番外編*Love sometimes holds back the truth.
いつものように、利用者が作る列を捌いていた。いつもはそんなに混むことはないのだが、ときどきこうやって利用者がどっと押し寄せるときがある。そういうときも、いつものように淡々と、利用者が作る列を捌くだけだった。
貸出カードと貸し出す本を預かり、簡単に本に異常がないかを確かめながら、貼付されたバーコードをピピと手際よくリーダーで読み込む。間違いがないように端末の画面で目視にて登録内容、読み込み内容を確認する。いつも同じように「返却は来週だ」と言う旨を伝えながら本とカードを手渡して、「次の方」と声をかける。……このくり返しだ。
「――返却と貸出です」
だから、このときも同じように利用者の顔も見ずに差し出されたカードと本を受け取り、利用者カードにあるバーコードを読み込んだ。そのとき、画面に表示された利用者の名前を見て、……あれ? と違和感を覚えるくらいのことはした。
同姓同名はいるものだなと軽く考えながら、それでも不自然に身体が緊張するのが自分でもわかった。
「こちら返却ですね。そしてこちら貸し出しですね」
――『アニ・レオンハート』と……もう随分と長いこと、僕の思い出に居座り続けている女の子の名前と同じだったからだ。
とりあえずの確認作業を終えて、僕はほかの利用者にもするように顔を上げながら本とカードを差し出した。
「はい、ではこちら返却は来週まで――、」
そうして僕は自分の身体の強張りの正体を知った。……僕は薄々どこかで勘づいていたのかもしれない、ここに立っているのは同姓同名の誰かなどではなく……、
「えっ……あ、アニ……!?」
彼女本人であったということを。
僕が名前を呼ぶと、高校のときからちっとも変わらず可愛くて美人で小柄な彼女は肩を大きく震わせた。髪型まであのときのままだ。懐かしすぎて僕はひととき、高校時代にタイムスリップした気分になった。
「……!? あ……あ?」
しかし僕と違って目前のアニは状況が掴めていないのだとその不安げな表情からわかった。それもそうだ、僕は最後に会ったときとは髪型もまったく違っているし、身体だって少しは大きくなっていたのだから。もしかして僕だと認識できていないのかもとすぐに思い至った僕は、「僕だよ! アルミンだよ!」とカウンターの反対側から身を乗り出しそうになりながら声をかけてしまった。
――どうしよう。どうしよう。本物のアニだ、アニだ。
「わあ、奇遇だね!? こんなところで会うなんて! 本借りてたんだ!?」
「あ、うん……」
僕はこの一世一代のチャンスに興奮していたのだと思う。『もしアニにまた会うことができたなら――』なんて、もう何年も前に考えることを止めようとしていたことだけど。そのときのことが一気に頭の中に噴出し始めて、自分でも言いたいことを手あたり次第言ってしまいたいところだった。――あれからどうだった、大学は、生活は、……お父さんとは。どうして君は、……なんで僕は。
そうだ、これが神様のいたずらか采配かはわからない。けれど、僕はこの機会を逃すわけにはいかなかった。よりを戻す戻さないの話ではない。〝あのとき〟、どうして〝僕ではだめだったのか〟――ようやくその答えが聞けるかもしれないのだ。
僕はなんとしても〝次の〟約束を取り付ける必要があることを理解していたから、思い切って誘ってしまうことにした。なりふり構っていられないが、アニを怖がらせるわけにもいかない。だから、すう、と息を深く吸って、なるべく落ち着いているように見せるため、ゆっくりと口を開くことを意識した。
「あの、その……っ、こ、今度、食事にでも――、」
しかし、アニは僕の言葉を遮った。
「えっ、あ! わ、私っ、付き合ってる人……いるから……っ!」
その慌てた表情と言葉を受けて、僕はたちまち落胆した。
――そうか僕は、既に警戒されている。
Love sometimes holds back the truth.
~愛はときとして真実を隠す~
***
あのあと僕は結局アニの連絡先も次回の約束も得ることなく彼女を見送る羽目となった。彼女がまた戻ってきてくれるように、できる限りの愛嬌を振り撒いて、最後の視界まで手を振り続けた。
しかし、もう後がない――。彼女が僕の存在を知って、来週本を返却する際に、返却ボックスに投函することを選んでしまえば、もう僕に彼女と再び会う手立てはない。……来週の彼女の貸出本の返却に僕は賭けるしかなかった。
……そう、思っていた矢先。僕はよく利用するこの図書館施設の喫茶店で彼女が働いていることを知った。ここカフェテリアに新人が入るという噂は小耳に挟んでいたのだが、それがまさかのアニだった。
始めは僕は気づいていなかったのだけど、会計を取りまとめてくれたエレンが店から出てきたあと、そこで待っていた僕たちに「さっきアニがいた……」と言ったことで知れたという。きっと血相を変えて店に飛び込んでいった僕はとんでもなく面白くて、僕がアニに連絡先を強引に押しつけてエレンたちの元へ戻ると、主にルイーゼに根掘り葉掘りとアニのことを詰問された。……そしてそのときに僕は、アニにダブルデートの誘いをしていたことから、ルイーゼに彼女の前でだけ恋人のふりをしてくれないかと打診した。少し嫌そうな態度を始めはとっていたが、何度かお願いすると渋々と了承してくれた。
僕の狙いは『恋人がいるから』と僕との食事を避けていたアニに、まずは警戒心を解いてもらうことで、だからアニとその恋人を呼んでのダブルデートを発案した。さすがにそれを断る口実を思いつかなかったのか、はたまた慈悲で付き合ってくれたのか、アニは『恋人だ』と自称する男を連れて応じてくれた。……背は高く精悍で真面目そうで、僕では到底敵いっこないなと思いはしたけど、ダブルデートが進むにつれて、僕の中には違和感が芽生えていった。アニとアニの恋人と自称する男が、それほどまで親しげではなかったからだ。〝恋人〟の距離感とは到底思えなかった。
そしてそれは、僕が初めてアニの部屋に招かれたときにまた別の疑問に変わった。――アニには、そもそも恋人はいないのではないか。
なんというか……こんなことを邪推するのは失礼なのもわかっていたが、アニの家には〝色めき〟がなかったのだ。付き合い始めならともかく、数週間も恋人をやっていれば、恋人のものが一つや二つ部屋にあるものではないのかと気になってしまった。ましてや、現在のアニは家族と共同生活をしているわけではなく、一人暮らしなのだ。例えばマグカップや歯ブラシ、そういったものに〝対〟の存在が感じられたなかったことは、僕の疑問をさらに加速させた。
ここに〝恋人のものがない〟のは彼女が潔癖なのかもしれないという可能性ついて考えても、それは僕自身の経験から否定できる要素だった。なぜなら、実際僕がアニと恋人だったとき、アニとお揃いのグラスや僕の漫画など、いくつか僕に由縁したものがアニの部屋にあったことを覚えているからだ。
僕はこの疑問を確信に変えるべく、また〝恋人〟ルイーゼを口実にアニを誘った。ルイーゼの誕生日プレゼントを選びたいと言ったが、本当はルイーゼの誕生日はまだ数ヶ月も先だった。
主な目的はアニとの対話だったけど、嘘の口実で二人でお店を回った経験はとても楽しかった。まだ恋人同士だったころをたくさん思い出して――、そして僕は、未練の内に関係を断ち切られたことを思い知った。……八年も経過した時間を前に『あのころのまま』というのはあまり褒め言葉にはならないかもしれないが、アニは本当にあのころのまま、理知的で落ち着いたアニだった。
そのぽとりぽとりと水滴が滴るように話す声づかいが好きで、空を切り取ったように流す眼差しが好きだった。指の先までリズムが通う仕草も、明快な回路を経て出てくる言葉も。――あのころと同じだった……彼女と、もっとたくさんの経験を共有できたらいいのにと気持ちは傾いた。
けれど僕はそれを実感する度に思い知る。彼女は今、僕に対して『恋人がいる』と嘘を吐いている可能性がある。そしてその理由なんてたった一つしかない。……アニは、僕との間に線を引きたがっているにほかならなかった。
僕は今日のお礼に、なんて見え透いた誘い文句でアニと二人でカフェに入った。そこで『恋人がいると嘘を吐いている可能性がある』を『嘘を吐いている』という確信に変えるべく、僕はアニにいくつか〝その恋人〟についての質問を投げかけてみた。……そしてそれらの返答は深読みするまでもなかった。あからさまに興味が薄そうな話し方や内容で返ってきて、ここで彼女に抱いていた疑問の『可能性』が僕の中で『断定』に変わった。――マルロはアニの恋人ではない。さらに、アニに恋人は、いない。
だから、今度はいよいよ僕の目的を果たすため、〝あのころ〟についての真相を聞き出すべく、アニの家に行ってもいいか尋ねた。恋人がいるということが本当でないならば、遠慮する相手はもういない。あとはアニからの了承を得られればいいだけだ。……それなのに、アニはばつが悪そうに席を立ってしまい、僕は一人ぽつりとそのカフェに残されてしまった。もちろん、突発的なその行動に反応して追いかけようかとも思ったけど、お会計はあるし、何より、今の状態のアニを追いかけたところで何も変わらないだろうと冷静になった。……冷静になって、頭を抱えた。
