雨水 三日の間降り続いた雪は、夜明け過ぎに雨へ変わった。
出口の見え始めた冬を惜しむかのように訪れた雪だった。冬の盛りと比較すれば淡い粉雪であれど、降り続ければ景色を白銀で塗り替える。雪に飽いた子供たちが色彩を欠いた世界に見向きもせず、ただ自室にこもり灰色の雲が去るのを待っていたためだろう。音の消えた世界の中で、学園は一際奇妙な静寂に包まれていた。
細かな雨垂れが屋根を叩く。その軽妙な調子に鼓膜を揺らされ、鉢屋は目を覚ました。仰向けの姿勢を微動だにせず、乱雑で不整合な響きへ耳を澄ます。決まりきった形のない、しかし鼓動に連鎖し、或いは共鳴する感覚。喧噪。長い休止符が終わり、次の楽節が始まる。俄かな気配。その何かを予感させる響きに神経はざわめき、指先を震わせる。やがて彼は徐に上半身を起こした。音を立てないように布団から抜け出し、机の傍らに畳まれていた制服を手に取った。雪が止んだと言えど、夜はまだ冷える。温もりから離れた途端に皮膚が粟立ち、自ずと肩を竦ませる。彼は寒さに眉間を寄せたまま寝間着を解き、制服へ袖を通した。皮膚と布が触れ合い生じた摩擦が僅かな音と熱を灯す。手を動かしながら、意図せず響いた物音に一度隣へ視線を向けた。同じ顔をした少年は深く眠っているようで、ただ開閉する口だけが彼を生物だと証明している。布の擦れる音程度では目を覚まさないだろうと容易に予測ができた。
鉢屋は手早く身支度を整え、部屋の扉を開けた。古い長屋の引き戸は建付けが悪く、開閉の度に低く軋む。音を立てずに開くには扉を押し上げるように力をいれる必要があることを鉢屋は知っていた。静かに一人分の隙間だけを作り、身を滑らせる。暗い室内とは対照的な、淡い光を纏った風が吹き付けた。閉じ切られた室内へ沈み込んだ空気とは異なる冷たさに背筋を震わせた。
東の空では薄く霞んだ雨雲の向こうから閃光が滲み、空を朱に染め上げていた。彼は光へ歩みよりながら廊下の縁へ近づいた。柱に寄りかかりながら軒下から天上を仰ぐ。頭上、正しく真上に広がる空には墨の濃淡に似た雲が渦巻いている。輝きの根源は遠く、風は弱い。雨雲が去るにはまだ少しかかるだろう、と思考した。続けて、少し、という表現について計算を試みる。
瞬間。視界の端で影が揺れた。
足音はなかった。上級生が利用する長屋であるとはいえ、無用に足音を殺して歩く者は多くはない。近付いてくる他者に気付かないほど思考に沈んでいたのだろう。もしくは、神経を騒めかせる響きのために意識が四方へ広がり過ぎていたのかもしれない。落ち着いた分析を行う傍らで、鉢屋は勢いよく影へ首を向けた。反射に近い仕草だった。
「え、あれ……三郎?」影は弾かれたような鉢屋の動きに一度足を止め、小首を傾げた。「どうしたの、こんなところで」
深い藍色が薄暗い空間の中で浮かび上がる。肩にかかった黒髪の一筋だけが、明瞭な輪郭を描いていた。鉢屋はその曲線をたどり、ゆっくりと眼前の人物を認識した。「兵助」
「おはよう」太陽を掠め見ながら久々知が言った。「随分早起きだね」
「それは兵助もじゃないか」
「目が覚めてしまったんだ。きっと、雨音のせいで」
「奇遇だな。私も同じ相手に起こされた」
「嬉しい」久々知が微笑んだ。
嬉しい、とはどういう意味か。鉢屋は告げられた言葉の意味を確かめようと口を開き、それから無為に呼吸を繰り返した。湿気に濡れた空気が喉を通り肺へ落ちる。己の内側が液体に埋め尽くされていく錯覚に、鉢屋は何も言わず唇を閉ざした。
「嬉しい」久々知が言葉を重ねる。「雪が終わるのは」
「これが最後の雪だったかもしれないのに?」
「この冬の?」
「人生の」
