第五話*See you later.
私はそのあと、五分もじっとしていられなかった。閉じた瞼を再び開き、床に落とした携帯端末を拾い上げた。
時間を確認したが、まだそんなに遠慮する時間でもないだろうと思い、画面を切り替えて通話の呼び出しボタンを押す。
『はあい〜? もしもし?』
「ヒッチ。話したいことがあるんだけど」
『あんたから? 珍しいね』
そう、結局私は抑えられずにヒッチに電話をしたのだった。もうなんと言われてもきちんと受け止めようと覚悟はしたが、電話した相手がヒッチだったことは私の覚悟の低さを物語ってはいた。
でもわからない。すべてを話したところでヒッチは肯定しないかもしれない。結論を聞いてからでないと、何も決めつけることはできないはずだ。
私はそれから、ヒッチにこれまでの経緯をつらうらと語って聞かせた。まずは『付きまとわれて困っている』との以前の情報の訂正から入り、実は私から警戒されないために彼女がいると嘘を吐いていたことや、マルロと恋人だと言った嘘を見破られたこと、私とどうこうなるつもりはないとはっきりと宣言されたことなど、事細かに話をした。……ただ、今朝のことについては、どんな顔をして話せばいいのかわからず困惑した。これが単なる通話でよかったと思わざるを得なかったが……私はアルミンとのキスの感想を、内心では鮮明にその熱を思い出しながら、なるべく淡々と述べた。……嫌がられなかったこと、そのあとに『これが私の本心か』と問われたこと、さらには私が否定したにも関わらず、そのあと二人で映画に行くことを拒まず、『恋人っていいなと思った』と言われたことまで、すべてだ。
ヒッチはただひたすらに黙って聞いてくれて、こんなに静かに人の話を聞ける人間だったのかと考えを改めさせられたくらいだ。この認識はヒッチに少し失礼だっただろうか。
『話はまあ、だいたいわかったけど……、』
ヒッチが電話越しで、うーんと何か納得がいかないような呻き声を上げた。私はほかに付け足せる情報がないかと考えていたが、
『本当に酔っぱらってたとき、手を出されなかったの?』
ヒッチのほうから疑問が飛んできた。
起きたときのアルミンが記憶の中に浮上し、また必死に『手は出していないから』と弁明していたときの表情も浮かぶ。
「うん……たぶん。覚えてないけど、そんなことで嘘を吐く男でもないと思う」
『そう……マルロみたいな男って、意外にいるもんなんだね』
明後日の方向から相槌を打たれたが、私は特にほかに言いたいことも見つからないので、そのままヒッチの声を待った。
『でも、あんたからしたキスを拒むわけでもなく、映画も一緒に行ったと。帰りも「また明日ね」と平和的に分かれたと』
私が気になっていたところをいちいち釘を刺してくるものだから、「そ、そう」と少し怯みながら肯定していった。……私が極端に都合よく解釈したわけではないはずだ。事実を述べたまで……何度もそうやって自分に確認した。
なぜか心臓がドクドクと緊張感を煽ってくる。
静かにその間を聞いていると、はっと息を吸ってヒッチは声を上げた。
『そんなの、あんたのこと狙ってると思うわ〜。そうじゃなくても、嫌なんて思ってないでしょ、それは絶対。かなり真剣よ』
あんまりにも自身満々に言うものだから、
「でも、八年前に私からかなりひどい振り方した……」
私が一番引っかかっていることをまだ明かしていないことを思い出した。そう、そもそもこれがあるから、私は深く後悔をして苦しんでいるのだ。こんな風にアルミンを傷つけた私がどうして、と私自身に牽制されている。
『どんな?』
詳細を求められた。私はひどいことをしたと自覚していながらも、その悪事を悪事のように言いたくなくて、
「えっ、……あ、『会いたくない』ってメッセージして……、そのままぜんぶ無視したんだ」
控えめに報告したい気持ちと、きちんと受け止めて話さないとという気持ちの間で揺れ動いていた。
ヒッチにどう伝わるだろうかと息を飲んでみたものの、
『うわあ……。それはひどいわ……』
かなりドン引きされたようなので、私は事実に近いほうで伝えられたのだと自分に言い聞かせる。これでよかったのだ、相談相手のヒッチに取り繕ってどうする。
それでもヒッチは暗い声を一転させて、
『まあでも、そのときのあんたの気持ちなんてこれっぽっちもわかんないけど、あんたなりの理由はあったんでしょ?』
明るいトーンでそれを確認した。――私の理由……そうだ、これ以上アルミンを傷つけたくないという理由が確かにあった。私をアルミンの重荷にしたくない。そう突っ走ってしまった結果だった。
『だったらそれを説明してやればいいよ。大丈夫、そいつ絶対アニのこと好きだから』
どうやらヒッチは私が過去にしでかしたことを聞いても、その意見は変えないようだ。
けど、果たして本当だろうか……? 私もときどきヒッチが解釈したように思いかけて、けれど自分のひどい仕打ちを思い出して、思いかけたことに懐疑的になるをくり返していた。
だってアルミンは、再会した私に別れた経緯を問い質すほどに気にしていたのだ。そして問い質したあと、私とはもうどうこうなるつもりはないと言い、……それでも度々気にかけてくれるような態度を取る。だから……。
