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    春に終焉 青空に月が浮かぶ。春の午後は柔らかな日差しを纏い、青く燃え盛る木々の葉にさえ微睡をもたらした。風一つない陽気に満ちた眩しさの中では子供たちの笑い声はおろか、彼らが駆けまわる足音さえうち消える。日々鍛錬に励む者たちで賑わう休日の午後にも関わらず、奇妙なまでの静けさが学園を包んでいた。遠く、山向こうで鳴いている鳥の声さえ耳に届くほどの静寂。死人のような打ち沈んだ空気とは異なる、海原に飲まれた時の感覚にも似た色が空に滲む。
     冴えた青の下、鉢屋は流れることのない雲を眺めながら寝転がっていた。性根の勤勉な者が集まる学び舎である以上、音は届かずともこの時間をただ無為に過ごしている者は多くはないだろう。その事実がさらに鉢屋の身体を野原の布団に縫い付ける。反して心は空高く。周囲が意義のある時間を捻出しようとする様を横目に無為を楽しむことは、少なからず贅沢と呼べる代物だ。そう思考し、風の流れを追うように西へ視線を揺蕩わせる。
     目的もなく空を映す目の中で、不意に月へと黒目が重なった。
     昼間に昇る月は夜空を照らすものよりも白く、霞んで見える。この淡い物体が日ごろ夜道を煌々と指し示し、時には太陽に負けぬほどの明かりをもたらすとは不思議な話だ。そこに忍として活躍する者から敵とまで呼ばれた眩さは見当たらない。
    「数で勝る星でさえ霞ませるのだから」鉢屋が呟く。「ますます不思議なものだなあ」
    「何が不思議なんだ?」
     空中へ向かい投げ出された言葉を不意に打ち返される。鉢屋は跳ね上がる竹のような勢いで背を起こした。緩んでいた身体へ一気に血が巡る。言葉の主を確かめるために顔を上げたのは、指先にまで熱が回るのを感じた後のことであった。
    「こんなところで寝ていたら、誰かに不意打ちをくらっても仕方ないぞ」
    「この穏やかな日に、それはないだろうさ」鉢屋が首を回す。左右共に一度ずつ回してから、再び顔を声のほうへ向けた。「兵助は私を何だと思っているんだ」
    「三郎なら、それくらいの恨みを買っていそうだなって。ほら、構うつもりがやりすぎてってことが、よくあるだろうし」
    久々知は野原に足を投げ出したままの鉢屋を見下ろしている。左腕には数冊の書物が抱え込まれていることから図書室から戻る途中であったのだろうとあたりを付け、鉢屋は簡単に思考を止めた。
    「教えてよ、三郎。何が不思議なのか」
     春の静けさを妨げないほどの声で問いかけが繰り返される。立った人間と座った人間では空との距離が当然に変わる。鉢屋は己の傍ら、日の光で暖められた雑草を手で軽く叩いて見せた。
    「いいのか?」
    「話が聞きたいんだろう」
    「三郎は一人を楽しんでたように見えるけれど」
    「分かっていて話しかけてきたのは兵助だろう。それに、楽しんでいたのは孤独ではなくて時間そのものだ」
    「へぇ」
     短いだけの音を空へながしながらも、両者の間に躊躇う理由がないという結論に至ったのだろう。久々知は鉢屋の隣へ拳一つ分だけの空間を開けて腰を下ろした。肩が触れるには遠く、手を伸ばすには近い距離。枝から離れた葉が零れ落ちる瞬間に似たさり気なさを含んだ仕草だった。
    「それで?」
    「いつになく聞きたがるな」鉢屋が言う。「何てことはない話なのだけれど」
    「だって三郎がわざわざ口に出してぼやくほど不思議に感じるものが何か、気になるじゃないか」
     久々知はしわ一つ寄っていない、まっさらな額を向ける。そこには授業中、教師へ質問する時と変わらない色が浮かんでいた。静かに相手を見据えながら、己の理解が及ぶまでは決して離しはしないという力が漲った目。二つの目を包む粘膜が心なしか波立っているように見える。或いは、炎が燃え上がる様か。鉢屋は視界へ入り込む彼の表情を瞼で遮った。
    「綺麗だな」
     話を続けろと言うように隣で頭が揺れる。その後で合いの手を入れたほうが良いと思ったのか、久々知は「それで」と言葉を付け足した。
    「綺麗だと思ったんだ。日の光に霞んだ月が」
    「月?」
    「ほら、ここからなら木の枝に邪魔もされず、よく見えるだろう?」言いながら指を空へ向ける。
     切り揃えられた爪の先、はぐれた雲一つ見つけることの難しい快晴の中に一点、白々とした円がある。
     二つの頭が上空に向けて同じ角度を作る。
    「月じゃない」
     久々知が空を仰ぎながら呟いた。
    「だって今日は、月の満ちる夜だ」
     満月は夕刻から昇り、夜中に燦然と暗闇を照らす。つまり太陽が天の頂を過ぎたばかりの時刻に顔を見せることはない。
    「じゃあ、あれは」
     西の空に漂う茫洋とした光へ向けて鉢屋が言う。
    「分からないけれど、月でも、太陽でもないのなら」久々知は声の調子を変えずに続けた。「きっと星だ」
     いやに落ち着いた声色が却って心臓を大きく脈打たせる。鉢屋は隣に座る男の顔を、黒目だけを動かして確かめた。眉は変わらず平行に引かれ、唇は緩く結ばれている。未知の物を見た動揺か或いは恐怖か。表情を浮かべることさえ忘れられる中で、頬だけが微かに震えを刻んでいた。

