第二話 *About our break up.
しばらく車のエンジン音だけが車内に響いていた。
ときどき、ぽつぽつと会話はあったが、覚えておくほど強烈な会話でもない。「本当に雨すごいね」とか「さすがに今日は利用者少なかったね。そっちもお客さんあんまりいなかったんじゃない?」とか、そういう類のものばかりだ。
私はアルミンが敢えてそういう当たり障りのないことをくり返しているのだと気づいていた。何か言いたいことがあるのか知らないが、それに触れようとしないのはなんだかもどかしい感じで、苛立ちのような緊張感のような、そういう難しい感情がこの身を埋め尽くす。
私もわざとずっと窓のほうを向いていたので、外との気温差を物語るように窓が曇ったり霞んだりするのを、鈍感なふりをして眺めていた。
「もうすぐ言っていたスーパーだけど、ここからどこに行けばいい?」
乗ったときにとりあえずの目的地の方向を伝えていた私に、アルミンがようやく〝当たり障りのない話題〟以外の問いを投げかけた。
ハッと我に戻された私は姿勢を正し前を見ると、本当にお願いしたスーパーが目前に見えていた。
「……えと、その横道を入って右に曲がったところに、アパートの入り口がある」
「オッケー」
カタカタ、と静かな音を立てて車は方向をまた定めた。
……運転免許は取ったほうが楽だといろんな人に言われるが、私にはどうしてもそれに見合う金額とは思えなくて、ずっと自転車を使っている。……けれど、助手席に座って、この横顔を見るのは悪くないなと思った。……髪型は違えど、横顔はあまり変わっていない、とても懐かしい気持ちを呼び起こされていた。
アルミンや私自身の部屋で、隣り合わせに座っていたことなんてそんなに少なくもなくて、特に本を読むことに集中しているアルミンの横顔は好きだった。――今の顔は、何やらもっと軽いというか、〝のめり込んでる感じ〟がしないので、何か物足りないような気もするけど。
「……あのさ、アニ」
「えっ、あ、なに」
車がアパートの駐車場に入っていくところだった。
思い切ったような声のかけ方をされて、私はアルミンがずっと何かを言いたそうだったことを思い出した。
こうして私のアパートに着くのを待っていたのかと思うと、もしかしたら気まずいことを言われるのかもしれない。
いや、むしろ車を停めないと言えないことを言う――あるいは、できないことをする――つもりだったのか。
ドキッとまた変な風に心臓が脈を打った。
どうしよう、もし今、手を握られたりしたら。本当はずっと忘れられなかったと返事を乞われたら。
「……あ、いや……、……あ、着いたよ」
「……え? あ、うん」
しかしアルミンは怖気づいたのか、ふぅ、と小さく息を吐き出してそう報告しただけだった。
とんでもなく拍子抜けした私は、それでもまだ今の余韻で心臓がばくばく言っていることに気づいている。とてもうるさくて……、アルミンがその言おうとしていたことをやめてしまったことが、なんとなく残念にすら思っている節がある。
……私は、期待していたのか?
不意に自問が浮かぶ。
わからない。決して心地のいい時間ではなかったのに、この時間が終わってしまうことが惜しく感じていた。――そう、終わってほしくない。……終わってほしくない? この気まずい時間が? ……私は、なんなんだ?
アパートの玄関前で車をアイドリング状態に変えたアルミンは、私が降車するのを待っているようだった。私を見ないようにしているのはすぐに理解して、反対に私はそれに見入ってしまった。
――その表情は、いったい何なのか。アルミンは何を言おうとした……? 今、何を考えている?
ドクドクと鼓動はうるさいままだ。
あ、いや。私は大切なことを思い出した。そうだ、アルミンには彼女がいる。……そう、だから、もしここで私に手を出すようなことをしたら、『不潔だ』『最低だ』と罵ってやる。
「――……うち、寄ってく?」
「……え?」
私は自分でギョッとした。自分が何を口走ったのか理解したとき、大きな空気の塊が肺になだれ込んできた。自分で自分の言ったことに混乱した。だってこんな、何の脈略もなく……、
「え、あ、えっと、」
当たり前だがアルミンだって戸惑っている。まさか私がそんなことを言うなんて思ってもいなかったからだ。
私だって自分がそんなことを言うなんて――『この時間が終わってほしくない』――脳内にまた、誰か別の人が語りかけているような声がした。先ほど『送って』とお願いしたときも、私の〝思考〟は介入できていなかった気がする。……これが私の本心なのだろうか、とにかく私の衝動はもう少し押せと促していた。この時間を、あと少しだけ。あと、少しだけ。
「そ、そういうんじゃないからさ。お、お礼したいし……こ、ココアくらいしか……ないけど……」
私はなんて愚かなのだろう。あと先考えずにまた勧誘を重ねていた。
アルミンの瞳がぱちくりと瞬く。その仕草がやはり懐かしくて、思わず笑いそうになってしまった。……なんとか目を逸らして堪えたけど。
アルミンはキョロキョロと駐車している場所を気にしてから、またぴたりと私の視線を捉えた。
「えと、じゃ、じゃあ……お邪魔、しちゃおうかな……」
複雑そうに笑っていたけど、私はその返答に安堵のような、けれどさらなる緊張感が上乗せされるような、なんとも不慣れな感情の動きを経験した。
ともあれ私はそれから、とりあえずと部屋番号だけを教えて先に車から降りる。来客用の駐車スペースに車を停めてもらう間、一足先に自宅へ戻っておくことにしたからだ。
そうして、玄関を開け放って初めて思い出す。
――こんな散らかり方をしている家に人は呼べません――!
たらりと冷や汗が流れる。……しまった。洗濯物もあちこちに出しっぱなしで、物もあちらこちらに散乱している部屋を見渡す。誘ってしまった手前、『やっぱり部屋が汚いから帰って』なんて言えるはずもない。ならばせめて、アルミンを通すリビング兼寝室だけでもなんとかしなければ。
私は大慌てでリビングの中を走り回った。階下の方ごめん、と思いながら、自分の普段のずぼらさを恨む。
アルミンが自宅のチャイムを鳴らすまでのほんの短い間に、そんなにたくさんのことはできなかった。とりあえず目についた洗濯物を拾って、放置されていたお弁当やお菓子、もろもろのゴミをまとめた。ギターの弦を張り替えたときに使いっぱなしにしていた工具を拾い集め、テーブルの上に出しっぱなしにしていた化粧道具をすべてケースに戻した。それから飲みっぱなしだったグラスをキッチンへ退避させる。『~しっぱなし』が多すぎて自分に苛ついたくらいだ。とにかく、それからそれから、と部屋の中を見回したところで、ジリリリ、と玄関の呼び出しチャイムが鳴った。
あとはここだけ……!