「……わからない……」
考えあぐねて、それだけがため息のように口から零れ落ちた。
というか、ヒッチの中で私がアルミンのことを好きだという前提で話が進んでいることに、言いようのない羞恥を抱かされていた。
しばらくヒッチから返ってきたのは沈黙だけだったが、それから呼応したようにヒッチからも『はあ~』と大きなため息が投下される。
『じゃあさ、なんか理由つけてあんたの家に誘ってみなよ。オッケーしたら、そのときは間違いなくあんたを狙ってるって思っていいから』
またしても迷いなく言い切るものだから、恋愛経験や男心に疎い私は「そういうもの……?」と半信半疑になっていた。そんなわかりやすく測れるものなのだろうか。
けれどヒッチの自信は揺らぐことなく、『間違いない。そういうもんだよ』と全力で肯定してくる。
とりあえず話を聞いてくれたヒッチに感謝を述べたあと、私は通話を切って、しばらくぼうっとベッドの上で考えた。……ヒッチが言ったことをだ。
――『なんか理由つけてあんたの家に誘ってみなよ』
それだけのことでアルミンの真意がわかるのならありがたいことではある。私が直接『どういうつもり?』と尋ねるより、よほど穏やかで当たり障りがない。
ならば、どんな理由にするべきだろうかと、私はそれを遂行する方向で思考を進めた。
例えば、『シチュー作りすぎちゃったから食べにきて』とか。――そう考えたが、ハッと自らに呆れ笑いを零してしまった。
なぜなら、そんな馬鹿なことは普通はしない……そんなことを言って誘うなんて、もう魂胆が見え見えだ。アルミンなら勘づくだろう、却下だ。
それなら、『実家から大量の果物が届いて』――そんなの袋にでも何でも入れて持って行けばいいことだし、そもそも実家の話題を無暗に出したくない。これも簡単に却下となった。
私はベッドの上で体勢を変えて、それでもまたぼんやりと天井付近を眺めた。そのおかげでふ、と閃きが降りてくる。
あ、そうか。家の中で何か男手が必要なことを探せばいいではないか。例えば、『棚の上のものを取ってほしい』とか。――だが、その考えも簡単に却下の道に進む。だってそうだろう、そんなもの踏み台を使えばいいし、そもそも自分の手の届かないようなところに物を置くほど私は馬鹿にもなれない。
ならば、『電球を変えて』などはどうだ。――いや、やはり踏み台を使えばいいことだし、その上、この家の電球が切れるまで私はこの作戦を永遠に実行に移せない。これもほかのものと同様に却下となった。
ほかに何かヒントはないかと部屋の中を見回した。部屋の真ん中にある、ローテーブルとソファ。その後ろに少し大きめの棚や食器棚が並んでいて、ベッドの脇にはテレビが置かれている。
……あ、そうだ。模様替えだ。
私はまた一つ思いつき、思わず身体を起こしていた。これならいけるのではないかと視界が明るくなる。『模様替えしたいから手伝ってほしい』と、それなら怪しまれずに、自然に誘えるのではないかと目論んだ。……そうだ、ソファや棚なんて一人で動かせるものではないし、これなら男手が必要だからと言い訳もしやすい。
――だが実際にアルミンを目の前にしたとき、私は話を聞いたアルミンが少し考えるように黙り込んだことに、はらはらとした焦燥を抱いてしまっていた。……ここへ来て、この誘い文句の欠陥をやたらと見つけてしまったのだ。
それはヒッチと電話で話したその次の日で、私たちが昼食の休憩に入る前にたまたま出会ってしまった従業員用の廊下でのことだった。昨日の今日で誘ったのは、居ても立ってもいられなかったからだ。早くヒッチが言ったことを検証したかった。
だが、これはやはり悪策だったかもしれない。なぜなら、模様替えをするために男手が必要などと言ってしまったら、断りたくても断れない可能性がある……何せアルミンは優しくて気概もある。……ああ、しかもあれだ、よく考えたら『そんなのマルロに頼めばいいのでは?』と思われてお終いだ。――これは完全に怪しまれてしまう。やはりこれは失策だった。
けれどアルミンは顎に触れていた手を下ろして、
「……いいよ」
と、静かにそれだけを私に返した。
「……え」
思わず声を零してしまったのは私で、
「え? 模様替え、手伝いに行くよ?」
アルミンにまで疑問符を零させてしまっていた。
――『オッケーしたら、そのときは間違いなくあんたを狙ってるって』
ヒッチの耳障りな理論が意識の奥でこだまする。……だって、そんなわけがない、と思っているのに。ヒッチの言ったことは正しかったのか……? それとも、これは、ただアルミンが優しいだけなのか。
「えと、本当に?」
それこそ不自然だと気づきもせずに、私はさらに問い返してしまっていた。当然のことだが、アルミンは不思議そうに首を傾げて、
「うん? うん。模様替えの手伝いくらいならするよ。いつがいい?」
さらりと話題を進めてしまったのだ。
私は誘ったあとのことを何も考えていなかったことに気づき、唐突に頭が真っ白になってしまった。
「あ、え、えと……」
非常に焦った。どうやら私は気づかない間に誘うことをゴールにしていたらしく、そういえば今の自室が散らかり放題で、実際に呼べるような状態ではないことを思い出したのだ。とてもではないが、あんな部屋には呼べない。というか、実際に家具を動かす計画すらぼんやりとしか思いつかない。