     見慣れない星の噂は瞬く間に学園へと広まった。鉢屋が星を見つけたその日の夜には既に多くの生徒が同じ陰を目にしており、次の朝には秘密裡に囁かれる存在から朝食の席を賑わす物へと姿を変えた。その波は当然として彼の周りにも訪れ、彼はその日、三度も星の存在について既知であるかを尋ねられた。一人は級を同じくする友人、二人目は共に茶を楽しんだ後輩。そして最後は委員会の活動について報告に上がった学園の長。学園にいるあらゆる人間が噂をしているのだと知るには十分な数と人だ。忍にとっても星は方角を知る上で重要な鍵であり、だからこそ天に散見される個々の輝きにも神経を伸ばす。そこに見知らぬ一点が描き足されていれば誰もが困惑を口にするだろう。それは知識を授けられる子供であろうと、経験を分け与える大人であろうと同じことだ。かの星はなぜ現れたのか。誰も答えられぬ問は憶測で着飾った噂へと変わり、噂は人よりも早く人の間を流れていった。
     一日で行うべきことを終え、学園長の庵から長屋へと戻る道すがら。鉢屋の視線は自ずと西の空へと上げられた。稜線から幾らか距離を取った夕暮れの中に漠とした輪郭を湛えた円が一つ。陽の光よりも鈍く、それでいて斜陽の鮮烈な光の中で奇妙に浮き上がって見える姿が目に映る。
     橙に満ちた網膜へ一点の陰が写り込む。心なしか昨日よりも面積を広げているように思え、自ずと足が地に縫い留められた。歩みが止まることで意識に隙が生まれ、繰り返し囁かれた噂が脳裏に蘇る。
    「あの星、近いうちに落ちるんだって」
     心の内で零したはずの言葉が空気を揺らす。焦点を求めることのない空から視線が外れ、背後へ向かった。
    「兵助、」地へ伸びた鉢屋の影と光との境目に立つ男の姿が目に入る。己の声に重なるよう言葉を投げた男はまるで鉢屋の意図を知っていたと思わせる仕草で悪戯に成功した子供が持つ笑みを浮かべていた。
    「あの星が気になる? それとも」
    「子供じみた噂じゃあないか」
    「俺は夢があっていいと思うけれど」
     久々知が顔にかかった前髪を除けながら放った言葉へ、鉢屋は二つあるうちから片側だけの目を細めてみせる。
    「あの星、昨日よりも大きく見えるだろう?」そう続けながら星へと視線を戻す。「それとも私の気のせいだろうか」
    「いいや、俺の目にも大きいように見える」
    「つまり、近づいているわけだ」
    「夢があるだろう?」
    「……星が落ちることに? それとも、」
     鉢屋は一度言葉を区切り、息を吸った。春の訪れを告げる生温かい風が肺へとなだれ込み、身体の内側を騒めかせる。都合よく吹き抜けた風が肌の上を冷やし、その温度差に眩暈に似た不安が地へ足をつける感覚を覚束なくさせる。言葉を続けようと開けたままの口は一瞬の間にひどく乾き、舌の動きを阻む。唇の先を微かに震わせる鉢屋の様子を一瞥した久々知が小さく笑う。その笑顔だけがいやに鮮明に映り、鉢屋はわずかに黒目を見開いた。
    「世界が終わることが」
     放たれた言葉が鼓膜よりも早く黒目と白目の境に浸み込んでいく。鉢屋は乾く舌の根を動かそうとない唾を無理に飲み下し、肺に淀んだ呼吸を一斉に吐き出してみせた。
    「星が落ちれば世界は終わりか」
    「だって、あんな大きな星が落ちてきたら、学園ごと押しつぶされてしまうだろうし……知っている? 星は大きな燃える球なんだって」
     どこで聞いたものか、久々知があっけらかんとした口調で言い放つ。
    「逃げ場はあるだろうか」
    「きっと、世界のどこを探してもないよ。俺たちが立っている地面も無数の星と同じ物の表面に過ぎない。つまり、あの星もここからは掌と重ねられる程にしか見えないけれど、本当はもっと大きいってこと」
    「それは、どうしようもないな」
    「だろう?」肩を竦めた鉢屋の横へ足を並べ、久々知が言う。「どうしようもなくて、だから、夢だけがある」
    「あの星が落ちてくるのはいつだろうか」
     橙の光は薄れ、星々が輪郭を鮮明にし始める。山際に低く輝く星へと手を翳しながら呟かれた問に答える者はなく、鉢屋は空を切るように素早く腕を下ろした。東の空から流れ込む藍色が周囲に残る陽の陰を溶かしていく。長屋へ戻ろうと隣に立つ男の手を掴めば、指先が軽く握り返された。
    「三郎は世界が終わるまでどう過ごす?」
    「兵助の方こそどう過ごしたい?」
    「分からないなぁ」
    「正直なところ、私も分からない」
    「突然のことだから、誰もがそうなんじゃないか?」
     縫い留められていた足が軽く宙へ浮き、再び地を踏む。一歩踏み出した鉢屋の調子に合わせるように、久々知も右足を前へと進めた。続けて左足、もう一度右足。交互に行き交う足は当然に身体を運び、長屋へと帰り着く。級友たちの笑い声が幾つも折り重なう響きが耳の奥へと骨を伝って届けられる。繋いでいた手がどちらからともなく離され、代わりに揃って互いの顔を見据える。
    「本当に、落ちると思う?」
    「ただの噂さ」
     わざと立てた笑い声が、梢の摩擦が織りなす合唱にかき消された。

