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    今夜、痛みは分たれず「まさか、兵助が共に来てくれるとはな」
     裏山から道を外れた山の中腹。浅いながらも谷底なのか。宙を見上げれば己の背丈よりいくらも高い場所から生える木々の枝葉が、星に照らされた空に茫洋と浮かんでいる。かつて山道を敷こうと切り開かれたのだろう、直線的な断面を晒す崖に挟まれた空間の中央には大きな川が一つ。その周りには流れに押しやられ、角を失くした丸い石たちが無数に積み上げられている。人が崖を切り開くまでの年月とは比べ物にならない時間。力。偶然。それらが自然の中に流れ、人の手には決して委ねられないまま折り重なっている景色がある。
     滑らかな石の表面の上を飛び、久々知は川縁に近寄った。水面は不連続に星影を反射し、底までの距離を窺い知ることはできない。指を浸せば、目の冴えるような冷たさが皮膚から骨を伝う。陽のある時にはきっと、底まで見通せるほどの透明を湛えているだろうと想像し、久々知は濡れた指を袴の裾で拭った。
    「三郎が誘ったんだろう」
     濡れた石の上を危なげなく歩きながら、久々知が答えた。川から少し離れ、乾いた石の上に立っている少年は肩を竦めた。その拍子に揺れた毛先から、奇妙な光が一瞬弾ける。彼の髪色のせいだろうか。或いは、その髪が自然に生えたものでないからか。己の髪はどうであろうか、と微かな視線を背後に送る。無造作に跳ねた髪は夜空に混ざり、判然としない黒髪から、視線を戻すまでには一秒もかからなかった。数歩前に立つ彼は両手を広げながら不安定な歩き方をしている。どのような道であっても自然なまま地面を掴む彼にしては珍しい歩き方と言えた。
    「危ないよ」久々知は言った。
    「さっきの兵助も結構危なかった」鉢屋は片足を軸に一回転をして見せる。
    「さっき?」
    「濡れた石は乾いた石と比べて何倍もよく滑る」
    「気を付けていれば十分安全だし……」久々知が顎に指を当てた。「それに、」
    「それに?」
    「転んでも三郎が助けてくれるかなって」
     一瞬の間。正しく瞬き一つ以外に何もできないだろう僅かな休止符。その瞬間に鉢屋は己の唇ではっきりと三日月を象った。
    「私もだよ」彼は微笑みながら続けた。「転んだら兵助が助けてくれるだろうと思っているから、わざとふらふら歩いているんだ」
     曖昧に踊っていた足が、不意に力強く石の表面を蹴り上げる。宙に飛び上がった鉢屋が、久々知の眼前に着地する。頬に浮かぶ微笑がよりはっきりと目に映り、久々知はつられるように鼻から小さく息を零した。
    「酔っ払いの真似かと思った」
    「こんな綺麗な場所で、どうして酔う必要がある」
    「うん、まあ。いい場所だけどさ」
    「心配なら、手を繋ぐ?」
     鉢屋が膝を屈めて掌を差し伸べる。わざとらしい仕草に今度ははっきりと笑い声を立てると、久々知は手を取る代わりに足元の石を拾い上げた。星を頼るように宙へ翳し、左右を回し見る。
    「でも、ちょっと意外だった」石を検分しながら久々知が言った。
    「何に対しての感想?」
    「三郎に誘われたこと」
    「私はこういう場所、結構好きなのだけど」
    「知ってる。そうじゃなくて、俺を誘ったことだよ」
    「なら、どうして、断らなかった?」鉢屋が尋ねる。
     返事をせず、久々知は石を軽く投げ捨てた。硬い音を立てたそれは一度も地面を跳ねることなく、無数の灰色の一つへと返された。空になった掌を軽く払い、一足鉢屋の方へ歩み寄る。鉢屋は言葉を待つように久々知の唇を見つめた。二度、深く、呼吸が繰り返される。彼らの間には沈黙しか存在しない。
     十分な間を味わった後で、久々知はゆっくりと舌の根を動かした。
    「三郎となら来てもいいかなって」
    「宝石を取りに?」
     久々知は素直に頷いた。
