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    清明 龍のような雨だった。山間から突如として現れた雨雲。滂沱たる音が全てを飲み、学園を一息に沈黙させる。校庭で実技の授業を行っていた明るい水色の群が、校舎めがけて走っていく。悲鳴と興奮を混ぜ合わせた喧騒が消えた後には、ただ雨音だけが残された。
     彼は顔を黒板へ向けたまま、茫と雨垂れの無秩序な響きへ耳を傾けていた。座学よりも実技、実技よりも学園の外で行なわれる実習が増えた日々を思えば、驟雨の間に屋内にいられたことは十分に幸運と言えるだろう。頭の片隅でそう考え、親指に重なった人差し指の爪で、爪と皮膚の間を弾く。
     強い雨の気配はそれだけで皮膚を湿らせ、警戒に似た痺れが身体の節々を重くした。鼻孔は水の香りの他に捉えられるものもなく、ただ全身の意識が雨に向かう。それは、自分よりあまりにも強大な存在に出会った時の感覚。立ち向かうことはできないのだから、予め身構えておこうとする防衛本能。しかし、そのような危険も、宙を駆ける龍、或いは雨雲には何一つ関係のないこと。意味も意図もなく山々の上を通り過ぎ、そこに偶々学園が存在したに過ぎない。
     きっと雨の名残は長く、蛇の形をしているのだろうと夢想し、彼は表情の下で小さく微笑んだ。生徒は誰も窓の方へ顔を向けず、教師の説明だけが湿潤を湛えた空間に響いている。彼の笑みに気付く者はおろか、窓を閉めようと動く者さえもない。誰もが微動だにせず、授業が続く。教師もまた、窓を閉めるように指示を出すことはなかった。尤も、山向こうの空には光の梯子が降り、この雨が春の気紛れであることを知らせている。風は幸いにも教室へは向かわず、したがって雨水が室内に吹き付ける恐れもない。その状況下で授業を中断させてまで雨戸を下ろす者は、少なくともこの教室内にはいなかった。
     誰もが予想した通り、灰色の雲は一刻も経たずに学園の頭上を通り抜け、真青の空が再び姿を現した。一時の雨はなかったことのようによく乾いた微風が流れ、再び校庭から伸びやかな子供たちの声と教師の怒号が響き渡る。雨に洗われた陽光が、無数に残された雫へ反射を繰り返しながら降り注いだ。遠く、或いは上空から見やれば、きっと光の梯子が今ここに降り立ったように見えるだろう。
     彼は授業の終わりを告げる教師の声と同時に視線を窓へと向けた。真四角の窓から射し込む光は枠木を超えた途端に膨れ上がり、教室を明るく照らし出す。洪水。氾濫。豊穣を予感させる、穏やかな春の午後。柔らかな気配の中で、酷い雨だったなぁ、と呟く声が一つ。
    「なあ、兵助」名前を呼ばれて振り返れば、尾浜が机に上体を伏せたまま首だけを窓へ向けていた。「実習中じゃなくてよかった」
    「そうだね」彼は視線を動かすことなく答えた。
    「なんだ、兵助の事だから雨が降れば雨が降った時の訓練になると言うかと思ったのに」
    「八左ヱ門じゃないんだから。こんな雨の中に外へ出たいとは思わないよ」
    「実習に対する真面目さは兵助も八左ヱ門もいい勝負じゃないか」
    「真面目とやる気は別物」久々知は輪郭にかかった髪を耳へ除けながら言った。「想像で十分だよ」
    「想像と違うことだってある。実際に経験しないと分からないことだって」
    「その点勘右衛門と八左ヱ門は似ているね。二人とも体験したことを信じているから、想像の及ばない部分にも自覚的になる。その解決方法が正反対だから、ぶつかりやすい」
    「他人を分析するなんて珍しい」尾浜が口の端を持ち上げて言った。「誰の癖が移ったんだか」
    「誰の事?」彼が肩を竦める。それから光を遮るように窓へ背を向けた。音もなく立ち上がり、座ったままの尾浜を見下ろす。「元々、こうだったのかも」
    「確かに兵助は俺たちの事をよく見ているけど」
    「勘右衛門には及ばないよ」彼が微笑みながら言った。悪戯気を感じさせるように薄く開いた唇はそれ以上の言葉を放つことはない。
     彼は首だけで窓を振り返り、僅かに目を細めた。光の中を舞う埃が、光の粒子のように輝いている。