私はなるべく間を空けないようにとの焦りもあり、
「じゃ、じゃあ、日曜の夜……とかは……」
ただなんとなく次の日の月曜日が休館日であることを思い出して、咄嗟にそう言葉を続けていた。
当のアルミンも「日曜の夜ね。次の日休館日だし、ちょうどいいね」と肯定してくれて一安心するも、冷静になって初めて「次の日休館日だからなんだ?」と自問してしまった。よもやまた酒でも飲み交わして泊まらせるわけでもあるまいに、何が次の日が休館日だからちょうどいいだ。あ、いや、これはアルミンだけでなく、自分への突っ込みでもある。
だが察しのいいアルミンは、私が途端にこさえてしまった間の意味を読み取ったらしく、
「あ、いや、その、変な意味じゃなくて……」
とわざわざ弁明をしてみせた。
「あ、うん。わかってる」
そんなに慌てなくても、あんたは私と寄りを戻したいなんて思ってないことくらいわかっている。そう卑屈になるような思考がまず頭を過ったが、とりあえず今はそれを払拭しようと考えを押し込んだ。今回はそれを測るための作戦だったのだから。
「ありがとう。じゃあ、よろしく」
「うん、任せて。じゃあ、また」
それを最後に私たちは、ロッカールームの前の廊下から二人して別々の方向へ歩き出した。
アルミンから数歩離れてから、どういうわけかじわじわと心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。日曜日にアルミンが自宅に来ることを変に意識してしまったらしく、胸を押さえたいくらい苦しくなった。……これはとんでもない時差だなと自分でおかしく思いながら、本人の目の前でこんなにドキドキ鳴らなくてよかったとも思ってしまった。
とりあえずヒッチに言われた通り、適当に理由をつけて呼んでみたが……何とも呆気なくオッケーが出てしまって、これで本当に『あんたを狙ってる』という話に信ぴょう性が持てるのかがわからなくなった。……こんなに呆気ないものなのか? もっと悩んだり……ああ、やはり誘い方が間違っていただろうか。
とにかく私は、あれやこれやと心の中でヒッチに呼びかけていて、一刻も早く電話して文句の一つでも言ってやりたくなった。
***
それからの数日、私はずっとそわそわしていた。図書館にいるときは元より、家にいるときはいそいそと片づけを進めながら、アルミンが家具を運んでくれる光景を何度も思い浮かべては、物思いに耽ってしまった。ヒッチにも一度電話したが、
『ちゃんと誘えて偉いじゃん! 手料理とか振る舞ってさ、一緒に夕飯食べたりしなよ! きっとそのときわかるよ!』
と楽しそうに言われるだけで、結局何も参考になることを言ってもらえなかった。……何やらしてやられた気分だ。
図書館では、既に会う予定があるからなのかアルミンが執拗に話しかけてくることはなく、近くを通った際に手を振られるくらいに留まった。……例の映画のチケットをくれた、鼻の横にほくろがあるおばちゃんにはどうだった、と感想を聞かれたが、とりあえず面白かったですとだけ返しておいた。
そしていよいよ、アルミンが我が家にやってくる日曜日になった。まずは昼食休憩のときに、私が勤めている店にやってきたアルミンが「今日は退勤のあとそのまま行くね」と連絡してきた。今日の私は遅番だったので少し待たせる旨を伝えると、優しく微笑んで「うん、待ってるよ」と返され……単純明快な私の心臓は、またドッドッと喜び勇んで私の身体を叩きつけた。
私が退勤したあと、アルミンが待ってくれている本人の車まで歩いているときから……いや、言ってしまえば退勤を意識したときから、少しずつ私の脈拍はまた早くなり始めていた。アルミンの車に到着して、運転席に座って携帯端末を触っていたアルミンに対し、コンコンと窓を叩いて注目を煽ってやった。窓を開けて「お疲れさま」と言ってくれたアルミンに同じように返したあと、私は自転車があるから、私のアパートで落ち合おうと話をした。アルミンはまたそれを快諾して、颯爽と車を走らせて行った。
それを見送ったあと、私も自分の愛車である自転車に跨り、異様な鼓動を奏でている心臓を連れて、暗くなった帰路へ乗る。道中では、ここ数日の間にしっかり片づけた家の中を思い浮かべたり、アルミンを夕食に誘うための食材がしっかり揃っていたかと思い返したり、やはりずっと落ち着きがなかった。……顔に当たる風は冷たかったが、だからずっと勢いよく脈を打っていた身体に対して、少し心地がいいような気もした。星空の下を、緊張感と期待感を連れて空気を切って進んでいった。
アパートに到着すると、アルミンは既に車から出て私を待っていた。私が自転車で敷地に進入したところで姿を見つけられ、ぺか、とオノマトペでもつきそうな勢いで笑うから、ぐっと胃の辺りに力が入る。とりあえず運転する手だけはしっかりしなくてはと気を強く持ちながら、駐輪場の端っこに愛車を停めた。
