追い詰める(遅い)
口元を覆うマフラーを人さし指で引き下げ、前を見据える。視界はほとんど上下に揺れない。足音もない。
「ひぃぃっ」
視線の先の獲物は、肩越しに振りむいて悲鳴をあげた。顔中汗だくで、目は極限まで見ひらかれている。走っても走っても、幽鬼のように音もなくついてくる女に恐怖しているのだろう。
唇を撫でる風に紛らすように、彼女はふっと小さな息を漏らした。
(馬鹿な奴)
振り向いてる余裕などはないはずだ。
ひと呼吸、こちらが力をこめれば簡単に追いつける距離なのに。
命が惜しければ、もっと軽やかに走ればいい。
靴音を鳴らさず、あえがず。静寂を好む夜気を味方につければいい。
(私みたいにね)
男は転がりこむように脇の路地に曲がった。その後をぴったり十歩の距離を保ってついていく。
騒々しい音をたてて積んであった木箱を崩し、つまづきながら、奥へと走りつづける男は、しかし唐突に止まった。
がちがちと奥歯の打ち鳴らす音が、前方にたちはだかる行き止まりの壁にはねかえって響く。
男は丸めた背を強ばらせ、荒い息を繰りかえしていたが、やがてゆっくりと、ねじを巻くように後ろを振りかえった。
月の光を切りとった黒い影が、見ひらかれたふたつの瞳にうつる。
男は喉奥で悲鳴をあげ、その場にへたりこんだ。
「た、たた、たすけ―――」
一歩一歩踏みしめて近づくたびに、男は後ずさって壁に背を押しつける。無駄な努力と分かると、震えるあごから様々な液体を伝わせながら、男は媚びる笑顔を浮かべてすがるように見つめてきた。
女は相手のその様を、冷たく見下ろした。
(馬鹿な奴)
こんなにも遅い足で、組織から抜けようとするだなんて。
お前には祭りの人ごみで笑っている余裕など、一秒もなかったはずだ。古馴染みの顔を見つけて硬直している余裕も、その視線から誰かをかばう余裕も。
しかも逃げこんだ先が行き止まりだなんて。どこまでも、どこまでも馬鹿な奴。
知らぬうちに女は、目の前に立ちはだかる汚れた壁を見つめていた。
「見逃してくれ。お、俺には子供が」
眼球が男に戻る前に動いた。
左の胸にナイフを打ちこみ、わずかにひねって上に抉る。それで終わった。一瞬のうちの出来事だった。
女が身を離すとき、相手の喉が鳴った。
「俺の子……」
男の目から光が失われていくのを、女は黙って見つめていた。
―――逃げられるわけがないのだ。
一度闇に染まった者は、二度と光のなかに戻れはしない。
差しのべられた手に縋りついたとしても、次の瞬間、後ろから伸びてくる別の手に引き戻される。そしてより深く沈んでいく。息もできない奥底に。
(私みたいに、ね)
立ちはだかる壁を見つめ、女は血の匂いに紛らすように呟いた。
「馬鹿よ……」
女は物思いにふけるように息を潜めて目をつむっていたが、マフラーを元通りに引き上げると、路地に落ちる影にゆっくりと片ひざをついた。そして消えた。