    「本当の宝石か、ただ輝いた石かは分からないけどね」
     人里はおろか、山道からも外れた浅い谷間に広がる河原。この場所で珍しい石が沢山拾えると話題になったのは、夏の始まりの頃だった。話の火種は実習帰りにこの場所を通ったという四年生たちで、話好きな彼らがこぞって噂を広めた結果、数日後には多くの生徒たちが実際に川へ赴こうと計画を立て始めていた。尤も、忍を志す者の学舎とは言えど、鉱物の真偽を見抜く術を持っているわけではない。それでも、見慣れない、中には光を受けて煌めいている物もあるという、噂話は子どもの心を焚き付けるには十分だった。それが本物であれ、偽物であれ、一夏の冒険にはうってつけだ。下級生はおろか上級生たちも、こぞってこの川べりへ足を運んでいたらしい。
     らしい、つまり伝聞にすぎないのは、久々知はこの場所へ自ら赴いたことがないためだ。具体的に誰がどのような時に訪れていたのかを彼自身目にしたことはない。噂自体は同室の友人から聞き及んでいたが、彼は久々知を誘わなかったし、久々知も行きたいとは思わなかった。恐らく、彼も行ったことはないだろう。
     結局のところ、噂は数週間もすれば段々と勢いを失くしていった。最近では話に聞くことも殆どないと言えるほどに。
     久々知は徐にその場へ屈み込み、また一つ石を取り上げた。乾いた砂が指先に付着し、肌に微かな摩擦を起こす。
    「三郎は、誰と来たの?」そのままの姿勢で久々知が尋ねた。
    「引率だよ。庄左衛門に頼まれてね……は組の何人かで遊びに来る予定を立てたが、先輩を一人連れて行かねばならなかったらしい」
    「今年の長雨で山道はあちこち崩れているし、ここは裏山からも外れているからね。先生方も一年生だけで行かせたくなかったんだろう」
    「その土砂崩れのおかげで石が拾えるんだがなあ」
    「崩れた土砂の一部はこの川に沿って流れてくる」
    「本来四年生が通る予定だった山道を塞いだのも、その土砂だ」
    「だからと言って危険には違いない。自然の恵みなんて本当は、俺たちが上手く使うか使わないかで、彼らにとってはもっと大きな呼吸にすぎないんだから」
    「幸も災も、私たちのためにあるものじゃない?」
    「だから、できる警戒はしておくに越したことはない」久々知が頷いた。「これもはずれ」
     小石が川へ向かい投げ捨てられる。丸みを帯びた灰色の塊は水面を跳ねることもなく、間の抜けた音を一拍だけ響かせると川底へと沈んで行った。
    「そう見つかるものでもないだろう。私は後輩達に二刻半付き合わされた……それに、今は夜だ」
     鉢屋は呟きながら足元の石を拾い、すぐに投げ捨てた。放物線を描いて落ちるそれを見つめ、久々知が落ちた石を拾い上げようと屈み込む。乱雑に投げ出された石は真っ直ぐに飛ばなかったのだろう。斜めに屈めば鉢屋には背中だけが向けられた。
    「そんなにも見つからないもの?」
    「皆が簡単に拾っていれば、とっくに取り尽くされている」
    「へえ……」久々知が身体を起こす。「それなのに、」
     背筋を、星に吊るされているのかと錯覚するほど、真っ直ぐに伸ばす。そして、顔の前に指を掲げて見せた。
    「三郎は、これをくれたの?」
     鈍い黄金色の影が一つ。
     親指と人差し指に挟まれ、星を反射して淡く光っている。
     小指の爪ほどもない。小さな石。
    「……気付いていたのか」鉢屋の表情は微塵も動かなかった。
     その石は、数日前に偶然久々知が手に入れたものだった。偶然と呼ぶには他者の意図が十分に働いているように思われたが、彼自身の想像にない状況で手に入れたという点では偶然と呼んで然るべきだろう。
