立夏 蛙が鳴いた、と彼は言った。鉢屋はその声に顔を上げ、半分ほど開かれたままの扉へ目を向けた。外には何もなく、土と樹と藪という見慣れた光景だけが切り取られている。当然、蛙の姿は無い。
入口の傍に立ち尽くし、鉢屋は無言のまま首を傾げた。外から視線を逸らし、部屋の隅に腰を下ろした久々知を見やる。彼は机を向いたまま、やがてゆっくりと顔を上げた。
「三郎?」彼は鉢屋の来訪に今しがた気付いたばかりだと示すように首を傾げた。
「声はかけたぞ」扉の横に佇み、鉢屋が答える。
「何か用? 俺か、それとも、勘右衛門?」
「勘右衛門に」
「残念。勘右衛門ならちょっと前に出て行ったよ。何でも、町にできた新しい茶店の様子を探りに行くとかで」
「兵助は? 行かなかったのか」
「俺が一緒に行っていたとして、それならここにいる俺は一体誰?」悪戯気な口調で彼が言う。
「そっくりさんか、誰かの変装だな」
「この学園でそっくり俺を真似ようなんて奴、一人しか心当たりがない」
「その心当たりは今目の前にいる?」
「残念ながら」久々知は肩を竦めた。
鉢屋は浮かべていた笑みを収め、久々知を見つめた。彼は無言のまま、鉢屋の表情を窺っている。机に向かう背は天上から吊るされているかのような直線を描く。窓から射し込む薄い光が陰影を曖昧にし、一瞬、そこに座る者が人形ではないかと錯覚させた。
精巧な人形と人間の違いはそう多くはない。大きさ、温度、自らの意志で動かないこと。その程度だ。鉢屋は壁から背を離し、机に歩き寄った。二歩ほどの間合いを空けて、机上に開かれた書物へ視線を向ける。その音も無い仕草を捉えると、久々知は指先だけで書物の表紙を閉じた。薄い紙と紙の間から吹き出した風が乾いた音を立てる。
「秘密か?」
「委員会で使うものだから」久々知が眉を顰めた。気を悪くさせるつもりはない、と言いたげな素振りで。
彼の所属する委員会に主だった仕事はないが、しかし、扱っているものの危険性は学園内でも指折りと言えるだろう。生徒相手にも見せられない仕事があったとして、不思議ではない。そも、仕事内容が不明瞭であること自体、口外無用の仕事が多いことを容易に想像させる。鉢屋はわざとらしく顔を背け、軽く手を振った。話す必要はないと言外に示すように。左手に握ったままの紙が抵抗も無く揺れる。獲物を見つめる鳥の目に似た動きで紙の端を追いながら、久々知は首を傾けた。
「三郎は?」
「私?」
「それは俺が見ても平気なもの? それなら、勘右衛門が帰ってくるまで俺が預かっておくけれど」
丁寧な確認と共に挙げられた提案に、鉢屋は僅かに頬を緩めた。確認を挟まずとも、預かることを拒否されたのならば委員会内での秘密なのだろうと解釈が可能だ。少なくとも鉢屋であればそう考え、久々知も同様の結論を得るであろうことを鉢屋は知っている。鉢屋が「それを知っていると思考する」という点までを含めて。お互いの思考を理解した上で久々知が確認をしたのは、つまり、彼の気遣い、或いは優しさの表れと言えた。
「そんなに大事なものでもないが、明日までに確認してくれと勘右衛門に伝えてくれ」鉢屋は紙を差し出しながら言った。
「了解」紙面へ一瞬視線を向けるとすぐに机へ髪を伏せた。「三郎の用事は、それだけ?」
「ああ。残念なことに」彼は佇んだまま答えた。「尤も、部屋に戻ってすることもない」
久々知が大きな双眸を瞬かせた。意識のない、反射のような仕草。思考を切り替えるためか。
「茶も菓子もだせないぞ」
「口にするのは言葉だけでいいさ」
久々知は背筋を伸ばしたまま身体の向きを変え、机の影に押しやられていた座布団を一枚引きずり出した。未だ空白の座布団へ向かい合うように身体を机から離す。彼は一度鉢屋を見上げ、それから再びゆっくりと瞬きを落とした。何かを促すように。糸に操られる人形を連想させる意識的な仕草だった。
