イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    穀雨 砂と泥を混ぜ合わせた泥の上に、曲線が続いていた。外周を太く描いた一本。別の円を描くように交差する二本。絡み合って楕円を生じさせている。複数の荷車が通ったために引かれたであろう曲線は、しかし、どこか巨大な図絵を連想させた。線の一部が藪の方へ向かい、途切れていたためだろう。美術品の一部が欠落しているからこそ、完成された姿を人々に認識させるように。空から見下ろせば全貌を知ることができるかもしれないと、空を行く鳥の姿を想像する。その瞳に映る、地上からではうかがい知ることのできない、精緻な曼荼羅が広がっている視界を。
     丁度、樹の上で羽根を休めていたであろう、鳥の羽ばたきが響き渡った。
     空気を裂くような喧噪に、久々知は思考を空から離脱させた。音の方角へ首を傾ける。鳥の影が明るい空の中で判然と浮かんでいた。鳥は地上を歩く者を気に留めることなく、反対側へ飛び去って行く。彼はすぐに目を逸らし、正面を向くと、再び泥濘の中を歩き始めた。踏み出した足は曲線の上を通り、曼荼羅の横に無作為な足跡を残していった。
     街道から外れた緩やかな丘の上を久々知は歩いていた。眼下には水を這った田が並んでいる。その傍らに川が一つ。昨夜の雨で増幅した水面が、川沿いに生い茂った葦を押し倒すように流れている。魚か、鳥か、時折跳ね上がる飛沫が陽光を跳ね返し、無秩序な煌めきを宙へ閃かせる。適度な湿度を含んだ風が草木の上を駆けて行く。風の行方を辿る様に視線を宙へ。穏やかな景色の奥、青空の裾野に広がる雲の群れが、再びの雨を予感させた。
     地面の泥濘を振り払うように、重心を持ち上げながら、久々知は歩いた。自然、背は針金のように伸ばされ、視線は正面を向く。黒目は真っ直ぐに道の先を見据えながら、時折素早く周囲を見渡した。羽根を広げながら地上の獲物を探す、猛禽類の瞳に似た動き。それは久々知にとって半ば癖、或いは反射のような仕草と言えた。寸鉄を使用する時には一瞬の反応が命取りとなる。獲物を捉えた瞬間に手足を動かし、手足の動きよりも早く視線は次の狙いを定める必要があるためだ。加えて敵に接近しすぎる寸鉄のみならず、それは火縄銃をはじめとする火器を扱うにも共通する動きだった。遠すぎる距離では相手の先手を取る必要がある。引き金を引いてから当たるまでの間に、次の狙いを定めなければならない。息をするように。意識さえすることなく。身体に馴染んだ仕草として。
     上空へ向けた視線の端に羽根を広げた鷹のまだら模様を一瞬捉え、彼はすぐに視線を外へ向けた。
     丘の頂上が視界に広がる。
     新緑と萌黄の波が風に煽られ、明暗に揺れる。
     そして、波間を漂う泡沫のように、無秩序に花開いた真紅が所々に赤く輝いていた。
     生い茂る草木は皆、花の盛りなのだろう。背の低い木々が丘の頂上を彩るように広がっている。花畑というにふさわしい景色を目の当たりにし、久々知は姿勢を凛と伸ばしたまま、小さく息をのんだ。微かに揺れた髪の先を掠めるように、一匹の蜜蜂が飛んで行く。風の音に馴染まず響いた雑音に意識を引き戻され、彼は一歩足を進めた。日当たりの良い丘の上だからだろう。地面の表面は乾き、泥濘を進む不快さはない。それでも泥を引き摺ったままの足は、奇妙な重みを感じさせるようにゆっくりと動いた。
    「牡丹かな」彼は花の前で足を止め、独り言ちた。
     八重に開いた花びらの、凹凸を成した先端へ指を伸ばす。柔らかな感触。温度は無く、己の指から伝う熱のみが指から指へ伝う。真紅に映る花びらは、間近に見れば、光に透けて赤というよりも薄桃のような風合いを滲ませている。陽光は滑らかな表皮の上で散乱し、仄かに舞い上がった光線が網膜の上を柔らかく覆う。反射的に瞼を閉ざす。瞼の裏で薄桃色をした斑点が明滅を繰り返した。
     双眸を閉ざしたまま、久々知は花の中央へ顔を寄せた。虫を誘うための甘やかな香りに相反し、枝葉と土の、青い香りが鼻孔を刺激する。鮮烈な香りの影で雨水の冷えた香りがそれらに混ざり、微かな気配だけを残して過ぎ去った。これが、自然。花の香りとは本来、複雑なものであることを思い出す。幾重にも交わった香りを肺に取り込み、久々知は目を閉じたまま花の姿を想像した。