「ご、ごめん! ちょっとだけ待って!」
私は声をかけながら自分のベッドに飛びついた。この物件はキッチンはカウンターの向こうで、お手洗いと風呂場はもちろん別だけど、あとは少し大きめのワンルームになっている。すなわち、否が応でもベッドは目につく位置にある。ぐちゃぐちゃだった掛け布団を整え、枕を頭の位置に合わせた。
「お、お待たせ」
きっと外で寒がっているであろうアルミンに申し訳ないと思いながら、私は廊下を進んだ。大急ぎで玄関を開けると、何とも言えないきょとんとした顔でアルミンはそこに立っている。……何かよくわからないが拍子抜けしてしまった。
それからアルミンを招き入れて奥の部屋に誘導しつつ、自分はキッチンに入る。カウンター越しにアルミンが部屋の中を見回しながら、上着を脱いでいる様子を盗み見て、その手元では牛乳を鍋に注いでいた。
「あ、もしかして、まだ音楽やってるの?」
部屋の隅に立てかけてあった数本のギターが目に留まったらしく、アルミンは少し嬉しそうに私に尋ねた。
「あ、うん」
「へえ、かっこいい」
テーブルのそばに本人の上着をなんとなく丸めて置いたかと思うと、ふらふらとそのギターの側まで寄って眺め始めた。
「別に。みんなやりたい音楽やってるだけだからそんな人気ってわけでもないし」
「いや! 高校のときから同じこと続けてるってすごいことだよ!」
なぜそんなに嬉しそうなのかわからないが、アルミンはそうやって私に笑いかけた。
――それもいつかの顔つきによく似ていて、うっと何かが私の中に込み上げる。……だからだ、私は急いでアルミンから視線を放して、手元の牛乳を入れた鍋に落とした。私は余計なことは考えず、さっさとココアを作ればいい。
鍋の牛乳が沸騰しないように――アルミンを直視しないように――私は気をつけて鍋を観察した。
のそのそとアルミンの足音がカウンターのほうへ近寄っているのが聞こえる。いや、やけに響いて聞こえていた。カウンター越しに私の横顔が見える位置に来たアルミンは、そこで少しの間じっと何かを待っていた。……それは果たして私の視線だったのか、本人の気持ちの整理だったのか。
「……あのさ、アニ」
「ん?」
内心ではドキリ、と派手に脈を打っていたが、私は何も気にしていないふりをして返答した。
呼びかけたアルミンの声は思い切った様子だったし、そのあとの間も、なんとなくためらいを含んでいた。
車の中で妄想したことが一時意識の中に浮上したが、
「あの日から……ずっと気になってたことが、あって……」
……『あの日』?
アルミンの言葉に、考えていたことはすっからかんに吹き飛んでしまった。
しかしそれに代わり私の脳裏にを埋め尽くすように、するするとアルミンと過ごした日々が駆け巡る。アルミンが言う『あの日』とは、一体いつのことだろう。――そうして私の意識の中で駆けていく記憶は〝あの背中〟で止まった。……私が『帰らないで』と願いながら見送った背中だ……私が見た、アルミンの最後の背中だった。
「……う、うん」
あのとき、アルミンを少し強引な手口で振った私。そのときのことは、八年前と言えどそうそう忘れられるものでもなくて、きっちりと覚えている。あのときの感情や、理由も。……そうしてきっと、アルミンが聞きたいのはそのことだろうと、なんとなく答えにたどり着いてしまった。
なかなか次の言葉を続けないアルミンを、私はちらりと一瞥する。その視線でハッと小さく息を吸ったアルミンは、
「……や、やっぱり今はいいや。はは、ごめん」
誤魔化すように笑って、私に背中を向けた。そしてそのままテーブルの脇に腰を落とした。
……どうやら今ので〝何事もなかった〟ことにしたかったらしいとわかり、私はそれに乗ってやることにした。――いや、何を甘えたことを言っているのだろう。それを問い詰められれば分が悪いのは私のほうだ、だからアルミンの〝何事もなかった〟ふりに付き合うのは、おそらく自分のためだと薄々気づいてもいる。
あ、と声が漏れそうになった。少し沸騰してしまっていた鍋をじっと見つめていたことに気づき、慌ててコンロの火を止めた。
アルミンにまだ聞かれていないのであれば、まだ何もなかったも同じだ。私はばれないように深呼吸をして、マグカップを二つ調理台の上に置いた。そこに温かい牛乳を気をつけながら注いでいく。
「……ココア入るよ」
ココアパウダーをカップに入れて、しまった鍋に投入して溶かせばよかったと後から思い出した。ああもう、動揺しすぎだ。
私はめげずにココアのカップにティースプーンを突っ込み、静かにかき混ぜる。それを両手に持ってアルミンが座っているリビングのテーブルのほうへ向かった。
「はい、どうぞ」
「うん、ありがとう。いただきます!」
それを受け取りながら笑ってくれるアルミンを見て、本当はあのときのことが気になっているのかと意識にこびりついていた。
私もそのままアルミンの向かいに腰を下ろして、ほかに目のやり場がわからずココアを注いだマグカップを覗き込む。
……それもそうだろう、私はあのとき、アルミンに理由を何も言わなかった。――いや、言えなかった。だからアルミンは、あのときのことをずっと気にしていて、忘れられないでいたのかもしれない。……もしもアルミンがあの日に縛りつけられているとしたら、それは私のせいなのだなと実感が湧き、温かいはずのココアを持っているのに背筋が少し凍えたように錯覚した。
……いや、でもアルミンには今、飛び切り可愛い彼女がいて、だから『あの日に縛られている』なんていうのは、私の悲しい願望なだけかもしれない。別に縛られているわけではなく、ただ知りたいだけなのだろう。
「……その、こんなこと聞くの、失礼なのわかってるんだけどさ」
アルミンが唐突に沈黙を破った。それまで二人とも沈黙して、そして気まずい空気になっていたことを私が自覚したのはそのときだった。甘い匂いから顔を上げ、アルミンのほうを見ると、
「……君は、マルロといて、幸せ……なの?」
部屋の中に目を泳がせていたアルミンが、ゆっくりと私の表情へ視線を留めた。じわりじわりと心拍数が上がっていくのがわかる。ああ、そうだった、そういえば私はアルミンに嘘を吐いているんだったと思い出した。
「え、あ、うん。もちろんだよ。真面目だし誠実だし……いいやつだし」