     その日の久々知は、一日の授業を終えてからも部屋に戻る余裕がなかった。尤も五学年という上級にあたる学年に属している以上与えられる課題は多く、加えて火薬委員会委員長代理としての仕事も抱え、尚且つ趣味に多分な時間を割くこともあるために、彼は常より一定して多忙と言える。朝に部屋を出てから夜寝に戻るまで一度も自室に帰れないということは珍しいことではなかったし、その間に友人や教師が部屋を訪れて何かを置いていくことも特別に不審に思う必要はない。夕食を終えてようやく部屋に帰り着き、久々知はすぐにその存在に疑問を浮かべたのは、ただそれが見慣れないという理由でしかなかった。
     彼の机は常に整然と片付けられ、余計な物は何一つ存在しない。そのはずの机上に、置書きも、包装もなく、ただ小さな石が乗せられている。悪戯にしては丁寧な、石の真っ直ぐな一片が机と平行になっていたのは偶然ではないだろう。意図して置き去られたものであるのは疑いようもない。久々知は置かれたままの石を上から眺め、既に部屋へ戻っていた友人へ来客があったのかを尋ねたが、彼は「うん」と一言返しただけで、唇を奇妙に歪ませているばかりだった。送り主を知っていながら、教える気はないのだろう。久々知はそれ以上の追及を諦め、机の上に鎮座していたそれを脇へ除けた。
     それから今日まで、彼はこの石について何一つ口にしてこなかった。送り主の想像はとっくについていた。話題の的である河原の石を、まして真実として高価を付けられる可能性のある石を無造作に譲る人間など、そう多くはない。久々知の知る限り、己にそのようなふるまいを見せる男はたった一人。尋ねれば、すぐに認めるだろう。正体を隠したいのならば、もっと巧妙な仕掛けを施すはずだ。
    「確かめればよかったのに」鉢屋が口の先を尖らせる。
    「俺から尋ねたら意味がないと思って」
    「私が誘うのを待っていた?」
    「今夜の散歩は少し想定外。ただ、三郎は気付いてほしがりだから、絶対何か言ってくる気がした」
    「……痛み分けか」
    「俺の勝ちだよ」久々知は肩を軽く揺らしながら笑った。「それで、一体どういうつもりだったのか、聞いてもいい?」
     鉢屋はわざとらしく寄せた眉を解くと、掌を差し出した。
    「少し歩かないか」
    「どうして」
    「いい場所だろう?」
     宙を仰げば青や赤や白の星が無秩序に点滅を繰り返している姿が目に入る。月はない。降り注ぐ星の色は天と地の長い距離を泳ぐうちに銀色に代わってしまうのか、川面に映る星々は皆一様に銀色の光を下流へと送っている。宇宙。大地。鏡合わせに輝く星。絶え間なく流れ続ける水の拍動。風に揺れる枝の囁き。その他には何もない。日差しの中で子供たちを賑わせた場所は、今、全くことなるざわめきで埋め尽くされている。
    「誰もいないね」
     久々知は鉢屋の側まで足音を立てずに移動すると、正面ではなく横並びに身体を向けた。
    「今は夜だし、流行りもすぎたからだろうな」
    「そんなに賑わっていた?」
    「それはもう、人だらけだった。わざわざ上級生を一人付き添わせなくても、その場にたくさんいたよ」
    「みんなが一斉に押し寄せて、一斉に冷めたのかな」
    「噂よりも石がなかったからだろう。そもそも出どころは四年生なんだ。大方、平と三木が競って噂を吹聴して、話を大きくしすぎてしまったのだろうさ」
     石の凹凸を軽く避けながら、鉢屋が歩く。その肩に遅れないよう、しかし、決して前には出ないように、久々知はぴったりと真横へ続いた。彼らは川の上流に向かって歩いていた。流れていく輝きに逆らうようにゆっくりと歩を進める。鉢屋は首だけを曲げ、川面を茫洋と眺めていた。久々知は彼に倣い首を向け、すぐに顔を正面に戻した。
    「ここ数日は、人もほとんど訪れていなだろう。崩れていた山道も、何とか通れるようになった頃合いだろうし……この人気のなさが本来の在り方だった」
     星影の滲む空気だけを網膜に映しながら、久々知は頷いた。「だから、こんなに静かで、心地が良い」
    「話をするにも丁度いい」
    「三郎、話をしたいの?」
    「兵助こそ、何を聞きたい?」鉢屋が一歩川辺に足を寄せる。
