殺す その一角は、明らかに異質だった。
イオスは森の暗がりのなかから、かがり火の炊かれた夜営地を眺めていた。
一軍で寄り添うように立つ天幕。その間を歩きまわる、全身を炎の色にそめた兵の姿。
彼らは無駄ない動きで、光から光へとわたる。足音はない。
時折天幕の出入り口が揺れ、その側では役目のない者が何人か座り、土のうえに動かない影を落としていた。みな瞑想しているようにうつむいており、話し声や笑いというものは聞こえない。
―――静かすぎる。
今しがた通ってきた他の部隊の夜営地は、馬鹿騒ぎはしていないとしても行軍の喧騒というものが漂っていたのに、ここはどうだろう。まるで眠っているような静けさだ。
(同じデグレアのなかでもこの軍は異質だ。……やはり、指揮官の影響なのだろうか)
イオスがそう考えた丁度そのとき、ざわり、と無言の緊張が夜営地に波紋のようにひろがった。イオスは茂みを揺らして暗がりから出た。
奥の天幕の入り口の布を、兵の手がおさえている。
そこから、ひとりの男が出てきた。男は黒い土を軍靴で慎重に踏みしめながら、夜営地の中心へと歩んでくる。
兵たちはみな立ちあがって敬礼しており、イオスも彼らの後ろについてそれにならった。
幾つもの視線が見守るなか、男が立ち止まり、闇がいっそう濃さを増した。この場では、炎の橙色は夜を追いだす役目を果たしていなかった。
ひんやりとした空気が、敬礼するイオスの体の奥に染みこんでくる。耳にひびくのは、火の粉を散らすかがり火の音だけだ。
兵士たちは沈黙していた。黒鎧の指揮官の、夜気のような静かな声を待ち焦がれているように。
*
イオスはルヴァイドの前に立っていた。
本隊への使いを果たした旨報告すると、ルヴァイドはひとつ頷き、そのまま口を閉ざしてしまった。
何か他に用がある様にも見えたのでイオスはこの場に留まったが、指揮官が口をひらく様子はない。こちらから退室を求めれば許されるだろうが、イオスはもうしばらくは待とうと思った。
天幕のなか、ランプの光を浴びて透きとおったルヴァイドの瞳は、地面のひとところに向けられている。
イオスは、彼の瞬きの数をかぞえていた。
男は慎重に、これが最後であるように瞼を閉じ、そして同じようにひらく。
この男の行うことに、氷を吐息で溶かすような真摯さを感じぬものはない。
歩みひとつ。呼吸ひとつ。何か重いものを背負っているように、二度とかえらぬ今という時間を惜しむように、彼はおこなう。
「今回の戦は」
見つめる瞳から突然聞こえてきた声に、イオスは思わず聞きかえしそうになった。慌てて背筋をのばす。
「はっ」 答えてから、イオスは訝しんだ。
イオスに限らず、他の部下に対しても、ルヴァイドが作戦について個人的に説明したり、相談したりすることは皆無だった。ひとりで悩みぬき、会議ではじめて隊長たちに告げる。
個人的に話をするとすれば、それはその必要がある時だけだ。もしかしたら、自分には特別な任務があるのかもしれないとイオスは思った。
ルヴァイドは、机のうえの地図に指を置いた。
「今回の戦は、第一に狙うところは挟撃だ。先鋒である我らに全てがかかっていると言っても過言ではない。
我が軍は兵をふたつに分ける。俺がひとつをひきいて敵を陽動し、山の合間におびきよせる」
長い指が、すっと地図のうえを横切った。山の谷間の真ん中で止まる。
「陽動が成功し、この地点まで届いたところで、敵の背後からデグレア本隊が突撃する手筈になっている。背面を突かれて混乱する敵を、山の反対側に伏せていた残り半分の我が軍―――お前の部隊はこちらだ―――が挟みこむ。挟撃には、我ら陽動部隊も反転して参加する」
イオスはうなずいた。これまでは既に聞いた内容である。
今回は、陽動部隊と挟撃に参加する部隊の会議が別個にひらかれ、隊長たちはそれぞれ、今聞いたような作戦の大筋の説明と、己の役目の細かい指示を受けたのだった。
ルヴァイドは一息つき、しかしそれからしばらくの間目をつむって黙りこんだ。
イオスは流石に焦れた。これからが肝心な、自分への用事ではないのか。
視線をおとし、地図に置かれたままの手を見つめていると、ようやく指揮官が例の慎重さで唇をひらいた。
「……今回の相手は、たしかに兵力はあるが、よい将も軍師もいない。策次第では、こちらの犠牲を最小限におさえることもできただろう」
できただろう、というのは過去形だ。
こういう言葉尻をとらえられて、ただでさえ良くない立場を余計悪化させるのだ、とイオスは冷ややかなまなざしを男に向けた。
「今回の作戦に何か問題が?」
「……」
「相手を誘き寄せて挟撃する。このような策は、常道に思えますが」
「ああ、そうだな。問題はない。お前もよく励み、己が役目を果たせ」
「はい」
どうやら特殊任務などがあった訳ではないらしい。だとすれば、このように自分に語りかけた男の意図がいよいよ分からなかった。
退室すべきか。だがまだ何か、この空気に区切りがついていないように思えた。
ルヴァイドは目を伏せて、静かに呼吸している。ランプの芯の焦げる音が、天幕のなかに低くひびいていた。
(また黙りこむ)
イオスは呆れながら、沈黙がやぶられる時を待った。呼吸する男の、ささやかな肩の動きをかぞえる。ひとつ。ふたつ。
数えながら、考えた。
(いつからだろう)
こんな風に、男の声を待つようになったのは。
先程の、かがり火のなかの光景を思い浮かべる。敬礼し、男の声を待ち焦がれる兵たちの姿だ。
ずっと自分は外にいる人間として、彼らの熱のこもった目を観察していた。興味深く、そして冷ややかに。自分だけは、決してその静かな熱には染まるまいと信じていた。
なのにこうして今、この男の唇がひらくのを待ち焦がれている。自分のこの目にも、彼らと同じ熱が宿ってはいないだろうか?