    ***

     その日、町から戻った尾浜の手にいつもよりも大きな包みが握られていると気付いたのは彼が自室の扉を開けてすぐのことだった。彼の気に入りである菓子屋の名が、包みの結び目に巻き込まれ半分だけ姿を見せている。同じ部屋に寝起きする友人の姿を目に止めた久々知は彼の帰りを迎える言葉よりも先に提げられた包みへ人差し指を向けた。部屋の奥、久々知の陰に隠れた頭がその拍子に現れる。
    「それ、どうしたの」久々知が尋ねた。
    「貰ったんだ。どうせ直に世界が終わるから、材料を抱え込んでも仕方ないって」尾浜が後ろ手に戸を閉めながら答えを返す。「よく連れ立っている弟とお食べと言われた」
    「学級委員長委員会はおつかいの度に茶屋に寄る余裕があるのか」
    「毎度じゃあない」
     久々知の軽口を気にした素振りもなく受け流し、机の上へ荷を下ろす。傾いては形を損ねるものなのだろう。いやに丁寧な仕草で手を離すと小さく息を吐いた。
    「それよりも、」部屋の隅、久々知の後ろに座るもう一つの頭をわざと睨みつけ、尾浜は腰に手を当ててみせた。「なんで俺たちの部屋に三郎がいるんだ」
    「課題で分からない部分があったから兵助の知恵を借りにきたんだが」
     尾浜の芝居がかった動きと張り合うように、鉢屋が肩を竦めてみせる。互いに慣れたやり取りであればそれ以上に返す反応も見つからず、尾浜は二人の横へ腰を下ろす。彼らのやり取りを黙って見上げていた久々知が一言「おかえりなさい」と言った。わざと顰められていた顔が俄かに解け、それから「ただいま」という言葉が返された。
    「そういえば、町の様子に変わりは見られた?」机に散らばった紙を片側へ寄せながら、久々知が続けた。「噂が広まっているとは思わなかったけれど」
    「ここにはお喋りな子供が多い」
    「一年生のせいにするなよ、三郎。市井の人々は存外変化に敏いものだ。何せ天候であれ戦であれ全てが己の生を左右するのだから……見慣れぬものが近づいて来ているとなれば騒ぎにもなる」尾浜が音を立てて息を吐く。溜息よりも軽い響きはすぐに生暖かい部屋の空気へと溶け込んで姿を失う。「最もこの世の終わりが本当に訪れるのかなんて俺たちにも分からないけど」
    「三郎があの星を見つけたのは三日前で、少なくとも距離としては近づいているよ」
     久々知はそう言いながら書物の陰から一つの棒を手に取って顔の横へ持ち上げて見せた。腕一本ほどの長さに切られた木の棒。その先には薄く切った竹を曲げて作ったのだろう、特別なところの見られない輪が二重円を描いている。奇妙な形をしたそれに尾浜が首を傾げれば、久々知は僅かに頬を緩ませた。
    「一年は組の皆で作ったからと、伊助がくれたんだ。星の大きさを測れる優れものだよ」
     彼の言葉に、同じ委員会に所属する二人が顔を見合わせる。「庄ちゃんはそんなこと教えてくれなかったねぇ」「必要ないと思ったんだろう」「もしくは俺たちがそれで遊びだすと思ったのか」「違いない」軽口に合わせて笑い声をもらす二人へ向けて半ば呆れたように笑みを合わせ、手の内にある棒を回す。「全く……」
    「それで兵助、どうやって使うの?」
    「簡単だよ」
     立ち上がった久々知が、手にした棒を胸の中心に当てる。真っ直ぐに伸びた棒は丁度空を見上げる高さへと二重の円を押し上げる。それを下から覗き込むように視線を天井へ向ける。一見奇妙な形をとる久々知の姿は至って真面目な色を浮かべている。二度深く呼吸をする間、姿勢を保ちながらも、やがて棒を下ろし、厳かな儀式を終えたような素振りで二人を見下ろした。
    「分かった?」
    「つまり、星をその円と重なるように見上げることで大きさを測っているんだな」鉢屋が言う。「面白いことを考えるものだな」
    「一年は組にはからくり好きな子供が二人もいるから、大方彼らの提案だろう。兵助はそれで星を測ってみたのか」
     当然であると示すように久々知が頷いた。「貰ったのは昨日だけれど、その時は内側の円にも満たなかったのに今日はぴったり重なっていたよ」
    「角度の問題じゃないのか」鉢屋が尋ねた。
    「多少はそういうところで変わってくるだろうけれど、棒を支える場所を定めていれば、近づいていることは間違いないと分かるようにできてる」
    「いよいよ噂が本物らしくなってきた」仰々しく天上を仰いぎながら、尾浜は勢いよく背を床へと倒した。「お前たちはどうするの」
    「何が?」
    「世界が終わるんだ、したいことくらいあるだろう?」
    「そういうお前はどうなんだ」鉢屋が言う。床へ寝転がった尾浜の方を見ようとはしない。「世界が終わるまで何をする」
    「何もしないよ、俺は。いつも通り授業に出て、委員会でお茶を飲んで、三郎を揶揄って、兵助の豆腐三昧に文句をつける」
    「これが最後かもしれないのに?」
    「それが何だって言うのさ。俺はいつだってやりたいことをやって生きているし、特別したいこともない……そうだなぁ、もし何か特別なことをしなければならないのだと言われたのなら、まあ皆で団子でも食いながら賑やかに過ごすのもありかもしれないけれど」
    「潔いのか、分からんな」
     嘆息に混ざり落とされた言葉を鼓膜に拾い上げ、尾浜が大きく口を開けた。乾いた笑いを上げれば久々知がつられたように頬を上げた。
    「それでも、」一頻り笑みを零し満足したのだろう。不意に明るい色を沈め、生真面目な顔つきを作ると再び喉を震わせはじめる。「もし何かすべきだと思うのなら、それはやるべきだと思う」
    「いやに抽象的な言い回しをする」
    「最後の瞬間をどこで迎えるか、誰とあるのか、何をするのか……或いはそれまでに叶えておくべきことは何か。そんなことが思いにあるのなら、それを無視する必要はないさ」そこで言葉を切り、尾浜は大きく腕を伸ばした。「尤も、本当に星が落ちるというのであればの話だ。終末論は外れるのが定石だろう」
    「つまり、お前は信じていないということか」
     正解だという尾浜に鉢屋がわざとらしく肩を丸める。尾浜の態度はつまるところ、この世が終わることを端から信じていないだけのことなのだ。或いは本当に世界が終わろうと己の人生に悔いが残らないように生きているのか。どちらにせよ、彼の中では噂が真であれ偽であれ大きな問題ではないのだろう。
    「全く参考にならん」自ずと漏れ出した言葉に久々知が頷きの代わりに目配せで同意を示す。
    「それでいいんだよ」欠伸を零しながら尾浜が言った。「俺は一人で、そっちは二人だ」
     何を恐れているのだと不連続に欠伸を落とす。言葉を投げながら立ち上がり、扉を開け、廊下へと半身を晒す。そして瞬きよりも早くその背は戸の向こうへと消えた。それきり返る言葉はなく、部屋の内に沈黙が垂れ込める。放たれた言葉の残響から逃げるように、久々知が静かに扉の方へ顔を背けた。その拍子に頭の半ばほどで束ねられた黒髪の束が竹のようにしなりをつけて揺れ動く。静寂ばかりが支配する空間の隙間から己の拍動が漏れ出すような錯覚に襲われ、鉢屋は眼前で揺れる遠くから見下ろす川の筋にも似た黒いうねりへ指を絡ませた。一度、二度、人差し指と中指の間を埋める髪を梳く。三度目に頭の頂へと掌を寄せれば、体温を知る前に豆の痕が残る手が手首をつかんだ。硬くなった皮膚が血管を浮き上がらせるほど薄い皮の上でぶつかり合い、摩擦を生む。
     手首を捉えられたまま、背けられた顔を覆いかぶさるように覗き込んだ。表情のない顔の中で、睫毛だけが鉢屋の呼気に煽られ、揺れている。力を入れることも、緩めることもなく、ただ薄く開かれた唇から吐息へ隠すように囁き声が漏れる。
    「三郎は、世の終わりが怖い?」
    「最低だと思うだけさ」
     鉢屋が答えを返した。短い言葉で紡がれたそれは風のない水面へ投じられた小石の様な細やかさで、却って冷静を装う声色を窺わせる。己でも抑え過ぎた声の色を悔いるように後から乾いた笑みを浮かべて見せる。たった数秒で繰り広げられた彼の一人芝居へ笑みも呆れも返さず、久々知は徐に瞼を閉ざす。そのまま、何も見えないであろう視界の裏から何かを見透かそうとするように、閉じた双眸で鉢屋の顔を覗き込んだ。
    「俺はきっと、怖い」
     掴まれたままの手首から虫の脈拍ほどに細かな震えが骨を伝う。その振動は骨を通し、神経を針先の響きに似た鈍さで震わせた。
    「だって、その時が一番特別な時になってしまうから」
     誰と、どのような場で死ぬのか。
     死は人生においてただ一度しか訪れることはない。唯一の瞬間がどう演出されるのかを人は生きる中で幾度も空想として描き、次第にそれが特別であると思い込む。
     鉢屋はこれまでに描いた死の形を思い出そうと瞼を閉じかけ、すぐに目を開いた。元より思い出せるほど明瞭な形はしていない。
    「その時に誰と、どうやって過ごすのかを選ばなきゃいけないのって、すごく残酷なことじゃないかと思うんだ。だって、普通はそんなことを決められない。いつ死ぬのかも、その場に誰がいるのかも、俺たちの想像した通りにいくことって、きっとないから」一音一音を確かめるような口ぶりで久々知が言う。重要な仕事ほど指先に意識を向ける時に似た緊張。目には見えない糸を張り巡らせた唇の先が僅かに震えている。「それでも、ずっと抱えていた願いはこの時を待っていたとばかりに繰り返し頭の中に流れ出す。それが何より、一番怖い」
    「いいじゃないか、それで」
    「この世が終わるからといって必ずしも悲嘆にくれなければならないわけでもないし、反対にお祭り騒ぎをする必要もない」
    「勘右衛門が言っていたように?」
    「そう、つまり、この世が終わるからなんて理由で何かを無理やりに行おうなんていうのが最低なんだってことだ」
     もったいぶった仕草で肩を竦めて見せれば、久々知はようやく握り込んでいた拳を緩めた。そのまま両の掌を広げ鉢屋の肩を叩く。「妙なことを言ってすまないな」と言いながら床に投げ出されていた針金付きの棒を丁寧に机の上へ置いた。
    「明日にはきっと星も遠ざかる」
     鉢屋は立ち上がり、片手を上げた。部屋から立ち去るという合図である。幾らか傾いた夕日が窓から低くにじり寄り、部屋の中に一筋の朱い帯を織りなしている。その上に影を差さないよう扉まで歩く。
    「あの星は、きっと落ちるよ」
     扉が開く。空を染める淡い黄昏が部屋の奥に潜む影を浮き上がらせる。日頃意識されない行動であればこそ、断絶された思考の中でも手足は明確に動く。いつの間にか廊下に出ていた鉢屋は、ふと我に返り扉を振り向く。
     閉ざされた扉は沈黙を湛えて彼の視界を遮り、立っている。鼓膜を揺らした音が果たして本当に彼の言葉であったのか。それを知ることはできなかった。