これは〝警戒〟以上に、僕のことを素で嫌がっているだけなのでは……と思い至ってしまい、いろんな感情が湧き上がって呼吸が浅くなる。僕はどうしてアニが好きだったかを思い出してしまったわけで、今も彼女を愛おしいと思う。けれどそれ以上に僕には、〝あのとき〟の真相が必要だった。僕が自分を肯定するためには、どうしてもアニからあのときのことを聞かなくてはならない。……けれど、このままでは何もままならなかった。
――いっそ、アニに『恋人がいる』ことが嘘なのはわかっているから、観念して僕に向き合ってくれと真正面から言ってしまおうかとも思う。先ほどのアニの状況を見て、彼女になりゆきを委ねていても、二進も三進もいかなさそうなことはよくわかったから……僕は多少の強引な手段も考えたほうがいいのかもしれない。そう結論をつけた。
ようやく僕の中の荒波が治まったころ、僕は一人でカフェを出て……ふらふらとアニと一緒に回ったアクセサリーショップに立ち寄った。この時点でアニとよりを戻すなんて夢のまた夢なのもわかっていたし、だからこれは期待とか執着とかではないのだが、ただなんとなく、アニが気にしていたピアスが頭から離れなかった。
そのゴールドの小さな三日月のデザインのピアスを、もう一度見ておきたいと思った。買ってしまうのは未練がましすぎるだろうか。手元に置いておきたいような気もした。……だが、なんと間の悪いことに、僕が再びそのアクセサリーショップに着いたころには、そのピアスは売り切れになってしまっていた。――アニにも逃げるように帰られてしまい、ピアスも手に入らないまま……今日の僕はこれっぽっちもついていないなと呆れて笑ってしまった。
そして僕は決意した。――やはり、多少強引な手になってしまっても、自分から何か行動を起こさなくてはならない。
次の日、僕はアニの退勤に彼女に足を止めてもらおうと思った。それを期待して出勤したというのに……なんということか、彼女はこの日、休日だったらしいのだと知った。……そもそも出勤していないなら仕方がない。僕はここで、今日の退勤後にアニの家に押しかけてしまおうと腹を括った。
そんなの迷惑がられるだろうし、なおさら嫌がられるだろうけど……このまま〝あのとき〟のことを濁されて逃げ切られることは避けたかった。だから、そのあと彼女に『二度と顔を見たくない』と言われたとしても……それでも僕は、多少強引な手に頼るしかない。真相に辿りつけそうでつけない今の状態は、非常にもやもやとこの胸中を不快なものでいっぱいにし続けていた。
退勤後、僕は計画通り彼女のアパートに向かった。国立図書館からそう遠くないアパート、前回停めた来客用の駐車スペースに車を停めて、僕は少しはらはらとした心持ちで彼女の玄関までの階段を上り、廊下を歩いた。そろそろと手を伸ばして玄関チャイムを押す。……だが、そこから彼女の応答はなかった。
……もしかして、出かけている?
僕は慌てて腕時計を覗き込んで、現在午後五時半であることを確認した。……どうしてそんなことを思いつかなかったのか。確かに休日なのだから、アニだってどこかに出かけることもあるだろうに。僕は現実を突きつけられて落胆しそうになった。だけどここは一つ深いため息を零すだけで、よし、とまた気を取り直す。……こうなれば、アニが帰ってくるまでここで待っていよう。そう決意した。
ただ、もし食事に行っているのであればおそらく早くても八時くらいまでは帰らないだろうしと思い、僕は一旦車に戻った。それからひたすらずっと、アニの帰宅を待った。幸いなことに読みかけの本を鞄の中に入れていたので、待つことはそれほど苦にはならなかった。――寒さ以外は。
いくらなんでも何時間かかるかわからないのに、ずっと車をアイドリング状態にしておくわけにもいかず、僕は外に出るときのフル装備をして、エンジンのかからない外気温と同じ車内でアニを待った。ときどき本に熱中しすぎて、アニの帰宅を見逃してしまっていたかもと焦ることが何度かあり、その度に僕は車を降りて玄関まで確認しに行った。……まったく今日の僕はどうにかしている……と思ったが、八年越しの答え合わせが目の前に転がっているのかと思えば、もう少し粘ろうとマフラーを巻き直した。
そうして夜の十時を過ぎたころか。そろそろ空腹も限界に近づいていた僕だったけど、何度めかの熱中から我に戻ったので、またアニの帰宅を見逃していないか、確認しに彼女の玄関の前に向かった。いったい今日何回このチャイムを鳴らしただろうと思いながらまた同じことをした。……今回は家に彼女がいるような気がしていたのだが……それまでと同じようにアニの反応は返ってこなかった。
はあ、といっそう深いため息が出る。今日はこの辺りで潮時だろうかと肩が落ちる。
明日は出勤だろうからどこか旅行に行っているとは考えづらいが、友人らと飲み明かしたりすることもあるだろう。……さすがに日付が跨ぐようだったら、僕自身も身体が持たない。……この寒空の下で、いい加減空腹も寒さも限界だった。
そんなときだ。アパートの玄関のほうから足音が聞こえたのは。僕の胸は期待に踊った。階段から角を曲がり、廊下に入ってきたそのトレードマークのお団子頭を見つけたとき、僕は一気に気持ちが上昇したのがわかった。呼びかけるために大きく息を吸い込み声をかけると、彼女はなんとも言えない情けない表情で顔を上げた。
***
「ありゃりゃ〜これは完全にアウトですね」
僕がお手洗いから飲んでいた席に戻ると、僕の隣で勢いよくお酒を煽っていたはずのアニが、テーブルに突っ伏してうとうとと瞼と戦っていた。僕がお手洗いに席を外してからルイーゼはエレンやミカサと話していたのか、その一瞬の隙に、飲んだくれていたアニは意識を朦朧とさせてしまったようだ。
――アニに『ルイーゼは僕の恋人ではない』こと、また『アニの恋人もマルロではないことに気づいている』ことなどを昨晩、少し強引だったが話をした。僕はアニともう一度やり直せたら、と心のどこかで思ってはいたものの、彼女が僕に嘘を吐いたことなどを考えると、お呼びでないのは一目瞭然で〝同僚以上にはならない〟と彼女に宣言してやった。これでアニは少しは安心するだろう――そう思っていたのに、ルイーゼが今日唐突に誘った飲み会にはついてくるし……、僕がルイーゼに『アニとよりを戻す気はない』と断言したときは、ひどく動揺していたし……、正直なところ、今のアニが何を考えているのか、僕にはよくわからなかった。……いや、素振りとしては『もしかしてアニも僕のこと……?』と思ってしまう場面が多すぎるのだが、彼女が僕に〝嘘を吐いていた〟事実がその考察を邪魔する。
とにかく、動揺の延長線上で酒をたらふく流し込んでいたアニは、そうとうに酔ってしまったらしい。僕がお手洗いに席を立っている隙に眠りこけてしまっていた。
僕が戻ってくるなりルイーゼもそれに気づき、楽しそうに「これはアウトですね」と笑うだけで、特にどうこうしようとはしない。僕もまあ、別に解散するまで眠らせてあげていればいいかと思い、なんとなく身体が冷えないように、本人の上着をかけてやった。
だがそれから三十分もしない内に、事態は急変する。
そろそろ帰るか、とエレンが言い出して、それに対してルイーゼが「アルミンさんがアニさん連れて帰ってあげたらいいんじゃないですか!」と、さも名案でも思いついたように提案したのだ。――いやいや、冗談ではない。こんな大問題をネタ的に扱われては困る。
当然僕は反論した。
「女性の家に酔っ払った女性を男性である僕が一人で連れて帰るの!? よしてよ! 僕が運転するからミカサとルイーゼ一緒に来て、部屋までは二人で連れてってよ! 頼むよ!」
かなり必死に訴えたつもりだったのだが、それに対しては予想外のところから追撃が訪れた。
「いやだ……」
「ん?」
なんと、僕の隣で寝ていたアニが、寝言のようにそう言葉を発したのだ。瞼もしっかりと閉じているし、少し気持ちよさそうにすら表情は緩んでいるのに、
「アルミンがいい……」
その寝言だけはやたらとはっきりと零したのだ。
驚いた僕は思わずルイーゼを見やってしまい、ルイーゼは溶けそうなほどだらしのないにやけ顔で僕を見返した。それから言葉にせず、その表情だけで「ほらね?」と笑われて、僕はさあっと血の気が引いていくのを感じながらも、「待ってよ! そんな……!」と助け舟を求めてエレンやミカサにも目を配った。
けれどなんと残酷なことだ。エレンは自身の上着を抱えながら「おーう、がんばれよー」とさっさと会計カウンターに向かって行ってしまったのだ。そのあとをミカサが追い、ルイーゼに至っては「ファイトです!」と余計なアドバイスまで置いてく始末だ。
自分が今、いったい何を言ったのか果たして自覚があるのかないのか、アニは機嫌よさそうにすやすやと寝息を立てている。ふふ、と笑みを零すものだから、不覚にも可愛いと思ってしまって、僕は慌てて顔を逸らした。
