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    夏至 紫と目が合った。
     空は薄灰を混ぜた青。雲はなく、風が緩やかに吹き付けては冷涼をもたらしている。降り注ぎ、反射する陽光の熱を和らげるように。紫は、それの他に存在していない。少なくとも、久々知の視界に映る範囲には。
     日を遮るもののない学園の裏庭で、少年が一人土に向かっていた。土に踏み鋤を突き立て、抉り、砂を払う。単調な作業の繰り返し。腕の動きに合わせ、機械的に背筋が伸縮する。彼はその姿を視界の端に入れながら、声をかけることもなく植え込みの側を通り抜けた。
     一瞬。
     風が止む。
     紫色の衣が宙で静止し、ゆっくりと落ちていく。
     視線が二つ。彼は俄かに足を止め、向けられた視線を見返した。その間は僅か脈の一つも数えられないほどの、正しく瞬きの間に等しい時間。
     再び吹き込んだ風に、久々知は一度瞬きを落とした。丁寧に、時間をかけて。目を瞑り、それから開き直したと言う方が正しいであろう仕草。その動きを、紫色の頭巾は真っ直ぐに見据えていた。互いに言葉を交わすことはない。隣り合った学年は折り合いが悪いと言われるものの、彼、ひいては彼の属する五年生に関しては元より温厚であるために、一つ下の後輩とも特段不仲ではない。尤も、それは同時に、特別仲が良いわけではないということだ。彼と目の前の少年も、お互いに顔と名前、それから幾つかの風評を知る程度の間柄にすぎない。
    「…………」
     少年は微かに唇を震わせ、言葉を発したようにも単なる呼吸のようにも見えたが、やがて再び地面に向き直った。地面を抉り、土を放り、また鋤を地面へ突き立てる。とめどなく繰り返される動き。久々知は息を一つ吐き出す間その循環を見つめ、首を正面へと戻した。それから、何事も無かったかのように歩き出す。顔は真っ直ぐに正面を向いたまま、足は無秩序に置かれた木の枝を正確に避ける。砂と土が掘り出される低い音だけが振り返らない背骨の上に這っていた。
     歩調を緩めることなく裏庭から長屋へ続く道を進みながら、久々知は不意に首を傾げた。
     何故彼は、あの一瞬に己を見たのか。
     単に人が通りかかったためか、或いは、何かを待っていたのか。頭の一角で記憶を広げ、今しがた目にした光景を確かめる。視線が動き、久々知が少年を捉えた一瞬。刹那。無感情な双眸の、目尻が僅かに揺れる。驚愕。動揺。それらよりも幾らか柔らかな角度。精々意外、と言ったところか。
     意外。
     裏庭に限らず、かの後輩がいると噂される場所に近付く生徒は多くない。仕掛け罠、その殆どが落とし穴であったが、何れにせよ罠が無作為に敷き詰められていると分かり切っている場所を通る必要は無い。生徒の中には敢えてその場所を通ろうとする者もいたが、久々知は決してその類には含まれない。だからこそ、彼は驚いたのか。珍しいこともあると。しかし、久々知が現れたのは偶然に過ぎず、つまりそれだけのこととも言える。
     或いは。
     巡り続ける思考を止め、久々知は地面に向けられていた視線を僅かに持ち上げた。長屋へ向かっていたはずの足は、考え事に入れ込んでいたためだろう、知らず、彼が豆腐作りに利用している空き小屋へ続く道へと向きを変えていた。道の途中、ちょうど池の側を通り抜けようとしている。
     上の空という言葉を体現したかのような無意識に、彼は小さく自嘲を零した。鼻先で息を吐き出し、水面を見やる。首筋を通り抜けた風がちょうど水面へ流れ、細やかな波を立てていた。小波と呼ぶには明確な凹凸が鏡面の静謐を一瞬にして乱す。音のない騒乱はやがてうち静まり、水面に建てられた波もまた消沈し、時間を忘れたかのような沈黙を取り戻す。柔らかな水面から生まれた沈黙は空間を侵蝕し、池の周りを全て奇妙にうち鎮めていった。
     目の前に広がる景色に、久々知は足を止めた。天上から射し込む光に映し出された陰影が眼前の景色を絵画と錯覚させる。陽光の鋭利。草影の明瞭。対照される二つの事物がそれぞれ空間に立ち上り、拡張していく。夕日と呼ぶには精彩を欠いた白光が、却って風景の影を濃く描くのだろう。街で売りに出されていたとつくにの絵画よりも寺社に飾られた墨絵を連想させた。
