第四話*I needed someone.
じわりと手足を通る感覚を認識していく。なんとなくの気配で陽だまりに包まれているのがわかる。軽く身動ぎすれば、自分自身がよく知ったベッドの上で横になっているのだと、やんわりと自覚できた。
「……ん……んん……」
喉を鳴らしてみれば、多少窮屈だけども声は出る。意識がたちまち覚醒していく。
ふあ、とあくびをして、伸びをして……それから、身体を起こしながら目を擦った。
瞼を開けばいつも通りの自室が目の前に広がっていて、あれ、今日は何曜日だっけ、と私はまずそれが気になった。部屋の中の明るさからして、いつも通りの時間に起きたのだとだいたいわかる。
何かに違和感を抱いて首元に触れてみると、いつも寝るときに着ている寝間着とは違うものを着ていることに気がついた。これは、私が普段外へ出るときに着ているものだ。……ただ、ボタンが上から二つほど外れている。
……はて、昨晩は服も着替えずに寝てしまったのか、と思い出せもしないので首を傾げた。
違和感は未だにここにあるままだった。何かぐらぐらするというか、酒を飲んだときのような浮遊感がある。頭痛や吐き気はないが、そういえば声を発したとき、少し喉にも違和感を覚えたか。
とりあえず私はすっきりと目を覚ますため、水でも飲みに行こうとベッドから足を下ろした。
「いでっ」
「!?」
何か弾力のあるものを踏んづけた感覚に驚いて足を引っ込めると、なんと、ベッドの下の床に人が寝転がっていた。
あまりの驚愕の現実に言葉を失っていると、
「……あぁ……おはよう……」
その人間はのそのそと起き上がり、上にかけていたらしい上着がはらりと落ちた。
「……あ、アル……ミン……?」
「あー、うん。……おはよう、よく眠れた?」
ドク、と驚きに合わせて心臓が跳ね上がった。
何がどうなってこうなったのかさっぱりわからないが、なんと自分のベッドのすぐ下の床には、アルミンが寝ていたのだ。……これは、いったい……?
どうやらその上着を掛け布団の代わりにしていたらしいが、それにしても床で寝るのは痛いし寒かっただろう。なのに、何が、どうして?
ぱちぱちと瞬きをくり返していると、一通り伸びなどを終えたアルミンがぴたりと私の上で視線を止めた。よほどあんぐりとしていたのか、この顔をしばし観察されたあと、
「……もしかして、覚えてない?」
「すみません」
核心を突くように尋ねられた。
……いやいや、間違いない。すぐさま謝罪の言葉を放ったのは、自分が勝手に酔い潰れてしまったことをその瞬間に確信したからだった。
そうだ、このまだ酒が残っている感じ……そして、昨晩、そうだ、ルイーゼに誘われて飲みに行ったのだ。じりじりと追い詰めるように、少しずつ状況の理解が進んでいく。
「……その、昨日……、」
アルミンが言いにくそうに視線を逸らして、自身の髪の毛を触り始めた。何かにひどく緊張しているようで、私はいったい昨晩、ここで何があったのかと気が気でなくなってしまった。
さらにアルミンはその調子のまま続ける。
「……君が泣き出しちゃって……僕に帰らないでくれって……その」
「……へ?」
「……だから、僕は君の様子を見てたんだよ」
ぶわ、と全身に鳥肌が立った。
なんてことだ、私はよりにもよって記憶が飛ぶほど酔っ払った挙句、おそらくアルミンにここベッドの上まで連れてきてもらい、その上しかも『帰らないでくれ』と懇願したらしかった。……そんな、まさか……その衝撃に言葉も出ない。だがここまでひどく衝撃を受けたのは、私の中で〝それを言ったかもしれない自分〟を否定できなかったからだ。
……さ、さ、最悪だ……!
なんて、弁明したらいい。なんと弁解すればアルミンは許してくれる?
「……僕さ、」
酔いだけのせいでなく、ぐるぐると思考が回転していたところに、それを止めるようにアルミンの穏やかな声が落ちた。
「うん?」
「高校のとき、ずっと君のかっこよさに憧れていたんだ」
懐かしむような優しい眼差しで足元を見て、アルミンはそれを繋げた。
……悪かったね、本当の私は大してかっこよくもなくて。そんな卑屈なことが頭に浮かんだというのに、アルミンはその優しい眼差しのまま、
「だけど一度だけ、君から甘えてくれたことがあって……そのとき僕は本当に幸せで、愛おしくて、」
ゆらゆらと顔を上げた。
「アニをずっと守って行きたいって、思ったんだ」
じっと熱のこもった視線が私の身体を捉える。身動きが取れなくなるほど、その眼差しは暖かく優しくて、それでいて、力強かった。
――けれど私は必死だった。私がアルミンに甘えたこと……? アルミンはいつのことを言っているのか、まったく思い出せなかったからだ。
それでもアルミンはその独白を続けていく。
「……そのときのことを思い出して、ちょっと懐かしかったよ。だから、ごめん、帰れなかった。今度こそ、――帰りたくなかった」
ドクンッ。アルミンの言葉を聞いた直後の自分の心臓の鼓動が、ひととき私の意識を占めた。それほど、強烈な言葉だった。
「……あ、アル……ミン……」
〝あのとき〟、帰ってほしくなかった自分。『帰らないで』と切願しながら、見送った背中が蘇り、ぐっと目元に力が入った。……そうか、アルミンも。アルミンも、そんな気持ちで〝あのとき〟帰ったのだとしたら……?