     窓枠の外には茫洋と続く青。その手前に大きな弧が一つ。七色に彩られた影。
    「虹だ!」
     窓の外で、甲高い少年たちの叫びが響く。彼は色彩の数を一瞬で捉え、すぐに視線を逸らした。
    「大きい虹だなぁ」尾浜が無感情に言った。「一年生たちが大喜びかな」
    「勘右衛門は?」
    「珍しいものを見た、とは思う。まあ、珍しいことは重なると言うしね」
     彼は、そう、とだけ相槌を返し、教室の扉の方へ歩き出した。虹から離れていくように。
    「兵助」尾浜が呼び止める。「それは新しい遊びか何か?」
    「生憎、虹はもう見たんだ」
     よく乾いた風が窓から吹き込む。爽やかな微風は彼の首筋を掠めながら先へ消えて行った。

     雨が降っていた。春の強い東風が連れてきた雨雲が局地的に頭上を覆ったためだろう。薄明るい空から降り注ぐ雫は夏の豪雨とも異なり、細い絹糸のような印象を与える。しかし、弱弱しさはない。空隙も無く敷き詰められた水気が群れを成し、空間を支配している。雨というよりも、むしろ水中を連想させた。
     学園から離れた山の峠で、彼は小さく息を吐いた。僅かに開いた唇の端、頬との境に生じた僅かな窪みを雫が流れ落ちる。着物はまだ乾いた部分を残していたが、長くはもたないだろう。頭痛にも似た不愉快さの中で、来た道の途中に放棄された山小屋があったことを思い出す。躊躇うことなく、彼は踵を返した。足早に道を戻れば二間と経たず、一つの小屋が姿を現した。かつては炭焼きでも住んでいたのか。壁には穴が開き、雑草に埋もれるように立っている。存在を振り返る物もなく、忘れ去られた家屋。尤も、雨宿りには十分なだけの屋根は残されている。
     無言のまま扉、半分以上が腐り落ちた板戸の横から身を滑らせ、室内へ侵入する。当然、人の気配はない。隙間から吹き込む雨を避けるように、部屋の隅へ腰を下ろす。壁は所々崩れ、座ったままの姿勢でも、ひどく見通しが良かった。
     一つ、二つ。
     することもなく、ただ雨音を数え上げる。細い雨の、枝葉の騒めきに似た雨音の中で時折、鈍い破裂音が水底を這った。屋根の縁に溜まった雨水が大きな水滴となり、落下したのだろう。一瞬、打ち破られた静寂はすぐに破れ目を繕い、雨水は再び集積し、落下。一瞬の叫び。静寂。そして、落下。繰り返し。終わることなく。霧雨が織り成すさざめきに遠のく意識を、現実へ引き戻すように。
     茫々と意識を漂わせながら、しかし、彼の双眸は真っ直ぐに外を捉えていた。一種の警戒をも感じさせる表情で。雨の中、小屋を訪れる人物を想像することは難しい。たとえ誰が現れたところで突然の雨に降られ、廃屋同然の小屋で雨宿りをしていた彼を責める者はないだろう。実習帰りではあるが、追手が付くような課題ではない。雨は降り続けているものの雷の気配はなく、屋根の下で雲が去るのを待つことができる。少なくとも安全と呼べるだけの状況。神経を張り巡らせるべきことは何もなく、それでも彼は、殆ど睨み付けるように壁の向こうを見つめていた。
     警戒。
     大波が訪れる前の小波のような、
     暗示。
     或いは予感。
     息を吸い、そして吐く。
     屋根の縁から大粒の雫が溢れ、
     落下。
     空気が震え。
    「三郎?」
     波。
     安堵の息を一つ。
    「やあ、兵助」彼は言った。
     久々知は壁の向こうに佇んだまま、彼の姿を確かめるようにゆっくりと視線を動かした。雨の中を長い間歩いていたのだろう、着物は俄かに色を変え、前髪からは雫がしたたり落ちている。背中に揺れる黒髪は水分を含み、重く垂れ下がっている。首筋に張り付いた一房の髪を払いのけ、常と変わらない足取りで入り口へ近寄ると、久々知は小屋の中へ足を踏み入れた。濡れたままの着物を気にすることなく部屋に上がり、彼の横に腰を下ろす。
    「びっくりした」表情を変えずに久々知が言った。
    「驚いた人間の表情ではないな」