     影から光へ。
     色彩が流れ込み。
     真紅から薄桃に色を変える。
     一枚ずつに織り込まれた花弁は柔和な凹凸を描きながら、
     しかし、完全な円を描く。
     幾何学模様の一端のような、
     光線を降り注ぐ陽のような、
     信心めいた緻密。
     祈りに似た豪胆。
     彼は静かに瞼を持ち上げ、眼前の花へ焦点を当てた。想像の内に広がる赤よりも、微かにくすんだ赤が目に入る。輪郭をなぞるように視線は花の周囲を巡り、やがて、足元を見た。柔らかな、名前も知らない草花が低く揺れている。その上に、八重に開いた花が一つ。木々に咲き誇る真紅に劣らない輝きを想像させる色彩は砂をかぶり俄かにくすんでいる。昨夜の雨が、枝から撃ち落としたのか。花の一部、外側を覆う花弁が幾つか千切れ、花弁の断面を晒していた。
     指先へ、神妙に力を加えながら、久々知は花弁の表面を静かに撫でた。砂埃が指先に纏わりつき、ざらついた感触が皮膚を伝う。一枚の花弁に付着していた埃を払い落とすと、彼は指を離し、真っ直ぐに花を見下ろした。薄雲が途切れ、鮮烈な日差しが花を照らす。僅かに傾いて伸びた花の影は欠けた部分を隠し、完全な円を描いていた。
     欠落。
     空白。
     不意に、瞼の裏へ真紅が蘇る。
     両手で赤い花を掬い、彼は花の形を崩さないように持ち上げた。萼から伸びた枝が指の間に挟まり、薄く皮膚を突く。枝に一枚だけ残った葉は青々と光り、花を瑞々しく見せた。



     静謐さを湛えた水面の上に、風が一筋の波紋を呼び起こした。まだ稲の植えられていない田は泉のように澄み渡り、深い茶色の地面を透かしている。半里ほど続く田の上に若緑が揺れる姿の、壮麗な景色を予感させる光景。
     鉢屋は一人道を歩きながら、面の下で頬を緩めた。春先にはどの農村でも見られる光景ではあるが、細い葉が群れを成して生み出す波は一種の穏やかさを感じさせる力がある。それを美しいと評す以外に、彼は言葉を持たなかった。今年は春の雨が十分に、そして過ぎることなく降り注いでいる。きっと良い実りに恵まれるだろうと考え、天を仰いだ。
     太陽は既に高く上り、真白の円が輪郭に光を滲ませている。眩さに目を細めた瞬間、焦点が絞られたせいか、虹色の残光が視界の上に閃く。掌で額に影を作りながら輝きを見据えれば、太陽の下を一羽の鳥が過る姿が目に映った。鷹か、鳶か。遠目から見ても大きな翼を広げたまま光の方へ飛んで行く。次第に小さくなる影に反し、太陽は依然と佇んだまま白い輝きで地を照らしている。例え雄大な、力強い羽を持った鳥であろうと、あの輝きには届かないのだろう。近付いたように見えたとしても、絶対として、遠すぎるのだ。
     太陽の輝きに相対し、影のように広がる空の蒼へ目を向けながら、鉢屋は歩き続けた。真っ直ぐに続いた道だ。川の向こうに小さな丘が聳えているものの、その麓にあたる一本道には緩やかな勾配の一つもない。却って目眩を引き起こしそうなほどの平坦さが続く。昼を過ぎた時刻では田の手入れをする者も少ないのだろう、往来に己以外の人はなく、よそ見をしながら歩いたところでぶつかるようなものも無い。
     茫洋と進む鉢屋の足に、不意に冷えた感触が伝った。俄かに視線を落とし、足元を見やる。そこには足幅ほどの大きさの陥没と、流れを失くした雨水が水溜まりとなって広がっていた。
    「……油断大敵だ」鉢屋は頬の裏を緩く噛みながら一人呟いた。或いは、自身に言い聞かせるかのように。
     地面を軽く蹴り、水溜まりの上を飛び越える。乾ききっていない土は殆ど泥に近い粘性を足の裏へ残す。柔らかな感触に一瞬眉を顰める。着地と同時に小さな湖を振り返れば、水面には波紋の一つも無く、ただ不愉快を額に浮かべた己の顔が浮かんでいた。
     彼は自嘲を含んだ息を吐き、静謐から目を逸らした。田園は変わらず水を湛えたまま、沈黙を貫いている。澄んだ水は光をも透かし、名残のように薄く蒼を写し取っている。静止画に似た沈着。鏡像を思わせる平静。欠けた物のない、完全な風景。