「あ、でも安心してっ。手は出してないからっ。これは本当。ちょっと服はくつろげたけど、君が寝るのを見守っただけ!」
アルミンが身振り手振りをつけて、慌ててまくし立てていたが、私はそんなことどうでもよかった。……いや、むしろ逆だ。
そのあとも、ずっと一緒にいてくれるのだったら、
「――……出してくれても、よかったのに」
「……え?」
ぼそぼそと言ったせいで聞こえなかったから聞き返したのか、それとも聞こえていたから聞き返したのか。どちらかはわからなかったが、私は私の中で突沸した感情を抑えるのに精いっぱいだった。
私の家に泊まって、ずっとそばにいてくれて……あまつさえ『私を守っていきたいと思った』なんて思い出を語って。そこまでするならもう、いっそのこと何かの間違いでも起こればよかったのだ。
「あんた、人でなしだ」
理不尽な言い方なのはわかっていた。けれど、ほかにどうこの感情を伝えればいいかはわからなかった。
「え、アニ? な、んで?」
直視できずに泳がせていた視線も、アルミンの問いかけで行く宛が定まる。ぴたりとアルミンの眼を見返して、
「なんで酔っ払った女連れて帰って、帰らないでくれって泣かれて、それでも手を出さないのっ!?」
責めるように問い返していた。
それはもちろん、そんなアルミンだから私はきっと惹かれているのもわかっている。言っていることがめちゃくちゃなのも。けれど唐突にこんな状況を突きつけられて、私はもっと違う道筋があったのではと後悔していた。
「いや、待ってアニ。それは言ってることがめちゃくちゃだよ! それこそ僕はそんな人でなしじゃない! 意識もはっきりしていないような人に手を出すなんて、そんな犯罪じみたことしないよ!」
そうして正論で返される。言葉にしてくれたから明瞭になったが、それはそうだ、アルミンはそういう男だ。けれど、本当に悔しかったのだ。私が酔い潰れてしまわなければ、もしかしたらもっと何か……もっと何かが違っていたのではないかと。そうかこれは、八つ当たりだった。
「……あ、あんたが正しい……ぐっ、」
何故か声が喉に詰まって変な音を鳴らしてしまった。そのまま頭を抱えてうずくまる。拭えないままの悔しさや不甲斐なさ、情けなさなどが腹の底から押し上げてくる。
……ああもう、本当に私はなんてばか者なのだろう。――だめだ、最近の私はちっとも冷静ではない、空回りがすぎている。そもそも昨日、飲み会について行くことはきっと間違いだとわかっていながら、私はついていくことにしたのだ。ほかにどんな結果になると期待していたのか。わからない、自分のことも、アルミンのことも、もうすべてがぐちゃぐちゃだ。さっぱりわからない。
「アニ……?」
「……っ」
返事をしようとしたのに、また変な音が出るだけだった。思いのほか目頭まで熱が上ってきていて、アルミンに声をかけられたところで顔を上げられるわけがなかった。
「……アニ、僕にはわからないことがあるんだ」
自分で視界を隠していたのだから、アルミンがどんな顔をして話を始めたのか知る由もない。ただ、淡々とした声使いは、私の意識を一気に引き寄せた。一生懸命に耳を傾ける。
「……君は僕に恋人がいるって嘘を吐いた。それくらい、僕を遠ざけたかったから。……だけど時々、僕は勘違いしそうになるよ。君が、そんな目で僕を見るから……。そんな風に、泣きそうな顔をするから……」
――〝そんな目〟とは、いったいどんな目だ? 私はそんなにわかりやすい視線をアルミンに送っているのか。こんな風に込み上げているのも、全部お見通しというわけか。
「ねえ、君の本心は、どこにあるの? アニ」
いっそ言ってしまいたいと思った。……『ごめん、本当は、また』。けれど、やはり何度思い返しても、それを言ったところでアルミンを困らせるだけだと私は知っている。アルミンは既に私に彼の本意を伝えているのだから……今さらそれを聞かなかったことにして、アルミンを煩わせていいわけがない。
……あ、いや。おそらく、私が勝手に、私のことを煩わしく思わせたくないだけだ。
考えをまとめるどころか、一人でぐるぐると問答や言い聞かせをくり返していた私に、アルミンはとうとう痺れを切らしてしまった。
ぐらりと私が乗っているベッドが揺れて、アルミンがその場で立ち上がったのが気配でわかる。
「……とりあえずお水取ってくるよ。勝手に触ってよかったら朝ごはん何かするし」
そう言ってアルミンはそそそと私の寝室兼リビングを縦断していく。おそらくキッチンに向かって歩いているのだろう。
きゅ、と蛇口を捻る音がしてアルミンを盗み見てやると、アルミンはまたとても哀しそうな目をしていた。当然またドキリと私の心臓は暴れ出して、果たして私は何を言えばよかったのかと再び堂々巡りに突入する。
そのあと、ひとまず私にお水を持って来てくれたアルミンは、「じゃあキッチン借りるね」と言い残して、またそちらのほうへ歩いていった。先ほどの言葉から察するに、きっと私がまた二日酔いで動けないとでも思っているのか、朝食を準備してくれるらしかった。――ただ、私は昨日の朝ほど酔いは激しくなく、そんなに気分も悪くない。一昨日と昨日の違いと言えば、飲んだ酒の種類が違っただけで、一昨日のワインが私に悪酔いをさせただけなのかもしれない。今日はまだ少し酔っぱらっているような感覚が残っていることを除けば、そう悪い気分でもなかった。
じゅわじゅわと何かをフライパンで焼いている音がする。
カウンター越しにキッチンがあるこの家は、料理をするとすぐにその匂いが部屋中に充満した。今もそうだ。ハムエッグでも作ってくれているのか、香ばしい匂いがする。
私は相変わらずベッドの上で膝を抱いてうずくまっていた。
カウンター越しにアルミンを覗くと、ぼんやりと昨晩見たような光景が浮かび上がる。……おそらく、昨晩もこうやって水を汲んだりして介抱してくれたのだろう。キッチンに立つ姿が想起され、あとは、間近でとても心配そうな顔をしたアルミンとか、困ったような顔をしたアルミンとか……本当にぼんやりとだが、それらが思い浮かんだ。私自身が何かを必死に訴えていたような気がしてきて、きっとそれに対してアルミンは困った顔をしていたのだろうと思い至るも、何を言ったのかまでは思い出せない。――だが『帰らないで』と泣いてしまったのなら、そのときの記憶がきっとこれだ。
「……私、昨日なんか言った……?」
『帰らないで』以外に醜態を晒していないか確認したくなり、私は「もうすぐできるけど、起きれそう?」と尋ねてきたアルミンに別の問いで返していた。アルミンはお皿に盛りつけている手を止めることなく、私を一瞥だけして、
「え、あ……うん。いろいろ言ってたけど……」
「い、いろいろ!?」
もごもごと歯切れの悪い答えを寄越した。そんな言いづらそうにすることを〝いろいろ〟言ったのか私は。『帰らないで』だけでなく……もっと、いろいろ……!?
