サイン 紙の上で、ペン先がたどたどしく動く。
くわえられた筆圧によろめきながら、ペン先はカーブを描き、時折おかしなところに角を作りつつ、ゆっくり時間をかけて「S」というインクの一文字を紙面にしるした。
シャムロックは、ほうっと息をついた。
「Sだけでいいだろう」
頭上から、声が降ってきた。
気づけばいつの間にか、イオスが腕組みをして机の前に立っている。
シャムロックはちらりと彼を見上げたが、そのまま何もいわずに視線を戻し、ペンを握ってh、aとつづけた。
「強情な奴だな」
「一文字だけのサインだなんて、簡単すぎるよ」
mに苦戦する。
「私のサインを、誰かに偽造されてしまうかもしれない」
「誰が何のために偽造するんだ。密書でもだすのか?」
からかう声を無視し、拳に握ったペンでrとoを書いた。
あごの突きでたcの文字。
しまいに愛嬌のあるkでしめて、ようやくサインは完成した。
シャムロックは書類を目の前に持ちあげて満足そうに眺め、左下に書かれた自分の名前に息を吹きかけた。
その紙をひょい、とイオスは取りあげる。
「あっ」
「ふうん、確かにこれなら偽造の心配はまったくないな。こんなへた文字、誰も真似できないものな」
「へた文字」
シャムロックはショックを受けたような顔をした。イオスは書類を目の前から下ろしながら、ますます意地の悪い笑みを浮かべる。
「こんなの受けとったら、相手はびっくりして吹きだすぞ。悪いことは言わないから、僕の言うとおり頭文字だけにしておけ。それが嫌だったら、サインは人に任せるんだな」
シャムロックは机の上にあった書き損じの書類を一枚とって、裏がえした。ペンをとる。
「何やってるんだ」
「練習するんです。サインの」
「だからその必要はないと……分からない奴だな!」
「無理をするな」
低い声が聞こえ、ふたりはソファに視線をおくった。足を組み、ゆったり座って本のページをめくるルヴァイドの姿がある。
イオスは机に視線をもどしてシャムロックに向き直り、腰に手をあてて言った。
「ほら、ルヴァイドさまもああ仰っている」
「お前のことだ、イオス」
「え?」
ルヴァイドは読みかけの本をテーブルに置いて、顔をあげた。
「シャムロックにあまり負担をかけたくないのだろう。心配しているなら心配していると、素直に言ったらどうだ」
イオスは何か言いかけたが、シャムロックの目がじっと自分の顔を見つめているのに気づき、口を閉じてすうっと鼻から息を吸った。
「とんでもありません、ルヴァイドさま。騎士のくせに利き腕に怪我をするような奴なんか、心配してやったりしませんよ」
「ふむ。それもそうだな」
シャムロックは、ペンを左手に握ったままうつむいた。イオスはシャムロックの前で、小さな体をぴんと反りかえらせている。
ルヴァイドはそんなふたりからこっそり視線をはずし、吹きだしそうになるのを必死でこらえていた。