    ***

     同じ部屋に寝起きする友人の荷が減っていた。机から離れ床の上へ積まれていた本の山からわずか一冊か二冊。些細な変化であれど、特異な荷を持たない彼の領域から消えたものは奇妙に目を引く。そこにある内は興味さえ感じ得なかったものに対する感覚を隠すことなく面に浮かべれば、友人はこともなげに頷いて見せた。
    「本をね、上げたんだ」お前が気になっていることなどお見通しだと言わんばかりの口ぶりで彼は言った。「きり丸と怪士丸、それに久作。欲しいと言ったものを全てやってしまった」
    「珍しいこともある」
    「それは僕が自分の物を簡単に人へ譲り渡したことに対してかな」
    「まさか。君ほど気前のいい人間を私は知らないよ」
    「お褒めにあずかり光栄だけれど、それを三郎に言われるのはなんだかなぁ」
    「雷蔵の後輩たちは、無償と言えど、親しい人間が大切にしているものを簡単に受け取る性質ではないだろう」
     鉢屋が不破の方を見る。その周りにある空気に親しくしている人物の影を読もうとするように、焦点は器用に不破を避ける。見られている側は前髪を軽く手で払いながら黙って目尻を下げて見せた。
    「それで?」
    「どうして気まぐれを起こしたのか、聞いても?」
    「ちゃんと考えて、悩んだよ……つまり、三日か四日、それくらいは考えていたということだけど」
    「全く気付けなかったな」
    「それはそうだろう。だって、これは僕だけの問題でお前には何一つ関わらないのだから」
     向かい合って座る男の唇が僅かに尖るのを見て取ると、不破は一言「怒るなよ」と言った。突き出された唇が俄かに常の印象へと戻るには呼吸を二つほど繰り返す間が必要で、それをゆっくりと待ってからもう一度唇を開く。
    「何となく、僕も誰かに物を与えてみたくなったんだ。いつも三郎からもらってばかりの日々だったから、この機会は少し、」
    「都合がよかった?」
    「そう、そんなところ……」
     言葉を不自然にすぼませながらも、表情は相反するように穏やかに凪いだまま不破は言った。感情の波が迷い道にでも差し掛かってしまったのか。奇妙な表情を眺めながら鉢屋は薄く息を吐いた。肺に溜まってもいない息をわざと重く吐き出そうとするように、細く、長く、空気を震わせる。
    「私が君に何かものを与えたことがあるか?」
    「いつも僕を助けてくれるじゃないか」
    「それは雷蔵だってそうだろう」
     不破は僅かに微笑み、そうだねと言った。その声は、母親が子供に向かうような、相手を否定しないための色を滲ませていた。
    「君のその、何でも受け止めてしまう顔は好きじゃない」
    「お前にしては随分遠回しな言い方をするね」
    「それは、私には、真似できない」
     再び唇を尖らせた鉢屋の顔を一度眺め、不破が喉の奥で笑い声を立てた。
    「そう拗ねるなよ、どうせ直に全部終わってしまうのだし。最後の時に何を手にして、何を置いて行くのか、大事なのはそちらだろう?」
    「……星が落ちると?」
    「少なくとも、僕らは百年も生きることはないからね。明日も、一週間後も、三十年後も、書に記されてきたものに比べれば瞬きほどの時間だ」向かい合った男の膝が小さく揺れている。その細やかな波に合わせて素早く瞬きを落とし、不破が言った。「僕らが何を持ち、持たずに終わるかは、自分で決めるべきだ」
     穏やかな声色と反して固く言い表された言葉を投げられ、鉢屋は右手で膝を床へ押し付けた。俄かに力がこもった爪の先には薄く白が滲んでいる。浅く呼吸を繰り返せば乾いた部屋の中を掠れた響きが満たす。虫の羽音がいやに大きく聞こえることがあるように、微小な気配が空間を支配する。神経が尖り、肌が粟立つ。
    「僕が最後の時に持っているには、紙の本である必要はなかったから、あの子たちに譲ったんだ。彼らもきっと、頭に入れてしまえば物質を必要とはしないだろうけれど……もし明日か明後日かに星が、本当に落ちたとしても、彼らは本を持っていられる。落ちずとも、いつかあれらを読み終えて僕のように頭の中で持ち続けてもいい」
    「時々、雷蔵の言うことがひどく難しいように思える」
    「お前は物の存在を尊ぶから。変装をするには道具がたくさん必要で、他人の表情や、知識もまた然り。仕方がないにしても、お前はいつも自分以外の物を持ち続ける生き方をしているんだよ」
     強く握られたままの鉢屋の指を解くように不破の手が伸ばされる。爪の先が皮膚に届く刹那に、鉢屋は右手を上げて頭の裏へ回した。不破は再び凪いだ海原のように捉えどころのない笑みで「ほらね」と言った。
    「相手が兵助なら、お前はされるがままだった」
     その口ぶりには奇妙な確信が滲んでいる。言葉の陰に潜んだ色を見抜いた鉢屋の眉が自ずとしわを深めた。
    「どうして言い切れる」
    「三郎が僕をよく見ているように、僕だって三郎をよく見ているんだって、知っているくせに」
    「質問を変えよう。なんでそこで兵助の名前が出るんだ」
    「お前が最後の時に手にしている、お前自身の感情の一つだろうから」
    「意味が分からない」
    「さっき言ったろう? 最後の時に何を、誰を抱えているのかは当人次第だ。だけど、自身の感情だけはどうしたって、最後まで抱えて歩かなきゃならない……最後まで自分の中で残る執着が何か。つまりは、そういう話」
    「雷蔵は、誰かに与えるという経験、その感情を持っていたくて、後輩に本を与えたということ」
    「そう。だから都合がいいと言ったんだ。僕にも、そして彼らにも、最後の瞬間に物質であれ、知識であれ、己ではない物を抱えておくことは左程重要じゃない。ただ、僕にとってはその行為から発生する感情が必要だっただけだよ」
    「それは、私が顔を借りていることでは得られない感情か?」
    「それもさっき言っただろう? 三郎には助けられてばかりいる」
     迷惑もたくさんかけられているけれど。そう不破が笑えば鉢屋は寄せたままの眉を指で解した。
    「最後の瞬間を自分で整理して選ぶことができる機会なんて、僕らにはきっともうないから。ちゃんと向き合いなよ」
    「……それ、兵助も言っていたな」
     呟くように溢された鉢屋の言葉に不破が笑みを向けた。
    「だったら尚更、ちゃんと考えなきゃ。お前と兵助が、互いに何を与えたいのか。或いは奪いたいのか。お前たちが得たい感情は何か」不破の掌が鉢屋の頭へ乗せられる。子供へ向けるような笑みのまま、叩くような軽い仕草で頭を撫ぜる。「僕の悪癖が迷い癖なら、お前のは自分の事に限った逃げ癖だ」
    「……これは手厳しい」鉢屋が乱れた髪を指で直す。
     不破の視線を迎えるように顔を上げれば、窓の外に光り始めた星の姿が視界に瞬いた。四角く切り取られだけの小さな窓からは、あの奇妙な星の姿を捉える事は難しい。今日もまた、距離を近付けたのだろうか。あの道具を持った久々知なら知っているはずだ。気になるのであれば尋ねに行けば良いと頭の内で声を聞く。繰り返し響く言葉に暫し耳を傾け、それから鉢屋は床の上へ寝転がった。側に座る不破は微かに眉を動かしただけで、何を言うこともない。暫し寝そべった後で背を持ち上げる。
    「まずは一人で、考えなきゃいけない気がするんだ」
    「そう」不意に呟いた鉢屋の言葉に、不破は相槌だけを返す。
    「今顔を合わせれば私は、きっとまた何もかも有耶無耶にしたくなってしまうから」
     不破はまた「そう」と言った。肯定も否定もしないところが、この友人らしいと思う。つまり、どこまでも優しいのだ。己は人に恵まれているとも考える。その中で、幾つもの大切な存在がいるにも関わらずある一点だけを特別に箱へ仕舞い込もうとする精神を何と呼ぶべきか。何とするべきか。その理由は何か。考えなければならない。鉢屋の双眸が再び窓の外を睨む。床から見上げる藍色の空に、大きな青白い星が一つ、瞬きもせずに輝いていた。

