がご存じでしょう」
生娘だったサクラを抱いたのは他ならね王様です。それにサクラの幼なじみといえば大臣家のいのしかおりません。それすら王様はお忘れなのでしょうか。
「それに私の幼なじみは女ですから、王様の部屋にいる私とは絶対に会うことはできません」
「絶対にか」
「王様の許しがなければ、ですけど……」
「許さん」
またご機嫌を損ねてしまいました。王様は優しいかたなのに、たまにすごくいじわるだと思います。さっきの夫の話だって、つまり王様は幼なじみの夫婦を自由にする気がないということでしょうか。それじゃあサクラは二度といのに会うことができないと言われているようです。仮定の話なのに悲しくなります。
「私は王様にずっとお仕えして絶対にどこにも行きませんから、もしも物語のように離ればなれになった夫婦がいたら、二人が自由になることをどうか許しくださいませ」
我ながらしつこいと思いましたが、物語の二人ぐらい許してくださらなければ救われません。
「仮定の話ではわからない。……が、考えておく」
いつもの王様のお言葉にサクラは安心しました。王様は真面目なかたなので適当な返事を好まれません。だから考えておく、というのは良い結果になる可能性が高いのです。だってサクラが本をおねだりしたときも同じことを言われました。
「はい。王様が考えてくださるなら安心でございます」
サクラは心から答えました。部屋に一人でいるのは寂しく思いますし、サクラは本の他にも好きなことがたくさんあるのですが、王様に逆らうほどの勇気はありません。それに夜になれば必ず王様がいらっしゃいます。たとえこの夜の営みが国王の務めに過ぎなくとも、王様の確かな熱はサクラの体だけでなく心をあたためる力がありました。
この夜も王様は変わりなくサクラの女を暴き、二人は何も知らない童のように快楽に耽りました。
こんな夜がいつまでも続くのだとサクラは思いました。
それは突然くだされた命令でした。
サクラが目覚める時間になるとまずは湯浴みの用意が整えられますがこの日は違いました。分厚い布をすっぽりと被せられ、力の強い奴隷にサクラは抱え上げられました。
「どこへ行くの?」
「あなた様の部屋にお連れします」
部屋というのは一体どこの部屋なのか、もしやお払い箱かと案じましたが、逞しい腕をした奴隷に揺られていけば、ハレムの一室に運ばれました。そこはかねて望んでいたサクラの部屋でした。
初めて王宮に来た日に一度訪れただけの部屋には色とりどりの花が飾られ、王様の部屋とは異なる女らしい華やかな調度が並んでおります。自分の居場所が残っていたことにサクラは喜びました。
「ご主人様、湯殿の用意ができておりますがよろしいですか」
奴隷はサクラを安心させるために部屋に寄ったようです。サクラはその心遣いを嬉しく思い、実直そうな奴隷を気に入りました。
広々とした湯船に浸かり、サクラはほうっと息をつきます。
部屋に戻ると冷えたシャーベット水が用意してありました。他にもたくさんの花、ジャスミンや白睡蓮、赤いアネモネ、ばら、水仙が花園のように飾られています。サクラはうっとりと花の香りを吸い込みベッドに腰を下ろしました。
大きな姿見の鏡や化粧台を見回せば、そこに王様の影は一切ありません。サクラは少しだけ物足りなさを感じましたが、清潔なシーツに身を横たえると小さな差異はすぐに解放感にとって変わりました。他人の眼を気にせずに休めることはどんなに嬉しいことでしょう。これでいのに会えれば完璧です。サクラは一抹の不安には気づかないふりをして、久方ぶりの自分の部屋で何も考えずに眼を閉じました。
「サクラ、気分はどう?」
目覚めるとすぐ目の前に大切な親友、幼なじみの姉が笑顔で待っていました。
「いの……?」
「何よ、もう私の顔を忘れたの?」
サクラは大きな声で名前を呼んでいのに抱きつきました。細くて柔らかい体からは懐かしい甘い匂いを感じました。サクラは嬉しくて少しだけ泣いてしまいます。
「あいかわらず泣き虫なんだから……」
いのは小さい頃と同じようにサクラの頭を撫でました。口ではどう言っていても優しいのです。
「ずっといのに会いたかったの……、お父様はお元気?」