私はもしかすると、とんでもなく嘘を吐くのが下手なのかもしれないと思った。散々目を泳がせてしまった挙句、最終的にまたココアに助けを求めるように覗き込んでしまった。
アルミンがその反応を訝しむかもしれないという焦りが追い打ちをかけ、
「……そ、そっ……か……」
「あんたは?」
「ん?」
「ルイーゼ。彼女といて幸せなんでしょ?」
畳みかけるように私は問い返していた。私に聞くのだから、自分が聞かれたっていいだろう。
決めつけたような尋ね方をしたのは、少しだけ後悔した。
遊園地で私の前を歩いていた二人の背中を思い出す。ルイーゼが強引に腕を組むように歩いていた――アルミンは少し遠慮しているような、今思えば照れていただけなのかもしれないが、それにしても、あのときは何か違和感を抱かせた二人。……いや、それすら私の思い違いかもしれない。なんて言ったって、二人はアルミンの退勤直後にでも会うような仲良しなのだ。
「まあ、そりゃもちろん。いい子だし……」
アルミンはそこでココアを一口流し込んだ。そのせいで表情がよく見えなかったが、ドッと何かが殴りかかってきたような心臓の痛みを感じた。視界が気持ちの分だけ暗くなったような気さえする。……なんだろう、私はアルミンのその返答にショックを受けているのか? 私は何を期待していたのだろう、よもや『本当はルイーゼとは上手くいってないんだ』とでも言ってほしかったのか。――わからない。私は自分がまったくわからない。……部屋に招いたのもそうだ、私は一体何を考えていたのだろう。
深くため息を落としてしまった。自分の情緒だというのに、わけがわからなすぎて投げやりな気持ちになってしまったからだ。
ココアの最後の一口を飲み干して、マグカップをテーブルの上に置いた。今度は気まずい沈黙の存在には気づいていて、それでも私は何を言えばいいのか思いつかない。帰ってほしいという気持ちもなくて、だから『飲み終わった?』とは聞きたくなくて、けれど引き留める言葉も違うような気がする。
「あの、僕……」
沈黙を破ってくれたのは、またしてもアルミンだった。
アルミンもココアを入れていたマグカップから手を放していたから、おそらくもう飲み干してしまったのだろう。ゆっくりとその両手を膝の上に持って行ったかと思うと、
「本当は君とこうして二人で話がしたかったんだ」
また思い切ったようにそう教えた。改まるように背筋を伸ばして、けれど私の顔を見るわけではない。
アルミンが私と二人で話したかったのは、〝あのとき〟のことが聞きたかったからなのだろうと見当がついていたので、私は「あ、うん……」と薄っぺらい反応しかできなかった。……それを切り出されるのかと身構えたのもあったかもしれない。
けれどアルミンは何かに気づいたようにバッと勢いよく顔を上げると、
「あ、いや、そんな変な意味じゃないよ! ほら、僕ちゃんと恋人いるし! だから安心して!」
私に必死にそう訴えてきた。
なんだろう、ビリ、と胸が痛むのを感じて、なんでわざわざ恋人がいることを強調するのと嫌気が差した。――ああ、そうか……やはり私の本心は――……、
「……ただ……君、変わらないね」
グッと視界に惹き込まれた。
アルミンがまた寂しそうに笑ったから、私は目が放せなくなった。……まただ、また、アルミンはこんな風に笑う。どうして、なんで。もっと楽しそうに笑ってよ。そう、あのときみたいに、もっと、無邪気に。
はあ、とまた一つ私の中で腑に落ちた。
「……あ、あんたは、めちゃくちゃ変わった」
未練なんかないと思っていたけど、本当は未練しかなかったのかもしれない。あのころのアルミンは私にとってすべてとまではいかなくても、大半の事柄を占めていた。アルミンを見ていると前向きになれることもあって、だから、私は……アルミンが〝アルミンであること〟が大好きだった。
きらり、と光が反射するように、いつも釘づけにされていたその笑顔が視界を過る。
「そうかな?」
今目の前にいるアルミンとは、やはりまったく違うような気がしている。それは髪型のせいだけではないはずだ。
「うん。図書館で声をかけられたとき、すぐにはあんただってわからなかったよ。……垢抜けたっていうか……その、〝男〟って感じ」
無邪気さは落ち着いた大人の物腰に変わっていて、それは必ずしも悪いことではないけれど……少し寂しい気もする。
「やだな。僕は高校のときも男だったのに」
アルミンが苦笑を漏らしたことで、私は自分の感情に深くもぐりすぎていたことを自覚した。アルミンにとっても私からこんなことを思われるのは余計なお世話だろう。気持ちを切り替えるようにわざと「まあ、可愛い顔した男だったね」と軽口を叩いてやった。
するとアルミンは、わざと私の注目を煽るように前のめりに身体を倒して、
「……今は、ちゃんと〝男〟?」
じっと私の眼を見つめた。
じりじりと焦がれるような眼差しに、私はまたしても視線を外せなくなる。息が詰まって、すべてが止まったように錯覚した。
切なく、何かを欲しているような、そんな煽情的な眼差しを私に向けるアルミン――私は身体の底からびりびりと震えるような、説明のできない甘い感覚を得ていた。
いや、これは間違っている。アルミンには彼女がいるはずで、そんな目を私に向けるのは不埒だ。わかっている。わかっているのに、ぐらぐらと眩暈すら感じるような、そんな強烈な視線から逃れられない。
「ねえ、アニ。」
呪文をかけるように、静かに私の名前を呼ぶ。
「僕はなんで……、」
どくどくと動悸がうるさいくらいにこだましている。
けれどアルミンのさらなる言葉を待ってその表情を眺めていると、パッと本人が視線を逸らした。その瞬間、まるで催眠術でも解けたようにハッと息を吸うことができて、
「あ、あぁ、ごめん。僕、もう帰るね。お邪魔しました。また図書館で」
そそくさと立ち上がったアルミンを、半ば愕然としながら目で追った。
「あ、うん。きょ、今日は、ありがと」
既に玄関のほうへ向けて歩き出したアルミンを追って、私も慌てて席を立つ。ここに呼んだそもそもの口実である〝お礼〟もしっかりと持ち直して、そうして玄関までアルミンを見送りに出る。
「うん。困ったときはお互いさまだよ」
靴を履いたアルミンが笑顔で振り返り、
「……その、ま、マルロに、よろしく」
