いきている入団する兵団の意思確認がされた夜は、特別に騒がしかったように思う。まだ新兵たちは数日前の恐怖についての話をしたり、入団する兵団についての雑談を、そこかしこで行っていた。
各自宿舎に戻るようにと指示があったあとで、気が緩み切っている。私はそれとなく気にしていたベルトルトを見つけ、またベルトルトにも合図を送られ、二人でこそりと物陰に入ったところだ。
……ライナーは、いないようだ。だが反面、それには少し安堵してしまう。私はあいつをどう扱っていいのかわからないし、わかりたくもないからだ。
「……アニ、」
誰からも死角となるこの物陰で、ベルトルトが声を潜めて呼びかける。互いの顔すらよく見えないような暗がりだった。
いよいよ目的のための通過条件である訓練兵団を卒業したのだ。これからが私たちの調査本番となる。当然それについての話なのだろうと、長い前髪を耳にかけながら見返した。
「……一人で行かせることになってしまって……その、すまない」
当初の目的通り、私は憲兵団を選んだ。だが、気がおかしくなってしまったライナーは、いい兄貴面で調査兵団を選び、あの場に残ってしまった。
「仕方ないよ。あのクソ野郎があの状態じゃあ。放っておくわけにもいかないからね。それに、これまでも調査は一人でやってきた。今さら変わらない」
「……うん」
ベルトルトはいつも申し訳なさそうに私を見る。ライナーよりは少しは接しやすいとは思っているが、条件が合わずに使えないのは同じだった。ただ、気が触れているライナーをしっかり見張ってくれていることだけは、助かってはいた。……本来ならないはずの〝余計な仕事〟には違いないが。
ベルトルトは私が少し強めに放った嫌味を真に受けているのか、そのまま押し黙ってしまった。
……とは言え、ライナーがそこまで考えていたのかはわからないが、この二人が調査兵団へ行くべき理由はもう一つ、新たに生まれてはいた。ここ数日で生まれたものだ。
「それに、エレンも調査兵団に行ったってんだから、ベルトルト、それを見張っておくのにもちょうどいいだろう」
「うん、それは、そうだね」
そう、エレンだ。
数日前に突如として巨人化の能力を見せたエレンは、私たちにとって完全に無視のできない存在となった。数年間を費やしても行方知れずのままだった、座標の力。エレンがおそらく王家の血筋ではない以上、過度な期待はできないが、これは何かの手がかりにはなるかもしれない。
「……その、エレンをどうする?」
ベルトルトが静かな声で尋ねた。
私より頭もいいくせに率先して意見を言わないことにムッと顔を顰めてしまった。
「あんたはどう思ってんのさ」
どうせ自分で既に答えが出ているというのに、なんでわざわざ私に確認する。
「……エレンは、連れて帰るべきだ」
そうして、私が考えていたのと同じ答えを述べた。
「……だろうね」
私は同意だけを示し、断固として私から続きを話すことを拒否した。だから黙っていると、ベルトルトもそれを察したのかゆっくりとした口調で話を始めた。
「……エレンは行方不明だった『進撃』の可能性のほうが高いけれど、それにしたって連れて帰ればマーレは巨人をまた一つ手に入れられる。……邪魔にはならないと思う」
またしても私と同じ考えだ。よく言えましたと褒める代わりに、顰めていた顔を少し緩めた。
「うん。……いっそ何かの間違いで『座標』でしたってなってくれたら、万々歳なんだけどね」
深いため息を吐く。
「……うん。そう思うよ」
ベルトルトも似たような息遣いで愚痴をこぼした。
話はそんなに簡単ではないだろうけども、壁内に何らかの動きが発生したことには変わりない。
もう少し、きっと、あと少しだ。
――脳裏にちらつくのは、出発の朝の父の姿だ。もう少しだ、きっと。
「じゃあ、そろそろいく。連絡は手紙で」
そう言って身体を翻すと、
「うん、わかった」
すぐに他の新兵たちが屯している明かるみの中に出る。……この暗がりに入るときよりは、数は減っただろうか。多くはお利口さんに宿舎に戻ったようだ。
「……アニ、無茶はしないで」
暗がりの中から、やけに切実そうな声が届く。ベルトルトがこんなに感情を言葉に乗せるなんて珍しいと感じ、