    「三郎は、」久々知は真っ直ぐに足を踏み出した。「ここに来たのは何回目?」
     一足分、前に立つ。
    「どうしてこれをくれたの?」
     久々知が掌を持ち上げる。二本の指に挟まれた深い赤茶色をした影が星を透かす。
    「お礼だよ」
     半透明な石の向こうで、大きな瞳が瞬いた。それから「お礼」と繰り返される。鉢屋が面に手を置き、川へ向けて石を一つ蹴り飛ばす。川の半ばまで飛んだ石はあっけなく水底へ落下し、円周上に波紋を広げていった。星の鏡が崩れ、奇妙な具合に歪んだ光が徒に光を散らした。
    「覚えていない?」
     よく見知ったはずの顔である不破の面が、星影のせいか、別人のように映る。久々知は自ずと両目を細めながら、はっきりと首を振った。「礼?」
    「兵助は優しいな」鉢屋が見たこともない笑みを浮かべた。見たことがない、というのは当然、笑顔そのものに向けられたものではない。
    「三郎の方が、ずっと優しい」
    「程度の話じゃあないよ」鉢屋は微笑んだまま言った。「本当に、覚えていない?」
    「お礼をされるようなことは、なにもしていない」
    「昔、ここに来ただろう」
     久々知の唇が「三郎」とだけ動く。音はない。喉を震わせるには刹那的な時間だったせいか。乾いた舌の根は重く、彼もそれ以上に動かそうとはしなかった。
    「いつだった? 多分、まだ下級生の頃……三年生か、二年生の頃だ」
     鉢屋が川の水に足を踏み入れた。くるぶしにも届かない小波が足の間を流れていく。夏の夜であっても、皮膚が張り詰めるほどの冷たさを想像し、久々知は知れず背筋を震わせた。
    「何の授業だったか、この辺り一帯の山はよく授業で使うから逐一覚えていないけれど、い組と一緒に授業をしただろう。鬼ごっこか、札取合戦か、ともかく、私は兵助と戦った」
    「…………宝探し」久々知が間を置いた後に答える。「少なくとも、戦ってはいない」
     斜め向かいに立った少年は覚えがないと言うように首を傾げ、さすがだ、と呟いた。それから川の反対側に人差し指を突き付ける。
    「何であれ、ともかく私はあのあたりから落ちたんだ」
    「子供が落ちて無事とは思えないけれど」
    「私はあまり無事とは言えなかったかな」
    「私は?」疑問符を強調しながら、久々知は示された方へ顔を向けた。
    「兵助は軽い捻挫と打ち身だった。まあ、私が下敷きになったからなんだけども」
    「…………」
    「骨は折れていないけれど腰を打ったせいで動けない。腕も打ち身で動かせない。足は何とかなるけれど、動かない方がいいことは明白だった」
    「三郎って、時々無理をするよね」
    「兵助には言われたくないなぁ、それ」鉢屋が声を上げて洗った。「今だって、無理して覚えてない振りをしているくせに」
     黒髪に紛れた太い眉が微かに中央へ寄せられる。久々知は翳していた小石を握り込み、腕を真っ直ぐに下ろした。真っ直ぐに伸ばされた姿勢が、却ってはっきりと浮かび上がる。
     相対しながら決して互いの直線状にはない位置。その場所から彼の双眸を見やる。
     静寂。
     二つの閃きが細かに揺れ。
     平行に描かれた眉を掠める。続けて僅かにも動かない鼻梁、微笑んだまま固定された唇、いつの間にか下ろされていた指、足元を流れ行く水。
     言葉を吐き出し、再び夜風を吸い込むまでの一瞬。
     全てを捉え。
     離脱。
     今度はゆっくりと、鉢屋の方へ顔を向けた。丁度、彼の首が上下に振られるところだった。
    「落ちた時はさすがに気を失っていたが、目を覚ましてすぐに気が付いた。私の面がほとんど壊れかかっていること。それからこれ以上もないほど正確な応急処置がされていたこと。誰がそれをやったのか」
    「……半分は俺のせいだ。三郎は俺を庇って落ちたんだから」
    「子供はいつでも正体の分からないものを明かしたがる。あの時は、私の面を暴こうとする同輩も多かった」