*
三日前のことだった。よく晴れた朝の光が枝葉の網を透かし、薄緑に空気を染めていた。乾いた空気は僅かに冷たさを残し、却って体温を持つ身体には心地よく吹き付けた。春の盛り、或いは初夏の兆しを感じさせる陽気。教室の中で授業を受けるにも、裏山で実習を行うにも、うってつけと言うべき爽快。声変わり前の少年がめいいっぱいに声を上げて走り回る気配は季節を問わず、しかし、穏やかな日の中に響く声音はいつになく軽やかに響き渡る。
何をするにも一種の軽快を纏う世界の中で、その時、鉢屋は大樹の陰に身を潜めていた。朝露を残した葉に触れた制服には点々と雫の痕が残り、時折冷えを走らせる。彼はその度にせり上がる呼気を肺へ押し留める必要があった。解放感を感じさせる空気に紛れ込んだ一点の染みのような陰鬱。朝露のもたらす湿気と光を遮って生まれた影の中で息を潜める。
「ついていない」頭の中で誰かが言った。
ろ組の実技担当教諭が不在であるためにい組と合同で行われている実技授業の内容は、生徒一人に一つ札が渡され、くじで決められた相手の札を奪うことだった。単純ではあるが、自身の札を守りながら他人の札を狙わなければならず、加えて自身の札を誰が狙っているのかは定かではない。ただ身体を動かすだけではなく、一定の知恵を求められる課題である。力ずくで奪うだけではなく、協力をする素振りを見せながら札を手に入れる者もいることは、五年生ともなれば誰もが承知の上だ。行動範囲として定められた裏山を覆う緊張は、春の陽気を遠ざけていた。
或いは、春の陽気とは錯覚で、湿気と不快から生み出される緊張こそが春の祝いなのではないか。春の雨が一年の豊穣を左右するのであれば、人の感じる爽快など些末なことだろう。そこまで考え、徒に展開する思考の一つを止める。薄く息を吸い、それから周囲へ目を配らせた。
当初、鉢屋は緊張の糸をつま弾くように、裏山を歩き回った。彼の引いたくじには同じ組の生徒の名が書かれていた。よく知った人間が相手であるほど取り得る策は増加する。攻撃を仕掛けるにせよ、懐を掠めるにせよ、幸運と言える状況だろう。山を半分ほど登るまでに十の策を思案し、結局、彼にとって十八番とも言える変姿の術を利用して札を盗むことに成功した。
後は授業が終了するまで己の札を守りきるだけ。そう考えながら山道を歩いていた時だった。
前方の藪が俄かに揺れた。
反射的に後ずさり、手に苦無を握る。
「見つけた」
たった一言と共に、人の影が飛び出し、
眼前に手。
握られたものを視認する暇さえなく。
間合いを取り、停止。相手も足を止め、廊下ですれ違ったかのように片手を上げた。「やあ、三郎」
「やだなぁ兵助。僕は雷蔵だよ」
「雷蔵ならさっき札を取られて失格になったよ」
「……抜け目ないな」
「お前が相手になるなら、警戒して当然のことだろう」久々知は首を傾けた。
「なるほど、兵助のくじには私の名前が書かれていたと」
「不運なことに」
「それは私の台詞じゃないか?」鉢屋も同じ角度で首を傾げ、それから小さく笑みを浮かべた。「正面切って奪いに来るとは、兵助にしては珍しい」
「三郎相手に騙し合いを仕掛けるのは難しいから」
事も無くげに向けられた言葉に鉢屋は肩を竦め、それから大きく息を吐いた。次の動きを報せるように、わざとらしく。
「ただの気分だろう?」
一言を投げ返し、地面を蹴る。久々知の顔から視線を逸らさず、後方へ駆ける。真っ直ぐ走るように足へ力を込め、木の陰を曲がり、反転。進行方向へ身体を向ける。久々知は瞬きを一つ落とし、それから、慌てることなく木の陰に隠れた鉢屋を追った。その気配から逃れるように、鉢屋は二度、三度、木々の隙間を縫い、やがて手ごろな枝へ手をかけた。同じ地平に立つよりも、高い位置にある方が有利であることを、彼は知っていた。