たったったとアルミンが駆け寄る音を聞きながら、私は自転車に鍵をかける。「意外と早かったね」なんて無邪気に笑っているから、ぎり、と少し胸が痛んだ。……アルミンの真意を確かめるために、言ってしまえば『でっちあげた』口実でここに呼んでしまったことが申し訳なくなる。本当はアルミンの気持ちを探りたかっただけ、なんて言ったら、一体どんな顔をするだろうか。――いや、『アルミンの気持ちを探りたかっただけ』のために、自宅の模様替えまでしようとしている私がダントツで滑稽なのはわかっている。
ともあれ、私はアルミンをしっかりと片づけを済ませた自宅に招いた。前回家に上げたときよりかなりすっきりしているはずだが、さすがのアルミンはそのことには特にコメントはしない。その代わりに「癖で持って来ちゃった」と照れ笑いをしながら、リビング兼寝室の端っこに自らの荷物を置いた。曰く、「車に置いてくればよかった」らしいが、まあ、確かにそれはそうだ。私は別に気にはならないが。
上着も脱ぎ終えたアルミンが自身の袖をめくり上げながら、「じゃあ早速やっちゃおうか」と声をかけた。思った以上に張り切っている様子に見えて違和感を覚えつつ、「うん。じゃあ、」と話を進める。
まずはテレビをテレビ台ごとカウンターの下に動かしてもらい、それに合わせてソファとローテーブルも移動させた。ベッドも向きをかえさせてもらいがてら、埃が溜まったその下を掃除させてもらう。それを見て、アルミンはソファやローテーブル、テレビ台があった場所を同じように掃除してくれた。
狭いワンルームの部屋では、これだけの大移動をしても三十分もかからなかった……これはちょっとした誤算だった。……実はヒッチに言われた通り、このあと手料理でも振る舞おうと張り切ってしまった私は、勝手にその用意をしていたのだ。だがこれでは「ちょうどご飯の時間だし、食べて行って」と誘いづらい。〝ご飯の時間〟まではもう少し時間を潰してもらう必要があるが、これ以上は何も計画をしていなかった。
私が何かないかと考えを巡らせている間にもアルミンは私や私の部屋を観察して、
「――こんな感じでよさそう?」
と声をかけてくる。……そして何も用意していなかった私は、
「ああ、ありがと。こんな感じで……」
そう認めざるを得なかった。……どうしよう、このまま『夕飯も食べて行ってよ』と誘っていいだろうか。本当は手料理を口実にしているだけで、帰ってほしくないだけだと薄らと自覚はしている。けれどそれが真意だと伝わらないような、自然な流れと捉えてもらえるだろうか。
私がうだうだと考えをまとめ兼ねていることは気づきもせずに、アルミンは「じゃあ、」と踵を返してしまった。
「僕はそろそろ帰ろうかな」
そう言って端っこに置いておいた荷物と上着を拾い上げて、いそいそと玄関に向けて歩き出していく。私は慌ててそのあとを追った。何をそんなに急いでいるのかはわからないが、私はもう考えている余裕もなく、
「えっ、あ、お、お礼に! ゆ、夕飯食べて行ってよ!」
どこでもないところからそんな突拍子もない提案を持ってきてしまった。
玄関前で振り返ったアルミンが、私の顔を不思議そうに見ている。――ああ、これは完全に怪しまれてしまった、そう思い、その眼差しが向けられる分だけ、私は背中に冷や汗をかいた。
「……え、あ、ごめん」
「うん?」
「このあと用事できちゃったんだ」
とても申し訳なさそうに言う。けれど、実際にそれはとても強く私の胸を叩きつけていた。
「……あ、そう……なの……」
どうしてこんなに気分が落ち込むのか自分でも理解できないが、慌てていたから少し興奮気味だった気持ちが、一気に地べたにまで落ちて行ったようだった。……いや、そうか、私はアルミンに帰ってほしくなかったのだから、それが叶わないとわかって失望しているのだ。
……用事ができてしまったなんて。それは確かに『このあと何もないよね?』と確認したわけではなかったが、何もかもが思い通りにならなかったような落胆が押し潰そうとしてくる。
極めつけにアルミンは少し頬を綻ばせて、
「あはは、また急にさ、ルイーゼに呼び出されちゃって」
何とも軽快に笑ってみせた。
私はハッと息を吸う。
――ルイーゼ……? アルミンはこれからルイーゼのところに行くのか。
剣でひと思いに心臓が貫かれたような激痛が走った。ギリリと鋭く痛む。
また、ルイーゼだと言うのだ。どうしてそれがそんなに引っかかったのかわからないが、私は何も言えなくなり、アルミンはそれに気づかずに荷物を脇に置いてから靴を履き始めてしまった。
――……どうしてアルミンは、いつもいつもルイーゼに振り回されてるのに、文句を一つも言わずに付き合ってあげるのだろう。
その疑問が頭に過ったが最後だった。私の中で一つ、筋が通ってしまったことがある。――……もしかして……今、アルミンが私と寄りを戻したくないと思っているのは……やはり、ほかに好きな人がいるから……? 例えば、ルイーゼとかだ。……本当はアルミンは、ルイーゼのことが特別な意味で、好き、なのではないか。だから私とは寄りを戻すつもりはなくて、ルイーゼにはいつも時間を割いてあげて……。そうだ、ルイーゼはどう考えても私の上位互換だと思っていた。
途端にまた、腹の底からふつふつとした不快感が押し上げてきた。