     その天上で、薄青を溶かした宙を包み、薄絹の雲が広がっていた。鼻先には僅かな水の香り。池に溜まった水ではない。もっと生々しく、雨を思わせる予感、若しくはそれらに類似した第六感。
     目に見えない雨雲を確かめるように相貌を閉ざし、再び瞳を持ち上げる。
     光。
     陰。
     降り注ぐ細い陽光が反射し、
     紫。
    「あ、」久々知は言葉より早く、短い音を零した。先に続く呼吸に重なるように波紋が一つ。
     視線の先には一輪の花があった。
     水面を滑る影が対岸へぶつかり、うち消える。彼は波紋を追いかけるように池の端へ歩み寄った。陰影で作り上げられた空間は、近づくことで僅かに変化し、しかし、絵画のような静謐を湛えている。自ずと息を殺しながら、つま先に力を加えた。音の一つも鳴らさないためには、指先にまで行き届いた制御が必要だった。力とは、即ち支配か。
     池の縁に沿って、久々知はちょうど反対側へと回り込んだ。正面に見えていた世界を、斜めに見やる。
     白光、或いは影からも置き去りにされたように判然と、花は紫の色彩を湛えた姿のまま花弁を広げていた。花の色彩に反して葉は光に色を返し、鋭い曲線だけが揺れている。茎は曲がることなく直立し、花が俯くことを許さない。群れからはぐれた獣を連想させる孤独。空間からの解放を想像させる孤立。周りには同じ花はなく、その紫はたった一輪で咲いている。
     久々知は紫の花弁を見下ろし、凹凸のない先端へ爪を触れさせた。暖かくも、冷たくもない、ただ柔らかな感触だけが神経を伝う。
     光の温度さえも届かない。孤独。孤立。
     青い草の香りが、爪の間にこびりつき、浸み込んでいく。
     気が付けば、彼の手の内で紫の花が咲いていた。



     日は未だ沈んでいなかった。一年の内で最も日の長い一日は終わることを知らず、薄朱い空を惰性のように広げている。奇妙なほど明るい空を見上げることもなく、久々知は長屋の廊下を一人歩いていた。すれ違う者はなく、代わりに裏山の方角から悲鳴とも怒声ともつかない声が風と共に駆け抜けた。
     同じ形をした扉を十数枚過ぎ、彼はようやく足を止めた。扉を叩こうと手を持ち上げ、それから小さく息を吸う。
    「誰だい?」
     扉を叩くよりも早く、返事があった。二人に一つ与えられた部屋は簡素な作りで、扉を叩かずとも来訪者に気付くことは容易だった。驚くこともなく口を開き、しかし躊躇いを含んで二度開閉を繰り返した末に、久々知は扉の向こうへ声をかけた。
    「誰だと思う?」わざと低く声を出す。他人の真似に秀でた友人には及ばないが、簡単な変調は技術として身に付けている。
    「えっ……誰だろう。僕たちの部屋に来るってことは、ろ組の誰か? それとも勘右衛門、兵助、中在家先輩はそういうことは仰らないし……」
     巡り始めた疑問に久々知は僅かに眉を顰め、結論を出せない相手に対してではなく彼を惑わせた己に対してであったが、ごめんと言いながら扉に手をかけた。
    「意地の悪いことをしてしまった」扉を開きながら、彼は部屋の中を一瞬のうちに見渡した。見慣れた部屋、間取りは己のものと同一であるが家具の配置がまるで異なっている空間は、以前訪れた時から大きく変化はしていない。左右対称に区切られた中に人間は一人。この部屋に暮らすもう一人は未だ帰っていないらしいことに、心の中で息を吐いた。
    「なんだ、兵助か」腰を下ろしたまま、部屋の主は穏やかな口調で言った。「何か用? 僕か、それとも三郎に」
    「三郎は未だ帰ってないんだね」
    「うん。用事があるなら裏庭に行くと良いよ。多分、今日はそこにいると思うから」
    「ありがとう」久々知は口先で礼を述べた。扉に手を置いたまま、視線は不破の顔を真っ直ぐに見据えている。「本当に雷蔵は三郎のことをよく知っているね」
    「一緒にいる時間が長いから」