    ***

     煙硝蔵は学園の奥、外部から見えないほど木々に覆い隠された先にある。そもそもの所在地を隠すためであり、万一侵入者があったとして、林の中であれば待ち伏せも仕掛け罠も容易に行えるためでもあった。反面、表側から回れば入り組んだ林を抜けずに済むが、遠回りな上に校舎や校庭などの人目につく場を通らねばならない。それほど重大な物を保管している場所。
     蔵の立ち位置を正しく理解しながら、しかし、道のりが長いことを不満に思うことは別であると久々知は溜息を漏らした。林を通れば少しは時間を節約できるが、夏場は虫に刺され、冬になれば肩を震わせながら小走りに長屋を目指さねばならない。忍務として山道を行く時であれば気にならない事も、ただの日常に組み込まれてしまえば厳しさを骨に染み込ませる。林の道を行くには春の頃が一番良い。春の頃以外には似合わないとも言えよう。
     久々知はそう思考しながら林に落ちた枝を避けて歩いた。侵入者を防ぐために何かしらの罠が仕掛けられていることもある以上、不用意に物を踏みつけてはならない。委員会へ所属した下級生に向けて、これは真っ先に教える事柄の一つでもあった。学園内の敷地である以上、命に関わるほどの仕掛けはない。それでも無傷で済む保証はなく、常時罠の仕掛けられた場所という認識から好き勝手に罠を増やす生徒もいる。何の用もなく立ち入るには危険の多い場所で、この場において出会す人間は大抵決まった者である。そしてその誰もが、久々知もまた当然に、不用意な行動をとらないだけの知恵があった。
     林の中で立ち止まり、目の前を睨む。道の際まで広がった藪の向こうから獣か何かが地面を這いずる音が聞こえる。
    「蛇……?」誰にともなく呟くと久々知は足を彷徨わせた。蛇などは珍しくもないが、正体の分からぬ物のすぐ隣を歩くことは些か無防備とも言えよう。学園内だからといって無毒な獣しか入り込まない道理はなく、むしろ、毒を持った生物たちにひどく心当たりがあった。「まさか、な」
     毒虫を逃しては虫取り網片手に学園や裏山を駆け回っている友人の姿を思い浮かべ、肩を竦める。毎日のように脱走騒ぎを起こしていると言えど、もう日の暮れ始めだ。普段であればとうに虫たちを回収し終えている時刻。つまり、ここにいる蛇か、何某かの生き物は野生の生き物である可能性が高い。
     向こうが通り過ぎるのを待った方が良いだろうと、藪の向こうを茫と眺めやる。汗水を垂らして学園を駆け回る友人の苦労話を思い出し、どうか見知らぬ物であれと願う。枝を掻き分けて進む小さな足音は近付き、やがて、見慣れた青黒い皮膚が姿を見せる。数にして二匹。久々知はもう一度、級友の無造作な頭を思い浮かべた。