    「あれも、足の速い流行だったね」
     鉢屋が鼻先で笑い声を立てる。自嘲のつもりなのだろう。或いは、熱が長く続かなかったことへの安堵か。小さな感情はすぐに夜風に押し流され、形をなくした。
     夏に似合う、湿った風が肌に纏わりつく。
     時折恐ろしいまでに冷たい芯が、針金のように皮膚を撫でる。
     夏の夜風。
     いつから吹いていたのか。細い髪が風に流されては重力に押し戻され、また、流されている。
    「忘れるって、約束した」久々知が耳の先に絡んだ黒髪を指で払いのけた。「半分だけ見えた、お前の顔を」
    「あの時はどうすればいいか分からなかった」鉢屋が呟く。自然の響きが折り重なる空間で、人の声は奇妙なほど輪郭を明瞭にしていく。「ただ、どうしようもなく、お前に願うしか、」
    「びっくりしたよ。目を覚ましたと思ったら、忘れてくれ、と繰り返されて」
    「一緒に落ちたのが兵助でよかったと、今なら思うけれど、あの時はまだ私とお前は友人とも呼べなかったから」
    「あの時だって、俺はお前の顔に興味なんてなかったよ」
     久々知が上体を屈め、空いている方の手で足元の小石を掴んだ。軽く腕で弧を描き、石を放す。
     滑空。
     落下。
     水面から弾かれた飛沫、一際高く飛んだ雫が鉢屋の頬まで届き、作り物の肌を濡らした。
    「それも、今なら理解している」
    「それなのに、どうして今更?」
    「もう、いいと思ったんだ」鉢屋はゆっくりと話した。「忘れてもらう必要はない、と」
    「だから、礼だと?」
    「あの時私に手当をしてくれたこと、私の素顔を暴かないでくれたこと……それを忘れてくれたこと。兵助も私も、学園に戻ってから、あの時のことをなかったことにしてしまったせいで何一つ礼を言えていなかった。私は記憶を手の届かない場所へ置くことができたし、きっと兵助も同じだろうと」
    「やり方は、きっと、違うけどね」
    「それを、その石を見つけた時に思い出して……いいや、考えついた、と言うべきかもしれない」
    「これが何か、三郎は知っている?」
     投げかけられた質問に、鉢屋は小さく頷きを落とした。
    「琥珀」
    「本物?」
    「さてな。色が似ているだけのまがい物かもしれない。私の目には琥珀のように思える、というだけ」
    「俺も、同じ」久々知は目を眇めながら鉢屋と小石を交互に見比べた。「だけど、これを見ても何も思わない」
    「知っているか。琥珀は、本当は石じゃないのだそうだ。樹液が固まってできる……だから、蜜の中に虫を閉じ込めてしまうこともあるのだという」
    「石というより、地層に近い?」
    「琥珀の方が美しいがな」
    「横縞模様の崖も面白いよ」
    「そうじゃなくて、」鉢屋がわざとらしく肩を竦めた。
    「たった一つの生き物を中に閉じ込めて、永遠にしてしまうという性質?」
    「そう。地層はそこにあるものを全て、等しく、取り込む」
    「琥珀だってそうだろう? 選んだわけじゃない。ただそこに、一つの生命があったというだけ。言わば偶然でしかない」
    「偶然」鉢屋が繰り返す。「恐ろしくはないか? 自分が選んだわけでもなく、その美しい者の中に捉えられて永遠に私はそこから動けない。他のものは、そうはならなかったのに」
    「幸運ではなく?」
    「でも、美しいものに己を巻き込ませている」鉢屋が久々知を指で示した。「私は、そうなるのは嫌なんだ」
    「だから礼を言って、全てを在った事に戻してしまおうと?」
    「琥珀を見つけて、兵助のことを思った……同時に、虫になりたくない、とも」
     濡れた痕を残した頬を緩め、彼が言った。
    「身勝手だな」久々知が呟く。「何がそんなに恐ろしいの?」
    「全てが」鉢屋は答えた。「君の、全てが」