    「それだけで分かるもの?」
    「……兵助は三郎のことが知りたいの?」不破が疑問符を返す。
    「知る必要は無いよ」久々知は端的に言い切った。「そう。俺には、全く、その必要がないんだ」
    「必要の有無と意思は別だけれど」不破は子供へ向かい言い聞かせる大人のような丁寧さで言い置いた。「僕が三郎のことを知っているのは、僕以外で僕の顔をしているのは三郎の他にいないから。僕じゃない、それはつまり三郎だ。誰かが不破雷蔵、もしくは不破雷蔵に変装した鉢屋三郎を見た、と言った時に、僕にだけはそれが鉢屋三郎か不破雷蔵か判別がつく。そういう単純な仕組みでしかないよ。後は同じ部屋に暮らしているから、どこにいるかも大体わかるというだけ。行動の組み合わせからの予測だよ」
    「それなら、雷蔵以外の人間はどうやって三郎を見つければいいのかな」久々知が呟いた。
     扉の外、未だ白々と光を織り成す空へ一瞬視線を向け、すぐに部屋へと戻す。薄い光を浴びた双眸の中で、部屋を覆う陰が微かに力を増した。
    「見つけられない?」
    「……分からない」
    「意思と事実もまた別だよ。兵助は分からないと思っていても、頭の中で三郎を三郎だと断定するだけの判断材料が揃っているんだろう?」
    「どうだろう。雷蔵は自分が菖蒲でも杜若でもない時に、その二つを見分けたと言い切れる?」
    「僕の癖を知って聞いている?」不破が笑い声を上げた。冗談であると考えたのだろう。「兵助、そういうことは本人と話すべきだよ。僕と兵助では視座が違い過ぎるし、さっきも言った通り、僕は三郎じゃないんだから」
     不破は唇を笑みの形に固めたまま、彼の後方を指で示した。久々知が首だけで振り返る。廊下の先、開けた庭の奥から聞きなれた足音が一つ。
    「幸いにも今日はまだ終わらないから。話し合う時間はまだ残っているよ」不破はそう言いながら立ち上がり、久々知の隣を潜り抜けた。形の見え始めた人影に向かい手を振り、それから大きく口を開く。「三郎、僕は少し出てくるから」
     近付いてくる影はその言葉に気が付いたのだろう、片手を軽く上げた。不破は久々知の横をすり抜け、廊下を足早に駆けて行く。遠ざかる背が廊下に消えるのを待ち、久々知はようやく顔を正面に向けた。
    「……三郎」いつの間にかすぐ目の前に立っていた人間の名前を呼ぶ。
    「兵助?」鉢屋が一度、瞬きを落とした。意識的な動き。何故ここにいるのかを問う、素朴な仕草だった。
     向かい合う二人の間には沈黙があった。静寂の解放とは異なった、時間と空間を抑圧するための重石が。
     ちょうど腕一つ分の間合いを空け、彼らはただお互いの顔を真っ直ぐに見やった。久々知にとっては距離があり、鉢屋にとっては近すぎる。状況を変えるにはどちらかが動かなければならない。停滞した空気が肺の底へ渦を巻き、呼吸を止める。一つ、二つ。流れていく脈だけが時間を告げる。三つ目を数えた瞬間、忘れられていた風が二人の間を吹き抜けた。
    「やっぱり何か用があったのか?」鉢屋が僅かに後方へ足を下げた。「あの時」
     対面した相手の微動を見逃すことなく、久々知は殆ど同時に一歩足を踏み出した。「あの時?」
    「裏庭で会っただろう」
    「そうだね」素直に頷きを落とす。
    「無視されたので、何かしてしまったかと思ったのだが」
    「三郎かどうか自信がなかった。それではいけない?」
    「自信?」鉢屋が繰り返した。
    「綾部の姿をして、何をしていたの?」久々知が尋ねた。
     鉢屋はそこで初めて久々知から視線を逸らし、西の空を見上げた。久々知もつられて視線を持ち上げる。ようやく夕日の兆しを見せ始めた空気が、光と影を曖昧に映し出していた。
    「何、ということもないな。ただ今日は彼の変装をしようと思っただけで、穴は掘っていたが、落とし穴を掘っていたわけではないし、彼が予め掘っていた穴を埋めていたわけでもない」
    「そう」投げられた答えに、久々知は一言を返し、それから視線を鉢屋へ戻した。「今は雷蔵に戻っているんだね」