    「八左ヱ門」
     日が暮れ、星が空に瞬き始める頃。夕食に遅れた生徒たちが幾人か残る食堂へ顔を出し、よく見知った顔を見かけ声をかけた。昼食と異なり学年でそれぞれ用意されているからだろう。昼よりも雑然とした香りが鼻腔へ流れ、今日も終わりかという思考がはしる。
    「兵助。お前も今から飯か?」
    「いいや、もう食べたよ」久々知は竹谷の正面に立ち、殆ど空になった丼を見下ろした。もう少し遅れていれば、彼とはまたすれ違いになっていただろう。ついていたと、安堵の息を気付かれないように漏らす。
    「じゃあ、なんだって食堂に?」
    「八左ヱ門を探してて。委員会があれば、この時間だろうから」
    「俺を?」竹谷が残りの米を口へ放りながら首を傾げた。「何か用でもあったっけか」
    「大したことじゃないかもしれないけど、今日、煙硝蔵の裏手にある林で大山兄弟を見かけたから」
    「……大山兄弟?」
    「うん、多分……俺には毒トカゲの個体を正しく見分けることは難しいけど」曖昧な口調で久々知が言う。「何となく見覚えがあったし、二匹揃っていたから、そうかなって」
    「ああ、うん。そうかあ……ありがとうな」
     竹谷は口に入れた物を飲み下し、それから小さく笑みを作った。側に置かれた湯呑みを手に取り、指先を温めるように握る。
    「戻ってきちゃったかぁ」
     自嘲を隠さずに呟かれた言葉が首を傾げさせた。肩にかかる黒髪を揺らしながら、久々知は正面の席に腰を下ろすと机に掌を乗せた。「戻ってきたって?」
    「……大したことじゃないんだ」
    「大したことだろう。毒虫にその辺を彷徨かれているのは」
    「別に、俺たちが何もしなけりゃ平気だ」
    「お前にしてはひどく無責任な言い草だな」
     久々知が僅かに身を乗り出す。空になった器を横へやりながら、竹谷は顔の前に掌を向けた。「怒るなって」
    「怒ってはないよ、ただ、意外だったから」向けられた掌には土がこびり付いた様子はない。「どうしてか尋ねても?」
    「……星が、落ちるだろう?」
     信じているのか。口をついて出ようとした言葉を飲み込み、久々知は傾げていた首を真っ直ぐに伸ばした。彼の様子を気にした素振りもなく、竹谷は指先で湯呑みの表面をなぞりながら話を続けた。
    「生物委員会の動物は、中にはここで生まれた奴もいるけど、元はと言えば何処からか拾ってきた奴らなんだよ。だから、もし本当に星が落ちてしまうのなら、故郷に戻してやるべきだと……下級生たちがな」
     寄せられた眉根を指で押しながら竹谷が溜息を落とす。その様子を眺めるばかりの久々知が口を開くよりも早く「いや、言い訳だよな」と竹谷が吐き出した。
    「俺もそうだと思ったから先生に掛け合ったんだ」
    「皆に世話をされて、虫や生き物たちは十分に幸せなんじゃないかと思うけれど」久々知は人の減った食堂を漠然と見渡した。後ろめたい話なのではないが、人に聞かれて快い話でもないと思ったからだった。「それじゃあ駄目なのか」
     竹谷は小さく笑い、机に肘をついた。「兵助はさ、この数日間で学園を去った生徒の数を知ってるか」
    「……聞いたこともない」
    「上級者にゃ殆どいない……二、三年が多いらしい。もう十数人、帰ったそうだ。おかしな星の噂は思ったりよも広まっているみたいで、郷里の者が呼び戻しに来るのだと」
    「辞めたのか?」
     久々知の言葉に、竹谷の首が横へ振られる。その動きにつられるように視線を動かしながら、食堂の中を見やる。下級生は既に食事を終えているのか、制服姿は見当たらない。僅かに点在する色は紫や藍ばかりだった。深緑を纏う者たちの影が少ないのは、とうに自主練に出ているせいか。どちらにせよ、生徒の数が減っているという体感は得られない。竹谷は揺れた前髪を直す事なく、休暇という形にしているらしいと続けた。
    「結局、誰だって大切な者と、場所と、最後を過ごしたいんだ」
    「生物も、人と同じでそうだと?」
    「人が虫や獣と同じなんだよ。猫は死の直前に家を出ると言うだろう。獣たちは皆、誰と、何処で生の終を迎えるべきか分かるんだ。だから、人もそれを真似ようと家族や、特別な者の側に寄ったり、反対に離れようとしたりする。学園を去る者が多いのはその流れだ」
    「みんな、獣を真似ている?」
    「俺たちだって、生きていることには変わりがない。本質的には獣も虫も人であるし、人もまた獣や虫だよ」竹谷が言った。机に乗せた肘へ体重を預け、身を乗り出す。真正面に座る久々知の顔に己の顔を寄せ、秘密事を告げ合う子供のように神妙な具合で眉を真っ直ぐに戻した。
    「お前は?」
    「え、」言葉にならない相槌だけを返し、久々知は竹谷の顔を見返した。
    「俺は故郷の分からない奴らと、それから戻って来た大山兄弟たちと星を待つ。それが最後まで面倒を見るってことだと思うから」
     お前は、と竹谷が繰り返した。久々知は自ずと瞬きを落とし、曖昧に唇を動かした。
    「俺は、多分、八左ヱ門より強くない。だから俺の願いのために何かを手放したり、掴み取ったりはとてもできないと思うんだ」
    「でも、最後だ。お前たちはいつもいつも難しいことばかり考えているけど、」
    「お前たち?」久々知が竹谷の言葉を遮った。誰の言葉も最後まで聞いた上で会話を交わそうとする彼には珍しいことで、言葉を吐き出したと自覚すると、すぐに口を掌で覆い隠した。「えっと、ごめん。でも今お前たちって言った?」
    「気にすんな。勘右衛門なんていつだって相手の会話に潜り込んでは器用に主導権奪い取ってるんだし」
     竹谷は湯気の立たなくなった湯呑みを弾き、底に残る水面を徒に揺らす。そのまま久々知の顔を見上げ、明瞭な笑みを作って見せた。友人を心配させないようにという配慮だろう。この笑みを目の当たりにする度、これこそが男の美点だと感じさせられる。
    「俺たちが気付かないわけないだろう? 仲間だし、誰より互いの事を気にかけてる。喧嘩だってするけど、それはそれだ」
    「随分確信めいた言い方をするな」
    「別に関係を名付けることが全てだとは思わんし、お前たちが望む関係がどういうものかなんて俺には分からないけどさ」竹谷は唇を読ませるように大きく口を動かした。反して、声は微か。「何にせよ、二人がいつも互いの感情を見せないように霧に隠れていることは分かるからさ」
    「何だよ、それ」久々知が小指で机を一度叩いた。
    「もう何もかも終わるんだって思えば怖くないだろう。お互いにお互いがどう思ってるのかを、一度ぶちまけちまえばいい」
     何がおかしいのか。自分の放った言葉に吹き出しながら竹谷は音を立てて椅子を引いた。「朝まで語りゃ何か分かるだろうさ」
    「三郎も勘右衛門と似て話せば話すほど自分を隠したがる」
    「……なら話さずにずっといるのでもいい。その内耐えられなくなって、向こうが話し出すさ」
    「そういうもの?」
    「あいつはかなり、寂しがり屋のお喋りだ」
    「……ろ組はやっぱり三郎をよく知っているんだね」
    「知っているだけ。あいつの深いところを理解なんてできない。だから俺はそらを知らないフリで肩を叩くし、雷蔵は分かったフリで許すんだ。そのどっちも俺たちにしかできない事だと思っているし、そうとなりゃ、あいつを理解してやるのも兵助にしかできないことだと思わないか」
    「竹谷って、時々良いこと言うよなあ」久々知は大きな目を見開き、それから二度瞬きを落とした。「それぞれが特別か」
    「別に良いことを言おうとしたわけじゃないけどな」
     声を元の調子へ戻しながら、竹谷は立ち上がった。つられて腰を上げながらすっかり誰もいなくなった食堂を見渡せば、幾分も話し込んでいたことに気が付く。窓の向こうから時折人の気配が近付いては去っていった。鍛錬に出ている生徒の誰かだろう。溜め置かれた水で皿を流しながら、竹谷が「俺は長屋へ戻るけど」と言った。久々知は汚れを落とした水流が作りだした小さな渦を見つめながら、ただ頷きだけを返した。鍛錬に出るには夜遅く、わざわざ手を付けなければならない課題もない。一日よく晴れた空は宙を乾かし、星明かりを滲ませることなく輝かせている。
     無為に星を見上げるにはうってつけの夜だ。
     あの青白い星はどれほど近付いたのだろうか。星を見つけた日から常に脳の片隅に響き続ける問いかけを聞く。あの星を見上げよう。久々知は心の内に呟き、竹谷に向けて「俺は、まだ」とだけ言った。彼は片手に皿を握ったままでそうかと返す。
     他に何を言われる事もなく、久々知は食堂の裏手口から外へ足を踏み出した。春も過ぎ行く最中であれど、夜風は芯に冷えを潜めて肌を撫でる。背骨を駆け上がった震えに髪を揺らす。視線は空へ。星の測定器は長屋の部屋に置いたままで、今すぐ覗くことはできない。それでも白い光が、月の代わりに瞬いている姿だけは見える。
     彼もきっと、同じ星を見ているのだろう。

    ***

    「話したい事がある」
     できれば、今夜。そう続けられた言葉に鉢屋は頷きかけた首を不自然に止めた。放課後の廊下に人は少なく、ただ春の温かな空気だけが微睡むように揺蕩っている。窓の外から差し込む光の中で、目には映らない埃の反射が時折踊るように舞い上がった。
    「今夜?」
    「都合が悪いならまた別の日でも良いのだけど」
    「ああいや、そういうわけじゃない。時間はあるのだけど、その」
    「急な話で驚いた?」
    「私の方から声をかけるつもりだったから」
     今度は久々知が目を見開き、睫毛で下の瞼を叩いた。「じゃあ、都合は良い?」「当然」鉢屋は少し悔しそうな素振りで唇を歪めて答える。面を被っていながら感情の色を伝えるには如何に顔の筋を動かせば良いのか。それを知っている者だけが行える的確な動き。しかし、顔の動かし方は知っていようと、なぜそのような動きをしようとしたのかについては分からなかった。久しく見ていない己の顔を見る事よりも、思考を覗く方が難しい。
    「ならよかった」久々知が息を吐きながら言った。安堵を隠さない相手の仕草に、鉢屋は歪めていた唇を今度は三日月型に曲げて見せた。あからさまな笑顔を見せる鉢屋に、久々知の眉が顰められる。怒ってはいないが怒るポーズを作りたい時に、彼が取り繕う顔。表情だけでは心許ないと思ったのだろう。久々知は少しの乱れもない声色で「何かおかしい事を言った?」と尋ねた。
    「いいや、別に」鉢屋が答える。「ただ、今日は兵助と話が出来るような予感があっただけだ」
    「話しかける気だったのに、それはおかしい」
    「話したい事って?」話の流れの角度を変える。二つの経路を目前にして、曲がり角を行きたくなる気分。そういった感覚に似ていた。久々知は顰めた眉を戻してから顎に手を当て、やがて小さく微笑みを浮かべる。
    「お楽しみ」
     彼が言う。鉢屋は己の微笑みが真に心のこもった物へ変わる力を感じた。