食いついた私には構わず、アルミンは盛りつけ終わったフライパンをまたコンロの上に戻していた。それからまた私をカウンター越しに見やって、
「……まあ、安心してよ。酔っ払いの発言を真に受けたりしないからさ」
なんでもないことのようにそれを言ってのけて、お皿を持ち上げてとてとてとこちらに向かってくる。
しかしその一方で肝心の私はというと、一体全体何を言ったんだ、と頭を抱えたくなった。まったく思い出せないのだから、なおさら気味が悪い。
「まあまあ、とりあえず食べよう。僕お腹減っちゃった」
リビングに立ち入ってきたアルミンは、そのまま両手に持っていたそれぞれのお皿をソファの前にあるローテーブルの上に置いた。私はざわざわと落ち着かないながらもその好意は無碍にできず、渋々とソファのほうへ身を移す。
アルミンが用意してくれたのはヨーグルトと、やはり思った通りのハムエッグだった。いつも朝食は割と適当に済ませてしまうので、こんなにしっかりとしたものを朝食として食べるのは久しぶりだった。
その朝食の間も、先ほどやってみせたように何事もなかったようにアルミンは振る舞う。『いろいろ言った』とは言ったけども、そんなに気にするようなことは言っていないのだろうかと安直に考えた。……というか、そうであるようにと願う気持ちだったように思う。早い話が、これ以上の失態は重ねていないと安心したかった。
「……ふぅ、美味しかったね。アニも大丈夫そうでよかった」
準備してくれた朝食を平らげたあと、アルミンが口元を拭いながら笑いかけた。本当に何もなかったような態度を続けているので、私はいよいよ気を張るのをやめようかと思い始めていた。私一人が気張っていても気疲れしてしまうだけで、何の意味もない。
「あ、うん……ごちそうさま。美味しかったよ」
本当に何もなかったのなら、もう思い出せないことを考えるのはやめておこう。
私も目の前のテーブルの上にお皿と匙を重ねて、それから口元を拭いながら返す。
ソファで隣に座っていたアルミンが、少し重心を後ろに倒しながらふ、と軽い吐息を零したのを聞いた。
「はは、でも昨日の君の飲みっぷりを見たときは心配したよ。何せ、朝にげっそりした君を見たばかりだったから……今日はかなりいいみたいだね」
今度は何事もなかったどころか、少し機嫌よく話している。そんなに私の勢いはすごかったのかと思い返して、穴があったら入りたい気持ちにまでなる。
「おかげさまで……」
あのときはアルミンに今後のことを断言されて、それが思いのほか応えてしまい、あんな風にお酒を煽ってしまったのだ。久方ぶりに再会した私があんな無茶な飲み方をする女になっているだなんて思われるのは心外だが、そう仕向けてしまったのはほかでもない私自身であることは否めない。ここは一つ弁明しておくべきだろうか、などと考えたが、それも野暮かと腹の奥に沈んでいく。
「でももう、あんな無理な飲み方したらだめだよ?」
後ろにあった重心をアルミンが前に戻した拍子に、ソファがぐらりと揺れた。アルミンは私にしっかりと言い聞かせるように顔を覗き込み、
「うん。肝に銘じとく……」
私はそれに対して言い訳なんて一つもできないので、素直にそれだけを答えた。アルミンは「そういうところは素直なんだ」とまた楽しそうに微笑んだ。
気分は悪くないとはいえ、まだ少し酔いが回っているような感覚があった私は、そのあとアルミンが楽しそうに話す内容を適当に相槌を打ちながら聞いていた。「そういえばアニはあのころもたまに飲んでいたよね」とか「僕けっこう背が伸びたでしょう」とか、いろんな話題を代わる代わる持ち出しては、身振り手振りをつけながら語っていた。
隣に座って嬉々として一人で会話を進めているアルミンの気配が、なんとなく心の深いところにある懐かしさを呼び起こさせた。そういえば高校のときもアルミンは止めるまで一人で話していることもよくあったな、と、つい頬が綻びそうになる。……そうだ、確かに、私が知っている本来のアルミンはこちらのほうだ。大人の物腰に変わってしまったと思っていた何かは、まだそこにちゃんと残っているのだと知れたことは嬉しいような気がした。
ぐっ、とアルミンの身体が寄せられた気がして、私は唐突に意識がはっきりする。
「!?」
この両目が零れそうなほどに丸々と見開いてアルミンを見てしまった自覚はある。だが、それくらいの衝撃だった。私が今感じたことが勘違いでないのかと、その顔を見つめてしまった。
は、と息を吸ったアルミンも、たちまちその表情に動揺が広がっていく。
「……え、あ、ご、ごめん! これは、その……っ、つい……!」
それを聞いて、私は確信を得てしまった。
――アルミンはぼんやりと聞いていた話の合間で、私の頭に触れるだけの小さなキスをしたのだ。
私のようにアルミンも昔を懐かしんでいたのだろう、だから、思わず唇を寄せてしまった――それが今のアルミンにとって不本意であったことは理解したが、突沸した衝動に今度は私が背中を押されていた。
「ん゛っ……!」
アルミンの服を掴んで思いきりよく引き寄せて、私は我を忘れてその唇に食みつく。
二人の柔らかいところが触れる。ふに、と押しつぶし合う唇は心地よくて、重なりは隙間を作り、息を吸う拍子に舌が紛れ込んだ。咄嗟のことで自分が何をしているのかわかっていなかった。ただただ重ねたそれが心地よくて、私はぐいぐいとアルミンの身体を引き寄せた。
「んっ、ふ、……あ、アニっ」
「……ンっ、ん」