――まったくもう。ぼくの気持ちも知らないで……。
少し待ったところでエレンたちは戻っては来ず、本気で僕にアニを託したようだと思い知った。……本当に? とこの状況を指さし確認してしまったが、本当に僕はアニと二人でこの場に残されてしまったようだ。……ここまで信頼されても……、と思いつつ、僕はいつまでもここにいるわけにもいかないので、いよいよ観念した。
「――ほら、アニ、帰るよ。起きて」
「ん~……、」
それから僕はふらふらと意識すらはっきりしていないような、覚束ない足取りのアニを何とか自分の車に押し込んで、彼女を彼女のアパートまで送った。
悪いと思いつつも、どうしようもないのでアニの鞄を探らせてもらい、玄関の鍵を開ける。前回来たときと同じで、アニの部屋の匂いがふわりと僕らを包んだ。そこからドタドタと騒がしく玄関に雪崩れ込む。玄関の電気のスイッチを探り当て点灯すると、アニは玄関に寝そべっていて、部屋の中に這い込もうとしているようだった。朦朧ながら意識はあるらしい。
「ほら、アニ。もう少しだから、靴脱げる? ああ、待って、靴、靴、脱いでないから!」
「アニ、ちょ、そっちはキッチン! 君はベッドに行って、ほら、僕がやるから、」
「待って、ベッド、もっと奥! 奥! アニ!」
そうやってやんややんやと声を上げ、格闘しながら、僕はようやくアニを彼女のベッドの上に誘導することができた。ううん、ううん、と唸り声のような言葉を発していたアニは、おそらくこの眠気の中で寝てしまえないのが歯がゆかったのだろう。
とりあえず僕は彼女の家のキッチンに向かい、適当なグラスを掴んでそれに水道水を注いだ。……こんなに酔っぱらっていては明日の仕事にまた支障が出てしまうではないか。今朝こそ二日酔いで体調悪そうにしていたというのに。
たったった、とそんなに広くもないリビングを歩き、その奥にあるベッドの側に寄る。アニは仰向けのまま未だにううんううんと唸っていて、少し居心地が悪そうだった。
「もう、まったく君は。今朝あんなに気分悪そうだったのに、信じられないよ」
そう言いながら、僕はアニのベッドの隣に腰を落とした。さすがに上着は自分で脱いでいたらしく、それでも止めてあるボタンが少し窮屈そうだった。
「アルミン……」
唸り声の合間に名前を呼ばれたけど、〝ありがとう〟の代わりだったと思うことにして、
「じゃあ、水、ここに置いておくからね。もう休むんだよ」
僕は持っていたグラスを横のテーブルに置いた。
そうして早々に退散しようと思い、立ち上がる態勢に入ったところで、
「待って、アルミン!」
アニに思い切り腕を引っ張られて、そのまま頭を力強く引き寄せられていた。その瞬間にむにゅり、と柔らかいものが唇に触れて、僕はひととき何が起こったのか理解ができなかった。
「……んっ、あ、アニ……?」
「帰らないでよ」
僕の頭を抱えたまま力だけを緩められたので、未だアニの顔が至近距離の目の前にあった。たった今、僕はアニに不意打ちでキスを食らったのだと閃き、同時にカッと頭に熱が上った。
――な、よ、酔っぱらってるからって……そうだ、これは、酔っぱらっているからで。落ち着け、冷静になれ。
僕は必死に自分の中の冷静さをかき集めて、
「でも、そんなこと言っても、そういうわけにはいかないよ」
はっきりわかるように彼女を諭した。
「いやだ……帰らないで」
なのにアニは性懲りもなくまたグッとその手に力を入れて、
「側にいて、んっ」
「んっ、ふ、あに……っ!?」
僕の頭を引き寄せて、またしても無理やりに唇を重ねさせた。当然僕も抵抗したのだから力づくで離れて、けれどまた力負けして唇が重なって、と二度ほどアニとキスをしてしまった。……もうわけがわからない。アニは、僕と線を引きたかったのではないのか。こんな、酔っぱらいの延長でキスなんかして、それでは何のための予防線だったのだ。
ようやく僕の抵抗が勝ち、アニの手から逃れられたところで、今度はその手は縋るように僕のシャツを掴んだ。これはまるで『行かないで』と言われているようだった。
アニの瞳がじわ、と水気を帯びたのがわかる。とてもつらそうな、切実そうな歪ませ方をして、
「アルミン、ごめんっ、私最低だったのに、また、アルミンのこと、好きになった」
ごちん、と僕に頭突きを食らわせるのと同じくらいの衝撃を与えた。
――『好きになった』と、アニは言った。確かに、と思い当たる節はいくつかあって、けれど……それはまだ、確信とは言えなかった。だってそうだろう。アニは、僕を遠ざけたくて……嘘を吐いていた、はずで。
「ごめんっ、ごめん……っ。でも、いま、押さえられない、アルミンっ、好き」
はらはらと彼女の瞳から涙が零れていく。――ああ、そうか。これは、お酒のせいだ。僕は瞬時にそう理解した。……お酒のせいで感情が煽られて、高ぶっているだけだ。これはきっと、この場に流されたアニの〝勘違い〟であって……、本心ではない。
僕の中に滾っていた熱が、水を差されたようにすぐに冷めていくのをしっかりと観測する。
アニの瞳から流れた涙を拾い上げて、それから彼女の頬に触れた。温かい、やはりここまで火照っているのだから、酔っぱらいきっていることは否定できない。
「……アニ、飲み過ぎだよ。君は正気じゃない」
だからそうやって諭してやったのだが、アニに触れる僕の手を掴まれ、
「正気だったらこんなこと言えない!」
力の入った声で、言葉を張った。
「確かに……お酒の力があって、ようやく言えてる、かも……、いや、だって、こんなこと言えるわけない……よ……、」
本人も少し冷静になったのか、顔を逸らしながら最後まで言葉を紡いだ。
やはりそうだ……これはあくまでお酒のせいで、素面ならアニは間違っても僕にこんなことは言わないだろう。……それは、彼女の本心がどこにあるのかを示していた。酒による気の迷いに僕が喜び勇んで食いつくわけにはいかない。そんなの、虚しいだけだ。
思い知った現状を前に落胆が押し寄せて、僕の中で一気に脱力が生じた。
「……じゃあ悪いけど、僕は君の言葉を真に受けることはできないな」
僕を握っていた彼女の手を優しく解いてやって、それを彼女の身体の上に乗せた。それから掛け布団を足元から引き出して、彼女にかけてやるようにそれを整えた。
「なんっで、こんなに……っ、」
僕の対応が不服だったらしいアニは、またしても僕を掴み引き寄せた。それから先ほどもしたように僕の頭をぐっと抱き寄せて、また唇を重ねる。
抵抗する力が湧かず、されるがままにふ、と唇が触れた。
「……っアルミンっ」
しかし今回、アニは僕が抵抗しないことをいいことに、舌を押し込んできたのだ。
「んっ、あに、まっ、」
「はあっ、は、」
熱を持ったざらつきが口内を撫でて、不覚にもその心地よさに一瞬自分を見失いそうになった。
けれどそれは一瞬だ、すぐに僕はまた力を込めて二人の重なりを解いた。
「アニ、だめだよ。やめて」
そして彼女の口の前に僕の手のひらを挟む。アニはやはり泣いていた。切実そうだったけど……けれど、酔っていることには変わりないのだから、ここで僕が流されるわけにはいかない。今〝正気を保てている〟僕がしっかりしなくてはいけない。
「だって、アルミン……っ」
「……アニ、君がそれを素面のときに言ってくれたら信じるよ。けど、今はわかったとは言えない」
僕にできる精いっぱいはこの説得だった。彼女がもし仮に本心からそう思っていたとして……、その言葉を信じてやれるのは今ではなかった。素面のときに言えないなら、その言葉を僕は真に受けるべきではない。
「……ぐっ、うん……っ、うん、」
アニはその腕で乱暴に涙を拭いながら、何度も頷いて僕の言葉に応えた。……どうやら僕の理屈を理解してくれたらしく、僕はまた彼女の泣いていた頬に触れながら、「わかってくれてありがとう」と語りかけた。――僕は、君が正常な状態でそれを言ってくれることを、密かに待つことにするよ。――それは言わずに、この心の内に秘めることにした。
「……でも、」
「ん?」
アニが腕を下ろして、先ほどまでと変わらない切実そうな眼差しで僕のことを捉えた。またシャツ越しに僕の腕を掴み、
「でも、お願いっ、帰らないで。側にいて……一緒にいて、アルミン」
そう懇願してきた。
――ああ、僕は、これにすこぶる弱い自覚があった。
アニが僕に甘えてくれる。――『アルミン、帰らないで』――あのときのアニの必死な眼差しを思い出して、ぐらりと僕の中の何かが大きく揺れた。
酔っぱらったアニの『好き』に応えるのとは話が違う……側にいてあげるくらい……してもいいだろうか。例えば明日の朝、アニが何一つ覚えてなくても……、今の君の安寧を守ってあげられるなら。
「……わかったよ。それくらいなら」
僕はアニの腕を掴み返して、できる限りの柔らかさを持って彼女に眼差しを注いだ。アニが心底安心して、ゆっくりと休んでくれるように。