言い慣れない言葉でも使うように、不自然にその笑顔を歪めた。……そのせいだ、そのせいで私もつられて顔を引きつらせてしまって、
「……うん。あんたも、ルイーゼ大事にしなよ」
何やら変な空気を作ってしまった。
それでもそれまで通り、そそくさとした仕草を崩さず、
「……うん。じゃあ、ね」
アルミンは慌てるように玄関を駆け出して行った。……何をそんなに急いていたのかわからないが、最後の数分のせいでまるで嵐が去ったような感覚に陥り、一気に身体から力が抜けた。思わず壁に寄りかかってしまったほどだ。
――『今は、ちゃんと〝男〟?』
投げかけられた問いよりも、寄越されていた眼差しを思い出してしまった。あっという間に顔から火でも噴き出したように熱が込み上げてくる。
……あんなの、普通ではない。彼女がいる男が、ほかの女に向けていい類の視線ではなかった。……そう思ったが、これもまた私の妄想だろうかと頭を抱えたくなる。そう、アルミンは二股をかけるような優柔不断でも軽率な男でもないはずだと思い出したから、疑うべきは私のほうなのではと思った。
……ああ、だめだ、私はもう、アルミンを冷静には見れていないかもしれない。この先も……もう、何もなかったようには、ふるまえないかもしれない。
*
次の日もこれまで通り、なるべくアルミンとは接触しないように努めた。
けれどことが起こったのは、もうすぐ退勤だという時間帯に、店の前のホールを資材を運んで歩いているときだった。大きな玄関の前でじっと立っている人影を見つけて、私は深く考えずにその人間を観察してしまったのだ。
私がその人間に見覚えがあると気づいたときと、その人間が私に気づいたときはほぼ同時で、目が合ったことに驚いている間に手を振られてしまった。――それはルイーゼだった。
……もしやアルミンのお迎えか? そんなことを勘ぐりながら私は引きつった笑顔で手を振り返して、急いで店に戻った。
アルミンももうすぐ退勤の時間なのだろう。こんなところまで迎えにくるとは、やはりアルミンとルイーゼはそうとうに仲のいいカップルなのだと思い知った。……こんな風に感じてしまうのはみっともないと思いながらも、げんなりする気持ちは拭えない。
それから後片づけや明日のための備品の補充をし終えるころには、すっかり退勤の時間になっていた。司書たちの退勤の時間はもうとっくに過ぎていたとは言え、それでも念には念をとアルミンを避けるために、私は長居せずに急いでロッカールームを出て施設の玄関へと向かう。元々この施設のロッカールームは極力使わないようにしていた。
もうさすがにそこにルイーゼはいないだろう、とぼんやりと考えながら図書館と喫茶店や資料室を隔てる大きなロビーを突っ切っていたとき、
「あ、アニだ。今帰り?」
ちょうど図書館の出口からアルミンが出てきて、私は予想外の声かけに思わず肩を震わせてしまった。
……というか、なんでこれまで通り、私を避けてくれないのか。そう不満に思ったのは、自分の尋常ではない心臓の鼓動が聞こえていたからだ。……昨日、雨が降っていたから互いに干渉しただけではないのか、その前のマルロの言いつけはどうなったのだ、と頭の中ではぐるぐると投げかけていたが、口ではそういうわけにもいかなかった。
「うん。あんたも? 珍しいね」
動揺なんてこれっぽっちもしていません、とわざとらしいくらいに澄ました顔をして、私の隣を歩き始めたアルミンをちらりと見やる。私が気にしていることは一つも気にならないのか、あっけらかんとした態度で会話を続けるばかりだった。
「今日は本の補修作業がちょっと重なっちゃって」
「……ふうん……」
「あ、アニ、あのさっ、」
アルミンが何かを切り出そうとしたときだった、
「アルミンさーん!」
玄関のほうから声が聞こえて二人して正面へ向くと、そこには大きく手を振りながら走ってくるルイーゼがいた。うわ、と思ってしまったことを許されたい。別に笑顔だったわけでもない彼女だが、なぜかいやに輝いて見えて思わずアルミンを盗み見てしまった。
「ルイーゼ!?」
だがその肝心のアルミンは目ン玉を落としそうなほどに驚いていて、私は何事かと首を傾げそうになってしまった。――あ、もしかして、私と歩いているところを見られたから焦っているのかと勘ぐっている横で、
「きちゃいました〜!」
なんて気の抜けたことを言っている。
「あ、アニさんこんにちは! 先ほどはどうも!」
「え、あ……、」
「いや、今日約束してなかったよね!?」
彼女の注意が私に向いたのはほんの一瞬で、返事すらできなかった。
すぐさま私から遠ざけるように、アルミンはルイーゼを誘導して距離を取った。その仕草を見たら、なんとなくひり、と胸の辺りが苦しくなったような気がしたが……それもほんの一瞬だった。
「そんなこと言ってる場合じゃないんです! 緊急事態で!」
何せ私が感傷に浸れるような状況ではないらしく、ルイーゼは一刻も早くアルミンと話したいような雰囲気だったからだ。
「わ、わかったから」
少し困ってすらいるようなアルミンが、ルイーゼの肩を固定するように握ったまま、
「あ、アニ、ちょっとごめんね、すぐ戻るから」
なんて呆けたことを言う。
――『すぐ戻る』ってなんだ。ギリ、と私の中で今度こそ明確な鋭い感情が走った。
「ううん。あんたたち付き合ってるんだから好きにしたらいい。私は帰るよ」
「あ、アニっ、ちょ、待って……っ」
わからない。わからないけど、何故だか信じられないくらいに苛ついてしまって、私はアルミンをそこに置き去りにするように歩き出していた。
――何がちょっと待って、だ。あんなに可愛い彼女がいる前で。
ぐつぐつと煮え立つ感情が治まらず、それに誘われるがままに力いっぱいに地面を踏みしめて歩いた。
私はとんでもなく苛立っていたが、青空の下に出るころには落胆で目頭が熱くなっていた。……わからない、私はなんでこんなに感情を揺さぶられている。いや、なんでかなんてわかっているけど……それにしても、だ。――私はなんて馬鹿なのだろう。
自転車の鍵を開錠しているときにぽとりと落ちた水滴は、自分への情けなさからくるものだ。そう自分に言い聞かせた。