アルミンが想いを寄せるルイーゼは、ほとんど赤の他人である私にまで『好きな人はミカサだ』と宣言してしまうような、そんなはっきりした子だ。そんなルイーゼに想いを寄せるアルミンは、どんな気持ちでずっと彼女の相談に乗っていたのだろう。それを想像しただけで、私は説明のできない胸のよじれを経験した。アルミンがルイーゼに想いを寄せていて、敗北感とかそんなことではなく――そうだ、ルイーゼに想いを寄せるアルミンに気づいてしまった私――まさにこの胸の苦しみを、アルミンはずっと味わっていたのだ。
……そんなの、辛すぎるではないか。
私の中で数えきれないほどの感情が湧き上がって、それが一気に沸点を迎えて目の奥を燃やした。じわりと涙がにじみ出てきて、それでも私はアルミンがそんな胸の痛みに耐えていることに納得がいかなかった。
「――行かないでよ」
思わずアルミンの袖を掴んでいた。
「……ん? アニ?」
「……あ、えと、ごめん……、」
アルミンの訝し気な声が降って我に戻るも、手を放すことで精いっぱいで顔を上げることはできない。……だって、今さら涙が引く気配もない。
しばしアルミンの視線を感じながら、それでも私は必死に涙を零さないようにと歯を食いしばっていた。
「……どうしたの? 聞いてるよ?」
ぽとり、と耐えられずにそれが一粒足元に落ちる。
なんでそんな優しい声を出すのか。私はこの耳を疑った。アルミンはルイーゼのことが好きなはずなのに、気持ちの欠片もない私に向けてそんな声をかけるなんて、なんて人間たらしなのかと首を掴んでやりたいくらいだった。
けれど、そんなこと、涙がいっぱいの強張った身体ではできるはずもない。
私はアルミンにこんなにも帰ってほしくない。そばにいてほしい。……ほかの女(ひと)のところになんて……行ってほしくない。こんなにも。しかもその女はアルミンのことなんか、これっぽっちも見てないというのに……。私たちは、なんて歪なのか。
考えれば考えるほど、私は溢れてくる想いを押し込めることができなくなった。アルミンがこんな形で苦しみ続けていいはずがないのだから。――〝私は〟こんなにもアルミンのことを見ている。
「こ、こんなこと、言うの。資格ないってわかってる……っ」
ずず、とみっともなく鼻を啜りながら、それでも私は抑えられなくなった想いを言葉に乗せていく。
「すごく、ひどいことをしたから。あんたは、もう私なんかごめんだろうけどッ」
あのとき傷つけてしまった私に言われても嬉しくないのはわかっている、それでもアルミンに知ってほしいことがあった。
「あ、私は……またあんたに側に、いて、ほしくて……、帰ってほしく、なくて……!」
「…………それは、人寂しいから?」
ただ静かに聞いていたアルミンが、ようやく口を挟んだ。
「ちがう」
力いっぱい否定してしまったのは、アルミンからの質問にさらに感情が掻き立てられたからだ。けれど、それを零したあとにまたすぐに冷静になって、
「……違う、と思う。――アルミンに、その……帰ってほしく……ない……」
なんとかゆっくりとそう付け加えることができた。アルミンに伝わってほしかった、私がどれだけ、アルミンのことを求めているか。アルミンのことを……、
「……ほかの誰でもなくて……アルミンに……側にいて、ほしい……」
――ついに私は言ってしまったのだ。ここしばらく、私にそんなことを言う口はないと思って、抑え込んでいたものを、私は今、すべて吐き出してしまった。アルミン本人にだ。『何言ってるの』と咎められるかもしれない。……いや、優しいアルミンのことだから、困った顔でまた『寄りを戻す気はないって』と諭されるだろうか。
どの道をたどったとしてもつらいことがわかっていたから、私は独白の間床を睨みつけていたこの目を、ぎゅっと力強く瞑ってアルミンの言葉に備えた。……備えて耐えていたというのに、ふ、と明快な息遣いが漏れ、そうしたら今度はアルミンは「あはは」と笑った。なんだ、と私の脳内には疑問符が浮かぶ。
「……もう、君は。強情だなあ。……つまり、僕のことが〝好き〟なの?」
アルミンの身体がこちらに向けられたのがわかった。どこか楽しそうにも聞こえるその声の明るさで、それでも迫られて、私の心臓は毎秒爆発しそうなほどに激しく脈を打っていた。きっとアルミンは、私に諭す前にはっきりさせようとしているのだ、私の真意を。勘違いで諭したくはないだろう、それはわかる。……だから私はおずおずと頷くことしかできず、それでは不十分かと勇気を振り絞って「……たぶん……」と呟いた。
するとアルミンはまたしても、ふふ、と笑ったのだ。……ここへきてようやく、私はこの場の空気が不可解であることに気がついた。
「たぶんって。もう。」
ぼふ、と身体が厚みに包まれて窮屈になる。ふわりと鼻先に温かい匂いが触れて、アルミンが私を抱きしめているのだと唐突に理解した。いや、その瞬間に涙どころか思考まですべて吹き飛び、私は息すら忘れていた。
「――やっと言ってくれたね」
アルミンは今日の中で一番優しいと思える声使いでそう言った。
だがそれがどういう意味なのかまったく解読できなかった私は「え、なに……?」と情けなく怯えた声で尋ねてしまった。それに対してもただただ優しい声で「ううん、こっちの話」とだけ返ってくる。
……え、何。いったい、この状況はどうなっているのか。
私は、抑えられずに自分の想いを吐露してしまい、その上でアルミンに抱きしめられて……?