    「でも、雨宿りをしようとした小屋に、先に人がいたら誰だって驚く」
    「誰でもって、誰のこと?」
    「つまり、普通は驚くべき状態ってこと」
    「兵助はどうしてここに」
    「実習の帰りだよ。このくらいの雨ならそのまま帰れるけど、この先に川があるだろう、あそこは少し危ないと思って」
    「この先に川?」
    「知らないの?」久々知が黒目だけで彼の横顔を見た。「大きな谷川でね、崖の横を通らなきゃいけないんだ。晴れていれば増水していても何とか通れるだろうけど……」
     ましてこの雨だ、と続ける。外を見ることも無く、視線は鉢屋を向いたまま。それでも、今、屋根の向こうに降り頻る雨の様子は想像に難くない。彼は薄い絹の幕に覆われたような視界を頭の隅に浮かべ、そうだな、と相槌を落とした。
    「残念ながらこの道に来たのは初めてだよ。行きは西側の山を回って来たから。それにどの町に行くにも、この山は通らないしなぁ」彼は片方の眉だけを上げる。おどけた仕草。暗闇と湿気を湛えた廃屋には似合わない。「兵助は、どうしてこんな道を?」
    「言っただろう、実習だって。人のいる場所は町だけじゃない。町から離れた場所にこそ作られるものもある」久々知が悪戯気な笑みを返す。「それに、初めてじゃない」
    「珍しいな。こちら側の山を通るなんて、そうそう無いと思うが」
    「俺だけのことではないよ」
    「もったいぶった言い方だな」
     彼は鼻先で小さく笑みを零しながら、首を傾げた。眼前にいる男の視線が分からないのかと問うように、彼の双眸を射抜く。未だに濡れたままの毛先から、水滴が一粒流れ落ちる瞬間を捉えた。屋根の上から落ちる雨粒の、一瞬の喧噪が脳裏に響き渡る。或いは、現実に響いていたのかもしれない。記憶の内に保存された景色、音。あらゆる感覚が掘り起こされ、再生され、刹那に現実と混ざり消えていく。空白を埋める雨音だけが、明瞭。
     目を瞑り、所々穴の開いた天井を仰ぐ。一つ、二つ。脈拍が奇妙なほど判然と鼓膜を揺らす。
    「よく覚えていたな」ゆっくりと顔を正面に戻し、彼は言った。
    「忘れたいことだった?」久々知が素直な口調で尋ねる。
    「どちらでもない。思い出すのに時間がかかったのはそのせいだ」
    「些細なことほど思い出せない。過去の日々が賑わいで見えるのと同じだね」
    「学園の生活は、事実、賑わいでいるじゃないか」
    「三郎は人気者だから」
    「悪名高いという意味か」
    「自分から渦に巻き込まれているように見える、ということ」
    「怒っているなら言ってくれ。兵助の嫌味は素直過ぎる」彼が肩を竦めた。「第一、記憶にはあるさ」
    「記憶は全て存在するよ。思い出せるか否かに関わらず」
    「……思い出と呼べる程度には覚えている」
    「思い出した、の間違いじゃない?」久々知が吹き出しながら言う。
    「機嫌が直ったなら何よりだ」
    「元々さして気にしてない。ただ、三郎が気にしていたみたいだから、つけ込んだだけ」
    「そういうところが素直過ぎると言うんだ」彼は目尻を僅かに押し下げ、呆れを含んだ笑みを浮かべて見せる。「……でも、あの時はなぜこんな所まで来たのか。肝心なことは、素直に話そうとはしなかったな」
     薄暗い中でも正しく彼の表情を読んだのだろう。久々知は濡れた袖を徐に指で払い、静かに目を逸らした。
     無言のまま、連綿と続く絹の流れが耳孔を満たす。
     静寂。
     屋根から落下する大粒の雫が零れ落ち、
     破裂。
     一瞬の波紋。
     そして、静寂。
     五回目の落下を数えた後で、久々知は小さく口を開いた。地面に水滴がぶつかる、その衝撃と同時に喉を震わせる。
    「虹」
    「虹?」彼が鸚鵡のように繰り返す。
    「虹を探していたんだ」
     覚えているか、と首を傾げる久々知に、彼は頷きを一つ返し、視線だけで話の先を促した。
    「知っている? 虹を見た者には幸運が訪れる」