だってこんなの情けないではないか。……元を正せばあのときアルミンを振ったのは私で、しかももう何年もアルミンのことは忘れていた。それなのにひょっこり再会したアルミンにまたいらぬ情を思い出してしまい……あまつさえ、今のアルミンの彼女に嫉妬までする始末だ。――こんなの、情けない馬鹿の典型ではないか。
私はなんとかこの苛立ちと悔しさを振り落とすべく、全力で自転車をこいだ。周りから見たらさぞ面白い光景だっただろうが、それはどうでもよかった。とにもかくにも、この不快感をどうにかしたかった。
*
それなのに一体全体何を考えているのか、その次の日、なんとアルミンは私がまだ勤務中の喫茶店にやってきた。もう完全にマルロの牽制のほうがなかったことになっているらしい。そうしてどこの席に座ることもなく、まっすぐに私が待機していたカウンターの側まで歩み寄ってきて、「君にお願いがある」などと言い出した。アルミンの行動がまったく読めなかった私は「なに?」と応えるほかなく、そうしたのだけど……アルミンはよりにもよって、私に「ルイーゼの誕生日プレゼント選びに付き合ってほしい」と提案してきたのだ。
私が何を言うよりも先に「ミカサには先に声をかけたけど断れてしまった」だの、「君とルイーゼの音楽の趣味は似ているからきっと趣味も似ている」だの、言い訳に使おうとしていた事柄をすべて潰されてしまった。そして極めつけが「もう僕には君しか頼る相手がいない」と釘を刺すものだ。
それを言われている間も思考が先読みされている恐怖のせいか、それともアルミン自身を意識しすぎているせいか、私の心臓はずっとバグを起こしたようにうるさく叩き続けていた。
まるで打つ手のすべて先読みされて逃げ道を塞がれている負け確のゲームさながら、私はアルミンに了承へと誘導されていたのだと観念するよりなかった。
――だって、「頼れるのは君だけ」なんて言われてしまったら。
不毛なのはわかっているのに、どうしても腹の底をくすぐるようなこそばゆさを無視できない。目の前で私の眼差しをじっと捉えていたアルミンは、今、してやったりなどと思っているのだろうか。そんなことを思い浮かべながら、私はもういいかと気を緩めることにした。
「……はあ、仕方ないね」
「ほんと!?」
やけに安堵したように笑うから、私は自分の見当が少し外れていたことを知った。……アルミンは別に「してやったり」などとは思っておらず、私が断るかもしれないことを、多少は懸念していたらしかった。
けれど私が了承をしたからにはもう引くことは考えていないのだろう。そこから一気に約束の詳細を伝え始めた。――次の休館日に、最寄りの商業施設で待ち合わせしようとのことだった。「家まで車で迎えに行こうか」と提案されたが、それはさすがに断った。
いくら彼女の誕生日プレゼントを秘密裏に選ぶためとは言え、ほかの女を車の助手席に乗せて意気揚々とデパートに向かう男があるかと不満を抱く。……ときどきアルミンは、理解できない言動をするなと眉根が寄った。それだけ私に脈がないということか。そういうことならむしろ、清々しささえ感じる。
ともあれ、私はそれから〝休館日〟を指折り数えてしまった。……いい意味でも悪い意味でも、だ。前日の夜はやけに緊張してしまい、服を選んだあとも、なぜだかまったく寝つけず部屋の片づけをしてしまったくらいだ。
当日になり、指定された商業施設内の広場に向かうと、アルミンは既にそこに訪れていた。当たり前だがそこにルイーゼの姿はなく、本当に二人きりなんだなと妙な実感を得てしまった。……これでは傍からみたらただデートを楽しむカップルのように見えてしまう……そう心配したが、居たたまれない気持ちと同時に、自分でも理解できないくすぐったさを覚えてしまった。……ああ、こんなのは不毛だとわかっているのに。私はただ、ルイーゼを喜ばせるプレゼントを選ぶ手伝いをさせられているだけなのに。
さすがに司書でない今日のアルミンはいつもと違って、少し鮮やかな服装をしている。今のアルミンはこういう服を好んで着るのかとまじまじと見てしまったが……わ、私は隣を歩いて恥ずかしくない服装ができているだろうかとたちまち気になり、合流してからご丁寧に「よく似合ってる」と言われるまで落ち着かなかった。しかし、予想外だったのは、アルミンも少しそわついていたことだ。一応お返しにと「あんたもそんな服を着るんだね」と話題を振ってやると、「変じゃないかな?」と尋ねられた。そういうことは彼女に聞きな、と言うか迷ったが、そのあとの反応のことを考えたくなかったので「いいんじゃない」と言い換えた。
一通りの挨拶を終えてから、じゃあ行こうかとアルミンに誘導され歩き始める。
始めに向かったのはアクセサリーショップだった。「こんなのはどうかな」と私の意見を煽ってくるアルミンを眺めても、やはりアルミンは〝アクセサリー〟は似合わないなと思った。……もっと、本屋とかでプレゼントを選べばいいのに。そう思いはしたが、それはアルミンの自由なので言わないことにした。
ふらふらと視線を泳がせていると、ゴールドの小さなピアスが目に留まる。三日月のデザインで、そこから細いチェーンがいくつか垂れさがり、小花や蝶々があしらわれたデザインだった。普段はシルバーのいかついピアスをすることが多い私だったが、どうしてかやけにこのデザインは私の気を留めた。
「……それ、かわいい?」
ぬっ、と横からアルミンが顔を寄せて覗き込み、私は驚いてハッと少し身体を引いてしまった。
「……あ、うん……ルイーゼには似合わないだろうけどさ……」
そう言って私は大して興味もないふりをして次へ移動しようとした。……けれどアルミンもそれが気になったようで、少し立ち止まって眺めているようだった。
「……なんだか、アニみたい」
「……は?」
「アニってさ、月っぽいなと思って」
「……月」
「うん」
目を細めて、愛おしそうに見ているアルミンがそこにいて、私はなんとなく見ていられなくて視線をほかへやった。そちらには太陽モチーフのアクセサリーがあって、ああそういうことかと腑に落ちた。
まあ確かに、私はルイーゼのように明るくはないし、少し陰気なところはあるから……きっとそういうところが重なっているのだろう。太陽は周りが明るくても関係なく輝くが、月は周りが暗くなければそれほど輝けもしない。……なんか、あ、と少し落胆した。……いや、ここで落胆するようなところが、私が〝月〟所以なのだろうけども。