     動きのない空間を避け、反対側へと目を向けた。河原の先に、一本の川が轟々と唸り声を上げている。昨夜の雨のために水嵩が増し、時折川から溢れては周囲に生えた蘆の腰を折りながらも走る、絶え間ない怒濤へ足を寄せる。真っ直ぐに続いた道を斜めに進みながら、彼は口の端を小さく持ち上げた。
     川面は絶えず飛沫を上げ、白く微細な泡沫が散乱している。川底の泥が攪拌された水は濁り、泡の白さを俄かに引き立たせた。
     茶と白の対照は地面の上に咲き乱れる花を連想させ、彼は浮遊する泡を目で追った。
     浮かんでは消え、周囲の泡と溶け合って大きな輪郭を成しては砕け散る。
     花が散るまでの永遠。或いは瞬間。
     一際大きな泡が弾け、
     反射的に目をつぶる。
     顔を斜めに向けながら瞼を持ち上げ、
     白。
     蘆の切れ間に一本の低木を見た。
     「牡丹?」鉢屋は首を傾げた。
     勢よく流れる川へ意識の一片を向けながら、低木に近付く。深い緑の葉が若々しく茂り、その隙間に、鮮明な白皙が無数に咲き誇っている。八重に織り込まれた花弁は手毬に似た円の形。濁流の真横に佇んで尚花弁は白く、中央に覗いた花粉の黄色が華を香らせた。
     鉢屋は掌を払った後で、花弁の一枚に指を伸ばした。柔らかな、一方で陽光を透かす薄玻璃の硬質に似た感触が、ゆっくりと神経を伝わった。花の繊維か、細かな凹凸があると分かる。艶のある表面を指で撫でれば、皮膚の皺との間に摩擦が引き起こされた。彼は慌てたように指を離した。微かな熱が花の色彩を損なうかもしれないと、思考したせいだった。
     二歩後ずさり、深く息を吸う。視線は動くことなく、白皙に縫い留められたまま。微動だにしない彼の代わりか、微風が空を撫でた。枝葉が擦れ合う音が微かに響く。川の唸り声にかき消されながら、囁きのように鼓膜を揺らす。その慎ましいざわめきから浮きあがり、八重の花弁は風に揺れていた。枝葉に擦れ合うこともなく、ただ一つの花の中で、花弁が音も無く触れるだけの、孤立。或いは孤独。
     風が止んだ。遅れて枝葉の喧噪が止まる。最後に、重鈍な動きで花が静止した。鉢屋は一歩花へ近寄ると、円を包み込むように両手で花を掬い上げた。ささくれた枝が薄く皮膚を刺す。椀型に曲げた掌に包まれながらも、花は動かない。幾重にも重ねられた花びらは完全な円を創り出す。陽の光は薄絹のように花弁を透過し、微かに跳ね返された光が輪郭を淡く滲ませる。掌の落とす影が周囲を仄暗く染め、白皙の円が茫洋と浮き上がる。
     指に力を込め、枝を手折る。軽妙な響き。水と土の香り。花は表情を変えることなく、淡く輝いたまま。鉢屋は絡繰りのような精密さで踵を百八十度転換させると、そのまま歩き始めた。振り返ることなく。彼の背を折れた枝の断面、その鮮やかな緑だけが見つめていた。



     坂を下りると、分かれ道にでた。平行していた川が奇妙に、人為的な角度で曲がっている。その川に沿って続く道と、川から離れ、森へ抜けていく道。学園に帰るにはどちらの道を進むべきか思考し、久々知は天上へ顔を向けた。太陽は川に飛び込むように傾いている。学園はここからずっと東に歩けばいいはずだと、来た方角を思い出し、つま先を森へ向ける。夕刻と呼ぶにはまだ早い時刻であるが、木々の群れは黒く、道もまた暗い。森を抜ければ後は小さな町と、五年の間に馴染んだ裏々山を越えるだけだ。見知らぬ森は早く抜けてしまうに限ると、彼は歩幅を広げ、坂の最後を踏み越えた。傾斜と平行が交差する。視線だけを川に向け、瞬きを一つ。
     見慣れた影が視界に入る。
     久々知は俄かに驚きながら自ずと周囲を見渡し、それからようやく目の前の影を真っ直ぐに見据えた。
    「三郎」
    「無視されるのかと思った」
    「まさか」
    「冗談だ。それより、何故ここに?」
    「委員会の仕事で、ちょっと」久々知が口先を窄めた。これ以上を口にできないという仕草だ。「三郎は?」
    「実習の帰りだよ」
    「それは、お疲れ様」
    「兵助の方こそ、大変だな」
    「仕事だからね。しょうがないさ」
    「責任感?」
    「他の人に頼むより自分で行った方が早いこともある」
    「なるほど、逆か」鉢屋が左側の肩だけを器用に竦め、鼻の先で小さく吹き出した。
    「三郎が思っているほど俺は親切な人間じゃないぞ」