    「私が知っている話は、虹の麓を掘ると金の壺が手に入るという、俗っぽい話だが」
    「それは話し手の、幸運の解釈が違うだけだよ。お金が幸せというものもいるさ。或いは具体と抽象の差」
    「なぜあの時に、虹を」
    「こちらの山の方で大きな雨雲が通るのを見た。学園の空は初春らしい薄青に染まっていたのに。今思えばただ雨雲が通り過ぎただけで、それでも昔の俺には、龍のように見えた」
    「つまり、驚いた?」
    「閃いた、が近い」久々知はそこで一度言葉を切ると、意味も無く微笑みを象り、再び唇を開いた。「龍が連れてきた雨の後に、虹が出ないわけがない」
    「思考回路が飛び石のようだな、兵助は」
    「いくつか省略しているだけだよ。事実、伝わっているのだから問題はない」
    「時々明後日の方向に跳ねるけれど」
    「間違うことを恥には思わないかな」
    「それで、何故虹を探していたんだ」彼が話を戻した。久々知との会話は小気味よく進んで行く。その結果話の筋が行方不明になることが多々あると彼は知っていた。少なくとも、彼らの間ではよくある事と言える程度には。
     それを久々知も十分に認識しているのだろう、僅かに眉を押し下げ、それから背後に佇む壁へ凭せ掛けた。小屋同様に古び、腐食の進む壁は、少年一人の体重を受けて低い悲鳴を上げる。苦笑いを一つ零すと背を正し、ゆっくりと口を開いた。
    「幸せを持って帰りたかったから」
    「幸せを……?」
    「虹を持って帰りたかったんだよ」
    「どうして」彼は首を傾げた。幸せを持ち帰りたい理由ではなく、持ち帰れると考えた、その思考が分からないと伝えるように。
    「さあ」久々知が微笑んだ。「でも、当時の俺にとって虹は現象ではなくて、確かな現実だった。触れられるものだった。少なくとも、そう考えていたことは確かだ」
    「どうしてそう言い切れる」
    「今も、そう考えているから」
    「虹は実像?」
    「或いは、幸福も」
     彼は二度瞬きを繰り返し、それから、ゆっくりと瞼を下ろした。久々知はそれ以上に言葉を続けず、ただ外を眺めている。雨脚が弱くなったのか、衣擦れのような雑音は遠瀬に消え、名残とばかりに無秩序な雫の音が輪郭を露わにしている。
     伏せていた瞼を慎重に押し上げ、彼は表情を浮かべないまま久々知の横顔へ視線を向けた。
    「また飛んだ」
    「相手が三郎だから。説明する必要もないかと思って」
    「当たり前の、誰もが分かることを口にする。それが意思疎通じゃないのか」
    「三郎が優しいのは、そう信じているからだね」久々知は仄かな笑みを頬に残したまま、黒目だけを僅かに動かした。「要するに、考え方の問題だよ。虹に触れられない、幸福は目に見えない。そういうものだと信じているに過ぎない」
    「思考の中にかけた虹は、思考を通して触ることができる。そういうことか」
    「自分の身体を通して触れられるものだけが、現実じゃない。身体を有しているとして、認識、知覚、『俺』という世界を作り出すものは身体ではなく、思考だから」
    「それならば、雨の中にわざわざ出ていく必要も無いんじゃないか?」
    「……目にしたことがない物は、まず取り込まなければいけないだろう?」久々知が口の先を尖らせながら答えた。
    「わざわざここへ来てまで?」
    「雨が降った場所に行かないといけない、そう思ったんじゃないかな」
    「随分と他人事のように語る」
    「数年前の自分なんて、他人みたいなものだよ」
    「日々を更新していると」
    「成長途上と言おうよ。俺も、お前も」
    「確かに、この山から真っ直ぐに学園へ戻れる程度には成長したな」鉢屋が悪戯気に笑った。「あの時、迷子になった兵助を探しに行った後。勝手に出て行くなとひどく怒られたことを、たった今思い出した」
    「俺は覚えていたよ。帰り道が分からないからどうしようかと思っていたら、三郎が来てくれて。学園に戻ったら迷子になった俺よりも三郎の方が怒られていたから」