アルミンも名前を呼ぶだけで、抵抗はしない。始めは戸惑いが伺えた舌使いも、徐々に意思を持ち始めて私の舌を追う。久しぶりの濃厚なキスはとんでもなく下手くそで、二人してやっとの思いで息を捕まえながら続けた。だが、久しぶりであるはずのキスなのに妙に馴染む心地よさもあり、角度を変えて何度も重ね直して、その度に意識が深くに落ちていく。
さらり、とアルミンの手が私の頭を包んだ。温かい手、心地がいい……少し大きくなった、手。
「ん、はっ」
「……っふ、」
――ああ、アルミンが好きだ。
繋がったところから脳みそがふやかっていくようで、全身に甘い熱が巡る。そして私はただキスの数を数えるように無意識に、好きだ、好きなんだ、と何度も再確認をくり返していった。
――ああ、終わってほしくないな、なんて……また、性懲りもなく頭を過ってしまう。
「……ん……」
けれどそれはやはり終わりを迎え、ゆっくりと唇が放れた。そのとき私は瞼を開いて、そこでいつの間にか目を瞑ってこの時間を堪能していたのだと自覚する。目前のアルミンの瞼も、伏し目がちではあったがほぼ同時に持ち上がる。……けれどその視線は、未だに私の唇を追っているように見えた。
重ねていた柔らかさは離れたものの、互いの吐息がかかるくらいの距離を保っている。その距離のまま、アルミンの熱い息が零された。
「……これが君の本心?」
囁かれた言葉が、私の目を開いた。はっと閃くように我に戻った私は、自分が無自覚にしてしまったことが信じられず、思い切り顔を背けてしまった。熱くなっていた身体からは、さあっと血の気が引いていき、焦燥が私の意識を焦がしていく。今すぐにでも両手を使って顔を隠したくなった。
なんて……ことをしてしまったのか。目の前で酔い潰れたなんてレベルの失態ではない。私は心底焦って、早く何か言い訳をしなければと考えを巡らせた。――アルミンの負担にならないために、私はなんと言えばいい。私がアルミンのこと、また気にしてしまっているなんて、知られるわけにはいかない。
「……ごめん、その、私もつい……。こ、こういうこと、誰かとするの久しぶりだったから……その……心地よくて……」
――はあ、私は最低な女だ。きっとアルミンにそんな印象を与えただろう。これではまるで『その相手は誰でもよかった』と言っているようなものだとわかっていたが、〝アルミンに〟私を押しつけるようなことは言いたくなかった。私のことを軽率な女と思うなら、もうそれで構わない。私はもう、アルミンの負荷になりたくない。傷つけたくない。
「……そう、か」
ゆらり、とアルミンの重心が動いて、私からその気配が離れていく。ひどく動揺したようにあちこちに目を泳がせ、さらに何かを言おうとしているようだったが、
「じゃあ僕は今日も出勤だから、もうそろそろ帰るよ」
最終的にまた何事もなかったように立ち上がって、その辺に丸めていた自身の上着を拾い上げた。
どうすればいい? 私は玄関まで見送りに行っていいのか? そんなことをしたら、私がアルミンに気があることが知られてしまうだろうか? こんなことをしてしまったあとだ、アルミンは今、私の顔なんか見たくないかもしれない。私はどうしたら……どうしたら。
「……じゃあ」
バタン、と玄関前の廊下とここリビングを遮るドアが閉じる音を聞く。その向こうからバタバタと玄関が開かれ、そうして人一人が出て行った音が続いた。私は見送りどころか表情一つ確認することができず、そのままソファの上で固まっていた。
なんてことをしてしまったのかと、ようやく頭を抱えることが叶う。いくら気持ちが傾いていたとは言え、あんな風に唇を重ねてしまって、私は今後どんな顔をしてアルミンに会えばいい。……しかも、あんな言い訳までして。
今となっては、言い訳として発してしまった言葉まで判断を間違えていたのではと泣きたくなった。もっといい言い訳があったはずではないのか。なんで私はよりにもよって、あんな軽率な女だと思われるようなことを……。
けれど、アルミンもアルミンだ。その気がないなら押し返してくれればよかったのに。それとも、〝女の子〟にそんな乱暴なことをしたくなかったのか。……なんであんな、優しく――、
嘆きながらも、私はふと蘇った感覚に逆らえず、自分の唇に触れていた。――優しく柔らかかった、久しぶりに触れたあの唇は。そして、懐かしかった。それほど変わっていない形の唇でも、口内の味は新鮮だった。アルミンの唾液はこんな味がしていただろうかと噛みしめてしまったほどだ。
――ああ、やっぱり私は、アルミンが好きなのかもしれない。温かかった、そしてアルミンとのキスは、とても心地よかった。包んでくれた手のひらが、その指先まで優しくて……また、離れたくないとか……もっと重ねたいとか、次から次へと欲情してしまうような、そんな甘く危険な感覚が身体を痺れさせた。
そうしてまた改めて頭を抱える。
私はどうして、こう、空回りを続けているのか。……アルミンの同僚以上になり得ることはないのだと、それがわかっていながら、どんどん深みにはまってしまっている。……いや、自ら深みにはまりにいってしまっているようなものだった。
忘れてはいけないことを何度も反芻する。アルミンは今の私を求めてなんていない。それはそもそも、私が傷つけたのが原因だ。私はまたきっとアルミンを傷つけてしまう。渇望する気持ちを全部押しつけて、きっと押し潰してしまう。だめだ、だから。私はまたしっかり自分を保ち、アルミンと〝ただの同僚〟でいなければならない。
ディンディンディンディン、とけたたましい音が鳴った。それは携帯端末のアラームの音だとすぐに認識した私は、ソファの上でうずくまっていた体勢から大急ぎで身体を移動させて、その音の元である携帯端末を探した。しばらくどこからその音が鳴っているのかわからなかったが、それは昨晩持ち出していた鞄の中から発見された。けたたましい音をようやく止めるに至る。