イオスは前髪に片方を隠された紫の目を細めた。
(だけど、それでも。僕は彼らとは違うはずだ)
男の呼吸をかぞえるたび、記憶の底にある一枚の画像が揺れる。
流れた月日のなかで輪郭を失い、ぼんやりとしてしまったそれ。しかし決して手放すことはできないものだ。
この絵が、男をイオスにとっての特別な存在にしている。そして、逆もまた。
「あれから、何年だ」
一瞬、その問いが男の声だと分からなかった。
イオスは呆然とした顔で、男を見た。
男は先程と微塵も変わらぬ格好で椅子に座っている。時間など少しも流れていなかったかのように。
「あれ、とは」
急速に、イオスの体温が下がっていく。―――訊ねるまでもない。このように言われて思い浮かぶ事件は、ひとつしかない。
記憶の底で揺れていた静止画に色がついて浮かびあがり、イオスの思考を埋め尽くした。
つばを呑みこむ。
「2年。―――2年です」
耳に届いた自分の声は、ひどく強ばっていた。そうか、と男がうなずく。
指の一本いっぽんが凍えていた。
はじめてだった。男が「あの」ことに触れるのは。
まさかこれが、男の用件だったのだろうか。赤く染まる頭の奥で、イオスの勘が警鐘を鳴らしていた。
「どうして今、そのようなことを」
男は応えず、顔をあげて、意外なほど穏やかなまなざしをイオスに向けた。
「どうだ。槍は届きそうか」
右手に、緊張が満ちた。汗ばんだ手のひらを握りしめる。
イオスは注意深く、意識をまわりにめぐらせた。
この天幕の外には、機械兵士が控えているはずだった。
あのロレイラルの兵士は、およそ殺気というものを発しない。しかし、間違いなく今、あの無機的な目が自分に向けられているだろうことを首筋にかんじた。
イオスはつめていた息を逃がし、男を見据え、首を振った。
「今は、まだ」
男を睨みつけたまま、抑えた声でつぶやく。
「そうか」
その返事に、なにか感情を見てとることはできなかった。
「今は……か」
ルヴァイドは机のうえの地図をしばらく眺め、それを丸めて脇にどけた。肘をつき、指を組み合わせて唇にあてる。
「『今はまだ』。イオスよ、そのような悠長なことは考えない方がいい。軍人には―――いや、軍人のみならず、人間には思いのほか時間がないのだからな」
「……」
「人というものは、『いつか』に希望をもつものだ。いつか自分の夢がかなう時がやってくる。自分だけはまだ死なぬ。そう、無意識のうちに考える。それまで数え切れないほどの挫折した人間や、戦場に横たわる骸を見てきたにもかかわらず、だ。
しかし、それは間違いなのだイオス。『いつか』が永遠に来ない者たちは確かに存在し、そしてそのなかに自分が含まれる可能性は圧倒的に高いのだ。その逆よりも」
ルヴァイドはいつになく饒舌だった。
そしてイオスはそんな彼の饒舌さに、苛立ちを感じはじめた。何を言っているのだ、この男は。
黒鎧の指揮官は背中の荷の重さに疲れたように、うつむいて吐息をこぼした。
「どれほど真摯な願いでも、頓挫するときは呆気ない。本当に、茫然とするほど呆気ないのだ……」
「貴方が何を仰っているのか、僕には分かりません」
冷たい声で遮った。ルヴァイドの伏せた顔は、前髪に隠されて分からない。
「そうか。ならばよい」
「良くないさ!」
イオスは怒鳴った。目のふちが熱くなる視界のなかで、男が顔をあげた。
いま、この男になにかを言ってやらねばならない。
その思いが、イオスのなかに膨れあがっていた。
「間違っているのは貴方だ。可能性の問題なんかじゃない。僕は貴方を殺す。それは夢や希望じゃない、決定した将来の事実なんだ」
男は一瞬だけ目をみひらき、それからゆっくりと瞬きをした。
その睫毛の動きをつぶさに胸に刻みながら、イオスは、ふいに息苦しさを感じて顔をしかめた。