     見知らぬ星が現れてから一週間も経てば、子らは次第に噂に飽き、昼に空を見上げる事をやめた。市井の者たちは、時折、星を眺めやりながらも元の通りに生活を戻し始めた。ただ変わらないものは星の輝きばかり。未だ燦然と力を放つ赤は昼間にもはっきりと輪郭を窺わせ、太陽など知らぬ顔で天に居座り続けている。夜になれば尚のこと、その青白い星は点滅を繰り返しながら暗闇を照らす。騒動が騒動らしい振る舞いを見せている間に一度だけ学園を訪れた某人の息子である青年は、父と兄弟分のような教師に「夜が明るくて仕事にならない」とぼやいたそうだった。それが真に夜の事であるのか、各地で戦を取りやめる動きが出ている事についてなのかは分からない。
     藍色をした夜空と山の境を見据えながら、鉢屋は煙硝蔵の壁に背を預けていた。土で塗られた壁は空気に潜む湿り気を吸い取り、滑らかな冷えを背骨へ伝える。風のない夜にはその冷たさが却って心地良い。夜の空気で肺を満たすように大きく息を吸う。古い息を吐き出し、もう一度。全身を血液が巡る流れを感じた。
     生きている。
     皮膚の下に張り巡らされた川は己の意思とは関係なく流れ続ける。それが生きているということか。若しくは、それを確認できる事自体が、生きているということなのか。
     深呼吸に合わせて自ずと細まる視界の先に見慣れた頭が映り込む。鉢屋は障子を閉めるように思考を遮ると、壁から背を離した。
     蔵の表から現れた男は煙硝蔵の手前、表口の見える地点で足を止めた。
    「遅かった」久々知が言った。
    「表から来るとは思わなかった」鉢屋は答えながら男の方へ歩き寄った。頸を掠める茫洋とした空気の生暖かさに、却って、肌を粟立たせる。
    「そちらを通っていれば三郎より早く着けたかもしれないな」
    「惜しいな。私も到着してからさほど待ってはない」
     久々知が小さく笑う。冗談が通じたのだろう。互いの正面に立ち、そのまま、暫く表情を見据え合う。二人の間に流れる静寂を断ち切るように、久々知が口を開き、大きく息を吸った。胸にかかった黒髪が、肺の膨らみに合わせて微かに揺れた。
    「良い夜だな」指を徒らに毛先へ触れさせる。「風がない」
    「月も細いし、忍務にはうってつけの夜だ。文句のつけようがない」
    「でも、星は明るい」
     久々知が天へ人差し指の爪を向けた。常より小さな鉄槌を握り込むために、指の付け根には歪な蛸が居座っている。いつの間にか見慣れた一点が、他でもない彼を示すもののようで、鉢屋は星へ目をやらずにその痼を見つめた。
    「……随分近くに迫ったな」星を見ないまま、彼は言った。毎晩いやというほど見ている星の姿など、今一度確認する必要はない。「一年生の作ったおもちゃがむだになってしまうほどに」
    「それでもこれを覗き込むと、不思議なほど星の姿がはっきりと見えるんだ」そう言いながら脇に下げていた片手を持ち上げる。空いているとばかり思っていた左手が木と竹からできた測量器具を握っていると初めて気が付き、それから、曖昧に頷いた。久々知が木の棒を胸に当てる。底が隙間なく付けられるように、慎重な手付き。「ここが雑だと、角度が変わってしまう」彼は誰に言うでもなく、呟いた。鉢屋は言葉を返さなかった。
     胸に当てた棒を辿るように視線を上げ、竹の輪が星の中央へ位置するように少し踵の角度を変える。「ほら、」空を指していた右手の指が鉢屋を手招いた。「こっち」
     向き合った場所から歩き出す。黒い髪の波打つ背中の方へ回り、肩の上に両腕を添える。鼻先が耳の淵を掠めた拍子に、両肩が小さく跳ねた。自ずと息が止まる。息苦しさの中で彼の視線を辿り、空を見上げる。
     星。
     青白い、薄く縞模様を引いた星が一つ。
     他の星は当然に霞み、夜空さえも星影に覆われ見ることは叶わない。
    「……ああ、確かに」鉢屋は肺に残る息を全て吐き出した。「夜が見えない」
     耳の先にかかる吐息が少年の産毛を揺らす。身動いだ肩の曲線が掌から骨へと伝い、首の裏が俄かに騒めきを起こす。自ずと踵が一足下がり、二人の間に僅かな隙を生んだ。竹の輪から外れた視界でもう一度見上げた先には、一際大きな星が瞬くばかりだ。それでも辺りには夜は茫洋と漂いながら、確かに存在を証明するように藍を流し込んでいる。それでも、幾らか星の距離が縮められたと感じるのは錯覚か。
    「ね? はっきり見えるだろう」久々知が器具を地面に置きながら言った。「きっと、もうすぐだ」
     何が、と聞き返そうとした唇の裏を噛む。何を指す言葉であるかも分からないほど愚かではない。一方で代わりに言うべき事をすぐに見つけられず、久々知の鼻先をただ見据えた。久々知は二、三心臓が脈打つ間宙へ視線を彷徨わせ、鉢屋の黒目と己の黒目を重ね合わせた。
    「ずっと、考えていたんだ。俺はどうすれば良いのかなって」
    「私も、考えていた」鉢屋はそれだけを返した。舌が軋み、たった一言でさえ、発するためには力を要する。地に突き立てた二本の足が真っ直ぐに伸びているのか自信がなくなり、一度己の足へ視線を逸らす。「どうしたいのか、と」
     顔を上げる。春は藍の色も薄く、どこか鮮やかな色合いをした夜空よりも深い黒を持つ久々知の髪が夜を切り取るように浮かんでいる。鉢屋はその輪郭をなぞり、やがて、同じだけ黒い双眸の奥へ視線を覗き込んだ。人体の最も深く、暗い部分。その暗闇が俄かに瞳の中へ咲き始める。笑っているのだろう。言葉はない。顔の全てを見る事も出来ず、ただ瞳の中へ視線を注ぐ。
     その後ろに、ある指が届きそうなほどに近付いた光を見た。
     星は確かに近付いている。
     恐ろしさは感じない。
    「兵助と共にいたい」
    「……俺が言おうと思っていたのに」久々知が口の先を尖らせた。「三郎は、ずるい」
    「本当は、特別なことを言う必要なんてないと思っていたんだ。世界が終わるなんて信じられないし、兵助も何となく、私を知ってくれていると思っていたから」
    「じゃあ、どうして?」
    「特別なんかじゃないから。兵助と共にいたいのも、兵助に私を知ってもらいたいのも……私が兵助を知りたいのも。ずっと側にあって、ずっと抱えてきたものだ」
    「言葉になんてしなくていいと、思っていた?」久々知が断定的な口ぶりの中で、形だけ語尾に疑問符を添える。「つまり、俺たちはそれで分かり合えると思っていたのかって事なんだけど」
    「分かり合う必要なんてないと思っていたんだよ。雷蔵も、八左ヱ門も、勘右衛門も、互いに互いの心底を理解し合わなくても支え合える。だから兵助とだって同じだと思おうとしていた」
    「俺は、お前にだけはいつだって負けたくなかった」
    「私もそうだよ」
    「三郎は誰とも競わないだろう。お前の中で優劣を付けるべきは過去の自分であって、他者じゃない」
    「……つくづく、兵助は私をよく知っているんだな」
    「知らない。俺も同じだってだけ……つまりはそういうことだろう?」久々知が言葉を区切り、それから一歩前へと足を出した。「分かり合えるとか、分かり合えなくても良いとか、多分そういうんじゃないよ。俺たちは」
    「辿り着く結論が近くても、道筋は違う」
     鉢屋が一足近付いた。囁き声でも十分な距離。互いに表情の全容を窺うことは出来ず、代わりに、額から滲む熱を感じる事はできる。「だから、」
     呟きかけた言葉が不意に途切れる。
     振動。
     内臓の底に低い震えが響き渡る。地面はおろか、大気そのものが揺さぶられていると気が付くまでに数秒を要する。それから相手の耳越しに空を見上げた。
    「空が、」
     どちらともなく息を漏らす。
     夕焼けと見紛うほどに見事な。
     炎。
     或いは、ただ純粋な赤か。
     空の色合いに息をのみ、遅れて、先の振動は星が大地までもを揺らした響きだと知る。
     星は人の思考など待つ事はなく。赤を飲み込むように天上から白い光を広げ始めた。
     風が吹き荒ぶ。木々が騒めき、まだ新しい葉をたちまちに落としていく。砂が舞い上がり、目を開けてはいられないほどの衝撃がようやく地に届く。何処からか「屋根が飛んだ」という叫びが響く。
    「星だ」
     久々知が呟いた。瞼を閉ざしながらも、視界は異様なほどに明るく。白い光に埋められている。声を頼りに彼が側にある事を知り、鉢屋は場にそぐわない優しい仕草で息を吐いた。
    「まさか、今夜落ちるなんて」
    「天の動きなど、誰も知りはしないけれど」鉢屋は手探りに久々知の掌を握った。寒さの弱い夜であったからか、滑らかな肌が暖かい血潮の巡りを神経へ伝える。
     生きている。
     その事が、奇妙なほどに、喜ばしい。握った手の向こう側も同じだろうかと考える。
    「兵助、」鉢屋は笑った。「やっぱり、今まで逃げ続けていたのに、最後ばかり上手くやろうとするのはダメみたいだ」
     絶えず渦を巻き続ける大気の中で、声が届いているのかも分からない。それでも繋がれた掌を一度強く握り返され、鉢屋は言葉を続ける。
    「次はもっと、私の思いを兵助に伝える……結果として繋がれる手ではなく、同じ道筋を辿って手を繋ぎたい」
     次があるはずもない。心の中でひとりごちながら、それでも、奇妙なほどに満ちた確信が言葉を紡がせた。
    「俺は、三郎と星の落ちる姿が見たかったんだ」久々知の声が耳元で囁かれる。「でも三郎は優しいから。俺がそう言えば断らないだろう?」
     だから言いたくなかった。耳に触れた唇の動きで、彼が口の先を尖らせている事を示す。
    「でも、言うべきだったのかもしれない。俺も、お前も。踏み込むことを恐れすぎた……或いは憂鬱になりすぎた」
     久々知が息を止める。その瞬間に、瞼に焼き付いた光が勢いを増す。
     閃光。
     視界はおろか、聴覚さえ眩ませるほどの眩い熱。身を通る全ての神経が焼き尽くされたという錯覚。明瞭なものは思考だけで、空白の中で却って鮮明な色を持つ。
     不意に頬が、崩れる大気とは異なる、柔らかな風を受ける。
    「   」
     伝えられようとした言葉はもはや形を成すことはなく、耳にも届かない。
     無音。
     視界が白く染まる。己の思考以外に何者も存在しない。完全な静寂。次の瞬間、何もかもが光の渦に消える。
     後には、何も残らない。