    「見破られた変装をいつまでも続けるほど、恥知らずではないよ、私は」
    「見破られた?」久々知が瞬きを落とす。
    「お前に」鉢屋は平淡な口調で告げた。
     久々知がもう一度瞬きを落とす。その一瞬、正しく瞬きをしているだけの刹那に、陰と光が浮き上がる。絵画のような色彩の中でただ一人、眼前の人間だけが明瞭。
    「なぜ私だと分かったか、尋ねても?」鉢屋が言った。唇の端が僅かにひずんでいる。久々知はその僅かな違いを認識した後で、それが微笑みであると気が付いた。
    「一瞬こちらを見た」
    「誰かが横を通れば顔を上げることもある」
    「驚いただろう、その時」
    「見破られたと分かったから驚いたんだ」
    「どうして?」
    「兵助の視線は鋭すぎる。いつも何かを見抜こうとしているような、いわば、激しさがある」
    「つまり、直感したという意味?」
     鉢屋が頷きを落とす。表情は微笑みを湛えたまま、微動だにしない。
    「ならば俺はその前に三郎を見抜いていたということになるな」
    「違わないだろう」断定的な口調で鉢屋は言った。
    「……見抜いたわけじゃないよ。俺には三郎の変装を見破れるだけの目はない」
    「兵助の目は俯瞰的だ」
    「距離がある?」
    「遠くから見れば、私が私であるか、それとも違う人間であるかに大きな差はない。お前が私を見破れないと感じるのはそのせいか」
    「三郎であるかどうか、こうして話している今、とても重要なことだと思うけれど」
    「私だって、目の前にいるのが兵助本人であるという確証はない。つまり、私たちはその点でよく似ているということだな」
    「俺に変装する奴なんていない」
    「私がいる」
    「それなら俺の前にいる三郎は誰?」
    「誰だと思う?」鉢屋が声を上げて笑った。冗談のつもりなのだろう。
    「三郎だといいな、と思うよ」久々知は笑わなかった。「裏庭で見かけた時も、三郎だといいなと思った」予備動作もなく地面を蹴り、一息に間合いを詰める。飛び石の上を跳ねるように。
     跳躍。
     風。
     流れている風ではない。
     己が巻き上げた流れに髪が揺れる。
    「見破るってことは、信じるということに近い」鉢屋が呟いた。焦茶色の髪から落ちる影が一瞬遅れて作り物の額に揺れた。「見破らないことも、また、信じるという意味ではあるけれど。何れにせよ、菖蒲も杜若も、遠くから見れば同じ紫の花だ」
    「つまり、見る人がどちらであってほしいか望むだけに過ぎない?」
    「もちろん確かな判別はある。どちらの花も、それぞれに別の存在故に、その境界が存在しないことはあり得ないだろうさ」
    「だけど、菖蒲は菖蒲であることを知っているにすぎないし、それを見ている人間と共有はできない」
    「想像はできる。だから、結局はその想像をどこまで信じられるかという問題でしかない」鉢屋の吐息が久々知の鼻を掠めた。
    「三郎」久々知が名を呼んだ。
    「なんだい、兵助」
    「どうやら、俺は三郎を見つけられるらしい」
     日の名残が、二人の顔に影を落とす。表情が隠れお互いに表情を窺うことはできない。久々知は部屋に置いたままの花を思い出した。
     菖蒲いずれは杜若。
     あの花はどちらか。
    「三郎は、どちらが良い?」久々知が尋ねた。
    「何が」
    「菖蒲と杜若」
    「どちらでも」
     二人は同時に笑い、それから風に流されるように空を仰ぐ。白い光は変わらずに色彩を奪い、空間を照らす。それでも東側には、小さな銀色が輝き始めていた。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/11 0:02:10

    夏至

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2022-06-21

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