「どうだかね。もういい加減この生活には疲れたよ」
私も感傷的な部分が刺激されて漏れてしまった。
……しまった。今のは言う必要のない弱音だった。
そう自分を戒めながら、私は人も疎らになった道を歩き、まっすぐに兵舎を目指した。
最前線の調査兵団と内地の憲兵団とでは、これから互いに連絡を取り合うことは容易ではなくなる。自己判断で動かないといけなくなる機会が増えるだろう。
そもそもエレンをどうやって連れて帰るのか、本当はもっと綿密に話し合って確認はしておきたいところだ。……だがそれができるのは今現在のエレンの居場所を掌握し終えてからで、実行に移すのだって、私たちの目的が漏れないよう、満を持する必要がある。
点在する松明の狭間狭間で暗闇が揺れる。そのせいだろうか、その暗闇に紛れてふつりと記憶が過ぎる。忘れるはずもない、あの、出発の朝のこと。まだ日も昇りきっていない朝靄包む木々の暗さの中で、確かに『帰る』と交わした約束。……エレンさえ捕獲できれば、もしかすると、それも叶うかもしれない。
――エレンを連れて帰れば。
躊躇うような思考がまた過ぎる。
そう、エレンさえ連れて帰ればだ。そうすれば……エレンは間違いなく次の戦士に食われて力を奪われるだろう。……けれど、父さんの元に帰るため。
ちょうど顔を上げると松明の灯りが揺れていて、それは私の心をも揺らした。
ようやく光が見えたんだ。そう思っているのに、このためらうような心地の悪さはいったいなんだ。
『――アニってさ、実はけっこう優しいよね』
ふ、と、聞き覚えのある声が浮かぶ。というか、それはまだ今日の昼間の言葉だった。
この狭い壁内で私なんかを捕まえて『優しい』なんていう男がいた。変なことをいうやつだと……いったい何を見てそう思ったのかと、そのときは深く考えないようにした。……かすかに、高揚してしまったから。そのときに感じたような高鳴りが、またこの心に入り込む。
……いやいや、どうだかな。
私は慌てて自らその言葉を否定するように思考した。
私があいつの親友を殺させるために連れて行こうとしているなんて知ったら、さすがのあいつもそんなことも言っていられないはずだ。
〝あのとき〟生き残ったのがあのクソ野郎じゃなくてマルセルだったなら……なんて考えてしまう私が、優しいわけがないではないか。――自分が故郷へ帰るためなら、〝すごいやつ〟も殺されたって構わないなんて、そんな風に思っている私が……。
「――アニ!」
どこからともなく呼ばれた気がして、急いで顔を上げた。今の声は……あ、アルミンだ。辺りを見回す。どこから呼ばれたのか、私のわずかに高鳴っていた鼓動が、今度は驚かされたことで激しく脈を打っていた。
……だが、そこには誰もいなかったのだ。
振り返った先も、見回した範囲も……私は誰にも呼ばれてなんていなかった。
調査兵団の新兵勧誘式で、団長の募集演説を聞いていた、眩いまでの金髪の後ろ姿が思い浮かぶ。一度思い出してしまったから連続で浮かんでしまうのだろう。
私に『優しいよね』なんて言った、盲目でお人好しなあいつなら、今の私になんと声をかけるだろう。例えば、配属先に向かう前にもう一度会うことがあったなら、『アニにもう会えないなんて、寂しいな』とか……そんな腑抜けたことを……言ってくれるだろうか。
ざりざりと足をひきづりながら進む音とともに、私は目的地へ向けて進む。……そんな腑抜けたことを言うだろうかなんて想像している私のほうがどうかしている。
いくらあいつでも、親友が巨人化して、自分は調査兵になって、めまぐるしさにかまけてそんな余裕なんてないはずだ。
……私だってそうなのだから。平静を装っているだけで、本当はもういっぱいいっぱいだ。これからエレンをどうするか、策を講じなくてはならない。
それなのに、なぜか私の脳裏にはあいつの姿がチラつき続ける。『優しいよね』と言ってくれたその声遣いは、あいつ特有の穏やかさを持っていた。
――例えば私たちがエレンを連れて行くことを、あいつが阻んだとして、私はあいつを殺せるだろうか。
ふ、とまた思考に紛れ込む。
いや、あいつだけではない……ほかの……、