この警報が鳴り響いた時刻を確認して、この時間にこのアラームをセットしていたということは、今日の私は早番での出勤なのだと繋がる。念のため間違っていないかシフト表を確認したが、間違いなく今日は早番での出勤と記されていた。……ぎゅっと端末を握る手に力が入る。――早番は、司書と同じ時間の出勤だからだ。これはまた……果てしなくツイていない。
いっそ休んでしまおうかとも思ったが、そんなことをしたらアルミンに『今朝のこと気にしています!』と宣言するようなものなので、私はアルミン同様に何事もなかったように振る舞うために、気力を振り絞ることにした。
いつものルーティンとは少し違ったが、先に朝食を済ませていた分、私は急げばシャワーを浴びる時間が取れることに気づき、慌てて浴室に向かった。出てから髪の毛を乾かし、今日の服を着て化粧をして……そうして、だいたいいつもと変わらない時間に自宅を飛び出した。
駐輪場に到着したときに面を食らってしまったが、私の自転車がどこにも見当たらなかった。……それもそのはずだ、昨晩は退勤後そのままアルミンの車で飲み屋に行き、帰りはおそらくそのままアルミンに送ってもらったのだから。
――しまった、と思ったのと同時に、私は携帯端末を取り出す。幸いなことにこの近くから国立図書館へはバスが運行しているので、それに飛び乗ろうと魂胆を変えた。バス停に向けて歩きながら操作して、停留所の時刻表を調べる。だが、バス停に到着するとすぐにバスがやってきて、それの行き先を示す電光掲示板に『国立図書館』と記されていたので、疑いもせずにそれに便乗した。
そうして私はいつもとまったく違う経緯を経て、いつもの国立図書館の施設に到着する。人がまばらに正面玄関に向けて歩いていくが、これらはすべて司書か、もしくは早番の従業員だ。
私はとにかくアルミンと出くわさないよう、身を縮めながら駐車場を突っ切っていく。
「――あれ、アニも今日朝からなんだ」
……私の努力もむなしく、
「あ、アルミン……」
私の後ろから飄々とした態度でアルミンが顔を覗かせた。マフラーを巻いて白い吐息を纏っていることはわかったが、すぐにまた顔を逸らしたので表情はよくわからない。
……というか、だからなんであの後で話しかけられるのか、この男は。
そういえばそう思ったのは昨日の朝ではなかったか。何もない同僚のように振る舞うためにあえて声をかけているのか、そうでないならいったいどういうつもりなのかさっぱりわからない。
アルミンの顔を見ないようにしていたのは自衛のためだ。その存在を近くに感じただけで、ちらちらと今朝のことが脳裏に過って心臓がおかしくなりそうだった。
「はは、なんだかついさっき分かれたばかりだから、ここでおはようって言うのも不思議な感じだね」
ほらまた、そんなことをあっけらかんと笑って流してしまう。……それだけ今朝のあの時間はアルミンにとってなんてことはない時間……いや、〝なんてことはないことにできる〟時間だったのか。そう思っただけでまた、ぎゅ、と胸が握りつぶされそうだった。……いやいや、わかっている。これは私の片想いだということ。
「ちょっと何あなたたち!? お泊まり!?」
「え?」
何の前触れもなく、まったく聞き慣れない声が私たちの間に割って入った。
アルミンと二人で驚いてふり返ると、そこには館内でよく見かける鼻の横に大きなほくろがあるおばちゃんがにこにこと……いや、にやにやと、のほうが近いかもしれないが、そんなお節介な笑顔を浮かべて歩いている。清掃のおばちゃんだ。一瞬私たちに話しかけているのかと疑ったが、この距離感は明らかに私たちに話しかけているのだと観念するほかなさそうだった。アルミンも言われたことに対して、「えっ、あっ、」と狼狽えているような声を出していたので、おそらくそうなのだろう。
そのおばちゃんはお節介すぎる笑顔で再び大口を開いて、
「知らなかったわ〜! いつの間にそんなに仲良くなってたの!? あなたカフェテリアの新人さんよね!?」
ぐい、とその視線が私に食い込んできそうなほど強く向けられた。
「えっ、いや、これはっ。か、彼女が酔っ払っちゃって、僕は介抱してただけでっ」
あまりの圧に言葉が飛んでいた私の代わりにアルミンが弁明しようとしてくれていたが、私からアルミンにその標的を変えるだけで、
「ええ、でも一緒にお酒を飲む仲なんだ〜っ! おばちゃん応援しちゃうわ! あれ、でもあなたあの女の子いなかったかしら?」
「いや、だから……」
「あ、そうだ!」
またどこかで覚えのある、嵐のような激しさで会話を展開していく。
だめだこのおばちゃん、完全に人の話など聞いちゃいない……。ちらついたのはあの溌剌とした笑顔だ。
「おばちゃんいいものあるのよ! ほら!」
そう宣言しながらおばちゃんは唐突に立ち止まり、雑に本人の鞄に手を突っ込んだので、私たちもつられて足を止めた。かと思うと、今度は同じような雑な手つきで、そこからはがき大の紙切れを引っ張り出した。
「ラブストーリー! 試写会!」
ずい、と私たちの間にそれを出して見せびらかした。……それは〝はがき大の紙切れ〟ではなく、実際にはがきだった。細かい文字が印字されているのを、私とアルミンは仲良く覗き込んでしまう。
「本当はお父さんと行くつもりだったんだけど、仕事で急用が入っちゃって。仕方ないからお友だち誘おうと思ってたけど、こんなのお友だちと行くものでもないでしょう? ラブストーリーよ!? だから、あなたたち行ってきなさいよ!」
さらにぐっと私たちに押しつけるように突き出してくる。私もアルミンも思わず身を引いてしまったが、