反対にアルミンやルイーゼは太陽だなと思う。だからもう考えるのをやめろというのに、またルイーゼに対する劣等感のようなものが頭を過った。
「ルイーゼには、こういうのがきっと似合うよ」
私はとにかく話題を変えたくて、少し派手な色のガゼルのシルエットを象ったネックレスを示して見せた。なぜガゼルだったかは私も説明はできないけど、ただなんとなく彼女っぽいなと思っただけだ。
アルミンはそれを一瞥すると、「……そう? ちょっと候補として考えとくね」とすぐに会話を終わらせてしまった。その呆気なさに何やら拍子抜けしたような気になるが、「次に行こう」とアルミンが呼ぶので、私も後についてその店に背を向けた。
それから私たちはいくつかの店を一緒に回った。帽子や靴の専門店から、ほかのアクセサリーのお店、なんとなくアパレルにも足を向けてみたが、どちらもいまいちピンと来ていなかったので、そこはすぐに退散した。
そうこうしていると時間はあっという間に小腹が空く時間になっていた。私はアルミンに誘われるがままに一緒にチェーン店のカフェに入り、「今日付き合ってくれたお礼に」とデザートをご馳走になることになった。
アルミン自身はウィンナーコーヒーと軽食のサンドウィッチを頼んでいたが、私はお言葉に甘えさせてもらい、バナナとシナモンをたっぷり使ったパフェを頼んだ。オーダーを取った店員が歩いていく姿を眺めながら、他愛ない会話をした。
二人のデザートを概ね平らげたころ。
「……その、今日は付き合ってくれて、本当にありがとう」
改まった様子のアルミンから、またお礼を寄越された。始めはどこか別の場所を見ていたかと思うと、言いながら私に視線が向くので、私も思わず真正面から見てしまった。だがすぐに、どきり、と心臓が誤作動したことで耐えられなくなり、慌てて視線をメニューの上に落とした。
「あ、うん。まあ、一回くらいなら」
先ほどから薄々思ってはいたが、私はときどき向かいに座ってしまったことに耐えらなくなりそうだった……だが、よもや隣に座るわけにもいかないので、二人きりで飲食店に入った時点で腹を括っておくべきだったと自らを叱責する。……これではまともに顔を上げられないではないか。今の私は、真正面からアルミンの顔を見るほどの根性は持てなかった。
「――マルロは大丈夫?」
藪から棒にアルミンが尋ねるので、言ってるそばから顔を上げてしまった。
「……あ、うん。今回のことは話してないけど」
別に今発している言葉には何の嘘もないというのに、アルミンにマルロの話題を持ち出される度に起こる、じわりじわりと速度を上げていくような鼓動の打ち方をし始めた。どっくん、どっくん、と、一回一回の脈が力強く私を責めているようだ。
もちろん目の前のアルミンはそんなこと、見当もしていないだろう。
「そっかあ。僕からマルロに連絡入れとけばよかったね」
少し申し訳なさそうに笑った。
「なんで?」
「だってそりゃ、彼女を一日借りちゃうのに」
そう言うのならば、私もルイーゼに断りを入れるべきということだろうか――あ、いや、今回は私が希望したものではなかったことを思い出し、また動揺から思考がとっ散らかり始めているのだと焦った。
「今は勤務中かな?」
ドキ、とまた心臓が派手に驚いた。
「へっ?」
別にマルロとのことを問い詰められているわけでもないのに、尋ねられる一つ一つの質問に、ボロが出ないかと緊張感が走る。
「あ、う、うん。たぶん……」
「でも警察官って大変だよね。マルロは交番勤め? それともほかの部署かな?」
またしてもマルロについての質問だ。しかもそんなこと特に興味もなかったから聞いたこともない。下手に知ったかぶって博識なアルミンに訝しまれてしまうのは世話のない話だ。私はここは変に誤魔化さず白状しようと思って、
「さ、さあ……どうだろ……私も、詳しく聞いてなくて……」
そこまではなんとか言えた。多少不自然だったろうかとちらりとアルミンを盗み見ると、アルミンは私のことを静かに観察している。まるで正否を見透かされているようでまた焦りがこみ上げ、
「そういう内情みたいなの、聞くのよくないかなって……」
いらぬ言い訳を付け加えてしまった。
いや、こんな理由で誤魔化せるのか。彼女が彼氏の仕事の内情をまったく知らないこと自体、不自然ではないか。自分で自分の言動を精査して焦りが止まらない。
「へえ、そっか」
けれどアルミンは何かを気にしている様子はない。――誤魔化せたのか? 期待のようなふわりとした感覚が浮かぶ中、
「マルロとは共通の友人を介して知り合ったって言ってたけど、よかったら二人の馴れ初めとか聞かせてくれないかな」
アルミンは更なる試練を投下してきた。
やけにマルロにこだわるなと勘ぐったが、それ以上にどうやって切り抜けようかと焦燥が急かしてくる。やはりここは今即席ででっちあげるよりも、本当のことを話したほうがきっと信ぴょう性も保てるはずだ。そうだ、ヒッチとマルロ本人たちの話をしたらいいはずだ。
私は意を決してまたアルミンの視線を一時見返した。
「あ、えっと……その、合コンで……」
「合コン?」
問い返されるとだめだ、すぐに視線が泳いでしまう。けれど怪しまれないためには、平静を装わなくてはならない。
「あ、う、うん。その、お互い数合わせでって、呼ばれてて、それで、その、一人だけ雰囲気違っててぜんぜん馴染めてなくて、」
「……君が?」
「いや、マルロが」
「うん」
このときの私の心臓のうるささは尋常ではなかった。何か少しでも言動を間違えたらアルミンに悟られてしまいそうで、私はもう頭の中がぐるぐると過稼働していて、煙が上りそうな勢いだった。
「で、その、マルロが合コンの席なのに不純異性交遊はなんちゃらって説教垂れ始めちゃって、その場のみんな凍りついちゃったんだけど、その、なんかそれが今までにない感じでいいなあって、気になっちゃって……」
「君からアプローチしたの?」
「そ、そう。私から、した」
そこまで言い切ると、ようやくアルミンは「そっかあ。素敵な馴れ初めだね」と話題をまとめてくれた。そのあとに更なる質問がくるのではと身構えながらも「……そうかな」と返事をした。だが私の警戒とは裏腹に、アルミンは「うん、話してくれてありがとう」と言うだけで、それ以降何かマルロについて聞いてくることはなかった。