すると彼女は僕が願った通り、心底安心したように頬を緩めた。こんな風に笑うアニは……初めて、見たかもしれない。どきり、と鼓動がひときわ強く打ちつけた。〝あのとき〟側にいてあげるよと言ったときの彼女は、変わらず怯えたような顔をしていたような気がするから――、
「よかった……ねえ、手を握ってて。起きたときにいなかったら、私また泣くから」
「あはは、大丈夫、そんなことしないよ」
思い出の中に迷い込みかけたところで呼び戻され、僕はそのままアニの手のひらを強く握った。やはり酒のせいで体温が上がっているのか、彼女の手のひらはとても暖かかった。
ようやくアニは僕を捕まえるように見ていた眼差しを閉じて、ゆっくりと呼吸を整え始めた。
「うん、よかった」
そのままゆっくりと眠ってくれたらいい。
「アルミン、好き……、」
はた、と、何かを思い出したようにアニはまた目を開いた。それから慌てて僕に顔を向けて、
「ごめん……私、あのとき……っ」
そこで言葉を詰まらせた。
――〝あのとき〟。
そうか、彼女もあのときのことは、まだ、消化できていないのかとわかった。……あのとき僕にしたこと、少しでも悪かったなと思っていてくれたなら、僕も報われる。……結局あのときのことを彼女がどう思っていたかまでは聞けなかったから。でももう、今はこれで十分だ。
「もういいから。もう今日は休んで」
「……ん、ん、」
アニは自分を落ち着けるように何度も頷きながら相槌を打って、また顔を天井へ向けた。瞼を下ろして、ようやく睡眠へ落ちていくように力を手放した。僕が握っている手を握り返していた力もふわりと緩められ、
「お休み」
「おやすみ、アルミン」
でも僕は変わらず彼女の手を、力強く握りしめていた。――彼女の気持ちよさそうな寝息が聞こえてくるまで。
なんだかんだ言って、彼女の寝顔を見たのはとても久しぶりだった。普段、少し険しそうな顔をしている割に寝顔は穏やかで、それはもう可愛いなと思ってしまった。本当は隠れて頬か額にキスをしたかったのだけど、僕たちは付き合っているわけでもないし、そんなことをしたら彼女は嫌だろうと思って必死に抑えた。
それから彼女のシャツのボタンを上から二つほど外してやる。これで幾分か寝やすいだろう。
僕はそのまま隣に座り込んで、しばらく彼女の安らかな寝顔を眺めた。それを見ていたら、〝あのころ〟のことがふつふつと沸き上がってきて、いくつもの思い出が駆け巡る。
僕が漫画を読んでいるときに、いつの間にか隣で寝落ちていたこともあったアニ。反対に彼女が演奏するギターを聴きながら、僕がうとうとしてしまったときもあったっけ。あれは確か、テスト勉強のために夜更かしをしてしまった次の日とかだった。
――『……あ、るみ……んっ』
〝あのとき〟初めて彼女と身体を許し合ったときのことも当然ながら浮かぶ。僕の中で、もっとも鮮烈な思い出だ。
彼女の身体にあった、いくつかの青あざを……僕は忘れたことはなかった。彼女と彼女の父が折り合いがついていないのはなんとなくわかっていたのだけど、僕は彼女の裸体を見たとき、おぞましいほどの怒りと、切なさと、愛おしさを抱いた。こんなに綺麗で、幼気で、愛おしいひとに、傷をつける人間がいることにひどく落胆して……、『僕が一生、アニを守っていくんだ』と……そのとき、自分自身に強く誓ったのを覚えている。
だから情事のあとに彼女に『帰らないで』と言われたことは幸福だった。幸福であり……でも、切なくもあり、力が漲るようでもあった。彼女が僕を求めてくれること、僕に優しさを見つけてくれること、頼ってくれること、それが嬉しくて、全身全霊で彼女の側にいて守ってやりたいと、彼女の頭を撫でる度に何度も何度も誓い直した……あのとき。
だからこそ、次の日いきなり『もう会いたくない』と言われて突き放されてことは、僕のなかでまったく理解ができなくて、辻褄の合わない出来事だった。どうして、どうして、と闇雲の彼女との面談を試みたけれど……それはついぞ叶わないまま、僕たちは離別の道へ入って行ってしまった。
こういう経緯を経ていたから、今回再会できたこの好機を、僕は逃すわけにはいかないと思ったのだ。
――『また、アルミンのこと、好きになった』
先ほど彼女がお酒の力に惑わされて言った言葉を、縋るように思い出していた。
……彼女は僕に対して恋人がいると嘘を吐いた。それくらい、僕を遠ざけたかったから。……だけどときどき、僕は勘違いしそうになる。アニが、切実そうな目で僕を見るから……。あんな風に、涙を流すから……。彼女の本心は、今、どこにあるのだろう。……僕は、あのとき自分に誓ったことを、またこの胸に抱き直していいのだろうか。……期待しても、いいのだろうか……。
*
翌朝、僕がまずしたことと言えば、何も覚えていないという彼女に心底気が抜けることだった。……あわよくば、彼女自身が言ったことをいくつか覚えていてくれて、お酒が抜けた状態で再度なにか建設的な話ができたらなあ、と思っていたが……まあ、すべては期待のしすぎだったとわかる。
けれど、彼女と二人で話しているときに陥った不思議な空気感や、彼女からの熱烈なキスを通して、僕の中ではもしかしてと見当がつき始めた。
――もしかして、彼女が昨晩、酔っ払いながらもくれた告白は、本心に近かったのではないか。そして、それを今阻んでいるものは理性でも冷静さでもなく、〝意地〟なのではないか。
だから僕は彼女を試すように尋ねたのだ。
『これが君の本心?』と。結果は、否定されて終わったけども。……けれどならばなぜ、そんな苦しそうな顔つきをするのだろうと、僕の中では違和感は拭えなかった。
否定されたことに耐えられず帰宅したあとも、彼女の矛盾点がいろいろと思考の真ん中に浮かび、僕はその中で溺れていくようだった。……結局、僕はアニに〝同僚以上にはならない〟と啖呵を切っておきながら、未練たらたらなのだ。いや、下心満載と言ったほうが正しいだろうか。――あわよくばまた彼女の隣に……と思っていることは否定できず、それはつまり、下心……と言ってしまえるだろう。
だけど、八年前に彼女が僕にした仕打ちもまた事実で、そうまでして僕のことを嫌っていたはずではないかとも思考は巡る。だからこそ、彼女は僕に嘘を吐いていたのだし、仮に彼女がいまさら心変わりをしていたとして、僕がそれを確信できるだけの材料は揃わない。……彼女が僕との間に予防線を張っていたという事実がある以上、僕の中でそれは永遠に引っかかり続けるだろう。
――『君がそれを素面のときに言ってくれたら信じるよ』
自分で彼女に言った言葉を思い出した。
そうだ、もし仮に彼女が心変わりをしてくれていたとして、それを確かめる術はこれしかない。……彼女自身の口から、それを聞くことだった。
今はもう、なんとなくだが酔っ払っているときにアニが言ったことが、本心なのではないかと見方は傾いている。そう思える節が多いからだ。僕の確信を唯一妨げているものは彼女が振る舞う〝僕が嫌だという素振り〟だけだ。……ならば僕は、彼女に告げた通り、彼女がそれを自らの意思で、理性も冷静さも意地も越えて言ってくれたときに、それを信じてやればいい。そう思った。
それから僕は彼女が自分から言えるように、何度も場を作ろうと試みた。映画に一緒に行くこともその一環だったし、映画のワンシーンを拝借して彼女に「手、繋ぎたくない?」と投げかけたことも、そのあと彼女に「恋人っていいな」と告げたことも……すべて、彼女が気持ちを固めてくれる材料になればいいなと思ってそうした。
だが、実際的に彼女がその度に見せる反応は頑なだった。僕はすぐにアニの中でも何かしらの葛藤があることがわかり……彼女の崩れ落ちてしまいそうな顔を見て、見ていられなくて……「冗談だよ」と、場を濁してしまった。
僕の中でも葛藤は尽きなかった。彼女はおそらく僕に傾いてくれている――それがわかる表情や仕草を度々溢しているにも関わらず、それを認めようとしない。それはなぜだろう。アニの中で、いったい何がそんなに引っ掛かっているのだろう。……僕はこれ以上期待を抱くことをやめたほうがいいのだろうか。彼女をかき乱すだけで、無駄になってしまうだろうか。――自宅のベッドの上で暗闇を眺めながら、そんなことを何度も何度もくり返し考えた。
僕が『ここだ』と確信したのは、アニに模様替えをするから家に来てくれないかと誘われたときだ。彼女が僕を家に呼ぶ意図はよくわからないけど、少なくとも僕を嫌がっていたり、遠ざけたいという気持ちはないはずだとすぐに思いつく。そんな感情を抱いている相手を自宅に招いたりしないからだ。
もちろん『模様替え』以上の何かしらの意図があったのはわかっていたが、僕はそれが何かというよりも、僕もそれを利用してやろうという心持ちでいっぱいだった。――ここで、彼女の葛藤や意地を越える衝撃を与えることができたなら、もしかしたら彼女の口を割ることができるかもしれない。
ならば何を彼女に言うのが最も効果的だろうかと、僕はそればかりを考えて当日に臨んだ。
***
――ついにそのときがきてしまった。なんとかやり過ごせるかなと思ったのだけど、やはりどうにもこうにも難しかった。