「いや、だからあのっ」
それでもアルミンはまだ弁明を諦めていなかったようで、なんとか言葉を返そうとしていた。……しかし懸命な抵抗も空しく、〝嵐のような〟おばちゃんには通用しなかったのだが。
おばちゃんは遠慮するために手のひらを見せていたアルミンの、まさにその手にはがきを握らせ、
「いいのいいの! 気にしないで! 今日の夜七時から! 楽しんできてね!」
既視感を煽りながら、その背中は颯爽と去っていった。まるでいいことをしたとでも言いたげなご機嫌な後ろ姿で去っていくものだから、それを見送る羽目になった私たちは反対に見合わせながら脱力してしまった。……なんだったんだ、いったい。
アルミンが握らされてしまったはがきを翻してそこに表記されていることを確認し始め、私も引かれてそれに視線を落とす。そこに記された映画のタイトルを見れば、確かに最近話題になっている映画のものだった。
一通り表記されたことを確認し終えたアルミンが、さっと視線を上げて私を見る。
「えー……僕たち、こんなのばっかりだね……。……どうしようか?」
いやいやそんなこと私に聞かれても、と思ってしまったのが正直なところだった。
アルミンと映画……? それは昨日の飲み会の二の舞になってしまうのではないか、とも思ったが、けれど昨日と違うのは今回は私たちの二人だけで行けるということだった。そしてお酒も絡まない。……しかも、私にどうするかと聞くということは、アルミンは嫌ではないのだろうかと考えてしまう。
「…………き、君さえよければ、僕はせっかくだし行ってもいいかなとは、思ってるけど……」
疑問に思ったところで、まるで思考が漏れているかのように回答を受けてしまった。
じり、と心拍数が少し上がったような気がしたが、気のせいだったかもしれない。
あんなことがあった後だというのに、アルミンは私次第で行ってもいいという。……けれど、その本心はいったいどういうところなのだろう。せっかくもらった試写会の権利だから、無駄にしたくないとか? 実は気になっていた映画だったとか。……とにかく、私が今迷っているような理由とは違うことは明らかだった。
私は今度こそ、慎重に決めなければいけない。
「……ちょっと、考える……」
ぼそぼそと伝えて、私は気乗りしないような素振りを見せるため、すぐさままた歩き始めた。
「あ、うん」
この後を追ってアルミンも歩き出したようだが、私の隣には並ばずに、一歩後ろをついてきているようだった。
アルミンの中の〝同僚像〟がどうなっているのかは知らないが、ラブストーリーの試写会に二人で行くのは〝同僚〟の範囲なのかと私は自問していた。
「じゃあ、またどうするか連絡してよ」
「……うん」
互いの職場に向かうために分かれるとき、アルミンが私に念を押した。
このとき、既に私の気持ちはほとんど傾いていたのだが、それを悟られぬように素っ気ない素振りを保った。保てていたと思う。
私が自身が勤める店に入店したあと。開店後しばらくはいつもお客さんはまばらなので、私はレジカウンターの中でひそひそと携帯端末をいじっていた。
先ほど見せつけられたはがきに記されていた映画のタイトルをWebブラウザの検索ボックスに入力して、そこから何かしらの情報を仕入れようとしたのだ。承諾するのか断るのかは、その映画の内容で決めればいいと思った。……何せ、〝同僚として〟行くのだから。――私は口実が欲しかっただけなのかもしれないが。
ともあれ、その映画の特集ページが出てくる。まずはその映画の概要欄に目を通していくと、どうやら本当にただのラブストーリーのようだった。……ただの、というのは失礼だったろうか。ラブドラマというのか、ファンタジー要素もなく、アクロバティックなアクションもない、ただ淡々と二人の男女の馴れ初めを描いた作品らしい。……常識的にこういう映画を〝同僚〟が二人だけで観に行くのかは、やはりしばし疑問に思う。
けれど次のページでキャスト一覧が表示されたとき、私ははて、と一つの名前に目が留まった。
そこには高校のときによく悪目立ちしていた『ユミル』という女の名前があったのだ。どうやら脇役での出演らしいが、キャスト一覧に名前が載るくらいには出演しているらしい。念のため私が考えている『ユミル』で合っているのかと写真も確認してみたが、やはりあのころと変わらない、少しきつめの目つきをしたあの女の写真が出てくるばかりだった。
……なんと、彼女は俳優になったのか。いや確かに背が高くモデル向きな体型だとは思っていたが、まさか本当にそちらの道に進んでいようとは。
そしてやましいことに口実を探していた私は、『これなら十分か?』と考えてしまっていた。恋愛映画なんて興味もないが、ユミルの出演は気になる――そう言えば自然に聞こえるだろうか。
答えは始めたからだいたい決まっていたのだから、私は逸る気持ちを抑えられずに携帯端末の画面を変えた。メッセージを送る画面にだ。アルミンは私さえよければと言っていたが、そのあとでも『やっぱりやめておくことにした』と言う権利はあるわけで、私はアルミンの心変わりが万が一にでも起こらないようにと焦っていた。
とは言え、メッセージの入力画面でしばし指が止まる。
アルミンといられたとしても、私はこの先〝同僚以上にはなれない〟ことを思い知らされて、胸が痛む思いをするだけかもしれない。……それでも私はアルミンと映画に行きたいのか。アルミンと一緒に、行きたいのか。――今度こそ空回りしないように、慎重に考える。
……だがやはり、この胸に溢れる窮屈感を思うと、今すぐにでもアルミンに会いたかった。……そう、映画とかそういうことではなく、私はただ、アルミンに会いたかっただけなのかもしれない。