少しの間が開いたことから、ここは社交辞令として『あんたとルイーゼは?』と聞くのが常套かとも思ったが、なんとなくその話は聞きたくなくて、私は沈黙を選んだ。
どうしよう、それ以外に何か言えることはないか。
私は先ほど過稼働して回っていた思考が、その反動で鈍っていることを感じていた。何か、不自然でない何かの会話を繋げなければならない。
「……ねえ、アニ」
けれどいつものように、先に話題を始めてくれたのはアルミンのほうだった。
「うん?」
沈黙が破られた安堵もあったと思う、私はとても気の抜けた返事をしてしまい、おまけにまた油断して視線を繋げてしまった。――なんと今度は予想外なことに、アルミンが視線を泳がせた。何か口元をもごもごと言いにくそうに動かして、
「あの……えと、このあと、君の家に行っても、いいかな……」
とんでもない爆弾発言を落としてくれた。
「……なんで!?」
私が飛び上がって驚いてしまうのはきっと無理のない話なはずだ。
だって、アルミンは彼女がいるのだ。あまつさえ今日はその彼女のプレゼント選びに付き合わされているというのに、その帰りにほかの女の家に行こうとは一体どういう魂胆だと、身を乗り出してまで迫ってしまった。
しかしアルミンはまたあちこちに視線を泳がせながら、
「その、この間聞きそびれちゃったこと。やっぱり聞きたいなって思って」
はたり、とようやく私とまた視線を重ねた。
私はマルロの話題を出されたときとは違う緊張感を味わっていた。――『この間聞きそびれちゃったこと』とは……その、私が『別れた理由を聞かれる』のだと憶測したときのことだろうか。その可能性が瞬時に意識に持ち上がったから、こんなに緊張したのだ。
「こういうところで話す話でもないし……もちろん、僕の家に来てくれてもいいんだけど、それは君が不安かなと思って」
どくどくと脈打つ鼓動がまた緊張感を後押しする。
どちらの家に行ったところで、私はアルミンと二人きりになってしまう。アルミンは彼女のことしか眼中にないから気にならないのだろうが、私はアルミンをそれ以上に意識してしまっている。だから、きっとおかしな空気になってしまうし……いやいや、そもそも、アルミンはおそらく『別れたときのこと』を聞こうとしているのだ、それ以上に気まずい空気を作ることができる手はそうそうないだろう。
冷静になれ。こんなこと、了承できるはずもない。
「……や……やだ」
冷静になれと自分に言い聞かせたほど、私は冷静にはなれなかった。子どもが駄々をこねるような言葉しか発せられなかったのは動揺の表れだ。
アルミンはそれでも、それをしっかりと汲んでくれて、
「……そっか……ごめん。じゃあ、また今度にするよ。変なこと言ってごめん」
反対に申し訳なさそうにその立派な眉尻を落とした。
「いや、私こそごめん……」
私は逃げている自覚があった。――ただあのときの真相が知りたいだけのアルミンを、私は自分が責められるのが怖くて拒絶したのだ。謝ったのは、『逃げてごめん』という気持ちが強かったからだ。本人に面と向かって言えるはずもないが。
「も、もう今日はいいでしょ? 私帰るよ」
これ以上の気まずさに耐えきれなくなった私は、慌てて上着と鞄をかき集めて席を立った。アルミンに次にまた何か言われる前にこの場から立ち去りたいと思ってしまい、私は自分の中の理由を言語化できないままただただ焦っていた。
「えっ、あ、えと、家まで送るよっ」
背を向けた私にアルミンが声をぶつけるから、
「いい! いい! 自転車で来てるから!」
私はそれを振り払って歩いた。背後から「あ、アニっ」と呼び止めようとする声が聞こえたが、私はそれを聞かなかったことにして、さっさとカフェから抜け出した。
もう自分の情緒がまったく掴めない。
アルミンが私のことをまったく何も思ってないなら、別にそれならそれでいいやと思っていたはずだ。なのにいざまた二人きりになりたいと言われたら動揺して、こんな強硬手段で逃げ帰って。私はなんなんだ、アルミンをどうしたいんだ。『頼れるのは君だけ』と言われた言葉に浮かれて流されて、結局なんだかんだと付き合ってしまった私がきっと悪い。
ああもう、本当に何やってんだ私は。これじゃまるで、アルミンのこと意識しているみたいではないか。いや、そうなのだけど、それをあからさまな態度で見せてしまってどうする。……アルミンに勘づかれてしまったかもしれない、すべて。こんなわかりやすい態度を取ってしまって……ああ、もう。私は本当にどうしようもない。
駐輪場に着くまで一切振り返らなかった私は、そこでようやく建物のほうを確認した。アルミンの姿はどこにもなくて、追いかけてきていないことに安心した気持ちもあれば、期待を裏切られたような気持ちにもなって、本当にどうしようもなくごっちゃになってしまっていた。
*
家に帰ってからも、私はしばらくぐつぐつと処理しきれないわだかまりに襲われ続けた。
あんな風に逃げ帰ってしまったくらいだ、明日図書館できっとまたアルミンに声をかけられるだろうことは、簡単に予想ができた。……というか、アルミンと再会してしまったが最後という感じもする。本当は潔く〝あのとき〟の自らの愚かさを受け入れて、アルミンと向き合ってやるべきなのだろう。そのほうが私もアルミンも、きっと早く楽になれるはずだ。
……けど、ことはそんなに簡単ではないのだ。あのとき、私がアルミンを振ったことも、私なりに理由があった。それを伝えなければいけない〝今の私〟は――アルミンへの情を、また思い出してしまっているのだ。……そんな話をして、改めてアルミンを傷つけてしまうのを見るのは、早い話〝嫌〟だった。……どう頑張ったって、例え今アルミンに飛び切り可愛い彼女がいたって、互いに気分のいい会話にはならないだろう。
「……はあ、」
深い深いため息を落としてしまった。
明日、仕事に行きたくないなあ……と、それはかろうじて口からは出なかったが、鮮明に頭に思い浮かべてしまった。
だがそのおかげで、待てよ、と私は閃きを得ていた。そういえば明日、珍しく休みになっていたような気もする。大急ぎでスケジュール帳を確認すると、なんと記憶の通り、明日は休みになっていたのだ。私は思わずガッツポーズを作ってしまった。