僕は二人が身体を重ね損ねたベッドの上で、目が冴えたまま横になっていた。
……アニから彼女の本心を聞いた僕は、また彼女の側にいられることが心底嬉しかった。それは嘘ではない。……だから浮かれていて、僕は僕自身が抱えた〝問題〟を軽視してしまっていた。
……初めてアニ以外の女性と〝そういう雰囲気〟になったのは、アニと別れて四年後だった。大学の先輩の家に連れ込まれて、あれよあれよという内にその場の雰囲気に飲まれてしまい、僕はその先輩に身体を許した。――もちろん、その先輩とは互いに好印象を持っていた自覚があって、こんな風に始まるカップルもありかと流された。おそらくその先輩もそう思っていただろう。発想に長け、好奇心が旺盛な、明るいタイプのひとだった。
けれど、僕はまさにその現場で思い知る羽目となる。僕の中に、どれだけ根深く〝アニ〟が絡みついていたのかを。アニに振られた理由をずっと『セックスが下手くそだったから』だと思っていた僕は、その先輩に服を開けさせられたところで、一気に冷静になり、まだ何もしてないのに〝賢者タイム〟のような時間が訪れた。――『また僕の下手さのせいでこのひとを傷つけてしまう』――……当たり前だがそんな状態の僕が、その場でその先輩と完遂できるはずもなく、僕たちは気まずくなってそのまま距離を置くようになってしまった。
さらに一年後、傷心も忘れかけたころに、僕は友だちに誘われた科学パーティでとある女性と出会った。彼女とは真面目に恋愛のようなものをした。とても素敵な女性で、聞き上手でよく笑うひとだった。口下手な彼女が一生懸命に告白してくれて、僕は彼女なら好きになっていけると思い、彼女の気持ちを受け取った。――それなのに、僕の思った通りにはならなかった。僕はそのひとと一緒にいるときも幾度となくアニのことを思い出してしまうことが続いたのだ。自分に『忘れろ』と唱えながらときは進み、訪れた情事の機会に、僕はまた失態を晒してしまった。……彼女はそれでもいいと言ってくれたけど、僕が居たたまれなくて彼女との別れを切り出した。……そもそもアニが何度も僕の中にちらついていたのだ、こんな状態ではとてもではないが誰か〝ほかの女性〟と付き合うなど不可能だと、そこで僕は判断してしまった。
だから僕の中にはしばらく、アニに対して愛憎入れ混じった感情が居座っていた。……それもときが治めてくれたけど。
そんなだったので、アニと再会するまでもう誰ともそういう間柄にはならなかったし、アニと再会して僕は心のどこかで少し安堵したのだと思う。思えば、彼女となら上手く〝できる〟のではと思い込んでいたのかもしれない。
けれど現実はそう簡単には展開しなかった。アニと再び付き合うようになって、何度もそういう雰囲気になったというのに、僕はその度に冷静になってしまい、上手くことを進められなかったのだ。もうあのとき別れた原因が僕のセックスにはなかったとわかっても、それでもアニとのセックス中に涙を流した彼女を思い出してしまい、『そうは言ってもやはりお前には無理だ』と思考が過って、勃っていたものもすぐに萎えてしまった。
僕はアニが今、僕の腕の中でまだ眠っていないことをわかっている。おそらくアニも、僕がまだ起きていることに気づいているだろう。僕たちは暗闇の中、アニの部屋のベッドの上で、互いが寝たふりをしながら思考をぐるぐると巡らせていた。
先ほど、僕が情事中に勃たないことを知ったアニが、必死になって僕を慰めてくれた。彼女に責任があるのだと察してくれたのだろう。……誰のせい、なんてことはないが、確かに僕の中にいつまでも絡みついていたアニの存在は否定できなかった。……だからこそ僕も、もしかしたらアニがしてくれるなら、とは思った。……けれど、結果はこれまでと変わらなくて、二人の初めての――再会して初めての――情事は、失敗に終わってしまった。
それでもそれに納得がいっていなかったのかアニが続けようとしたので、僕が無理やりにその場の流れを断ち切ってやった。これ以上アニが気に病まないように、アニのせいではないと何度も言い聞かせて、僕は彼女に忘れるように促した。
……けれど、忘れてどうなる? この先、僕たちはこうやって上手くいかない情事を続けていくのか。続けていけば、いつかは上手くいくようになるのか。……そんなわけはないだろう。
僕の眼が未だに冴えていたのはそういう理由だった。アニとのこれまでのこと、今のこと、今後のこと……それらが目まぐるしく脳みその中を駆け巡って、回転数がいつまでも落ちない。……僕はこのまま、アニと一緒にいていいのだろうか。彼女を守ってあげたいと思ったけれど……彼女を満足させてあげることができないのは確かだった。
度々彼女は自分で僕の手を誘導して、彼女の身体に触れるように促した。僕の状態を知らずに『先へ進みたい』と言った。……つまりアニは、〝セックスがしたいひと〟なのだなと、さすがの僕でもわかる。そんな彼女と、セックスができない僕とでは、結局釣り合わないのではないか。
僕の考えはまとまらないまま、次の日までそれは持ち越された。それこそ僕自身が彼女の目の前で気にしている素振りを見せるわけにもいかないので、なるべく自然に振る舞って家を先に出た。幸いなことに今日はアニは遅番だったのだ。
僕は昨晩から収まらずにぐるぐると巡っている思考を抱え、そのまま出勤した。ロッカールームでスタッフ証とエプロンをかけてホールへ出る。開館までまだ少しだけ時間があることから、僕は施設の外に設置された返却ボックスの中身を取りに行った。
――実は僕は、三人目の女性のあと、病院に行ってみたことがある。事細かに現状を聞かれて、それではとセックスの前に飲む頓服薬をもらった。……けれどなんとなくその薬に抵抗があった僕は、その処方箋を薬局に持って行くことはなかった。……とは言っても、結局それを飲むような機会も訪れなかったのだから同じことだ。
そしてアニと付き合うようになった今、僕は再び病院に行ってその薬をもらうべきだろうかと頭を過る。けれどそう考えたときに、やはり心のどこかで抵抗感があって気が引けてしまう。具体的にどうして、とは言えないが、なんとなくその〝薬を服用して性行為をする〟という行動に嫌悪感を抱いていたのかもしれない。
〝アニはセックスがしたいひとだ〟
そう思ったら、頭のてっぺんから僕の中で何かが崩れ落ちていくような寂しさがあった。――アニと同じような気持ちにはなれない、そんな後ろめたさがある。彼女のことが好きだし、キスも触れ合いも心地が良くてときどき没頭させられる。……けれど、薬を服用しなければいけない性行為なら、僕は特にそこまでしたいとは思えない。
そう思ったときに、僕は彼女を満足させてあげられない、とまた昨晩の思考が浮かぶのだ。そしてそのまま、彼女とはもう、別れてしまったほうが彼女のためなのではないかと、続いていく。彼女のことを一生守ってあげたいなんて思い上がったことを考えたけれど、僕たちはあのとき、別れるべくして別れたのだとしたら? アニはもうお父さんと関わりがあまりないようだし、僕が守ってあげる必要もない……のではないか。
「――はあ」
「あれ、アルレルトさん。ついにため息ですか?」
「……え?」
開館したあとのカウンター内で、僕が返却された本を腰を落として一冊一冊確認してるときだった。隣で作業していた僕より若い司書の子が声をかけてきた。アニと同じくらい小柄の彼女だが、髪の毛はショートカットにしている溌剌とした子だ。
「いや、ここ最近元気ないなあ〜って思ってたんですけど……悩みですか?」
茶化すようではなく、割と真面目に聞いてくれているのがその視線でわかる。
……ここ最近……アニと触れ合うようになって、情事の途中で上手くいかないことをくり返し経験して……表面上は隠せているつもりだったのだけど、どうやらこの子曰く、単なるつもりだったらしいと知らされた。僕はやはり、気にせずにはいられなかった。どうにかなるのでは、と軽視してアニとよりを戻したこと、申し訳なく思っている。……先にことのことを言っていれば、もしかしたらアニは……僕とよりを戻す選択をしなかったかもしれないと思うと、やはり、それは少し落ち込む。
普段の僕はここでも隠してしまうところだが、今日はなんとなく吐露したい気持ちになった。そのお陰で僕が限界に近かったことがようやく自覚できる。
はあ、ともう一度ため息を聞いてもらい、
「……ずっと一緒になりたいと思っていた人がいて、でも、もしかしたら価値観が違ったのかもしれないって……」
セックスしたいアニと、別にそこまでしてセックスしたいと思えない僕。……やはりパートナーとしてこの部分での齟齬はきっと大きいはずで……軽視していいものではなかった。
「……わ、恋の悩みですか?」
僕の話を聞いてくれていたこの司書の子が少し身体を引いて顔を顰めた。僕が恋の悩みがあることに驚いたような反応だが、僕だって立派な人間なので恋愛くらいする。そういう気持ちが表れたのか、僕までムッと唇を結んでしまい、その子はそれをしっかりと察してくれたようだ。