わ、と声を零しそうなほど、大きな衝撃とともに閃きを得てしまう。これは、アルミンの同情だ。アルミンはルイーゼが好きなはずなのに、私が泣きながら告白なんてしまったから、こんなことをさせてしまったのだ。
大慌てでアルミンの身体を突き放した。こんなことをアルミンにさせたかったわけでもないし、同情で抱きしめられたいわけでもなかった。私はただ、アルミンのことを想っていることだけを伝えたくて、ただ、それだけで。
「ご、ごめん。その、は、早くルイーゼのところに、」
私が勢いに任せてその名前を出すと、アルミンはすぐさま口を挟む。
「ああ、ごめん。あはは、それは嘘だよ」
「……は?」
――う、そ?
本日何度目かの衝撃に思考停止してしまう。
言葉を失ったままアルミンの顔を見ると、アルミンは白々しく、にこにこと晴れやかな笑顔を浮かべていた。……これは、あれか。私は、もしかして、騙されていたのか。
「……はあ!?」
これも抑えられずに上げた絶叫だった。
「うん。別にルイーゼに呼び出されてない」
またしれっとそんなことを言うから、私は合点がいってしまった。
「あっ、あんたっ、まさか! わざと!? 発破!? 発破をかけるため!?」
これは策士アルミンの策略だったのだ。どうしてかなんてこの際どうでもよく、アルミンは私にこうやって真意を吐かせようとしたのだ。信じられない。何が信じられないって、
「えへへ、どうかな。でもアニがなかなか言ってくれないから」
そうやって未だに、何の悪びれもなく笑っているところだ。
なんで、そんな……私はこの気持ちを伝えないようにと必死に自分の中に押し留めていたのに、その努力をすべて無に帰されて……。
「え、最低! それは、ひどいっ」
もう自分の感情が先ほどよりもひどく多方面に飛んで行ってしまったので、顔を手で覆って隠してしまう。だってこんな、言ってしまったことや、まんまと策略にはまってしまったことなど、いろんなことに惨めで情けなくて、そして恥ずかしい気持ちになっている。
けれど目の前でどんな顔をしているのかわからないアルミンは、また淡々と語り始め、
「最低って……それはあんまりな言われようだなあ」
そっと私の頬に触れる髪の毛に指を通しているようだった。
「君だって僕にひどいことをしたって自覚があるんだろ? だったら、君の口からはっきり聞きたかった僕の気持ちも理解してほしいところだけど」
文句を言うようでも責めるようでもなく、ただ静かに紡がれた心中に、確かに、と納得しすぎて反論する声を喉に詰まらせてしまった。……それを言われてしまったら、私はこの仕打ちを素直に受け入れるしかない。
今度は私の髪の毛ではなく、私の片方の手を握られた。
「……わかってくれたみたいでよかった」
そうして間近まで寄ってきたアルミンの顔が私のを覗き込む。こんな距離で私の鼓動が跳ね上がらないわけがなく、アルミンをちら、と盗み見る度にその打つ脈は激しさを増していく。
「ねえ、アニ」
じっと、その視線が私を貫く。いつか……そう再会したあと、初めてこの部屋に呼んだときにアルミンが見せた、激しく物欲しそうな眼差しをまたそこに湛えて、アルミンはじっとその視線で私を貫いた。
「……僕も君のこと、また好きになっちゃったんだ」
もう距離が近いのか遠いのかもわからなかった。眩暈のようにぐるぐる回るような視界で、アルミンが熱い吐息を漏らしている。早鐘のように私を急き立てる鼓動は、私の動揺も高揚もすべて明らかにしていた。
ふわり、と気配がさらに寄る。もう唇が触れるのではないかというほど、距離が縮められていたように思う。不意に瞼を閉じてしまい、アルミンのその行動の行く末を待ってしまった。
するとその触れるか触れないかの距離で、
「……キス、していいかな」
形式だけの了承を求められた。
いやいや、この距離で。ここでそれを問うのか。この男のことがわからない。こんな男だったか。アルミン。アルミン。
わあわあと脳内がお祭り騒ぎになっていたが、この身体の操縦桿は既に衝動に寄って握られていた。――衝動であり、本能であり、また高揚だった。
「……しないの?」
焦らされた挙句、私は身も蓋もなくそんな問いを返してしまい、アルミンは一言「する」と口に含みながら、私の唇に自身のを押しつけた。
先日私からしたときのようなふうわりとした触れあいではなく、むにゅ、と唇が押し潰されるほどの思い切った触れあいだった。すぐさま私の頭を抱いたアルミンの手のひらが、また私の思考をぼやけさせる。温かくて、優しくて……でも、今は、激しく求められていることがわかる、力強い手だ。私もその手首を握り返した。
「……んっ、ふ、」
「……、は」
何もかもが前回と違い、舌を先に押し込んできたのはアルミンのほうだ。私はそれを受け止めるのに精いっぱいで、一生懸命にアルミンの舌を追いかけた。その舌先が私の歯の裏を、上顎をなぞる度に、ぞわりと甘い痺れが背筋を駆け上り、ん、と鼻の奥が鳴る。心もとなくなるのか、それとももっと深くまで重ねたくなるのか、そうやって甘さが身体を走ると、私はアルミンに身体を寄せてしまう。
「……アニっ、ん」
そんなものをすべて迎え入れるように、アルミンもこの身体を抱き寄せてくれるのが心地よかった。私たちはもう右も左もわからないほど強烈な衝動の中で、ただ互いの唇を、そして身体を擦りつけ合う。アルミンが角度を変えるのに合わせて私も負けじと食みつき、漏れる吐息とは裏腹にこの胸はどんどん窮屈なほどに満たされていく。