そこまで考えて、頭を振った。今浮かんでいる思考を振り払うように。
……そうだ、必要に迫られれば、殺さなくてはならない。殺せるだろうかではない、殺さなくてはならない。……どうせ壁中人類はもうすぐ死滅するのだから、私が殺そうと同じことのはずだ。
「――っアニ!」
「!?」
肩が大きく跳ね上がった。
隣からゼェハァと荒い呼吸をしたアルミンが現れて、考えていたことも含めて私の意識をすべて奪ってしまった。
いったいどこからそんなに走ってきたのか、膝に手をついて呼吸を整えているものだから、思わずそれを待って立ち止まってしまった。
「アニ、さっきから呼んでるのに止まってくれないんだもん……っ。やっと追いついた」
そんな必死になって……教官に伝言の頼まれでもしたのかと勘ぐってしまう。それくらいの理由がないとここまで必死なるはずがないと思ったからだが、
「……すまないね。呼ばれてる気はしたんだけど、気のせいかと」
それを言い終えてもなお、アルミンは特別に何か急ぎの伝言を告げるような様子はない。したことといえば、改めて背筋を伸ばして、
「あはは、もっと存在感の強い男にならなくちゃ」
なんて、気の抜けた笑い方をすることだった。
ここ数日の過酷な時間を経てなお、アルミンは笑うことができた。それに少しだけ呆気に取られる。『優しいよね』と言ったときのような、そんな落ち着いた声遣いは健在で、計り知れないこの男の芯の強さが垣間見えた。
そうだ、存在感の強い男になるなんて……、
「……あんたは、十分やったよ」
「……え?」
剣を構える大勢の兵士たちの前で見せた堂々たる敬礼。その鬼気迫る様相を思い出させられていた。あんなことができる若者は、ほかにどれくらいいるだろうか。
「――エレンを守ったでしょ」
私の意図を掴めていなかったらしいアルミンのために付け加えてやった。こんなことわざわざ伝えなくても、本人はわからないものだろうか。むずむずと胸の辺りが心地悪く疼く。
「え……あ、うん……そう……思う……?」
先ほどまでのにこやかさは、あっという間に姿を消した。少し力が抜けたような……言ってしまえば、少し腑抜けたような顔つきになる。
ざわりと、胸が騒いだ。
……エレンは私たちにとっても生かしておかなければならない存在だった。だから、向けられる剣とエレンの間に立って、果敢にもその説得を試みたアルミンには感謝している。……あれがなければ、今ごろ私かライナーが正体を明かさざるを得ない状況になっていたかもしれない。
ちらりとアルミンを盗み見ただけで、またざわざわと変な胸騒ぎが起こった。……いったいなんだというのだ。こいつといると変な気分になる。
――私はこいつのことを、殺せるのか。
いやな思考が、遅れたように横切った。その考えには既に答えを出していたはずなのに……『殺せるか』ではない、『殺さなければならない』のだ。そんな状況になってしまったら。
明日には調査兵団に配属される新兵たちはここを発つだろう。そうなれば、もう……私たちはエレンの情報を手に入れて……、アルミンと顔を合わせることがあっても、それはもう〝決行〟のときなのかもしれない。
「……もうお互い、顔を見るのはこれが最後かもしれないね」
「え、どうしたの急に」
尋ねられて、私のほうが驚いた。……今、私は何を溢してしまったのだ。
「わ、私はともかく、あんたは調査兵になるんだろ」
慌てて取り繕って、それらしい理由を付け足した。この先に何が待ち受けているか知らないはずの私が、こんなことを言ってしまったのは失態だった。
アルミンの所属兵科が調査兵団だったお陰でそれを理由にできたが、そうでなかったなら誤魔化すのは難しかっただろう。
「巨人に食われちまうかもしれない」
私は自分がそれをどんな気持ちで言ったのか、いまいちよくわからなかった。焦りの延長だったように思う。しかしそれ以外の感情はなく、あんなことがあったのに実感に欠いているのは最早異常かもしれない。
ただ、できれば巨人なんかに食われてほしくない……と感じた気がして、また心持ちがおかしくなる。……食われてほしくない? ……どうせ〝同じ〟なのに?