    「生憎、兵助をさほど親切と思ったことはない」
     言い切られた言葉に久々知は瞬きを一つ落とし、それから口の端を僅かに持ち上げた。微笑みに近い表情。聞きようによっては悪口に近い言葉に対して浮かべるには不釣り合いな印象を隠すことなく、彼は無為に頷いた。
     お互いに前を向いて、歩き出す。示し合わせたことではなく、偶然の一致と言える。思考の速度が等しかったために行動として現れた結果が同一となった。それだけのことではあるが、互いの頭の中を覗くことができない以上、偶然というべき現象だった。
     森は一段と暗く、夜に似た気配を漂わせていた。木々に茂る葉が天と地の間隙で幕を作り出し、傾きはじめた陽光を遮っている。白か黒か。色の区別を失くした兎が一匹、藪から飛び出して森の奥へと駆けて行く。躊躇いのない足取りに、別の獣に追われている可能性を考える。二人は殆ど同時に周囲へ顔を向けた。一周した視線が中央で重なり合う。
    「人間を襲うと思う?」久々知が尋ねた。
    「ここは暗いが、未だ日中だ」
    「油断と過信は忍の敵だよ」
    「事実、足音が聞こえない。兎を追っていたとしたら追いかけるなり、別の獲物を探すなり、何らかの動きがあるはずだが、その気配がないということはつまり、あの兎はただ走りたかっただけの兎ってことさ」
    「それならいいけれど。さすがに野生動物に襲われるのは避けたいから、早く抜けた方がいいな」
     鉢屋は頷き、歩調を速めた。「私たちも走る?」
    「冗談。そう広い森じゃないし、それにこの調子なら陽が沈みきる前には学園に着ける」
    「随分と陽が長くなったしなあ」
    「下級生が喜んでいたよ。遊ぶ時間が増えるって」
    「上級生は嘆いていたがな」鉢屋が喉を鳴らした。「鍛錬の時間が減る!」
    「潮江先輩?」
    「ご名答」
    「三郎、雷蔵以外の声真似が上手くなったな」
    「それはどうも。変装ができても人真似ができなければ意味がないから、これでも真面目に練習しているんだ」
    「意味?」久々知が小首をかしげる。「三郎が変装をするのは、人を騙すためではないと思っていた」
    「何故?」鉢屋が疑問符を返す。前方に向けていた視線が久々知の鼻先を掠めた。「変姿の術とは他人に成り済ますこと。私はいつだって他人を欺いて、悪戯のように、笑っているけれど」
    「悪戯癖はその通りだけど、別に、それは変装しているからじゃないだろう。例え変装していなくてもお前は悪戯者で、そこに見た目は関係ない」
    「それなら、どうして私が変装をし続けていると?」
    「さあ? 真実は三郎にしか分からないよ」
    「想像して」
    「…………変装自体が目的。騙すための手段でも、隠すための手段でもなく。変装するという行為自体が目的。だから変装をしても誰かになりきることはしない。何か別の目的がある時以外は」
    「兵助の目には私がそう見えているわけか」
    「見えていないよ」久々知が微笑んだ。「想像しているんだ」
    「私の素顔も?」鉢屋が悪戯気な表情で尋ねる。細められた双眸の奥だけが無感情な色を湛えている。
     向けられた視線を真っ直ぐに射返し、久々知は薄く唇を開いた。一度、二度。口で呼吸を繰り返す。獣を遠ざけるために続けられていた会話が途切れ、足音だけが規則的に響く。沈黙が二人を包み、暗闇が影を濃く映し出す。陽の傾きのせいではない。ただ精神の明暗が視界に映り込んだだけのこと。思考に意識が傾く時は、周りの景色が曖昧になるのと同様に。視界に映る膨大な情報を処理しきれず、頭の中から追いやってしまうのだろう。
     彼の目に映る景色も同じだろうか、と頭の隅で誰かが考えた。視線は隣を歩く男へ向けられたまま、揺らぐことはない。粘膜の向こうに広がる黒が僅かに収縮する、その微動を捉える。黒目の円を囲う色彩が花弁のように開いた。彼が好んで変装を行う相手よりも一段薄い茶。その明るさを押し広げ、拡張し、肌へ滲ませる。空想を手繰り、織り成していく。
     欠けた一部によって現実を幻視するように、
     唯一の現実を虚像へと組み上げる。
     髪の色。鼻の形。皮膚の凹凸。手触り。香り。
     全てを思考に再現する。