「どちらでも変わらない」久々知が瞬きを一つ落とした。「最後なんてそんなものだよ」
「気付いたら通り過ぎているもの、ということか」
「通り過ぎないと気が付けないもの。もしくは振り返って初めて認識されるもの」
「実体を掴むことは不可能だな」
「最後だと分かっている時も、その時には存在している。分かっているというだけで、終わってしまうかどうかはまだ不確定だからね」
「しかし、確定した時には既に最後という瞬間は消滅し、過去になる」
「だからこの雪が最後だとして、それが冬であることと人生であることに差はない」
「未来はどちらも不確定だから、ということか」
久々知は頷き、それから中庭へ通じる縁石へ足を掛けた。身体が軒から外れ、雨垂れが彼の身体を包む。艶めいた黒髪が僅かに雨水を跳ね返し、しかしすぐに力なく首筋へ倒れこんだ。
「濡れるぞ」鉢屋が低く言った。
「もう濡れた」久々知が両手を広げる。
「風邪をひいてしまう」
「どうしてかな。今日はじっとしていられないんだ。目が覚めて、もう一度眠ろうとしてもだめだった……三郎は?」
雨垂れは勢いを弱めることなく降り続いている。屋根に踊る調子は変わらず気まぐれな響きで鉢屋の鼓膜を揺らし、風に靡く波紋のように全身を包む。
「雨音を聞きにいかない?」
頬に雨水を滴らせながら、久々知が笑った。
雨は春を告げる嵐のような力強さで降り注ぐ。昨夜までの雪は粉雪にすぎなかったが、今の雨は針と言える。これらがやがて訪れる芽吹きのためであるとすれば、春という季節が穏やかであるというのはおよそ世人の妄言だろう。春とは数か月をかけて降り積もった白銀を泥に還すのだ。
肌を濡らしながら、鉢屋は黙って中庭を横断した。前を歩く久々知は濡れた髪を厭うことなく首筋に張り付けたまま、軽やかに歩を進める。つま先で泥を跳ね上げながら進む姿に忍びらしさは愚か、日頃秀才と目されるだけの冷静さはない。結晶にはおよばないものの、凍てついた芯を残した雨に濡れながら奇妙な紅潮を頬へ浮かべた表情は見たことがないと、鉢屋は視線を悟られないように彼の頬を盗み見た。
「この雨で、きっと雪は解けてしまうね」どこか浮ついた声色で久々知が言った。
「山道にいつまでも残るよりましだろう」
「だけど、道は悪くなる」
「濡れて、崩れた土の下からでなければ、新しい芽は生まれない」
「三郎は春が好き?」
足を止め、久々知は首だけで鉢屋を振り返る。水滴が少年の身体にぶつかり跳ね返る。空白によって浮き上がる輪郭のためだろう、同じ世界に立ちながら、どこか隔絶したような気配を感じさせる。鉢屋は腕一本分の間合いを保ち、足を止めた。切り取られているのが相手であるのか、自分であるのかは分からなかった。
「雨は好きじゃない」
「面が濡れるし、雷蔵の髪は膨らむから」
「他にも理由はある」鉢屋は無感情に答えた。
「俺は雨のこと、嫌いじゃない」
「どちらにせよ、好きか嫌いかを名言しないという点で、結局は同じことだ」
好きじゃない。嫌いじゃない。好きとまでは言い切れず、嫌いと宣言するほどのことでもない。迂遠な言い回しは言葉の真意を下げる力しか持たず、それを意図して言葉を操ったという点で、彼らの真意に大きな違いはない。鉢屋の指摘に久々知は肩を揺らし、それから薄く息を吸った。雨に埋もれた世界の空隙を縫うように。尤も、息苦しさは雨のためだけではないと、二人はとうに理解をしていた。
今、自分はどこに立っているのか。己の状況を確かめようと鉢屋は三秒かけて四方へ視線を向けた。長屋からは幾らか離れた場所に立っている。校舎へ続く道ではない。学園の裏手へ続く、小さな林に接続された境界に、二人は経っている。