彼女は持っていた本の山を一旦その場に置き、僕と目線を合わせるように身体を屈めた。
「価値観は大事ですからねー。どんなに好きでも、価値観違うとのちのちしんどいですよ」
なんと、大真面目な意見が返ってきたことに今度は僕が驚かされた。予想外だったので瞬きをぱちくりとくり返してしまい、それから僕はこの子の言ったことをしっかりと消化するように、自分の手元へ視線を落とした。
「……そう……だよね……」
――『価値観が違うとのちのちしんどいですよ』
そうだ、そうだと思っていた。価値観の違いは二人を傷つけるだろうし、二人の関係も傷つけてしまうだろう。……ならばやはり、そうやって傷が深くなる前に、僕はアニと離別するべきではないのか。ごくごく短い間にそこまで思考が巡った。
また無意識に呼吸が深くなり、「……はあ」と大きな大きな嘆息を零してしまった。すると隣にいたこの司書の子はハッと体勢を上げ、
「ほらほら吸って! 福が逃げますよ!」
僕の顔の前で謎に手をぱたぱたとはためかせた。どうやら〝ため息を吐くと福が逃げる〟を懸念して、反対をさせているらしかった。
退勤が近づくにつれて、僕の中ではアニと別れるほうがお互いにとっていいのだろうという考えが濃厚になっていた。お互い傷が浅い内にことを済ませてしまったほうがいいと思い、ならばもう今日、早速その話を切り出してしまおうと、そこまで僕は腹を括っていた。
だが帰り際になって、遅番で出勤していたはずのアニが勤務店にいないことに気づいた。
今日は〝話したいこと〟があるから、先にアニの家に行っとくね、とそう伝えたかったのだが、肝心な彼女がいないのであればどうしようもない。とりあえずそこで勤務していた別の店員に彼女について確認すると、ああ、と興味の薄かったものを掘り起こすように呟いたあと、「早退したよ」と一言教えてくれた。
……早退? もちろん僕はその返答だけでは納得がいかず、「理由は聞いた?」と続けた。
その店員はくるりと瞳を回してそのときの状況を思い返しているようだった。
「いや、険しそうな顔をしていたから、体調が悪いのかなと」
「……そ、そう……」
つまり、明確な理由は把握していないらしい。だが、今朝のアニはそれほど体調が悪そうでもなかったなと、僕も思い返しながら応対してくれた店員に挨拶をした。
それから僕は車に向かいながら、どうしたのだろうと考えた。
もし本当に体調を崩してしまったのなら、今日別れを切り出すのは酷だろうなと過り、僕は携帯端末を手に握った。とりあえずは彼女の体調が気になったので、そのようにメッセージした。――別れ話をするにせよしないにせよ、もし彼女が本当に体調を崩しているなら、側にいてあげたいと思った。……これから別れ話をしようという相手にこんな気持ちはおかしいだろうか。
彼女から返事がくるまでの五分ほど、目の前にあるハンドルを観察しながら、今日の僕をまた追従するように思考を思い出していく。
僕は決してアニが嫌いになったわけでない。むしろ今だって大好きだし、叶うなら守ってあげたいと思う……僕自身の手で。でも、彼女を満足させてあげられる自身が僕にはなかった。……きっと彼女には急がなくたって、僕よりも遥かにいいひとが現れてくれるだろうと思う。――僕らはお互いのためにも、ここで離れたほうがいい。……そう、僕は自分の心の整理も兼ねて思い返した。
「……はあ」
これからのことを思い浮かべて、またしても特大級の溜息を吐いてしまう。あの司書の子がいたら、また『吸って!』と促してくるだろうか。
そこでアニから返事がくる。特に体調については何も言及されないままだったが、つまりは問題はなさそうで、僕がこのままアニのところに行くことも了承してくれた。――ではなぜ彼女は早退なんてしたのだろう。何か急用ができたのだろうかと思ったが、それにしては僕がこのまま行くことを了承されたのだから、それも不自然な話だ。
それなら、と僕は車のエンジンをかけて、早速とアニのアパートに向かう。真相を確かめると同時にもしこのままアニに問題がないなら、僕はすぐにでも別れたいという旨を切り出すつもりで改めて緊張感で覚悟を固めた。気が重たくなることは先に済ませておきたいからだ。……お互い、傷が浅い内がいい。……傷が、浅い内が。
アパートに到着して、僕は緊張感に急かされるまま、アニの部屋に急いだ。……急ぐ必要はなかったのだが、なんとなく気持ちが急いていた。
玄関のチャイムを鳴らすと中から『入ってて』と声がしたので、ああそうだったと思い出した僕は、アニから少し前に預かっていた合鍵を出した。
鍵を開けながら、アニはどうしたのだろうとまた考える。ドア越しのようなくぐもった声だったことから、気分が悪くてお手洗いにでも入っているのだろうかと心配した。
とりあえず中に入ってから僕は玄関の鍵をかけ直す。それから玄関口に急いで上がり、そこで上着を脱いで鞄を置いた。
それからアニの居場所を探るように神経を尖らせて、ゆっくりと廊下を下った。しかしアニの気配はどこにもなかった。……おかしいなと思ったところで、リビングに入ったところ、カウンターの上に見慣れないビニール袋があることに気がついた。
中身が見えないようになっている黒色のビニール袋は昨今の買い物袋としては不自然で、自然とそちらに手が伸びた。そもそも、そこから何やらのパッケージが始めから手招くように覗いていた。
その部分だけでも『即効性』という文字列が見えて、そのまま訝しみながら拾い上げて僕は目玉をひん剥いてしまった。
――『精力増強剤』と、パッケージ箱の上のほうに添えられていたのだ。その増強剤の名前は頭には入ってこない、まるでその存在を無意識下で拒絶しているようで、なんとなく目眩のような気が遠のくような感覚を味わった。……これを、アニが……?
カタン、という扉の音、それに続くきしり、と床の軋む音が耳に入って、僕はアニの気配を察した。彼女がゆっくりとこちらに歩み寄っていることがわかり、自分を落ち着けるようにわざと勿体ぶった動作で視線を向けた。
「……これは?」
アニはいつもと違うガウンのようなものを着ていたことが確かに気に留まりはしたが、今はそんなことよりも気がかりなことがあった。彼女も僕がこの品物を手にしていることに驚いているようだったけど、
「……その、精力剤って、やつ……アルミンに」
何かに急かされたように早口でそれを教えてくれた。……いや、まあ、それはパッケージを見ればわかるんだけど、と思ってしまった僕だ。僕が聞きたいのは、どうしてこんなものがここにあるのかということ。そして、これはアニが入手したものなのか、それならばどんな意図があったのか。そういうことだった。
こういうものは一概にして〝男性側〟が飲むようなもので、アニ自身が飲みたかったわけでもないだろう。
「……えと……」
あまりアニの返答に期待が持てなかった僕は、それを拒絶するようにまたパッケージに視線を落とした。さきほど読み取った以上の情報はもちろん何も記されておらず……、
「その、アルミン、病院には行った……? 勃たないの、病院で薬もらえるって」
アニの口から聞きたくなかった言葉が飛び出してきた。――アニはやはり、薬を服用してでも性行為がしたいひと、なのだ。落胆が深く僕を地面に叩きつけるようだった。
「……あ、ううん……行ってないよ……」
身体が重くなった僕は、そのままパッケージを持っていた腕だけを下ろした。
アニはやはり僕に病院に行ってほしいのだろうか。自分でもどうして今さらこんな嘘を吐いたのかわからないけど、もしかしたら期待をさせたくなかったのかもしれない。
とにかくこの目でその反応を確認したく、
「行くほど、セックスしたいってわけじゃ、なかったし……」
彼女を一瞥した。
アニは明らかに何かに動揺していた。忙しなく自分の髪の毛を触りながら、あちこちに視線を泳がせた。――しまった、と僕はここで自分が感情を垂れ流しにしていたことに気づいた。
「そ、その、たっ、勃たなくなったの、私のせいだと思うし、何かしたいと思って……病院、行きたくないなら……その、それで……」
どうやらアニは、病院の薬の代わりにこれを飲んでセックスしようと言っているらしい。
感情を垂れ流しにしていたことには気づいたが、それにしてもこの落胆や寂しさは、うまく隠せるものでもなかった。
――そうだ、いい機会だ。どうせ僕はアニと別れようと思っていたのだから、最高のタイミングではないかと、皮肉のような思考が浮かぶ。
僕は、『よし、今、言ってしまおう』と深く息を吸った。僕たちは価値観が合わない、これ以上お互いを傷つける前に……僕たち、は。……僕たちは、こんな風に終わるのか……。いや、だって、僕はアニを満足させてあげられないから……、
「……アニ。……あのね、僕さ、」
「ごめん、その、」
ハッと息を捕まえる。僕自身に迷いはあったけれど、それ以上に明確に、アニが僕の言葉を遮ったからだ。
僕の考えていたことが伝わっていたのだろうかと勘ぐった。
「どうしてもアルミンとセックスがしたいとか、そういうわけじゃなくて、」
――そういうわけじゃ、ない?