つまり、久々知も同様に。
「ついてない」
そうして樹上に隠れた彼は、己の現状を確かめるように同じ言葉を繰り返した。一間ほど先に見慣れた黒髪の先を見つけ、身体を幹へ寄せる。樹上を探しているのか。或いは、周辺の空間すべてに目を配っているのかもしれない。上空から地面を見下ろす鳥の視線。俯瞰。現実に鉢屋の方が高い場所に陣取っていようと、彼の視線は変わらない。ゆっくりと息を吐く。真新しい空気を吸い込むために薄く唇を開き、黒髪の揺れていた場所へ視線を向ける。
瞬き。
大きな双眸が鉢屋の視線を射返し、
黒髪が名残のように揺れる。
枝を飛び移る。
銀色の弧が枝に向かい。
光。それから音。
枝に刺さった手裏剣が先まで鉢屋のいた枝に刺さり、陽光を反射させている。
地上へ飛び降りる。
足の裏に痺れ。
藍色の影がこちらに向かい。
身体を右に。
傾いた重心を利用し左足を捩じる。
空を切る。
鉄の棒が眼前に迫り、
一閃。
火花か。
一瞬の輝きに目を瞑り、暗闇の中で左手の苦無を持ち換える。
瞼を持ち上げ、
狙いは肩。
切っ先は空を裂き、砂が舞う。
崩れた態勢のまま間合いを取る。
相手も一足分後へ引き、一拍。同じ瞬間に前へ足を出す。
踊るように。
息を合わせ、
手を伸ばし、
右足を軸に反転。
蹴り上げた左足で脇腹を掠め、
頬を鉄の先端が面を浅く切る。
間合いが開き、視線が一瞬重なった。
言葉は無い。
表情も不明瞭。
枝を踏む軽妙と砂を噛む重鈍。
鉄がぶつかり合う悲鳴。
それらだけが繰り返され、
踏み込み、
空を切った手。
勢いのまま身体を捩じる。
再び鉄がぶつかり、擦れ合い、
火花の錯覚。
鉢屋の足が一瞬停止し、久々知が振り上げた手を瞬間的に静止する。
「あ、」
どちらでもなく、言葉にならない声が落とされた。
一瞬の空白。
鉢屋が足を下ろすと同時に、寸鉄を握る拳が解かれた。互いに直立したまま、動きを止めた相手を見やる。風に揺れる木々のざわめきがなだれ込み、真空のような集中は拡散し、やがて消失した。刃を交わした瞬間は殆ど刹那的と言える体感であり、しかし、二人を照らす陽光は既に大きく傾いている。久々知の額に浮かんだ汗が顔の曲面を流れ落ち、鉢屋はそこでようやく時間という言葉を思い出した。
「暑いね」久々知が手の甲で汗を払った。
「じき夏が来る」
「夏は好き?」
疑問符が投げかけられる。鉢屋は答えを返そうと口を開き、すぐに唇を結んだ。二人の間を埋めるように、風が吹き抜ける。微かに湿度を含んだ風は授業の終わりを告げる鐘の音を乗せ、遠く山向こうへと消えていった。
*
沈黙。膝の上に置かれた手首から伝う脈だけが時間を感じさせる。五つ目の拍動を数え終えた後で鉢屋は薄く口を開いた。
「この前の、実技の授業」
「その話をしに、わざわざ?」
「勘右衛門に用があったのは本当だ」
「でも、当の本人が不在なことも知っていた」
「兵助だって、私が来ることを知っていただろう?」
「推定と断定の差は大きいし、それに、」久々知が首を振った。「希望的観測に近かった」
「どちらを希望していた? 私が来る方、それとも来ない方?」
膝の上に頬杖を付く。久々知は顔の横で手を広げて見せた。分からない、もしくは、どちらでもないと言うように。
再び、二人の間に沈黙が流れた。次に何を言うべきか、互いに視線は逸らさず、機を測る。机の向こうに設えられた窓から射し込む光が俄かに途切れ、ゆっくりと息を吹き返す。大きな雲が空を横切ったのだろう。今日の天気が僅かに汗ばむほどの快晴であったことを思い出す。瞼の裏に青空を浮かべる。その青が今朝目にしたものか、三日前の色か、鉢屋には判別がつかなかった。