屋根で踊りまわる雨粒の響きは遠ざかった。
後には小波に飲まれた鼓動が二つ。
身体の中心から指先までを震わせる。
名残。
残響。
連綿と流れ行く雨音に急かされたまま。
波は水面へ広がり、深く、大きく、世界を飲む。
「春は好きだな」久々知が笑いながら言った。「明確に」
「お前の好きはいつも判然としている」その素直さが彼の長所であると、心の内で鉢屋は付け足した。
「三郎の好きはいつも曖昧だ」
「仕方がない」
「仕方がない?」
「好きというための根拠がないのだから……兵助は?」
「冬の、根雪に覆われて春は待っている。たった一瞬を穿って、芽吹く瞬間を。その力強さが、理由」
「春は暖かいからじゃないのか」
「寒さが苦手なのは三郎だ」
「兵助は苦手に疎い」重い袖を引きずり、鉢屋は一歩、足を踏み出した。
瞬き。
瞳孔の収縮。
鷹に似た視線の閃き。
相手との間合いを瞬時に把握しようとしたのだろう。寸鉄を得意とするための癖か、或いは、これもまた狩の一つであるのか。
「苦手を認識しなければ、苦手にならない?」鉢屋が尋ねた。
「知っていればいいというものでもないから」
「私は、知らない方が恐ろしい」
「三郎が、知ってくれているから」久々知がわざとらしく口の端を持ち上げた。
「不公平だな」
「そんなことはない。三郎は、そう、寒さに弱いわりに冬が好きだね」
「そう見える? 兵助の目には」
「名残惜しんでいる。まだ冬に逝ってほしくないから。だけど、春のことも嫌いなわけじゃない」
「わけじゃない」鉢屋が繰り返す。「その通り」
肌に落ちる雫を指で遊ばせながら、鉢屋は空を仰いだ。面を通し、素顔が濡れている感触。常であればすぐに面を取り換え、雨を避けなければならない場面であると思い出す。しかし彼の足は長屋とは反対、眼前の少年へ迫る様に、また一歩前に出た。
「春は冬の間に降り積もった湿潤はおろか、その下に隠された枯れ枝や獣の死骸や、虫の一匹に至るまで、全てを飲み干して力に変える。兵助の言う力とは、そういうもののことだ。一斉に芽吹き、立ち現れる瞬間、冬の間に消えていた生命の両極が渦を巻く。それを好きだと言い切ることができるだけの強さを、私は持たない」
つま先で地面を抉る。濡れた水の香りに混ざり、土の鮮烈な香りが鼻孔を刺す。目の前に立っている久々知にも届いたのだろう。彼は抉られた地面へ一瞬視線を落とし、すぐに鉢屋の双眸を真っ直ぐに見返した。
「三郎は広く世界を見るから、そう見える」
「私は遠間の方が得意でね」
「俺は近い方がいい。自分と相手、それ以外に余計な情報はいらない。寸鉄を使うせいかな」
「元々の性質に合致しているのが寸鉄だったんだ」
「だけど、結局意味のある情報は同じ」
「和と差の違い?」
「俺たちの違いだね」久々知が薄く目を眇めた。「それはつまり、同じってこと」
同じ、と言われて多くの人間が連想するのは鉢屋と不破だろう。しかし、それは同様にすぎない。久々知の言葉が意味する同じとは即ち、同質であるということ。
「雨音一つで目を覚ましてしまうのも?」
「春の雨に胸が騒ぐのも」久々知が頷いた。それから自然に微笑みを浮かべる。
その隙を選んだかのように、一条の光が雫の代わりに降り注いだ。鼻筋に陽光を反射させながら、彼は一度空を見上げ、すぐに地面へしゃがみ込んだ。水にぬれ、深く色を変えた藍色の袖が抉られた地面に落ちる。遠くからでは林の境界に取り込まれ、形を失くすであろう一点。つま先の形に落ち窪んだ穴のすぐ横に、爪の先ほどの双葉が光を受けて佇んでいる。その小さな世界の上に、久々知は指先から滴る雫を一つもたらした。
「春が来るよ」