    「どうして?」
    「意味もなく、知りたいと願っているから。近寄れば、いつの間にか私は私のまま身動きが取れなくなると分かっている。それでも、君を知りたいし、理解したいと望んでしまう」
     だから、いっそそれを晒してしまおうと思った、と鉢屋が続けた。二人にとって公然の秘密を理由に。助けられた礼をしたいと思ったのも事実には違いない。しかし、既に終わっている秘密が明らかになったところで、互いに影響は及ぼされないということを彼は理解していた。
     鉢屋が肺の底に溜めた全てを吐き出すかのように、大きく息を吐く。彼と対象になるように、久々知は小さく笑い声を上げた。
    「なんだ」久々知が微笑む。「そんなこと」
     鉢屋が顔を上げた。真っ直ぐに久々知の方へ視線を向ける。久々知は骨まで貫くような眼差しを受け止めると、微笑みを一段と深めて見せた。
    「捕えたいから捕えるわけじゃない。捕えられたいから捕らわれるわけでもない。選べないのはどちらも同じこと」久々知が流れるように言う。「身動きなんて、とっくにできなくなっている。だから三郎は俺がかつてお前の素顔を見たという事実をあっさりと認めるし、俺だって、決して忘れ去ったわけではなかったことを否定しなかった」
    「知りたいことと、知られたいことは、紙一重だと?」
    「どっちも同じ意味ってこと」
     風に紛れた言葉を拾い上げ、鉢屋は小さく唇を動かす。音にならない言葉は、唇の形だけではっきりと久々知まで届けられる。
    「だけど、もし三郎がそれを恐ろしいと思うなら。食べてしまえばいいんだよ」久々知が滑らかに言った「……捕えられた内側から。美しいものを己の中に。奪ってしまえばいい」
     掌に握り込んでいた石を、再び天上へ翳し。
     微笑。
     銀色の光が透き通り。
     指先から零れ落ちる。
     星影を徒に透かしながら落ち、
     少年の口がそれを受け止めた。
     硬い何かがぶつかる低い音が一つ。
     嚥下。
     もうなにもない、口の中。
    「ほらね、何も怖くない」
     口を閉ざしながら、彼が言った。
    「……それでいいのか、兵助は」
    「いいよ。三郎が俺を知っているように、俺も三郎を知っているってだけのことだろう? それがどれほどの深さになるのかは分からないけれど。最後は互いに、飲むか飲まれるか。それも結局、結末にしてみれば同じことだから」
     鉢屋が水面から足を上げ、久々知の正面までゆっくりと近付いた。濡れてはいなかった石の表面に、黒い光沢を帯びた跡が点々と浮き上がる。
    腕を伸ばさずとも触れられるほどの距離で、鉢屋は足を止めた。それから、静かに久々知の喉へ右手の指を運ぶ。小さな石を飲み込んで見せたその場所に触れ、彼は小さく息を吐いた。
    「痛み分け、だな」
     吐き出された息と共に、言葉が押し出される。彼はそれだけ言うと唇を閉ざした。
    「俺の勝ちだよ、今日のところは」久々知がもう何も握ってはいない掌で、鉢屋の右手を取った。「帰ろう、三郎」
     間もなく街道へ通じる山道は完全に復旧されるだろう。この場所を訪れる機会はなくなり、記憶は薄れていく。意図して棚の奥へ隠すのではなく。紙に染み出した墨が時間と共に掠れていくように。残るのは、飲み込んでしまった琥珀。ただ一つ。
     黄金の樹液と小さな昆虫。いつか、どちらがどちらであったのかを知った時、きっと彼らはその輪郭を思い出すのだろう。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/10 23:52:39

    今夜、痛みは分たれず

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2021-08-09

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