僕はその言葉を聞いて、不覚にも怯んでしまった。……アニは、もし僕がこのままセックスできなくても、受け入れてくれる?
「……いや、そうなんだけど、」
けれどすべてをまたひっくり返すような言葉が挟まり、また、あぁ、と落胆が割って入る。
しかしアニの言葉はそこでは止まらず、
「でも、アルミンに悪いことしたなって。何かしたくて……」
そしてそこでようやく言葉を止めた。……おそらく、一番伝えたかったのは最後の文章だったのだろう。
――『悪いことしたなって』
彼女のこの言葉が本心なら、必ずしも彼女のこの行動の原動力は〝セックスがしたい〟ということだけではないのかもしれない。
彼女のこの行動が、本当に純粋に僕を思ってくれてのことだったなら――それならば、それは、愛おしいなと、少しだけ心が軽くなった。
「た、試してみるだけでいい。一度試してみて、うまくいけばいいかなって」
アニの表情を見ていても、自分の気持ちを押し通そうというよりは、僕の気持ちを気にかけてくれているということがよくわかる。
そうだ、彼女も『試してみるだけでいい』と言っているし……。これで試してみて、……しかし、それでもどうにもならなければ……これは、僕たちの不釣り合いの証明になってしまうだろうか。
だが……。僕は思考しながらアニのことを気にかける。試すだけで彼女の気が済むなら、別に害はないだろう。……そうだ、もしこれで上手くことが運べば、僕は彼女の隣を諦めなくてよくなる……ということも、あり得る。
彼女は思い出したようにハッと身体を緩め、それから、
「……ごめん、迷惑だった……らしいね」
急いで僕から顔を隠すように背中を向けた。
今、アニが少し泣きそうな顔をしていたことにも気づいてしまった。……やはり彼女が躍起になっているのは、ただ彼女が〝セックスがしたい〟という感情によるものだけではない。それは明らかだ。
心なしか少し縮こまるようなその背中から目が離せなくなった。
……彼女がここまでしてくれたのだ。そもそもこの精力剤はどこで入手したのだ、袋からして実店舗だろうと予想がつく。……あの、意地っ張りで照れ屋のアニが、僕にここまでしてくれた。ようやくそこまで思考がたどり着いた。――ならば、試すくらいなら……いいのではないか。それくらいなら、例え上手くいかなくても、どんな結果になっても、しっかりと向き合っていけるような気がした。
僕は再び持っていた精力増強剤のパッケージを見下ろした。アニが僕のことを考えて買ってきてくれたのかと思ったら、不思議と僕の中で勇気が固まった。
本当はこういうものに頼りたくはなかったのだけど、今回だけはアニのためにやってみようと思えた。
僕はパッケージを一思いに開けて、その中に入っていた小瓶を取り出しながら、その箱はビニール袋の上に重ねた。
その音が気になったのか、アニがちらりとこちらを覗くので、
「……今回だけ。今回だけ、試してみるよ」
僕は彼女にそのエナジードリンクのような暗い色の小瓶が見えるのように掲げた。
アニからは僕の決断に意表を突かれたような戸惑いの声が漏れていたが、僕はその気が失われない内にと、かしゅりと瓶の蓋を開いた。それを勢いよく口に宛て、ためらいなどかなぐり捨ててその未知なる飲料を口に含んだ。
少し炭酸のような刺激的な液剤を、この喉の奥にごくりごくりと流し込んでいく。炭酸のようなと思ったが、もしかしてこれは少しの辛さだろうかとも思う。とにかく、初めて口にするような不思議な味の飲料だった。
一体どんな成分が入っているのだろうと気になり、飲み干しついでにその小瓶を見下ろしてみる。字が小さすぎてこれは読んでいられないなと思ってしまい、
「これ、ちょっと辛いっていうか、なんとも言えない――、」
アニのほうへ視線を向けた。
「――って、あ、ぁアニ!?」
僕の視界に入ったアニの姿に思わず声を上げてしまった。先ほどまで着ていたガウンを脱いだのか、彼女は総レースから薄らと肌が浮かび上がる、いかにも卑猥な下着姿でそこに立っていたのだ。
「……その、こういうのも、効果ある、かもって……」
顔を真っ赤にして身動ぎを抑えているアニの姿は、蠱惑的で敵わなかった。好きな女性が恥じらいをちらつかせながらこんな姿を晒していたら、それは僕だって男なわけで、まんまとその〝効果〟に乗せられてしまった。
ぐわ、と身体が熱っていくのを感じるが、以前処方してもらった薬剤同様、こういったものは効果が出始めるのに十五分以上はかかるはずだ。……ということは、この身体の火照りは間違いなく、アニのこんな姿を目にしてしまったからで、
「まっ、待って。ちょっと、ちゃんと着て」
僕はその自分の情動を信じられず、慌てて床に落ちていた彼女のガウンを拾い上げて肩にかけた。
「いくら何かしたいからって、もっと自分を大事にしなきゃ」
こんな着ているのかいないのかわからないような下着を身につけてまで、僕の助けになりたいと思ってくれたことを考えると、なおさら頭がおかしくなってしまいそうだ。――アニの性格を考えれば、こんなもの率先して着たいはすがないだろうに。
必死に僕自身の中にある理性とともに戦って、アニを見ないように視線をとりあえずどこでもいいので横へ逸らした。
「……あ、アルミンは、こういうの、あんまり好きじゃなかった……?」
アニが恐る恐るとそう尋ねる。彼女が自分から僕を煽るようにガウンをはだけて見せたことが気配でわかる。……なんてことだ。なんて、ことだ。僕は必死に理性と手を組み戦っていた。
アニのことを考えると、その姿をまじまじと見てしまうのは失礼だとわかる。……わかるのに、ああ、これはなんたる試練だ。
少しちらっと見ただけだったが、彼女の素肌に当たる繊細なパターンのレースがまた頭によぎる。黒一色のその下着は、アニの肌の白さや艶やかさを際立てていた。……そうだ、ふっくらと膨らんだ胸の丸みも見えていた。
僕が必死に戦っているというのに、アニのほうから諦めたような息遣いが聞こえた。その刹那に僕は、すべての本能に負けてしまった。
……だって、アニは、この姿を僕に見せたくてこの下着を着たのではないかと気づいてしまったからだ。彼女が着たくて着たわけではなくとも、僕のために何かできないかと考えてくれた結果なのならば、……むしろ、見ないほうが彼女の自尊心を傷つけることになるのではないか。
この思考が果たして、理性と本能どちらの主導のもと行なわれたものか、既に検証するだけの余裕はなかった。
僕は頑なに目を向けないようにしていた態度を改めて、彼女のことをしっかりと目に入れた。顔が熱いので、きっと僕は既に真っ赤になっているだろう。それでも、彼女の努力に報いるために、僕は僕の羞恥を収めることにした。
「そりゃ、嫌いなわけないけど……」
アニのその姿をしっかりと焼きつけるように歩み寄る。
先ほどちらっと見ただけだったが、今度は違う。アニの身体のラインを余すことなく見せつけるその、寄り添うような繊細な布を目で追う。〝下着〟だと分類するものなのだろうが、それをそう定義してしまうのは少し安直なようにも思えた。
レースの隙間から覗く素肌は柔らかそうで、今すぐにでも触れたいと思わせる魔力を持っている。……まるで、触れてくれとでも誘惑されているような性急さを抱かせた。
「……キス、していいの?」
僕はその性急さのまま、待ちきれずにアニの頬に触れていた。レースから覗く肌と同様に、もちりと気持ちのいい触れ心地にさらに本能が疼く。
ひととき安堵するように伏せられていたアニの瞳が僕を捉えて、くっと力を溜めたのがわかった。
「うん、いいよ」
すぐにそうやって許可をくれたけど、今の間は身構えたのだと考えなくてもわかったので、
「すごく、触りたいけど、いい……?」
僕は言葉を変えてアニに警告した。本当に嫌なら今突き放してくれないと、僕は好き勝手にこの身体に触れてしまうだろう。そんな危うさを自分でも感じていたが、もはや好奇心に勝てなくなっていた。
頬に触れていた手をしっとりとアニの首に沿って下らせ、それからそろりと肩を撫でてやる。
「……うん」
そうして自分でも歯止めが効かないのではと懸念していた僕に、アニはなんと少しだけ両手を広げて見せてくれた。それはさも『すべてあなたのものです』と言われているような気持ちになって、彼女のその献身が心から愛おしくて、……切なくなるほど彼女を愛した。
僕はなんて尚早なことを考えていたのだろう。
やさしくしたい。彼女を、世界で一番満足させてあげたい。世界で一番の、安寧を感じてもらいたい。
溢れた気持ちのまま彼女の唇に僕のを重ねた。できる限りの柔らかさで啄み、
「……ん、アルミン……っ」
彼女が隙を見せてくれたところで舌を送り込んだ。
「はぁっ、アニ……、」
そして僕は初めて、アニの誘導なしでその可愛らしい胸の膨らみに触れた。胸の大小はよくわからないけれど、握り込めばしっかりと五指で柔らかさに沈み込むのがわかる。