先ほど声をかけられたときは確かに今朝のことで気まずくて会いたくないと思ったし、それもまた本心ではあったが、それとは別の部位が会いたいと疼いているような感覚だ。私を今までせっついて空回りさせていたのは、こちらの感覚のほうだ。理屈すべてを手放して、アルミンの側にいたいと思ってしまう。……別に、恋人である必要はなくて、例えば〝ただの同僚として〟でも。
私はアルミンにメッセージを送った。『恋愛映画には興味はないけど、出演者を見たらユミルがいて、それが気になるから見に行きたい』と、つらつらと言い訳と一緒に映画を了承する旨を送った。
「……はあ」
大きなため息が出たのは、自分で自分に呆れたからだ。もしこの相手がアルミンではなかったなら、例え『ヒッチが出演している』と言われたところで、私は観には行かなかっただろう。……本当に、自分の愚かさと浅はかさが嫌になる。
アルミンから返事が来て、私たちはまたアルミンの車で招待された映画館に向かうことになった。近場の映画館ではなく、もう少し規模の大きな商業施設内にある、大手の映画館がその会場だ。図書館からは少し距離があるので、アルミンの車に乗ることを拒否できなかった。……もちろんする気もなかったが、『できなかった』と言い換えられることは私の中では大きかった。
車の中でどんな会話をしたかというと、今朝のことには一切触れず、私が今日仕入れた映画の情報を根掘り葉掘りと聞き出された。そのネタが尽きると、今度はバンドのことをいろいろと聞かれたが、私はその間、自分がしゃべるよりもアルミンがしゃべっているのを聞くほうが好きだなとじんわりと自覚していた。そういえば高校のときも、そういうコミュニケーションがほとんどだったなと思い出して、だからアルミンといるのは居心地がよかったのだろうと静かに納得した。――きっと帰り道はアルミンが映画についてあれやこれやと感想を述べてくれるのだと予想ができ、そうすれば私は黙って話を聞いていられるだろうかと少し前向きになる。
会場に到着して、例の押し付けられたはがきを受付で見せると、すんなりと映画館の中に入ることができた。席はまあまあ悪くない。見やすい位置に分類されるだろう。
館内が暗くなってまず初めに起こったイベントと言えば、知らない男女が数名出てきて、画面の前にずらりと並んだことだった。……どうやらこれは単なる試写会ではなかったらしく、いわゆる『舞台挨拶付きの上映会』だったらしい。監督やら出演俳優やらがそれぞれで挨拶をしたあと、彼らは退散して、ようやく本当に館内は真っ暗になった。
――大して興味も湧かなかった映画が始まる。
私は思わずアルミンのほうを盗み見てしまったのだが、画面からの光を浴びるアルミンの瞳がきらきらと瞬いている様子を眺めている内に、アルミンの視線を呼び寄せてしまった。はた、と目が合ったところで、あからさまに画面へ視線を逸らしてしまったので、何やってんだ、とまた自分を咎める羽目になった。今の一瞬の視線の鉢合わせのせいで、心臓がまたドクドクと暴れ出してしまった。頭を抱えたい気持ちになったのを一生懸命に堪えて、私はじっと画面だけに集中した。
話が進んでいく。目当てのユミルも出てきて、そのとき私たちは目配せをしてしまった。ユミルはなかなかに立ち回りも上手く、そしてそのスタイリッシュな役柄を見事に演じていた。演技のことはよくわからないが、とてもよかったのだと思う。
さらに話は進んでいき、ようやく主役の男女が互いに思いを伝え合うシーンを迎えた。それからあれよあれという間に二人は互いの手を取り、そうして唇を重ね始めた。ゆっくりと、けれどしっかりとした動作でお互いを確認し合う行為は、とても美しく表現されていたが、肝心の私はそれを見ながらただただ上の空だった。
――何せその行為にまったく感情移入ができなかったのだ。
八年前にアルミンと別れたあと、こんな不愛想な女に言い寄る男が現れるわけもなく、私が〝それ〟を経験したのはあの一回きりだった。それは八年も前のことだったのだから、それらの感覚など覚えているはずもなく……ただ、今朝ほどアルミンとのキスで経験した甘い痺れのようなものを、なんとなく想起するばかりだった。
と、考えていたところで、ぐす、と鼻を啜る音が聞こえた気がして、私は反射的にアルミンのほうへ顔を向けてしまった。すると思った通り、なんとアルミンは映画の中の男女の情事を見て、涙を流していたのだ。
「泣いてるの!?」
無声音はちゃんと意識したものの思わず尋ねてしまっていて、アルミンもちらりと私に目を向けた。そうしてずず、とまた鼻を啜りながら「だって、む、胸に、響いて……」と小声で返された。それから本人の顔を隠すように涙を拭い、その視線をまた目の前の画面へ向けた。
その動作を見て私も自分が今映画館にいるのだと思い出し、ゆっくりと画面へ視線を向けた。私の眼前でくり広げられていた情事はもう次の場面へ変わっていて、「しまった、まったく集中できていなかった」と冷や汗をかいた。……いったいアルミンは、この映画のどこにそんなに胸を打たれたのだろう。
私は激しい場違い感に苛まれて、身が縮まる思いをした。
映画が終わったあと、私たちは人の波に流されて映画館施設をあとにしていた。
アルミンがぐずぐずと涙を流しているのだと気づいたあと、私は集中して映画の内容を取り込もうと必死に物語を追った。その甲斐あって、最後には少しはその男女の所以は理解できたと思う。