「貴方が何かの理由で死ぬというのなら、僕はその前に殺す。明日死ぬというのなら今日殺す。夜死ぬというなら、夕方に駆けつけて殺す。それだけの話だろう。どこに可能性の問題がでてくるんだ」
どのような言葉を口にすれば伝わるだろうか。この、石背負い赤い絵をえがく愚かな男に。
「貴方は明日死なない。だから僕は、今日貴方を殺さない。まだその必要がないから。僕の槍が貴方に届かないのは、僕と貴方の命がまだそれを必要としていないからだ」
「……どうして、明日死なないと分かる」
「僕が側にいない。貴方は僕に殺されて死ぬ人間なのだから、僕なしで死ぬはずがない」
沈黙がおりた。
男の影を天幕にうつすランプの火が、わずかに揺らめいている。
ルヴァイドの瞳は地面のひとところを見つめ、橙色の光に透き通っていた。
「滅茶苦茶だな……」
男の陶器のようだった頬が、気のせいかわずかに生気の色を帯びているように見えた。
「自分が何を言っているのか、わかっているのか」
「わかっています」
論理がなんだというのだ。言葉とは、そのようなものを核として在るのではない。
イオスは、男の声にただよう不吉な影をかき消すことができれば、それで良かった。
男はしばし、静かに呼吸していた。イオスはその数をかぞえた。
やがて、男は口をひらいた。
「もうよい。行け」
イオスは敬礼し、指揮官の天幕を辞した。あとには、椅子のうえに夜を固めたように静かな男が残った。
出入り口の布の外には、案の定機械兵士が置き物のように立っていた。イオスの姿を認めると、きぃ、と首をまわしてこちらを見た。
イオスは、何か声をかけようかとも思ったが、やめて立ち去った。機械兵士も、何も声を発さず再び顔を戻した。
*
翌日。太陽の照りつける山の斜面に立ち、イオスは、一本の道を眼下にみおろしていた。
紫の瞳には何の感情もない。口をむすんで、ただ山の谷間の直線を見つめている。
兵がひとり、イオスの後ろに駆け寄ってきた。
「イオスさま、兵の配置が終わりました」
「ご苦労。合図があるまで決して動くな」
イオスの後ろに立った兵は返答しなかった。彼は槍を握りしめ、青ざめた顔をして逡巡している。
「どうした」
「―――イオスさま。我らは本当にここにいていいのですか」
「何を言う」
「しかしこれでは、あまりにも」
常に静寂のなかにいる黒の兵士が、声を荒げている。イオスは谷を見おろす顔を険しくした。
左右が山の斜面にはさまれたその道は、海が割れてできたような格好をしていた。緑の波のあいだに、さらされた海底。
―――そこは、泥沼であった。
馬の足では走れまい。人とて、1歩を踏みだすのにどれ程の労力を使うことか。
この泥の道を、味方に、敵を引きつけて走らせる。
ただのゲームでしかない。極めて悪趣味で、馬鹿げたゲームだ。
「みな動揺しています。なぜ我が隊が、ルヴァイドさまがこのような……」
「命じられたからだ」
イオス視線を宙に向け、しなびた老人たちを思い浮かべた。呪詛のような笑い声が耳にひびく。
「埒もないことを口にするな。戦いはすでにはじまっているんだぞ」
イオスは正面から視線をはずし、兵の方を振りかえった。まっすぐに見据える。
「己が役目を果たすのが兵の務めだ。僕たちも命じられたとおり、ここに伏せて待っていればいい。はしってくる味方と、あとを追ってくる敵を。
ルヴァイドさまは、必ずここまで敵をおびき寄せてくる。僕たちはあの方たちをむかえ、本隊とともに敵を挟みうつんだ。これが成功すれば、我々の勝利は間違いない。いいか、間違いないんだ」
己に言い聞かせている声音に気づいたのか、兵は黙った。敬礼をし、イオスの前から立ち去る。
イオスはふたたび道を見下ろした。
そうだ。ただ待っていればいい。
奴が自分のいないところで死ぬなどということはある筈がないのだ。
「間違いないさ……」
僕こそが、あの男を殺すただひとりの死神なのだから。