     完璧な空想。
     欠落のない円弧。
    「何が見える?」
     表情を変えることなく、鉢屋が再び疑問符を投げた。それから瞬きを一つ。無意識に繰り返されていた瞬きではない。意識的な切断。久々知は視線を正面へ戻した。
     前方、二間ほど先が俄かに朱く染まり、木々の影を長く伸ばしていた。刹那のように感じられた思考が、事実、十分な時間を消費していたと気付く。いつの間にか、二人は森の終わりまで歩いていた。
    「何も」久々知は答えた。
    「兵助だって興味が無いわけじゃないだろう」
    「見てほしいの?」
    「それなら、とっくに」鉢屋が首を横に振った。
     久々知が頷いた。「じゃあやっぱり、語らない方が良い」
    「つまり想像はしたんだな」
    「見えないものがあれば、人は自ずと考えうる限りで最も相応しい映像を空白に見出す」
    「空白の中に、一点だけ実像がある時は最上を選択できない」
    「だから、想像するんだよ。実像を空想に取り込んで」
    「でも、どちらも幻」
    「幻でも、観察できる」
    「存在において重要なのは実体じゃないってことか」
    「太陽が何色か、何でできているのか、どこにあるのか、どこへ行くのか、俺たちがそれを知らなくても太陽を見上げることができるのと同じ」久々知は真面目な口調で答え、それから微笑んだ。「生き物は身体がなければ生きられないから、その意味では重要だけどね」
    「だから私の素顔も重要ではない?」
    「大切だよ。この世界で唯一の、三郎の顔なんだから。だけど、俺にとっての鉢屋三郎はどんな顔をしていても鉢屋三郎という意識にすぎないと思うだけだ」
     鉢屋は赤光へ向けて目を眇めた。頬に落ちた鼻筋の影が目尻の鋭角をはっきりと映し出す。睨むような視線。或いは、それは微笑みのようでもあった。
    「せっかくだから、どんな顔を想像したのか聞いてもいいか?」
     投げられた問に久々知は視線を落とし、深く息を吸った。
    「三郎なら、俺をどう想像する?」
    「……兵助は課題以外で変装しないだろう」
    「俺はね、」久々知は片手に持った花を掲げた。「花だった」
     言葉が返されるよりも早く、右手を鉢屋の顔へ伸ばす。面を容易に剥がすことのできる距離。髪、偽物の髪ではあるが手触りは殆ど実物と同じ、柔らかな繊維の隙間に枝を捩じり込む。
     空の手が離れた。
    「花?」鉢屋は顔を逸らさない。
     左耳の上に赤く、太陽を咲かせたまま。
    「この牡丹、花弁が足りていないんだ。昨夜の雨で一枚落ちてしまったみたい」
    「なるほど、空白か」
    「三郎に似合うと思って」
     視界の端で赤い波が揺れ動く。鉢屋は長く息を吐き、それから首を振った。「全く、奇遇だな」
    「本当だ」久々知が笑う。
    「残念ながらこっちは一片たりとも欠けてはいないが、だから、想像の余地も無いさ」鉢屋が笑い返す。
     久々知が鉢屋へ顔を向けた。
     面に塗られた色と微差を感じさせる指が髪へ伸び、高い位置にまとめられた髪紐へ枝を差し込む。夜闇よりも深い黒の中で、白皙の輪郭が判然と浮き上がった。
     二人は視線を前方へ戻した。
     木々の群れが途切れ、赤光があふれ出す。陽は既に山の向こうへ姿を消していた。名残の陽が灯る反対側の空には紫の波があふれ出し、一番星が点滅を繰り返す。
    「帰ろう」どちらからともなく、呟く声が一つ。
     地上では小さな太陽と月が、並んで風に揺れていた。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/10 23:58:25

    穀雨

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2022-04-23

    more...
    作者が共有を許可していません Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    NG
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品