わざとなのだろう。レースの隙間から漏れる肌の感触が際立ってさらさらとしていて、触り心地がよかった。僕は何度も何度も、キスを交わしながら彼女の胸を揉みしだいた。
「んっ、ある……みんっ」
アニが心地良さそうな声を漏らしながら、ぐっと身体を寄せた。僕はそれがたまらなくて、アニの胸を触っていた手を彼女の腰に回して、さらに抱き寄せる。すると僕の手は自然とアニの形のいい尻に触れる位置に降り、今度は胸にしていたのと同じように、その柔らかさと弾力のある尻たぶを揉んだ。
そうして僕たちは、アニが願ってくれた通り、必死に互いを愛で合っていった。
――すべてが終わったあと、僕たちはまだ息も絶え絶えながら、しっかりとお互いを抱きしめ合っていた。……そう、今回アニが用意してくれた機会は、何とか上手くことが運んだのだ。僕は無事に最後まで達することができた。
繋がらなくなった僕たちは隣り合わせに横になり、僕はアニのことをしばらく見つめた。……見返してくれるその眼差しが、汗だくになって僕を受け入れてくれたその情熱が、好きで好きでたまらなかった。
――僕はこんなに愛おしい人を、手放そうとしていたなんて。
ふり返っておぞましくなった。……僕がアニを諦めずに済んだこと、アニが用意してくれたこの機会が、言葉にできないほど愛おしい。
この愛おしさが伝わるといいなと思った。
「アニ、大好きだよ。アニ」
「うん」
だから汗を含んだ彼女の髪の毛に触れて、頬に触れて、僕はそれを言葉で伝えた。
「……今日、試してみて、よかった」
そして、これは本意は伝わらないだろうと思いながらも、伝えずにはいられなくて言葉にした。
今日、試さなければ、僕はあのままアニと別れる選択をしていたかもしれないから。本当に、繋ぎ止めてくれたアニに感謝が止まらなかった。
「……うん、よかった」
はにかむように笑うアニが可愛くていつまでも見ていたい。けれど、そんな可愛い彼女を見ていたら、僕の身体はどんどん元気になってしまい、ああこれはだめだと諦めることにした。
――そのあと、僕はアニをこれ以上巻き込まないために一人でお手洗いに篭った。もちろん、精力増強剤の効果が底を尽きるまで、僕は仕方なく自分と戦った。
途中アニがシャワーに入る旨を告げたりして、あちこちと忙しなく動いていたのを観測していた。……裏を返せば、僕が落ち着くまでそれだけ長い時間がかかったということだけども。
僕がようやく落ち着いてアニの元へ戻ると、ベッドのシーツやらアニの寝巻きやら、いろんなものが新鮮なものに取り替えられていた。
そのベッドに気持ちよさそうに横たわっているアニを見つけて歩み寄る。
「アニ?」
声をかけると、ぐぅ、と寝息が聞こえて、ああしまった、起こしてしまったかと少し申し訳なくなった。
アニはすぐに目を開いて「……あ、ごめん」と、おそらく寝ていたことに対して謝罪をしてくれたのだが、
「ううん。ぜんぜんいいよ。疲れたよね」
僕はそんなアニを後ろから抱き抱えるようにベッドに入った。
精力剤のせいとは言え、少し激しめにアニに抱いてしまった自覚はあったので、彼女が身体を休めたい道理もわかるし、そうしてほしいとも思った。
ふわりと、アニの家で使われているシャンプーの匂いが鼻先を掠めた。彼女のうなじに鼻を埋めて吸い込む空気は格別に心地がよかった。
するとアニの手が僕の腕を優しく掴んだのがわかる。彼女も僕に触れたいと思ってくれているようで、些細なことだけども、なんとなくその行動が嬉しかった。
こんなに居心地がいい場所を、僕は危うく手放すところだったのだと思い返して、昨日からの僕の融通の効かない、また安直だった思考を少し後悔した。……そうはならなかったけれど、僕はアニに別れ話をしようとしていたのだ。……それはもちろん、後ろめたさみたいなものは抱いてしまう。アニが愛おしいと思えば思うほど、なんてことを考えていたのかと自責される。――アニはこんなに僕のことを想ってくれていたのに。
「……ごめん、アニ」
僕は一時、それを懺悔しようかと本気で思った。
けれどすぐにまた別の角度からの思考が追いついて、その行動を阻んだ。
――なぜなら、別れ話をしようと思っていた、なんて、アニは別に知りたくもないだろうと、思ったからだ。僕が勝手に懺悔したいだけで……せっかく今享受しているこの幸せな空間を、わざわざ壊してしまうことはないかと、そう思考が追いついたのだ。
僕は急いで代わりの話題を考えた。アニに呼びかけるに相応しい話題を探して、そういえば僕はもう一つアニに懺悔したいことがあることを思い出した。
「本当は嘘を吐いてたことがあるんだ」
だからそう切り出すと、アニは少し呆れたような声色で「……また?」と返した。茶化そうとしていることがわかり、僕もつられて「あはは。ごめん」と笑ってしまう。
こういう軽い空気にしてくれたことはありがたいなと噛み締めながら、「うん、なあに」と先を促すアニの耳元でゆっくりと罪の告白をした。
「本当は、病院には何回か行ってた」
そう、僕はアニに無駄な期待を持たせたくなくて、そう嘘を吐いたのだ。……けれど、今となっては自分が見誤っていただけだとわかったので、また小さな申し訳なさを抱いていた。
「……そうだったの」
見えないからどんな顔をしていたかわからないけど、きっと静かに驚いていたのだろう。そんな声色だった。
「でも、薬を飲むことに抵抗があって。そこまでしてセックスしなくていいかなって……さ」
「うん」
僕はまたそこまで懺悔して、君と別れなくてよかったと付け加えたくなり、それをしっかりとこの身に留めた。――わざわざ言って気にさせるべきことではない。
「まあ、それだけだけど」
そう付け足したのは、これ以上僕が余計なことを言わないためだった。
「……そっか。教えてくれて、ありがと」
やはり顔が見えないことは惜しかったなと思う自分がいて、そうやって僕の弱音を受け止めてくれたアニが愛おしく思う。……でも、正面を向いていたら、きっとまたキスをしてしまっていたから、これでよかったのかもしれない。
僕はアニのうなじにさらに顔を埋めて、ぎゅう、と彼女を一層強く抱きしめた。――好きだ、好きだ、と言葉を降らせる代わりに、抱きしめる力に気持ちをすべて乗せた。
***
僕たちはそれからもそれぞれの仕事を続けながら、ゆっくりと時間をかけてまたお互いへの理解と情を深めていった。一度別れようと思っていて、それを取りやめたのだから、同じくらいの衝撃はなかなか訪れず、順風満帆に僕らの旅路は進んでいった。本当に、心の底からアニとともにいることは心地よくて、僕たちは互いを選ぶべくして出会ったのだなと実感と活力が湧いた。
――僕がアニを、一生かけて守っていく。
それからしばらくは僕がアニの家に通う、半同棲生活を送った。だけどエレンとミカサが式を挙げたのとだいたい同じころ、僕とアニは二人で暮らす新居へと移ったのだった。
おしまい
あとがき
いかがでしたでしょうか〜!!
わー! 長〜!!
最後の最後までお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございました!!
二人の長い回り道はいかがでしたか?笑
自分が嘘を吐けない人間なので、〝嘘の上になりたつ幸せ〟に妙な憧れみたいなものがあるように最近思います。
某旅アニメの嘘の上に成り立つ平和な家族のお話でも、号泣したのを覚えていますし……。母親のために嘘を吐き通そうとする息子の某映画も一番と言ってもいいほど大好きですし……!
私の身近にも嘘を吐き続けて成り立っているカップルがいるし(たぶんお相手にはばれてる)で、〝嘘〟はネガティブなものではないんですよね。
ときに真実を伝えるよりも、気持ちを饒舌に物語ってくれるときもある。
そんな二人を書いてみたかったのが今回このテーマを選んだ理由でした。
アルアニ……というか、アルミンは嘘上手そうだし。笑。(おい)
まあ今回二人はその嘘のせいでえらく遠回りしちゃいましたけど。(おいおい)
さて、みなさんは最終的にどちらがいくつ相手に嘘を吐いてるかわかりましたか?
いや、深い意味はないのですが、まだ互いに本当のことをすべて明かしているわけではない二人です。
真実を伝える日がくるのか、はたまたこのまま円満に隠し通すのか……想像と幅が広がります。
アニちゃん編(本編)の後書きでも書いたんですけど、
もしよろしければこの作品のご感想などいただけますと、次回作へのモチベにもなりますので、
web拍手もしくはマシュマロよりお願いします……^^
web拍手
※拍手だけだと何を読んでいただいたのかわからないので、よかったら作品名だけでも入れてくださいませ〜
マシュマロ
それでは改めまして、こんな長いあとがき含めてご読了ありがとうございました♡
また作品を作った際にはよろしくお願いします!