紆余曲折を経て、ようやく手を取り合うに至った彼らは強く美しかったと思う。何より、映画のラストシーンがとても印象的で、いつまでも瞼の裏に焼きついていた。――夜景の中へゆっくりと歩いていく彼らの映像だ。手を繋ぎ、言ってしまえば不確かな闇の中へ向けて歩いていく彼らの後ろ姿は、とても勇敢で力強かった。きっと、世の中の様々なカップルが勇気をもらうのだろう。
星空の下、私の前を歩くアルミンを見て、私の中にはその光景を見たときと重なるような胸騒ぎが少ししていた。とは言ったものの、私たちは広い駐車場の中を横断して、アルミンの車の元へ歩いているだけなのだが。……それでもアルミンのその無防備な手のひらを見て、ぼんやりと『繋げたら温かいだろうか』などと思い浮かべていた。……今朝、キスをしたときにこの頭を包んでくれたときのような、そんな優しさがそこにまだあるだろうか。
ふらり、とアルミンが唐突にふり返った。
「……ねえ、アニ。手、繋ぎたくない?」
藪から棒に投げかけられた問いに驚かされて、またドキリと全身の脈が激しく打った。思わず「え!?」とこの口から零れ落ちてしまったほどだ。
アルミンは何の悪気もない眩いばかりの笑顔を浮かべて、私が先ほどまで目で追っていた手のひらを差し出していた。アルミンのその無邪気な笑顔と、差し出された手を何度も交互に見て、私は現実世界にいるのだろうかと確認してしまった。
けれどそれに対して何か反応を示す前に、アルミンはその手を隠してしまうようにポケットに入れ、
「あはは、冗談だよ。そんなにびっくりしなくても」
そうして茶化すように笑った。また身体を進行方向へ向け、星空を見上げる。
「……たださ、なんだかちょっと……『恋人っていいな』って……思ったよ」
私の心臓がまた激しく私を急き立てていた。アルミンがこれをわざわざ私に言って聞かせる理由を勘ぐってしまう。もういっそ、『なったげようか』と言えばいいだろうか。言ってほしいのだろうか。いいや『なってもいいけど』のほうが、まだ興味なさそうに聞こえるか。いや、それも違うか。――『私こそ、なってほしい』と……今なら、言っても許されるのではないか。
またくるりとアルミンがふり返る。そのとき浮かべていた微笑みを見て、私は一気にすべての感情を覆されていた。
――だめだ、言えるはずがない。
熱とそれに伴う痛みがぐぐっと込み上げてきて、無意識に顔を逸らしてしまった。
どうして今泣きそうになっているのか自分でもわからないが、ただ一つわかることは、私はやはりアルミンにふさわしくないということだけだった。そんなに優しく笑いかけてくれたアルミンを私は、とてもひどい方法で傷つけてしまったのだ。私に再びアルミンを引き留める権利なんてあるはずがない。……アルミンが私なんかと、恋人になりたいわけがない。私たちは〝同僚以上〟にはならない。
そのあと、二人の間に会話はなかった。ようやくアルミンの車の元へたどり着いたところで、アルミンが「さあ、早く乗って温まろう。今日も冷えるね」と声をかけたくらいだった。私も静かに「うん」とだけ返事をして、昨日もやったようにその助手席にお邪魔する。
帰りの車の中では、期待通りアルミンが映画についてあれやこれやと思ったことを語ってくれたけれど、私が思ったほど饒舌には語られなかった。何か言葉を選んでいるような、少しもどかしい空気感だった。
アパートに送ってもらったあと、私は自宅に戻って服をすべて脱ぎ捨ててからベッドに倒れ込んだ。
――『手、繋ぎたくない?』
生き生きとした笑顔を浮かべてふり返ったアルミンを思い出して、ため息を吐きたくなる。あのとき、私が何かを即答できていたら、アルミンはどんな反応をしていただろう。冗談だよ、と笑ったのも、ただ言葉を失くした私を守るためだったのかもしれないと思えてしまう。……アルミンは本当は、どういう意図で……?
私はこの身と一緒に投げ出していた携帯端末を握りしめていた。
今のこのもやもやとしたものを誰かに聞いてほしくて……アルミンの真意について、誰かに何かしらの答えを提示してほしくて……。
まず初めに思い浮かべたのは友人のヒッチだった。男の経験はそれなりにありそうな彼女のことだ、きっと親身になって聞いてくれるだろう。……そう思ったが、今回の件を話したところで詳細をよく聞きもせず、『そんなの好きに決まってんじゃん!』などと言われそうだなと思ってしまった。
ならばピークに聞いてみるか、と次の候補が思い浮かぶ。けれど彼女はじっくりと私の話を聞いたあと、『その人、たぶんアニちゃんのこと好きだよ』と言いそうだなと自己完結した。そう言ってくれるように、私が仕向ける話し方をしてしまいそうだ。
それならばマルロはどうだ、と脳裏に過る。マルロなら最後までふむふむと私の話を聞いて、とりあえず最後に一言『けしからん』などと言ってくれそうだ。
「……」
一呼吸おいて冷静に考えてみた。……私は今この状況を否定してほしいのだろうか。肯定してくれそうな人物に聞くのに気が引けてしまうのは、どうしてだろう。……やはり心底では自分はアルミンに不釣り合いだとわかっているからだろうか。
――『冗談だよ』
優しく微笑んだその顔をまた思い出して、ぎゅうっと胸が千切れそうな痛みを覚える。アルミンはいったいどういう気持ちで私と映画に行ったのだろう。……『恋人っていいなと思った』と、言ったのだろう。
アルミンの気持ちが知りたい。……けど、自分から聞く勇気なんて持てるはずもない。私は自分でアルミンを傷つけたくせに、自分はこれ以上傷つきたくなった。……そう、私は傷つきたくない。傷つきたくない。傷つきたくない。
「傷つきたくない……」
そのまま私は携帯端末を床に落として、もう何も考えないように瞼を閉じてしまうことにした。
> 第五話*See you later.