そうとわかればもう行動するしかない。明日一人でいたところで、どうぜまたごちゃごちゃといろいろ考えてしまうのが目に見えていたので、私は気分転換を試みることにした。久しぶりにバンド仲間とセッションでもしようと考えたのだ。
グッと腹に力を入れて、ごろごろとのたうち回っていたベッドから起き上がった。
すぐさまバンド仲間のグループメッセージに連絡を入れると、ベースとヴォーカルだけだが都合がつけられると返事がきた。二人とも仕事をしているので集合は夕方にはなったが、これでひとまず丸一日一人でぐだぐだと悩まなくて済みそうだ。午前中はそうだな……セッションする楽曲の楽譜でも探しておくかと気持ちを切り替えた。
こういうときは本当に趣味があってよかったなと実感する。
私は気が早いとわかっていながら、エレキギターの内のお気に入りの一本を手に掴んだ。暗譜している楽曲を適当にかき鳴らしながら、明日はどんな曲をやろうと無理やりに思考を切り替えて、今日のことは考えないようにと努めた。
予定していた通り、午前中は今日仲間とセッションする楽曲探しをした。ネットで楽譜が手に入らなかったので、午後は楽器屋に赴いてそこで楽譜を探した。いくつか満足するものを見つけられたので、私は集合時間よりいくらも早かったが、もう先に待ち合わせのライブハウスに向かうことにした。
一人でいるとき、何度も何度もアルミンの姿や仕草が意識を横切ったが、その度に『忘れろ!』と自分に命令して、頭を切り替えるように努めた。今日は休みで顔を合わせなくていいのだから、そんな日まで思い出さなくていい。結局アルミンはルイーゼのプレゼントどうしたのだろう、とか、今日もルイーゼはアルミンを迎えに図書館に足を向けているのだろうかとか、いろいろ思ったりもしたが、そんなことは忘れればいい。考えたら負けだ。
そうして待ち合わせの時間になると、まずベースのピークがライブハウスに足を踏み入れた。
一足先に来てライブハウスのオーナーと話をしていた私は、今日はステージも自由に使っていいと許可を得ていたので、早くピークと合わせたくてうずうずしていた。今日は不在のドラムの代わりに、オーナーがドラムを叩いてくれることまで交渉済みだ。
なのにピークは私の顔を見るなり、ベースを置くことも忘れて、
「……あれ、アニちゃん、なんか少し見ない間に雰囲気変わったね? 失恋?」
と第一声で聞いてきやがったのだ。
「はあ!? なん、で!?」
こっちが必死に考えないようにしようとしていることをなんて容赦のない、と図星と怒髪天を突かれて毛が逆立った。
ピークはまさかそれが正解だとは思っていなかったのだろうか、あははと呑気に笑いながらようやくベースを脇に置いた。
「ごめんごめん。急に合わせたいって言うから、何か大きな心の変化があったのかと思って」
その言い分を聞いて、特に根拠もなかったのだと理解した私は、素知らぬ顔を通すことにした。用意していた楽譜のコピーを一部、ピークに渡すために拾い上げる。
「……ない、別に、ない」
「……そう。じゃあいいんだけど」
ピークは上着を脱ぎながらそれを受け取り、
「話なら聞くよ? 話しちゃったほうが楽になることもあるし」
そうやって念押ししてくるから、本当は気づかれているのかもと焦って、「何もない!」と強めに応えてしまった。失敗した、とは思ったものの、しつこいピークが悪いので、謝る気はさらさらなかった。――こういうときは、見て見ぬふりをしてくれないと。
「あらら。じゃあどの曲からやる?」
ようやく私の希望が伝わったのか、ピークははいはいとあしらうように話題を変えた。ケースから取り出したベースを手に持ち、楽譜を眺めながらそれの調律を始める。ズゥン、ズゥン、と重低音が鈍く響く。
私がいくつか持ってきた楽譜のタイトルを伝えている内に、ヴォーカルのポルコもライブハウスに入ってきたので、彼にも楽譜を配って話を進めた。
ライブハウスにもちらほらと酒を飲みに来た常連が増えていく。彼らの耳に練習もそこそこに繋ぎ合わせたメロディを聞かせて、私たちはしばらくその小さな演奏会に没頭した。
自転車でライブハウスまで行っていた私は、もちろんライブハウスでは酒などは飲まなかった。だがポルコは調子に乗ってたくさん飲んでいたし、ピークも最後はちょっとだけ飲もうかなと飲んでいた。久しぶりに楽しい時間を過ごせたなと思いながら、アパートの駐車場に自転車で乗り入れたところだった。
まるで何か忘れてないか、と私に思い出させるようにぎゅっと胸が痛んだが、それがどんな意味を持っていたか解読する前に、ふ、と視界に気を取られた。
駐車場の脇にある駐輪場に自転車を停めながら、私はその〝異物〟を凝視してしまった。
――見覚えのある車が、来客用の駐車スペースに駐車されていたのだ。
ギョッと身体が強張った。……その車をどこで見たのか思い出したからだ。
確かあれは……あ、アルミンが乗っていた車だ。アルミンが乗っていた車によく似ていたのだ。すっかり夜も更け切って、真っ暗な駐車場だから色はなんとなくしかわからないが、確か形はこんな形だったような気がする。
……いや、でも、そんなまさかな、おそらく似ているだけだろう。だって、こんな時間にアルミンがここにいる理由がない。そう思うようにして私は、自分の驚嘆と焦燥をなかったことに、そのままアパートの階段を駆け上った。
タッタッと階段を踏みつける足音がやけに響いて、耳にまとわりつく。目的の階にたどり着き、私はその角を一思いに曲がって歩いた。……どうしてだろう、顔を上げられない。必死に、しがみつくように足元だけを見ながら歩いた。そこにアルミンがいるはずなんてない、大丈夫、そう思いながらも心臓は正直で、ドクドクと緊張感を煽っていた。
そしてそうだ、気配がした。
「――あ、アニ! よかった、帰ってきた」
ハッと、大きく息を吸う。
観念して顔を上げると、そこにはアルミンがいた。ドッと野太い槍にでも心臓を貫かれたような衝撃を覚える。――私の部屋の前で帰りを待っていたのか、鼻頭を真っ赤にして笑っているから……私はなぜだか、泣きたくなっていた。
> 第三話 *I didn't wanted to see you no more.