「あるっ、み、ん……ッ」
「ふぅ、ン」
甘い痺れとともに身体の芯から熱が込み上げ、あっという間に顔中から火が吹き上がりそうなほどに取り巻く空気を熱く感じた。火照り切った身体で、この先どこへ向かおうというのか。私たちはただ行き場のない熱を持て余して、唇を重ねていた。
そうしてようやく、アルミンがゆっくりとこの唇を解放した。名残惜しい気持ちがなかったと言えば嘘になるが、この熱がこもった身体を、甘い痺れが満たした身体を、どうしていいかわからずに困惑した。
またぎゅう、と身体が温もりと窮屈感に包まれる。……アルミンの首筋が目の前に据えられて、私はすっぽりとアルミンの腕の中に収まってしまったのだとわかった。は、は、とアルミンの荒くなった吐息が聞こえる。そうして考えてみれば、私も浅い呼吸で熱を必死に逃がしていることに気づく。……きっとアルミンは、互いの火照り切った身体が落ち着くのを待っているのだ。
「……これって僕たち……恋人になった……ってことで、いいのかな」
抱きしめられたまま、アルミンの声が耳に届く。
――『恋人』――そう言われると、きり、と胸に微かな痛みが走った。……あの日、アルミンへの気持ちに耐えられずに別れを選んでしまった自分が脳裏に浮かび、押し潰されそうだった苦しみを憂いだ。……あのときのように、また、突然嫌気が差してしまわないだろうか……。私はアルミンとまた〝恋人として〟やっていけるだろうか。――傷つけてしまわないだろうか。
「……アニ?」
あれやこれやと思考に巡っていたが、アルミンが私の意識を引き戻すように声をかけた。それによって私はもう、目の前のことで頭がいっぱいになる。……そう、今はなんて、心地がいい。アルミンの温かな体温に包まれ、優しさに抱かれ……これほどの穏やかさを知ることが、この先あるだろうか。
これを拒否するほどの屈強な精神など持ち合わせられるはずがなかった。私はとても弱く、情けない。だから、アルミンの好きと言ってくれた言葉に縋るように握りしめて、そうして放したくなかった。……アルミンと、もっともっと側にいたい。
「……う、うん……よ、よろしく……お願いします……」
私が罪悪感とともに絞り出した言葉にも、アルミンは嬉しそうに綻ばせ、そうして「うん、こちらこそ」と、ひと際強く抱きしめてくれた。
自然と瞼が降りてきて、それを全身で深く受け入れる。しばらくそのままで呼吸を落ち着けた。
「――……と、いうか」
私は大事なことを思い出して、その勢いのままアルミンから身体を放した。先ほど火照った身体はかなり落ち着いたと思う。
「る、ルイーゼとの約束が嘘なら、今日はこのあと予定ないんでしょ!?」
責めるように問い質してしまったからか、アルミンは「あ、まあ」と少し困ったように笑った。
「じゃあさ、夕飯作るから食べてってよ」
そんな風に表情を向けられるとは思っていなかったので、思わず自らを顧みてしまった。いきなり強引すぎてしまっただろうか。……それでも、本当は夕飯なんてものではなく、泊まってほしいくらい側にいてほしいのだから、それを言わずにいることはできなかった。――泊まってほしい……帰ってほしくない……むしろそれらを言うなら今言うべきだろうか。
「そう? じゃ、お言葉に甘えようかな」
だが、私が付け加える前にアルミンは了承してくれた。これがもし『泊まって行ってほしい』だったら、アルミンはなんと言っただろう。
とにかく今はまだそれを言うタイミングではない気がして、私はキッチンに向けて身体を返しながら、「ソファに座って待ってて」と指示を出す。
アルミンも私の後ろへついてきて、「え、そんな。僕も手伝うことない?」と尋ねた。
二人でご飯を作るのもまた一興かもしれないが、今日は私の手料理を振る舞おうとしていたし、何より今は隣に立たれただけで動揺して手元が狂ってしまいそうだったので、キッチンの入り口を塞ぐようにそこに立ってアルミンを見やる。
「……別に、ない」
ぱちくり、とアルミンが瞬きをした。私が隣に立ってほしくないと思ったのを察せられたのか、その反応に驚いているようだった。
「そっか。わかった。じゃあ、待ってるよ」
けれど、深掘りするほど野暮でもないアルミンは、そのまま先ほど模様替えしたばかりのリビング兼寝室に向かってくれた。
カウンター越しにアルミンがソファに腰を下ろしたのが確認できる。私は普段は忘れがちなエプロンを首にかけて、さて、と食材と向き合った。
アルミンに満足してもらえるように、調べておいたレシピを貼り出して調理を始める。このキッチンで料理することはそんなに頻繁ではない……というか、ずぼらな私は凝った料理をあまりしないので、ここにこうして立っているのが少し不思議だった。
またちらりとリビングのほうを見ると、今度はそこから私を見ていたアルミンと目が合う。にこりと微笑まれ、思わず顔を逸らしてしまったのだが、アルミンが「本当に手伝うことはないの?」と尋ねるので、「ない」と返して包丁を握った。
私が作っていたのは単なるシチューだった。野菜を切っている間、ずっとどうやって今晩帰らないでほしい旨を伝えようかと考えていた。