    ***

     木の下で目を覚ました。桜の花びらが丁度鼻の筋を掠め、春の香りを運ぶ。甘い蜜に土と埃が混ざる、淡く生き生きとした気配。どこからともなく響き渡る虫の羽音は蜜蜂のものだろう。忙しなく羽を震わせては音を立てる素振りに下級生たちの姿を思い出し、鉢屋は背を起こした。
    「あ、やっと起きた」
     日の光に目を眩ませるよりも早く、人の形をした影が頭上を覆う。視界を取り戻そうと瞬きを繰り返し、ぼやけた境界を明瞭な輪郭へと変える。黒髪の曲線を一度目でなぞりながら、鉢屋は乾いた舌を緩慢な仕草で動かした。
    「兵助、」
    「こんなところで寝ていたら、風邪をひくよ」
    「春先の風が心地良いから、つい、な」
    「つい、じゃあない。外で昼寝をして風邪をひいたなんて、情けないだろう」
    「今更、私の振る舞いに何か言う者がいるとは思えないけれど」
    「開き直るな。新学期早々、風邪をひくのは、さすがに格好が悪い」
     久々知の落とした言葉に、鉢屋は瞬きを二度繰り返した。「新学期?」
    「忘れたの?」久々知はまさかと言いながら掌を差し出した。「今日から新学期だろう」
     眼前に伸ばされた手に己の掌を重ねれば、見かけよりも力強い腕が身体を引き上げる。急な勢いで立ち上がったからだろう。停滞していた血が盛んに巡り始め、微かな眩暈を覚えさせる。久々知の手が離れた瞬間に吹いた風がいやに冷たく、背筋が俄かに震えた。
    「夢を見ていたような気がする」茫洋とした思考をまとめることなく言葉を置く。「大切な、何かが終わる夢」
    「大切な?」
     首を傾げた拍子に、黒髪が一筋肩から流れ落ちた。見慣れた仕草だと思う。五年も共に過ごしていれば当然かもしれないが、しかし、髪の長さや顔付きまでも変わらない仕草を長い間見ていると感じるのはどこか奇妙な風合いを胃の腑へ滲ませる。頭がまだぼやけているのかと顳顬を指で押しながら、鉢屋は目を眇めた。
    「終わりが目前になって、自分の間抜けさを知る夢だったかもしれない」溜息を混ぜながら言う。
    「よく、分からないけれど、」久々知は首を傾げたまま、言葉を選ぶように唇をゆっくりと動かした。「何かが終わるって事はさ、新しい事が始まるって事じゃないか?」
     夢占いのつもりなのだろう。凶夢とは限らないと言いながら笑う顔はいつもと変わらない明るさを湛えている。
    「新しい事、か」
    「丁度、新しい季節の始まりだ」
     鉢屋は言葉を返さずに、ただ頷くだけで目を逸らした。春の空は青く、透き通るように色素が薄い。その上に雲広がる雲が、さらに色合いを曖昧にする。霞のように空を覆う雲の切れ目に茫と光る星を見つけ、鉢屋は意味もなくその星を仰ぎ見た。
     次は、言葉に出来るだろうか。不意に沸き起こる思考が、脳の片隅に渦を作る。大切なものを取りこぼさないように。出来ることは何か。自ずと思考が溢れ落ちながら、しかし、ずっと前に決めた事のように心に馴染む。重みはなく、春風のように軽やか。鉢屋は首を正面へ戻し、久々知の方を向いた。
    「今度の休み、出掛けないか」鉢屋が真面目な顔付きで言う。「町外れに、庭の綺麗な茶屋があるんだ」
     まずは一つずつ。二人の言葉を重ねていくべきだ。伝えるべき言葉は、その先にある。
    「兵助と行きたいと、ずっと思っていた」
     ずっと。
     ずっととは、いつからか。もう何度も同じ事を言えずに終えた春があったのではないか。不意に沸き起こる疑問につられた笑みが身体を軽くする。鉢屋は笑ったまま一度離れた掌を差し出した。久々知は頬に笑みを刻みながら、掌を重ねた。繋げられた指から、熱の巡る音がうち響く。確かな温もりに、どちらからともなく指を絡め取る。
     天上では青い星が、遠く瞬いていた。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/10 23:45:35

    春に終焉

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2020年10月24日

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