    「まあ忘れてしまうくらいだから、大したことじゃない説教だったんだろうけれど」彼は表情を変えずに言う。「結局、」唇が緩やかに弧を描く。「虹は見られたのか?」
     久々知は外を見据えたまま立ち上がった。古び、風の駆け足にさえ軋む床板の上を、音も無く歩く。壁に開いた大きな穴へ手をかけ、外へ上半身を晒す。風が強く吹いているのか。長い髪が大きく煽られ、宙へ舞い上がる。
    「三郎」
     呼びかけに応える代わりに、彼は腰を上げた。
     鈍重な足取りで、一歩、足を出す。
     長く座り込んでいたせいか、或いはあちらこちらに空いた穴から射し込む薄光のためか。微かな眩暈が視界を覆う。靄のような光に彩られた青年の、黒髪だけがはっきりと映る。
    「虹だよ」
     黒い波が揺れ。
     微笑。
     光が溢れ出し。
     白。
     光で満たされ。
     眩さから目を逸らす。
     破れた屋根を見上げれば、そこには七色の影が薄ぼんやりと弧を描いていた。
    「虹だな」彼は答えた。
    「雨が上がったから、学園へ帰ろうか」
     壁から身を離し、久々知が扉の方へ回る。彼も黙ったまま後を追い、外へ出た。先までの雨が嘘のように、乾いた風が頬を掠めていく。濡れた着物の感触だけが、蛇のように張り付いていた。
    「通り雨だったな」
    「龍が通ったみたいに」
    「これで兵助は虹を手に入れたわけだ」
    「向こうの山まで続いている。大きな虹だね」久々知が笑みを浮かべる。「綺麗だなぁ」
     零された言葉に、彼は一瞬目を見開き、それから隠すことなく眉を寄せた。
    「どうしたの?」虹へ目を向けたままで尋ねる。
    「意外だと思ってな」
    「何が」
    「綺麗だと言ったことが」彼は虹を見ずに言った。「綺麗ではあるけれど、それを私に伝えることは想像になかった」
    「考えていることを口に出す方だと思うけれど」
    「だから、無意識に言葉を口にすることはしないと思っていた」
    「三郎だから」答えと同時に、久々知は歩きだした。横顔に隠れた眉の先が僅かに下げられている。「つい、気が緩んだのかも」
    「……冗談?」
    「好きにとっていいよ」
     一歩先を行く久々知の背中に並ばないよう、彼は歩幅を調整した。光を取り戻した世界は四方に残された水滴を跳ね返し輝いている。雨に洗われたためか、空気までも澄みきった気配を携えて、軽やかに流れていく。その先端には遠ざかる雲。過ぎ去った雨雲はまた別の山に雨を降らし、虹を掛けるのだろう。
     眼前で揺れる黒い波から、天上へと目を向ける。
     瞳孔に青が滲み。
     微かな痛み。
     眩さに目を細める。
    「兵助」彼は宙を仰いだままで唇を開いた。「手を、」
    「手を?」
    「知らないままで、触れるものもある」
     前を行く黒髪が静止した。首だけで振り返り、見透かすように、彼の双眸を射抜く。静寂。風が二人の間を走り抜けていく。輪郭をくすぐる横髪を指先で払い除け、久々知はそのまま片手を差し出した。
     風の中で掌を重ねる。皮膚が擦れた拍子に僅かな熱が生まれた。どちらからともなく指を組み合わせる。
     祈りのように。
    「兵助」風の音に似た声音。「私は、君を知っているか?」
    「試してみる?」囁き声が返る。「誰かに、先に気付かれた方が負け」
     顔を見合わせ、同時に、瞬きを一つ。
     七色の光はとうに霧散し、ただ白いばかりの光が二人を包んでいた。
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    2022/09/10 23:57:38

    清明

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2022-04-09

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