「元気に決まってるじゃない。うちはあんたのおかげで変わりないわ。それよりサクラ、王様があんたを手放すのを嫌がって部屋に閉じ込めてる話は本当なの?」
「ええっ、なにそれ。やだ、そんな話になってるの?」
「そうよ。家には帰さないって、すごい持参金がうちに下施されたわ。それで余計な真似はしないよう厳命もあったって聞いて、心配してたんだから」
「えっ? それってどういうこと……?」
「同じことを宰相様もお父様もお聞きしたそうよ。あんたのことは一生王宮に置くけど結婚はしないと仰ったんですって」
そうなんだ。サクラは自分の状況を初めて正確に知りました。
「ちょっとでこりん、何かへんなこと考えてるでしょ」
「べつに、何も考えてないわよ」
「うそおっしゃい。いの様にはお見通しよ。王様は前から結婚を嫌がっておられたから別にへんな意味じゃないわよ、たぶん」
「……たぶんて何よ」
「それを知ってるのはあんたのほうじゃない? 王様の一番近くでお仕えしてるのはあんたでしょ」
いのはにやりとしてサクラの頬に手を伸ばしました。
ぷりぷりとした頬に抜けるような白い肌、小さな唇は赤いばらのように色づいていて、いのの目から見ても非常に魅惑的です。翠玉の瞳はきらきらと輝き髪の一本一本までもみずみずしく、以前より格段に美しくなったといのは思いました。
「ちょっと見ないあいだにびっくりするぐらいにキレイになっちゃって……、部屋に閉じ込められて誰にも会えないって聞いたときは驚いたけど、顔を見たら安心したわ。王様とはうまくいってるのね」
サクラは真っ赤になりました。この聡明な幼なじみに気づかれないわけがありません。サクラは王様によって女になってしまいました。それも回を重ねるほどにむつみあいは深くなり、夜がくるたびにサクラの体は女らしく作り替えられていきます。サクラは答えに迷いました。
「よくわからないの……」
「どういうこと?」
「王様は真面目で優しいかたよ。その、私を部屋から出さなかったのは警備のためで、それ以上の意味はないと思う」
「そうなの? でも、あんたのことは気に入られたんでしょ。正式な結婚はともかくあんたがこのハレムの女主人よ。そういうことじゃないの?」
「それは違うわ。王様はとっても真面目なかたなんだから、あのかたが結婚しないというなら、私のこともそういうつもりじゃないんだわ」
「それでも……、あんたは王様のことが好きなんでしょ?」
いのは慎重に尋ねました。サクラは答えられません。だからいのに会いたくて、ほんの少しだけ会うのが怖かったのです。こんな気持ちになるなんて王宮に来る前には思いもつかないことでした。
サクラには王様が何を考えておいでかわかりません。持参金のことはやはり真面目なかたですから、サクラを迎え入れた責任を取るということかもしれません。正妃になろうともなれるとも考えてなかったサクラにすれば十分だと思うのに、何故か胸の痛みが消えません。
王様が今も誰とも結婚する意思はないとしても、それで困るのは宰相達であってサクラではないはずでした。
サクラはなにも言えずにいのに寄りかかりました。いのはサクラの肩を守るように腕を伸ばします。幼馴染みの二人はしばし無言で抱擁をしておりましたが、ぽつりとサクラが「ごめん」と謝りました。いのは「謝ることじゃないでしょ」とますますサクラを強く抱き締めました。
王宮に召しあげられた以上サクラに手がつくのは当然の成り行きでした。
二人は王様が女嫌いだということに一縷の希望を持っていたのですが、王様は意外なほど早くハレムの女を正しく扱われました。今さら事態が変わるはずもありません。遅かれ早かれこうなる運命だったのだと二人は互いを慰めました。
「少しでも嫌なことがあったら言いなさいよ。相手が王様でも、できることはあるはずだわ」
「……嫌じゃないの。本当に王様は優しくて、こうやってあんたにも会えたんだもの。他に心配なんてないんだわ」
「ほんとに?」
「ほんとよ」
「じゃあ、もっと話を聞かせて。王様はどんなかた? 噂通りのイケメンなの? 女嫌いの真相はどうなってるの?」