「どうして、足を止めた」
「なぜ、手を止めた」
二人は同時に唇を開いた。異なる声音が重なり、渦を作る。
「断定的な言い方だ」残響が消え去るのを待ち、鉢屋が唇を尖らせた。
「三郎だって、同じじゃないか」
「推定と断定は違うのだろう?」先に久々知が言った言葉を繰り返す。久々知は返事の代わりに唇を尖らせた。
「兵助と手合わせするのは久々だったな」
「忍の本分は戦いじゃない。俺は少なくともそれを重要視していないし、現に、あの授業だっていかに相手を出し抜くかが重要だった」
「それならば、何故?」
「気分」
「気分」鉢屋が眉を顰めた。
「暖かくて、風が心地よくて、夏のようだったから」久々知が不自然に微笑んだ。「それを、振り払いたくて」
「手合わせをしている瞬間は、そのどちらもが生きているから」鉢屋が無表情のまま続ける。「つまり、私は生きているように見えなかった?」
「夏は生き物が活発に動く分、道に落ちている死骸も増える。普段は気にしないけれど、一度それらを意識すると、くぎで打たれたように固定されてしまう……遠くに立っているものが生きているか死んでいるか分からない時、三郎ならどうする?」
「距離があるならばどちらでも構わないけれど」ことも無く彼は答えた。「確かめる必要があるのならば、近付く他にないな」
「だから、たまには、三郎に直接挑もうと思った」
久々知が黒目を窓の方へ向けた。つられるように窓の向こうを見る。薄暗い部屋から見上げているためだろう、窓の向こうに広がるはずの青は光に染め上げられ、白く網膜を焼いた。
「兵助の言うことは時々分からないな」
「勘右衛門にはいつも意味が分からないと言われるけれど」
「思考の速度、或いは角度が違えば当然だ」
「俺が言いたいのは、つまり、人形と人は遠目ではわからないということ」
「人形を用いた芝居が成立するのは、観客と人形の間に距離があるためだ。反対に言えば、遠くから見た時にはやはり、人か人形かは問題ではないということになる」
久々知は無意識に瞬き、それから鉢屋の双眸、面の下に覗いた鉢屋自身の瞳を真っ直ぐに射抜いた。「けれど近くにいることを望む時、その差は大きくなる」
一度、二度、呼吸を繰り返す。
「蛙」三度目に吸った息を吐きながら、鉢屋が呟いた。「あの時、どこかで蛙の声がしたな」
「蛙が鳴いたら、夏の兆しだ」
「死んだように眠っていたものが生き返る季節でもあると、思い直した?」
「思い出した、という方が正しい」久々知が冗談めいた口調で訂正する。「三郎は、鉢屋三郎という人間だと」
「真面目だな」
「三郎だって、同じだろう?」
二人は向き合ったまま小さく吹き出した。同時に笑みを零し、言葉の代わりに笑い声が響き合う。
「蛙が本当にいたのか、」一頻り笑い終えた後で、鉢屋が言った。「確かめる必要は?」
「夏になったら、嫌でも見られるよ」久々知は口の端に笑みの影を残したまま答える。「それに、言っただろう? ただの気分だったと」
その影に合わせるように微笑みを浮かべ、鉢屋は小さく頷いた。
「兵助、」
「何?」
「私からすれば兵助の姿勢の良さの方が、よほど人形じみて見える」
瞬きを一つ。長い睫毛が揺れる。
人形ではあり得ない自然。
即ち、意思。
久々知は音もなく立ち上がり、顔を窓へ向けた。輪郭へ落ちた横髪の影が、却って笑みを深くして見せた。
「確かめてみたら?」
「必要ないさ」久々知の影を見上げながら、鉢屋は答えた。
風が雲を押し流したのだろう。光が揺れ動く。窓から見える空は、夏を思わせる青に染まっていた。