待つだけなのはさすがに退屈なのか、途中からアルミンがキッチンに入ってきて、「やっぱり僕も手伝うよ」と言うから、それから思考はうまく回らなくなった。
単なるシチューに二人がかりになる必要はもちろんなく、結局私が野菜を煮込んでいる横で、アルミンはシンクの掃除をしてくれた。細かいところにあるカビを磨き落としてくれたり、水垢を消してくれたりだ。捲り上げた袖口から覗く骨張った腕の筋がやけに男らしくて、そんな場合ではないのにドキドキと脈がおかしくなった。真剣だったり、冗談を言って笑ったり、ころころ変わる表情にも何度も釘づけにされた。もちろん気づかれないように振る舞うん努力はした。
……ただ、そうやって二人とも片手間だったのが良かったのか、会話は自然にできたと思う。
と言っても、主にアルミンが私が如何に鈍感だったかと力説をして、私はそれを恥ずかしくて敵わないと照れながら聞いていたのだが。……私は本当に一瞬だが、アルミンがルイーゼのことが好きなのだと信じたのだ。それがこんなに上手くいくなんて期待以上だったよなんて笑うし、本当にこの男は食えない男だと思った。……自分の目標に対しては用意周到にことを進めるところは、高校のときから変っちゃいない。私はまんまとその手のひらの上で転がされてたというわけだ。
ともあれシチューができて、二人で食卓を囲んでそれを食べた。細かい調味料まで買い揃えて、一言一句レシピ通りに作ったおかげか、そのシチューはかなり美味くできていた。……とりあえず、料理の面で幻滅されることは、少なくとも今回はないだろう。
ときが経つにつれて、私はそういえば何と言ってアルミンを引き留めようかと、再びその問題に思考がいっぱいにされた。――泊まってほしい、なんて遠回しに伝えられることではないので、ここはもう腹を括って思ったままを伝えるほかない。ようやくそう決心がついたのは、再びアルミンが「そろそろ帰ろうかな」と切り出したときだった。
私はこれがアルミンにとって負担になるかもしれないと自分でわかっていたのだから、アルミンを直視することはできなかった。だが、はっきりちゃんと言うことはできた。――『今日は、今日だけは、帰らないでほしい』と。
これにはさすがのアルミンも少し動揺したようで、「僕は……いいけど……いいの?」と反対に確認されてしまった。
おそらくその『いいの?』には、男であるアルミンを無防備に家に泊めてもいいのかという意味が含まれていただろうし、もしかすると〝そういうこと〟に発展する可能性があることを示唆していたのかもしれない。……けれど、私の中でそれはさしたる問題ではなかった。そんなことよりも帰ってほしくなかった。どうせもう初めてでもないわけだし、アルミンが側にいてくれる代わりに〝求められる〟のならば、それに応じる覚悟も当然あった。……いや、覚悟だけではなかったかもしれない。つまりは、期待も。
しばし沈黙を要したが、私がどれだけ切実にそれを願っていたのかが通じたらしく、アルミンは「じゃあ、今日はここにいるよ」とそっとした手つきで頬を撫でてくれた。
その優しい指先に惹かれて少し瞳を上げると、アルミンは何とも言えない、愛おしげな微笑みを浮かべて私のことを見ていた。――ああ、やはり私はアルミンが好きだ。それを再確認するには十分すぎるほどの、きらきらとした眩い光景だった。
そうしてアルミンと二人で狭いシングルのベッドに入る。何を言わなくてもアルミンは私をその大きくなった胸板に迎え入れてくれて、ぎゅっと抱き寄せてくれた。――ベッドが狭くてよかったなんて、このベッドを使うようになって初めて思ったかもしれない。
あのころと違い、広く大きくなったアルミンの身体……そこにすっぽり収まって、アルミンの匂いに包まれて、降りかかってくる吐息とか、とくとくと聞こえてくる心臓の音とか……すべてが心地よくて、私はすぐさまうとうととし始めてしまう。自分の鼓動の音ですら、心地よかったのだ。
抱きしめられたまま、特に手を出される様子もない。それがなおさらこの安心感に繋がっているのだろう。……先ほどアルミンが望むなら、と覚悟は決めてはいたが、そういえばアルミンは高校のときも私が十八で卒業するまで、一度もそういうことを望まなかったなと思い出していた。……大切にされている……そんな実感が湧いて、――泣きそうになった。
ただアルミンの腕の中で眠りに落ちていくだけの、ただそれだけの経験なのに、これまで忘れていたいろんな感情が湧き上がって、もっともっとアルミンが恋しくなった。こんなに至近距離にいるのに、もっと、足りないと思えてしまうくらい、もっと、アルミンの側にいたくなった。
抑えられずにぎゅうと私からもアルミンに抱きつくと、ふわふわと優しい手つきで頭を撫でてくれる。そこに一切の会話はなかったが、「安心して眠れ」と諭されているようで、私は静かに身を委ねてしまうことにした。
アルミンが好きだ、また微睡みに落ちる寸前にそんなことを思う。どうしてアルミンは私にこんなに優しくしてくれるのだろう。そんなこと今考え始めたら深くに迷い込んでしまう気がしたので、今はただ、包んでくれているアルミンを深く吸い込んで、この安堵の中に意識を手放してしまう。
明日の朝、アルミンはどんな顔で目覚め、笑ってくれるだろう。心地よい暗闇の中に、私は落ちていった。
> 第六話*Let's get some rest.