「心配してくれてるんだね。ありがとう」
何も知らないアルミンは、いつもの調子で相槌を打って見せた。松明のせいで星の見えない夜空を見上げて、
「……でも、まだまだ死ねないよ」
そうして今度はまた私にその視線を戻した。
「知らないといけないことが――見ないといけないものが、まだまだたくさんあるんだって、わかったから」
強い意志を持った眼差し。そんなまっすぐな瞳で私を見ないで。隠しているものがすべて暴かれてしまうような錯覚に動揺して、思わず目を逸らしてしまった。
「……そう」
「うん」
「がんばんな」
いつもの調子で振る舞うために、その背中を叩いて見せた。とんとん、と二回。使い古しの訓練兵団の刺繍に手が触れて、ああ、もう行くのかと皮膚の感覚で知る。
「ありがとう。アニも憲兵団でがんばってね」
意外な言葉を返される。
そんなこと、確かにこいつ以外に私に言ってくるやつはいない気がする。ただ、私はそこに〝憲兵〟になりにいくのではない。……壁中人類の敵として、一歩深く踏み込むために行く。
「――〝憲兵で〟がんばることなんてないさ」
噂通りの腐った組織なら、これくらいの皮肉は気づかれないだろうか。そう打算して言ったつもりだったのに、アルミンはしばらく私の表情を観察したあと、「……アニ?」と控えめに問い返した。
どうやら思っていた以上に聡かったアルミンに対して、またしまったと心中で失態を嘆く。
それ以上は何も詮索されないように、私は女子の兵舎があるほうへ方向転換をした。
「悪い、もう行く。準備をしないと」
「あ、うん。引き止めてごめん」
アルミンは私を見送るようにそこで立ち止まり、
「……また、会えるよ」
ゆるりと笑って手を振った。
――目を見張る。息が止まって、どくりと心臓が波打った。
ああ、どうして。どうしてたったこんなことで。
……私は実感してしまった。この男は〝生きている〟のだと。なぜだかわからないが、唐突に自分の中に通う血液の感覚が鮮明にわかるような気になって、そして今、アルミンの身体の中にも血液が通っていて、脈を打って、止めどなく時間を経過させていることに気がついた。激しく、衝撃を伴って。
私はどうしていいかわからず、さらりと片手を上げて身体を翻した。
最後の視界までずっと、アルミンは笑顔のまま私に手を振っていたのだ。――それはまるで、暗闇の中で、進む方向はこっちだよと手招きしているようだった。こちらへおいでと、意識が引かれていくような気さえした。
――でも違うんだ。
私は心許ない松明の揺らす暗闇を見つめる。
私の進むべき方向は……そっちじゃない。アルミン、私の進むべき方向は……もっとこの奥なんだ。
おしまい