「だから真面目なかたよ。もちろんすごく素敵だし、声も良いし、手が大きくて力もすごく強そうだし、あとやっぱり女嫌いは本当みたい。王様の周りにいる召し使いは男のひとだけなの。びっくりしたわ」
「いいじゃない。他には」
「無口でいつも黙って私の話を聞いてらして、たまに面倒だなって思ってらっしゃるみたいなんだけど、すごく優しいの。この国の王様ってこんなに優しいかたなんだなって、困っちゃうぐらい優しいのよ」
「ますます良いじゃない! 王宮に行っても薬草を作りたいって言ってたけど、それはどう? あんたの大好き本は? 王宮ならもっとたくさんの本が読めるかもって言ってたでしょ。おねだりはしてみたの?」
「そんなこと……! 本はお願いしたけど、そういうのとは違うから!」
二人はきゃあきゃあと声をあげて、弾むようにおしゃべりを始めました。
いのはサクラが王様を憎からず想っていることに安堵しましたし、サクラはサクラで自分の気持ちをいのが受け止めてくれたことに安堵しました。誰かに相談したくて、でも打ち明けるのも気恥ずかしくて、どうしてもいのに会いたくて、いのにさえどう話せば良いのかわかりませんでした。
王様に抱かれて王様のハレムにいるのに、王様が好きなことが悩みだなんておかしな話です。
サクラは王様への不敬とならないよう気をつけながら、今まで我慢していた取るにたりないどうでも良いおしゃべりをたくさんしました。
サクラは幼なじみと部屋でくつろいだ時間を過ごし、とても満ち足りた気分でした。王様の部屋から出ることができて、これで本当に王宮に入った気持ちです。
午後になっていのが退出すると、入れ替わりのように香燐が現れました。
「表情が明るくなったな」
「ありがとう。香燐のおかげよ」
「それを言うなよ。こんなことならもっと早く言ってやれば良かったと思ってるんだからな」
「なんの話?」
「聞いてないのか?」
サクラが首を傾げると香燐はばつのわるい顔をして簡単に説明をしてくれました。
「今日急にお前の様子はどうだって王が聞いてきたから、お前を閉じ込めるのはよせって言ってやったんだ。女には女友達が必要だし、閉じ込めておくと病気になるぞって」
「香燐……」
「あのままじゃいつおかしくなっても不思議じゃないだろ」
「ありがとう!」
サクラは香燐に抱きつきました。本当に彼女が王様の部屋まで会いに来てくれなければ泣き暮らしていたかもしれません。そのうえ今日から一週間は夜のお務めも休みだというのです。これも香燐が進言したのを王様が許してくださったおかげでした。
緊張の連続だった王宮の生活で本当に自由な時間をもらえることができたのです。
サクラは心から香燐に感謝しました。王様のお相手をするのが嫌ということではないのですが、サクラのような若い娘にとって殿方に会わない日というのはリフレッシュに必要な時間です。久しぶりの自由、それが限られたものであってもサクラは高揚しました。
「ねえ香燐、あなたもここに遊びに来てね。毎日でなくともいいから」
香燐は「また来る」と言ってくれました。
サクラはうきうきと残りの時間を過ごしました。
王宮に持ってきたお気に入りの本を持ってごろごろします。今夜は服を着替える必要もありません。眠る直前まで枕元の本を読み耽り、書物に溺れる疲労感を満喫して眠りにつきました。
サクラは眼を閉じる瞬間、暗闇に浮かぶ王様の美しい顔を思い出しました。
あの魔神のように妖しく魅力的なかたが一人で眠られるのかと思うと不思議な気持ちになります。サクラが来るまで王様はずっと一人だったわけですが、この夜をせいせいとした気持ちで休まれているのか、少しは寂しいと思っているのか。サクラは気になりましたが思い出すのは凛々しいお顔ばかりです。王様はいつでも格好よかったのですから仕方ありません。
サクラはあまり王様のことは考えないようにして布団にもぐりました。
でなければ夢にも王様が現れて、サクラは眠れなくなってしまいます。
こうして一人の夜は更けていきました。
次に王様にお目にかかる夜はいかなる物語が良いでしょうか……。
さて、サクラと王様の物語には長い夜がいくつも控えておりますが、この続きのお話はまた今度にいたしとうございます――。